## 一九五三年、ハートフォードの手術室で
まずはこの話の重心から。一九五三年の秋口、アメリカ・コネチカット州ハートフォード。二十七歳の男が、てんかんを治すために手術台に乗った。名前をヘンリー・グスタフ・モレゾンという。他に手がなかったというのは本当だ。薬は効かない、仕事にもつけない、発作は週に何度も来る。手術は、彼の発作を確かに減らした。そして同時に、もっと大きなものを持っていった。以後五十五年間、彼は新しい記憶を一つも作れなくなる。人類史上、もっとも詳しく研究された人間の一人が、この日生まれた。
## 自転車に轢かれた少年
ヘンリーは一九二六年二月二十六日、コネチカット州マンチェスターに生まれた。七歳のとき、避けようのない事故が起きる。外で遊んでいて、自転車に乗った人間にはね飛ばされ、頭を打って五分ほど意識を失った。直後に軽いけいれんも起きている。受傷の年齢については七歳とする資料と九歳とする資料があり、この手の古いカルテは後年しばしば歯切れが悪い。いずれにせよ、この一件がてんかんの引き金になった可能性は高いと見られてきた。ちなみに彼の家系にはてんかんの人が何人かいたとされ、原因は一つとは限らない。
## 発作は年を追うごとに重くなった
十歳ごろから小発作が始まり、十六歳の誕生日を迎えたあたりから全身の大発作が出るようになった。高校の卒業は二十一歳。発作のせいで遅れたのだ。モーターの巻き直しの工場で働いたが、やがてそれも続かなくなる。二十七歳の時点で、彼は当時使えた抗てんかん薬を限界まで飲んでいた。それでも押さえられない。今なら押さえられたかもしれない。だが一九五〇年代のてんかん治療は、現代とは別世界の地平にあった。彼と家族は、行き止まりに立っていた。
## ウィリアム・ビーチャー・スコヴィルという外科医
ここで登場するのが、ウィリアム・ビーチャー・スコヴィルだ。イェールにも籍を置いた脳神経外科医で、ハートフォード病院を拠点にしていた。彼は当時のロボトミー流行の中心人物の一人でもあり、一九七〇年ごろまでに数千件規模の手術を手がけたとされる。後年の視点から見れば悪役にしか見えないが、当時の精神外科は「先端医療」だった。ロボトミーの開発者は一九四九年にノーベル生理学・医学賞を受けている。この時代の空気を抜きにして、ヘンリーの手術は理解できない。
## 「実験的」という言葉の重さ
スコヴィルがヘンリーに提案したのは、両側の内側側頭葉切除という手術だった。これは当時もはっきり「実験的」と位置づけられていた。スコヴィルは精神疾患の患者に同様の手術を行っており、発作を止める目的でこれを適用しようと考えた。この判断を、後に彼の孫にあたるジャーナリストは厳しく批判することになる。患者にとって最もリスキーな選択肢を選んだのは、それが執刀医にとって最も見返りの大きい選択肢だったからだ、と。この告発が妥当かどうかは、この記事の後半でじっくり扱う。
## 内側側頭葉を、両側とも
一九五三年九月一日とされる日、手術は行われた(日付は資料によって十日前後のぶれがある)。取られたのは、両側の海馬の前方三分の二、海馬傍回皮質、嗅内皮質、梨状皮質、そして扁桃体。側頭葉の前外側の皮質にも損傷が及んだ。スコヴィルの手術記録には切除長八センチと書かれていたが、四十四年後のMRI検査では実際は五センチ前後だったことが分かる。吸引を使って組織を吸い取る手法で、切除範囲をミリ単位でコントロールできるような時代ではなかった。
## 発作は減った。そして何かが消えた
手術の目的は達成された、といえないこともない。発作の頻度は大幅に下がった。完全になくなったわけではなく、彼は生涯抗てんかん薬を飲み続けることになる。しかし術後、病棟のスタッフは奇妙なことに気づきはじめる。彼は今日の朝食を思い出せない。病院の廊下のどこにトイレがあるのか覚えられない。直前に会った医師の顔を覚えられない。しかも本人は、自分の名前も子供時代のことも、すらすら話せる。このアンバランスが、彼を神経科学の中心に押し上げる。
## 一九五七年、二人の名前で世界が変わった
一九五七年、スコヴィルとブレンダ・ミルナーの連名で、ジャーナル・オブ・ニューロロジー、ニューロサージェリー・アンド・サイキアトリー誌の第二〇巻に一本の論文が載った。題は「両側海馬損傷による最近の記憶の喪失」。ここでヘンリーはイニシャルだけの「H.M.」として登場する。以後十二ページ足らずのこの論文は、神経科学でもっとも引用される論文の一つになる。記憶という機能が、脳の特定の場所に依存しているという直接の証拠。これが人間で確認されたのは、このときが初めてだった。
## ブレンダ・ミルナーがモントリオールから来た
ミルナーはモントリオール神経学研究所の神経心理学者で、スコヴィルに呼ばれてハートフォードへヘンリーを見に来た。彼女は自転車で、というわけではなく列車で往復しながら検査を続けた。この人がすごいのは、「覚えられない」を一括りにせず、どの種類の覚えられなさなのかを分解していったところだ。ヘンリーは会話ができる。語彙も文法も無傷。子供時代の思い出は豊かだ。なのに今さっきのことだけが残らない。この奇妙なパターンを、彼女は何十年もかけて地図にしていった。
## 三十秒の器
ヘンリーの短期記憶は、実は壊れていなかった。数字を読み上げて復唱させるテストなら、健常者並みの成績を出す。口の中で復唱し続けている限り、情報は保てる。だが注意が逸れた瞬間、全部消える。保持時間はおおむね十五秒から三十秒。コップに底がないのではない。コップはある。ただ、そのコップから別の容器に移し替える機能がない。注いだ分だけしか入らないし、手を離せばこぼれる。この区別が、短期記憶と長期記憶は別システムだという現代の常識の出発点になった。
## 知能はまったく落ちていなかった
ここも重要だ。ヘンリーの知能指数は術後も正常範囲で、むしろ発作が減ったぶんわずかに上がったとさえ言われる。言葉を扱う能力も、理屈を追う力も、ユーモアのセンスも無傷だった。これが彼の症例を異様にクリアなものにしている。全般的な能力低下の中に記憶障害が埋もれているのではなく、記憶の、しかも新しいエピソードを固定する部分だけが、外科的に取り除かれている。自然にはほぼ発生しない、残酷なほど純粋な条件がここにできてしまった。
## 手術前の記憶はどこまで消えたのか
逆行性健忘、つまり手術より前の記憶の消失については、体系的なグラデーションがあった。手術直前の一、二年はほぼ丸ごと消えている。さらに遡るとだんだん残りがよくなるが、一部の影響は十一年前まで及んでいたとする報告もある。子供時代の思い出はしっかり残っていた。彼は地元の山道をハイキングした話を、何度でも、楽しそうにした。このパターンは、古い記憶ほど海馬から独立していくという「記憶の固定化」の考え方の基礎になった。
## 星形をなぞる、鏡越しに
さて、この話でいちばん有名な実験だ。ミルナーはヘンリーに、二重の星形の間をなぞる課題を与えた。ただし手も紙も直接は見えない。鏡に映った像だけを見て描く。やってみると分かるが、これは最初、笑ってしまうほどできない。手が意図と逆に動くからだ。一日目の一回目、ヘンリーは三十回近く線からはみ出した。二回目は二十回、三回目は十二回。十回目には五、六回まで減った。普通の学習曲線だ。
## 「思ったより簡単でしたね」
ところが二日目、ミルナーが同じ課題を持って入っていくと、ヘンリーは初めて見る顔をする。こんなテストをやった記憶は一切ない。なのに、描かせると、前日の続きから始まるのだ。三日目はさらに上手い。そしてあるとき、ヘンリーは描き終わってからこう言った。これは思ったより簡単だった、と。本人は「初めてやったのに、なぜかできた」と思っている。手だけが覚えている。この場面を想像すると、毎回少し背筋が寒くなる。
## 記憶は一つじゃなかった
この一件が意味していたのは、記憶というのは単一の能力ではない、ということだ。「何があったか」を覚えるシステムと、「どうやるか」を覚えるシステムは、別の回路で動いている。前者を宣言的記憶、後者を手続き記憶と呼ぶ。自転車の乗り方や楽器の指使いは後者だ。海馬を失ったヘンリーは、前者を失って後者を保った。人間の中に、本人がアクセスできない学習の層がある。この発見は、心理学だけでなくリハビリや教育の現場を一新させた。
## 毎回、初対面だった
実験を離れて、日常の話をしよう。ヘンリーを何十年も見続けた研究者たちは、全員が同じことを言う。部屋に入るたびに、初対面だったと。前回のセッションの話をしても伝わらない。二十年付き合っても、彼にとってはドアをノックした知らない人だ。それでも彼はいつも愛想よく応じた。知らない人間が入ってきて、変なパズルをやれと言う。それを、何十年も、毎回初めてのこととして、怖がらずに引き受けてきた。
## ミルナーの証言——会い続けて、一度も覚えられなかった
ミルナーは後年、何度もこの体験を語っている。彼女の言い方はおよそ一貫していて、自分が部屋に入るたびに、二人は一度も会ったことがないことになっていた、というものだ。これを五十年近く続けた。研究者としては黄金の症例であり、人間としてはこれほど奇妙な付き合いはない。彼女はヘンリーを非常に穏やかで平衡の取れた人物として描いており、彼がどれだけ協力的だったかを繰り返し強調してきた。何十年も実験に付き合ってくれた人間に、感謝を伝える手段がない。彼はすぐに忘れてしまうからだ。
## スザンヌ・コーキンの半世紀
ミルナーのあと、ヘンリーの研究を引き継いだのがスザンヌ・コーキンだ。彼女はMITの神経科学者で、一九五〇年代末にヘンリーと出会ってから二〇〇八年の彼の死まで、半世紀にわたって主導的な研究者であり続けた。同時に彼の重要な理解者でもあった。二〇一三年に出した著書『Permanent Present Tense』は、神経科学の記録でありながら、ささやかな伝記でもある。この二重性が後に大きな論争を呼ぶことになるのだが、それはもう少し先の話だ。
## 「自分と言い争いをしているんです」
コーキンが伝えるヘンリーの口癖の中で、実験室のメンバーの間で一番有名になったのがこれだ。テスト中、答えに迷ったとき、彼は「自分と言い争いをしているんだ」と言った。面白い表現だが、よく考えると恐ろしくもある。彼の頭の中では、何かを思い出そうとする自分と、思い出せない自分が、ずっとせめぎ合っていた。コーキンはまた、彼が自分の頭をコンコンと叩いて「木に触っておこう」と冗談を飛ばしたことも記している。自分の状態をめぐるジョークだ。
## 「僕について分かったことが、誰かの役に立つ」
ヘンリーは、自分にてんかんがあること、脳の手術を受けたこと、物覚えが悪いことを、だいたいは把握していた。そしてテストに協力する理由を聞かれると、彼らが自分について見つけたことが、他の人を助けるのに役立つのだと答えた。この台詞は重い。彼は自分が世界中の教科書に載っていることを知らない。教えられても、数分後には消える。彼の利他は、評価も記憶も伴わない利他だった。それを五十五年続けた。
## 夢から覚めるみたいなもので
一九六八年、ミルナー、コーキン、ハンス=ルーカス・トイバーの三人がニューロサイコロジア誌に発表した十四年追跡論文に、ヘンリー自身の言葉が引いてある。今この瞬間はすべてはっきりしている、だがその直前に何があったのか、それが心配なのだ、夢から覚めるようなもので、思い出せない、という意味の語りだ。自分が何か失礼なことをしてしまったのではないかと気にしてもいる。この一節は、神経心理学の論文に載った文章の中でも異例の重さを持っている。
## 毎日が、それぞれ孤立している
もう一つ、彼の状態を表すとして繰り返し引用されるのが、毎日がそれ自体で孤立している、という表現だ。昨日がない。明日もない。あるのは、今この部屋と、一九五三年より前の世界だけ。この二つの間に、橋がかからない。レトロスペクティブな人生というのは、過去を並べて現在を意味づける作業のことだ。その作業台が、彼にはない。彼は幸せそうに見えた、と多くの研究者が記している。だがそれを幸福と呼んでいいのかは、別の問いだ。
## 鏡の中に、知らない老人がいる
ヘンリーの日常で、もっとも胸に刺さる場面の一つが鏡だ。彼の自己イメージは二十代のまま止まっている。だから鏡を見ると、知らない中年の、やがて知らない老人の顔がこちらを見ていることになる。もっとも、彼はこのギャップにめちゃくちゃには取り乱さなかったとも伝えられる。矛盾に気づいても、その矛盾を覚えていられないからだ。悩みは累積しない。これを救いと見るか、最も深い損失と見るかで、この話の味は変わる。
## 自分の年齢を、毎回推測した
年齢を聞かれると、ヘンリーは毎回考え込んだ。覚えていないのだから、推理するしかない。自分の手を見る、顔を想像する、周囲の様子を見る。そして推定値を口にする。多くの場合、実際の年齢より若い数字を言ったとされる。これは単なる逸話ではなく、自己認識がどこまでエピソード記憶に依存しているかを見る実験になっている。自分が何歳かを知っているというのは、実は「自分が毎年年を取ってきたという物語を覚えている」ということなのだ。
## 届くたびに新しい訃報
この症例の話をしていて、聞いた人が必ず黙るのがこのポイントだ。ヘンリーの両親は、彼より先に亡くなった。だが彼はその事実を定着させられない。規則的に、というわけではないにせよ、周囲は彼の問いに応じて何度も同じことを伝えなければならない場面があったとされる。ただしここは慎重に書きたい。ネット上では「毎日母の死を知らされて毎日泣いた」という形で拡張されて拡散しているが、そのレベルの描写を裏づける一次資料は乏しい。神話化はこちらでも起きている。
## クロスワードパズルをやっていた男
晩年のヘンリーの日課の一つが、クロスワードパズルだった。これが実に面白い。一九五三年以前の知識を問うカギには、彼は答えられた。単語や事実の知識、つまり意味記憶の土台は手術前にしっかり固まっていたからだ。逆に一九五四年以降の人名や出来事は、どうやっても埋まらない。同じパズルのマス目の中に、埋められる場所と永遠に空白のままの場所が共存している。彼の脳の断面図が、新聞のパズル欄にさりげなく現れていたことになる。
## 施設の見取り図は描けた
もう一つ、研究者を驚かせた例外がある。ヘンリーは、自分が何年も暮らした建物の間取りを、かなり正確に描いてみせたのだ。引っ越したのは手術のずっとあとだから、本来なら覚えられないはずの情報である。これは空間の学習が、エピソード記憶とは別の経路でも少しずつ蓄積され得ることを示唆している。つまり彼の中でも、ゼロではなかった。浮き上がらないだけで、何かは残っていた。
## 一九八〇年、ウィンザーロックスの施設へ
一九八〇年、ヘンリーはコネチカット州ウィンザーロックスのケア施設に入った。以後二十八年間、ここが彼の家になる。スタッフは彼をとても可愛がったという。穏やかで、上品で、文句を言わない。テレビを見、パズルをやり、連れてこられてテストを受け、また戻る。その繰り返しだ。彼自身は「繰り返している」という感覚を持てない。施設の廊下を歩く彼にとって、それはいつも初めての午前だった。
## 一九九七年、MRIが見せた本当の切除範囲
一九九七年、コーキンらは高解像度MRIでヘンリーの脳を撮った。結果は、四十年以上信じられてきた前提を揺るがした。スコヴィルの手術記録よりも切除範囲は狭く、海馬の後方は相当残っていた。だが嗅内皮質と海馬前方は確実に失われていた。この所見は、「海馬を取ったから健忘になった」という単純な因果をかなり複雑にした。効いていたのは海馬単体じゃない。そこへ情報を送り込む周辺皮質まで含めた回路全体だったんじゃないか。そういう議論に火がついた。
## 二〇〇八年十二月二日
ヘンリー・モレゾンは二〇〇八年十二月二日、ウィンザーロックスで死去した。享年八十二。この日まで、彼の本名は公にされていなかった。世界中の学生が彼の症例を学んでいたが、名前はアルファベット二文字だった。死の翌日、ニューヨーク・タイムズ紙に掲載された訃報によって、はじめて「ヘンリー・グスタフ・モレゾン」というフルネームが世に出た。彼は自分が有名になるのを知ることなく有名になり、知ることなく名前を取り戻した。
## 遺体はその夜のうちにボストンへ
ここからの段取りは、事前に周到に準備されていた。ヘンリーの脳は、死後できるだけ早くMRIを撮る必要があった。神経解剖学者のヤコポ・アンネーゼは、訃報を聞いてすぐにボストンへ飛んだ。遺体から取り出された脳は固定処理され、やがてカリフォルニア大学サンディエゴ校にあるアンネーゼのラボ、ブレイン・オブザーバトリーへ送られた。一年かけて準備が進められる。一度しかできない作業だからだ。
## 五十三時間の生中継
そして二〇〇九年十二月、作業が始まった。凍結させた脳を、ミクロトームでかんなくずのように削りながら、一枚一枚撮影していく。連続作業は五十三時間に及んだ。しかもアンネーゼはこれをインターネットで生中継した。四十万人以上が、少なくとも一部を見たとされる。神経科学史上最も有名な脳が、リアルタイムで薄切りにされていくのを、世界中が見ていた。この光景をどう受け取るかで、当時のネットは二分された。
## 二四〇一枚
最終的に得られた切片は二四〇一枚。一枚の厚さは七十ミクロンで、髪の毛より薄い。うち二枚が損傷し、十六枚に問題が出た可能性があると報告されている。二千枚以上のうちの十八枚である。人間の脳を全脳一連で切り、デジタルで三次元再構成したのはこれが初めてだった。アンネーゼは後に、サンプルを収集しながら七十ミクロンずつ削っていったのだと述べている。この作業の緊張感は、想像を絶する。
## ポストイットでツイートする解剖学者
この生中継の逸話がものすごくいい。手が濡れていてキーボードを叩けないアンネーゼは、ウェブカメラの前にポストイットを掲げて視聴者とやり取りした。見ていた人間はこれを「アナログ・ツイート」と呼んで面白がった。一方で、木曜の夜は相当に厳しかったらしい。アンネーゼはのちにそれを「最も長い夜」と呼んでいる。タイムラインで応援を送り続けたフォロワーたちが、作業を支えたという。
## 二〇一四年、海馬は半分残っていた
二〇一四年一月、ネイチャー・コミュニケーションズ誌に結果が出た。デジタルアトラスは無償で公開された。中身は驚きの連続だった。まず、一九五三年の手術で取られたと思われていた海馬組織の、およそ半分が生き残っていた。半世紀以上、世界中の教科書が「海馬を両側取られた男」と書いてきたのに、実物を見たら半分あった。神経科学の基礎石の一つが、死後六年で微妙に置き直された瞬間だった。
## 想定外の前頭葉の傷
もう一つの発見は、もっと厄介だった。内側側頭葉とは別の、前頭野に、誰も知らなかった病変が見つかったのだ。これが問題になるのは、H.M.の症例の価値が「内側側頭葉だけがやられた純粋なケース」という前提に乗っていたからだ。他にも傷があったなら、五十年分の解釈に注釈が必要になる。この発見をめぐって、後に大きな論争が起きる。そこから先は、科学の話というより人間の話になる。
## ルーク・ディットリッチという孫
二〇一六年八月七日、ニューヨーク・タイムズ・マガジンに一本の記事が載った。筆者はルーク・ディットリッチ。ジャーナリストであり、しかもヘンリーを手術したウィリアム・スコヴィルの孫である。記事は同年の著書『Patient H.M.: A Story of Memory, Madness, and Family Secrets』の抜粋だった。内容は衝撃的だった。研究者側の記録破棄、同意手続きの破綻、後見人選任の不透明さ、そして自分の祖父の行ってきたことへの告発。四百ページ超の重い本だ。
## 三十秒しか覚えていられない男が、同意書に署名していた
告発の中で、もっとも重いのはここだと思う。一九八〇年代以降、ヘンリーは研究参加の同意書に自分でサインしていたとされる。だが、三十秒前のことを覚えていられない人間に、「内容を十分に理解したうえで同意し、いつでも撤回できる」というインフォームド・コンセントの前提が成り立つのか。撤回するには、まず自分が参加していることを覚えていなければならない。この問いは、死後もクリアには答えられていない。
## 後見人は何者だったのか
ヘンリーの後見人には、トマス・ムーニーという人物が裁判所から選任されていた。ヘンリーがかつて下宿していた家の大家の息子だったとされる。ディットリッチは、ムーニーの関与は同意書に判を押すことと脳の寄付を取り付けることにほぼ限られていたと指摘した。さらに、当時ヘンリーには存命の血縁者がいたことも調べ上げた。コーキン自身は著書で、彼の医療を見守り、信頼できる思いやりのある後見人を見つけたと書いている。この一文の解釈をめぐって、両陣営は完全に割れた。
## 「ほとんど捨てました、シュレッダーにかけました」
もっとも炎上したのが、記録破棄の疑惑だった。ディットリッチは、コーキンへのインタビュー録音の中で、彼女が資料について「ほとんどはなくなった、ゴミ箱にある、シュレッダーにかけられた」と述べたと書いた。さらに、前頭葉の病変の発見を、既存の記憶研究を揺るがすことを恐れて押さえようとしたと主張した。この二点は、神経科学コミュニティにとって看過できない重さを持っていた。
## MITの反論と、二百人の署名
反論は即座だった。MITの脳・認知科学科のジェームズ・ディカルロ科長は、記録は破棄されていない、それどころかコーキン教授は最期の日々にすべての記録を整理し保存しようと動いていたと声明した。神経科学者のジョン・ガブリエリは、シュレッダーにかけられたものも破棄されたものも何もない、ここにはそのファイルでいっぱいの部屋が丸ごとある、と反論した。二百人を超える神経科学者が、コーキンを擁護する公開書簡に署名した。
## どちらも間違っていて、どちらも正しい
この騒動を丁寧に検証した報道もある。二〇一六年十月に公開された検証記事は、両方を切った。コーキンの発言は録音に残っているが、彼女は死の直前まで資料を整理しており、調査ではファイルは揃っているように見えた。前頭葉病変の件も、アンネーゼがコーキンに知らせずに単独発表しようとし、彼女が匿名査読者として却下したという経緯があり、最終的には共著として公表されている。一方で、四百ページ超の告発本に出典注がないことは、検証記者からも皮肉をこめて指摘された。
## 彼自身の言い分は、永遠に聞けない
この論争の最大の問題は、当事者本人に意見を聞けないことだ。しかもこのケースの場合、生前でさえ聞けなかった。彼は自分が何十年も研究対象であることを、継続した事実として把握できなかった。不満を蓄積することも、交渉することも、辞めることもできない。取材したジャーナリストも、擁護した研究者たちも、彼の代弁を名乗っているだけだ。この非対称さは、この話全体にひんやり張り付いている。
## 記憶研究はこの人の上に建っている
倫理の話をしたあとでも、これは言っておかなければならない。現代の記憶研究の骨格のかなりの部分は、ヘンリーのデータの上に乗っている。短期記憶と長期記憶の分離、宣言的記憶と手続き記憶の分離、記憶の固定化、内側側頭葉の役割。アルツハイマー病の早期診断で嗅内皮質や海馬の萎縮を見るのも、この系譜の先にある。彼は引用に残らない形で、世界中の病院の検査室に居続けている。なおここは医学史の話であって、自分や家族の物忘れが気になる場合は、ネットではなく医療機関へ相談するのが正解だ。
## ネットでの広がり方と、『メメント』
一般向けにこの症例が一気に広まったのは、二〇〇〇年の映画『メメント』以降だとよく言われる。クリストファー・ノーラン監督のあの作品の主人公は、新しい記憶を作れない。神経心理学側からも、この描写がH.M.の症例に近いという分析が出されている。以後、ネットの考察界隈ではH.M.は定番ネタになった。ただし広まり方はいびつで、「毎朝治ったと思っていた」「毎日プロポーズした」の類の、原典にないエピソードがやたらと増殖している。
## なぜこの話はこんなに怖いのか
この話の怖さは、フィニアス・ゲージ型とは転倒の方向が違う。ゲージは「中身が入れ替わる」怖さだった。H.M.は「中身はそのままなのに、先へ進めない」怖さだ。彼は優しいままだし、頭も良いし、ユーモアもある。人格はちゃんとある。なのに、その人格の上に何も積み上がらない。人間というのは、自分の過去を積み上げて自分になっていく。その積み上げる機能を抹消されたとき、人はまだ自分でいられるのか。この問いは、考えると本当に底が抜ける。
## なぜH.M.は語り継がれたのか
ヘンリーの話が強いのは、残酷さだけではなく優しさが混ざっているからだ。彼は自分を失ったが、人の良さは失わなかった。何十年も、知らない人間に優しく応じ、何の見返りも覚えていられないまま、他人の役に立ちたいと口にした。神経科学の論文には数字しか残らないが、彼に会った人間は全員、彼を好きになって帰っていった。だからこの話は、単なる奇病奇談にならない。人間をどこまで削っても残るものがあるらしい、という実例になっている。
## で、結局この五十五年は何だったのか
さて、ここまでの話を引いて眺めてみると、患者H.M.のケースは三つの層でできていることが分かる。一層目は科学の層だ。一九五七年のスコヴィルとミルナーの論文以降、人間の記憶が単一の能力ではなく複数の独立したシステムの集合体であるということが、彼一人のデータから次々に引き出された。短期と長期。宣言的と手続き的。エピソードと意味。そして固定化という時間軸の概念。これらは今や入門書の標準装備だが、一九五〇年代にはどれも存在しなかった。一人の人間の不幸から、これだけの地図が描かれた例は他に思いつかない。
二層目は倫理の層だ。こちらは、見れば見るほど居心地が悪い。一九五三年の手術そのものが、現代の基準ではとても通らない。両側の内側側頭葉を取ると何が起きるのか、誰も確かなことを知らないまま、二十七歳の男の脳に適用された。発作は確かに減った。だが彼は、以後五十五年にわたって、自分の人生を自分で編集する権利を失った。さらに、一九八〇年代以降の同意の取り方にも問題が指摘されている。三十秒前を覚えていられない人のサインは、法的には形式を整えていても、中身は何を保証しているのか。後見人という仕組みは、本人の利益をどこまで代弁できるのか。この問いは、現代の認知症医療や高齢者研究にそのまま地続きだ。一九五三年のハートフォードだけの話ではない。
三層目は、物語の層だ。二〇一六年の論争は、結局のところ「誰がH.M.の物語を語る権利を持つのか」をめぐる争いだった。コーキンは五十年付き合った研究者であり、同時に彼の生活を見守ってきた人間でもある。ディットリッチは執刀医の孫であり、家族の暗部を掘る動機を持っていた。どちらも中立ではない。そしてどちらの語りも、ヘンリー自身の確認を取れない。この構図は、この記事を書いている自分も含めて、誰も抜けられない。彼について何かを語る行為は、必ず彼の不在の上に成り立っている。だからせめて、両論を並べておくことが最低限の誠実さになる。
個人的に一番長く考えさせられたのは、二〇一四年の三次元再構成の結果だ。海馬が半分残っていた、というのは、学問にとっても奇妙なやられ方だ。半世紀以上、世界中の教室で「海馬を両側取られた男」と説明されてきた存在の、実際の切除範囲が、本人の死後になってやっと確定した。しかも前頭野にも想定外の病変があった。これは、自分たちの知識の土台がどれほど推定と仮定でできているかを突きつけてくる。ちなみに同じことがフィニアス・ゲージのケースでも起きている。二〇〇四年のCT研究で、損傷範囲の定説が書き換えられた。神経科学の二大アイコンの両方で、十年単位で信じられていた事実が修正されている。これをどう受け取るかは人次第だが、自分は、科学が自分の間違いを後から拾える仕組みを持っていることのほうに希望を見る。
そして、五十三時間の生中継の話をもう一度したい。あの方法は、当時も今も賛否両論だ。救いがあるとすれば、ヘンリー本人が生前、自分の脳を研究に役立てたいと意思表示していたとされることだ。彼の一貫した口癖は、自分について分かったことが他の誰かを助ける、というものだった。本人がそれを覚えていられなかったとしても、この意向は何十年にもわたって安定していた。彼の人格は、新しい記憶がなくても一貫していた。この事実自体が、自己とは何かという問いへの、一つの控えめな答えになっていると思う。内面に蓄えられなくても、人は一つの向きを持ちうる。
最後に、なぜ自分がこの話を何度も調べ直してしまうのかを書いておきたい。ヘンリー・モレゾンの人生は、我々が普段何を当たり前にしているかを残酷なほどはっきり見せてくる。今日の朝ご飯を覚えている。昨日の口論を覚えている。一週間前に初めて会った人の顔を覚えている。この地味な機能が、我々の「自分」の土台を毎日打ち直している。その工事を知らないうちにやってくれているのが、側頭葉の奥にある数センチの組織だ、というのは、何度聞いても不思議な話だ。そしてこの地味な工事の存在を、人類がはっきり知ったのは、ある一人の男がそれを失ったからだ。だから自分は、H.M.というイニシャルではなく、できるだけヘンリー・モレゾンという名前で呼びたいと思っている。彼は実験条件ではなく、一九二六年にコネチカットで生まれて、クロスワードパズルが好きで、よく冗談を言う、一人の男だった。
一九五三年で時間が止まった男——患者H.M.、ヘンリー・モレゾンが五十五年かけて教えた「記憶とは何か」と、その脳が二四〇一枚になるまで
