スウェーデン中部、ホルンダルという小さな町のアパート。真昼なのにカーテンは閉め切ってある。二段ベッドの下段に姉、隣のベッドに妹が寝ている。黒い髪が枕の上に扇みたいに広がっていて、肌つやはいい。頬もこけていない。ただ、目を開けない。
姉は二年半、妹は半年以上、そうしている。鼻に細い管が一本入っていて、テープで頬に留めてある。二人を生かしている通路は、それだけだ。
この写真は二〇一七年、スウェーデンの写真家マグヌス・ヴェンマンが撮ったものだ。翌年の世界報道写真コンテストで賞を取った。写っているのはジェネタとイバデタという姉妹。ロマ系の難民家庭の子だ。巡回展でこの写真を見た人の多くは、たぶん同じことを考えたと思う。難病か。事故か。何かの中毒か。
全部違う。医学的には、この子たちはどこも悪くない。
検査を全部やって、全部正常だった
血液検査、尿検査、頭部の断層撮影、脳波。ひととおりやった。全部正常。脳波を取ると、睡眠と覚醒のサイクルまできれいに出る。つまり彼女たちは、医学的な意味では昏睡していない。夜になれば眠り、朝になれば起きている。
なのに、起きているはずの時間にも目を開けない。動かない。話さない。食べない。排泄も自力ではできない。そして痛みに反応しない。胸骨を強くこすっても、眉の上を押しても、爪の根元を圧迫しても、顔がぴくりともしない。
スウェーデン語ではこの状態をウップギヴェンヘーツシンドロームと呼ぶ。直訳すると「あきらめ症候群」。英語圏ではレジグネーション・シンドローム。日本語だと「あきらめ症候群」か「生存放棄症候群」と訳される。オーストラリアでは「外傷性引きこもり症候群」という名前がついた。
ここからが本題だ。この病気には、まともに考えるとおかしい条件が三つある。
ひとつ。患者は全員、子どもか若者だ。おおむね七歳から十九歳。平均すると十四歳くらい。大人はならない。
ふたつ。患者は全員、亡命申請中の家庭の子どもだ。スウェーデン人の子には一例も出ていない。親を伴わずに単身で来た未成年にも、ほとんど出ていない。
みっつ。この病気は二十年以上のあいだ、ほぼスウェーデンにしかなかった。
一九九〇年代の末から二〇二〇年ごろまでに、少なく見積もっても千人以上の子どもがこの状態に落ちた。二〇〇三年から二〇〇五年までのわずか二年ちょっとで、スウェーデン児童精神医学会の全国調査が確認しただけで四百二十四人。うち三分の一ほどが経管栄養を必要としていた。
国境を尊重する病気なんて、そんなものがこの世にあるだろうか。あるいは、あるように見える現象が二十年も続いたとき、それを何と呼べばいいのか。
これは、その二十年の話だ。医学と政治とジャーナリズムが、同じ子どもの体をめぐって殴り合った話でもある。そして、その殴り合い自体が病気を作っていたかもしれない、という話でもある。
沈んでいく順番が、いつも同じだった
臨床記録を読むと、この病気の進み方には気味が悪いほど決まった型がある。
ウプサラ大学のアンネ・リース・フォン・クノリングらが二〇一〇年から二〇一八年にかけて診た最重症四十六例の記録。それからカロリンスカ大学病院のヨーラン・ボーデゴードが二〇〇四年に出した五例の記録。この二つを並べて読むと、同じ映画を二回見ている気分になる。
最初の変化は、たいてい大人が見落とす程度のものだ。学校の成績が落ちる。宿題をしなくなる。夜に眠れなくなる。親が最初に気づいた症状として一番多かったのは「怯え」と「口数が減ったこと」で、四十六例のうちそれぞれ十一例。次が睡眠障害で九例。気分の落ち込みが五例、引きこもりが五例。食欲不振から始まった子が二人、脚に力が入らないと訴えた子が二人、いらいらが目立つようになった子が一人。
次の段階で、遊ばなくなる。友達と遊ばなくなって、そのうち一人でも遊ばなくなる。学校に行けなくなる。この頃には親も明らかにおかしいと気づくが、まだ「落ち込んでいるだけ」に見える範囲だ。
そして話さなくなる。言葉が少しずつ減っていって、ある日、完全に止まる。緘黙だ。
その次が食事。食べない。飲まない。ここで決定的になる。というのも、食べないことだけは交渉の余地がないからだ。四十六例のうち四十四例が、救急外来に運び込まれた時点ですでに脱水と電解質異常を起こしていた。ファールン中央病院のあるカルテには、こう書いてある。飢餓に関連して血中の塩類に重篤な乱れが生じている、と。
そして最後の段階。スウェーデンの臨床現場ではこれを「グレード2」と呼ぶようになった。仰向けに横たわって、目を閉じたまま、まったく動かない。筋肉は硬直しているのではなく、逆に弛緩している。抱き起こそうとすると、ぬいぐるみみたいにぐにゃりとなる。立たせようとしても膝が折れる。声をかけても、体を揺すっても、冷たいものを腹に置いても、痛みを与えても、何も返ってこない。ほとんどの子が失禁と失便を伴う。
この状態が数か月続く。長い子だと数年続く。
一段階手前、つまり声をかければ何か反応があって、支えれば歩けて、スプーンで口に運べば食べられる状態を「グレード1」と呼んだ。グレード1で止まる子もいる。そこからさらに沈んでいく子もいる。
医師たちが一番薄気味悪く感じたのは、身体所見が「神経疾患そのもの」に見えることだった。ボーデゴードは自分が診た五例について、こう書いている。完全に発症すると臨床像は全身性の神経疾患のようになる。弛緩性の麻痺があって、生命維持に必要な基本機能以外のすべてが脱落している、と。
ところが何度神経学的診察をやっても、何も見つからない。
消えないもの、そして「聞こえていた」という証言
一方で、消えないものもある。瞳孔は光に反応する。心拍はある。血圧もある。それどころか、同年代の平均よりむしろ高いことが多い。
英国の神経科医オサリバンが二〇一八年にノラという十歳の少女を診たとき、驚いたのはそこだった。無気力に眠っているはずの子の顎の筋肉が固く食いしばられている。まぶたがきつく閉じられている。心拍が速い。「無気力」というより、全身で何かに耐えているように見えた。
彼女は後にこう書いた。あきらめ症候群という名前は誤称かもしれない。これは「完全な恐怖症候群」と呼ぶべきものかもしれない、と。
もうひとつ、回復した子どもたちが証言している事実がある。彼らには記憶があるのだ。
ボーデゴードの五例は全員、回復後に「聞こえていた」と語った。誰が部屋に来たか分かっていた。何を話していたかも分かっていた。まったく接触不能に見えた期間について、健忘はなかった。
これは臨床的にはとんでもない話だ。痛覚刺激に反応しない人間が、その間ずっと部屋の会話を聞いていたことになる。
ロシアの北オセチアから来たゲオルギという少年は、寝たきりだった数か月の感覚をこう表現した。深い海の底に沈められたガラスの箱の中にいるようだった。壁は薄くて、自分が少しでも話したり動いたりしたら、ガラスが割れる。水が流れ込んできて、自分は死ぬ。だから動かなかった、と。
「意志というものが、もう自分になかった。体全体が水みたいだった」とも彼は言っている。
すべての始まり、一九九八年ルレオの少年
最初の一例がいつだったかについては、だいたい合意がある。一九九八年だ。
北スウェーデンのルレオにある児童青年精神科の外来に、十五歳とも十七歳とも記録されているチェチェン系の少年が現れた。家族は第一次チェチェン紛争から逃れて、いったんロシアのムルマンスクに亡命を求めた。そこで少年は暴行を受けたとされている。それからスウェーデンに来て、在留を拒否された。
少年は食べなくなり、話さなくなり、歩かなくなった。担当した児童精神科医はラーシュ・ヨエルソンという人物で、彼は後にこの分野の議論の中心にいる一人になる。
九か月後、決定が覆って家族に在留資格が下りた。少年は四週間で完全に回復した。
この一件が、その後二十年ぶんの「筋書き」を丸ごと決めてしまった。原因は迫害と亡命手続きのストレスであり、治療は在留許可である。あまりにきれいに閉じた物語だったせいで、誰も疑わなかった。
そして二〇〇〇年代に入ると、患者数が跳ね上がる。
現れて、増えて、消えた
数字を並べていくと、この現象が「病気」というより「流行」に見えてくる。それは避けようがない。
二〇〇三年から二〇〇五年六月までの調査で四百二十四人。二〇〇六年に大規模な恩赦的措置が取られたあと、統計の取り方が変わって連続性が切れる。
二〇一四年七月一日、スウェーデン社会庁がウップギヴェンヘーツシンドロームを、スウェーデン版の国際疾病分類に独自コードとして正式登録した。ICD一〇スウェーデン版のF三二・三A。ついでに「難民および庇護申請者としての地位に付随する問題」という付加コードまで作った。これで初めて全国患者登録による集計ができるようになる。
二〇一四年から二〇二〇年までの七年間で、四百二十六人が入院または専門外来で治療を受けた。年別に見ると二〇一七年が新規六十二人でピーク。ところが、そこから急降下する。二〇二〇年は新規十二人。二〇二一年は新規六人。その年に治療を受けた総数も、二〇一七年の百八人から二〇二一年は二十三人まで減った。二〇二二年の新規は一人から三人。二〇二三年と二〇二四年については、スウェーデン政府の閣僚が国会でこう答弁している。近年、非常に症例が少ないことを喜ばしく確認できる、と。
現れて、増えて、消えた。それがこの病気の全体像だ。
減った理由が「難民自体が減ったから」ではないことも、数字で押さえられている。二〇一七年から二〇二二年にかけてスウェーデンの庇護申請者は全体で三十四パーセント減った。あきらめ症候群の患者を多く出してきた地域、つまり旧ソ連諸国、旧ユーゴスラビア、トルコから来た六歳から十七歳の申請者に限っても、減少は五十四パーセント。
ところが症例数の減り方はそれをはるかに上回る。九割以上減っている。
何かが起きた。それが何だったのかが、この物語の核心になる。
「永住権こそが最良の薬です」
まずは、二十年にわたって支配的だった説明のほうから見ていこう。
理論の骨格を作ったのは、ストックホルムのカロリンスカ大学病院ユージニア児童病棟の児童精神科医、ヨーラン・ボーデゴードだ。二〇〇四年、スウェーデン医師会誌に「うつ病性生気喪失の症例報告」という論文を出した。生気喪失、デヴィタリゼーション。生きる力が抜け落ちるという意味の造語だ。
彼が診た五例は全員、家族ごと病棟に入院させた。全員が同じ経過を辿った。進行性の受動性、引きこもり、緘黙。そして「したがらない」が「まったくできない」に変わっていく。二人が尿便ともに失禁、三人が尿失禁。五人全員が経管栄養を必要とし、二人は入院時点で点滴による輸液が必要だった。
ボーデゴードが特に注目したのは、母親の振る舞いだ。母親たちは、死にかけている子を看取る人の姿勢を崩さなかった。病室は重苦しく閉ざされていて、誰もが忍び足で歩き、囁き声で話し、子どもに直接話しかけることはなかった。子どもの存在はベッドの盛り上がりからかろうじて察せられるだけだった。
入院から何週間経っても、母親たちは病院が子どもの病気を理解しているとは信じなかった。うちの子は本当に死にかけているのだと言い張った。医療者が子どもを実験台にして、重症度について嘘をついているのではないかと疑う母親までいた。
ボーデゴードはこれを「致死的母性」と名づけた。母親が絶望を生きて見せることで症状が維持され、母親が生きる勇気を取り戻すことで子どもが蘇生する。そういう力学だ。
実際、五例すべてで、母親の態度が変わってから子どもが動きはじめた。
では、母親の態度を変えた出来事は何だったのか。家族への永住許可の交付である。
許可が下りてから経管栄養を外せるまでの期間は、一週間強から一か月。その長短は、母親がその朗報を自分の中に統合するのにかかった時間とぴったり相関していた、とボーデゴードは書いている。
彼はこの状態を、英国のブライアン・ラスクらが一九九一年に報告した「全般性拒絶症候群」の変種ではないかと考えた。ラスクの原著は九歳から十五歳の子ども四人の症例だ。食べること、飲むこと、歩くこと、話すこと、身の回りのことをする一切を、数か月にわたって深く広範に拒絶する状態を記述している。
ただしラスクの患者たちは「怒って積極的に拒む」。援助の手を払いのける。ボーデゴードの難民の子どもたちには、それがなかった。積極的な拒絶が出てくるのは、むしろ回復しはじめてからだった。回復期には夜間のパニック発作が全員に出た。一人の少年は回復期に自ら命を絶とうとした。
それでもボーデゴードの結論は明快だった。耐えがたい生活条件の下に置かれた子どもは、生命を脅かすほどの抑うつ性引きこもり反応を起こしうる。家族の恐怖と絶望を消し去れば治る。そして家族の恐怖と絶望を消し去る唯一の手段は、この国に留まってよいという確約である。
二〇一三年、社会庁が出した全国向けの手引きは、この理論をほぼそのまま採用した。文書にはこうある。これらの家族の看護に直接携わっている治療者の間では、永住許可が群を抜いて最も効果的な「治療」だと考えられている。在留許可の件そのものに何かが動きはじめたことが家族に見えてこない限り、どんな治療も家族には切迫したものに感じられない、と。
医師たちは診断書を書いた。この子が回復するには安定した安全な環境が必要である、と。移民庁と移民裁判所はその診断書を読み、人道的配慮を理由に在留を認めた。
医療が、法的手続きの中に組み込まれた。ここが、後にすべての批判が集中する一点になる。
二〇〇五年、国が真っ二つに割れる
二〇〇五年、この問題はスウェーデンの政治を丸ごと呑み込んだ。
三月、スウェーデン教会が主導し、多数の非政府組織と複数の政党が支持する「復活祭アピール」が出された。あきらめ症候群の患者とその家族に亡命を認めよ、という要求だ。教会が動いたことで、これは単なる医療問題ではなく国民的な道徳の問題になった。
自由党の議員はこう発言している。うつ病性生気喪失の状態に陥った子ども、いわゆる無気力な難民の子どもたちは、きわめて深刻な状況にある。我々がこの子たちに人道的で尊厳ある扱いを与えられないのはスウェーデンの恥である、と。
政権与党の社会民主党は追い詰められた。政権崩壊寸前まで行き、それを回避するために二〇〇六年、事実上ほぼすべての子連れ亡命申請家族に在留を認める立法措置が取られた。医療上の必要の有無を問わない、包括的な措置だった。
しかしその裏側では、まったく逆向きの力も働いていた。
二〇〇五年十一月、移民庁は十三件を警察に告発した。家族が在留許可を得やすくするため、無気力な子どもを故意に虐待した疑いがあるという。告発内容には、治療施設で親が子どもの生命維持に必要な栄養剤を流しに捨てていたという話が含まれていた。無気力とされる子が少なくとも二件、中毒症状を示して病院に運ばれたという話もあった。
当時の社会サービス担当大臣モルガン・ヨハンソンはテレビでこう述べた。虐待に関するこれらの情報は、無気力な子ども全員に在留許可を与えたくないという政府の立場が正しかったことを示している。議論はこれまで、子どもたちの具合が悪いのは難民政策のせいだという前提で行われてきた。実際には他の要因もありうる。親の言い分だけを鵜呑みにするわけにはいかない、と。
左翼党からも、与党の青年組織の委員長からも批判が飛んだ。当時の首相ヨーラン・ペーションは、無気力な難民の子どもを強制送還しないという協力政党との合意は維持されると火消しに回った。
二〇〇六年三月八日、警察はストックホルム近郊の三家族の家に家宅捜索に入った。法医が子どもたちの身体検査を行い、各種の検体を採取した。
結果は、何も出なかった。十数件の捜査すべてが不起訴で終わった。
報告書が出て、テレビ番組が解体した
政府は二〇〇四年九月二日、「亡命手続き中のあきらめ症状を持つ子ども」に関する全国調整官を任命した。マリー・ヘッスレという心理学者だ。社会学者のナデル・アフマディが調査官として加わった。
ヘッスレらは二〇〇五年に二本の中間報告、二〇〇六年春に本報告を出した。政府公式報告書、二〇〇六年公式調査第四九号である。
この報告書が言ったこと、あるいは言ったと受け取られたことが、決定的な火種になった。
要点はこうだ。子どもたちが発症する理由について一般的な説明は見つからなかった。ただし個別の症例を説明しうる状況として、さまざまな要因が挙げられる。その中には「操作」と「詐病」も含まれる。子どもたちは在留許可が下りるとしばしば回復する。家族の出身国の状況を調べたところ、この問題は現地では知られていなかった。出身国での外傷的な出来事が、ごく一部の例外を除いてスウェーデンでの発症を説明できるという証拠は見つからなかった。むしろ親の責任、親の不安と落胆に子どもがさらされることのほうが大きい。
ヘッスレが「操作や詐病が四分の一の症例に存在した」と発言したと報じられたとき、中央党、自由党、キリスト教民主党、環境党、左翼党の代表が調査の中止または見直しを要求した。
そして二〇〇六年九月十九日、午後八時。スウェーデン公共放送の看板調査報道番組ウップドラーグ・グランスクニングが「無気力な子どもたちをめぐるゲーム」を放送した。制作したのはフリーランスのジャーナリスト、ゲッレルト・タマスとリサーチャーのモーテン・スヴァンベリ。
番組の主張は苛烈だった。政府の調査は噂と嘘と純粋な事実誤認の上に成り立っている。調査官たちは、無気力な難民の子どもという現象はスウェーデンにしか存在せず、子どもたちは薬物を盛られ毒を盛られており、詐病を演じていると記述した。しかし、操作の証拠も詐病の証拠も、確認された事例は一件も存在しない。子どもたちの症状は新しくもなければスウェーデン固有でもなく、在留許可が下りてもすぐには治らない。詐病についての記述の唯一の典拠は、医療業界紙に載った一本の意見記事である。毒物についての記述の典拠は、名前の挙がった医師一人だけである。
この番組は世論を決定的に一方に振り切った。
ヘッスレとアフマディは放送審査委員会に申し立てを行い、番組の記述十四項目を逐一反論した。自分たちの報告書のどこにも、無気力が新しい現象だとは書いていない。スウェーデンだけに起きるとも書いていない。書いたのは、五年という限られた期間に四百人を超える庇護申請中の子どもが、しかも世界の特定の地域から来た子どもに集中して発症するという「同種の現象」が、他国では起きていないという事実だけである。操作と詐病は、個々の症例を説明しうる複数の状況のひとつとして挙げたにすぎない、と。
二〇〇七年三月、審査委員会は番組を「不偏性・客観性に反しない」として免責した。ヘッスレにはコメントの機会が提供されたが本人が断ったため、偏向を認定できないという判断だった。
タマスは二〇〇九年、この取材を『無気力な者たち――権力と神話と操作について』という一冊にまとめた。専門家会議の議事録も彼の側を支持した。二〇〇五年春にウプサラで開かれた最初の学術会議、二〇〇七年五月にヨーテボリで開かれた二回目の会議、いずれも参加した内外の専門家は、操作と毒物投与を集積の説明として退けることで完全に一致した、と記録している。
二〇一〇年二月には社会庁自身が予備調査報告を出した。あきらめ症状という現象は古くから知られており、少なくとも十七世紀まで遡る記述がスウェーデン内外の文献にある。これは新しくもスウェーデン固有でもない。症状は操作ではありえない。そう結論づけた。
事実上、勝負はついたように見えた。
そして十三年後、それがひっくり返る。
二〇一九年、雑誌『フィルテル』が掘り返したもの
スウェーデンのルポルタージュ月刊誌『フィルテル』が「聞かれなかった叫び」という長編記事を載せたのは、二〇一九年九月二十三日だ。書いたのはウーラ・サンドスティグ。前年の秋から取材を始めていた。
彼のやり方は執念深い。「無気力な」または「あきらめ症候群」というスウェーデン語が出てくる判決と公文書を、見つけられる限り全部読んだ。三千件あった。そのうち多くは家畜が無気力な状態で放置されていたという動物虐待の案件だったが、残りを他の判決、公文書、住民登録と突き合わせた。ヘッスレの三つの政府調査が国立公文書館に残した資料、十七の書類綴じ、約五千ページを全部当たった。医療者、精神科医、治療者、看護師、警察官、国境警備官、通訳、公務員、ジャーナリスト、難民家庭など、百人以上に会った。
そして彼は、二人の人物を見つけた。かつて「無気力な子ども」だった、いまは成人した男女である。
一人はアナヒット・アラケリヤン。取材時二十歳。家族は二〇〇四年に庇護申請者としてスウェーデンに来て、在留を認められず、強制送還の脅威にさらされていた。二〇〇九年の秋、彼女が十歳のとき、父と継母が決めた。あなたは無気力になる、と。
与えられた指示はこうだった。しゃべるな。笑うな。一人で外に出るな。何にも反応するな。
学校は辞めさせられた。彼女はこう語っている。継母が家じゅうに匂いが立ちこめるほどの料理を作ることがあった。でも自分は食べさせてもらえなかった。ときどきこっそり起き上がってパンの切れ端か何かを取った。おなかがすいて仕方なかったから、と。
十一月二十三日、ストックホルム近郊の自治体の児童青年精神科であきらめ症候群の検査が始まった。カルテには、ますます内向的になり、ほとんど食べず、自室で一人でいたがるとだけ書かれている。
無気力の期間は一年弱続いた。それが終わったのは、父が発覚を恐れたからだ。二〇一〇年六月のカルテにこうある。どういうきっかけでベッドから起き上がって外で遊んだり話したりするようになったのかと尋ねたところ、彼女は「パパがベッドから起きろと言った」と答えた、と。
数週間後、彼女は児童青年精神科の面談中にビーズ細工でブレスレットを作っていた。
スウェーデンの規則では、症状の偽造による児童虐待の疑いは、子どもに関わる医療従事者が直ちに通報しなければならない。刑事告発も検討されなければならない。
何も起きなかった。
彼女は後に里親家庭に置かれ、自分自身の資格で在留許可を得た。腕には傷跡が残った。「走っているのに転び続けているような感じ。後ろを振り返って何か落としたか確かめる時間もない。私は生きてこなかった。ただ生き延びなければならなかっただけ」と彼女は語っている。
「目を開けると、首の後ろを殴られた」
もう一人は、記事で「ネルミン」と呼ばれた男性だ。二〇〇五年の秋、セルビアから北端の町キルナに家族と来た。数か月後に庇護申請が却下され、そこから彼の「病人」としての生活が始まる。
彼の証言はもっと生々しい。両親は彼を車椅子に座らせた。まともな食事を与えず、栄養ドリンクだけを与えた。友達に会わせなかった。医療者には嘘をついて、この子はてんかん発作を起こすと説明した。
「目を開けちゃいけなかった。でもずっとは我慢できない。開けると、首の後ろに思い切りぶん殴られた」
誰も見ていないとき、彼は自分の部屋で何歩か歩くことを許された。でもそれでは足りなかった。脚は痩せ細り、腱と関節が固まっていった。もう走ることもサッカーをすることも一生できないんじゃないか、と彼は思った。バニラ味でもチョコレート味でもイチゴ味でも同じことで、液体しか与えられない体は食べ物を求めて叫んでいた。
十二歳のとき、彼は自ら死のうとした。母も父も医師も、世界のすべてが自分に敵対していると感じたからだ。毎日神に祈っていた。誰かが両親のしていることに気づいてくれますように、と。神も聞かなかった。彼は意識を失ったが、生き延びた。
彼が在留許可を得たのは二〇一五年、来瑞から十年後だ。そのときには成人していて、家族のもとを離れていた。
サンドスティグはこの記事で、二〇一九年のスウェーデン調査報道大賞「黄金のシャベル」雑誌部門を受賞した。授賞理由にはこうある。無気力な難民の子どもたちをめぐる支配的な沈黙の文化に、きわめて勇敢で予想外の取材によって風穴を開けたことに対して、と。
そしてオスカー候補作が炎上する
二〇一九年六月十四日、ネットフリックスが『ライフ・オーバーテイクス・ミー』という三十九分のドキュメンタリー短編を配信した。監督はクリスティン・サミュエルソンとジョン・ハプタスの夫婦。ダーシャ、レイラ、カレンという三人の子どもと家族を一年にわたって追った作品だ。フルフレーム映画祭の観客賞を取り、翌二〇二〇年のアカデミー賞短編ドキュメンタリー部門にノミネートされた。
映画に映るのは静かな光景だ。七歳のダーシャは、両手を合わせて頬の下に置き、昼寝しているようにしか見えない。鼻の管をテープで留めた頬。父が車椅子に運び、抱きかかえて歯を磨いてやる。医師が氷の入ったビニール袋を腹の上に置いて、上腕に巻いた血圧計を膨らませて反応を見る。十歳のレイラ、十二歳のカレンにも同じ日々が流れる。カレンは父を狙った待ち伏せ攻撃で殺されかけた経験を持つ。ダーシャの母は、夫の営むインターネット事業を政府が疎んじたために、脅迫の道具として暴行を受けたと語る。
そして映画の終盤、十一か月寝たきりのレイラの姉までが第一段階に入っていく。二台の車椅子が並ぶカット。
ダーシャは最後に目を覚ます。両親の亡命申請が通ったからだ。
二〇二〇年二月五日、アカデミー賞授賞式の五日前。『フィルテル』のサンドスティグが第二弾を出した。表題は「あれは子どもを傷つけるための説明ビデオみたいなものだ」。
映画の中心事例、七歳の「ナジャ」の一件が全部作りごとだという告発だった。
告発者はダーラナ地方のイリーナとヨーラン・ビュルンド夫妻。ナジャの家族と親しく交際していた。ナジャが「無気力」だったとされる期間も、彼らは頻繁に行き来していた。
イリーナはノートパソコンで映画を見ながら頭を振り、重いため息をついた。「私はあの子が冷蔵庫を開けるのを見た。飲み物を飲むのも、遊ぶのも、しゃべるのも見た。あの子は間違いなく健康な子だった。ばれるのを怖がっていた両親が、どうして撮影を許して全部見せたのか、私には理解できない」
夫のヨーランも言った。「どうやったら役所を全部だませるのか私にはわからない。でも、そういうことを見破る方法があるべきだ。子どもに対してひどいことだと思う」
ビュルンド夫妻の証言によれば、両親はナジャに、無気力を演じきったらパリのディズニーランドに連れて行くと約束していた。チップスを食べ、いたずらをする子どもが、鼻に管を入れていた。
ナジャの家族は旧ソ連圏のある国の出身で、二〇一五年春に在留を申請した。映画の中で父は、光ファイバーを埋設してインターネット接続を売る小さな会社を経営していたが、当局が事業を接収してネット上の情報を管理しようとしたため治安機関に拘束され、共同経営者ともども入院するほどの暴行を受けたと語っている。看護師を買収して逃げたのだという。母の書類は秘匿されているが、彼女は映画の中で、夫を追っていたのと同じ集団に誘拐され利用されたと述べている。
移民庁の判断は、こうだった。二人の口頭陳述には一貫性があるが、迫害が国家によるものだという裏付けは得られない。犯罪者による行為である可能性も同程度にある。二〇一六年秋、家族の庇護申請は却下された。
母によれば、娘のナジャがこのとき初めて母国で脅威にさらされていたことを知った。娘はますます内向的になり、最後はベッドに横たわって食べることを拒むようになった。
二〇一七年三月九日、両親はファールン中央病院の救急に娘を連れて行った。診断書には「食べたがらず飲みたがらない」とだけあり、身体的異常は認められなかった。いったん帰宅させられたが、数日後にまた救急に来た。飢餓に関連して血中の塩類に重篤な乱れが生じている、と記録が残る。四日後にはさらに悪化した。点滴による輸液を数回行い、その場しのぎにはなっている。経管栄養が必要だが、挿管の際に少女の不安と恐怖のため非常に外傷的な状況となり、中断せざるをえなくなった、と。
このパニック反応にもかかわらず、二日後に医療スタッフは片方の鼻孔から咽頭へ管を通すことに成功した。そのときには彼女は完全に無気力で、目を閉じ、意識がないように見えた。
家族の知人たちは衝撃を受けた。まったく健康な少女が、どうしてこれほど短期間で病人になれるのか。
二〇一七年十月、家族はナジャのあきらめ症候群を理由に永住許可を得た。その後、彼女は急速に回復した。映画はその回復を感動的な結末として描いている。
『フィルテル』の記事で、カロリンスカ研究所のカール・サリンは映画制作者の行動を「無責任で危険」と評した。
映画はオスカーを逃した。制作者たちは公共放送の再三の取材要請に応じなかった。
一方、この件を追ったファールン中央病院の小児科医ヨハンナ・ダルストロームは、こう語っている。『ライフ・オーバーテイクス・ミー』に描かれたような症例は、もう過去のものになった。『フィルテル』の報道もひとつのきっかけになって、自分たちはもっと積極的に動くようになった。具体的には、子どもを親から引き離すようになった。そうしたら、あっという間に元気になった、と。
同じ建物の中で、二つの陣営が睨み合っていた
この二十年、スウェーデンの医学界は一枚岩ではなかった。むしろ同じ大学の同じ建物の中で、真っ向から対立する二つの立場が並んでいた。
一方の極にヨーラン・ボーデゴード、アンネ・リース・フォン・クノリング、エリーサベト・フルトクランツ、ヘンリー・アシェルら。彼らの立場は明快だ。この子たちは本物の重症患者である。原因は迫害と外傷、そして亡命手続きの絶望である。家族を中心に据え、安全を保証し、在留許可を確保することが治療である。操作説は脆弱な集団への中傷であり、退けられるべきである。
スウェーデン小児科学会の難民の子どもワーキンググループは二〇〇五年十一月、社会庁の勧告に「操作的性質のものである可能性に留意せよ」という一文があることに反応し、書き直しを要求した。二〇〇六年、社会庁は六例で家族と患者を分離したところ症状が反転したという事例を受けて、鑑別診断に操作を考慮する必要を明記した文書を出した。同ワーキンググループは脆弱な集団の名誉を毀損するものだと「衝撃」を表明し、操作への言及を一切削除した見直しを要求した。文書は撤回された。
社会庁が二〇一三年に出した最終的な手引きには、操作についての記述が一行もない。分離が回復を可能にしたという逸話的知見も、操作が現に起きていたという事実認定も、そこには書かれなかった。
もう一方の極にカール・サリン。ストックホルムのアストリッド・リンドグレーン小児病院の小児科医で、カロリンスカ研究所臨床神経科学科に籍を置き、この現象で博士論文を書いた人物だ。
サリンが二〇一六年に『フロンティアーズ・イン・ビヘイビオラル・ニューロサイエンス』に出した論文「あきらめ症候群――緊張病か、文化結合か」は、静かだが破壊的な論文だった。
議論はこうだ。まず、ストレス仮説も精神力動的仮説も、地理的分布を説明できない。両者はいずれも、この病気が存在しない集団にも存在するはずだと予測してしまう。予測が外れる理論は、理論として弱い。
次に、臨床像を素直に読めば、これは緊張病だ。精神障害の診断・統計マニュアル第五版の緊張病は、十二項目のうち三項目以上で診断される。あきらめ症候群の子どもたちは昏迷、緘黙、拒絶症の三つを全員が満たす。小児の緊張病は不動、緘黙、摂食拒否の三主徴とされることもあり、これも一致する。
ただしここに面白いねじれがある。フォン・クノリングらの四十六例研究は、この子たちが確かに緊張病の三基準を満たすことを認めつつ、残り九つの基準はどの症例にも見られなかったと報告している。カタレプシー、蝋屈症、姿勢保持、衒奇症、常同症、興奮、しかめ面、反響言語、反響動作。ひとつも出ない。
そして彼女たちはこう鑑別している。あきらめ症候群の患者は筋緊張が低下しているが、解離性昏迷では筋緊張は正常である。解離性昏迷の患者は大きな音や接触には正常に反応する。あきらめ症候群の子どもはどんな感覚刺激にも反応しない。痛みにさえ、と。
サリンが指摘したのは、緊張病説には実験で検証できる予測が伴うということだった。緊張病はロラゼパムのような抗不安薬の試験投与に速やかに反応する。ベンゾジアゼピンや電気けいれん療法で治療効果が出れば診断は裏づけられる。陽電子放射断層撮影で前頭前野の代謝低下が客観化できるかもしれない。安静時ネットワーク解析で意識が保たれているかどうかも評価できる。
そして彼は書いた。私たちの知る限り、あきらめ症候群の患者にそうした治療が施されたことはない、と。
なぜやらないのか。サリンの推測はこうだ。スウェーデンでは子どもに電気けいれん療法を行うことへの抵抗が強い。加えて、緊張病は最近まで統合失調症の一亜型と見なされてきた。この二つの理由で、誰も試そうとしなかった。
第三に、彼は地理的分布を「文化結合性の心因発生」で説明しようとした。苦痛の表現の仕方は脳機能に制約され、その脳機能に信念と期待が作用する。信念と期待は文化的文脈の中で生まれ伝わる。だから苦痛の慣用表現が文化によって違うのは当たり前だ、と。
さらに彼は予測符号化の枠組みを持ち込んだ。プラセボ効果とノセボ効果、妄想、転換性障害に期待の過程が因果的に関与しているという最近のモデルを援用して、圧倒的に否定的な期待が、特に脆弱な個人において、高次と低次の行動系の両方を下方調整する直接の原因になりうる、という神経生物学的モデルを提案した。
平たく言い直すと、こうなる。脳は常に「次に何が起こるか」を予測している。強制送還に直面した子どもは無気力になり、やがて昏睡状態に陥りうる。そのことを、周囲の大人も本人も、意識しているかどうかにかかわらず知っていた。難民申請の手続きが闘争か逃走かの反応を引き起こし、心拍や呼吸の変化が生じるのは避けようがない。そのとき脳は、最初の身体的異変を感じ取った瞬間に「これはあの病気の始まりだ」と解釈して、その解釈に沿ってシャットダウンするよう、あらかじめ配線されていた。
病気の物語そのものが、病気を作る鋳型になった。そういう話だ。
スカーラの家、あるいは分離という劇薬
理論の話が実務の話に変わったのは、スウェーデン南部の町スカーラにある「ソルシーダン」という施設のおかげだ。
一九三四年に開設された二病棟の児童養護施設で、公営会社グリューニングが運営している。付き添いの親がいる場合もない場合も含めて十二人を受け入れる。あきらめ症候群の治療を始めたのは二〇〇四年。最初は家族ごと入所させていた。まったく進展しないか、むしろ悪化した。ある一件で分離を試みたところうまくいき、それ以降、分離が標準手順になった。
上級ソーシャルワーカーのアンニカ・カールスハムレは、施設の考え方をこう説明する。子どもが親への暴力や脅迫を目撃したとき、その子にとって世界で最も重要なつながりが引き裂かれる。そのとき子どもは理解してしまう。お母さんは私の面倒を見られないのだ、と。そして希望を捨てる。自分は完全に親に依存しているのだから、親が壊れたら、どこへ、何に向かえばいいのか、と。
「私たちは家族に経過を伝えます。でも話をさせません。子どもがうちのスタッフに頼るようにならないといけないから。分離してしまえば、ほんの数日で最初の兆しが見えます。ああ、この子はまだここにいる、という兆しが」
施設では子どもの前で移民手続きの話をすることが全面的に禁止されている。
子どもたちは毎日起こされる。昼の服と夜の服がある。経験を積んだスタッフが手を添えて鉛筆を握らせ、色を塗らせ、絵を描かせる。スタッフのクララ・オーグレンはこう語る。
「その子が自分で遊べるようになるまで、私たちがその子のために遊びます。それにやたらとふざけたり、踊ったり、音楽をかけたり。五感を全部起こしたいんです。だからコーラをほんの少し口に入れて甘さを味わわせたりする。経管栄養でも、キッチンに連れていって食べ物の匂いを嗅がせる」
「私たちは、この子は生きたいはずだ、能力はまだ全部そこにあるはずだ、ただ使い方を忘れたか見失っただけだと期待している。子どもが自分で生きはじめるまで、私たちが代わりに生きなければならないから、この仕事はものすごくエネルギーを使う」
回復に最も時間がかかった子で六か月。多くの場合、電話で話せるようになるまで親との接触は絶たれる。カールスハムレがこれまで会った三十五人の子どものうち、ソルシーダン在所中に在留許可が出たのは一人だけ。残りは全員、亡命資格が確定する前に回復した。
これはとんでもない話だ。「永住権こそが治療」という国家的合意を、田舎の児童養護施設が二十年かけて静かに反証していたことになる。
数字が示した、二十年ぶんの取り違え
二〇二一年七月五日、サリンらはこのデータを論文にした。共著者はウプサラ大学のカティンカ・エヴェルス、ホーカン・ヤルビン、そして一九九八年にルレオで最初の少年を診たあのラーシュ・ヨエルソン、そしてカロリンスカのプレドラグ・ペトロヴィッチ。
二〇〇五年から二〇二〇年にソルシーダンで治療を受けた十五人のうち、記録の残る十三人を後ろ向きに解析した。男児九人、女児四人。年齢は八歳から十五歳。全員が入所時点で「重度から極度に病的」と評価された。
結果はこうだ。十三人中九人、六十九パーセントが回復した。分離された八人は全員回復した。分離されなかった五人のうち回復したのは一人だけ。統計的に有意な差が出た。
そしてもっと衝撃的な数字がある。治療中に在留許可が下りた五人のうち、回復したのは一人。下りなかった六人は全員回復した。しかも唯一回復した「許可あり」の一人は、その前に分離を経験していた。
在留許可は回復と関係していなかった。むしろ回復を邪魔していた可能性がある。治療期間の中央値は、許可が下りた群で三百七十一日、下りなかった群で百二十四日。経管栄養の抜去までの期間も、分離群のほうが短かった。
そして著者たちは、記録の中に三例、二十三パーセントの「詐病」を見つけたと報告している。親が症状を引き起こしたと疑われる事例だ。この治療法は、代理による詐病が疑われる症例でも有効だった、と論文は書いている。
結論はこう締めくくられている。家族精神医学的アプローチは挑戦を受けなければならない。代理による詐病への警戒が必要である。治療反応の欠如を、在留許可の審査中であることや却下されたことを理由に免責してはならない。私たちはいま能動的介入への支持を示した。あきらめ症候群において受動的アプローチを続けることの根拠は現在存在しない、と。
同じ年、スウェーデン医療技術評価機構が文献調査の結果を公表した。あきらめ症候群の診断の信頼性や治療の効果について、関連する系統的レビューも一次研究も一件も見つからなかった、という結論だ。
二十年かけて国が推奨してきた治療方針には、科学的根拠が存在しなかった。
二〇二一年十月、社会庁は二〇一三年の手引きをウェブサイトから取り下げた。担当部長の説明は「年数が経ったことと、更新の予定がないこと」の組み合わせだった。同時に他の古い刊行物も取り下げられた。
なぜ、あの人たちだけだったのか
出身背景の偏りは、この現象の一番説明しにくい部分であり続けた。
フォン・クノリングらの四十六例では、旧ソ連・ロシアから三十三人、旧ユーゴスラビアから八人、イラク・シリアから五人。民族・宗教的少数派が三十二人で、六十九・六パーセント。内訳はウイグルが八人、ロマが七人、ヤズィーディーが六人、ロシア・ウクライナのアルメニア人が六人、その他五人。九十三・五パーセントが母国で迫害を受けていた。全員が自分自身が暴力を受けたか、近親者への暴力を目撃したか聞かされていた。
一方で、戦闘地域から来た子は十七・四パーセントしかいない。
アフリカ出身の患者は一人もいない。アジア出身は、ウイグル系を別にすればごくわずかしかいない。バングラデシュとアフリカからの報告が例外的に数件あるという記録はあるが、集積は起きていない。
そして一番痛烈な事実がある。同じ民族、同じ迫害体験、同じ亡命手続きの遅延を経験した家族が、スウェーデン以外の国に逃れた場合、あきらめ症候群にならない。ヤズィーディーもウイグルもロマも、ドイツでもオランダでも英国でも、この状態にならない。
さらに、政府の公式調査が出身国の状況を調べたところ、当の出身国ではこの現象自体が知られていなかった。
もうひとつ、あまり語られない事実がある。単身で来た保護者のいない未成年には、ほぼ発症しない。両親と一緒に暮らしている子だけが発症する。
批判的な論者が二〇〇〇年代半ばに挙げた「五つの奇妙な点」は、いま読み返しても切れ味が鈍らない。数年でゼロから四百人以上に増えたのが奇妙である。亡命が未決か却下された家庭の子にほぼ限られるのが奇妙である。親と暮らす子だけが罹るのが奇妙である。旧ソ連圏と旧ユーゴスラビアの出身にほぼ限られるのが奇妙である。心理的ストレスが原因なら、亡命手続き以外の形のストレスを受けた子には起きないのが奇妙である。
彼はこれらを組み合わせて操作の疑いに結びつけた。サリンは同じ五つの奇妙さを組み合わせて、文化結合性の心因発生に結びつけた。事実は同じで、結論が正反対に分かれる。この構図が二十年続いた。
オサリバンは第三の見方を示した。彼女がヤズィーディーの姉妹ノラとヘランを訪ねたとき、担当医は「あの子たちがヤズィーディーだから起きているんじゃない」と不機嫌そうに言った。だがオサリバンが問題にしていた「文化」は、出身国の文化ではなかった。
子どもたちの人生の大半を占めたスウェーデンでの生活、その中で共有された物語。それも文化である。ノラは二歳半でスウェーデンに来た。ヘランは三歳半。年齢すら国境で役人が推定した数字だった。二人は流暢なスウェーデン語を話し、ヘランは英語も理解した。彼女たちが「あきらめ症候群」という言語を学んだ場所は、シリアではなくスウェーデンだった。
ノラとヘラン、そしてアリーヤ
ノラの家族はシリアとトルコの国境近くの、水道もない村に住んでいた。共同の井戸があって、母は毎日そこに水を汲みに行った。ある朝、彼女は四人の男に捕まり、林に引きずり込まれて暴行された。
家に帰ってそれを話すと、父親が激怒した。家名を汚したという理由だった。その後の数週間、祖父と両親の間で激しい口論が続いた。そのうちの一回、ノラたち兄妹が同じ部屋にいるところで、祖父が母を殺すと口にした。暴行を受けたとき母は四人目の子を身ごもっていたが、まもなく流産した。
家の外からも中からも脅威にさらされて、家族はシリアを出た。書類は移動の途中でどこかで失われた。スウェーデン国境に着いたとき、自分たちが誰でどこから来たかを証明するものが何もなかった。
スウェーデンは寛容だった。一時的な滞在許可が与えられ、住まいが与えられた。永住権の申請が本格的に動き出すまでに三年かかり、その頃には姉妹はもう学校に通っていた。申請は却下された。異議申し立ての権利が二回あった。その頃にはシリア内戦が始まっていて、生まれた土地はさらに危険になっていた。
ノラが最初の引きこもりの兆しを見せたのは、この時点である。
三度目の、そして最終的な却下通知が届いたとき、ヘランはこう言ったという。「お姉ちゃんはどうなるの?」。それから彼女は静かになり、担当医は病気になりつつあるのを見た。医師は両親にベッドにいさせるなと言った。食べさせろ、学校に行かせろと言った。無理だった。
オサリバンがこの家を訪ねてから一年以上が経ったとき、二人はまだ回復していなかった。亡命申請は認められていなかった。
同じ医師が診た別の子は、違う結末を迎えた。アリーヤという少女は、旧ソ連のある共和国の迫害される少数派の出身だった。彼女は一年以上あきらめ症候群だった。自発的な動きは何ひとつなかった。
永住権が下りたと聞かされた翌日、彼女は一瞬だけ目を開けた。それから数週間かけて完全に目覚め、数か月後には学校に戻った。教育に大きな空白があり、スウェーデンの学校制度に入るのも遅かったにもかかわらず、彼女は試験で優秀な成績を収め、いまは法学の学位を目指して勉強している。
ソフィーの二十か月
英国放送協会が二〇一七年に取材したソフィー(仮名)は、九歳だった。
父が車椅子から抱き上げると、体は完全に脱力している。それでいて髪は太く艶があって、健康な子どもの髪だ。ジャージのズボンの下におむつをしている。鼻から透明な管が入っている。この二十か月、それが栄養の通路だった。
家族は旧ソ連圏からの亡命希望者で、二〇一五年十二月にスウェーデンに着き、中部の小さな町の難民向け宿舎に住んでいた。
二〇一五年九月、父が母国で車を運転していたところ、警官の制服を着た男に停められた。男は父と母を車から引きずり出して殴った。ソフィーは車の中からそれを見ていた。男は母だけを解放し、母はソフィーを抱えてその場から逃げた。父はそこに残された。父はその直後からの記憶を失っていて、何が起きたのかわからない。
知人の家に逃げ込んだ母とソフィー。ソフィーはひどく取り乱して、「パパを探しに行って」と叫び、壁を蹴っていた。三日後に父と連絡が取れた。家族は知人の家に隠れ、三か月後にスウェーデンに辿り着いた。
到着後、警察に拘束された直後からソフィーの状態が悪化した。姉と遊ばなくなった。まもなく家族は国境沿いで「スウェーデンには滞在できない」と告げられた。ソフィーはその面談の場にいて、すべてを聞いていた。この時点から彼女は話すのと食べるのをやめた。
診察に来たエリーサベト・フルトクランツはリンショーピング大学の名誉教授で、引退した耳鼻咽喉科医。国際医療団体の一員として難民の子どもを診ている。彼女はソフィーが決して口を開けないことを心配していた。栄養チューブに何か問題が起きたとき、窒息するおそれがあるからだ。血圧は正常。取材当日は脈がやや速く、それは来客に反応しているのかもしれないと彼女は言った。
フルトクランツが両親に説明するときの言い方は、こうだ。「世界があまりにひどかったので、ソフィーは自分の内側に入って、脳の意識的な部分の接続を切ったのです」
彼女は別のところで、この子たちを白雪姫にたとえている。世界から離脱しているだけなのだ、と。
担当の小児科医ラーシュ・ダグソンはもっと乾いた言い方をした。「こういう症例では心を固くしないとやっていられない。私にできるのはこの子を生かしておくことだけだ。よくすることはできない。この子たちがスウェーデンにいられるかどうかを決めるのは、医者ではないから」
そしてこう続けた。「何らかの形で、この子は希望があると感じなければならない。生きるに値する何かがあると。私がこれまで見たすべての症例で、滞在の権利が状況を変えた理由を説明できるのは、それしかない」
しかし、政治は変わっていた。二〇一五年前後の三年間で約三十万人の移民が流入したことで世論が変わり、二〇一六年に施行された時限法によって、庇護申請者が永住権を得る可能性が全面的に制限された。三年か十三か月の在留許可しか出ない。ソフィーの家族は十三か月のほうだった。
「そのあとどうなるんです。本当の問題は何ひとつ手つかずだ。宙ぶらりんのままだ」とダグソンは言った。彼はソフィーが十三か月で回復するとは思っていなかった。「不可能とは言わない。でも全部、両親がこれをどう感じるかにかかっている。十三か月後も自分たちはここにいられるのか。それが確信できなければ、ソフィーに大丈夫だという感覚を与えることはできない」
ソフィーの父に、娘が目覚めるには何が必要だと思うかと尋ねると、彼はこう答えた。「もうすぐ生まれる赤ちゃんが、助けになるかもしれない」
ゲオルギ、ボルボの話ができた少年
米国の雑誌『ニューヨーカー』のレイチェル・アヴィヴが二〇一七年四月三日号に書いたルポルタージュ「強制送還に直面するという外傷」は、この現象を英語圏に決定的に知らしめた記事だ。
主人公のゲオルギはロシアからの難民で、五歳のときに家族とスウェーデンに来た。担当医は彼を「一家の中でいちばんスウェーデン化していた」と評した。ボルボの美点について延々と語れる子どもだった。クラスでいちばん人気のある男子の一人でもあった。十三歳の誕生日に、友達二人が彼の性質を並べた。エネルギッシュ、面白い、いつも幸せそう、いいやつ、めちゃくちゃ親切、サッカーがうまい、ちょっとずるい。
二〇一五年、家族の在留申請が却下された。ゲオルギは寝込んだ。
海の底のガラスの箱の話は、この記事に出てくる。
二〇一六年五月下旬、家族に移民庁からもう一通の手紙が来た。隣人のエリーナ・ザポルスカイアが翻訳して声に出して読んだ。「移民庁はゲオルギの健康状態について述べられていることを疑う理由を認めない。したがって彼は、回復のために安全で安定した環境と生活条件を必要としていると見なされる」
その言葉が、どういう経路でか、ゲオルギに届いた。
数日、数週間、ときには数か月かけて、こういう子どもたちは食べはじめ、動きはじめ、反応しはじめ、世界に戻ってくる。奇跡的な瞬間の目覚めではない。
アヴィヴがゲオルギに会ったとき、彼女は「病気だったなんて絶対にわからなかっただろう」と書いている。見た目も振る舞いも完全に正常だった。ただし完全に回復した子でも、人生から二年が消えている。それは大きなことだ。
アヴィヴはもうひとつ、当時としては勇気の要る観察を書いている。誰もがある程度の心理的伝染を認めている、と。ゲオルギには同じ状態の家族ぐるみの友人がいた。ある姉妹には同じ状態のいとこがいた。宿舎にいた少年は、同じ建物で少なくとも三人の同じ状態の子どもを見ていた。
彼女はこれを拒食症になぞらえた。米国で拒食症が現れたのは、人々が体型に取り憑かれ、メディアが痩身を称揚していた時代だった。病は文化から借りてくる。そしてある日突然、大量の人が自分を飢えさせはじめ、医師がそれを拒食症と診断しはじめる。
二〇〇六年の政府報告書が提示した仮説も、アヴィヴは紹介している。子どもたちの多くはロマなど、個人と家族の境界が明確でない全体論的文化の出身である。彼らは家族のために自分を犠牲にしている。殉教者の役割を引き受けている。そして事実、この病は家族の滞在を可能にする。
ナウルの島で、同じことが起きた
「スウェーデンだけ」という命題が破れたのは、南太平洋だった。
オーストラリアは船で来る庇護申請者を全員洋上で捕捉し、本土には決して定住させないという方針を取っている。そのために、リン鉱石が枯渇して財政破綻に近い状態にあったナウル共和国とパプアニューギニアに、資金を出して「処理センター」を置いた。ナウルは面積二十一平方キロ、リン鉱石の採掘跡の岩だらけで、木も動物もほとんどない。二〇一五年にセンターは「オープンセンター」化され、出入りは自由になったが、行く場所などなかった。
二〇一八年八月、複数の団体が警告を発しはじめた。庇護申請者支援センターは、ナウルで少なくとも三十人の子どもが「外傷性引きこもり症候群」の症状を示していると報告した。同センターは「島にいる一部の職員や利用者はもっと多いと報告している」とも付記した。
メルボルン大学の精神医学教授ルイーズ・ニューマンはこれを「流行」と呼んだ。彼女は以前オーストラリア政府の庇護申請者メンタルヘルス顧問を務めた人物である。
彼女が記述した経過は、スウェーデンのものと寸分違わない。進行性の社会的引きこもりから始まり、学校や遊びといった通常の活動への意欲を失う。孤立し、抑うつ的で苛立たしく見える。支えようとする周囲の試みに抵抗する。進行すると話さなくなり、ベッドに閉じこもる。食べるのも飲むのもやめる。最も深刻な段階では、深い引きこもりの状態に入り、意識がないか昏睡状態に見える。これは耐えがたい現実への「冬眠」状態のように見える。痛みにさえ反応しない。ぐにゃりとして正常な反射がなく、経管栄養と点滴を含む全介助が必要になる。そうしなければ不動、栄養不良、脱水による合併症で腎不全と死に至る危険がある。生命を脅かす状態であり、高度な医療が必要である、と。
国境なき医師団は二〇一七年から二〇一八年にかけて十一か月間、ナウルで精神保健医療を提供したのち、ナウル政府によって退去させられた。同団体が二〇一八年十二月に出した報告書「終わりのない絶望」は、扱った難民・庇護申請者二百八人のうち、十二人、六パーセントにあきらめ症候群を診断したと記録している。子どもに限れば三十九人中十人、二十六パーセント。同団体は、これまで拷問被害者のケアを含む数多くのプロジェクトを行ってきたが、ナウルの精神的苦痛の水準は経験した中で最悪の部類に入ると述べた。
ナウルには適切な医療施設がない。訴訟による緊急の医療搬送で、意識のない子どもがオーストラリアに運ばれた事例がある。オーストラリアに移された患者は改善していく。だがナウルという土地そのものが抑留の象徴として忌避される。
支援団体の報告書はこう書いた。これらの子どもたちはナウルでは回復できない。ナウルこそがトラウマの原因だからである、と。
ここで押さえておきたいのは、ナウルの症例がスウェーデンのどの理論を支持するか、という点だ。ナウルの子どもたちはイランやイラク、レバノン、ロヒンギャの出身で、旧ソ連圏でも旧ユーゴスラビアでもない。永住権を治療とみなす医学的慣行も、ナウルには存在しなかった。それでも同じ病態が出た。
これは「文化結合説だけでは足りない」ことの証拠にもなるし、「収容の無期限性という条件さえ揃えばどこでも起きる」ことの証拠にもなる。どちらの陣営もこの事例を自分の弾丸にした。
この病は、本当に新しかったのか
「一九九八年にスウェーデンで発明された病気」という言い方は、実は正しくない。
スウェーデンの児童青年精神科医アンナ・リーサ・アンネルは一九五八年、重度の心的外傷の後に生じるきわめて稀な障害としてこの状態を記述している。二〇〇〇年代に子どもたちが運び込まれてきたとき、小児科医も児童精神科医もそれを認識できなかった。忘れられていたからだ。
さらに遡る先例として必ず引かれるのが、ナチス強制収容所の「ムゼルマン」である。極度の飢餓状態にあり、生きる意志を完全に失い、自閉に似た仕方で外界から引きこもった被収容者たちを、他の被収容者がそう呼んだ。彼らは無感動で、周囲に無関心で、短い時間しか立っていられなかった。他の被収容者はムゼルマンとの接触を避けた。その状態が伝染するのを恐れたからである。ナチスは彼らを働けず秩序に耐えられない存在として、選別のたびに真っ先に死に送った。
一九八一年から一九八二年にかけて、アウシュヴィッツ・ビルケナウの元被収容者八十九人が、飢餓病の極限段階にあった被収容者について質問票に回答した研究がある。それによれば、ムゼルマンと呼ばれた人々は生と死の間にとどまり、食物関連の刺激への過敏さを除いて情動反応も防衛機制も示さなかった。
スウェーデンの著名な小児科医が主催したあるセミナーの記録には、こう残っている。この状態はおそらく「あきらめ症候群」と記述できるだろう、そして子どもたちは「ムゼルマン」と呼ばれた人々と類似している、と。学習性無力感の表現としての無感動反応は、闘うことも逃げることもできない不快刺激にさらされた動物実験でも観察されている、とも。
そして一九九一年のブライアン・ラスクらの全般性拒絶症候群。二〇〇八年時点の系統的レビューによれば、この症候群は文献上二十四例しか記述されていない。七十五パーセントが女児。平均年齢十・五歳。病前の性格として完璧主義的で几帳面で高成績の傾向が指摘されている。治療期間の平均は十二・八か月で、六十七パーセントが完全に回復する。
つまり、この状態の断片は昔からあった。ただ、稀だった。スウェーデンで起きたのは、稀な状態が数百人規模で同時多発したことである。
社会庁が二〇一〇年に出した予備調査は、あきらめ症状という現象は少なくとも十七世紀から知られていると結論づけた。それは事実として正しいだろう。だがその事実は、二十年間で千人以上という集積を説明しない。
医療の層――治療でないものを治療と呼んだこと
ここから、四つの層に分けて考えてみたい。
まず医療の層。この二十年で最も深刻な失敗は、誤診でも見落としでもない。「法的手続きの結果を治療手段として処方箋に書き込んだ」ことだ。
在留許可は医療者が処方できるものではない。それは移民庁と裁判所の決定だ。にもかかわらず、国の手引きは在留許可を「群を抜いて最も効果的な治療」と書いた。この一文が生む帰結は二つある。
ひとつ。医師は治療に失敗しても責任を問われなくなる。在留許可が下りていないのだから治らないのは当然だ、という説明が常に用意されている。実際、サリンらの論文は明示的にこう書いている。治療反応の欠如を、在留許可が審査中であることや却下されたことを理由に免責してはならない、と。
二十年間、それが免責されつづけた。子どもたちは何か月も何年も、鼻に管を入れられたまま暗い部屋に横たわっていた。ソルシーダンの実績が正しければ、その多くは数か月で起き上がれたかもしれない。
ふたつ。在留許可が「薬」であるなら、その薬を手に入れるために病気が必要になる。誘因の構造が生まれる。これは詐病を誘発するだけではない。もっと厄介なことに、詐病でない子どもにも「この症状が出れば家族が救われる」という強力な期待を植えつける。予測符号化の観点からすれば、それは症状を作る材料そのものだ。
サリンが「イアトロジェニック(医原性)」あるいは「ソシオジェニック(社会原性)」という言葉を使ったのは、この二重構造を指してのことだ。
もうひとつの医療的失敗は、検証できる仮説を検証しなかったことである。緊張病説にはロラゼパム試験投与という単純明快な検証法があった。陽電子放射断層撮影も、安静時ネットワーク解析もあった。誰もやらなかった。やろうと提案する人間は「脆弱な集団を疑っている」と見なされた。
科学の中に道徳的な立場が持ち込まれると、検証は敵対行為になる。そして検証されなかった仮説は、いつまでも「正しいかもしれない仮説」のまま残る。その隣で子どもは寝たきりのままになる。
政治の層――子どもが政策の人質になるとき
政治の層で起きたことは、もっと単純で、もっと救いがない。
二〇〇五年から二〇〇六年にかけて、この子どもたちは移民政策をめぐる代理戦争の弾薬になった。移民に寛容な側にとっては、非人道的な難民政策の生きた証拠だった。移民に厳格な側にとっては、亡命制度の悪用の生きた証拠だった。どちらの側にも「この子は本当は何に苦しんでいるのか」を落ち着いて調べる動機がなかった。
政府が任命した全国調整官の報告書は、政治的に不都合な部分があるという理由で公共放送に解体され、著者は公的に非難された。その後、社会庁の手引きから操作への言及が消えた。
「言及の削除」は、政治的にはコストがゼロの行為に見える。だが実務上は、症状偽造による児童虐待を疑ったときの通報義務を、医療現場から見えなくする効果を持つ。アナヒットのカルテには、父親に言われて起き上がったという本人の言葉が記録されていた。それでも何も起きなかった。
制度の側にも変化が起きた。二〇一六年以降、永住許可が原則から例外になり、時限的な在留許可が原則になった。法的手続きにおいて、あきらめ症候群にはほとんど重みが与えられなくなった。移民庁は二〇二〇年、患者数の追跡調査をやめた。
そして症例数は消えた。
因果関係を断定するのは危険だ。だが二〇二五年十一月に発表された総括論文の著者たちは、そこに躊躇しなかった。彼らはこう書いている。あきらめ症候群は社会によって作られ、維持され、そして反転された状態だった。病を駆動する物語と、それを誘引する医療法務上の慣行が反転されたとき、この流行病は消えていった、と。
彼らはさらに踏み込む。これは最初でもなければ最後でもない。流行的な疾病表現一般が構成主義的分析から利益を得るかもしれない。あきらめ症候群はその方法を示す実例であり、そして緩和が可能であることを示す実例である、と。
慢性疲労症候群、線維筋痛症、性別違和、注意欠如多動症。彼らが同じ枠組みで検討されうる例として挙げた名前は、いずれも現在進行形で激しい論争のただ中にある。この論文が二〇二五年末に出て、いま医学界でどう受け止められるかは、まだ決着していない。
倫理の層――誰が誰を守っていたのか
倫理の層は、いちばん胃が重くなる場所だ。
医師たちは自分たちを子どもの側に立つ者だと信じていた。実際そう信じるだけの根拠もあった。スコーネ地方の主任医師はこう書いている。すべての医師に対し、無気力な難民の子どもの強制送還に抗議しつづけるよう求める。第一に子どもたちのために。だが我々自身のためにも、つまり医の倫理が命じ、世間もおそらく我々に期待している倫理的使命が果たされるように、と。
一部の医師は、法律に反してでも治療を確保する義務を定めたリスボン宣言を援用し、市民的不服従は義務であると論じた。人道的配慮という法的要件は柔軟な運用の余地があった。そこに医学的必要性を流し込むことができた。適切な医療は送還先の国には存在しないと主張すれば、送還は非人道的であるだけでなく生命を脅かすことになる。診断書は、その主張を法的に成立させる部品になった。
一方で、その同じ診断書が、親に子どもを病気のまま維持する強力な理由を与えた。回復は在留許可の根拠を消す。
ネルミンが目を開けるたびに首の後ろを殴られたという証言は、この構造の最も残酷な帰結だ。彼が十二歳のときに絶望したのは、母も父も医師も、世界のすべてが自分に敵対しているように見えたからだった。彼にとって医療者は、自分を助けてくれる存在ではなく、両親の嘘を信じつづける存在だった。
ここには相反する二種類の児童保護がある。子どもを送還から守ることと、子どもを親の虐待から守ること。二十年間、スウェーデンの制度は前者を選び、後者を見なかった。
そしてもうひとつ、あまり語られないことがある。詐病だった子どもたちには、いまなお何の名誉回復もない。アナヒットは自分の話が公になることで議論が変わればいいと語り、将来はさまざまな形で困難な状況にある子どもを助ける仕事をしたいと言った。彼女に対して国も医療も、公式に何かを認めたわけではない。
同時に、詐病でなかった子どもたちの側にも被害がある。二〇一九年の報道の後、「あの子たちは全員演技だったのだ」という乱暴な結論が一部で流通した。国際医療団体の事務局長は反論した。フィルテルの記事の要点は、この子たちにはあきらめ症候群がなかったということだ。だとすれば彼らの経験は、実際にあきらめ症候群であるとはどういうことかについて何も語らない。それなのにフィルテルはその虐待を、まさにその点について何かを語るために使っている、と。
この反論には正当な部分がある。二例をもって数百例を語ることはできない。タマスは「この二例は全患者の〇・二パーセントに過ぎない」と述べた。統計的にはその通りだ。だが、ソルシーダンの十三例の記録からも三例、二十三パーセントの詐病疑いが出ている。ゼロではない、という点だけは確実になった。
そして、詐病かどうかという問いは、実はいちばん大事な問いではないのかもしれない。ソルシーダンの方法は、詐病が疑われる症例でも有効だった。演技であれ本物であれ、子どもをその状況から引き離せば回復した。この事実は、「本物か偽物か」という二分法そのものが臨床的にあまり役に立たないことを示している。
報道の層――物語が事実を作る
報道の層について書くのは、書き手として最も落ち着かない。
二〇〇六年のウップドラーグ・グランスクニングの番組は、報道として大きな成果を上げた。政府調査の根拠の薄さを暴き、脆弱な集団への根拠なき嫌疑に歯止めをかけた。放送審査委員会は番組を免責した。制作者は調査報道賞にノミネートされた。
そして二〇二〇年四月二十一日、番組を制作した公共放送自身が、外部調査者ヨハン・オーサードに依頼した検証報告を公表した。かつて別の報道番組にいた人物である。
報告の記述は容赦なかった。結果は信頼できない。調査結果に反する、あるいはそれを複雑にする事情が番組で示されなかったことは深く問題である。事実に関する誤った主張が複数なされている。見てきたように、事実確認は不十分だった。これらの事実誤認は総体として、存在しなかった不正の誤った印象を与えている、と。
公共放送はこの報告を、番組放送以来自分たちが行ってきた事実確認の改善の文脈で位置づけ、「彼は当時設置された政府調査について、この番組が単純化された一面的な像を与えていると考えている」と要約した。
制作したタマスは反論した。二〇一九年のサンドスティグの記事に対しても、彼は激しい反論を続けた。二例という最小限の材料しかないのに、サンドスティグは文章の大半を現象全体への疑義に費やしている。そのような姿勢はいかなる科学的文脈でも不合格になる、と。
ジャーナリスト同士の泥仕合として片づけることもできる。だが、ここには構造的な教訓がある。
サンドスティグ自身が挙げた「責任者は二者いる」という指摘は鋭い。ひとつは小児科学会の難民の子どもワーキンググループ。彼らは社会庁に対して、医療従事者が操作に留意すべきという文言を削除するよう働きかけた。もうひとつはジャーナリストだ。とりわけ二〇〇六年に、論争で活発だった何人かの医師の側に立つ物語が見つかり、ウップドラーグ・グランスクニングはそこに大きな責任がある、と。
彼は取材の副産物として、もうひとつ重い指摘をしている。この問題は、コンセンサスの領域から「正当な論争」の領域に移された、と。米国のメディア研究者ダニエル・ハリンの有名な三領域モデル、合意の領域、正当な論争の領域、逸脱の領域を援用した言い方だ。
つまり二〇〇六年から二〇一九年までの十三年間、「操作はあったのか」という問いは、報じるに値する問いですらなかった。それは逸脱の領域に置かれていた。疑うこと自体が人種差別の兆候と見なされた。だから医療現場で操作を疑った医師も看護師も口を閉ざした。何人もの医療者がサンドスティグに「やっと言えた」と連絡してきた。彼らはずっと知っていたが、名乗り出る勇気がなかった。
報道が「合意の領域」を作るとき、それは事実確認の代わりになる。そして事実確認の代わりになったものは、いずれ事実によって崩される。崩されるまでの年数が、そのまま子どもたちがベッドにいた年数になる。
いま、何が残ったか
二〇二五年一月十七日、スウェーデン国会で「あきらめ症候群を持つ庇護申請中の子ども」についての質問答弁が行われた。質問者はこの診断がスウェーデンの分類体系に残るべきかを国が調査すべきだと迫った。担当閣僚は、専門機関が継続的に注視しており、それ以上の措置は現時点で必要と判断しない、と答えた。国際疾病分類の更新プロセスが進行中であり、どの診断を残しどれを削るかは専門機関が決めるべきで政治家が決めるべきではない、とも述べた。
そして、こう付け加えた。近年、二〇二三年と二〇二四年には症例が非常に少なかったことを喜ばしく確認できる、と。
質問者はこう応じた。スウェーデンを際立たせているのは、報告された症例数の多さだけではない。それらの症例がほぼ例外なく亡命手続き中に発生したという事実である。これは特異な状況であり、現象の根本原因と診断の正当性について疑問を呼び起こすべきだった、と。
現象は消えた。診断コードは残っている。手引きは消された。子どもたちの多くは目覚めた。目覚めなかった子どももいる。医学的な最終決着はついていない。
オサリバンが本の中で書いた一節が、この二十年で最も誠実な記述かもしれない。彼女は神経科医としてノラとヘランの寝室に立ち、そこで自分の無力を感じた。そしてこう書いた。あきらめ症候群という言語の話し方を、私はまだ習得できていない。この言語は、発病した少女たちに自分の話を語ることを可能にしている。それなくしては、彼女たちは声なき存在になってしまうだろう、と。
彼女が言おうとしているのは、詐病か本物かではない。この病が、言葉を持たない子どもたちにとっての言葉だったということだ。そして問題は、その言葉に対して大人が用意した返事が、二十年間ずっと間違っていたということだ。
結局これは何という病気なのか、四つの候補
ここからは、話の本筋には収まりきらなかった論点を、もう少し踏み込んで整理しておきたい。まずは、この現象をどう分類すべきかという問題だ。
医学の側には現在、四つの主要な候補がある。緊張病説、全般性拒絶症候群説、解離性昏迷説、そして独立した疾患単位とする説。
緊張病説の強みは、臨床像との一致にある。昏迷、緘黙、拒絶症という三つの中核症状は全例に揃う。小児緊張病の三主徴とされる不動、緘黙、摂食拒否とも一致する。そして何より、この説には治療的な含みがある。緊張病はベンゾジアゼピンに反応し、反応しない場合は電気けいれん療法が選択肢になる。二十年間、これらは一度も系統的に試されなかった。
緊張病説の弱みは、残り九つの診断項目がまったく出ないことだ。カタレプシー、蝋屈症、姿勢保持、衒奇症、常同症、興奮、しかめ面、反響言語、反響動作。典型的な緊張病であればこのどれかは出るはずだが、四十六例の系列研究では一例も認められなかったか、先行症状として消えていた。フォン・クノリングらは「診断マニュアル第五版の緊張病基準を疑いなく満たす」と認めながら、「緊張病の特殊な変種と見なしても、多くの問いが残る」と留保をつけている。
全般性拒絶症候群説の弱みは、ボーデゴード自身が指摘した。全般性拒絶症候群を他と区別する最大の特徴は、援助に対する能動的で怒りを伴う抵抗である。難民の子どもたちにはそれがなかった。回復期になってようやく出てきた。加えて、全般性拒絶症候群の患者は筋緊張が保たれるが、あきらめ症候群の患者は明白に低緊張である。
解離性昏迷説は、国際疾病分類の定義との齟齬がある。解離性昏迷では筋緊張が正常で、大きな音や接触には正常に反応する。あきらめ症候群の子どもはどんな感覚刺激にも反応しない。しかも国際疾病分類の第十一版では、解離性昏迷も抑うつ性昏迷も独立した診断として残らなかった。代わりに「他の精神疾患に関連する緊張病」に統合された。分類学の側が緊張病説に近づいたわけである。
独立疾患単位説は、二〇一四年にスウェーデンが独自コードを与えたことで制度的には実現した。ただしその位置づけは奇妙だ。F三二・三A、つまり精神病症状を伴う重症うつ病エピソードの下位区分である。サリンはこれを「現象の性質をめぐる論争に対する実務的な解決策」と評した。要するに、どこに入れるか決まらないので、とりあえずうつ病の棚に置いた、ということだ。診断基準は定められないままだった。
二〇二〇年、スウェーデン医療技術評価機構は、この診断の付け方についても治療の効果についても、関連する系統的レビューも一次研究も存在しないと結論した。国が公式に採用した診断名には、診断基準も治療根拠も存在しなかった。
意識はあったのか、なかったのか
次に、意識の問題を掘り下げたい。ここがこの現象の最も哲学的に面白い部分である。
臨床的には「意識がないように見える」。痛覚刺激に反応しない。目は閉じられ、他動的に開けようとしても抵抗があるか、開けても視線が検者から逸れていく。
ところが客観的指標は正常だ。脳波は正常な睡眠覚醒周期を示す。入眠時ミオクローヌス、つまり眠りに落ちる瞬間のあの体のびくつきが観察される。日内リズムは保たれ、看護者は「この子はいま普通に眠っている」のか「あの遮断された状態にある」のかを見分けられた。瞳孔対光反射は保たれる。
そして回復後の証言では、健忘がない。全部聞こえていた。誰が来たか分かっていた。
サリンはこの矛盾を、意識の欠如ではなく「運動反応を開始する能力の欠如」として整理した。覚醒度も気づきも、痛覚刺激への無反応を説明できるほどには損なわれていない。だとすれば無反応を説明するのは、運動反応を起こせないことのほうだ。これは転換性障害や緊張病に共通する特徴である。
ここでゲオルギのガラスの箱の証言が効いてくる。彼は動けなかったのではない。動いてはならないと確信していた。動けば水が流れ込んで死ぬ、と。これは麻痺の主観的経験としては極めて特異で、しかし予測符号化の枠組みでは自然に理解できる。脳が「動くこと」に破滅的な予測を割り当てていた。
オサリバンが観察したノラの所見も同じ方向を指す。頬の筋肉だけが硬直して、歯を食いしばっていた。目はきつく閉じられていた。心拍は速かった。無感動ではなく、全力の抑制である。
これは臨床的に危険な性質を持っている。機能性の麻痺では、患者がリラックスしている瞬間に動いてしまうことがある。医師がそれを見ると「やはり詐病だ」と判断してしまう。オサリバンはこう釘を刺している。機能性の障害は変動する。だから徴候は誤解を招きうる。麻痺は現れたり消えたりする。維持するために注意と不安が必要だからだ。これは完全に無意識の過程である、と。
つまり「ときどき動いているのを見た」という目撃証言は、それだけでは詐病の証明にならない。しかし同時に、詐病の反証にもならない。イリーナ・ビュルンドが見たという「冷蔵庫を開け、飲み物を飲み、遊び、しゃべる」姿は、機能性障害の変動の範囲を明らかに超えている。この線引きの難しさこそが、二十年間の論争が終わらなかった技術的な理由である。
「見ることで罹る」という厄介な可能性
第三に、感染の問題を扱いたい。
一九九八年にルレオで最初の症例が報告された後、同じ地域で症例が増えたことが観察されている。ゲオルギには同じ状態の家族ぐるみの友人がいた。ある姉妹には同じ状態のいとこがいた。宿舎の少年は同じ建物で三人を見ていた。四十六例中、六人が同じ状態のきょうだいを持っていた。三家族では二人の子どもが同時に罹患した。『ライフ・オーバーテイクス・ミー』では、レイラが十一か月寝たきりのあいだに姉が第一段階に入る過程が映っている。
そして、きわめて具体的な伝播経路が記録された症例もある。四十六例中、すでに否定的決定を受けていたヤズィーディーの少女三人が、二〇一四年八月以降、イスラム国が自分たちと同じ宗派の人々をどう扱っているかを映した動画を繰り返し視聴していた。三人ともその後に発症した。
これは「見ることで罹る」という古典的な集団心因性疾患の伝播様式にとても近い。同時に、彼女たちが見ていたのは自分の民族が現に殺されている映像であり、純粋な外傷曝露でもある。ここでも二つの説明が完全に重なる。
さらに厄介なのは、伝播の媒介がメディアだった可能性である。二〇〇五年から二〇〇六年にかけて、スウェーデンのメディアは無気力な子どもの映像と写真を大量に流した。二〇一七年には世界報道写真賞を取った写真が世界を巡った。二〇一九年にはネットフリックスが世界配信のドキュメンタリーを出した。カール・サリンが映画制作者の行動を「無責任で危険」と評したのは、この文脈である。
イリーナ・ビュルンドの言葉はもっと直截だ。「いちばんひどいのは、自分の子どもにこんなことをすることです。これは子どもを傷つけるための説明ビデオみたいなものだ」
映像が病気を広げる、という主張は極端に聞こえる。だが集団心因性疾患の研究では、メディア報道が症例数を押し上げる現象が繰り返し記録されてきた。オサリバンが同じ本で扱ったハバナ症候群も、コロンビアの女子学生の集団発作も、ニューヨーク州ルロイの女子高生の痙攣も、いずれも報道の量と症例数が連動している。
なぜ止まったのか、六つの変化
第四に、「なぜ止まったのか」を、もう一段細かく分解したい。二〇一六年以降に起きた変化を並べると、少なくとも六つある。
制度の変化。永住許可が原則から例外に変わり、時限的許可が原則になった。あきらめ症候群を理由とする在留許可の可能性が大幅に下がった。誘因が消えた。
法的評価の変化。移民裁判所があきらめ症候群に与える重みが軽くなった。診断書の効力が落ちた。
臨床方針の変化。児童保護の観点が前面に出た。分離が選択肢に入った。亡命手続きを治療から切り離すことが方針化された。ファールンの小児科医は、分離を始めたら子どもたちが数時間で元気になった、と語っている。
証拠の変化。二〇二一年のソルシーダンの後ろ向き研究が、在留許可が回復と無関係であることを統計的に示した。同年、医療技術評価機構が既存方針に科学的根拠がないと結論した。
物語の変化。二〇一九年から二〇二〇年にかけて、詐病があったことが当事者の口から公になった。医療者が疑いを口にできるようになった。「疑うこと自体が差別である」という規範が崩れた。
そして態度の変化。二〇二五年の総括論文はこう書いている。あきらめ症候群を単なる外傷とストレスによるものとする理解を拒絶したことが、医療従事者の心構えを変える結果になったように見える。既定の信頼する態度が緩み、臨床家は何よりもまず児童保護の観点を強く求めるようになった。それが、回復には在留が必要だと主張する、おそらくは病を駆動していた物語からの解放を可能にした、と。
ここで注意深くありたい。この六つのうち最初の二つは移民政策の厳格化である。この病を止めた要因の一部は、難民にとって明白に不利な政策変更だった。それを「治療の成功」と呼ぶのは、倫理的にかなりの覚悟が要る。
ソルシーダンの分離療法にしても、親から子を引き離すという極めて侵襲的な介入である。裁判所が親の親権を一時停止した上で行われた例もある。
「効果があったこと」と「やってよかったこと」は別の問いだ。二〇二五年の論文はその区別に十分な紙幅を割いていない。ここは今後の議論の余地が大きい。
この話が接続してしまう先
第五に、この事例が他の何につながるかを考えたい。
二〇二五年の論文が挙げた比較対象、つまり筋痛性脳脊髄炎および慢性疲労症候群、急速発症性性別違和、注意欠如多動症は、いずれも現在進行形で激しい論争のさなかにある。この並置は、論文の説得力を上げると同時に、論文自体を政治的な文書にしてしまった側面がある。
構成主義的な分析には両刃の危うさがある。「社会が作った病だ」という言い方は、患者の苦しみを軽んじる方向にも、社会の責任を重く見る方向にも使える。同じ命題が、まったく逆の政治的用途に供される。
だから、この事例から引き出すべき教訓は、特定の疾患を名指しすることではないと思う。もっと手続き的な教訓だ。
第一に、診断名を作ることには副作用がある。名前は苦痛の表現の鋳型になる。名前が広まれば、その鋳型で表現される苦痛が増える。診断名は記述であると同時に処方箋でもある。
第二に、治療の中に法的手続きの結果を組み込んではいけない。それは治療の失敗を無限に免責し、同時に病気を維持する動機を作る。
第三に、道徳的に正しい側に立つことと、事実を正しく把握することは、しばしば両立しない。両立しないとき、多くの人は前者を選ぶ。そしてその選択のコストは、当の弱者が払う。
第四に、報道が「合意の領域」を作ってしまうと、その領域の中では検証が止まる。止まった年数がそのまま被害の年数になる。ウップドラーグ・グランスクニングの自己検証が二〇二〇年に出るまで、十四年かかった。
最後に、いちばん引っかかっていること
この話を追いながら、ずっと引っかかっていたことを書いておきたい。
あきらめ症候群をめぐる論争は、常に「本当の病気か、演技か」という軸で行われた。だがこの軸そのものが、たぶん間違っている。
ソルシーダンの記録には、詐病が疑われる三例が含まれていた。そしてその三例にも治療は効いた。演技をさせられていた子も、演技ではなかった子も、家から引き離されて、毎日起こされ、服を着替えさせられ、手を添えて絵を描かされ、コーラを一滴口に入れられ、キッチンで食べ物の匂いを嗅がされることで、同じように回復した。
これは何を意味するか。
「本当に病気だったか」という問いは、その子を助けるためには不要だったということだ。必要だったのは、その子がいる状況を変えることだけだった。
そして二十年間、大人たちはその問いに答えを出すことに熱中して、状況を変えることを怠った。医師は在留許可を待った。政治家は相手陣営を叩いた。記者は自分の物語を守った。親は、少なくとも一部の親は、子どもを寝かせつづけた。
その間、子どもは暗い部屋で、鼻に管を入れられたまま、聞こえているのに動けずに横たわっていた。ゲオルギはガラスの箱の中にいた。ネルミンは毎日神に祈っていた。誰かが気づいてくれますように、と。
彼が祈っていた相手は、たぶん神ではなかった。私たちだった。
