その日、診察室にアイスピックが持ち込まれた
一九四六年一月十七日、アメリカの首都ワシントンの、ごく普通の診察室。そこに一台の携帯型電気けいれん療法の装置と、台所用品売り場で買えるような細い金属棒が持ち込まれた。患者はサリー・エレン・イオネスコという主婦。激しい抑うつと自殺念慮に何年も苦しんでいた。医師の名はウォルター・フリーマン。神経科医であり、精神科医であり、そして外科の訓練を一度も受けたことのない男だった。
彼はまず電気けいれん療法で患者の意識を落とした。麻酔科医はいない。手術室でもない。滅菌された環境ですらない。そして目の上、まぶたの裏側から器具を差し込み、前頭葉と脳の奥の部分をつなぐ連絡路を断った。所要時間、十分足らず。患者はその日のうちに家へ帰された。両目のまわりが真っ黒に内出血していたので、サングラスをかけさせられて。
これが、のちにアイスピック・ロボトミーと呼ばれることになる経眼窩式前頭葉白質切截術の、アメリカにおける第一例だ。ここから二十年あまり、この男は自動車で全米を横断しながら三千数百人の脳に同じことを繰り返す。そのうち何十人かは手術台の上か、その数日後に死んだ。生き延びた人の多くは、もう二度と手術前の自分には戻らなかった。
そしてもう一つ、忘れてはいけないことがある。この手術の原型を考案した人物は、一九四九年にノーベル生理学・医学賞を受けている。取り消されていない。今も受賞者リストに載っている。
これは、そういう話だ。
一九三五年八月、ロンドン。二頭のチンパンジーが歴史を変えた
話は十年ちょっとさかのぼる。一九三五年七月二十九日から八月二日にかけて、ロンドンの大学で第二回国際神経学会議が開かれた。前頭葉をめぐるセッションは、この分野の当時の最先端を一堂に集めた場だった。フランスの脳外科医クロヴィス・ヴァンサンが前頭葉手術後の機能変化について報告し、ニューヨークのリチャード・ブリックナーが、ジョンズ・ホプキンズ大学のウォルター・ダンディが執刀した両側前頭葉切除の一例を詳細に語った。腫瘍のために前頭葉の大部分を失った男が、感情の起伏こそ平板になったものの、知的にはそれなりに保たれていた。当時としては衝撃的な症例だった。
そして、この日のいちばんの見世物になったのが、イェール大学のジョン・フルトンと、その同僚カーライル・ヤコブセンの発表だった。演題は前頭葉の機能をめぐる比較研究。彼らは二頭のチンパンジーを連れてきていた。ベッキーとルーシー。二頭は前頭葉を片側ずつ、次いで反対側も外科的に取り除かれていた。
問題はベッキーだ。手術前のベッキーは、課題を間違えると床に転がって暴れ、糞を投げ、実験室を大混乱に陥れる個体だった。研究者たちはこれを実験神経症と呼んでいた。ところが両側の前頭葉を失ったあと、ベッキーは間違えても怒らなくなった。淡々と課題をこなし、失敗してもけろりとしている。フルトンは講演でこう言った。まるでフラストレーション・カルトに入信したかのようだ、と。
ここに、当時六十一歳のポルトガル人神経学者が座っていた。エガス・モニス。痛風で手が不自由になりかけていた、早くから老け込んだ、冷たい印象の男だ。証言によれば、モニスは質疑で立ち上がり、フルトンにこう尋ねたという。同じことを人間にやったら、精神疾患につきまとう不安を軽くできるのではないか、と。
会場はざわついたらしい。人間の前頭葉を治療目的でわざと壊す、などという発想を口に出した者は、それまで誰もいなかったからだ。
ただし、この有名なエピソードには後年たっぷり疑いがかけられている。歴史家のジャック・プレスマンは、フルトンの研究はモニスにとって着想ではなく確認にすぎなかったと指摘した。モニス自身、一九三六年の最初の報告でフルトンとヤコブセンを引用していない。代わりに引いたのはブリックナーの症例だ。しかも彼は、一九三三年の時点で若い脳外科医ペドロ・アルメイダ・リマに、精神疾患を手術で治す構想を打ち明けていたとも言われる。会議から十年後にフルトン自身が書いた回想は、彼の以前の未発表メモとほとんど一致しない。要するに、みんな後から自分に都合よく記憶を整えている。
もっと厄介なのは、モニスが見たかったものだけを見た形跡があることだ。エリオット・ヴァレンスタインが指摘したとおり、ベッキーは確かに穏やかになった。だがもう一頭のルーシーは正反対で、手術後にかえって怒りっぽく非協力的になっていた。モニスはこの事実を素通りした。ノーベル賞委員会の授賞理由すら、後年この読み落としをそのまま引き継ぐことになる。
リスボン、一九三五年十一月。六十三歳の女性の頭に穴が開けられた
ロンドンから戻ったモニスは、驚くほど早く動いた。会議からわずか三か月後の一九三五年十一月十二日、リスボンのサンタ・マルタ病院で最初の手術が行われた。患者は長い精神疾患の病歴を持つ六十三歳の女性。頭に二つの穴を開け、前頭葉の白質にアルコールを注入して神経線維を壊す、という方法だった。
執刀したのはモニスではない。痛風で手が利かず、そもそも彼は脳外科医ですらなかった。手を動かしたのは若きアルメイダ・リマである。モニスは横で指示を出していた。
この注入法は七人目まで続いた。八人目にあたる同年十二月二十七日の手術から、モニスは自分で設計した器具を使う方式に切り替えた。細い管の先から輪を出し、白質を小さく切り取る。彼はこの器具をロイコトーム、手術をロイコトミーと名づけた。白質が白いことにちなむギリシャ語からの造語だ。精神外科という言葉も、このときモニスがつくった。
理論的な裏づけはお粗末だった。モニスは、精神疾患は神経細胞のあいだの結合が異常に固着することで起き、同じ回路を刺激がぐるぐる回り続けるせいで固定観念が生まれるのだ、と考えていた。だから回路を切れば症状は消え、脳は新しい回路をつくって埋め合わせる。そういう理屈だ。実験的な根拠は、ない。
それでもモニスは急いだ。最初の二十例について、四か月後にはもう論文を出している。結果は七例が治癒、七例が改善、六例が不変。死亡ゼロ、重い合併症ゼロ。そして彼はこう書いた。前頭葉白質切截術は単純で、つねに安全な手術であり、ある種の精神障害に対して有効な外科的治療となりうる、と。
学会の反応は、最初はむしろ冷たかった。一九三六年七月二十六日、パリの第二回医学心理学会で、モニスの助手ディオゴ・フルタドが第二群の結果を報告した。すると、最初の患者たちをモニスに紹介した本人であるリスボンの精神科医ソブラル・シッドが立ち上がり、真っ向から否定した。術後の患者は術前より明らかに能力が落ちており、人格の欠損に苦しんでいる。モニスが改善と呼んでいるものは、単に頭部を損傷したショックにすぎない。そしてモニスの理論を大脳の神話だと嘲笑した。
パリの精神科医ポール・クールドンも、臨床観察ではなく理論的思弁だけを根拠にした外科的処置には賛成できないと述べた。臓器を欠損させて機能が向上することなどありえないし、髄膜炎、てんかん、脳膿瘍を慢性的に招く危険があると警告した。
正しかったのは、この人たちのほうだった。だが世界は聞かなかった。一九三〇年代のうちにブラジル、キューバ、イタリア、ルーマニアの臨床家がこの手術に飛びついた。
アメリカへ――フリーマンとワッツの十年
ロンドンの会議には、もう一人、この物語の主役が座っていた。ウォルター・ジャクソン・フリーマン二世。一八九五年フィラデルフィア生まれ。ジョージ・ワシントン大学の神経学教室の初代主任。祖父は高名な外科医、父も医師という医学一家の出だ。とがった顎ひげ、ステッキ、洒落た帽子。写真を見ると、医者というより舞台俳優に見える。
一九三六年、フリーマンはモニスの報告を医学誌で読み、これだと思った。だが彼自身は外科の訓練を受けていない。そこで前年に自分の教室に引き入れていた脳外科医ジェームズ・ウィンストン・ワッツと組むことにした。ワッツはバージニアの軍事学校と医学部の出で、几帳面な、教科書どおりの外科医だった。
二人は一九三六年九月、ジョージ・ワシントン大学でアメリカ初の手術を行った。患者はアリス・フッド・ハマットという六十三歳の主婦で、不眠と激越性うつ病に苦しんでいた。彼女は前夜、頭を剃られるのが嫌だと言って同意を撤回しようとした。フリーマンは、剃らないから、と言って納得させた。当日も彼女は抵抗し、麻酔をかけられるあいだ暴れた。目が覚めた彼女は幸せだと言い、頭を剃られていたことも気にしなかった。六日後に一時的な言語障害と見当識障害と興奮が出たが、それでも彼女は家に帰った。フリーマンはこれを成功と判断した。
フリーマンはこの手術をロイコトミーではなくロボトミーと呼び替えた。前頭葉に限局した手術であること、白質だけでなく灰白質にも影響が及ぶこと。そして何より、モニスとリマの手術とは違うものだと主張できること。名づけは政治である。
彼らはモニスの方式を改良し、頭の側面から入って白質をより広く切る術式を確立した。これがフリーマン・ワッツ法、いわゆる標準式ロボトミーとして世界に広まる。一九四二年、二人は最初の大規模な症例集を出した。約二百例。改善六十三パーセント、不変二十三パーセント、そして重い後遺障害または死亡が十四パーセント。
この十四パーセントを、当時の医学界は許容範囲と受け取った。ここが現代の感覚とのいちばん大きな断層だ。
そしてフリーマンは、最初から宣伝がうまかった。南部の学会に先立って、彼はワシントンの夕刊紙の科学記者トム・ヘンリーを大学に招き、手術を見せた。ヘンリーはこう書いた。この手術は、おそらくこの世代における最大の外科的革新のひとつを構成する、と。さらに、抑えようのない悲しみが、錐とナイフによって正常な諦めに変わるとは、信じがたいことのように思える、とも。
錐とナイフ。当時の新聞は、それを賛辞として書いていた。
一九四一年秋、ローズマリー・ケネディ
アメリカで最も有名なロボトミー患者は、間違いなくこの人だろう。
ローズマリー・ケネディは一九一八年生まれ。ジョセフとローズの三番目の子で、長女。ジョン・フィッツジェラルド・ケネディのすぐ下の妹だ。幼少期から発達の遅れがあったとされる。ただし後年、執刀医のワッツ自身が伝記作家に語ったところによれば、彼が診た限りローズマリーは知的障害ではなく、うつ病の一種だった。二人の医師が書いた論文を全部洗っても、彼らが手術した患者はすべて何らかの精神疾患の診断がついていた。
二十代に入ったローズマリーは、感情の起伏が激しくなり、夜に修道院を抜け出すようになった。修道女たちから知らせを受けた父ジョセフは震え上がった。娘の身も心配だったが、それ以上に、息子たちに託した政治的野心が傷つくことを恐れた。
一九四一年十一月、ジョセフは妻にも他の子どもたちにも告げないまま、大学病院での手術を承認した。ローズマリーは二十三歳だった。
その日の様子は、ワッツの証言として残っている。われわれは頭のてっぺんから入った。彼女は起きていたと思う。軽い精神安定剤は入れてあった。頭蓋を通して脳に切開を加える。前のほうの、両側。ワッツが器具を上下に動かして脳組織を切っていくあいだ、フリーマンはローズマリーに話しかけ続けた。主の祈りを唱えて。歌を歌って。数を逆から数えて。どこまで切るかは、彼女の反応を見て推定した、と。
そして彼女の言葉が支離滅裂になったところで、二人は手を止めた。
これが当時の最先端の切除量の決め方だった。歴史家のアンドリュー・スカルは端的にこう言っている。純粋な試行錯誤だった、と。
結果は破滅的だった。ローズマリーの精神年齢は二歳程度まで落ちた。歩けず、意味の通る言葉も話せず、失禁するようになった。彼女はほとんど即座に施設に入れられた。まずニューヨーク州の私立精神科病院。一九四九年からはウィスコンシン州の知的障害者施設の敷地内で暮らした。父は本院から一マイルほど離れたところに彼女専用の家を建てた。修道女たちはそこをケネディ・コテージと呼んだ。二人の修道女が世話をし、犬がいて、散歩用の車があった。
家族は彼女を切り離した。母は二十年間、一度も会いに行かなかった。父は生涯一度も施設を訪ねなかった。きょうだいたちは、彼女がどこにいるのかすら知らされていなかった。一九五八年に兄ジョンが上院議員の再選運動をしていたとき、家族は彼女の不在を、引きこもりがちだから、と説明した。一九六一年、ジョンが大統領になったあと、そして父が脳卒中で言葉と歩行を失ったあとになって、ようやくきょうだいたちは妹の居場所を知った。
父の死後、ケネディ家は少しずつ彼女を家族の輪に戻した。フロリダやワシントンの親族を訪ね、ケープコッドの生家にも行った。その頃には彼女はまた歩けるようになっていた。ただし足を引きずって。言葉ははっきりしないままで、片腕は麻痺していた。妹ユーニスが一九六八年にスペシャルオリンピックスを創設した背景にローズマリーがいる、とよく言われる。ユーニス本人は一九九五年、ある新聞の取材で、姉は自宅のプールに呼んでいた障害のある人たちの一人にすぎず、大会を誰か一人に結びつけるべきではない、と語っている。
ローズマリー・ケネディは二〇〇五年一月七日、八十六歳で亡くなった。アメリカで最も物語に満ちた一族のなかで、彼女の世代で最初に、自然死で世を去った人だった。他の兄妹たちは戦死し、墜落死し、二人は暗殺されていた。
なぜ病院は手術に飛びついたのか
ここで一度、フリーマンの手を離れて、当時のアメリカの精神科病院を見ておかないといけない。この背景を抜きにすると、ロボトミーの流行はただの狂気にしか見えないからだ。
一九四六年五月六日、ある写真雑誌が「ベドラム1946」と題した特集を組んだ。書いたのはアルバート・マイゼルという記者だ。副題は、アメリカの精神科病院の大半は恥であり不名誉である。取り上げられたのはペンシルベニア州とオハイオ州の州立病院。
そこに書かれていたことは、こうだ。何千人もが拘束具と婉曲に呼ばれる道具に、しばしば何週間も連続で閉じ込められている。分厚い革の手錠、巨大な帆布の拘束衣、ミット、手首縛り、鍵と革帯と拘束シーツ。何百人もがロッジと呼ばれる、寝台もない、汚物と糞便の匂いが染みついた部屋に押し込まれている。昼は鉄板の窓に開けられた直径一センチ強の穴から光が入るだけ。夜はただの黒い墓で、そこに響く叫び声は誰にも届かない。
真珠湾攻撃の一年前の時点で、すでに三十六万五千人分の建物に四十万四千人が詰め込まれていた。ペンシルベニア州のある病院では、定員二千七十四人に対して平均二千五百六十人。職員定数五百人に対して実数三百七十一人。医師は四人しかおらず、患者六百四十人に一人という計算だった。同じ州が刑務所の看守には年千九百五十ドルから払っているのに、精神科病棟の職員の初任給は年九百ドル未満だった。
一九四八年には、ジャーナリストのアルバート・ドイッチが『州の恥』という本を出した。彼は三十以上の施設を回った。フィラデルフィア州立病院について彼はこう書いている。ナチ強制収容所の写真を思い出した。私は裸の人間が家畜のように群れさせられ、それより粗末に扱われている建物に入った。雨漏りする屋根の下で、カビた腐りかけの壁に囲まれ、椅子もベンチもないために腐った床にじかに寝そべる何百人もの患者を見た、と。
アメリカ精神医学会が定める最低基準は、患者百五十人に精神科医一人、四十人に正看護師一人、八人に職員一人、そして患者一人あたり一日五ドル。ドイッチはこう書いている。アメリカの州立精神科病院で、この最低基準を主要な項目すべてで満たしている施設は、一つもないし、これまでも一つもなかった、と。当時の実際の平均は一日一ドル二十五セントだった。
ここに、フリーマンの十分間の手術が持ち込まれる。
考えてみてほしい。病院の管理者から見れば、暴れて手がつけられない患者が一日で静かになり、しかも何割かは退院させられる。ベッドが空く。職員が殴られる回数が減る。予算はほとんどかからない。フリーマンは自分の標語をこう言っていた。ロボトミーは彼らを家に帰す、と。
制度が壊れていると、壊れた制度に都合のいい治療が効くと見なされる。この構図は、ロボトミーの二十年をずっと貫いている。
一九四六年、経眼窩式の発明――「歯の治療より簡単」
標準式ロボトミーには、フリーマンから見て致命的な欠点があった。手間がかかりすぎるのだ。頭蓋に穴を開ける以上、手術室と全身麻酔と脳外科医が要る。全米に何十万人といる収容患者を処理するには遅すぎる。
そこで彼は、イタリアの精神科医アマッロ・フィアンベルティが報告していた、眼窩の上壁を通って前頭葉に到達する経路に目をつけた。フィアンベルティはそこから薬液を注入していたのだが、フリーマンは切ることを考えた。
こうして生まれたのが経眼窩式である。頭蓋に穴を開けない。目の上、まぶたの裏側から細い器具を差し込み、前頭葉と脳の奥の連絡路を断つ。麻酔は電気けいれん療法の発作後の意識消失で代用する。手術室もいらない。外来の診察室でできる。十分で終わる。傷跡は残らない。残るのは両目のまわりの内出血だけで、それもサングラスで隠せる。
そして何より、外科の訓練が要らない。フリーマンは公言した。この手術は非常に単純だから、少し練習すれば州立病院のどんなに不器用な精神科医にもできる、と。彼が練習台にしたのは、トラック一台分のグレープフルーツだったという。ハワード・ダリーの父ロドニーが後年、そう証言している。
最初の一例が、冒頭のサリー・エレン・イオネスコだ。一九四六年一月十七日。
ワッツはこれに耐えられなかった。彼は真っ当な脳外科医であり、脳の手術は訓練を受けた外科医が手術室で行うべきだと信じていた。しかも滅菌操作がなされていない。しかも外来である。フリーマンが十例目を自分ひとりでやっていたところに、ワッツが部屋に入ってしまった。器具が患者の眼窩に刺さったまま、フリーマンは、写真を撮るから支えていてくれ、と言った。それが決定的だった。ワッツは一九四〇年代の終わりに、自分が共同で立ち上げた診療所を去った。
医学界の主流も冷淡だった。一九四八年、フリーマンがアラバマ州の退役軍人病院で実演に招かれたとき、退役軍人局の精神科教育責任者は、首の痛みも適応症に加わりそうだ、と皮肉り、ある顧問は、彼は全国的な学術誌に一本も論文を書いていない、だから危険も合併症も結果も何ひとつ知らないのだ、と反対した。退役軍人局の脳外科顧問に至っては、外科医でない者に病院でロボトミーをやらせるのは俺の屍を越えてからだ、と言い放った。
それでも止まらなかった。退役軍人局は各病院の判断に委ねると決めた。そして一九四九年、アメリカ国内で行われたロボトミーの年間件数は約五千件に達する。一九四五年にはわずか百五十件だったのに。同年八月までの累計は一万件を超えた。
新聞はこれを、歯の治療より簡単、と書いた。ある大衆誌は、手術によって、かつては悲惨と残酷と憎悪の住処に思えた世界が、いまや陽光と優しさに輝いている、と書いた。
一九四九年、ストックホルム
そして一九四九年、ノーベル生理学・医学賞がエガス・モニスに贈られる。ヴァルター・ルドルフ・ヘスとの折半で、モニス側の授賞理由は、ある種の精神病に対するロイコトミーの治療的価値の発見だった。
授賞式の講演は、いま読むと足がすくむ。前頭葉を破壊すれば人格が変わることは知られているが、病気ですでに完全な廃疾となっている人にとっては、それは大した問題ではない、という趣旨のことが述べられている。手術で痛みが取れる話にも触れ、患者は痛みを感じてはいるが気にしなくなるのだと説明する。そして結論はこうだ。前頭葉白質切截術は、精神医学的治療においてこれまでになされた最も重要な発見のひとつと見なされねばならない、と。
モニス本人は式に出ていない。一九四五年にはすでに故郷に引退していた。そしてもう一つ理由があった。一九三九年、彼は自分の診察室で患者に銃撃されていたのだ。ロイコトミーを受けた患者ではない。ホルモン系の病気の患者だった。モニスはのちにこう書いている。五発目で自分が襲われているのだと分かった。どうにか立ち上がると、彼はさらに二発撃った。右手がひどくやられたと気づいて、インク壺で彼の頭を殴ろうとした。あの狂った男は私を弾で埋めた、と。彼はこの銃撃で部分的な麻痺を負い、以後ほとんど手術に立ち会わなくなった。一九五五年、また別の患者に襲われ、その年の暮れに八十一歳で亡くなっている。
この受賞が何を意味したか。批判者たちが黙った、ということだ。
孫がロボトミーを受けた医学図書館司書クリスティン・ジョンソンは、後年こう言っている。当時も批判者はたくさんいた。でも彼が賞を取ったとき、全員が黙らされた。私の祖母は一九五三年に手術されている。だから、もし一九四九年に彼が賞をもらっていなければ、祖母も他の多くの患者も手術されずに済んだはずだと私は思う、と。
日本での反応は、ちなみに、驚くほど薄い。朝日新聞はモニスの受賞を記事にすらしなかった。読売新聞が初めて取り上げたのは、受賞から五か月も経った一九五〇年三月二十一日のことだ。しかもそれは科学面ではなく、夕刊一面のコラム。書いたのは精神科医で歌人の斎藤茂吉だった。彼はロボトミーをノーベル賞級脳療法として紹介し、効果の報告は一様ではないと一応の留保をつけつつ、ただ今では、試験時代を過ぎて、治療実行時代に入った、と好意的に書いた。この日が、朝日・読売の両紙を通じてロボトミーというカタカナ五文字が初めて紙面に登場した日である。
「ロボトミー・モービル」の伝説と、実際に走っていた車
フリーマンの巡回は伝説になった。彼が自分の車をロボトミー・モービルと呼び、それに乗って全米を回ってアイスピックを振るった、という話だ。
正確に言うと、これは半分作り話である。伝記作家ジャック・エルハイが指摘しているとおり、その呼び名はフリーマンの膨大な公刊・未公刊の著作、書簡、自伝、メモ、どこにも出てこない。活字での初出は彼の死から十年後、一九八二年に出た本のなかで、著者自身の造語らしい形で使われたのが最初だ。フリーマン本人は自分の車を、車種の名からとってコルテスと呼んでいた。
では、この作り話がなぜこれほど根強いのか。エルハイの見立てはこうだ。この呼び名は、患者の脳を壊しただけでなく、それをネタに軽口を叩く怪物として、この医師を効率よく描いてくれるからだ。ただしエルハイは、自分の調査からすると、フリーマンにとって患者は、思いやりからであれ、傲慢さからであれ、自己愛からであれ、そんなふうに茶化す対象ではなかった、とも書いている。
呼び名は嘘でも、走っていたのは事実だ。一九五〇年代から六〇年代にかけて、フリーマンは大型のキャンピングカーで全米を横断し続けた。生涯で十一回、大陸を往復している。訪ねた精神科病院は五十五か所以上。彼はこれを首狩り旅行と呼び、未刊行の自伝ではこの時期を扱う章に、南北アメリカでの頭と肩の狩り、という見出しをつけた。彼はアウトドア好きでもあり、この旅は休暇も兼ねていた。同時にこれは現地調査でもあった、と彼は書いている。そして私は、ワシントンからシアトルまで、黒い目の列を残していった、とも。
彼の実演を見た人の証言が残っている。両手にそれぞれ器具を持ち、左右の目から同時に施術してみせる。そして彼はこちらを見上げて微笑んだ。サーカスの出し物を見ているのだと思った。彼があんなに陽気で、ハイで、テンションが高いことに愕然とした、と。
医学の場において、これがどれほど異常なことか。手術というのは本来、見せ物にしてはいけないものだ。
「アイスピック作戦」――ウェストバージニアの十二日間
その巡回の頂点が、一九五二年夏のウェストバージニア州である。
この州では一九四八年一月に最初のロボトミーが行われた。件数は当初、全米平均並みだった。ところが一九五二年の夏、州の運営委員会の同意のもとでウェストバージニア・ロボトミー計画が立ち上がる。名目は、手術を受けた患者と受けていない患者を比較して有効性を検証する、というものだった。
なぜこの州が狙われたのかははっきりしない。おそらく、大量の入院患者がいたこと、州政府が財政的に困窮していて協力的だったこと、フリーマンの本拠地であるワシントンから近かったこと、そして他州が手術に制限をかけ始めていたことの組み合わせだろう。
一九五二年八月の十二日間で、フリーマンは州内五か所の州立病院で二百二十八件の経眼窩式ロボトミーを実施または監督した。一日に二十五人の女性を手術した日もあった。新聞はこれをアイスピック作戦と呼んだ。
一九五二年から一九五五年までに、この州の四つの州立病院で七百八十七人が手術を受けた。それ以前の百人あまりを含めると、約九百人。人口比では全米のどの州よりも多い。そして、そのうち多くの患者は手術に同意していなかった。
計画は一九五五年に終わる。向精神薬が来たからだ。そして、手術の効果を疑わせる長期追跡研究が出てきたからだ。皮肉なことに、有効性を検証するという名目で始まった計画は、検証される前に薬に追い抜かれて消えた。
「静かになった」と喜んだ人たち――三つの家族の証言
ここからが、この記事でいちばん書かなければならないところだと思っている。
ロボトミーの物語は、悪い医者が無力な患者を切り刻んだ、という単純な図式では成り立たない。多くの場合、手術を望んだのは家族だった。そして、少なくない家族が術後によくなったと感じていた。この不快な事実から目をそらすと、なぜ二十年も続いたのかが分からなくなる。
一人目は、アンジェリーン・フォレスターという女性の話だ。彼女の母親が、あのサリー・エレン・イオネスコである。一九四六年一月十七日、その診察室に、彼女は子どもとして居合わせた。
彼女はこう語っている。母は手術前、猛烈に自殺しようとしていた。経眼窩式のあと、それが何もなくなった。すぐに止まったの。ただ、平穏だった。どう説明したらいいか分からない。コインをひっくり返したみたいだった。それくらい速く。だから、彼が何をしたにせよ、何か正しいことをしたのよ、と。
彼女はフリーマンについても語っている。彼の膝に座ったのを覚えている。とがった顎ひげがあって、とても柔らかかった。子どもって、人の魂が少し見えるでしょう。彼は善い人だった。少なくともあのときは。そのあと何が起きたのかは、私には分からない。ただ、あんなに手がつけられなくなってしまわなければよかったのに、と。
母イオネスコ本人は、八十代でバージニア州の介護施設にいた。娘に、先生の顔を覚えている、と聞かれて、覚えていないと答えた。診察室のことも覚えていない。他には何も覚えていない、とても疲れている。それだけ言った。ただ、フリーマンについてはこう言った。彼はただ偉大な人だった。それだけ、と。フリーマンは生涯にわたって、この最初の患者と連絡を取り続けていた。
二人目は、キャロル・ノエルという女性の話だ。彼女の母アンナ・ルース・チャネルズは、ひどい頭痛に苦しんで一九五〇年にフリーマンのもとに送られた。フリーマンは経眼窩式ロボトミーを処方した。精神疾患ではない。頭痛だ。
手術は頭痛を治した。そして母親から、大人としての精神を奪った。
娘の語り口は、ただ痛ましいというのとは少し違う。心配したかって。しなかった。フリーマンが約束したとおり、母は心配しなくなった。社交上の作法という概念がなくなった。誰かの家でパーティーがあると、その家に入っていって自分も席につくのに何の問題も感じない。問題なしよ、と。
そして彼女はこう続ける。母はすごく頭がよかった。本当に頭がよかった。でも、それを置く場所がどこにもなかった。彼女の唯一のはけ口は、町じゅうのピンボール機を制覇することと、お祭りの瓶に何枚コインが入っているか当てることだった。母は私たちがこれまでに得た最高の遊び相手で、最高の友達で、私たちは死ぬほど彼女を愛していた。でも、彼女をママとか、お母さんとか呼んだ記憶が一度もない、と。
私は自分の母を、自分の娘の祖母だと思ったことが一度もなかった。だから娘を一度も会わせに連れて行かなかった。一度も。だから母は、孫と過ごすということも、まったく経験しないままだった。
家族が静かになったと喜ぶことと、家族が取り返しのつかないものを失うことは、両立する。ここが本当に厄介なところだ。
三人目は、レベッカ・ウェルチという女性の話だ。彼女の母アニタ・ジョンソン・マギーは、一九五三年、産後うつを理由にフリーマンに手術された。彼女は生涯に三度ロボトミーを受けている。最初がフリーマン、あとの二回はフリーマンが紹介した医師たちによるものだ。
母は人生の大半を精神科施設で過ごし、晩年はアラバマ州の介護施設にいた。娘は毎週会いに行っていた。
この処置を奇跡の治療だなんて、誰が思えたのか分からない。そこから出てきたものといえば、たくさんの人にとっての傷と痛みだけ。彼女はそう言う。そしてもう一言、こうも言っている。私は個人的に、フリーマン医師のなかの何かが、人を征服して、その人が誰であったかを奪い去りたがっていたのだと思う、と。
彼女は結婚して十九年になる夫を、この日初めて母のところに連れてきた。それまで一度も会わせたことがなかった。
基本的に、あまりにも痛すぎて、私は長いことこの話からできるだけ遠く離れていようとしてきた。放っておけば消えてくれるみたいに。でも、絶対に消えない。
十二歳だったハワード・ダリー
そして、この物語のなかで最も広く知られることになった患者がいる。
一九六〇年十二月十六日、カリフォルニア州サンノゼの病院で、十二歳の少年がロボトミーを受けた。名前はハワード・ダリー。
彼の母親は彼が五歳のときに癌で死んだ。父ロドニーは再婚し、継母ルーが来た。ハワードはのちにこう書いている。継母は僕を憎んでいた。理由はずっと分からなかったけれど、彼女が僕を追い出すためなら何でもするつもりなのは明らかだった、と。
フリーマンの診療記録が残っている。継母はこう述べていた。ハワードは反抗的で、野蛮な顔つきをしていて、怖い。彼は愛にも罰にも反応しない。寝るのを嫌がるが、寝つけばよく眠る。かなりの時間ぼんやりしていて、何を考えているのか聞くと分からないと言う。外が真昼の陽射しなのに部屋の電気をつける、と。
外が明るいのに電気をつける。これが、脳を切る理由として記録に残っている。
ダリーによれば、継母は他の医師にも連れて行っていた。その医師たちは、いや、ここには何も悪いところはない、普通の男の子だ、と言った。フリーマンだけが違った。彼はダリーを、四歳の頃から小児期の統合失調症だったと診断した。
一九六〇年十一月三十日、ハワードの誕生日にあたるこの日の記録。ダリー夫人がハワードのことで話しに来た。事態はずっと悪化していて、彼女はもう耐えられそうにない。私はダリー夫人に、経眼窩式ロボトミーによってハワードの人格を変えるという可能性を家族として検討すべきだと説明した。ダリー夫人は、それは夫次第であり、私が夫と話して納得させなければならないだろうと言った。
十二月三日の記録。ダリー夫妻はハワードを手術することに決めたようだ。私は彼らにハワードには何も言わないよう勧めた。
何も言わないよう勧めた。十二歳の子どもに、自分の脳がこれから切られることを、伝えないよう勧めた。
ハワードは、検査を受けに行くのだと言われて病院に連れて行かれた。二日後、頭痛とともに目を覚ました。
手術から二週間半後、一九六一年一月四日のフリーマンの記録。ハワードに何をしたのかを話した。彼は身じろぎもせずに受け止めた。ほとんどの時間、にやにやしながら静かに座っていて、何も言わない。
ダリー本人はのちにこう書いている。そして僕はこれを受け止めることになっていた。十二歳の子どもがそんなものに抗えるわけがない。ただ、フェアじゃなかった、と。
手術は彼を植物状態にはしなかった。そして継母は、それを見てとると、彼を家から追い出した。ハワードは州の被保護児童になり、少年鑑別所と中間施設と州立精神科病院を転々とした。彼は学校に戻らず、卒業もしなかった。軽微な犯罪を犯し、酒を飲みすぎ、障害給付で暮らした。実家に居場所はなかった。
それから四十年以上、彼はこの話を誰にもしなかった。妻と数人の友人以外には。二〇〇〇年に継母が死んだとき、彼はこう思ったという。それは僕にとって衝撃だった。もう彼女に聞くことはできないんだと気づいた。終わってしまったんだ、と。
五十代半ばになった彼は、ラジオのプロデューサーたちと組んで、自分に何が起きたのかを二年かけて調べ始めた。フリーマンの遺した文書が保管されている大学の書庫に行き、自分のカルテを見つけた。フリーマンは自分が手術した患者の写真をすべて撮っていた。ハワードは、自分の手術中の写真を手に入れた最初の患者になった。
そして彼は、四十四年間一度も交わさなかった会話を、父に申し込む手紙を書いた。
父さんへ。この手紙を書いているのは、子どもの頃に受けた手術の記録を手に入れて、いくつか聞きたいことがあるからです。これまで聞かなかったのは父さんへの愛情からで、聞くことで父さんの僕への愛情が変わってしまうのが怖かったからです。あの手術は僕の人生をずっと苦しめてきました。五十六歳になったいま、腰を据えて話したいのです。
父は応じた。
どうやってフリーマン医師を見つけたの、と息子は聞いた。俺じゃない、と父は答えた。彼女だ。彼女がおまえを連れて行った。他の医者にも当たったと思うが、そいつらは、いやいや、悪いところなんてない、普通の子だ、と言った。継母問題ってやつだ、と。
俺は操られたんだ、単純にな。売りつけられた。彼女が俺に売り、フリーマンが俺に売った。俺はそれが気に入らなかった。
息子は聞いた。後悔していることはある、と。父は答えた。それは後ろ向きだ。俺は後ろ向きな考えにこだわらない、と。息子が食い下がると、父はこう言った。完璧な人間なんていない。やり直せるとしたら、やるか。ああ、後知恵は美しいさ。五十年経てば、これは間違いだったと言える。第一次世界大戦だって間違いだった、と。
ダリーは、この会話を、僕の人生で最も幸せな瞬間、と呼んだ。父が責任を認めなかったにもかかわらず、である。
彼はその後、レベッカ・ウェルチと彼女の母アニタに会いに行った。老いた女性のベッドの脇で、二人は童謡を歌った。
二年の探索を経て、僕の旅は終わった。ドクター・フリーマンとそのアイスピックとの十分間で、自分が何を失ったのかは、永遠に分からないだろう。何かの奇跡で、それは僕をゾンビにも、精神を潰された人間にもせず、殺しもしなかった。でも、それは僕に影響した。深く。ウォルター・フリーマンの手術は苦しみを取り除くためのものだった。僕の場合、それはまったく逆のことをした。ロボトミー以来ずっと、僕は自分がフリークだと感じてきた。恥ずかしいと。
でも、レベッカ・ウェルチと彼女のお母さんと同じ部屋に座っているいま、僕の苦しみは終わったと分かる。僕のロボトミーは、僕の魂には触れなかった。生まれて初めて、恥を感じない。僕はついに、安らかだ。
この放送は二〇〇五年十一月に流れ、猛烈な反響を呼んだ。二〇〇七年、彼は『マイ・ロボトミー』という回想録を出し、ベストセラーになった。ハワード・ダリーは二〇二五年二月十一日に亡くなっている。七十六歳だった。
数字の話――何人が受けて、何人が死んだのか
冷静に数を見ておこう。
アメリカでは、一九三六年から一九五〇年代半ばまでに約四万から五万件、多く見積もる推計では六万件のロボトミーが行われたとされる。世界全体では最大十万件という推計もある。年間件数のピークは一九四九年から一九五二年にかけてで、一九四九年だけで約五千件。うち経眼窩式は全米で約一万件だった。
イングランドとウェールズの数字は、比較的まともに追跡されている。一九四二年から一九五四年までに、単回の白質切截術が一万三百六十五件。それ以外に七百六十二人が複数回受けた。うち九千二百八十四人を追跡した研究では、回復または著明改善が四十一パーセント、わずかに改善が二十八パーセント、不変が二十五パーセント、悪化が二パーセント、そして死亡が四パーセントだった。予想どおり、統合失調症より気分障害のほうが成績がよく、前者の回復率三十パーセントに対して後者は六十三パーセントだった。
フリーマン個人の数字は、一九六七年までに三千四百三十九件。うち経眼窩式が約二千五百件。二十三の州で行った。十九人の未成年に対して行い、最年少は四歳の子どもだった。そして彼の患者のうち、およそ百人が脳出血で死亡している。おおまかに言って十五パーセントほどが手術に関連して亡くなったという推計もある。
一九五一年、アイオワ州の病院で起きた事故は象徴的だ。フリーマンはいつものように手術中に一歩下がって写真を撮ろうとした。そのとき器具が動き、患者は死んだ。
数字はもう一つの顔を持っている。一九四八年から一九五二年にかけて百五十人の慢性精神疾患患者に標準式ロボトミーを行い、一九五二年と一九六二年に追跡した研究がある。追跡できた百十六人のうち、六十七パーセントが病院の外で生活できるまでに改善した。ただし二十六パーセントには再発期間があった。最も大きな合併症はてんかんが十二パーセント、そして人格の欠損が九十一パーセントである。
九十一パーセント。ほぼ全員だ。この研究の著者は、それでも、適応を厳密に絞れば標準式ロボトミーは精神科治療のなかに正当な位置を占めているだろう、と結論している。一九六二年の話である。
クロルプロマジンが来た
ロボトミーを終わらせたのは、倫理でも訴訟でも学会決議でもない。少なくとも最初の一撃は、薬だった。
一九五〇年十二月、フランスの製薬会社の研究所で、ある化合物が合成された。もともとは抗ヒスタミン薬の研究から出てきたものだ。一九五一年、フランス海軍の外科医アンリ・ラボリがこれを外科麻酔の補助に使おうとして、患者が奇妙に無関心な状態になることに気づいた。一九五二年、パリの精神科医ジャン・ドレーとピエール・ドニケルが精神疾患に用いはじめる。一九五四年、アメリカで承認された。クロルプロマジン。商品名はソラジンといった。
効果は、当時の医師にとって魔法に見えた。北米にこの薬を導入したハインツ・レーマンはこう語っている。急性の統合失調症患者のうち二、三人が無症状になった。私はそんなものを見たことがなかった。まぐれだと思った。二度と起きないだろうと。それでも彼らはそこにいた。四、五週間経つと、無症状の患者がたくさんいた、と。
導入から八か月で約二百万人がこの薬を投与されたと言われる。一九五三年に五十六万人でピークを迎えたアメリカの精神科病院の入院者数は、一九七五年には十九万三千人まで、三分の一に減った。
ただし、この物語も単純ではない。実は退院率の上昇は薬の登場より前から始まっていたし、一九五四年から一九六一年までは入院も同時に増えたので病床人口は一パーセントしか減っていない。本格的に減り始めるのは一九六一年以降だ。脱施設化は薬の効果だけでなく、州政府と連邦政府がコストを削りたかったという事情に強く押されていた。そして退院した人々を受け止める地域のサービスは、まったく足りていなかった。ホームレス化と刑務所への収容が、その代償として現れる。
もう一つ。レーマン自身がクロルプロマジンを化学的ロボトミーと呼んでいる。手術の時代が終わったのは、より人道的な治療が来たからというより、同じ目的をより安く、より可逆的に達成する手段が来たから、という側面がある。ここは何度でも噛みしめておきたい。
一九六七年二月、最後の手術
一九五五年にクロルプロマジンがアメリカで広く使われるようになってから、フリーマンの診療は急速に細っていった。彼はワシントンを離れ、カリフォルニアに移った。それでも彼は手術をやめなかった。
一九六七年二月、カリフォルニア州バークレーの病院。フリーマンはヘレン・モーテンセンという女性を手術した。彼女は一九四六年、経眼窩式の最初の十人のうちの一人だった。その後症状が再燃し、一九五六年に二度目を受けている。これが三度目だった。
彼女は三日後、頭蓋内出血で死んだ。
フリーマン自身の記録にはこうある。今回は、私の落胆したことに、彼女は出血を起こし、三日で亡くなった。これが私が手術をした最後の日だった、と。彼に手術を許していた最後の病院は、彼の手術権限を取り消した。フリーマンはほどなく診療から退いた。
しかし彼は諦めなかった。彼は全米を回り続けた。今度は手術のためではなく、かつての患者を探すためだ。彼は自分がロボトミーを施した約三千四百人のほとんど全員を、この時期に見つけ出している。そして写真を撮った。彼らが元気にやっているという証拠を集めるために。
批判者はこれを執念深い自己弁護と呼び、擁護者はこれを二十世紀屈指の追跡調査だと呼ぶ。どちらも正しいのだろう。
ウォルター・フリーマンは一九七二年五月三十一日、癌の手術に伴う合併症で亡くなった。七十六歳だった。四人の息子が残された。長男のウォルター三世は、カリフォルニア大学バークレー校の神経生物学の教授になった。
日本のロボトミー――中田瑞穂と広瀬貞雄
日本の話に移る。ここは、日本語で書かれた記録が驚くほど少ない領域だ。理由は後で書く。
まず、その前の日本の状況を押さえないといけない。一九〇〇年に精神病者監護法が制定され、そこには諸外国に類例のない私宅監置が規定された。家族が自宅の一角に監置室を作って精神障害のある人を閉じ込める、という制度である。呉秀三は全国三百六十五の監置室と三百六十一人の被監置者を調査し、一九一八年に報告書を著した。そこに彼が書きつけた一文は有名だ。この国の十何万の精神病者は、この病を受けた不幸のほかに、この国に生まれた不幸を重ねるものだと言うべきである。
一九三七年の時点でも、なお七千人が私宅監置下にあった。内務省衛生局の役人は同じ年、私宅監置は排斥すべきものではなく、処遇不良が少ないのはわが国古来の家族制度の美点というべきである、という趣旨の論文を書いている。明治以来の知識人たちが振りまいた優生思想が、こうした差別的な扱いの土台になっていた。福沢諭吉が一八八二年の著作で精神疾患を遺伝病に数え、その後の論者たちが露骨な言葉を並べていた。医療がその上に乗っていたのだ、ということは押さえておかなければならない。
日本の精神外科の口火を切ったのは、新潟の脳神経外科医、中田瑞穂である。一九三六年に半年間アメリカに滞在し、当時の大家を訪ねて最先端の手術を学んだ。滞米中の一九三六年九月にフリーマンがワシントンでアメリカ初のロボトミーを行っているのだが、その情報は中田の耳には入らなかったらしい。
帰国から三年後の一九三九年一月、中田は統合失調症の患者に前頭葉切除を行った。日本初の精神外科手術である。そして一九四二年一月、初めてロボトミーを施行した。彼は当初、盲目的に小さな穿頭孔から行うこの術式を極めて危険と感じたが、その後の研究によりこの危険性は全く杞憂であることが判明した、と書いている。一九四六年までに二十九例を行い、治癒八例、軽快六例、無効十三例、経過観察中二例、およそ半数に有効と報告した。
戦時中、日本でロボトミーに手を出した医師は中田と、北海道帝国大学の掛川康次のほぼ二人だけだった。物資も薬もなく、欧米の医学情報も途絶えていたからだ。同じ時期、アメリカでは一九四〇年から一九四五年のあいだに千件のロボトミーが行われている。この落差は、そのまま両国の戦争の落差である。
敗戦後、話は一変する。占領軍を通じて欧米の医学情報が一気に流れ込んだ。アメリカの精神科医ポール・シュレーダーは、ミズーリ州で一九四三年までに二百例の標準式ロボトミーを経験していた人物で、戦後は占領軍の軍医少佐として大阪方面に派遣された。一九四六年、彼は日本の医師に標準式ロボトミーを実演し、同年十月には大阪で開かれた学会で講演を行っている。
一九四六年四月に大阪帝国大学の竹林弘が、同年九月に北海道帝国大学の中川秀三が標準式ロボトミーを開始した。一九四七年には武蔵野病院、武蔵療養所、桜ヶ丘保養院、松沢病院で相次いで始まる。一九四九年頃には全国の大学病院と主要な精神科病院で、一九五〇年頃には一般の精神科病院でも行われるようになった。
日本のロボトミーには一つ特徴がある。術者に精神科医が多かったことだ。脳神経外科が一般外科から独立して専門医制度が始まるのは一九六五年で、ロボトミーの時代はそれに二十年先行していた。中川は、精神神経病の治療に最も関心を有する神経医が行って初めて治療法としての意味をもつ、と主張した。
その中川が一九五〇年に、全国二十八病院で行われた二千例の集計を発表している。日本で行われた最後の全国調査になった。対象の八割を占めた統合失調症について、治癒が三十四・〇パーセント、軽効が二十四・三パーセント、未治癒が二十八・二パーセント、悪化が一・二パーセント、手術死および合併症死が三・八パーセント、無関係死が一・六パーセント、調査不能が六・九パーセント。約半数が良好で、悪化ないし死亡が七パーセント。フリーマンが一九四二年に報告した成績と、ほぼ同じ水準である。
日本で最も多くのロボトミーを手がけたのは、精神科医の広瀬貞雄だ。一九一八年生まれ。一九四一年に東京帝国大学の精神科に入局し、翌年軍医として外地へ、一九四六年に復員して松沢病院に着任した。一九四七年六月に標準式を開始し、一九五一年には二百三十一例の経験を報告している。一九四七年から一九七二年までの通算で五百三十二例。
面白いのは、その広瀬が経眼窩式には否定的だったことだ。彼は一九四九年に経眼窩式を試みたが、効果が乏しいとして同じ年のうちに放棄している。そして、簡単に行えるので一部の人たちに乱用されているのは遺憾、と書いた。日本でも、あの手術は簡便さゆえに濫用されていたのだ。
批判はもちろんあった。京都大学の越賀一雄は一九五三年、自身の六十三例をもとに正面から異を唱えた。彼の成績は社会的寛解二十パーセント、家庭的寛解十三パーセント、軽快十九パーセント、不変三十五パーセント、死亡十三パーセント。彼が最も鋭く突いたのは効果の性質だ。ロボトミーが効くのは、疾患の身体的な起点に直接影響を与えて根本の障害を除去するからではなく、ただ適応性を著しく阻害している症状が消えたり減ったりすることによって効果を挙げているにすぎない。しかも術後にはさまざまな欠陥症状が出て、ある意味で人格水準の低下をきたす。だから早期手術を強調するフリーマンらの見解には賛成しがたい。そういう論旨である。
一九四九年、松沢病院院長の林暲は、ロボトミーの効果の核心は、なんとしても一種の人格的変化にある様に思われる、と書いた。効いているのは病気に対してではなく、人格に対してだ、という認識は当時から存在したのである。
一方で、その人格変化を是とする声もあった。大阪大学の堀見太郎は一九四九年、三年間の百七十例を報告した。初期の二十例のうち四例が脳出血で死亡している。そのうえで彼はこう書いた。小範囲の切開で効果のある者は恐らく大部分が電気けいれん療法等でも効果があると思われ、将来のロボトミーはある程度人格の変化を永続的に遺すごとき手術方法を考案することが必要、と。
人格を永続的に変える方法を考案せよ、と医学論文が書いている。これが一九四九年の日本だ。
現場の空気も生々しい記録が残っている。松山精神病院の野瀬清水はこう回想した。毎朝出勤すると、外来待合室の廊下に布団でぐるぐる巻きにされた患者が平均三、四人転がっている。そこから一日が始まる。電撃療法を五十回も百回もただ繰り返すだけで月一万円の措置入院料では、インスリンの薬代にみたない。何でもいい、すがりつきたい我々の気持ちが、時あたかも丁度導入され始めたロボトミーにタイミングが合い、と。
三重県立高茶屋病院の宝積己矩子は、私費入院が多く家族の負担が大きかったこと、そして家族がおとなしく家にいてくれる様にとロボトミーを切望したこと、死んでもどうなってもいいから手術をしてほしいと迫る切羽詰まった様子を書き残している。
アメリカと同じ構図が、そのまま日本にもあった。
一九七五年五月十三日、賛成四三七・反対〇
日本のロボトミーの終わり方は、アメリカとはまるで違う。政府の規制でもなければ、薬に静かに置き換えられていったのでもない。精神科医たち自身が、学会の決議で葬った。
前史がある。一九六〇年代から七〇年代にかけて、日本の精神医療は激しい内部批判に晒されていた。刑法改正における保安処分制度の新設をめぐる論争、大学紛争の流れを汲む改革運動、そして精神医療の実態そのものへの告発。一九七一年、日本精神神経学会の総会は保安処分制度の新設に反対する決議を行った。精神外科は保安処分と密接に結びつくものとみなされ、有効性への根本的な疑問もあいまって、これを精神医療の手段から追放しようという気運が急速に高まる。
一九七二年から七三年にかけて、圧力は具体的な形をとった。脳生検問題が持ち上がり、札幌と名古屋でロボトミー訴訟が起こされた。一九七三年十月には東京で国際脳神経外科学会が開かれ、会長を務めた東京大学の脳外科教授・佐野圭司を糾弾する一派が会場のホテルに押し寄せ、機動隊が出動する騒ぎになった。てんかん治療のために定位脳手術を受けた十一歳男児の術後経過をめぐるビラが会場でまかれた。この件では一九七一年に民事訴訟が提起されており、一九八七年に原告敗訴で確定している。ちなみに佐野は精神疾患の治療を目的とするロボトミーは行っていない。彼が古典的ロボトミーを行ったのは生涯に一例、癌末期で余命一か月ほどの患者の激烈な疼痛と苦悩を緩和するためだったと、亡くなる三年前の取材で明かしている。
一九七二年、広瀬貞雄はメスを置いた。同じ年、彼が主催する予定だった関東精神神経学会には公開質問状が出され、彼は混乱を恐れて開催を中止した。一九〇四年から続いていたこの学会は、これを機に消滅した。奇しくもその一九七二年に、ウォルター・フリーマンが死んでいる。
そして一九七五年五月十三日、第七十二回日本精神神経学会総会の会期中に、精神外科を否定するかどうかが問われた。結果は賛成四百三十七、反対〇、棄権三十八。
同じ年、学会誌に会告が掲載された。精神外科とは、人脳に不可逆的な侵襲を加えることを通して人間の精神機能を変化させることをめざす行為である。かかる行為は、医療としてなさるべきでない。提案理由の第一義には、進行する保安処分体制への反対が置かれていた。
以後、日本で精神外科手術は行われていない。約四十年の歴史が幕を閉じた。学術団体の決議による自粛が、そこから半世紀続いている。
ただし、この終わり方には重い副作用があった。訴追を恐れた全国の精神科病院が、医師法で義務づけられた五年の保存期間を過ぎたカルテを、法規どおりに一斉に焼却したと言われている。通常なら十年以上保管するのが慣例だったのに、である。その結果、日本で行われたロボトミーの記録は消滅した。総数は数千から十二万という、答えになっていない幅でしか言えない。後年の画像診断技術による検証も、術式の比較も、長期予後の追跡も、もうできない。真実は闇に消え、疑念だけが残った。
そしてもう一つの副作用として、ロボトミーだけでなく、まったく別物である定位脳手術にまで悪いイメージが定着した。
一九七九年九月二十六日、東京都小平市
日本のロボトミーをめぐる出来事のなかで、最も重く、最も語りにくいのが、いわゆるロボトミー殺人事件だ。
事実関係は、有罪が確定した範囲で書く。
一九七九年九月二十六日の夕方、東京都小平市の精神科医の自宅に、デパートの配達員を装った男が訪ねた。男は当時五十歳、元スポーツライターである。彼は家にいた医師の家族二人を拘束し、医師の帰宅を待った。しかし医師は同僚の送別会に出ていて、その夜は帰らなかった。男は二人を刃物で殺害し、現金と預金通帳を奪って逃走した。二時間後、池袋駅の改札前で職務質問を受け、銃刀法違反の現行犯で逮捕された。
彼がこの家を訪ねた理由は、その十五年前にさかのぼる。
一九六四年三月、当時三十五歳だった彼は、親の介護をめぐって妹夫婦と口論になり、家具を壊して暴れた。器物損壊の現行犯で逮捕される。妹夫婦は翌日に告訴を取り下げたが、彼は釈放されなかった。一週間後に精神鑑定を受け、精神病質と鑑定され、精神科病院に措置入院となった。
入院先で、彼は一人の若い女性患者と親しくなった。その女性は精神外科手術を受けた一か月後に自死した。それを知った彼は激怒し、自分は絶対に手術を受けないと主治医に詰め寄った。同時に母親には、手術の承諾書に絶対にサインしないでくれと手紙で頼んでいた。
しかし手術は行われた。主治医は母親を病院に呼び出して説得し、承諾を得た。術式はチングレクトミー、すなわち帯状回切除である。爆発的な激情を抑えて社会適応させる効力があるとされた開頭術式だった。彼は肝臓の検査と言われて手術台に上げられたとされる。
彼はもともと文章を書く人だった。プロレスと格闘技の月刊誌に寄稿しており、入院中にも有名なプロレスラーの半生を淀みない文体で綴っている。手術後、彼はその力を失った。原稿が書けなくなった。
一九八〇年、東京拘置所にいた彼が、ある集会に寄せた文章が残っている。奇異な表現が並び、高次脳機能の低下がうかがえる内容だった。裁判では改めて精神鑑定を受け、責任能力ありと判定された。ただし脳内には手術用器具が残留しており、脳波にも異常が認められた。
彼は、無罪か死刑でなければロボトミー手術を理解していない、と述べ、そのどちらかを望んだ。検察は死刑を求刑した。しかし一九九三年、東京地裁八王子支部は無期懲役を言い渡した。判決は、極刑を科すには一抹の躊躇を感じる、と述べている。一九九五年に東京高裁が控訴を棄却した際にも、死刑をもって臨むことはためらいを禁じ得ない、とされ、一九九六年に最高裁で無期懲役が確定した際にも、被告人が割り切れない気持ちを募らせたことには理解できる面もある、という趣旨が述べられた。
この事件について、はっきりさせておきたいことがある。二人の女性が殺されたことは、いかなる理由でも正当化されない。手術によって受けた被害と、無関係な人を殺したことは、別の秤にかけられなければならない。
同時に、彼が同意していなかったこと、拒絶の意思を明確に表明していたこと、その意思が本人以外の署名によって覆されたこと、これらもまた動かない事実である。当時の日本の制度は、それを許していた。裁判所が三審にわたって死刑を躊躇したのは、法廷がその制度の存在を無視できなかったからだと考えるほかない。
『カッコーの巣の上で』と、盛られた記憶
医学が終わらせたのではないものが、もう一つある。イメージだ。
一九五八年、テネシー・ウィリアムズの一幕劇『去年の夏突然に』がブロードウェイで初演された。従兄弟の死をめぐる真相を隠したい裕福な伯母が、目撃者である若い女性を無理やりロボトミーに追い込もうとする話である。ウィリアムズの妹ローズは、実際に若い頃にロボトミーを受け、以後生涯を施設で過ごした。
一九六二年二月一日、ケン・キージーの長編『カッコーの巣の上で』が出た。キージーはカリフォルニアの退役軍人病院で夜勤の看護助手として働きながら、この小説を書いた。彼は実験の被験者として幻覚剤を摂取し、さらに自分から電気けいれん療法を受けている。物語の終盤、主人公ランドル・マクマーフィーは看護師長との権力闘争の果てにロボトミーを受け、無表情な抜け殻になって病棟に戻される。同室のブロムデンが枕で彼を窒息させ、その足で窓を破って外へ走る。
一九七五年、ミロシュ・フォアマン監督の映画版が公開された。アカデミー賞の主要五部門をすべて獲った。撮影は実際に稼働していたオレゴン州立病院で行われた。キージー本人はこの映画が気に入らず、生涯見なかったと言っている。
この二作品と、一九八二年の映画『フランシス』が、ロボトミーのイメージを決定づけた。すなわち、言うことを聞かない人間を黙らせるための道具である、というイメージだ。
『フランシス』の題材となった女優フランシス・ファーマーについては、正確を期しておきたい。彼女がロボトミーを受けたという証拠は存在しない。本人も家族も否定している。この説を広めたのは一九七八年に出た本で、著者自身がのちに実質的にフィクションだと認めたものである。一九四〇年代に同じ病院で働いていた看護師たちも、映画公開後の取材で否定した。私はロボトミーを受けた患者を全員担当していたが、フランシス・ファーマーがあの病棟に来たことはない、と。
ファーマー自身は一九六八年の録音インタビューで、自分の病棟の女性たちがロボトミーを懇願していたと語っている。悲しみを感じる神経を切ってくれる手術だと聞かされていたから、と。彼女はそのうえで、自分は受けていないと友人たちに語っていた。
ややこしいのは、フリーマンが実際にその病院を訪れていることだ。一九四七年八月十九日に十三人を手術し、一九四九年七月七日にも再訪して他の医師に手技を教えている。そのとき地元紙のカメラマンが撮った写真が、世界で最も有名なロボトミーの写真になった。そしてフリーマンは晩年、息子に、あの写真の女性はフランシス・ファーマーだ、と語ったという話が残っている。裏づけはない。
伝説は、その人を持ち上げているようでいて、実際にはその人を貶めている。ある研究者が書いていたとおり、ファーマーの本当の医療被害はもっと複雑で、その複雑さのほうが語られなくなってしまった。ロボトミーの物語には、こういう盛られた記憶がいくつも混ざっている。
「賞を返せ」という声
一九四九年のノーベル賞は、いまも取り消されていない。
二〇〇〇年代前半、ニューヨーク州の医学図書館司書クリスティン・ジョンソンが、この賞の剥奪を求める運動を始めた。彼女の祖母ビューラー・ジョーンズは一九五三年にロボトミーを受けている。彼女は同じような境遇の家族をつなぐサイトを開き、数十人の遺族とともにノーベル財団に働きかけた。まずは財団の公式サイトに載っているモニス礼賛の記事を撤回してほしい、と求めた。財団は応じなかった。
二〇〇四年、財団はジョンソンに宛てて、賞を撤回しないと通知した。ただし文面には、医学界は今日、重い精神疾患の患者にもっと人道的で効果的な治療を提供できるようになったことを安堵している、という趣旨が添えられていた。
翌二〇〇五年、財団の事務局長ミカエル・ソールマンはこう述べている。撤回する可能性はない、と。医学賞に異議が申し立てられた例は記憶にない、とも。ノーベル財団の規約には授与された賞に対する不服申立ての規定がなく、財団はこの種の批判を無視する方針だという。
医学史家の多くも、実は撤回には反対している。ジャック・エルハイもその一人だ。理由はおおむね同じで、一九四九年の判断を二〇〇五年の知識で裁くことは、歴史から学ぶ道を閉ざしてしまうからだ。あの賞は、当時の医学界の総意に近いものだった。それを一人の悪人の暴走に縮めてしまうと、同じ構造がまた別の名前で起きたときに、誰も気づけなくなる。
一方、被害への償いを制度として行った国もある。ノルウェーである。一九九六年八月二十日、ノルウェー議会は過去にロボトミーを受けたすべての患者に対して、一人あたり十万クローネの補償を行うことを決めた。障害の有無や程度は問わない。すでに受けている障害給付とは別に支払われる。日本ではこの種の金銭的な救済措置は取られていない。
いま脳を切ることは何が違うのか
ここは慎重に書きたい。昔は野蛮で今は科学的だ、という物語は気持ちがいいが、それだけでは足りない。
まず、術式そのものが別物である。フリーマンの手術は文字どおり手探りだった。どこをどれだけ切ったかは術者にも正確には分からない。切除範囲は患者の反応を見て推定する。現代の定位脳手術は、磁気共鳴画像を基に座標を定め、目標とする神経回路の一点に絞って処置する。難治性の強迫症やうつ病に対する前部帯状回切截術や内包前脚切截術は、いまも一部の国では行われている。
さらに大きな転換が、脳深部刺激療法である。脳を壊すのではなく、細い電極を目標部位に留置し、胸に埋めたパルス発生器から電気刺激を送る。効果が出なければ設定を変えられる。困るなら止められる。電極を抜くこともできる。これが決定的な違いだ。可逆的である、ということ。
ただし、忘れてはならないことがある。二〇一四年に国際的な専門家グループがまとめた合意文書は、こう明記している。前部帯状回切截術や内包前脚切截術は一部の国では確立された治療とみなされているが、いまだ最高水準の科学的証拠を欠いている。そして、これまで試みられたいかなる脳の標的、いかなる精神・行動障害についても、脳深部刺激療法は依然として研究段階にある、と。
つまり、いま行われている脳への介入も、白紙の証明書を持っているわけではない。だからこそ、その周りに制度が積み上げられてきた。
制度の起点は一九七〇年代のアメリカにある。一九七三年、ミシガン州の裁判所が下したカイモウィッツ事件の判決が重い。強制的に収容されていた男性に対して、攻撃性を抑える脳手術の研究計画への参加が持ちかけられた。本人も両親も同意していた。それでも裁判所は手術を認めなかった。理由はこうだ。同意能力とは、処置の性質、危険、その他の関連情報を理性的に理解できる能力を指す。しかし十七年以上を精神科病院で過ごし、重要な決定を一つも自分で下してこなかった人間が、収容という状況と施設化の影響のもとで、本当に自由な同意を与えられるのか。裁判所はその答えを否とした。
一九七四年、タスキーギ梅毒研究の暴露を受けて、アメリカに生物医学・行動研究の被験者保護のための国家委員会が設置された。この委員会が一九七七年三月十四日、大統領と議会に提出したのが『精神外科――報告と勧告』である。
意外に思う人もいるだろうが、この報告は精神外科の全面禁止を勧告していない。委員会は全員一致で、精神外科手術が適切に行われうる状況は存在する、と結論した。同時に、厳格な保護の枠組みを求めた。専門家を含む審査委員会による個別審査、脆弱な立場にある患者については裁判所の審査、そして全国的な諮問組織が有効性を認めるまでは施行しないこと。
この報告のなかにある一文が、いまも生きている。強制的に収容されていたり、同意を与えられなかったりするというだけの理由で、潜在的に有益な治療から締め出されるべきではない。それは公正ではない。だが同時に、彼らは強制に弱く、その人自身の利益とは一致しない社会的・施設的な目的のために手術を提案される可能性がある。
この二つの危険は、どちらも本物だ。守りすぎれば必要な人に届かない。緩めれば人が壊される。そのあいだで細かく制度を設計するしかない。表面的な禁止でも解禁でもなく。
なぜ二十年も歓迎されたのか
さて、いちばん難しい問いだ。なぜ、これほどのことが二十年も続いたのか。しかも先進国の主流の医学のなかで、賞賛と権威に守られて。
第一に、代替手段がなかった。ここは本当に重い。一九三〇年代から四〇年代の精神医学は、有効な治療をほとんど何も持っていなかった。持っていたのは、マラリア療法、持続睡眠療法、インスリン・ショック療法、カルジアゾールけいれん療法、電気けいれん療法。どれも荒っぽく、どれも効き方が不安定だった。ある施設長は、薬で誘発した発作で患者の顔が青黒くねじれるのを見るのが恐ろしく、できる限りその部屋から逃げ出そうとしていたと書いている。十九世紀末以来の治療的ニヒリズム、つまり手を出さずに自然経過に委ねるという諦めが精神医学を覆っていたところに、これらの英雄的な治療が現れ、狂気は治せるのかもしれないという楽観を医師たちに与えた。ロボトミーは、その楽観の延長線上に生まれた。
第二に、制度がロボトミーを必要としていた。前に書いたとおりだ。定員の三割増し、五割増しの患者を、規定の半分以下の職員で見ている病院。そこでは静かになることが治療目的とほとんど区別できなくなる。フリーマンが売り込んだのは治療というより、病床回転率だった。ロボトミーは彼らを家に帰す。この標語は、患者のためのものであると同時に、病院経営のためのものでもあった。日本でも同じで、月一万円の措置入院料ではインスリン代にも足りないと現場が嘆いていたところに、この手術が来た。
第三に、評価の物差しが壊れていた。当時の成功は誰が判定していたか。多くの場合、手術をした医師自身と、患者の家族である。しかもその判定基準は、扱いやすくなったかどうかだった。前に紹介した一九六二年の追跡研究を思い出してほしい。六十七パーセントが病院外で生活できるようになった、と書いてある同じ論文に、人格の欠損が九十一パーセントに生じたと書いてある。この二つが同居できてしまう評価体系そのものが、問題だったのだ。
第四に、権威が批判を封じた。ノーベル賞の効果を過小評価してはいけない。批判は最初からあった。ソブラル・シッドが一九三六年に大脳の神話と嘲笑していた。ソビエト連邦の精神科医ワシリー・ギリャロフスキーは早くから批判し、一九五〇年に同国は前頭葉白質切截術を公式に禁止している。人道の原則に反しており、ロボトミーによって精神病患者は完全な白痴へと変えられてしまうだろう、というのが結論だった。スウェーデンのスノーレ・ウォルフハルトは一九四七年から、統合失調症患者への白質切截術は明らかに有害だと報告していた。日本でも越賀一雄が一九五三年に、林暲が一九四九年に、核心をついた批判を書いていた。批判者はずっといたのだ。ただ、彼らの声は賞の重みに勝てなかった。
第五に、これが決定的なのだが、患者の声を聞くという発想がそもそもなかった。手術に同意する主体は、多くの場合、家族だった。ローズマリー・ケネディの手術は父が単独で決め、母にすら事後にしか知らせなかった。ハワード・ダリーは何も知らされないまま病院に連れて行かれた。日本の事例でも、本人が明確に拒絶しているのに母親の署名で手術が行われている。精神疾患のある人には自分のことを決める能力がない、という前提が、社会にも医療にも共有されていた。その前提は、明治以来の優生思想や、私宅監置を家族制度の美点と言ってしまう感覚と、地続きだった。
そして第六に、興行があった。フリーマンという人物は、医学史の偶然として片づけるには影響が大きすぎる。彼は記者を招き、写真を撮らせ、両手同時の実演で医師たちを驚かせ、標語をつくった。医学が広告の論理に接続されたとき、何が起きるか。証拠が積み上がる速度より、物語が広まる速度のほうが速くなる。一九四九年に年間五千件という数字は、有効性の証明が出そろった結果ではない。物語が売れた結果である。
以上を並べると、ロボトミーは悪い医者一人の暴走ではない。絶望と、財政と、壊れた評価軸と、権威と、差別と、宣伝が、たまたま同じ方向を向いたときに起きた事故だ。そのどれか一つでも別方向を向いていたら、四千人近い脳は壊されなかったかもしれない。
罪は技術ではなく、手続きにあった
ここまで書いてきて、どうしても言葉にしておきたいことがいくつか残っている。年表や数字の外側にあるものだ。
まず総括から。ロボトミーの二十年は、医学が間違えた話ではあるが、医学だけが間違えた話ではない。一九四九年のノーベル賞の授賞講演を読み返すと、そこには当時の医学界の到達点が誠実に述べられている。前頭葉を切れば人格が変わる。それは知られている。しかし病気ですでに完全に生活を壊されている人にとって、その変化は相対的に小さな代償ではないか。そういう論理だ。この論理は、それ自体としては筋が通っている。問題は、その代償を誰が計算したのか、である。計算したのは医師と家族と病院と行政であって、代償を払う本人ではなかった。ここに全部が詰まっている。ある人の人生の割引率を、その人以外が決めていいことにした。それがロボトミーの本質的な罪だ。技術ではない。手続きだ。
だから、技術が精密になっただけでは問題は片づかない。磁気共鳴画像を見ながら一点を狙う定位脳手術も、可逆的な脳深部刺激療法も、同じ手続きの穴に落ちうる。誰が適応を決め、誰が同意を与え、誰が失敗を記録するか。この三つが揺らげば、道具が洗練されたぶんだけ被害は静かになるだけだ。実際、二〇一四年の国際合意文書がわざわざ、多職種のチームが必須であること、難治性であることが記録されていること、患者の判断能力と自律を尊重した同意手続きであること、術前だけでなく術後も長期にわたって評価すること、全患者について効果と副作用を報告すること、を並べているのは、過去にそのすべてが欠けていたからにほかならない。あの文書は指針の形をしているが、実質は反省文である。
次に、記録が消えたことについて。日本のロボトミー総数が数千から十二万という桁二つ分の幅でしか語れない、という事実を、私は書きながら何度も反芻した。訴追を恐れた病院が法律の許す範囲でカルテを焼いた。合法である。誰も罰せられない。だが、その結果として、何人が受けたのか、どんな人が受けたのか、その後どう生きたのか、日本社会は永遠に知ることができなくなった。被害の全体像が分からないということは、償いの設計もできないということだ。ノルウェーが一九九六年に一律の補償を決められたのは、誰が受けたかが分かっていたからでもある。記録を残すというのは事務作業ではない。将来誰かに謝る可能性を、閉ざさないでおくということだ。医療記録の保存年限をめぐる議論を、私はこれ以降、少し違う目で見るようになった。
「効いた」という言葉の危うさ
三つ目に、効いたという言葉の危うさ。この歴史のいちばん不気味なところは、多くの当事者が嘘をついていないことだ。アンジェリーン・フォレスターの証言は本物だと思う。母親は死のうとしていて、手術のあとそれが止まった。コインをひっくり返すように、と彼女は言った。キャロル・ノエルの母は頭痛から解放された。当時の日本の家族も、暴れる家族が家にいられるようになったことを心から喜んだ人がいただろう。彼らは嘘をついていない。ただ、彼らが測っていた効いたは、症状の消失であり、扱いやすさであり、家庭の平穏だった。そこに、本人が世界をどう感じているか、という項目は入っていなかった。キャロル・ノエルが四十年後に気づいたのは、母を一度もママと呼んだ記憶がないことだった。その喪失は、どんな評価表にも載らない。載らないものは、なかったことになる。医療の効果測定が誰の物差しで行われているかという問いは、いまも新しい治療のたびに繰り返し立ち上がる。副作用の欄に書かれない副作用こそが、いちばん人生を変える。
四つ目に、静かにする技術は消えていない、ということ。クロルプロマジンを北米に導入した当人が、それを化学的ロボトミーと呼んだ話を前に書いた。これは薬を否定する話ではない。クロルプロマジンは実際に多くの人を救ったし、それがなければ精神医療の今はない。だが、あの薬が普及した最大の理由の一つが、州にとって圧倒的に安かったことだという記録は残っている。入院させ続けるのと、薬を持たせて地域に出すのとで、年間の費用が二十倍近く違ったのだ。人道と財政が同じ方向を向いたとき、私たちはたいてい人道の側の説明だけを覚えている。そして、退院した人を受け止める地域の体制が足りなかったこと、その帰結としてホームレス化と刑務所への収容が増えたことは、ずっと後になってから語られるようになった。手術から薬へ、施設から地域へ。移り変わりの物語には、いつも安くなったという裏面がついている。それを見ないふりをすると、次の安い解決が来たときにまた同じことをやる。
五つ目に、賞をどうするかという問題。私は撤回に賛成でも反対でもない、というのが正直なところだ。クリスティン・ジョンソンの怒りは正当だと思う。祖母は一九五三年に手術された。その四年前に賞が出ていなければ、彼女は手術されなかったかもしれない。その因果の感覚を感情論で片づける気にはとてもなれない。一方で、賞を消せば一九四九年に医学界が何を信じていたかも一緒に消えてしまう、という歴史家たちの懸念も分かる。あの賞は逸脱の記録ではなく、合意の記録だ。合意が間違うことがある、という証拠として残っているほうが、たぶん役に立つ。ただし、それは残しておけば自動的に教訓になるという意味ではない。財団が公式の解説記事を書き換えることすら拒んだのは、私にはやりすぎに思える。残すことと、注釈をつけることは矛盾しない。歴史を消さずに、その横に立って説明し続けるという作業を、権威のある側が引き受けるかどうか。問われているのはそこだ。
六つ目に、日本の終わり方について、もう少しだけ。一九七五年五月十三日の決議は、賛成四百三十七、反対〇という圧倒的なものだった。学会が自らの手で一つの治療法を封印した例として、世界的にも珍しい。誇るべき決断だったと思う。だが、その提案理由の第一義が保安処分制度への反対だったという事実は、複雑な影を落とす。つまりあの決議は、患者個人の被害の検証を積み上げて出された結論というより、当時の大きな政治的対立の一部として出された結論でもあった。だから、決議のあとに残るべきだった作業、つまり全国調査、長期予後の追跡、被害を受けた人への補償、そして何より、手術を受けた人たち自身の証言を集めることは、ほとんど行われないまま終わった。呉秀三が一九一八年にやってみせたような全国実態調査は、精神外科については二度と行われていない。禁じることと、向き合うことは、違う。日本は前者だけを非常に速く、きれいにやってのけた。
患者を主語に戻す
最後に、患者を主語に戻したい。この記事に出てきた人たちの名前を、もう一度並べておく。サリー・エレン・イオネスコ。アリス・フッド・ハマット。ローズマリー・ケネディ。アンナ・ルース・チャネルズ。アニタ・ジョンソン・マギー。ビューラー・ジョーンズ。ヘレン・モーテンセン。ハワード・ダリー。名前が残った人はごく一部だ。四千人近い脳を壊したフリーマン一人を数えても、名前が分かっている人はほんの一握りしかいない。ウェストバージニアの十二日間で手術された二百二十八人のほとんどは、名前も、その後の人生も分からない。日本でカルテが焼かれた何千人か何万人かの人たちに至っては、そもそも数すら分からない。
ハワード・ダリーは、自分の手術中の写真を手に入れた最初の患者になった。それが最初だったという事実が、この話のすべてを言い当てていると思う。四十年以上、誰も自分の写真を見ていなかった。写真は撮られていたのに。撮った側だけが持っていたのだ。
彼は最後にこう言った。僕のロボトミーは、僕の魂には触れなかった、と。それはたぶん、医学的な意味では正確ではない。前頭葉との連絡を断たれた脳は、その人の感じ方を変えてしまう。だが、あの言葉は診断ではない。宣言だ。自分が何者であるかを決める権利を、四十四年かけて取り返した人間の宣言だ。二十年にわたってその権利をまとめて取り上げられた人たちの物語を、最後にどう締めるべきかと考えたとき、私にはこれ以上のものが思いつかなかった。
同意なき治療という言葉は、過去形ではない。いまも世界のどこかで、誰かが自分に何がなされるかを知らされないまま処置を受けている。そのとき決まって使われるのは、この人のためだ、家族が望んでいる、他に方法がない、という三つの言い訳だ。一九三五年のリスボンでも、一九四一年のワシントンでも、一九六〇年のサンノゼでも、一九六四年の東京でも、まったく同じ三つが使われた。次に自分がこの三つを口にしそうになったとき、私はできれば、いったん黙りたいと思う。
