1726年の秋、イングランド南部のちっぽけな町で、ひとりの貧しい女が「ウサギを産んだ」と言い出した。
普通なら村の噂話で終わる。終わらなかった。噂はギルフォードの外科医を動かし、ロンドンの医学界を動かし、最後には国王ジョージ1世の侍医までを引きずり出した。そして三か月後、この国の医者という職業の権威は、まとめて笑いものになった。
これはその話だ。長い。けど途中で止まらないと思う。
毛織物の町がゆっくり死んでいく、その真ん中に彼女はいた
まずメアリー・トフトという人間の輪郭を押さえておきたい。事件そのものより先に、ここを飛ばすと全部が「頭のおかしい女の与太話」に見えてしまうからだ。
彼女はサリー州ゴダルミング、ロンドンから南西へ約50キロの町の生まれ。教区簿冊によれば1703年2月21日に受洗している。父はジョン・デニヤー、母はジェーン。旧姓デニヤー。1720年ごろに毛織物職人のジョシュア・トフトと結婚した。職人といっても親方じゃない。日雇いに近い渡り職人だ。子どもは三人産んでいて、そのうちアンという娘は1723年に生まれてその年のうちに死んでいる。18世紀のイングランドの貧困層としては、悲しいくらい平均的な数字なんだよな。
そのゴダルミングという町が、ちょうどこの時期に沈みかけていた。中世以来ここは毛織物の町だった。ところが18世紀に入ってから産業がじりじり衰えていく。歴史家カレン・ハーヴィーがまとめた数字によれば、当時のゴダルミングでは全世帯のおよそ48パーセントが炉税を免除されていた。炉税免除というのは要するに「取り立てるものが無いほど貧しい」という公的認定だ。町の半分がそこにいた。メアリーと夫ジョシュアも当然そっち側で、ホップ畑での日雇い仕事に出ていた。小さい子を抱えたままだ。
町の統治は「主要住民」と呼ばれるひと握りの層が握っていて、教区の救貧行政も、荘園裁判所も、彼らが仕切っていた。貧しい女の身体と振る舞いは、常に監視され、規律の対象になっていた。誰と寝たか、何人産んだか、私生児を産まなかったか。全部が村の権力の管轄だった。
つまりメアリー・トフトは、自分の身体だけが唯一の資本で、その身体すらも他人に管理されていた側の人間だ。この前提は最後まで効いてくる。
8月の流産、そしてホップ畑で追いかけたウサギ
1726年の8月、メアリーは畑で働いている最中に体調を崩し、流産している。妊娠3か月前後だったらしい。この時点で彼女の子宮はまだ完全には閉じていなかった。ここが後で効く。
そして、これは彼女自身が後になって何度も語る話なんだが――畑仕事の最中にウサギを見た、というエピソードがある。追いかけた。捕まえられなかった。その晩からウサギの夢を見るようになり、ウサギの肉が食べたくてたまらなくなった。でも買えなかった。
この「買えなかった」の部分が生々しい。ハーヴィーが掘り起こした彼女の供述には、自分は「とても貧しく、困窮していて手に入れることができなかった」という趣旨の言葉が出てくる。当時の法体系で言えば、これは野兎を捕まえようとしたという密猟の自白に近い。しかも実際には夫ジョシュアは市場でウサギを買える程度の金は持っていた。つまり彼女は、必要もない嘘の中でわざわざ「貧しくて買えなかった」と言っている。ここに何かがある、というのがハーヴィーの読みだ。後で戻る。
ともあれ、流産のあとも彼女の腹は膨らんだままだった。周囲は「まだお腹に何かいる」と思った。当時の田舎で流産と妊娠継続の区別なんて誰にもつかない。
9月27日、隣の女が見たのは「肝臓のない猫」みたいなものだった
そして9月27日。メアリーが陣痛を起こす。
立ち会ったのは隣人のメアリー・ギルと、義母のアン・トフトだ。アン・トフトは公認ではないが地元で産婆をやっていた女で、自分で12人産んでいる。この界隈で女の出産を仕切る権威は彼女だった。
出てきたものが問題だった。同時代の記述では「肝臓のない猫に似た何か」と表現されている。肉塊。獣。人間の胎児じゃない。
隣人の女は震え上がり、その断片を義母のところへ持っていった。アン・トフトはそれを見て――ここが分かれ道だったんだが――役人でも司祭でもなく、医者に見せることを選んだ。11月の頭、彼女は標本をギルフォードの外科医ジョン・ハワードのもとへ送りつける。
ハワードは30年のキャリアを持つ「マン・ミッドワイフ」、つまり男の産科医だった。当時これは新しい職業だ。出産は何百年も女の領域で、産婆が仕切ってきた。そこへ18世紀に入って男の外科医が「科学的知識を持つ専門家」として割り込んできていた。鉗子を持ち、解剖学を語り、産婆を「無知な老婆」として押しのけていく。ハワードはその新興勢力の一員で、そして新興勢力というのは常に、自分の専門性を証明できる派手な症例を欲しがっている。
最初、ハワードは鼻で笑ったらしい。当たり前だ。だが自分でゴダルミングに出向いて調べてみると、また出てくる。猫の脚。ウサギの脚。ウナギの背骨。彼はメアリーをギルフォードの自分の管理下に移し、そこから「分娩」を次々と取り上げていく。ある日には死んだ子ウサギを9匹取り上げたという記録まで残っている。
この時点でハワードは完全に舵を切っていた。彼はこれを医学史上の大発見だと判断し、ロンドンの一流医師たちと宮廷関係者に手紙を書きまくった。
王室が食いついた日――11月4日から15日にかけて
11月4日、ジョージ1世の宮廷に連なるヘンリー・ダヴナントという人物がハワードの標本を検分している。彼は信じた。そしてロンドンへ「本物らしい」と報告した。
ここから話が国家規模になる。
11月半ば、国王ジョージ1世は二人を現地に派遣する。ひとりはナサニエル・セント・アンドレ。1680年ごろスイス生まれ、若いころはユダヤ人家庭の小姓としてイングランドに渡り、フランス語とドイツ語とダンスとフェンシングを教えて食っていたという変わり種だ。フェンシングの弟子に怪我をさせられ、その治療に来た外科医の羽振りの良さに感心して外科の道に入った、という身も蓋もない経歴を持っている。
ドイツ語ができたことが決定打で、1723年5月、ドイツ語しか満足に話せなかったハノーヴァー出身の国王ジョージ1世の王室付き外科医兼解剖学者に任命された。1726年には国王本人の治療に成功して、礼として国王の佩剣を贈られている。詩人アレグザンダー・ポープの治療もこの年で、二人はその後友人になった。要するに、当時の彼は絶頂にいた。
もうひとりはサミュエル・モリニュー。プリンス・オブ・ウェールズの秘書で、天文学者としても知られた男だ。
二人がギルフォードに着いたのは11月15日。到着から数時間後、メアリーは陣痛を起こした。
セント・アンドレが自分で取り上げたのが「15匹目」ということになっている。彼が後に刊行した記録によれば、それは「生後4か月ほどのウサギの、皮を剥がれた胴体そのもので、心臓と肺を含んでいた」。
「ウサギは卵管の中で育っている」――ここで理性が壊れた
セント・アンドレはその場で肺の一部を切り取り、水に入れた。いわゆる肺浮揚試験だ。胎児が呼吸したかどうかを判定する古典的な方法で、呼吸していれば肺に空気が入っていて浮く。
彼の記述はこうだ。水よりわずかに軽い程度に見えた、モリニューが底へ押し沈めても非常にゆっくりと浮き上がってきた。
つまり、この肺には空気が入っていた。子宮の中の胎児の肺に空気が入っているはずがない。これは「このウサギは外の世界で息をしていた」という決定的な反証だった。目の前に答えが転がっていた。
ところがセント・アンドレは、その事実を否定するのではなく、事実を説明する新理論を発明してしまう。彼の結論は、ウサギはメアリーの卵管の中で育っており、子宮に降りてきたときに彼女に激しい苦悶を与えるのだ、というものだった。卵管なら子宮とは環境が違うから空気があってもおかしくない、という理屈だ。
正気の沙汰じゃない。だが彼は本気だった。しかも記録には「私が最初に彼女を診察してから私が分娩を取り上げるまでの間、私以外の誰も彼女に触れていない」とまで書いている。自分は騙されようがない、という宣言だ。
同じ日にもう一体の胴体が出た。翌晩にはウサギの皮が「丸めて絞ったボールのように」出てきて、さらに毛の付いたウサギの頭が出た。
セント・アンドレはロンドンへ戻り、国王とプリンス・オブ・ウェールズの前でこの件を報告した。
疑った男は、ウサギの直腸の中身を見ていた
国王は念のためもうひとり送っている。シプリアヌス・アーラーズ。同じく王室付きの外科医で、ドイツ系だ。11月20日、日曜日にギルフォードに到着した。
アーラーズは着いた瞬間から嫌な予感がしていたらしい。彼が書き残した観察は徹底的に散文的で、そしてえげつない。
まず、メアリーには妊娠の徴候が何ひとつ無かった。腹囲も乳房も、まったく妊婦のそれではない。次に、彼女は分娩の場面で不自然に膝と腿を強く合わせていた。何かを内側で押さえているような動きだ。そしてハワードは、アーラーズが分娩を手伝おうとすると露骨に妨害した。触らせないのだ。
決定的だったのは標本の検分だった。アーラーズはウサギの断片をロンドンへ持ち帰り、切断面を調べた。人工の刃物で切られた痕がはっきり残っていた。骨の断ち方が刃物のそれだった。さらに彼はウサギの直腸を開いた。中から、干し草と穀粒と藁が出てきた。
子宮の中で育った胎仔が、藁と穀物を食っているわけがない。このウサギは外で餌を食って生きていた個体だ。それも生後数か月まで育っている。
11月21日、アーラーズは国王にこれを報告した。信じていた側に激震が走った。
面白いのはここからのセント・アンドレの動きだ。彼は反論に出る。11月26日、彼はゴダルミングやギルフォードの目撃者たちから宣誓供述書をかき集めてアーラーズの信用を潰しにかかり、さらに国王の御前で解剖学的な実演までやってみせた。自説を守るための総力戦だ。
このとき彼が守っていたのは真実ではなく、自分の署名だった。そこを間違えると、この事件は理解できない。
11月29日、ロンドンの浴場に閉じ込められた十日間
11月27日、セント・アンドレは高名な産科医サー・リチャード・マニンガムを伴ってギルフォードへ行き、メアリーをロンドンへ連れ帰る。マニンガムは1721年にナイトに叙された当代一流の産科医で、チチェスター主教トマス・マニンガムの息子だ。
11月29日、メアリーはレスター・フィールズにあるレイシー浴場の一室に入れられた。「バニョ」と呼ばれるトルコ風呂兼宿で、当時のロンドンでは半分怪しげな場所でもあった。ここで厳重な監視下に置かれる。誰も勝手に近づけない。持ち物も動きも見張られる。
この十日間が地獄だった。
マニンガムは彼女の腹の右側がわずかに膨らんでいるのに気づき、そこから何かを取り出した。豚の膀胱に見えた。尿の匂いがした。彼はこの時点でほぼ確信した。
セント・アンドレの監督下でメアリーは何度も陣痛を起こした。だが、何も出てこなかった。当然だ。もう補給が絶たれていたのだから。
彼女の身体は限界に来ていた。高熱を出し、意識が朦朧としては戻る、を繰り返した。
そして医者たちは、その状態の彼女を繰り返し内診した。マニンガムは自分の日誌に、彼女の「陣痛が来ている最中に」診察すると宣言している。痛みのピークを狙って手を入れるという意味だ。彼女の苦痛については一行も気にしていない。歴史家カレン・ハーヴィーが供述記録を数え上げたところ、36ページの中に「痛み」への言及が71回出てくる。「茶色い紙を引き裂かれるような痛みが夜通し続いた」「耐えられないほど強く押し下げられる感じがした」――彼女はずっと痛いと言い続けていた。誰も聞いていなかった。
12月4日、門番が全部ひっくり返した
崩壊は二方向から同時に来た。
ひとつはサリーから。第2代オンズロー男爵トマス・オンズローが独自に調べていて、ジョシュア・トフトがこの一か月ほどのあいだ、あちこちで若いウサギを買い集めていた事実を掴んだ。オンズローはハンス・スローン卿宛の手紙で、この一件は「ほとんどイングランド中を騒然とさせた」と書いている。
もうひとつはロンドンの現場からだ。同じ12月4日、レイシー浴場の門番だったトマス・ハワードが、治安判事サー・トマス・クラージズに白状した。メアリーの義姉マーガレット・トフトから金をつかまされ、ウサギを一羽こっそりメアリーの部屋に運び込むよう頼まれた、と。
門番が転んだ瞬間、この事件は終わった。
外部からの補給ルートが証言によって断たれた以上、あとはメアリーが認めるかどうかだけだった。
12月7日――「痛みを伴う手術」という名の脅迫
自白は簡単には出なかった。彼女は否定を続けた。
そこでマニンガムは、彼女に対して「きわめて苦痛を伴う外科的処置」を行うと通告した。何をするつもりだったのかは書かれていない。書かれていないのが逆に怖い。
尋問を担当したのは、当時のイングランドで最も尊敬されていた解剖学者のひとり、ジェイムズ・ダグラスだ。彼は最初から一貫して懐疑派だった。「女がウサギを産むというのは、ウサギが人間の子を産むのと同じくらいありそうな話だ」と言い放って、セント・アンドレから何度誘われても距離を取り続けていた男だ。その彼がついに現場に入った。
治安判事クラージズも尋問に加わっている。マニンガムは自分の日誌に、クラージズが彼女を「厳しく脅した」と書き、そのうえで、クラージズこそ「この症例に最もふさわしい医師であり、彼の処方は効果を上げた」と書いた。皮肉のつもりの文章だが、要するに脅迫が効いた、と言っている。
1726年12月7日、メアリー・トフトは折れた。
立ち会ったのはマニンガム、ダグラス、そして第2代モンタギュー公爵ジョン・モンタギューと第6代ボルティモア男爵フレデリック・カルヴァート。貴族が二人。狭い部屋に、多いときは十人近い男が彼女を囲んでいたという。
彼女の供述はこうだ。8月の流産のあと、子宮口がまだ開いていた時期に、共犯者が猫の爪と猫の胴体、そしてウサギの頭を子宮内に押し込んだ。以後の「分娩」については、獣の断片を膣から挿入した。ウサギに驚いて執着したという話は、最初から作り話だった。
12月8日と9日にも追加の供述が取られた。だが、この三通の供述は互いに食い違っている。ある時は見知らぬ旅の女に教わったと言い、ある時は義母アン・トフトの名を出し、ある時はジョン・ハワードを指し、ある時はオルガン弾きの妻を挙げた。そして彼女は、義姉マーガレットについては最後まで関与を否定した。門番の証言と真っ向から矛盾するにもかかわらず、だ。
動機について彼女が漏らしたとされる言葉が残っている。ある旅の女が、身体にウサギを入れる方法を教えてくれた、そうすればお前は「生きているかぎり食うに困らない」だろう、と言った、と。
その一言が、この事件の全部を要約している気がするんだよな。
一次資料を一枚ずつ剥がしていく
ここからは、この事件について「誰が」「いつ」「何を書き残したか」を丁寧に見ていきたい。この事件が今も再構成できるのは、当事者たちが揃いも揃って猛烈に文章を書き残したからだ。しかも全員、自分の弁明のために書いている。だから読み比べると腹の底が透けて見える。
まずナサニエル・セント・アンドレが刊行した40ページほどの小冊子。この事件の一次資料の中で最も有名で、最も間の悪い文書だ。正式には『ギルフォードの外科医ジョン・ハワード氏によって行われたウサギの異常分娩に関する短い報告』という長いタイトルで、刊行日は1726年12月3日。メアリーが自白する4日前である。この4日という数字が、彼の人生を終わらせた。
中身は驚くほど具体的だ。11月5日に最初の報せを受け、11月6日午後4時にハワードから第一の手紙が届き、11月9日に第二の手紙が来た、という日付の刻み方をしている。ハワードの手紙も引用されていて、「4日から6日までにさらに3匹のウサギを取り上げた。最後の一匹は死ぬ前に18時間彼女の腹の中で跳ねていた」といった記述が並ぶ。別の箇所では23時間跳ねていたとも書かれている。子宮の中で数十時間跳ね回るウサギ。それを彼らは真顔で記録していた。
序文で彼はこう宣言している。自分は自分が見て自分が行ったことだけを述べる義務がある、この記述のうち自分が実際に関与した部分以外については責任を負わない、と。既に保険をかけているのが分かる。だが保険はまったく効かなかった。彼は12月9日に自説を撤回した。撤回した瞬間、この小冊子は完全な嘲笑の対象に変わった。
自己弁護の日誌が、いちばん残酷な記録になった
サー・リチャード・マニンガムが出したのは『サリー州ゴダルミングの偽ウサギ産み女メアリー・トフトへの綿密な付き添いの間に観察されたことの精密な日誌、11月28日月曜より12月7日水曜まで。ならびに彼女の詐欺の自白の報告』という、これまた長い題の文書だ。刊行は12月12日。自白のわずか5日後である。
この速さが全てを物語っている。彼は自分が疑っていたことを、記録として世に残す必要に迫られていた。日誌形式にしたのは、日を追うごとに自分の疑念が深まっていく様子を演出できるからだ。豚の膀胱の尿臭の話、彼女の腹の膨らみ方の不自然さ、陣痛の間に何も出てこなかったこと。全部、自分は最初から怪しんでいたという方向に整理されている。
だが同時に、彼はダグラスも騙されていたという書き方をしている。同業者を巻き添えにして自分の位置を上げようとした、と読める。この処世が透けて見えたせいで、彼の名声はかえって傷ついた。弁明が下手というより、弁明そのものが軽蔑された。
そしてこの日誌は、意図せずして最も残酷な記録にもなっている。彼が痛みの最中の内診を宣言した箇所も、クラージズの脅迫が「効いた」と書いた箇所も、全部この日誌にある。自己弁護のつもりで書いた文章が、三百年後には彼らの冷酷さの証拠として読まれている。
シプリアヌス・アーラーズが出したのは『1726年11月20日日曜日、ギルフォードにて行われた、サリー州ゴダルミングの女に関するいくつかの観察――彼女の異常な分娩が詐欺かつ欺瞞であることを証明する目的にて』というタイトルだ。日付が題に入っているのがいい。自分がその日に見た、という一点で勝負している。
この文書の価値は、感情を排して物証だけを並べているところにある。刃物による切断面。直腸内の藁と穀粒。ウサギの発育段階。妊娠徴候の欠如。膝を閉じる不自然な動作。ハワードが自分に触診をさせなかったという事実。彼はそこにセント・アンドレとハワードの共謀の疑いまで書き込んだ。
同時代の反応としては、アーラーズは「外国人のくせに」という反感も浴びている。ジョージ1世のハノーヴァー朝には、王がドイツ語しか話さず、ドイツ人の側近を重用することへの根強い反発があった。皮肉なことに、この事件で唯一まともに機能した頭脳は、そのドイツ系の外科医のものだった。しかも彼は真っ先に疑われた側で、真っ先に真実に届いた。
走り書きのメモに、彼女の声が残っていた
ジェイムズ・ダグラスが残したものは二種類ある。ひとつは公刊された論争文書、もうひとつは彼の手元に残った尋問の草稿だ。
『ソウターキン解剖』は1727年、「真理と学問を愛する者」という筆名で出された。標的は医師ジョン・モーブレイだ。モーブレイは『女性医師』という本で、妊婦が「ソウターキン」という小さな怪物を本来の子より先に産むことがあると書いていた。モーブレイの記述では、その生き物は「小さな悪魔のように」部屋を走り回り、鼠の穴を探して消えるという。ダグラスはこれを「お前の脳内のただの作り話にすぎない」と切って捨てた。皮肉なことに、モーブレイ自身はトフト事件を自説の裏付けだと喜んでいたクチで、そして騙された側に含まれている。
だが本当に価値があるのは、公刊されなかったほうだ。ダグラスは尋問の場で、メアリーの言葉をその場で走り書きしていた。取り消し線があり、中断があり、話が飛ぶ。この乱れたメモは、後から整形された「自白書」より遥かに生々しい。
ハーヴィーが指摘したのは、この草稿の中でメアリーが、尋問者が求めてもいないのに、毎回まず自分の流産の話から語り始めるという事実だ。ウサギの話をする前に、必ず失った子の話をする。誰も聞いていないのに。
そこには、詐欺師の計算とは別の何かが動いている。
最後に、名もない男の証言をひとつ。レイシー浴場の門番トマス・ハワードだ。彼は12月4日、治安判事サー・トマス・クラージズの前で、義姉マーガレット・トフトから賄賂を受け取り、ウサギを一羽メアリーの部屋へ持ち込むよう依頼されたと述べた。
この供述は短い。だが事件の構造を一撃で暴いている。ロンドンの厳重な監視下で「分娩」が続くためには、外から獣が入ってこなければならない。それが分かった瞬間、卵管説も、母体印象説も、全部ただの言葉になった。
一流の解剖学者が数週間かけて到達できなかった真実に、宿の門番が金の受け渡しの記憶ひとつで到達した。この事件で一番痛烈なのは、そこかもしれない。
母体印象説――当時の医学がなぜ「あり得る」と言えたのか
さて、いちばん肝心なところに行く。なぜ当代一流の医者たちが、女がウサギを産むという話を検討可能な仮説として扱えたのか。
鍵は「母体印象説」だ。妊婦の心に強く刻まれた印象が、胎児の身体を物理的に変形させるという理論である。
起源は古い。古代ギリシャまで遡る。アリストテレスもヒポクラテスも妊婦の想像力を論じている。中世を通って生き延び、16世紀から19世紀にかけては、原因不明の先天奇形を説明する主力理論だった。妊娠中に兎を見て驚けば子は兎唇になる。火事を見れば赤い痣ができる。イチゴを欲しがれば苺状の母斑が出る。
これは単なる民間伝承じゃなかった。医学書に載っていた。ジョン・モーブレイは『女性医師』の中で、妊婦がペットと過度に馴れ合うと子どもがその動物に似てしまうと警告している。真面目な警告としてだ。
だからメアリーの作り話――畑でウサギに驚き、ウサギに執着し、ウサギの肉を渇望した――は、当時の医学理論のフォーマットに完璧に嵌まっていた。彼女は、当時の医者が信じたがっている物語をそのまま差し出した。18世紀の最先端理論に対する、恐ろしく精度の高い最適化だった。
そしてこの理論には、もっと深い層がある。文学研究者デニス・トッドが1995年の『怪物を想像する』で論じたのは、18世紀の人々がなぜこれほど母体印象説に囚われたのか、という問題だ。トッドの読みでは、この理論の核心は「想像力が思考と物質の境界を破って肉体に侵入する」という発想にある。それは同時に、自己というものが安定していて一貫していて自律的だ、という近代的な前提を根本から脅かす。もし心が勝手に肉を作り替えるなら、私という存在の輪郭はどこにあるのか。トッドは、ポープやスウィフトが『ダンシアッド』や『ガリヴァー旅行記』で怪物の像を執拗に扱ったのも同じ不安の現れだと見ている。
つまり、あの時代の人間にとって「女がウサギを産む」は生物学の問題であると同時に、自我の輪郭に関する問題だった。だから怖くて、だから面白くて、だから信じたくなった。
この理論に本格的な反撃が始まるのは事件の直後だ。1727年、メアリーの自白から5か月後に、医師ジェイムズ・ブロンデルが『妊婦における想像力の強さの検討』を刊行し、母体印象説を正面から否定した。これがきっかけで長い論争が始まり、19世紀まで続く。理論が完全に死ぬのはメンデル以降、遺伝学が確立してからだ。それでも19世紀末の医学雑誌にはまだ母体印象による奇形の症例報告が載っていたし、20世紀に入っても「エレファント・マン」ことジョゼフ・メリックの症状は、母親が妊娠中に象に驚いたせいだと語られていた。
トフト事件は、この理論を殺した事件ではない。だが、この理論を笑える対象に変えた事件ではあった。
ホガースの一枚が突き刺したもの
事件が転がり出すのと同時に、グラブ・ストリートの三文文士たちが総動員された。パンフレット、風刺詩、ブロードサイド、バラッド。何か月も垂れ流された。
その中で今も残っているのがウィリアム・ホガースの銅版画『Cunicularii, or The Wise Men of Godliman in Consultation』だ。1726年12月の発表。題名の Cunicularii はラテン語の「ウサギ」から作った造語で、Godliman はゴダルミングの当時の口語形。「ゴダルミングの賢者たち、協議中」という皮肉だ。
構図はこうだ。粗末な部屋の寝台の上で、メアリーが仰向けに脚を開いている。周囲を男たちが取り囲み、その一人ひとりに A から G までの符号が振られている。F がメアリー本人。E が夫のジョシュア。A がセント・アンドレ。D がジョン・ハワード。そして部屋の中を小さなウサギたちが走り回っている。床にも、扉のあたりにも、獣がいる。
この絵の毒は、単に医者を馬鹿にしていることじゃない。医者たちが真剣であればあるほど滑稽に見えるように描かれていることだ。彼らは覗き込み、指を差し、議論している。学問の姿勢そのままで、ウサギの走り回る部屋の中にいる。専門性は、対象を間違えた瞬間に道化になる。ホガースはそれを一枚でやった。
トッドの分析では G の位置に義姉マーガレット・トフトがいるとされる。メアリーが最後まで庇い続けた人物だ。ホガースはそこを見抜いて画面に入れていたことになる。
風刺はホガースだけじゃない。彫版師ジョージ・ヴァーチューは1727年に『ギルフォードから来た新手の与太話、あるいは陣痛中の医者たち』を12葉組で出し、セント・アンドレを宮廷道化として描いたブロードシートも出回った。医者が陣痛で苦しむ図、というのは当時の連中には最高に面白かったらしい。
さらにアレクザンダー・ポープとウィリアム・パルトニーが匿名で『発見、あるいはフェレットになった郷士』というバラッドを作っている。書き出しはこうだ。まったく本当のことで、私は敢えて言うが、エヴァの時代からこのかた、最も弱き女がときに、最も賢き男を欺くことがある。
ジョナサン・スウィフトも参戦している。彼は前年に『ガリヴァー旅行記』を出したばかりで、その語り手レミュエル・ガリヴァーの名を借りて『解剖学者解剖』という文書を出した。セント・アンドレへの当てこすりだ。
ロンドンの食卓からはウサギ料理が消えた。シチューもジャッグド・ヘアも出なくなった。ある記述ではロンドンのウサギ消費量が三分の二減ったとまで言われている。事件が人々の胃袋にまで届いていた。
そして海の向こうからはヴォルテールが冷ややかに見ていた。彼は『自然の特異性』の中でこの一件を持ち出し、プロテスタントのイングランド人がいまだに無知な教会に支配されていることの証拠として使った。イングランドは本当に啓蒙された国なのか、という当てこすりだ。イギリス人にとっては一番痛い刺し方だった。
落ちていった男たち
セント・アンドレの人生は、あの12月で折れた。国王からの給与と職務を失い、解剖学者の肩書だけが名目上残った。患者は離れた。宮廷では公然と嘲弄された。
その後の展開がまた悪い。1728年、彼はかつて共にギルフォードへ行った盟友サミュエル・モリニューを治療する。モリニューは1729年4月に死んだ。セント・アンドレはその未亡人エリザベスと駆け落ち同然に結ばれ、1730年に結婚した。モリニューの縁者サミュエル・マッデンが「あれは毒殺だ」と言い出し、セント・アンドレは名誉毀損で訴えて勝訴したが、勝訴と評判の回復は別物だ。エリザベスは王妃キャロラインの女官の座を失った。二人は宮廷から追われるように田舎へ引っ込み、1750年代初頭にサウサンプトンへ移った。
エリザベスの財産があるうちはよかった。彼女が死に、投資に失敗し、火事で財産を失い、最後は救貧院に入った。1776年3月、96歳で死んだ。
そして彼については、こういう話が伝わっている。あの事件以来、死ぬまでの50年間、彼は一度もウサギを口にしなかった。
ジョン・ハワードの結末については資料が割れている。1727年1月7日にメアリーと共に法廷に立ち、800ポンドの罰金を科されたとする記述がある。現在の貨幣価値で日本円に換算すれば、ざっくり二千数百万円という規模だ。一方で、共謀の嫌疑はかけられたが免責された、とする記述もある。どちらにせよ彼はサリーに戻り、そのまま産科医として開業を続け、1755年に死んだ。地元では相応に尊敬されたままだったらしい。ここが妙に生々しい。中央の医学界では笑い者でも、田舎の患者にとっては「あのハワード先生」でしかなかったのだろう。
サー・リチャード・マニンガムは、あの日誌のせいで少し評判を落としたが、致命傷にはならなかった。産科医としての実務能力は本物で、その後もロンドンで活動を続けた。
ジェイムズ・ダグラスは無傷どころか、むしろ評価を上げた。最初から疑い、距離を取り、呼ばれても行かず、最後だけ出てきて全部片付けた。処世術としても完璧だ。
そして医学界全体には、ぬぐえない汚れが残った。事件と何の関係もない医師たちが、次々と「自分は最初から信じていなかった」という声明を発表するという、みっともない事態になった。表明しなければ生き残れないほど、世間の嘲笑が強かったということだ。政治的な論客はこの事件を、貪欲で腐敗して欺瞞的な時代そのものの象徴として使った。
監獄の中で、彼女は見世物になった
1727年1月7日、ウェストミンスターの四季裁判所に出廷。罪状は「複数の怪物的な出産をしたと偽った、忌むべき詐欺師にして詐称者であること」。
彼女はトゥットヒル・フィールズのブライドウェル監獄に送られた。ここで起きたことがまた強烈で、群衆が何か月にもわたって監獄に押し寄せた。彼女を一目見るためだ。牢の中で見世物になっていた。彼女は病んで衰弱し、その姿はジョン・ラゲールという画家によって描かれている。
1727年4月8日、釈放。理由が凄い。結局どの罪状を適用すべきか不明だった、というものだ。当時のイングランド法には「ウサギを産んだと偽る罪」が無かった。政府としてもこれ以上恥をかきたくなかったのだろう、という見方が強い。
彼女はゴダルミングに戻った。1728年2月に娘エリザベスを産んでいる。旧暦表記のため1727年として記録されている。ゴダルミングの教区簿冊には、この子について「彼女が偽のウサギ産みをした後の最初の子」という注記が付いている。役人がわざわざ書き足したのだ。町は忘れていなかった。
1740年、盗品――鶏だったという記述もある――の故買容疑で短期間拘留された。無罪になったらしい。
そして第2代リッチモンド公爵が、彼女を「珍品」として自邸チャーチ・ハウスの客に見せて楽しんだ、という記述が地元の記録に残っている。貴族の余興として、生きた人間が展示されていた。
1763年1月13日、ゴダルミングに埋葬。死亡記事はロンドンの新聞に載った。貴族や政治家の訃報と並んでだ。彼女の名前は最後まで商品価値を持っていた。墓石は見つかっていない。
派生する説を、ひとつずつ
この事件については、いくつも異なる読み方が提出されている。順に見ていく。
まず、最も古典的で最も広く流布しているのが単純な貧困詐欺説だ。流産で腹が膨れたままだった女が、義母や隣人の反応を見て「これは金になる」と気づき、旅の女の入れ知恵に従って計画的に獣を仕込んだ。目的は見世物としての契約金と年金、あるいは王室からの下賜金。「生きているかぎり食うに困らない」という彼女自身の言葉がこの説の中核にある。18世紀の見世物市場を考えれば、動機として完全に筋が通る。実際、当時のロンドンには「異形」で稼ぐ市場が存在していた。この説の弱点は、彼女が被った肉体的損傷の大きさを説明しきれないところだ。子宮口に猫の骨と爪を押し込むリスクは、ちょっと割に合わない。
次に、義母アン・トフト主犯説。供述の中でメアリーが幾度か名前を出したのが義母のアン・トフトだ。彼女は地元の産婆で、女の身体に対する慣習的な権威を持っていた。歴史家カレン・ハーヴィーが強く押しているのがこの線で、要するにメアリーは主犯ではなく、年長の女たちの権力構造の中で、身体を使われた側だという読みだ。数週間にわたって獣の断片を体内に押し込まれ、深刻な外傷を負った。彼女が「触られること」を極度に恐れていた記録がある。そして自分に酷いことをした女たちを、最後まで名指ししきれなかった。嫁が姑を告発できない構造は、18世紀の貧しい家では絶対的だった。この説を採ると、事件の主役は詐欺師ではなく被害者になる。
三つ目が、社会的抗議説。これも同じくハーヴィーが提出した読みで、E・P・トンプソンの『ホイッグと狩人たち』の枠組みを引いている。
1723年に成立したウォルサム・ブラック法は、猟場荒らしを死刑にできる悪名高い法律で、その背景には土地囲い込みと狩猟権をめぐる激しい階級対立があった。ゴダルミングはその紛争地帯のど真ん中にある。そして「ウサギ」は、この文脈で徹底的に政治的な動物だ。領主の特権の象徴であり、貧民が捕まえれば犯罪になる獣だった。
ここで注目されるのが、夫のジョシュア・トフトが1726年7月にジェイムズ・ストリンガーの養魚池への侵入で誓約書を取られている事実だ。メアリーが「ウサギを見た」と主張する時期と「出産」の時期のちょうど間に入る。夫が男たちの集団的な侵入行動に加わっていたその同じ夏、妻は自分の身体からウサギを生み出していた。
ハーヴィーは、1723年にオンズロー卿を狙撃したエドワード・アーノルドが「オンズロー卿と国王ジョージが金を全部持っていったから自分には何も無い」と供述した例を並べて、両者が同じ資源独占への怨嗟を語っていると指摘する。貧しい女が自分でウサギを産んでみせるのは、独占への痛烈な当てこすりになる。この読みは大胆だが、彼女が供述でわざわざ「貧しくて買えなかった」と口にした不自然さを、いちばん自然に説明する。
四つ目が、ジョン・ハワード共犯説。アーラーズが同時代に主張したのがこれだ。ハワードは自分に触診させなかった。ロンドンへの手紙を書きまくった。彼が獣の断片を自分で持ち込んでいた可能性は、当時から真剣に疑われていた。ハワードにとってこの症例は、無名の田舎産科医から医学史に名を残す人物への飛躍のチケットだった。ただし、彼が共犯だったとすると、ロンドンでの監視下でも「出産」が続くと信じていたことになり、それはそれで間抜けすぎる。少なくとも途中から気づいていながら降りられなくなった、と考えるほうが辻褄は合う。
五つ目が、セント・アンドレ黒幕説。ごく一部で語られる、いちばん派手な説だ。国王の寵愛を確実にするため、セント・アンドレ自身が仕込みに関与していたという読み。だが、これは彼が刊行を強行した12月3日という日付を説明できない。本当に共犯なら、自白の秒読みが始まっている時期にあんな自殺行為の小冊子を出すはずがない。事後の調査でも、メアリー本人と独立の調査者の双方が「彼は騙された側だ」と証言している。だから今はほぼ支持されていない。彼の罪は共謀ではなく、自分の署名を守るために事実を捻じ曲げたことだ。
もう少し構造的な読みもある。当時、男の産科医は伝統的な女性産婆から出産の領域を奪い取っている最中だった。「科学的専門知」を掲げる新興職業だ。トフト事件は、その新興職業が最初にやらかした大失敗であり、だからこそ攻撃が集中した。皮肉なのは、この事件で最初に真実に近づいたのがアーラーズ、つまり同じ男性外科医だったことだ。そして最も冷静だったのはダグラスという解剖学者だった。科学が失敗して科学が救ったという、後味の悪い構図になっている。
想像妊娠と混同されがちだが、あれとは全然違う
現代の紹介記事でよく起きる誤解を潰しておきたい。メアリー・トフトの件は「想像妊娠」ではない。
想像妊娠――医学用語では偽妊娠、pseudocyesis――は実在する。妊娠していないのに、本人が妊娠を確信し、そのうえ身体が本当に妊娠の徴候を出してしまう状態だ。月経が止まり、腹が膨らみ、乳房が張り、つわりが出て、胎動を感じ、偽の陣痛まで起こる。ホルモン動態が実際に変化していて、当人は嘘をついていない。発生頻度はおおむね出産2万2千件あたり1件から6件程度とされ、16歳から39歳に多い。妊娠検査が普及する前ははるかに多かった。
これとよく似て非なるものが妄想性妊娠で、そちらは身体症状が無いのに信念だけがある状態だ。さらに別物として、意図的に病気や状態を作り出す虚偽性障害がある。
メアリー・トフトはどれでもない。彼女は自分が何をしているか完全に理解していた。獣の断片を物理的に体内に入れていた。これは意識的な物理的偽装で、偽妊娠とは根本から違う。
ただし、ここに複雑な層が一枚ある。彼女は本当に8月に流産していて、本当に激痛を訴え続けていて、本当に高熱で意識が飛んでいた。彼女の苦痛は演技じゃなかった。獣の断片を子宮口や膣に押し込む行為は、当然のように感染と裂傷を招く。彼女が「茶色い紙を引き裂かれるような痛み」と言ったのは、比喩じゃなくて実況だった可能性が高い。
嘘の中で本当に痛かった。この事件のいちばん厄介な部分はそこだ。
なぜ、あれほど賢い連中が引っかかったのか
理由はひとつじゃない。積み重なった結果だ。
第一に、理論が受け皿を用意していた。母体印象説という「あり得る」枠組みが医学界に存在していた。人間は、既に持っている理論に合致する情報を過大に評価する。彼らは「あり得ないこと」ではなく「理論的に説明できること」を見ていた。
第二に、彼らは自分で確かめる代わりに、他人の権威に乗った。ハワードが保証した。ダヴナントが保証した。国王が関心を持った。この連鎖のどこかで誰かが確かめているはずだ、と全員が思った。誰も確かめていなかった。触診させなかったハワードの妨害に、セント・アンドレは疑問を持たなかった。
第三に、これが最悪なんだが、反証を突きつけられた瞬間に理論を捨てるのではなく、理論を拡張して反証を飲み込んだ。肺が浮いた。空気が入っていた。子宮では説明できない。だから卵管だ、という発想の飛び方。これはもう科学ではなく、信仰の防衛だ。人は結論を守るためなら、いくらでも新しい仮説を作れる。
第四に、身分の非対称。証言者が読み書きのできない貧しい女だという事実が、逆に信用を高めた。この女に医学的な嘘をつくだけの知識があるはずがない、と彼らは考えた。だから逆に無防備になった。専門家は素人の狡猾さを、いつも過小評価する。
第五に、名声の賭け金。セント・アンドレは12月3日に小冊子を出した時点で、退路を断っていた。人は一度公に断言すると、その断言を守るために現実のほうを曲げにいく。彼が11月26日に宣誓供述書をかき集めて回ったのは、真実の探求ではなく防衛戦だった。
そして第六に、単純に検査が甘かった。アーラーズが直腸を開くまで、誰も獣の消化管を見ていない。世界最高峰の解剖学者たちが集まっていながら、標本を真面目に解剖したのは、後から来た一人だけだった。見たいものを見に来た人間は、見るべきものを見ない。
なぜ三百年経ってもこの話は死なないのか
答えは簡単だと思う。この事件が、あまりにも現代的だからだ。
構造だけ抜き出せば、これは完全に現代のニュースだ。地方から出た奇怪な話。専門家が飛びつく。権威が保証する。メディアが増幅する。慎重な少数派が疑問を呈すると、外様だからと軽んじられる。決定的な物証が出ても、支持者は理論を拡張して耐える。そして崩壊は、専門家からではなく、現場の下働きの一言から来る。崩壊後は全員が「自分は最初から怪しいと思っていた」と言い出す。
三百年前の話とは思えない。SNSも査読誌も無い時代に、人間の集団はもうこの形をしていた。
もうひとつ、この話が消えない理由がある。メアリー・トフト本人が、いまだに正体を掴ませないからだ。
彼女は詐欺師なのか、被害者なのか、それとも黙って階級に一発食らわせた人間なのか。三通の供述は互いに矛盾し、彼女は義姉を最後まで庇い、義母については揺れ続けた。読み書きができないから、自分の言葉で書き残したものが一行も無い。残っているのは全部、彼女を尋問した男たちが書き取ったものだ。
近年の作家がこぞって彼女を書きたがるのも、その空白のせいだ。2019年にデクスター・パーマーが『メアリー・トフト、あるいはウサギの女王』を出し、夫に虐げられた女として描いた。2024年にはノエミ・キシュ=デアーキが『メアリーとウサギの夢』で、追い詰められた貧しい女への共感を軸に書いている。
そして彼女は、確かにひとつのことに成功している。国王を、王室侍医を、当代一流の産科医たちを、丸ごと数か月にわたって振り回した。読み書きのできないゴダルミングの日雇い女が、だ。彼女は監獄に入り、見世物にされ、墓石も残らなかった。それでも三百年後、ウサギを産んだ女の名前は残っていて、彼女を診た偉い医者たちの名前は、彼女の付属物としてしか思い出されない。
そこだけは、彼女の勝ちなんじゃないかと思う。
止まる機会は、何度もあった
改めてこの事件を頭から並べ直すと、いちばん薄気味悪いのは、どの段階でも「止まる機会」が何度もあったという事実だ。
9月27日に隣人が最初の肉塊を見た時点で、教区の司祭か治安官が呼ばれていれば終わっていた。11月20日にアーラーズがウサギの直腸から藁を出した時点で、話は終わるはずだった。11月15日にセント・アンドレが肺を水に浮かべた時点で、既に決定的な反証は彼の手の中にあった。
それでも止まらなかった。止まらなかったのは証拠が足りなかったからじゃない。全員が、それぞれ違う理由で、この話が続いてほしかったからだ。
ハワードは名声が欲しかった。セント・アンドレは国王の寵が欲しかった。宮廷は珍奇な見世物が欲しかった。グラブ・ストリートは売れる紙が欲しかった。ロンドンの民衆は笑う対象が欲しかった。そしてメアリー・トフトは、生きていくための金が欲しかった。
全員の欲望が一本の線で繋がったとき、事実は最後まで割り込めなかった。事実が勝ったのは、欲望の線が切れたあと――門番が金を受け取ったと白状して、補給が絶たれたあとだった。真実は自力で勝ったんじゃない。共犯関係が資金繰りに失敗しただけだ。ここが、この事件の最も救いのない部分だと思う。
書ける者だけが、歴史を残す
もうひとつ考え込んでしまうのは、この事件における「記録の非対称」だ。
事件について残っている一次資料は膨大にある。セント・アンドレの12月3日の小冊子。マニンガムの12月12日の日誌。アーラーズの観察記。ダグラスの尋問草稿と1727年の論争文書。ホガースの銅版画。ヴァーチューの12葉組。ポープとパルトニーのバラッド。スウィフトの当てこすり。ミスツ・ウィークリー・ジャーナルの11月19日の第一報。さらに18世紀後半には、シェイクスピア研究者として知られるジョージ・スティーヴンズが、印刷物も手稿もひっくるめて「ゴダルミングの名高きウサギ女メアリー・トフツに関する全文書の完全集成」を編み上げている。
これだけ紙があるのに、そのすべてが彼女以外の人間の手で書かれている。彼女は読み書きができなかった。だから彼女の言葉は、常に誰かの筆を通してしか存在しない。しかもその筆の持ち主は、ほぼ全員が自己弁護の動機を抱えていた。
マニンガムはダグラスを巻き添えにしようとした。セント・アンドレは自分の関与範囲を限定しようとした。アーラーズは自分だけが正しかったと示そうとした。この三者の記述を突き合わせると、同じ日の同じ部屋の出来事が微妙に食い違う。
歴史というのは結局、書ける者だけが残す。書けなかった側の人間は、他人の弁明の中に断片として散らばるだけだ。ハーヴィーがダグラスの走り書きに執着したのは、整形される前の断片にこそ彼女の声が混じっているからだった。取り消し線と中断だらけのメモの中で、彼女は毎回まず流産の話から始める。誰も求めていないのに。あれは自白でも弁解でもなく、たぶん、聞いてほしかった話なんだと思う。
理論の死は、反証ではなく嘲笑から始まる
そして最後に、母体印象説の運命について。
この事件は理論を殺しはしなかった。ブロンデルが1727年に反論を出して論争が始まったが、母体印象説はそのあと150年以上しぶとく生き延びた。19世紀末の医学雑誌にまだ症例が載っていたし、メリックの伝説にも組み込まれた。理論が本当に死ぬのは遺伝学が確立してからだ。
この時間差が示しているのは、ひとつのスキャンダルが理論を殺すわけじゃない、ということだ。人が理論を捨てるのは、恥をかいたときではなく、代わりのもっと良い説明が手に入ったときだけだ。トフト事件が実際にやったのは、母体印象説を殺すことではなく、それを「口にすると笑われるもの」に変えることだった。信じている人間はまだいたが、公然と語れなくなった。理論の死は、反証ではなく、嘲笑によって始まる。これはたぶん、今も変わっていない。
セント・アンドレは96歳まで生きて救貧院で死んだ。50年間ウサギを食わなかった男だ。あの肉を見るたびに、水に浮かんだ肺と、水中でゆっくり浮き上がってきたあの一瞬を思い出していたのだろうか。彼はあの瞬間、間違いなく答えを手にしていた。手にしたまま、それを説明する新しい理屈を組み立ててしまった。人間が一番賢く見えるときと、一番愚かになるときは、たいてい同じ動作をしている。
メアリー・トフトの墓石は見つかっていない。ゴダルミングの土のどこかに彼女はいる。名前だけが三百年、獣と一緒に残った。
