1922年9月12日、ニュージャージー州ニューアークで、24歳の女性が死んだ。名前はアメリア・マジア。みんなは彼女をモリーと呼んでいた。死因欄には「梅毒」と書かれた。
嘘だ。
彼女を殺したのは、勤め先で毎日口に含んでいた絵の具だった。暗闇で緑色に光る、当時いちばん高価で、いちばん流行していた物質。ラジウムである。
死ぬまでの1年半で、モリーの歯は次々に抜けた。抜いた穴はふさがらず、膿の溜まった潰瘍になった。歯科医が彼女の口の中に指を入れて、下顎の骨をそっと触った。骨は抵抗しなかった。指の圧力だけで崩れて、医師の手のひらに落ちた。歯科医は器具を使わずに、モリーの顎を摘出した。そういう話だ。比喩ではない。
その5年後、彼女の棺が掘り返された。柩の内側は、まだ光っていた。
これは、そういう話である。
光る絵の具は、どこから来たのか
まず舞台装置から。
1898年、パリでマリー・キュリーとピエール・キュリーがラジウムを発見した。ウラン鉱石のなかに、ほんのわずか混じっている新元素。放っておいても勝手に光を出す。暗い実験室でぼんやり青緑に輝く小瓶を、キュリー夫妻はうっとり眺めていたという。1902年には金属として単離された。
当時の人類は、この現象の意味をまるで理解していなかった。光を出す、ということは、エネルギーを出しているということだ。エネルギーが出ているなら、それは何かにぶつかっている。人体の中でぶつかったら何が起きるのか。誰も真剣に考えなかった。
むしろ逆だった。ラジウムは「生命力そのもの」として売り出された。若返る。血が濃くなる。関節が軽くなる。がんが消える。20世紀初頭のアメリカで、ラジウムは科学の顔をした魔法だった。
そこにひとりの男が現れる。ザビン・アーノルド・フォン・ソコッキー。1883年生まれ。現在のウクライナの出身で、リヴィウの大学で物理と化学を学び、モスクワの大学で医学の学位を取った。1906年にはパリでキュリー夫妻のもとで放射能の実験に触れている。その後ニューヨークに渡って開業医になった。
1913年、フォン・ソコッキーは配合に成功する。ラジウム226のごく微量を、硫化亜鉛の粉に混ぜる。ラジウムから飛び出すアルファ線が硫化亜鉛の結晶を叩き、結晶が光る。電池もいらない。スイッチもいらない。ただ光り続ける。彼はこの塗料に商品名をつけた。アンダーク。暗くない、という意味だ。
1914年、彼はジョージ・エス・ウィリスらとニューヨークでラジウム・ルミナス・マテリアル社を設立する。ニューアーク、ジャージーシティ、そしてオレンジに施設を広げた。オレンジのハイ通りとオールデン通りの角にできた工場では、1917年から1926年まで、毎日およそ半トンのカルノー石を処理してラジウムを抽出した。鉱石はコロラド州パラドックス・バレーとユタ州から運ばれてきた。1921年までにフォン・ソコッキーの管理下で精製されたラジウムは、約30グラムに達したという。当時の価格では、途方もない金額である。
そして1917年4月、アメリカが第一次世界大戦に参戦した。
「女子求む」――スタジオという名の工場
塹壕の中は暗い。夜間の航空機のコックピットも暗い。潜水艦の中も暗い。兵士は時計を見なければならない。高度計を、コンパスを、燃料計を読まなければならない。マッチを擦れば狙撃される。
だからアンダークが要る。爆発的に要る。
軍需契約が舞い込み、オレンジの工場は人手を求めた。求人広告は「スタジオ勤務の女性求む。理想的な立地と環境。きわめて清潔で魅力的な仕事。研修中も高給」というような文面だった。
工場ではなく「スタジオ」と呼ばれたのがミソだ。実際、そこは当時の女性が就ける仕事としては破格に条件が良かった。汚れない。重いものを持たない。座って細かい絵を描く。おまけに、世界でいちばん高価な物質を毎日素手で触れる。
賃金がすごかった。1枚の文字盤につき1.5セント前後の出来高払い。1日に250枚描けば3.75ドル。イリノイ州オタワの工場では週18ドルに届く者もいた。同じ町の他の工場勤めなら週5ドルがいいところだ。3倍から4倍である。しかも自分の腕次第で上がる。
集まったのは10代から20代前半の労働者階級の娘たちだった。移民二世が多い。イタリア系、アイルランド系、ポーランド系、ドイツ系。オレンジの工場では最盛期に300人ほどが働き、1917年春だけで70人が新規採用された。全米とカナダを合わせると、この産業に雇われた女性はおよそ4000人と推計されている。
彼女たちに与えられたのは、ラクダの毛の細い筆と、小さな皿に取った塗料だった。塗料の中身は、ラジウム、硫化亜鉛、アラビアゴム、水。ものによってはメソトリウム、つまりラジウム228も混じっていた。
そして、作業指導が入る。
腕時計の文字盤に描く数字は、幅が1ミリもない。筆の穂先は数ストロークで開いてしまう。布で拭くと塗料が無駄になる。水で洗うと時間が食われる。出来高払いだから時間は金である。
だから――唇で整えろ。
リップ・ポインティング。あるいは、より露骨な言い方で「リップ、ディップ、ペイント」。唇でとがらせ、皿に浸し、描く。この3拍子を、1日に何百回、何千回と繰り返す。
グレース・フライヤーは後に法廷でこう証言している。「指導係は唇で穂先を整えるように言いました。文字盤1枚につき6回くらいは唇に入れたと思います。変な味はしませんでした。味なんてありませんでした。だから害があるとは思いませんでした」。
キャサリン・ウルフ、後のキャサリン・ドノヒューはオタワの工場での手順をこう説明している。「まず筆を水につけます。次に粉につけます。それから歯の間で穂先を整えるんです」。教えたのはミス・マレーという名の指導係だった。
若い娘が「これ、飲み込んだら平気ですか」と聞いた記録も残っている。返ってきた答えは「心配ない、頬が赤くなるだけだよ」だった。
同じ建物の別の部屋では、会社の化学者たちが鉛の遮蔽板の後ろに座り、トングでラジウムを扱い、鉛入りのエプロンとマスクを着けていた。
この非対称が、この事件のすべてを説明している。危険は知られていた。ただし、知る必要があるのは誰か、という線引きがされていた。実際、この会社自身が医療関係者向けに配った印刷物には「ラジウムの危険――有害な影響」という項目があった。
光る娘たち
ここが、この話のいちばん残酷なところだ。
彼女たちはラジウムを恐れなかった。むしろ、遊んだ。
余った塗料で爪を塗った。まぶたに塗った。唇に塗った。歯に塗って、暗い部屋で笑い合った。眉毛を描いて口ひげを描いた。「暗室にこっそり入って顔に落書きしたんです。一度なんて、歯を塗った子がいました」と、後年ひとりが振り返っている。デートの前に工場の粉を服にはたいていく娘もいた。どうせ夜のダンスホールは暗い。自分だけが光る。
キャサリン・ドノヒューの言葉が残っている。「家に帰って暗い浴室で手を洗うと、手が幽霊みたいに光って見えました。クローゼットに吊るした服が燐光を放っていました。通りを歩いていると、私はラジウムの粉で全身が輝いていたんです」。
町の人は彼女たちを「ゴースト・ガールズ」と呼んだ。悪意ではなく、からかいと憧れの混じった呼び名だった。
ハーバード大学の調査官セシル・ドリンカーが1924年にオレンジの工場を訪れたとき、彼が書き残した観察はこうだ。作業室のあらゆる場所から採取した埃が、暗室で光った。誰も座っていない椅子から取った埃さえ光った。「彼女たちの髪、顔、手、腕、首、ドレス、下着、コルセットまでが光っていた。ある娘は脚と太腿に光る斑点があった。別の娘は背中が腰のあたりまで光っていた」。
想像してほしい。19歳の娘が、夜、家に帰る。玄関の灯りを消す。鏡の前に立つ。自分の輪郭が、うっすら緑に浮かび上がる。
それは奇跡に見えただろう。
最初の異変は、口から始まった
異変は1921年ごろから、オレンジの元従業員たちの間で出はじめる。
歯が痛む。歯科医に行く。抜く。抜歯窩が治らない。数週間経っても、数か月経っても塞がらない。代わりに、そこに膿と血の混じった潰瘍ができる。次の歯が痛む。抜く。また治らない。口臭がひどくなる。周囲が顔をしかめるほどの腐敗臭になる。
やがて骨に達する。顎骨壊死。生きたまま骨が腐る。
モリー・マジアの場合、症状の始まりは1921年で、翌年9月に死んでいる。1年ちょっとだ。歯科医がついに下顎全体を除去した。その後、上顎の一部も失われた。最期は喉の大出血だった。医師たちは首をひねり、死亡診断書に梅毒と書いた。
似た症状を持つ患者たちが、ニューアークとオレンジの歯科医院を回りはじめた。ニューヨークの歯科医セオドア・ブラムは1924年、この症例に名前をつける。ラジウム・ジョー。ラジウム顎。アメリカ歯科医師会の雑誌に載ったこの短い記述が、事実上の第一報だった。
だが症状は顎だけではなかった。
重度の貧血が出た。再生不良性貧血。骨髄が赤血球を作らなくなる。全身の関節が痛む。骨が理由もなく折れる。コネチカット州のエリザベス・ダンという娘は、ダンスフロアで踊っている最中に脚が折れた。転んだのではない。立ったまま、体重を支えていた骨が折れたのだ。
背骨が潰れて身長が縮んだ者がいる。首から腰までのコルセット型の装具を着けないと座っていられない者がいる。片腕を切除した者がいる。片脚を失った者がいる。骨肉腫が顎や脚から瘤のように盛り上がった者がいる。
なぜ骨なのか。理由は身も蓋もなくシンプルだ。
ラジウムは化学的にカルシウムとよく似ている。体はそれをカルシウムだと勘違いして、せっせと骨に組み込む。そして半減期1600年のラジウム226は、骨の中に居座ったまま、アルファ線を撃ち続ける。
アルファ線は紙一枚で止まるほど透過力が弱い。だから体の外にあるぶんには大した脅威ではない。しかし骨の内側に埋まってしまえば、皮膚という盾がない。至近距離から、骨髄と骨細胞を、何十年もかけて撃ち続ける。
ラジウム・ジョーは、内側からの銃撃の結果だった。
会社は、報告書を書き換えて役所に出した
1924年3月12日、ユナイテッド・ステイツ・ラジウム社に一通の手紙が届く。顎骨壊死の症例が2件ある、うち1件は死亡、という報告だった。
すでに世間には「あの工場は危ない」という噂が流れはじめていた。元従業員の遺族から補償請求が出はじめ、現役の工員が怖がって辞めはじめていた。
社長のアーサー・ローダーは調査を発注する。相手はハーバード大学公衆衛生大学院のセシル・ドリンカー。産業衛生学の第一人者だった。ドリンカーは妻のキャサリン・ローテン・ドリンカー、同僚のウィリアム・キャッスルとともにオレンジの工場に入り、作業を観察し、工員を診察し、担当医から話を聞いた。
結論は明快だった。工場はラジウムを含む粉塵で飽和している。換気は劣悪。防護は皆無。ほとんど全員の血液に異常がある。数名には進行した壊死が見られる。原因はラジウムである。
ドリンカーは工場内で主任化学者のエドウィン・レマンにも会っている。レマンの手には深い潰瘍があった。ドリンカーが危険を指摘すると、レマンは「将来の被害なんてありえない」と笑い飛ばした。
ドリンカーはこう書いている。「この態度は工場の権限を持つ者すべてに共通していた。自分たちが作っている物質に内在する危険について、まったく認識がないように見えた」。レマンは翌1925年6月5日、再生不良性貧血で死んだ。
ドリンカーは1924年6月に報告書を提出し、具体的な安全対策を勧告した。ローダーは受け入れなかった。工場の外で感染症をもらったのだろう、と主張した。社内に反対の調査結果があるとも言った。ただし、その調査結果をドリンカーに見せることはなかった。
そしてドリンカーが論文として公表しようとすると、ローダーは訴訟を示唆した。守秘の約束があったはずだ、と。ドリンカーはいったん引き下がった。
ここで、ひとりの女性が動く。アリス・ハミルトン。ドリンカーの同僚で、アメリカの産業医学の母と呼ばれる人物だ。彼女は全米消費者連盟に人脈があった。そして連盟経由で、とんでもない事実を掴む。
ユナイテッド・ステイツ・ラジウム社は、ドリンカーの報告書をニュージャージー州労働局に提出していた。ただし、中身を書き換えて。
ハミルトンが1925年、キャサリン・ドリンカー宛てに書いた手紙が残っている。趣旨はこうだ。労働局にあなたがたの報告書のコピーがある。そこには「全員が完璧な健康状態にある」と書かれている。ローダーがあなたの名前で偽造報告書を出すなどということが、ありうるでしょうか。
ありえたのだ。
さすがのドリンカーもこれで腹を括った。訴訟のリスクを飲み込んで、彼は原本を州労働局に送り直し、学術誌に真の報告書を発表した。州の労働長官は、ドリンカーの勧告をすべて実施せよと命じた。会社はそれに従うより、閉鎖して他所へ移ることを選んだ。ニュージャージー州労働局が突きつけた「従うか、閉じるか」に対して、会社は閉じた。オレンジのラジウム抽出は1926年に、文字盤塗装工場は1927年に終わる。
「梅毒だ」という噂は、武器として選ばれていた
会社側の最も卑劣な一手は、法廷戦術ではなかった。噂だった。
死んだ娘たち、病んだ娘たちについて、梅毒である、という説明が流された。1920年代のアメリカで、若い女性に梅毒の烙印を押すことが何を意味したかは説明するまでもない。彼女たちの症状は自業自得の性病であり、道徳的堕落の結果である、というストーリーが町に撒かれた。モリー・マジアの死亡診断書はその筆頭だ。
会社はさらに、「うちは他所で雇ってもらえないような身体の弱い人たちを、慈善のつもりで大勢雇っていた」という趣旨の説明もしている。つまり、もともと病人だった、と。
そしてもうひとつの武器が、専門家だった。
コロンビア大学公衆衛生研究所のフレデリック・フリン。会社と契約した産業毒物学者である。1925年、フリンはグレース・フライヤーを診察して「彼女の健康状態は私と同じくらい良好だ」と告げた。
フリンには医師免許がなかった。医師ではない人間が、医師の顔をして、瀕死の女性たちに「あなたは健康だ」と言い続けた。コネチカット州のウォーターベリー時計会社にも、彼は無料診察を持ちかけて食い込んでいる。キャサリン・ムーアという娘には8回にわたって「ラジウムの痕跡はない」と伝えた。彼女は放射線障害で死んだ。
一方で、フリンは1941年に国の放射線防護基準を作る9人委員会のメンバーに名を連ねている。この事件の登場人物は、加害と規制の両側に平気で顔を出す。そこが気持ち悪い。
息が放射能を持っていることを、彼らはその場で発見した
会社の物語を最終的に壊したのは、ひとりの病理学者だった。ハリソン・スタンフォード・マートランド。エセックス郡の医務官である。
きっかけは化学者レマンの死だった。1925年6月、マートランドは彼の死因に疑いを持ち、剖検を行う。臓器から高い放射能が出た。
マートランドはこのとき、すでに会社を離れて自身も病んでいたフォン・ソコッキーに協力を求めた。発明者本人である。フォン・ソコッキーは言った。文字盤を塗っていた娘たちも診てくれ、と。
数日後、マートランドはマーガレット・カーローとサラ・メイユフェールという姉妹に会う。サラは重篤だった。マートランドとフォン・ソコッキーはここで、生きている人間の体内ラジウムを測る方法を二つ、その場で発明する。
ひとつは、胸の上18インチのところに箔検電器を置いて、体から出るガンマ線を測る方法。もうひとつが決定打だった。呼気を採るのだ。
体内のラジウムは崩壊してラドンという気体になる。ラドンは血に溶けて肺に運ばれ、息と一緒に出てくる。つまり、息が放射性なのだ。二人はリンド電位計に呼気を通し、箔の落ちる速さを測った。サラは1925年6月18日に死に、マートランドは即座に剖検して、骨を灰にして定量した。
ここから、マートランドの粘り強い追跡が始まる。
1925年に彼が発表した報告は、女性たちが摂取した放射性物質こそが骨疾患と再生不良性貧血の原因であり、死因であると特定した。1929年にはヒュームフリーズとの共著で、ラジウム・メソトリウム中毒で死んだ15人のうち2人に骨肉腫が出ていることを指摘し、これは偶然にしては多すぎると書いた。1931年には、オレンジ工場の死者18人のうち5人が骨肉腫だと報告した。
そして彼はこう書く。「我々はダイヤル・ペインターの研究において、放射線が悪性腫瘍を生み出しうるという証明を得た」。
放射線が発がん要因である、という現代医学の常識は、ここから始まっている。教科書に載っているあの当たり前は、20代の女工たちの骨を灰にして測った数字から出てきたのだ。
グレース・フライヤーが、弁護士を探すのに2年かかった
グレース・フライヤーは1899年3月14日、オレンジ生まれ。11人きょうだいのひとりで、父親は労働組合の代表だった。政治の話が食卓に上がる家庭で育ち、彼女自身も投票することの意義を人前で語るような娘だった。
1917年、18歳で工場に入った。3年ほど働いて、1920年1月に辞めている。銀行の窓口係という、もっといい仕事が見つかったからだ。ここが皮肉だ。彼女は早く抜けたほうだった。それでも足りなかった。
2年後、歯が抜けはじめた。顎に膿瘍ができた。何人もの歯科医と医師を回ったが、誰もこんな骨の壊れ方を見たことがなかった。1925年、ようやくひとりの医師が言った。文字盤を塗っていた時期があるのではないか、と。
グレースは訴えることにした。そして、弁護士が見つからなかった。
2年かかった。2年である。
有力企業を相手取り、当時ほとんど誰も理解していない「放射線障害」という因果関係を立証しなければならず、依頼人は金がなく、しかも近いうちに死ぬ。引き受ける弁護士がいるわけがなかった。1926年には別の弁護士が3件を9000ドル、3000ドル、1000ドルという金額で和解させたが、その弁護士はそれきり新しい依頼を取らなかった。
最終的に、全米消費者連盟がハーバード法科大学院を出たばかりの若手弁護士レイモンド・ベリーを説得する。ベリーは受けた。
1927年5月18日、提訴。原告はグレース・フライヤー、キャサリン・シャウブ、アルビナ・マジア・ラリース、クインタ・マジア・マクドナルド、エドナ・ハスマンの5人。請求額はひとり25万ドル、合計125万ドル。
新聞は彼女たちを「ラジウム・ガールズ」と呼び、そして別の呼び名もつけた。「死を宣告された5人の女たち」。「生ける屍」。
法的には最初から苦しかった。ニュージャージー州の労災補償法には補償対象の職業病が列挙されており、そこに炭疽、鉛、水銀、リン、メチルアルコールはあっても、放射線中毒はなかった。1926年に「ラジウム壊死」が追加されたが、1926年以前の発症は除外され、申請期限は発症から5か月とされていた。ほぼ誰も救わない条文である。
だから彼女たちは労災ではなく、コモンローの不法行為で戦うしかなかった。安全な職場を提供する義務の違反。そして、超危険物質の厳格責任。
会社側の主戦力は、たったひとつの技術論だった。時効。ニュージャージー州法では、損害発生から2年以内に訴えなければならない。彼女たちが工場を離れてから、5年以上経っていた。
つまり会社の主張は、こうだ。あなたたちが病気になったのが遅すぎたので、我々には責任がない。
死んだ女が、5年遅れで証言台に立った
ベリーは決定的な証拠を欲しがった。そして思いついた。
クインタとアルビナの姉、モリー・マジアの遺体。梅毒と診断され、5年前に埋葬された女性。もし彼女の骨からラジウムが出れば、会社の物語は根元から折れる。
ベリーはマジア家を説得した。父ヴァレリオは承諾した。
1927年10月15日、朝9時過ぎ、男たちがローズデール墓地に入った。墓石をどけ、テントを張り、雨で溜まった水から柩を切り離すため、ロープと銀色の鎖をかけて少しだけ持ち上げ、そのまま待った。
会社側とは午後3時30分と時刻を決めてあった。3時、会社側の専門家6人が到着した。バーカー副社長と、例のフリンもいた。ベリーは用心して、午前の作業に立ち会わせる調査員を雇っていた。3時30分、ベリーがエリザベス・ヒューズ、マートランド、ニューヨークから来た医師団を連れて墓の前に立った。立会人は全部で13人になった。
カーテンが引かれ、全員がテントに入った。作業員が鎖を引いた。6フィート下から、モリーがゆっくり上がってきた。
記録にはこうある。外箱は傷んでいて簡単に崩れた。柩も同様に崩れかけていた。そして――柩の内側には、疑いようのないラジウムの兆候があった。柔らかな燐光が満ちていた。
誰かが腐った木から銀の銘板を外した。「アメリア・マジア」。父ヴァレリオがうなずいた。娘のために選んだものだ、と。
蓋と側板が外された。モリーがそこにいた。1922年に埋葬されたときのままの白いドレスと、黒い革のパンプス。「遺体の保存状態は良好であった」と観察記録は言う。
午後4時50分、地元の葬儀場で解剖が始まった。医師たちはまず上顎骨を数片に分けて取り出した。下顎はやる必要がなかった。生きているうちに摘出されていたからだ。彼らは脊椎を、頭蓋を、肋骨を切った。骨をこそげ、熱湯で洗い、乾かし、灰白色の灰にした。一部の骨は写真フィルムに包んで長時間置いた。
数日後、フィルムが現像された。
黒い乳剤の上に、白い光の像が並んでいた。椎骨が一本ずつ、縦に燃える蝋燭のように光っていた。顎のない頭蓋の像は、口が不自然に大きく開いて見えた。
医師団の結論は二行だった。「疾患の証拠なし。とくに梅毒の証拠は認められない」。そして「検査したすべての組織と骨が、放射能を示した」。
後の測定で、モリーの遺体には48.4マイクログラムのラジウムが含まれていたとされる。のちに定められる人体許容量の、およそ500倍である。
彼女たちの息は、金箔を落とした
1928年1月、ようやく最初の審理が開かれた。この時点で5人のうち2人は寝たきりで、誰ひとり宣誓のために腕を上げることができなかった。体重が70ポンド台まで落ちた者もいた。
ベリーの科学的な切り札は、エリザベス・ヒューズという30歳の物理学者だった。
彼女は1919年に国立標準局のラジウム部門に雇われ、上司ノア・ドーシーが開発に関わった金箔検電器でラジウム線源の較正をしていた。1920年に標準局を辞め、当時まだラジウム・ルミナス・マテリアル社だったこの会社に物理学者として移り、2年間、塗料サンプルの放射能を測る品質管理を担当した。1922年にはオーストリアの著名な物理学者ヴィクター・ヘスと共著論文も書いている。つまり彼女は、この会社の内部を知り、かつ測定の技術を持つ、ほぼ唯一の人間だった。
1927年11月、彼女は5人の原告の呼気を測った。手順はこうだ。塩化カルシウムの瓶で水分を除き、ガラスウールで塵を除き、硫酸で他の化学物質を捉える。残るのは空気と、貴ガスであるラドンだけ。5分間、これを通して息を吹き込む。集まった気体をリンド電位計の測定室に導き、吸引ポンプで引き、電圧をかける。もしアルファ線が十分に出ていれば、金箔が放電して動く。
5人全員で、金箔は対照実験の自然減衰の2倍以上の速さで落ちた。
1928年4月、ヒューズは証言台でこの結果を説明した。そして、研究者も労働者も等しくラジウム被曝から守られるべきだと述べ、ラジウムに直接触れたほぼ全員が手を焼かれてきたこと、標準局や他の研究機関では放射性物質を扱う際の安全手順が指示されていたことを証言した。
ここで誰も聞かなかった質問がある。研究機関がそれほど危険を知っていたなら、なぜ一般市民と文字盤工に警告しなかったのか。
会社側の弁護人エドワード・マークリーは、科学ではなく彼女の属性を攻撃した。今の職業は何ですか。主婦です。定期的に研究室で働かなくなって何年ですか。5年です。あなたの呼気測定は定量的ですか、定性的ですか。定性的です。
マークリーは「したがって測定値は無意味である」という筋書きを描こうとした。ところがここで判事が口を挟んだ。私は弁護人の要約に同意しない、呼気測定についてもっと聞きたい、と。
会社は1928年4月22日の日曜日、原告5人に強制的な検査を受けさせた。フリン、ミズーリ大学の化学者ハーマン・シュルント、そして副社長で主任物理学者のハワード・バーカーによる全身電位計測定である。結果は「ラジウム汚染の証拠なし」だった。
同じ日、裁判所は原告側にも測定を認め、化学者アレクサンダー・ゲトラーとヒューズが測った。少なくとも1人が陽性だった。
さらに同年11月、会社は三度目の測定を試みる。今度はニューヨークのメモリアル病院の医学物理学者ジョアッキーノ・ファイラを立ち会わせた。ファイラの判定はこうだった。5人全員が放射性である。
自陣の専門家に念押しさせて、逆の答えが返ってきた。この時点で科学的な争いは終わっていた。
マリー・キュリー本人が「希望はない」と言った
1928年4月、会社は延期を申し立てた。理由は、自社の専門家証人が夏に外国へ渡航するから。認められた猶予は数か月に及んだ。
これに世論が爆発した。原告が「夏まで生きていない可能性がある」ことは誰の目にも明らかだった。
ニューヨーク・ワールド紙のウォルター・リップマンが書いた。「これはわれわれが目にしたなかで、最も忌まわしい正義の茶番の一つである」。「会社がこの女性たちの提訴を妨げようとするのは言語道断だ。だがジャージーの司法が、彼女たちに提訴の権利があるかどうかを決めるのに何か月も引き延ばすのは、さらに大きな言語道断である」。社会党の大統領候補ノーマン・トーマスも声を上げた。
そしてパリから、マリー・キュリー本人のコメントが届く。「彼女たちに希望はないと思います。私のラジウムの実験からすれば、体内に取り込まれた毒を破壊することは、事実上不可能です」。
ラジウムの発見者が、ラジウムの被害者たちに向かって「治す方法はない」と言った。キュリー自身も1934年、長年の被曝による再生不良性貧血で死ぬ。
新聞は連日書いた。「生ける屍」「死を宣告された5人」。ベリーは記者にこう説明している。あなたはもう死ぬと告げられ、手に取るどの新聞にも自分の死亡記事のようなものが載っている――そういう状態になったら、他に何もない、と。
写真を撮られるとき、5人は笑った
裁判の予定日の数日前、連邦判事ウィリアム・クラークが仲介に入った。クラークは私人としてこの問題の解決を主導していた人物である。
1928年6月4日、和解が成立した。条件は、5人それぞれに現金1万ドル、生存中の年金600ドル(週12ドル)、過去の医療費として2000ドル、そして今後の医療費と訴訟費用の会社負担。ただし、医療費の支払いは会社が設けた3人の医師からなる委員会の承認を要した。合意書の日付は6月8日。会社は責任を一切認めなかった。
一悶着もあった。6月11日、会社側の弁護団は6万9500ドルの小切手を提示したが、ベリーは受け取りを拒否している。無条件の権利放棄条項が付いており、これを飲むと二度と蒸し返せなくなるからだった。
会社の公式説明はこうだった。ラジウムで中毒させたから払うのではない、公正な裁判を受けられそうにないから払うのだ。
写真を撮られるとき、5人は笑った。フラッシュの中で、微笑んだ。
その顔を思うと、なんとも言えない気持ちになる。
ベリーが弁護したダイヤル・ペインターは、あともうひとりだけだった。メイ・カバリー・キャンフィールド。1929年10月、ヒューズが彼女の呼気を採り、1930年に法廷外で和解した。ヒューズが受け取った報酬は和解金の10%、800ドル。そしてその和解には条件が付いていた。ベリーは今後、この会社を相手取る文字盤工の代理人にならないこと。
金で口と手を封じる。実に効率的である。
1935年、連邦地裁はラポート対ユナイテッド・ステイツ・ラジウム社事件で、時効はこの種の請求を確実に阻却すると明言した。争点は「会社が危険を詐欺的に隠蔽したか」だったが、裁判所はそれを認めなかった。この判決以後、オレンジの工場に起因する訴訟も和解も、記録上ひとつも存在しない。進行中だった案件は打ち切られ、会社の株主には棚ぼたが落ちた。
そして原告たちは死んだ。クインタ・マクドナルドは1929年、34歳。グレース・フライヤーは1933年10月27日、34歳。死因は肩に生じたラジウム性肉腫。彼女の死亡診断書にはこうある。「ラジウム肉腫、産業中毒」。キャサリン・シャウブは同じ1933年、31歳。エドナ・ハスマンは1939年、37歳。アルビナ・ラリースだけが長く生きて、1946年に51歳で死んだ。
その少し前、1928年11月14日には、発明者フォン・ソコッキーが死んでいる。45歳。再生不良性貧血。13回の輸血も高地療養も効かなかった。彼の前歯は失われ、指は第二関節まで黒く壊死していた。自分の体からラジウムを排出するには3520年かかる、と彼自身が計算していたという。彼は文字盤工の中毒に関する数字を、16人目の犠牲者として自ら埋めた。発明者が自分の発明に殺された、と新聞は書いた。
記録されなかった娘たち――コネチカットの沈黙
ニュージャージーが騒がしかったころ、コネチカット州にはほとんど誰にも知られない被害の層があった。
ウォーターベリー時計会社。チェリー通りの工場。ここでも同じことが起きていた。ちなみに1920年、この地域の文字盤塗装スタジオに技術指導に来ていたのは、後の原告のひとりキャサリン・シャウブである。教える側も、教わる側も、同じ毒を飲んでいた。
最初に死んだのはフランシス・スプレットストッカーだった。1921年、17歳で入社。オーク通りに両親と3人の姉妹、3人の兄弟と暮らしていた。4年間文字盤を塗って、1925年に貧血で倒れる。顔の左半分が触れるだけで痛んだ。ひどい喉の痛みが出た。歯が痛み、歯科医が1本抜くと、顎の一部が一緒についてきた。口の中の組織が腐り、頬に穴が開いた。
発症から1か月で死んだ。21歳だった。地元紙の訃報は「彼女には多くの友人がおり、その死は深い悲しみをもたらす」と書いた。葬儀は聖スタニスラウス教会で行われ、カルバリー墓地に埋葬された。
コネチカットの被害が世に出なかったのは、会社が賢かったからだ。訴訟にせず、静かに払った。1926年から1936年までの10年間で、16人に対して約9万ドルを、和解金、生活費、医療費として支出している。ある家族が娘の死に対して受け取った額は43ドル75セントだった。会社が雇った医師が彼女たちを診た。州の保健当局に上がった事例はない。裁判所にも行っていない。
さらに1927年、時計会社の政治的影響力によって、コネチカット州の労災請求期限は5年から3年に短縮された。潜伏期間の長い病気に対して期限を縮める。何が起きているかを完全に理解した上での立法である。
歴史家クローディア・クラークは、コネチカットの文字盤工については「彼女たち自身の声を使った資料をひとつも見つけられなかった」と語っている。ニュージャージーには箱いっぱいの手紙と証言が残った。コネチカットには沈黙が残った。
ミルドレッド・カードーが1929年に22歳で死に、メアリー・ダムリスが1930年に死に、そこでようやく会社はリップ・ポインティングを強く禁じた。合わせて30人以上が死んだとされる。
第二幕――イリノイ州オタワ、「うちのは純粋だから安全だ」
1922年秋、イリノイ州オタワという人口1万人ほどの川沿いの町に、ラジウム・ダイヤル社がやってきた。廃校になった高校の校舎に工場を構えた。社長はジョセフ・ケリー。ニュージャージーで何が起きつつあるかを、この会社の経営陣は当然知っていた。
最大の顧客はイリノイ州ペルーのウェストクロックス社である。ビッグ・ベン、ベビー・ベン。アメリカの寝室で毎朝鳴っていた目覚まし時計の、あの光る文字盤。あれは、オタワの娘たちの唇を通ってきたものだ。
「女子求む」の広告が出て、町の娘たちが応募した。給料は破格だった。町のどんな仕事より良かった。そして1930年代に入ると大恐慌が来る。この工場は、町の経済を支える柱になった。
ここが肝心だ。ニュージャージーの騒動は新聞に載っていた。オタワの女たちも読んでいた。彼女たちは会社に詰め寄った。マリー・ベッカー・ロシターのように、はっきりと説明を求めた者もいる。
会社の回答はこうだった。ニュージャージーのラジウムは不純物が混ざっている。あれはメソトリウムのせいだ。うちのは純粋なラジウムだから安全だ。
これは真っ赤な嘘であるうえに、科学的にも無茶苦茶だ。だが「純粋だから安全」というフレーズは、当時の人にはそれらしく聞こえた。ラジウム・ルミナス・マテリアル社の共同創業者ジョージ・ウィリスが、わざわざオタワまで来て女性たちに「ラジウムは安全である」と講義した記録もある。
会社は筆の代わりに細いガラスペンを導入しようとしたこともある。だがガラスペンは遅い。出来高払いの工員は自分の稼ぎが減るのが嫌で、筆に戻った。
安全対策が労働者自身の経済的不利益になるとき、それは対策として機能しない。この構図は現代の労働災害でもそっくりそのまま繰り返されている。
そして、決定的な事実がある。ラジウム・ダイヤル社は1925年から従業員の健康診断と放射能検査を実施していた。結果を本人に見せなかった。
キャサリン・ドノヒューが法廷で語ったやりとりが記録に残っている。彼女と同僚が監督のルーファス・リードに、なぜ検査結果を掲示しないのかと尋ねた。リードはこう答えたという。「お嬢さんたち、もし君たちに検査結果を渡したら、この工場は暴動になるよ」。
会社は知っていた。全部知っていて、口を拭っていた。
ペグ・ルーニー――17歳で入り、24歳で死に、49年後に掘り出された
マーガレット・ルーニー、通称ペグ。1904年12月20日生まれ。10人きょうだいの長女。赤毛で、物静かな娘だったという。高校を出てすぐ、17歳でラジウム・ダイヤル社に入った。
姪のダーリーン・ハルムが、家族から聞いた話を語っている。「叔母が小さな瓶を家に持ち帰っていたのを覚えている、と家族が話していました。みんなで寝室に入って明かりを消して、爪やまぶたや唇を塗るんです。それでお互いを見て、暗闇で光るから笑い転げるんです」。
ペグは1925年の社内検査で放射能陽性と出ていた。1928年にも陽性だった。会社は本人にも家族にも言わなかった。
彼女は歯を失っていった。貧血になった。股関節の痛みで歩けなくなった。同僚がショールを使って彼女を近所まで引っ張っていったという話が残っている。歩けなかったからだ。歯と顎の骨のかけらが、口から落ちた。
1929年8月6日、ついに退職する。8日後の8月14日に死んだ。24歳だった。
会社の対応は素早かった。ペグはジフテリアで死んだと発表され、隔離扱いになった。病院にいた家族は最期に会わせてもらえなかった。会社は即日埋葬しようとした。家族のひとりがそれを拒み、カトリックの葬儀を要求した。会社は解剖を行うことに同意し、ルーニー家のかかりつけ医の立会いを認めた。だが医師が到着したとき、解剖はもう終わっていた。彼女の顎の骨は抜き取られていた。
物語はここで終わらない。
1978年、冷戦下の放射線人体影響研究の一環として、アメリカ原子力委員会の系譜を引くアルゴンヌ国立研究所が、ペグ・ルーニーの遺体を発掘した。家族が同意した。セント・コロンバ墓地から掘り出された彼女の遺体は、鉛で覆われて研究所へ運ばれた。家族はそう説明された。それほど放射性が高かったからだ。49年埋まっていた体が、である。
測定値は19,500マイクロキュリー。安全とされる体内量の1000倍を軽く超えていた。研究を統括したロバート・ローランドは「膨大な量のラジウムだ。我々が見つけたなかでも最も高い部類に入る」と語っている。
ハルムの母は、ペグの白い手袋を1枚とっておいていた。ハルムは子どものころ、それをときどき手にはめて遊んでいた。ペグの遺体の話を聞いた後、母はその手袋を捨てた。汚染されているのが怖かったからだ。
ここには、この事件の後半の全部が凝縮されている。企業の隠蔽、家族の無力、そして――遺体になってからようやく、国家が科学のために彼女を必要としたという事実。ペグ・ルーニーの骨から出た数字は、プルトニウム作業員の安全基準を作るのに使われた。
生ける屍の会
1930年代半ば、オタワの元文字盤工たちは互いを見つけ合った。跛行する者、腕のない者、顎の形が変わった者。町の中で、彼女たちはすぐに互いを見分けられた。
集まりに名前をつけようと提案したのはパール・ペインだった。彼女はレナード・グロスマン弁護士に、労働災害に苦しむ他の労働者を助けるための会を作ってはどうかと書き送った。新聞がその名前に飛びついた。「生ける屍の会」。
会員として名前が残っているのは、キャサリン・ドノヒュー、シャーロット・パーセル、パール・ペイン、マリー・ロシター、フランシス・オコネル、マルグリット・グラシンスキー、ヘレン・マンチ、オリーブ・ウィット、マキシン・スミス、イネズ・ヴァラットら。
シャーロット・ネヴィンス・パーセルは1906年1月27日オタワ生まれ。16歳で入社したが、文字盤を塗ったのはたった13か月だった。その13か月で片腕を失った。切除である。
彼女は率直な物言いで知られ、ドノヒューと並んで女たちの代弁者になった。31歳のとき、記者に「死の脅威を感じますか」と聞かれて、「考えないようにしています」と答えている。
同じ場で別の会員はこう言った。「そんなに悪くない。人は諦めがつくものです。いえ、計画なんてありません。苦しみが多すぎて、弱りすぎて、予定なんて立てられない。もちろん諦めたくはない。生きたい。誰だってそうでしょう。私はまだ20歳です。やりたいことは山ほどある。踊るのが好きでした。走り回るのが好きでした。車を運転したい。少し旅もしたい」。
マリー・ベッカー・ロシターは1923年に入社し、1930年に辞めた。片脚を失った。祖母から「私はやれる」という気質を受け継いだと語る、話し上手で愛された女性だった。父が死ぬとき枕元に座っていた彼女は、後年、病んだドノヒューの枕元にも毎晩座った。1988年の記録映画『ラジウム・シティ』で、監督のカロル・ランガーにこの話をしている。
イネズ・ヴァラットは19歳で発症した。父の証言が残っている。「8年患った。まず足首に出た。次に股関節が固まった。階段を後ろ向きに上がるようになった。それから歯が抜け、顎の骨のかけらが外れた」。
彼女はイリノイ州の職業病法に基づいてラジウム・ダイヤル社を訴えた。会社の反論は驚くべきものだった。もはや危険を知らなかったとは言えないので、代わりに「安全な職場を提供せよという法律上の要求そのものが違憲である」と主張したのである。
1935年4月17日、イリノイ州最高裁はこれを認めた。ヴァラット対ラジウム・ダイヤル社。同日に出た他の3件と併せて、イリノイ州の職業病法そのものが無効にされた。労働側はこの日を「黒い水曜日」と呼んだ。
イネズ・ヴァラットは1936年2月に死んだ。新しい法律が成立する1か月前だった。
ベッドの上が法廷になった――1938年
黒い水曜日のあと、労働側の政治家ロイベン・ソダストロムらが動いた。通常の立法手続きでは製造業者協会が潰す。だから彼は協会と直接交渉し、双方が飲める法案を作った。後に「合意法案」方式と呼ばれる手法である。1936年3月、新しいイリノイ職業病法が成立した。
ただし条件があった。新法は基本的に将来の労働者を対象とする。すでに発症している女たちにとって、ハードルはまったく下がっていなかった。
1937年、15人の女性が再挑戦する。地元の弁護士は誰も引き受けなかった。オタワは小さな町で、ラジウム・ダイヤル社は大恐慌のさなかに給料を払っている数少ない雇い主だった。町の空気は、はっきり言って女たちの味方ではなかった。歴史家の取材に、地元の人はこう答えている。町は彼女たちに黙っていてほしかった、と。
シカゴの弁護士レナード・グロスマンが受けた。無報酬である。依頼人たちに金がなかったからだ。彼が受任したのは、審理の2日前だった。
1937年7月23日、イリノイ州産業委員会での審理が始まった。7月25日、女性たちが証言した。このころ、ラジウム・ダイヤル社はすでにオタワの工場を閉め、ニューヨークに新工場を開き、「以前の会社は消滅した」と主張していた。法人格を着替えて債務から逃げる。古典的な手口だ。
主原告はキャサリン・ドノヒューだった。1903年生まれ。19歳で採用され、1931年8月に解雇された。彼女自身の言葉によれば、解雇の理由は「私が足を引きずるのが、あまりに人の噂になるから」だった。
彼女は体重の半分を失った。顎の骨が口から落ちてきた。物が食べられず、ほとんど寝たきりになった。地元の医師は診断できないくせに、ラジウム中毒だけは否定した。後にシカゴの医師が中毒だと確認した。
1938年2月10日の審理で、ドノヒューは小さな箱を提出した。中身は、自分の顎から出てきた骨のかけらだった。
その場で判事が彼女の主治医に尋ねた。この患者が回復する見込みはどれくらいですか。
医師の答えを聞いて、ドノヒューは倒れた。
シカゴ・デイリー・ニュースの記者が書いた。「彼女はうめき声を上げ、椅子から崩れ落ちた。数人の男が抱え上げて部屋の外へ運び出した。71ポンドは、重い荷物ではなかった」。
71ポンド。32キロほどである。34歳の、2児の母だった。
以後の審理は、彼女の家で行われた。西スペリオル通りの家。カウチに横たわったドノヒューの周りに、家族と弁護士と仲裁人が座り、そこが法廷になった。写真が残っている。狭い居間に大人が詰めかけ、真ん中に痩せ細った女性が横たわり、隅に彼女を助け起こす夫のトーマスがいる。
グロスマンの最終弁論はこうだった。会社は女性たちの検査結果開示要求を拒み、労働者側の証言に反論する証人をひとりも出さず、ラジウムは毒だと認めておきながら次の瞬間に否定した。彼は会社を「捕食者」と呼び、そしてこう言った。ラジウムは彼女の顎と股関節を破壊したように、彼女の柩を貫いて放射し続けるだろう、と。
1938年7月6日、仲裁人の裁定が委員会で確認された。ドノヒューの障害はラジウム中毒によるものであり、就業に起因する。認定額は5661ドル。過去の医療費と未払い賃金、そして年277ドルの終身年金。
彼女は最初の上訴が満場一致で退けられたことを知る程度には生きた。1938年7月27日に死んだ。35歳。会社の弁護士が次の上訴を申し立てた翌日である。
ラジウム・ダイヤル社は上訴を重ねた。連邦最高裁まで持ち込んだ。会社は保証金の供託すらできない、あるいはできないふりをして、手続きを引き延ばそうとした。イリノイ州最高裁はこれを退けた。1939年10月23日、合衆国最高裁が上告を受理しないと決め、下級審の判断が確定した。
ドノヒューが死んで15か月後だった。
ジョセフ・ケリーは1934年にラジウム・ダイヤル社を追われた後、同じオタワにルミナス・プロセシズ社を設立している。同じ町、同じ仕事、同じ条件。彼はその後、ラジウムをポロニウムに転換する事業で、原爆計画の関連受注から利益を得たとされる。
その頃、金持ちも同じ病気で死んでいた
労働災害の話をしているとき、忘れてはいけないのが「消費者としてのラジウム」だ。
1918年、ウィリアム・ジェイ・エー・ベイリーという男が、ラジソールという商品を売り出す。ニュージャージー州イースト・オレンジのメイン通り336番地、ベイリー・ラジウム研究所の製品。中身は蒸留水にラジウム226とラジウム228を溶かしたもの。1本あたり1マイクロキュリー以上。誇張ではなく、本物の放射性物質入りの飲料水である。
ベイリーはハーバードの中退者で、医師免許を持っていなかった。だが自らを博士と称した。広告文句は「生ける屍のための治療薬」。あるいは「永久の日光」。150以上の疾患に効くと謳った。ニキビ、貧血、関節炎、アルコール依存、喘息、心臓病、白血病、性的不能、鼓腸、ウルシかぶれ、シワ。医師には処方1件につき6分の1のリベートを渡していた。1925年から1930年までに40万本が売れた。1本1ドル。24本入り1ケース30ドルで、中身の放射性物質の原価は7ドル程度だったという。
これを大量に飲んだ男がいる。エベン・マクバーニー・バイヤーズ。1880年生まれ。ピッツバーグの鉄鋼会社の社長で、1906年の全米アマチュアゴルフ選手権優勝者。金持ちで、社交界の人気者で、競馬をやり、健康自慢だった。
1927年、ハーバード対イェールの試合帰りの寝台列車で、彼は上段の寝台から落ちて腕を痛めた。痛みが引かない。理学療法士のシー・シー・モイヤー医師がラジソールを勧めた。
飲んだら調子が良くなった、と彼は感じた。「体が引き締まる感じ」がした。彼は熱心な信者になり、友人にケースごと送りつけ、自分の競走馬にも飲ませた。1930年10月に効き目を感じなくなるまで、彼が飲んだ本数は約1400本とされる。
その頃には体重が落ち、頭痛が始まり、歯が抜けはじめていた。
1931年、連邦取引委員会がベイリーを調査するにあたり、バイヤーズの証言を取ろうとした。彼は移動できる状態になかったので、委員会は弁護士ロバート・ウィンをロングアイランドのサウサンプトンにある彼の海辺の大邸宅に派遣した。
ウィンの報告が、当時の記録の中でもとりわけ強烈だ。
「あれほど豪奢な設定で、あれほど凄惨な体験は想像しがたい。サウサンプトンに着くと、バイヤーズは壮麗な邸宅にいた。そして我々はそこで、言葉では言い表せない状態の彼を発見した。年齢は若く、頭脳は明晰だったが、ほとんど話すことができなかった。頭は包帯で覆われていた。彼は二度の手術を受け、上顎は前歯2本を残して全て、下顎もほとんどが摘出されていた。体に残るすべての骨組織がゆっくりと崩壊しており、頭蓋骨には実際に穴が開きはじめていた」。
バイヤーズは自分の症例が絶望的だと知らされたのは、死の2週間前だった。1932年3月31日、マンハッタンで死亡。51歳。剖検では、残っていた歯は6本、両顎は腐り、脳には膿瘍があった。骨に分布していたラジウムは36マイクログラム。フリンの計算による。当時の理解では、10マイクログラムが致死量とされていた。
彼が最初に「ラジウム中毒だ」と診断されたのは、ジョゼフ・マニング・スタイナーというマンハッタンのエックス線専門医によってだった。この医師は、ユナイテッド・ステイツ・ラジウム社の工場で中毒になった女性を何人も診ていた。
女工の顎と、ゴルフ王者の顎が、同じ病気で崩れた。ここに階級の平等はある。ただしそれは最悪の形での平等だ。
バイヤーズは鉛張りの棺に納められ、ピッツバーグのアレゲニー墓地に葬られた。1965年、研究のために掘り出された遺体は、まだ22万5000ベクレルの放射能を示した。参考までに、通常の人体に含まれるカリウム40による放射能は約4400ベクレルである。
処方したモイヤー医師は死後も強気だった。「私は放射線治療で患者を死なせたことは一度もない。私自身、バイヤーズ氏と同じ種類のラジウム水を同量以上飲んでいるが、51歳で元気で健康だ」。バイヤーズは血液疾患と痛風の複合で死んだのだ、と彼は言い張った。
1931年12月19日、連邦取引委員会はベイリー・ラジウム研究所に排除命令を出した。ラジソールの治療価値に関する表示と、無害であるという表示をやめよ、という内容である。ベイリーは争わなかった。バイヤーズの証言があった以上、勝ち目がなかった。
ベイリーはその後もラジウム研究所を名乗り、放射性のベルトクリップやペーパーウェイト、水を放射性にする装置などを売り続けた。1949年に膀胱がんで死んだ。1970年に遺体を掘り返して測定したところ、彼の死因もまた、自分が売っていたものだった可能性が高いと結論された。
1990年8月にウォール・ストリート・ジャーナルが載せたこの一件の記事には、忘れがたい見出しがついている。「ラジウム水は顎が取れるまではよく効いた」。
ブラックジョークとして完璧だが、笑いにくい。
なぜ止められなかったのか――七つの理由
ここからが本題かもしれない。悪人がいた、で終わらせると何も学べないからだ。
第一に、知識の非対称が意図的に設計されていた。会社の化学者は鉛の背後にいて、工員は素手で唇に含んでいた。これは「まだ誰も危険を知らなかった」という無知の物語ではない。危険は同じ建物の中で、階層別に配分されていた。1906年以降の科学文献にはラジウムの直接取り扱いの危険が積み上がっていたし、会社自身の刊行物にも危険の項目があった。知識はあった。届く先が制御されていた。
第二に、企業が科学を買えた。会社は自前の調査を発注し、気に入らない結論には出版差し止めを圧力でかけ、都合の良い専門家に金を払って「健康です」と言わせ、都合の悪い報告書は名前を借りて改ざんして役所に出した。歴史家クローディア・クラークが強調するのは、まさにこの点だ。放射線の危険についての「知識」そのものを、企業が資金で生産できた。中立に見える専門家証言の背後には、たいてい誰かの財布があった。
第三に、法律の時計が病気の時計と合っていなかった。ニュージャージーの2年、コネチカットの3年。潜伏期間が5年から20年ある病気に対して、発症前に訴えろと要求する制度である。後年生まれた「発見主義」――損害を知った時点から時効が進むという考え方――が当時あれば、結果は変わっていた。制度が悪意を持っていたというより、制度は急性の怪我しか想定していなかった。落盤、機械への巻き込まれ、火傷。ゆっくり殺される種類の労働災害を、法は概念として持っていなかった。
第四に、出来高払いという賃金形態が安全を破壊した。ガラスペンを配っても工員が筆に戻ったのは、彼女たちが無知だったからではなく、賃金が枚数で決まっていたからだ。安全な方法が自分の家計を削るとき、労働者は危険な方法を選ぶ。これは意志の弱さではなく、設計の問題である。
第五に、町ぐるみの利害があった。オタワでは、大恐慌下で給料を払っている工場を敵に回すことが、住民の生活に直接響いた。地元の弁護士は受けない。地元の医師はラジウム中毒を否定する。近所は「あの人たちは黙っていればいいのに」と噂する。企業城下町の重力は、被害者を沈黙させる方向に働く。ドノヒューたちは自分の町と戦わなければならなかった。
第六に、そして見落とされがちだが、被害者が若い女性だったことが決定的だった。梅毒という噂が武器として成立したのは、若い女性の性的評判が社会的に致命傷になる時代だったからだ。もし被害者が中年男性の鉱夫だったら、この噂は機能しなかった。加害側は、当時の性道徳を的確に武器として選んでいる。
最後に、時代の空気がある。ラジウムは1920年代のアメリカにとって未来そのものだった。飲料に入り、化粧品に入り、歯磨き粉に入り、坐薬にすら入っていた。「安全である」という主張は、当時の常識と一致していた。「危険である」という主張は、常識に逆らっていた。真実がしばしば不人気な側にあるという、ありふれた、そして高くつく事実である。
0.1という数字が、原子力時代の直前に間に合った
彼女たちの死は、ひとつの数字になった。
1930年代、マサチューセッツ工科大学の若い物理学者ロブリー・ディー・エバンズが、この問題に取り組んだ。カリフォルニア工科大学でロバート・ミリカンの下で学び、その後マサチューセッツ工科大学に移った人物である。彼はラジウムのアルファ線が体外に出てこないことに着目し、代わりに娘核種を測るという迂回路を選んだ。1934年に確立した手法は従来より桁違いに感度が高く、0.1マイクログラムという微量まで測れた。彼は世界初の全身カウンターも作っている。
1940年末、第二次世界大戦が近づき、軍用のラジウム文字盤計器が大量生産されはじめた。ここで海軍が動く。医務局のチャールズ・エス・スティーブンソン大尉が、エバンズの研究室にやってきて言った。安全基準をすぐ作れ。さもなくば海軍に入隊させて、無理やり作らせるぞ。
国立標準局が9人の諮問委員会を設けた。議長はレオン・カーティス。委員には、当時ラジウム毒性の定量研究を実際にやっていた4人――マートランド、フリン、ファイラ、エバンズ――と、労働省、海軍、そして業界の代表が入った。加害と規制の同席、である。
1941年2月までに、正確に体内量を測定した27人のデータが揃った。残留体内量0.5マイクロキュリー未満の7人には障害がなかった。1.2から23マイクロキュリーの20人には、程度の差はあれ障害があった。
判断材料はこれだけだった。統計的に美しいわけではない。エバンズは委員会にこう提案した。許容水準は、自分の妻や娘が対象であっても心の底から安心できる水準にしよう。そして委員一人ひとりに、0.1マイクロキュリーで納得できるかと尋ねた。全員が同意した。
1941年5月2日、国立標準局ハンドブック27が公表された。ラジウム226の許容体内量、0.1マイクロキュリー。
日付を見てほしい。真珠湾攻撃の7か月前。プルトニウムが極秘裏に発見された2か月後。世界初の原子炉が動く18か月前である。
この偶然を、後に放射線防護の専門家メリル・アイゼンバッドは「驚くべき歴史的偶然」と呼んだ。人類が本格的に放射性物質を大量生産しはじめるまさにその直前に、人体の許容量の物差しが間に合った。しかもそれは、動物実験からではなく人間の実測から作られていた。
エバンズはこう書いている。ラット実験で骨肉腫を出すには、人間で骨がんが出る濃度の数百倍が必要だった。だから動物実験だけから人間の許容量は決められない。人間を研究する適切な対象は人間である、と。
戦時中、プルトニウム239の許容体内量は、このラジウム基準からの類推で決められた。1943年から45年にかけて暫定的に5マイクログラム、1945年7月にライト・ラングハムの主張で1マイクログラム、1949年のカナダのチョークリバー会議で0.1マイクログラム、1950年1月にシールズ・ウォーレンらの会合で0.5マイクログラム。最終的に0.04マイクロキュリー前後に落ち着いた。ストロンチウム90の基準も、同じ系譜から出ている。
つまり、原爆を作った国の労働者を守った数字の根っこは、ニュージャージーとイリノイの、20代で死んだ女工たちの骨にあった。
これは称賛すべき話だろうか。半分はそうだ。半分は、身も蓋もなく残酷だ。国家は彼女たちを生きているうちに守らなかった。死んでから、データとして活用した。
掘り起こされ続けた体
1968年、アルゴンヌ国立研究所に人体放射線生物学センターが設立された。表向きの主目的は、生存している元文字盤工に医療検査を提供すること。実質的には、内部被曝の人体データを世界で唯一持っている集団の追跡調査だった。1993年に計画が終了するまでに、2403件の詳細な症例情報が集められた。
生きている女性たちは、何十年も呼び出された。全身計測のために何時間も動かずに横たわった。シャーロット・パーセルは30年以上にわたって繰り返し呼ばれた。マリー・ロシターは、長時間じっとしていることを求められる検査の辛さを語っている。
そして、結果は本人に返らなかった。返ってきても「あなたの状態はこれ以上悪化しないでしょう」という程度の、当たり障りのない文面だった。同意はあった。だが現代的な意味でのインフォームド・コンセントではなかった。彼女たちは「二度と同じことが起きないように」という動機で協力したのに、自分の体から出たデータを知る権利は与えられなかった。
死んだ女性たちは、掘り出された。ペグ・ルーニーだけではない。全米でおよそ100体が発掘され、測定された。骨は灰にされ、あるいは凍結され、樹脂に包埋された。
アルゴンヌの計画が終わったとき、この試料と記録をどうするかで議論になった。破棄しろという声もあった。保存を主張した人々が勝ち、試料はワシントン州立大学の全米人体放射線生物学組織リポジトリへ移された。記録はマイクロフィルムとマイクロフィッシュの形で、アメリカ超ウラン元素・ウラン登録機構が保管している。
そして2020年代、この集団は再び研究の最前線に戻ってきた。全米放射線防護測定審議会が進める「百万人研究」の一部として、1913年から1949年に雇用された3276人の文字盤工――96.4%が女性――の死亡追跡が2019年まで延長され、現代の線量再構築モデルで一人ひとりの臓器線量が推定されている。生前に何度も測定された値のうち、かつては最新のものが採用されていたが、今は全測定を使う方向に変わった。より正確な数字が出る。100年前の娘たちのデータが、今も更新されている。
宇宙飛行士の被曝管理にも、環境汚染の評価にも、この数字が効いてくる。
汚染は町に残った
被害は人体だけでは終わらなかった。
オレンジのハイ通りとオールデン通りの跡地は、1983年9月に全米優先リストに載った。1981年5月の航空ガンマ線調査は約12平方マイルを飛び、工場周辺の約25エーカーに異常値を検出した。同じ調査は、モントクレア、ウェスト・オレンジ、グレン・リッジという近隣の住宅地でも異常値を拾っている。工場の残土が、あちこちの宅地に撒かれていたのだ。
汚染は深さ15フィートに達していた。除去対象の土は約1万8000立方ヤード。ガンマ線量率は、自然背景の8.3マイクロレントゲン毎時に対し、最大700マイクロレントゲン毎時。建物内のラドン濃度は最大でリットルあたり110ピコキュリーだった。
浄化は段階的に進み、1997年に始まって2005年に主要工程が終わり、立ち入りができなかった1件が2016年にようやく片づいた。2006年9月に予備完了報告が署名されている。地下水の監視は今も続いている。
オタワはもっとえげつない。
ラジウム・ダイヤル社の建物は1969年に、ルミナス・プロセシズ社の建物は1984年に解体された。だが解体前、地元の人々が瓦礫からきれいなレンガを持ち帰った。学校は樫のデスクを引き取って再利用した。放射性の建材が、町の中に散っていった。
ルミナス・プロセシズは1976年、施設内の放射線量が許容値の1666倍という調査結果を突きつけられて、1978年に閉鎖された。1986年にはエネルギー省の航空調査が行われ、州の原子力安全当局が市内と周辺の14か所で汚染を確認した。全部が優先リストに載った。大半の瓦礫はワシントン州ハンフォードへ運ばれた。11か所の浄化が完了し、残りは資金次第、という状態が長く続いた。
住宅、自動車販売店、陸上競技場、週末にフリーマーケットが立つ空き地。そしてセント・コロンバ墓地。地元の詩人はこう書いた。今も放射性の指紋が、あらゆるものを曇らせている、と。
ペグ・ルーニーが眠る墓地は、今も放射線を出している。彼女だけではない。オレンジのローズデール墓地に埋葬された女性たちの墓も同じだ。ガイガーカウンターを持っていけば、針が振れる。
1600年。ラジウム226の半減期である。マートランドは1920年代に、彼女たちの墓地の放射線は少なくとも1600年続くと計算した。西暦3500年ごろまで、彼女たちは静かに光り続ける。
きれいな道徳劇にしないために――争点も並べておく
まず科学的な論争がある。
1978年、ロバート・イー・ローランドらは1474人の女性文字盤工のうち61件の骨肉腫と21件の頭部がんを解析し、骨肉腫の発生は線量の2乗に指数関数を掛けた式でよく合うと報告した。ところが1994年の再解析で話が変わる。人体からのラジウム排出速度が、当初の沈着量に依存することがわかったため、線量推定が全面的に修正された。新しい値では2乗では合わず、指数をもっと大きくしないと合わなくなった。
1996年、ローランドはさらに踏み込み、骨肉腫の誘発は「閾値のある過程」に見えると書いた。血中に入ったラジウム226が100マイクロキュリー未満の女性では、骨肉腫の確率は非常に低い。そこを超えると急激に立ち上がる。
これはややこしい含意を持つ。低線量の放射線がどこまで危険かという議論――直線閾値なし仮説をめぐる、いまだに決着しない論争――において、ラジウム文字盤工のデータはしばしば「閾値がある側」の証拠として引用される。一方で、これを放射線ホルミシス、つまり「微量の放射線はむしろ体に良い」という主張の援護に使おうとする人もいる。
ここは注意が必要だ。閾値があるように見えることと、微量が有益であることは、まったく別の話である。ローランド自身のデータからは、骨肉腫については急峻な線量反応が見えるが、副鼻腔と乳突蜂巣のがんについては単純な直線でよく合う、という非対称な結果が出ている。同じ集団の同じ被曝で、がんの種類によって形が違う。都合の良い部分だけ切り取れる材料ではない。
そして最も重要な留保は、ローランド自身が書いている。この推定は、被曝から40年後の体内量から逆算したものだ。仮定が変われば答えが変わる。だからこそ今、百万人研究が線量を再計算している。100年経っても、まだ確定していない。
歴史学の側にも論争がある。
クローディア・クラークの1997年の研究は、この事件を「悪い会社と善良な被害者」の物語ではなく、経済・政治・社会制度の産物として描いた。彼女は当時のタブロイド紙が使った「オタワの生ける屍」といった言葉を意識的に避け、抑制された筆致で書いた。
書評者の一部はこの姿勢を評価しつつ、批判もした。企業を制度の産物として説明しようとするなら、なぜこの産業がそこまで悪辣に振る舞ったのかを制度で説明しきれていない、と。実際、文字盤塗装産業は利益率が低くて追い詰められていたわけではない。むしろ儲かっていた。だとすれば、なぜ隠したのか。クラークが挙げる仮説は複数ある。企業が知識そのものを自前で生産できたこと。労働側から職場の統制権を奪い返したばかりの経営側が、その権限に触れる問題で譲歩したがらなかったこと。
もうひとつ、記憶のされ方の問題がある。
2017年にケイト・ムーアが書いたノンフィクションは世界的なベストセラーになり、映画や舞台にもなった。この本のおかげで、この事件を知る人は桁違いに増えた。同時に、物語としての磨き込みが進んだことで、資料上の細部と一般に流布したイメージの間に、微妙なずれも生まれている。
たとえば「顎が手の中で崩れた」という描写は実際の記録に基づくが、それが誰の症例で、どの程度の頻度だったのかは、通俗的な語りでは曖昧になりがちだ。提訴が1925年だったか1927年だったか、和解額が1万ドルだったか1万5000ドルだったか、といった数字も文献によって揺れる。これは嘘というより、記録が複数あり、示談が段階的だったことの反映である。
さらに、被害者側にも単純化を拒む事実がある。オタワの元文字盤工メイベル・ウィリアムズは2015年に104歳で亡くなった。彼女は健康上の合併症がなかった。理由は本人いわく、筆を唇で整えなかったから。「あれは良い考えだとは思わなかった」。同じ職場にいて、同じ雇い主に嘘をつかれて、生き延びた人がいる。運と量が結果を分けた。だからこそ、被害者を「みんな死んだ」とひとくくりにするのは正確ではないし、生き延びた人の証言もまた歴史の一部だ。
そして忘れてはならないのが、この事件がアメリカの労働安全衛生局の直接の起源だと言い切るのも、やや強引だという点である。1970年にその役所が設立されるまでには、炭鉱夫の黒肺病をめぐる闘争や、石油化学労組の運動など、無数の別の圧力があった。ラジウム・ガールズはその長い列の先頭にいたが、直線でつながっているわけではない。ニュージャージーが1926年に「ラジウム壊死」を補償対象に加えたときの条文が、事実上ほぼ誰も救わなかったことを思い出したい。法律ができることと、救済が届くことの間には、大きな距離がある。
誰かが覚えている
2006年、イリノイ州オタワの中学2年生、マデリン・ピラーが、授業の調べ物で自分の町の話にぶつかった。読んだ本にこう書いてあった。ラジウム・ガールズのための記念碑は、これまでひとつも建てられていない。
彼女はそれが我慢ならなかった。募金を始めた。市長に働きかけた。5年かけた。父親は彫刻家のウィリアム・ピラーだった。
2011年9月2日、ルミナス・プロセシズ社の跡地、クリントン通りとジェファーソン通りの角に、等身大のブロンズ像が建った。1920年代の服を着た若い女性が立っている。片手に絵筆の束。もう片方の手に、うなだれたチューリップ。花は希望と生命を、うなだれた花は体内の放射性物質を意味する。
除幕式には数百人が集まった。ルミナス・プロセシズ社で働いていた元従業員のローズ・バイマ、ポーリン・フラー、ジューン・メンネが出席した。パット・クイン知事はこの日をイリノイ州の「ラジウム・ガールズの日」と宣言した。イリノイ州下院は決議を採択した。
台座の銘板には、キャサリン・ドノヒューの言葉が刻まれている。「ラジウムの塗料は小さな皿で混ぜられました。ラクダの毛の筆を使うには細い穂先が必要で、ほとんどすべての娘が筆を舌と唇で湿らせる癖をつけていました。それが、この恐ろしい、恐ろしい毒が私たちの体に入った道筋です。私たちはそれが有害だなんて、まったく知らなかったのです」。
弁護士グロスマンの1938年の言葉も刻まれている。「望みはない。私の依頼人は全員死ぬ。彼女たちを診たすべての医学的権威がそう言っている」。
そしてパール・ペインの言葉。「私はそのことをくよくよ考えないようにしています。私には私なりの幸せがありました。人生は良いものでした。私は生きるという希望の中で生きています」。
その他にも、記憶は各所に残った。ホロロジカル・ソサエティ・オブ・ニューヨークは、女性の時計技師を目指す学生のための「グレース・フライヤー奨学金」を設けている。時計を作る仕事に就こうとする若い女性が、時計に殺された女性の名前の奨学金を受け取る。悪い循環ではないと思う。
ドノヒュー家がノースウェスタン大学に寄贈したスクラップブックはデジタル化されて公開されている。国立公文書館には、スーパーファンド事業の過程で発見された企業側の記録が3768点、デジタル画像として収められている。原本の紙は放射能汚染のため廃棄された。皮肉な話だ。記録すら被曝していた。
1951年、写真雑誌のライフが特集を組んで、この話を戦後の読者に思い出させた。きっかけは1949年に副鼻腔がんで死んだフローレンス・コーラー・キャスラーという女性だった。彼女は1917年に入社していた。32年後に、彼女の顔の骨で腫瘍が育った。
骨は、まだ光っている
ラジウムの塗料が禁止されるまで、1960年代までかかった。最後の文字盤塗装施設が閉じたのは1978年である。フォン・ソコッキーがあの配合を思いついてから、65年が経っていた。
その65年のあいだに、いったい何人が死んだのか。正確な数字は、誰も持っていない。1927年までにオレンジだけで50人以上が死んだとされる。オタワでは50年間に約40人。コネチカットで30人以上。だがこれは、はっきり記録に残った分だけだ。診断がつかないまま「貧血」「ジフテリア」「アンギナ」「結核」として葬られた女性が、どれだけいたかはわからない。
ひとつだけ確かなことがある。彼女たちの体は、まだ終わっていない。
セント・コロンバ墓地の土の下で、ローズデール墓地の土の下で、アレゲニー墓地の鉛の棺の中で、崩壊は続いている。1個の原子核が壊れ、アルファ粒子が飛び出し、また次が壊れる。会社は消え、判事は死に、新聞社はつぶれ、法律は書き換えられ、工場の跡地は駐車場になった。
でも骨は、光っている。
――だから、これは終わった話ではない。
「無知の悲劇」として理解するのを、やめたほうがいい
ここからは、上で書ききれなかったことと、私自身がこの取材で引っかかった点を、もう少し踏み込んで書く。
私たちはつい、こう考える。当時の人はラジウムが危険だと知らなかった。だから可哀想なことが起きた。科学が進んだ今の私たちは、あんな間違いはしない。
これは半分だけ正しくて、決定的に間違っている。
危険は知られていた。1896年の時点で、エックス線による皮膚障害の報告が出ている。トーマス・エジソンの助手クラレンス・ダリーは、放射線皮膚炎から腕を切断し、1904年に死んでいる。キュリー夫妻自身がポケットに試料を入れて皮膚に潰瘍を作っていた。ラジウムが皮膚を焼くことは、扱う人間にとって常識だった。ユナイテッド・ステイツ・ラジウム社が医療関係者向けに配った印刷物には、危険と有害な影響についての項目があった。そして何より、同じ工場の中で、化学者は鉛の後ろに座っていた。
つまり、「誰も知らなかった」のではない。「体外の被曝は危ないが、体内に入れるのはむしろ健康に良い」という、都合が良すぎる二重基準が成立していたのだ。ラジソールが売れていたのはまさにその理屈による。飲めば良い、触ると焼ける。これが同時に信じられていた。
科学史的に言えば、体内に取り込まれた放射性核種の危険性――「内部被曝」という概念そのもの――が、当時まだ存在していなかった。マートランドとフォン・ソコッキーが呼気のラドンを測ったあの日、その概念が生まれた。だから正確には、こう言うべきだ。彼女たちは、人類がまだ持っていなかった概念の犠牲になり、その死によってその概念を人類に与えた。
さて、ここからが引っかかりどころだ。
私がいちばん唸ったのは、加害と規制が同じ人間の中に同居していたことだ。フレデリック・フリンは、ユナイテッド・ステイツ・ラジウム社に雇われてグレース・フライヤーに「あなたは私と同じくらい健康だ」と言った男である。ウォーターベリーでも同じことをやった。医師免許を持たずに医師のふりをしていた。にもかかわらず、1941年の国立標準局ハンドブック27を作った9人委員会に彼はいる。エバンズ、マートランド、ファイラと並んで、労働者を守る基準に署名している。
これをどう解釈すべきか。二通りある。ひとつは、当時この分野の定量的な知見を持つ人間が本当に数えるほどしかいなかったから、加害側の専門家も動員するしかなかった、という現実的な読み。もうひとつは、専門知の世界には、企業に雇われた仕事も学術的経歴の一部としてカウントされる回路があった、という構造的な読み。私はどちらも正しいと思う。そして、この構造は現在も生きている。企業の委託研究をやった専門家が、翌年その分野の規制委員会に座る。これは告発ではなく、ありふれた現実の記述である。
ドリンカーが黙ったのは、黙る以外の選択肢がなかったからだ
もうひとつ考え込んだのは、ハーバードのセシル・ドリンカーの振る舞いだ。
彼は正しい調査をした。正しい結論を出した。正しい勧告をした。そして訴訟をちらつかされて、いったん引っ込んだ。同僚のアリス・ハミルトンが偽造の証拠を突きつけるまで、公表しなかった。
責めるのは簡単だ。だが、彼は雇われて調査に入っている。守秘の合意があったと言われている。研究者としてのキャリアと、大学と、家族がある。訴えられれば個人が破綻する。この状況で「それでも公表せよ」と要求するのは、事実上、一人の人間に殉教を求めることだ。
だから、ドリンカーの一件から引き出すべき教訓は、個人の勇気の話ではないと思う。個人の勇気に依存しなければ真実が出ない仕組みが間違っている、という話だ。現代の内部告発者保護法制も、研究不正の通報制度も、企業からの委託研究における公表権の事前合意も、全部この問題への対処である。100年前の彼が黙ったのは、彼が弱かったからではなく、黙る以外の合理的選択肢が用意されていなかったからだ。
そしてアリス・ハミルトン。この人の役回りは、もっと語られていい。
彼女は実験室で決定的な発見をしたわけではない。彼女がやったのは、人と人をつなぐことだった。消費者連盟に伝手があり、州の労働局の動きを掴み、ドリンカー夫妻に手紙を書き、ニュージャージー消費者連盟のキャサリン・ワイリーと連携し、統計家を引っ張ってきた。情報が組織の壁で止まるのを、彼女は個人の関係で乗り越えた。
情報の非対称に対抗する武器は、しばしば別種のネットワークである。企業は情報を垂直に統制する。それを破るのは、水平につながる誰かだ。ワイリーが動かなければ、ハミルトンは偽造報告書の存在を知らなかった。ハミルトンが動かなければ、ドリンカーは公表しなかった。ドリンカーが公表しなければ、州労働局は命令を出さなかった。ひとつでも欠けたら、この鎖は切れていた。
記憶されるかどうかを決めるのは、被害の大きさではない
被害の規模について、あえて冷たい話をしておく。
ラジウム文字盤工の悲劇は、人数だけを見れば、20世紀の産業災害としては大きくない。アスベストは桁が三つ違う。炭鉱の塵肺も違う。にもかかわらず、この事件が繰り返し語られるのはなぜか。
理由は三つあると思う。第一に、症状が視覚的にあまりにも劇的だったこと。骨が崩れる、体が光る、遺体が放射線を出す。これは物語として強すぎるほど強い。第二に、被害者が若く、写真映えする女性たちで、当時のタブロイド報道と相性が良かったこと。「死を宣告された5人の女たち」というコピーは、悲しいことに、よく売れる。第三に、この事件が原子力時代の直前に起きたため、その後の全放射線防護体系の礎になったこと。つまり、影響力が被害規模に比して異様に大きかった。
ここには居心地の悪さがある。もし彼女たちが年配の男性労働者だったら、これほど語られただろうか。コネチカットの被害者たちが、ニュージャージーの5人ほど記憶されていないのはなぜか。答えは単純で、裁判にならず、新聞に載らなかったからだ。記憶されるかどうかを決めるのは、被害の大きさではなく、可視性である。
だからこそ、あえて名前を書いておきたい。フランシス・スプレットストッカー。ミルドレッド・カードー。メアリー・ダムリス。キャサリン・ムーア。エリザベス・ダン。彼女たちは、静かに払われ、静かに死に、記録に残らなかった側の人たちだ。ウォーターベリーの16人に払われた9万ドルは、口止め料としてよく機能した。裁判にしないという企業の判断は、賠償額の抑制という意味では、極めて合理的だった。ある家族が受け取った43ドル75セントという数字を見るたびに、私は気分が悪くなる。
彼女たちの敗因は、事実でも科学でもなく、カレンダーだった
この事件の法的な核心は、時効である。ニュージャージーの2年、コネチカットの3年。これは制度の欠陥というより、制度の想定外だった。
19世紀から20世紀初頭にかけての労災法は、事故を想定して作られている。落ちる、挟まれる、焼ける。原因と結果が同じ日に起きるものだ。
潜伏期間のある職業病は、この枠組みを根本から壊す。原因と結果の間に10年、20年の空白がある。その空白の間に、労働者は退職し、会社は法人を着替え、証拠は散り、記憶は薄れ、時効は完成する。
後年生まれる「発見主義」――損害を知った時、あるいは知りえた時から時効が進むという考え方――は、まさにこの穴を塞ぐために出てきた。ラジウム文字盤工たちは、その考え方が生まれる前の時代に落ちてしまった。ラポート事件で連邦地裁が「時効は請求を阻却する」と明言したとき、法的にはそれで終わった。
イリノイのケースがさらに教訓的なのは、法律が一度壊されたことだ。1935年4月17日、イリノイ州最高裁は職業病法そのものを無効にした。会社側は「安全な職場を提供する義務を課すこと自体が違憲だ」と主張し、裁判所はそれを容れた。今から見れば正気の沙汰ではないが、当時のアメリカの司法には、経済的自由を理由に労働規制を叩き潰す強い潮流があった。この時代の合衆国最高裁が、ニューディール立法を次々に違憲としていたのと同じ空気である。
そして1936年、労働側は正面突破をあきらめて、製造業者協会と直接取引をした。妥協の産物としての新法。理想からは程遠い。でもそれがあったから、ドノヒューは勝てた。制度は、しばしば汚い交渉の産物としてしか前に進まない。この点は、きれいごとを抜きにして記憶しておくべきだと思う。
会社は死なない。着替えるだけだ
ジョセフ・ケリーがラジウム・ダイヤル社を追われた後、同じオタワにルミナス・プロセシズ社を作ったという事実は、この物語の中でも特に苦い。同じ町で、同じ仕事を、同じやり方で続けた。会社の名前を変えると、法人としての責任は原則としてつながらない。この抜け穴は、今もアスベスト訴訟や薬害訴訟で使われ続けている。
そしてルミナス・プロセシズは1976年、基準の1666倍という放射線量を突きつけられて、1978年に閉じた。1978年である。ラジウム・ガールズの提訴から51年後だ。同じ町で、同じ物質を、半世紀にわたって扱い続けていた。
この期間の従業員たちが、リップ・ポインティングをしていなかったのは事実だ。1920年代後半に廃止されている。だが、粉塵はあった。1984年の報道によれば、夏の暑い日には扇風機がラジウムを含む埃を部屋中に舞い上げていた、と元従業員が証言している。彼女たちは埃まみれの作業着のまま、町のカフェで昼を食べていた。50年間で約40人が腫瘍やがんで死んだ。
さらに、解体された建物のレンガを住民が持ち帰り、学校が机を再利用したという話。これが、私がこの取材で最も背筋が寒くなった細部かもしれない。誰も悪意がない。もったいないから使う。良いレンガだから使う。その結果、汚染が町の毛細血管に染み込んでいく。1986年の航空調査で14か所の汚染地点が見つかったとき、そこには自動車販売店も、陸上競技場も、週末にフリーマーケットが立つ空き地も含まれていた。
現代の私たちが学ぶべきは、たぶんここだ。汚染は集中管理されている間はまだ扱える。それが「もったいない」の論理で分散したとき、手に負えなくなる。
国家が彼女たちに強い関心を持ったのは、死にかけてからだった
科学倫理の話も、もう少し掘っておきたい。
アルゴンヌ国立研究所の人体放射線生物学センターが、生存者を30年以上呼び出し続け、結果を返さなかったという事実は、現代の研究倫理からすれば完全にアウトである。だが、当時これは違法でも異常でもなかった。1968年にセンターができた時点では、被験者の知る権利という概念が制度化されていない。合衆国で人体実験の倫理審査が本格的に義務化されるのは、1970年代の後半以降だ。
同じ時期に、より悪質な事例もある。人体へのプルトニウム注射実験。同意なしに18人に放射性物質が注射された件は、1990年代に大問題になった。ラジウム文字盤工の研究は、少なくとも同意を取っていた。彼女たちは「二度と同じことが起きないように」という動機で協力していた。
だから、これを単純に非難したくはない。ただ、この非対称は指摘しておきたい。国家は彼女たちに、生きているあいだ何も与えなかった。会社が嘘をついているとき、州は動かず、連邦は無関心だった。彼女たちが死にかけて初めて、国家は彼女たちの体に強い関心を持った。そして基準を作り、原爆計画の労働者を守った。
キャサリン・シャウブは死ぬまで作家になりたがっていた。彼女は「ギャンブリング・ウィズ・ラジウム」という回想録を書き、その一部を発表した。全編の原稿は、彼女の死後、家族が焼いた。理由はわからない。恥だと思ったのかもしれない。悲しすぎて手元に置けなかったのかもしれない。あるいは、放射性の指紋がついていると恐れたのかもしれない。
彼女は独学を続けていた。病床から、コロンビア大学の通信講座を受けていた。31歳で死んだ女性が、死ぬまで勉強していた。この一点だけで、私は彼女たちを「被害者」という名詞だけで呼ぶ気になれない。
グレース・フライヤーが2年かけて弁護士を探したことも、同じ意味で重い。2年である。断られ続けて、断られ続けて、それでも探した。彼女は労働組合の代表を父に持ち、投票の意義を人前で語る人だった。つまり、権利という言葉を知っていた。知っていたから、諦めなかった。
キャサリン・ドノヒューが、自分の顎の骨を箱に入れて法廷に持ってきたことも同じだ。あれは感情的なパフォーマンスではない。証拠の提出である。彼女は自分の体を証拠にした。医師に余命を聞いて倒れたのは、その日まで、彼女がまだ希望を持っていたことを意味する。71ポンドまで痩せて、顎の骨を箱に入れて持ってきて、それでもまだ「治るかもしれない」と思っていた。
私はこの細部が、この事件のなかでいちばん人間的だと思っている。
100年前の台本は、いまも使われている
最後に、現代への接続を三つ挙げて終わりにする。
ひとつめ。危険が発覚したときの企業の初動パターンは、100年間ほとんど変わっていない。まず社外の権威に調査を発注する。結論が不都合なら公表を止める。都合の良い専門家を別に雇う。被害者の信用を落とす。法人を再編する。時効を待つ。ラジウム、アスベスト、タバコ、鉛、有機フッ素化合物。台本は同じである。だから私たちは、次に同じ台本が使われたとき、少なくとも「ああ、これか」と気づくことができるはずだ。
ふたつめ。安全対策が労働者の収入を減らす設計になっている限り、対策は守られない。オタワの女性たちがガラスペンを捨てて筆に戻ったのは、彼女たちが愚かだったからではない。出来高払いだったからだ。現代のギグワーカーの安全も、配送ドライバーの労働時間も、同じ構造の中にある。設計を変えずに教育だけやっても意味がない。
みっつめ。因果関係の証明を被害者個人に背負わせるのは、無理がありすぎる。20代の女工が、企業と、州と、専門家の壁を越えて、内部被曝と骨肉腫の因果を立証する。それを2年以内にやれと法律が言う。この構図の理不尽さは、現代の公害訴訟や薬害訴訟でも本質的に変わっていない。証明責任をどこに置くかは、単なる技術論ではなく、誰を守るかという選択である。
彼女たちは、この三つを全部、自分の骨で証明した。
そして骨は、まだそこにある。まだ光っている。マートランドの計算が正しければ、あと1500年ほど、彼女たちは自分の墓の下で線量計を鳴らし続ける。
覚えておくのに、それだけの時間があるということだ。
