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頭を鉄の棒が貫いたのに、歩いて医者に会いに行った男——フィニアス・ゲージ、一八四八年九月十三日午後四時半から「もはやゲージではない」が神話になるまで

## 一八四八年九月十三日、午後四時半の岩場
まずは場面から入ろう。バーモント州キャベンディッシュのすぐ近く、ラトランド&バーリントン鉄道の建設現場だ。秋の夕方、日が傾きはじめる時間帯。岩を砕くために穴を掘り、そこへ火薬を詰め、砂をかぶせて、鉄の棒でぎゅうぎゅう突き固める。この日その作業をしていたのが、二十五歳の現場主任フィニアス・P・ゲージだった。雇い主からは「もっとも有能で効率のいいフォアマン」と評価されていた男だ。この一日を境に、彼の名前は医学史の中で百七十年以上生き残ることになる。本人はもちろん、そんなことは一ミリも想像していない。
## 突き固め棒という、地味だが物騒な道具
事故の主役になった道具の説明をしておきたい。よく「バール」とか「クロウバー」と訳されるが、正確には違う。ゲージが使っていたのは彼専用に鍛冶屋へ注文した突き固め棒で、長さ三フィート七インチ、つまり約一・一メートル。太いほうの直径は一・二五インチ、約三・二センチ。重さは十三・二五ポンド、ちょうど六キロほどある。片側は先端に向かって細く尖っていて、その尖った部分だけで三十センチ近い。要するに、握りやすい太さの鉄の槍だ。これが火薬の上に置かれていた。あとは火花が一つあればいい。
## 左の頬から入って、頭のてっぺんから出た
何が起きたのか。ゲージは背後の作業員に気を取られ、右肩越しに振り返った。その姿勢のせいで、彼の頭は穴の真上に来た棒の延長線上にきれいに乗ってしまう。火薬が発火する。棒は下から突き上がり、左の頬骨のすぐ下、顎の付け根の少し前から入った。そこから左の眼球の裏を抜け、左前頭葉を貫き、頭頂のやや左寄りから飛び出した。所要時間はコンマ何秒だろう。人体を貫通した棒は、そのまま空へ抜けていった。
## 二十四メートル先に落ちていた
棒は現場から約八十フィート、二十四メートルほど離れた地面に落ちていたと記録されている。資料によっては二十五から三十ヤードという書き方もあるが、要するに野球のマウンドからホームまでよりずっと遠い距離だ。そして落ちていた棒は「血と脳で汚れていた」と書かれている。この一文がやたら生々しくて、当時の記録の中でも印象に残る部分だ。ちなみに、この棒はのちに彼の手元へ戻ってくる。しかも本人が肌身離さず持ち歩くようになる。そこがまた、この話の妙な味わいになっている。
## 荷車に自分で乗り込んだ男
ここからが有名な部分だ。ゲージは即死しなかった。それどころか、数分後には話していたという。仲間が荷車を用意すると、彼は自力でそれに乗り込み、一キロ強離れた宿屋まで運ばれた。そして宿屋に着くと、荷車から降り、玄関前の階段を上って、外の縁側の椅子に腰かけて医者を待った。頭のてっぺんに穴が開いた状態で、である。倒れて運ばれたのではなく、座って待っていた。この一点だけで、この事故は十九世紀の医学界を騒然とさせるだけの材料を持っていた。
## 「先生、あんたの仕事ならここにたっぷりある」
最初に駆けつけたのはエドワード・H・ウィリアムズという医師で、事故からおよそ三十分後だった。馬車で乗りつけたウィリアムズに、椅子に座ったままのゲージが言ったとされる言葉が残っている。「先生、あんたの仕事ならここにたっぷりありますよ」。日本語にすると軽口にしか聞こえないが、頭に穴が開いた本人が言ったと思うと背筋が寒くなる。この台詞は後世さんざん引用され、少しずつ言い回しを変えながら伝わっていく。ただし原典に近い形は、ウィリアムズ自身の証言として残っているものだ。
## ウィリアムズ医師が見た「逆さになった漏斗」
ウィリアムズの証言は、この事件でもっとも生々しい一次資料の一つだ。彼はこう書いている。馬車から降りる前に頭の傷が目に入った、脳の拍動がはっきり見えた、と。そして頭頂の様子を「逆さになった漏斗のようだった。まるで楔形の何かが下から上へ通り抜けたかのように」と表現している。さらに驚くのは、その間ゲージが周りの野次馬に向かって、自分がどうやって怪我をしたかを説明していたことだ。ウィリアムズは正直に書いている。私はそのときゲージの話を信じなかった、勘違いしているのだと思った、と。だがゲージは棒が頭を通り抜けたのだと言い張った。
## 吐いた拍子に、茶碗半分の脳が落ちた
ウィリアムズの証言はさらに続く。ゲージは立ち上がって嘔吐した。そして吐く動作の圧で、頭頂の穴から「茶碗半分ほどの脳」が押し出され、床に落ちた、と。この描写があまりに具体的すぎて、初めて読むと本当に頭がくらくらする。当時の医学報告は感情を排して書くのが作法だから、余計に淡々としていて怖い。ちなみにこの「茶碗半分」という表現は原文のティーカップ半分という単位から来ていて、現代の教科書では省略されることが多い。省略されるからこそ、原典に当たると殴られる。
## 午後六時、ハーロウ医師が到着する
そのあと午後六時ごろ、キャベンディッシュの医師ジョン・マーティン・ハーロウが到着する。この人物が、以後のゲージの人生と、そして医学史そのものを左右することになる。ハーロウの記録もまた残っていて、こう書かれている。「軍陣外科に慣れない者にとって、そこにあった光景はまさに戦慄すべきものだった。しかし患者はその苦痛を、きわめて英雄的な冷静さで耐えていた」。ハーロウは戦場外科医ではない。田舎町の開業医だ。それが人生最大の症例に、いきなり放り込まれた。
## 血の海の中で、彼は「大したことないといいのですが」と言った
ハーロウの記録の続きが、また心をえぐる。「彼はすぐに私を認識し、大した怪我でなければいいのですが、と言った。意識は完全に保たれているように見えたが、出血で消耗しつつあった。彼の身体も、寝かされたベッドも、文字通り一面の血の海だった」。頭に大穴が開いていて、意識があって、医者の顔を判別して、しかも遠慮がちに喋る。ゲージは十五分から二十分おきに血を吐いていたとも書かれている。飲み込んだ血が胃に溜まっていたのだ。
## 凝血と骨片と、一オンスの脳
処置は、現代の目で見るとほとんど手探りだ。ハーロウは頭頂の傷から凝固した血を取り除き、砕けた骨片を摘出し、外へ突出していた約一オンスの脳組織を切除した。そのうえで頭皮を粘着テープで寄せて閉じたが、膿が溜まらないよう一部はわざと開けたままにした。麻酔はほぼない時代である。エーテル麻酔が公開されたのが一八四六年で、田舎町の往診にそんなものがあるはずもない。抗生物質など影も形もない。この状況で、ハーロウは十週間戦うことになる。
## 十四日目、棺と埋葬用の服が用意された
最初の数日、ゲージは意外なほど持ちこたえた。二日目にせん妄状態になったが、四日目には理性を取り戻し、ハーロウは一瞬「これは助かるかもしれない」と思った。だがそこで改善が止まる。十二日目から十四日目にかけて感染が爆発した。左眼が眼窩から突き出し、傷口からは腐った組織が真菌のように盛り上がった。ハーロウの記述はこうだ。「口と頭部からの呼気は恐ろしく腐臭を放つ。昏睡状態だが、強く起こせば単語で答える。強く促さなければ栄養も取らない。友人と付き添いは一時間ごとに彼の死を予期し、棺と埋葬用の衣服を用意している」。
## 硝酸銀と、八オンスの膿
ここでハーロウが動く。突出した腐敗組織を切り取り、結晶の硝酸銀を焼灼剤として当てた。さらに額の前頭筋を切開して排膿路を作った。出てきた膿は八オンス、二百三十ミリリットルほど。「血の混じった、極度に悪臭を放つ質の悪い膿」と書かれている。この処置が効いた。翌日から意識が戻りはじめる。乱暴に聞こえるかもしれないが、抗生物質のない時代に膿を外へ逃がすというのは、当時取り得た最善の手だった。ハーロウは決してヤブではない。むしろよくやったと言うべきだろう。なお言うまでもなく、これは歴史の記録であって、頭部外傷の手当てを自分で判断する話ではない。おかしいと思ったら医療機関へ、が唯一の正解だ。
## 二十四日目、椅子まで一歩
受傷から二十四日目、ゲージは自力で身体を起こし、ベッドから椅子まで一歩だけ歩いた。一か月後には階段を上り、家の中を歩き回るようになる。この時点でまだニューハンプシャーの実家に帰りたがり、熱があるのに旅立とうとしてハーロウに止められている。せっかちさは戻っていたわけだ。そして十一月二十五日、事故から十週間ちょうどで、幌つきの馬車に乗ってニューハンプシャー州レバノンの実家へ帰っていった。十週間で歩いて帰った。これがどれだけ異常なことか、想像するのが難しいくらいだ。
## 母親の証言「他人には気づかれない程度」
翌一八四九年二月、ゲージは半日程度の農作業ができるまでになっていた。このころの様子について、母親が語った言葉が記録されている。息子の記憶は「やや損なわれているが、他人が気づくほどではない」。この証言は地味だが、実はものすごく重要だ。後年の教科書が描く「廃人になったゲージ」像と、家族が見ていた実像との差が、ここに最初に現れているからだ。同年四月にハーロウが診察した記録も残る。左眼の視力喪失、まぶたが下がったまま、額に大きな瘢痕、飛び出した骨片、そして陥凹部で脳の拍動が皮膚越しに見えた。
## 「もはやゲージではない」という一文
さて、この事件を世界的に有名にした核心部分だ。ハーロウは後年こう書いている。彼の知的能力と動物的な衝動との間の均衡が破壊されたように見える、と。続けて、気まぐれで、不敬で、以前は口にしなかったような下品な言葉を平気で使い、他人への敬意が乏しく、自分の欲求に反する助言や制止に耐えられず、時に頑固なのに移り気で、将来の計画をいくつも立てては、決まるそばから別のもっと良さそうな案に乗り換えてしまう、と。そして「知的能力の面では子どもだが、屈強な男の動物的情念を持っている」。最後に、友人や知人が彼を「もはやゲージではない」と言った、と締めくくられる。
## その一文が世に出たのは、二十年後だった
ここが多くの人が知らないポイントだ。この有名な「もはやゲージではない」を含む人格変化の記述は、事故直後に世に出たものではない。ハーロウがこれを発表したのは一八六八年、事故から二十年後である。しかも掲載先はマサチューセッツ医学会の紀要という、当時としても目立たない媒体だった。おかげでこの報告は十年近く「埋もれた」まま、ほとんど参照されなかった。つまり、世界でいちばん有名な脳損傷の症例の、いちばん有名な部分は、二十年遅れで、しかもマイナー媒体に出た数百語の記述に全面的に依存している。ここを押さえておくと、この話の見え方が変わる。
## 鉄道会社は彼を現場に戻さなかった
身体は治った。だが仕事は戻ってこなかった。ハーロウの記述によれば、雇い主だった請負業者たちは「彼の心の変化があまりに顕著で、元の職に戻すことはできなかった」。有能な現場主任だった男が、同じ現場に戻れなくなる。これは十九世紀の労働現場としては即座に生活の崩壊を意味する。ここからゲージの流転がはじまるわけだが、その流転の中身が、後世どんどん脚色されていくことになる。実際に何をして食っていたのか、原典に沿って追いかけてみよう。
## 見世物と、バーナム博物館という異説
一八四九年から一八五一年ごろ、ゲージはニューイングランドの町々で自分と鉄棒を「展示」して回っていた形跡がある。ここで必ず出てくるのが「ニューヨークのバーナムのアメリカ博物館で見世物になった」という説だ。実際、複数の解説サイトがこれを事実として書いている。ただし研究者マルコム・マクミランは、この点に確たる一次資料が乏しいと指摘してきた。バーナム興行と結びつける記述は、後年の書き手が想像で足した可能性がある、という立場だ。異説としては根強いが、原典で確認できる話ではない、というのが現状の落としどころになる。
## ハノーバーの厩舎で働いた一年半
展示興行のあと、ゲージはニューハンプシャー州ハノーバーで、ジョナサン・カリアーという人物が営む厩舎兼駅馬車業に雇われる。期間はおよそ十八か月。ここが実は重要で、厩舎と馬車の仕事というのは、朝早く起きて馬の世話をし、装具を整え、客をさばき、時間通りに走らせる仕事だ。衝動的で計画を立てられない人間に十八か月続けられる労働ではない。マクミランはここに注目した。「もはやゲージではない」の一文だけを見ていると、この十八か月がまるっと視界から消える。
## 一八五二年八月、チリ行きの船に乗る
そして一八五二年八月、ゲージはニューイングランドを離れる。バルパライソに乗合馬車の路線を作ろうとしていた男に雇われ、南米チリへ渡ったのだ。ハーロウの一八六八年の報告にも、この経緯ははっきり書かれている。英語が通じない国で、知り合いもなく、新しい交通事業を立ち上げる側に回る。事故から四年後の男がやることとしては、なかなかの気合いだ。そして彼はそこで、八年近くを過ごすことになる。教科書のゲージ像には、ふつうこの八年は出てこない。
## 六頭立ての駅馬車を操る仕事
チリでのゲージの仕事は、バルパライソとサンティアゴを結ぶ路線の駅馬車の御者だった。ハーロウはこう書いている。馬の世話をし、しばしば重い荷を積んだ六頭立ての馬車を操っていた、と。六頭立てというのは当時の見物人が驚くレベルの技術だ。手綱を三対さばきながら、山道の悪路を、荷と乗客を乗せて走る。しかも運賃を集め、乗客を管理し、ルートを事前に計画し、路面の危険に即応する。一八五八年から五九年ごろに現地でゲージを知っていたという医師の証言も残っていて、彼は「駅馬車の御者をしており、健康も良好で、精神機能に何ら障害はなかった」と述べている。
## 一八六〇年二月、発作が始まった
一八五九年、チリでの健康が悪化する。ゲージはサンフランシスコへ移り、母と妹の元で療養した。回復するとサンタクララで農場労働に就く。だが一八六〇年二月、てんかん発作が始まった。仕事も失う。ハーロウが後年書いた「彼はあちこちで働き続けたが、多くはこなせず、しばしば職を変えた」という一文は、実はこの最後の数か月だけを指している。ところが後世の書き手たちは、この一文を彼の人生二十年分の要約として読んでしまった。ゲージ神話の中でもっとも罪深い誤読の一つが、たぶんこれだ。
## 五月二十一日の夜、けいれんの果てに
最期の数日は、記録がわりと細かい。五月十八日、彼はサンタクララを発って母の家へ向かう。五月二十日の午前五時、激しいけいれんに襲われた。かかりつけの医師が呼ばれ、瀉血が行われた。当時としては標準的な処置だが、現代の目で見れば衰弱を早めただけだろう。二十日から二十一日にかけてけいれんは何度も繰り返され、五月二十一日の夜遅く、ゲージはてんかん重積状態のまま息を引き取った。三十六歳。頭に鉄の棒が通ってから、十一年八か月が経っていた。遺体はサンフランシスコのローン・マウンテン墓地に葬られ、一九四〇年の墓地移転でサイプレス・ローン記念公園へ移されている。
## 頭蓋を掘り出してほしい、という頼み
ハーロウがゲージの死を知ったのは、一八六六年ごろ、死から六年も経ってからだった。彼は遺族に連絡を取り、驚くべき依頼をする。頭蓋を掘り出して譲ってほしい、と。そして遺族は承諾した。ハーロウは一八六八年の報告でこう書いている。遺族は称賛に値する以上の度量をもって、私の求めに応じ、科学のためにこの頭蓋を快く私の手に委ねてくれた、と。頭蓋はマサチューセッツ州ウォバーンのハーロウの元へ、遺族の手で直接届けられた。ハーロウの結論部は、十六世紀の外科医アンブロワーズ・パレの言葉の引用だ。「私が包帯を巻き、神が癒した」。
## 刻印の日付が一日ずれている
鉄棒のほうの経緯も面白い。ゲージは事故のおよそ一年後、一八五〇年一月にハーバード大学医学部の博物館へ棒を寄託した。だが後年これを取り戻し、以後は生涯の「連れ」として持ち歩いたという。棒には外科医ヘンリー・ジェイコブ・ビゲローの依頼で刻印が入れられている。その文面には、キャベンディッシュでゲージ氏の頭を撃ち抜いた棒である旨と、彼が完全に回復してこの棒をハーバード大学医科大学博物館へ寄託した旨が刻まれ、日付が一八四八年九月十四日となっている。事故は九月十三日だから、一日ずれている。名前の綴りも本来と違う。世界一有名な鉄の棒の刻印が、日付も綴りも間違っているというのは、なかなか味わい深い。
## ボストンの医学誌に載った最初の報告
発祥の話をきちんとしておこう。この症例が最初に世に出たのは、一八四八年十二月、ボストン・メディカル・アンド・サージカル・ジャーナル誌に載ったハーロウの報告「頭部を貫通した鉄の棒について」だ。この雑誌はのちにニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシンになる、由緒ある媒体である。だが当時の反応は、率直に言って懐疑一色だった。頭に一メートルの鉄棒が通って生きているなんてありえない、田舎医者の誇張だろう、というわけだ。実際、疑いは根強かった。
## ビゲロー医師は、人格の変化を書かなかった
その疑いを晴らしたのが、ハーバードのヘンリー・ジェイコブ・ビゲローだ。彼は一八四九年から五〇年にかけてゲージ本人をボストンへ呼び、直接診察し、一八五〇年にアメリカン・ジャーナル・オブ・ザ・メディカル・サイエンシズ誌に報告を出した。ここで症例の真正性は確定した。ところが、である。ビゲローの報告には、人格の変化についての記述がほとんどない。むしろ彼は「回復した」ほうを強調している。事故から二年後に本人を診た専門家が、性格の激変を書かなかった。この事実は、後世の神話を考えるうえで無視できない重みを持っている。
## 一九九四年、ダマシオ夫妻の再構成
時代を飛ばそう。一九九四年、ハンナ・ダマシオとアントニオ・ダマシオを中心とするチームが、サイエンス誌にゲージの脳損傷の三次元再構成を発表した。彼らは死体の頭蓋をゲージの頭蓋の寸法に合わせて変形させ、鉄棒の通り道を計算した。結論は、損傷は左だけでなく右の前頭葉にも及んでいた、というものだ。この論文がきっかけで、ゲージは「腹内側前頭前野の損傷による社会的意思決定の障害」というダマシオの理論の顔になった。感情と意思決定の関係を論じる本の冒頭を飾る男、というポジションである。ただしこの再構成は、ハーロウ自身の観察と矛盾する仮定をいくつか含んでいた。
## 二〇〇四年、本物のCTがひっくり返した
二〇〇四年、ピーター・ラティウらのチームが、推定寸法ではなく、ハーバードに実在するゲージの頭蓋そのもののCTスキャンから三次元モデルを作った。結論はダマシオ組と食い違った。損傷は左前頭葉に限られており、右には及んでいない、というのだ。しかもラティウは面白いことに気づく。頭蓋底の入口の穴は、鉄棒の直径の半分程度しかない。つまり棒が通った瞬間、頭蓋が蝶番のように開き、通過後にまた閉じたのだ。この所見は、ハーロウが当時ゾンデを差し込んで確かめた見立てをむしろ裏づけるものだった。百五十年越しに田舎医者が勝った瞬間である。
## 二〇一二年、主役は白質に移った
さらに二〇一二年、UCLAのジョン・ダレル・ヴァン・ホーンらがPLOS ONE誌に発表した研究が、議論の焦点をずらした。彼らは健常者の画像データを使って、ゲージの脳の神経線維、つまり白質の結合がどれだけ失われたかを推定した。結論はこうだ。直接の破壊は左半球に限られていたが、失われた白質の結合は両半球に及ぶ広範なものであり、これは現代の外傷性脳損傷の患者と大きく変わらない。灰白質がどこまで削れたかより、配線がどれだけ切れたかのほうが効いていた、という話だ。脳をパーツの集合ではなくネットワークとして見る、現代的な見方への移行を象徴する研究になった。
## マクミランが数え直した「信頼できる原典は四つ」
ここで、この記事の裏の主役を紹介したい。オーストラリアの心理学史家マルコム・マクミランだ。二〇〇〇年にMITプレスから出た『An Odd Kind of Fame: Stories of Phineas Gage』で、彼はゲージにまつわる記述を原典まで遡って洗い直した。そして突きつけた。信頼できる同時代資料は、ハーロウの一八四八年と一八六八年の報告、ビゲローの一八五〇年の報告、ジャクソンの一八七〇年の記録、この四つしかない。それ以外はすべて後世の書き手による加筆である、と。マクミランは五十ページを費やして、いかに多くの理論がゲージに無理やり接ぎ木されてきたかを整理した。
## 教科書の中でゲージはどんどん悪人になっていった
では、加筆された「後世のゲージ」はどんな男だったか。暴力的で、飲んだくれで、性的に放縦で、嘘つきで、定職につかず放浪し、サーカスで自分を見世物にし、最終的にサンフランシスコの路上で野垂れ死んだ——だいたいこういう像である。原典に根拠のある記述は、この中に一つもない。ベン・プラッツ=ミルズが書いた検証によれば、近年の学術論文二十五本を調べたところ、その半分が原典に裏づけのない否定的な記述を含んでいた。学術論文ですらそうなのだ。しかもハーロウの人格変化の記述は、全部合わせても三百語ほどしかない。三百語から、あれだけの悪人が生えてきた。
## 二十三冊を調べた研究者が見つけた「抜け落ち」
二〇一五年、リチャード・グリッグスは心理学の入門教科書二十三冊を集めて、ゲージの扱いを調べた。結果は、少し意外なものだった。書かれている内容そのものは、おおむね正確だったのだ。問題は書かれていないほうにあった。事故後のゲージの人生と回復に触れていた教科書は、二十三冊中六冊程度。近年発見された写真を載せていた本はさらに少なく、脳の再構成モデルに触れる本もほとんどなかった。つまり教科書は、鉄棒が飛んだ瞬間の派手さだけを切り取って、その後の十二年を落としていた。神話は嘘の追加だけでなく、事実の省略でも育つ。
## Flickrに眠っていた「銛を持つ隻眼の男」
ここからは、この話でいちばん現代的で、いちばん胸が躍るパートだ。メリーランド州に住む写真家で古写真の収集家、ジャック・ウィルガスとビヴァリー・ウィルガス夫妻は、何十年も前から一枚のダゲレオタイプを持っていた。片目を閉じた、身なりのいい若い男が、長い金属の棒を持って写っている。夫妻はこれを捕鯨船員の写真だと思っていて、二〇〇七年に「銛を持つ隻眼の男」というタイトルでインターネット上に公開した。すると閲覧者たちが動きはじめる。それは銛じゃない、という指摘が入り、続いて、これはフィニアス・ゲージではないか、と言い出す人物が現れた。
## 刻印の文字を重ねたら、一致した
検証は執念深く進んだ。まず、ハーバードに保管されているゲージの顔の石膏型と写真を照合すると、額の同じ位置に特徴的な瘢痕があった。顔の他の傷跡や口の形も一致した。決定打は棒だった。写真に写り込んだ棒の表面の文字と、ボストンのカウントウェイ医学図書館にある実物の刻印の文字が一致したのだ。この結果は二〇〇九年七月二十四日、ジャーナル・オブ・ザ・ヒストリー・オブ・ザ・ニューロサイエンシズ誌に発表された。世界一有名な脳損傷患者の、初めて確認された肖像である。しかも二〇一〇年には、別系統の子孫の手元から二枚目のダゲレオタイプまで見つかった。撮影は刻印が入った一八五〇年一月以降で、別々の写真師によるものらしい。
## 「社会的回復」という、まったく別の読み方
そして写真が出てきたことで、話は一気にひっくり返る。写っていたゲージは、みすぼらしい放浪者ではなかった。きちんとした服を着て、姿勢がよく、傷は残っているが堂々としている。棒を、まるで戦利品のように持っている。マクミランらが提唱した「社会的回復」仮説は、この写真で強力な援護を得た。厩舎の十八か月と、チリの八年。決まった時間に起き、動物を世話し、他人の命を預かって走る。この構造化された生活そのものが、後年ソ連の神経心理学者アレクサンドル・ルリヤが前頭葉損傷の兵士のために作ったリハビリと似た働きをしたのではないか、という読みだ。
## 脳損傷を生きる人たちにとっての、この神話
この話には、笑って済ませられない現代的な側面もある。ゲージ神話は「前頭葉をやられたら人格が壊れて、もう元には戻らない」という物語を百年以上まき散らしてきた。脳損傷を負った本人と家族が、事故の直後にこの物語を浴びせられたらどうなるか。回復の可能性を最初から値引きされ、周囲の期待をゼロに設定され、本人も自分を諦める。ゲージの実像を掘り返してきた研究者たちが本気で怒っているのは、この部分だ。彼らが取り戻そうとしているのは、歴史的正確さだけではない。今この記事を読んでいる誰かの、これからの十年のほうなのだ。
## なぜこの話はこんなに怖いのか
さて、怖さの正体を分解しておこう。ゲージの話が怖いのは、血が出るからではない。頭に穴が開いた男が、平然と喋って歩いたからだ。人間は死ぬ準備がある。だが「意識はそのままで、中身だけが入れ替わる」という事態への準備はない。事故のあと、彼の身体はほぼ完全に治った。歩けたし、喋れたし、覚えてもいた。それなのに友人たちは「もはやゲージではない」と言った。外側が全部そのままなのに、中の誰かが替わっている。これはホラーの構造そのものだ。ドッペルゲンガーでも憑依でもなく、鉄の棒一本でそれが起きる。
## なぜ百七十年以上も語り継がれたのか
もう一つ、語り継がれた理由の話。ゲージの物語は、人間が抱えるいちばん厄介な問いに直球で触れている。「自分」はどこにあるのか、という問いだ。魂ならば、鉄の棒で削れるはずがない。だが削れたように見えた。この一件は、人格が物質に宿っているという不都合な可能性を、十九世紀のど真ん中で人々の目の前に置いた。しかも都合のいいことに、この症例は極端にドラマチックで、極端に資料が少ない。ドラマ性は語りたくさせ、資料の少なさは各自が好きなことを書き足す余地を残す。神話が育つ条件が完璧に揃っていた。ゲージは死後、百六十年以上にわたって、その時代ごとの脳科学の写し鏡であり続けている。
## 三百語から、あれだけの悪人が生えてきた
ここまで時系列で追ってきた話を、いったん引いて眺め直してみたい。フィニアス・ゲージという症例が異様なのは、事実が少ないのに影響が巨大だという点にある。ハーロウの一八四八年報告、一八六八年報告、ビゲローの一八五〇年報告、ジャクソンの一八七〇年の記録。信頼できる同時代資料はこの四つだけだ。しかも人格変化の記述は、全部合わせて三百語ほどしかない。三百語である。原稿用紙にすれば二枚に満たない。その二枚未満の記述から、心理学の入門教科書の三分の二に登場する症例が生まれ、感情と意思決定の神経科学の看板が立ち、映画やドラマの元ネタになり、「前頭葉が人格を作る」という一般常識が形成された。情報量と影響力の比が、あまりにも壊れている。
この壊れた比率が何を生んだかというと、真空だ。真空は必ず何かに埋められる。十九世紀後半には骨相学者たちがゲージを持ち出した。特定の部位が特定の性質を担うという自分たちの主張の生き証人にしようとしたのだ。二十世紀前半には、逆に「前頭葉は切っても大したことは起きない」という論拠に使われた時期すらある。ロボトミーが正当化されていた時代のことだ。同じ症例が、真逆の主張の弾薬になった。そして二十世紀後半、ダマシオ夫妻の再構成によって、ゲージは腹内側前頭前野と社会的意思決定の物語の主人公になる。さらに二十一世紀に入ると、ラティウのCT研究とヴァン・ホーンの結合解析によって、損傷の範囲そのものが書き換えられ、主役は灰白質から白質のネットワークへ移った。ゲージは何も言っていない。言っているのは、その時代の脳科学のほうだ。
個人的にいちばん唸ったのは、二〇〇四年のラティウの発見だ。実物の頭蓋のCTを取ってみたら、頭蓋底の入口の穴は棒の直径の半分程度しかなかった。つまり棒が下から突き上がった瞬間、頭蓋の骨が蝶番のように開き、通過後に閉じた。骨がそんな挙動をするという事実そのものが不気味だが、それ以上に不気味なのは、この所見がハーロウの見立てとほぼ一致していたことだ。ハーロウは一八四八年の時点で、ゾンデを傷口に差し込み、指を突っ込んで、経路を推定していた。器具も画像もない田舎の医者の触診が、百五十六年後のCT解析に判定勝ちした。医学史というのは、こういう瞬間があるから面白い。
そして写真の件だ。二〇〇九年の同定は、専門家が資料庫を掘って見つけたのではない。趣味の収集家がインターネットに上げた画像を、名前も知らない誰かが「それ銛じゃないですよ」と指摘したところから始まった。そこから別の誰かが「ゲージでは」と言い、誰かが石膏型と照合し、誰かが刻印の文字を突き合わせた。集合知という言葉は安っぽく使われすぎているけれど、これは本当にそれだった。しかも成果物が、百六十年間ずっと「顔のない伝説」だった男の顔なのだ。あの写真を初めて見たときの感覚は忘れがたい。伝説の中の廃人が、そこにはいない。傷跡だらけで片目を閉じた、身なりのいい、少し不機嫌そうな、しかし明確に自分の人生を生きている男が立っている。彼は自分を貫いた鉄の棒を、まるでトロフィーみたいに持っている。
この写真がひっくり返したものは大きい。教科書が省略してきた事故後の十二年に、はっきりした輪郭が与えられたからだ。ニューハンプシャーの厩舎での十八か月。チリでの八年。六頭立ての駅馬車。母と妹のもとでの療養。サンタクララの農場。これらは全部、原典に書いてある。書いてあるのに、誰も引用しなかった。逆に、原典に一行も書かれていない飲酒、賭博、娼館通い、放浪、路上死は、繰り返し引用された。この非対称は偶然ではない。人は「壊れた人間」の物語のほうを覚えるようにできている。教訓が明快で、因果がすっきりしていて、語りやすいからだ。回復は地味で、まだらで、断定できない。だから消える。
もう一つ、忘れてはいけないのは、ゲージ本人が一言も残していないという事実だ。三十六年の生涯で、彼自身が書いたものは伝わっていない。ハーロウの記述の中に、ゲージの直接の発言はほとんど出てこない。医者に言った「あんたの仕事ならここにたっぷりある」くらいだ。つまり我々が知っているゲージは全部、他人が見たゲージである。友人が「もはやゲージではない」と言った。その友人たちが何を基準にそう言ったのかは分からない。事故で顔が変形し、片目が潰れ、額に穴の跡が残った男に対して、周囲の態度が変わっただけかもしれない。周囲が変わったから本人の振る舞いも変わった、という順番だった可能性も、原理的には否定できない。人格の変化は、その人の中だけで起きるものではないからだ。
最後に、なぜこの話が二〇二六年になってもまだ面白いのか、という点に触れて終わりたい。ゲージの事件は、脳と自己の関係についての最古の実例であると同時に、情報がどう神話になるかについての最良の教材でもある。少ない一次資料、強烈なイメージ、繰り返しの引用、引用の引用、そして誰も原典に戻らない状態。この構造は今もまったく変わっていない。むしろ加速している。SNSで流れてくる「衝撃の実話」の多くは、ゲージ神話と同じ工程で作られている。だから彼の話は二重に読める。前頭葉の話としても読めるし、我々が何かを信じる仕組みの話としても読める。頭に鉄の棒が刺さった男の逸話を通じて、自分の頭の中の配線を点検させられる。そういう意味で、この症例はまだ現役だ。たぶんあと百年は現役だろう。ちなみに、彼の頭蓋と、あの刻印つきの鉄棒は、今もハーバード大学のウォーレン解剖学博物館に並んで置かれている。学芸員は、近年の研究がゲージに「十五年前には与えられなかった独立と社会的回復」を認めつつあると語っている。百六十年遅れの名誉回復である。遅すぎるが、ないよりはずっといい。

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