## ある年から、人が眠りはじめた
この話を初めて知ったとき、一番引っかかったのは「原因不明のまま終わっている」という部分だった。
世界中で百万人規模の人間が罹患し、半数近くが死に、生き残った人の一部は何十年も彫像のように固まったままになった。それだけのことをやっておいて、この病気はある日すっと消えた。そして百年経っても、何が原因だったのか確定していない。
名前は嗜眠性脳炎。英語だとエンセファリティス・レタルギカ。別名をエコノモ脳炎。オリヴァー・サックスの『レナードの朝』で名前を知った人も多いだろう。あのロビン・ウィリアムズとロバート・デ・ニーロの映画の、背景にある病だ。
## 1917年、ウィーンの若い医師が気づいた
発見者はコンスタンチン・フォン・エコノモ。ギリシャ系の富裕な家に生まれ、オーストリアで神経学をやっていた。飛行機乗りとしても知られていて、なかなか奇抜な経歴の人だ。
1916年から1917年の冬、ウィーンの病院に、どの既存の病名にもあてはまらない患者が次々と運ばれてきた。熱が出て、喉が痛くなって、頭が痛い。そこまでは風邪だ。だがその後、異常に眠くなる。話している最中に寝落ちる。ゆすぶると一瞬目を開けて質問に答えるのに、そのまままた落ちていく。目の筋肉が麻痺して、ものが二重に見える。
エコノモはこれをばらばらの症例としてではなく、ひとつの疾患としてまとめた。1917年4月、ウィーンの学会で報告し、同じ年に論文を発表している。決め手になったのは、亡くなった患者の脳を見たとき、損傷のパターンがどの例でも不思議なほど似ていたことだった。中脳や脳幹、大脳基底核といった、眠りと運動を司る領域に炎症が集中していた。
これは偶然じゃない、と彼は考えた。そしてこの病気に名前を与えた。ちなみにエコノモはこの観察から、脳のどこが眠りと覚醒をコントロールしているのかという、当時としては先駆的すぎる仮説にも辿り着いている。睡眠神経科学の出発点のひとつが、この奇病の観察だった。
## 同じ病なのに、現れ方が三通りあった
この病の厄介なところは、症状が正反対に分かれることだ。
一つ目は、とにかく眠るタイプ。目の筋肉が麻痺してまぶたが上がらなくなり、一日の大半を眠って過ごす。ひどいと昨日のことも今日のことも区別がつかなくなる。
二つ目は、逆にやたらと動くタイプ。一睡もできない。体が勝手にびくびくと動き、落ち着かない。眠らないまま週単位で過ごすこともあったという。
三つ目が、のちの悲劇につながるタイプだ。筋肉の張りが消え、自分から動こうという力そのものが失われる。パーキンソン病に似ているが、発症が若いし、進行が違う。
眠るタイプと眠らないタイプが同じ病名に入る、というのは当時の医師にとって相当な違和感だったらしい。実際、発見当初は「エコノモの言う病なんて存在しない」という反論もあった。だが流行が広がるにつれ、同じパターンが各国で確認され、疾患単位として定着していった。
## 世界へ広がる眠り――1918年の大流行と重なった不運
流行のピークは1918年10月から1919年1月ごろだとされている。この時期に心当たりのある人は多いだろう。そう、いわゆるスペイン風邪のパンデミックと、まるっきり重なっている。
この重なり方が、後の一世紀を左右することになる。なにしろ同じ頃に、同じような地域で、インフルエンザ様の前駆症状から始まる病が広がったんだ。誰だって「同じものでは」と思う。当時の医師の多くもそう思った。
流行の規模は、資料によってかなり幅がある。控えめな推定で百万人以上が発症し、五十万人以上が死亡。幅を広く取る推計だと、世界で五百万人近くが罹患し、百六十万人が亡くなったともされる。アメリカでは1920年から1924年にかけて症例がピークを迎えた。つまり地域ごとに波がずれていた。
罹患者の中心層は十歳から四十五歳、とりわけ十代から三十代に集中していた。人生をこれから始める世代だ。この年齢分布が、のちの悲惨さを決定してしまう。
## 生き残った人に起きたこと――体が固まっていく
一般に、発症者のおよそ三分の一が急性期に亡くなり、三分の一は大きな後遺症なく回復し、残りの三分の一に永続的な神経障害が残ったとされる。
問題はこの最後の三分の一だ。彼らの多くは、発症から何年も、ときには十年以上経ってから、じりじりと動けなくなっていった。病名は脳炎後パーキンソニズム。
この状態は、単に「動けない」というだけでは説明が足りない。ゆっくりというのでもない。ある姿勢のまま、一日中、何年も、固まってしまう。指を持ち上げた位置で止まる。スプーンを口に運ぶ途中で止まる。しかも、本人の中は起きている。意識もあるし、知能も失われていないことが多い。ここが一番こたえる。
中には人がいる。だが、外に出られない。何十年も。
## 眼球上転発作――目だけが勝手に天を向く
後遺症の中でも、読んで一番だめだったのがこれだ。
眼球上転発作と呼ばれるもので、何の前触れもなく、両方の目玉がぐるっと上を向いて、そのまま戻らなくなる。数分のこともあれば、何時間も続くこともあったという。その間、本人は意識がある。天井しか見えないまま、じっと待つしかない。
しかもこの発作には、強い不安や強迫的な思考が伴うことがあった。同じ考えが頭の中でループして止まらなくなる。体も目も思考も、自分のコントロールを離れていく。自分の中で、自分だけが取り残される。
この症状は、後に別の薬の副作用としても知られるようになるんだけど、嗜眠性脳炎の後遺症としてはとりわけ頑固だったとされる。
## 子どもたちに起きたこと
もうひとつ、当時の医師を困惑させた後遺症がある。子どもの人格変化だ。
発症前は普通の子どもだったのに、回復後に行動が一変する。衝動を抑えられなくなる。自分の体を傷つけてしまう行動が出る。学校でも家でも手に負えなくなり、時代的には施設に送られるケースが多かった。
この症状群は当時、しばしば「性格の問題」として扱われた。つまり本人のせいなのか、怠けなのか、家庭の育て方なのか。でも実際には、脳の特定の部位が炎症で損なわれた結果だった。子ども本人も、自分がなぜそうなるのか分からないまま、叱られ続けた。この部分は、病気の歴史の中でもとりわけ気の毒な章だと思う。
## 病はある日、すっと消えた
1927年ごろを境に、新規発症は急速に減っていく。そして1930年代には、流行と呼べるものはほとんどなくなった。
治療法が見つかったわけでも、ワクチンができたわけでもない。消えた。これがこの病の気味悪さの半分だと思う。登場も退場も、人間の側の都合とは無関係に行われた。
以降、現在までの八十年から百年で、ちゃんと記録された散発例は百件に届かない、十分な記録のあるものに限れば八十件程度とされる。つまりこの病は、あの十数年だけ、世界を一周していなくなった。
だが、患者は残った。固まったままの人々は、各国の慢性病院や施設の奥の病棟に、じっといた。世界は彼らを忘れていった。二十年。三十年。四十年。
## 1966年、ブロンクスの病院で
ここからが『レナードの朝』の話だ。
ロンドン生まれの神経内科医オリヴァー・サックスは、アメリカに渡ってニューヨーク市ブロンクスのベス・エイブラハム病院に勤めるようになる。1966年のことだ。慢性疾患の患者を長期収容するタイプの病院で、当時の医療界のヒエラルキーでは決して華やかなポジションではない。
そこで彼は、奇妙な一団に出会う。病棟の奥に、動かない患者が何十人もいた。車椅子に座ったまま、ベッドに寝たまま、何年も。スタッフは彼らを丁寧に世話していたが、もはや「治療する対象」とは見ていなかった。存在しているけれど、もう何も起きない人々。
サックスはこの患者たちを、ちゃんと見た。彼らが固まっているのは意識がないからではない。むしろ意識は鮮明なまま、出力だけが封じられていると考えた。彼の描写によれば、患者の中にはボールを投げてやると反射的に受け取って投げ返せる人や、音楽が鳴ると突然踊り出す人がいた。音楽が止まると、また石に戻る。この観察が、彼のすべての出発点になった。
## 1969年の春、L-DOPAを投じる
ちょうどその頃、パーキンソン病の治療にL-DOPA(レボドパ)という薬が使われ始めていた。脳内のドーパミンを補うという発想で、効果は驚くほどだった。
サックスは考えた。この人たちの固さも、ドーパミン系の回路がやられているせいなら、同じ薬が効くのではないか。1969年の春、彼は二十人ほどの患者にL-DOPAの投与を始めた。
結果は、彼の予想をはるかに超えていた。
何十年も固まっていた人たちが、次々と動き出した。自分で食べ、自分で歩き、しゃべり、笑った。病棟は一夜にして別の場所になった。さっきまで静まり返っていた部屋で、人がしゃべり、物を欲しがり、外に出たいと言い出した。信じられない光景だっただろうと思う。
この時期を、サックスは「覚醒」と呼んだ。
## レナードと呼ばれた男の記録
一番有名な患者が、本の中でレナード・Lと呼ばれている人物だ。プライバシーのためにイニシャルで表記されている。映画ではレナード・ロウという名前になり、ロバート・デ・ニーロが演じた。
彼はアメリカの中産階級の家庭に育ち、頭のいい少年だった。十代で発症し、十年、二十年とかけて徐々に固まっていった。サックスが出会ったとき、彼はもはやしゃべることも自分で動くこともできなかった。ただ、指をわずかに動かすことはできた。彼はボードの上の文字を担当者に押させて、一文字ずつ会話していた。
驚くべきは、その状態で彼が膨大な本を読んでいたことだ。ページをめくるのは他人に頼むしかない。それでも彼は何十年も読んでいた。体が完全に停止しても、中の人間は世界を受け取り続けていたということだ。
L-DOPAを始めて数週間で、彼は一気に覚醒した。自分で歩いた。しゃべった。字を書いた。彼はこの時期の自分について、生まれて初めて生きていると感じる、という意味のことを何度も口にしたとされる。彼は外に出たがり、人と話したがり、世界のあらゆることを一度に取り戻そうとした。四十年分を一ヶ月でやろうとした、と言ってもいい。
そして、その途方もないエネルギーが、やがて彼自身を飲み込んでいく。高揚しすぎる状態が現れ、やがて制御が利かなくなり、不随意運動が出、薬の量をどう調整しても安定しない区間に入ってしまった。覚醒は、永続しなかった。
## ローズと呼ばれた女性の、時間が止まった話
もうひとつ、この本で一番有名なエピソードがローズ・Rと呼ばれる女性の話だ。
彼女は十九歳ごろに発症し、そのまま固まった。以来四十年以上、外界とのやりとりはほぼ途絶えていた。彼女がL-DOPAで覚醒したとき、周囲はあることに気づいて慌てることになる。
彼女の中では、時間が発症した年のまま止まっていた。話題も、言葉遣いも、自分の年齢の感覚も、全部あの頃のままだった。彼女にとっては、昨日まで若い娘だった。面会に来る家族は老いている。面会に来られない人は、もうこの世にいない。面会に使うラジオはテレビになっているし、街も服も人の話し方も変わってしまっている。
覚醒するというのは、この断層を一瞬で飲み込むということだった。彼女は自分が失ったものの量を、目覚めて初めて知った。サックスはこのケースを、単なる医学的失敗としてではなく、人間にとって時間とは何かという問いとして書いている。
この話に深く応えたのが、イギリスの劇作家ハロルド・ピンターだった。彼は1982年に『アラスカのような場所』という短い戯曲を書いている。一人の女性が何十年ぶりに目覚め、自分の現在地を探ろうとする。舞台の上で、彼女は何度も時間を間違える。
## 病棟の側から見えていた風景
患者本人だけじゃなく、現場の人間の語りも面白い。
長年この手の病棟にいた看護職の回想として、こういう趣旨の話がよく伝えられている。固まっている患者の前で、スタッフは平気で世間話をする。家族の愚痴も、職場の愚痴も、他の患者の容態も。相手は反応しないのだから、聞こえていないと思っている。ところが覚醒した患者が、その内容をすべて覚えていた。何年も前の会話を、日付ごと。これを知ったときの現場の衝撃は、想像するに余りある。
家族の側にも重い話が多い。ある患者の姪は、一度もしゃべったことのない叔母としてその人を知っていた。目覚めたと知らされて病院に行くと、初めて声を聞いた。声は予想と全然違っていたし、話す内容もユーモアのセンスも、自分の知らない人のものだった。姪は後に、あれは新しい親戚に会ったような感覚だったと語っている。しかもその人は、数ヶ月でまた遠くに行ってしまう。
もうひとつ。患者の兄弟という人の話として、覚醒の短い期間に、二人で子どもの頃の話をしたという記録がある。どの家に住んでいたとか、隣の犬の名前とか、母親の口癖とか。固まっていた側の記憶は、外にいた側よりも鮮明だった。思い出を使わないまましまっていたからだろう、とこの人は言っている。外にいた側は、日々に上書きされて忘れていっていた。
## 薄れていく効果と、残された問い
覚醒は長くは続かなかった。多くの患者で、数週間から数ヶ月で効き方が崩れていった。
しかも単に「元に戻った」のではない。もっと厳しかった。薬の量を増やすと不随意運動や精神症状が出、減らすと再び固まる。しかもその幅が極端に狭くなっていく。患者によっては、一日の中で覚醒と停止を何度も行ったり来たりする状態になった。
サックスはこの経過を隠さなかった。ここが重要だと思う。普通の医学論文なら、効果のあった期間とパーセンテージを報告して終わる。だが彼は、二十人の人間に何が起きたのかを、一人ずつの物語として書いた。これが1973年の『レナードの朝』だ。
医学界の反応は、当初必ずしも好意的ではなかった。対照群もない、盲検もない、用量調整は手探り。学生に議論させると、「やり方がアバウトすぎる」「患者の希望を聞きすぎて判断が揺れている」といった指摘が必ず出る。もっともな批判だと思う。一方で、この患者群には対照群を組めるほどの人数がもう存在しなかったという事情もある。世界に残された最後の一団だったんだ。
## 1990年、映画がこの病を世界に戻した
この本を一気に有名にしたのが、1990年の映画化だ。ペニー・マーシャル監督、ロビン・ウィリアムズが医師役、ロバート・デ・ニーロが患者役。医師の名前は作中でマルコム・セイヤーに変えられている。
映画は当然ながら劇として整えられていて、実際の経過よりドラマチックだ。それでも、この作品が果たした役割は大きい。嗜眠性脳炎という、もう誰も覚えていなかった病の名前を、一夜で世界中に戻した。デ・ニーロが役作りのために実際の患者を訪ねて動きを研究したという話も有名で、病の描写の精度は高いと評価されている。
日本でも、医療・福祉の現場でこの映画を見せられた経験を持つ人は多い。神経内科の講義や、介護系の研修で定番教材になっている。「反応がない人の中にも人がいる」という一点を伝えるのに、これ以上分かりやすい教材がないからだろう。
## で、原因は何だったのか――三つの有力説
さて本題だ。百年経って、この病の正体はどこまで分かったのか。結論から言うと、まだ確定していない。有力説が三つあって、どれも決定打に欠ける。
一つ目はインフルエンザ説。1918年の大流行と時期が重なるのだから、インフルエンザウイルスが神経を侵したのではないかというもの。直感的には一番もっともらしい。だが疫学的に見ると、両者の流行曲線が地域によってはさっぱり一致しない。さらに、保存されていた当時の脳組織を現代の技術で調べても、インフルエンザの痕跡は見つかっていない。現在は「思われていたほど両者の関係は強くない」という見方が優勢だ。
二つ目はエンテロウイルス説。保存標本の解析から、コクサッキーB4に似たウイルス様粒子が見つかったという報告がある。小さなRNAウイルスが犯人ではないかという線だ。ただこれも、十分な再現性のある証拠には至っていない。
三つ目が、近年有力な自己免疫説。2003年から2004年にかけて発表された研究で、現代の「嗜眠性脳炎らしい」症例二十例を集めて調べたところ、大脳基底核を攻撃する自己抗体が高率で検出された。レンサ菌感染のあとに免疫が暴走する、いわゆる分子擬態のメカニズムが疑われている。これなら、病原体が見つからないのに脳だけがやられる理由も説明できる。
ただ、この三つは排他的ではない。何かの感染が引き金を引き、免疫が自分の脳を撃つ。この組み合わせなら、病原体が一種類でなくてもいい。だからこそ、「エコノモの見た病」は実は単一の疾患ではなかったのでは、という議論も根強く残っている。
## 今も起きているのか
気になるのは、これが完全に過去の話なのかという点だろう。
結論を言うと、ゼロではない。ごくまれに、嗜眠性脳炎としか呼びようのない症例は報告されている。なにしろ先の自己免疫研究も、現代の症例を集めて行われている。ただ、あの規模の流行は二度と起きていないし、確定診断のための検査も存在しない。診断は依然として、症状の組み合わせと除外診断で行われている。
これはなかなか居心地の悪い状態だ。名前はある。症例もある。だが原因も検査もない。もし明日、同じものがまた広がったとしても、最初の数ヶ月はたぶん「原因不明の眠気と神経症状」として扱われるだろう。エコノモがやったのと同じ作業を、もう一度誰かがやることになる。
## ネットでは、どこが一番ザワつかれているのか
このテーマでオカルト側の反応を見ていると、ポイントははっきりしている。
一番ザワつかれるのは、「病が勝手に消えた」という事実だ。人間が制圧したのではなく、向こうがいなくなった。これは制御感の完全な欠如で、パンデミックを経験した世代にはとくに応える。「また戻ってくるのでは」というコメントは、この手の動画のコメント欄に必ず並ぶ。
二番目は、「中に人がいた」という部分。何十年も反応のなかった人が、実は周囲の会話を全部聞いていた。これを知ったときの背筋の冷え方は、ホラー作品のそれとは質が違う。自分がそうなる可能性と、自分がそういう人の前でなんか失礼なことを言っている可能性と、両方を同時に突きつけてくるからだ。
三番目は、覚醒の後に元に戻ってしまうという結末。ここで必ず議論になるのが、「知らないままのほうがよかったのでは」という問いだ。医療倫理の授業でも定番の論点らしい。自分は、この問いに簡単に答えてはいけないと思っている。外から見て「結局戻ったのなら意味がない」と言うのは簡単だけど、当の本人がこの数ヶ月をどう思っていたかは、本人にしか分からない。
## なぜこの話は、ここまで引っ掛かるのか
嗜眠性脳炎の話がこんなに長く語られ続けている理由は、たぶん三つある。
ひとつは、「意識はあるのに出られない」という状態が、人間が想像しうる最悪のパターンのひとつだからだ。生き埋めの恐怖と同じ形をしている。しかもこちらは、土の下ではなく明るい病室で、十年単位で起きる。
ふたつめは、覚醒というイベントのできすぎた形だ。物語の型として完璧すぎる。長い眠り、瞬間の目覚め、そして再びの閉ざし。神話やおとぎ話にいくらでもある構造だ。だからこそ、本と映画と戯曲になった。
三つめは、未完だからだ。原因が分かっていたら、この話は医学史の一ページで終わっていた。分からないから、今も論文が出る。今も推理が出る。そして今も、こういう記事が書かれる。
個人的に一番怖いのは、この病が人を殺したことでも、固めたことでもない。一度世界を回っておいて、手がかりを一つも残さずに引っ込んだことだ。ウイルスでも菌でも、捕まえてしまえば人間は安心する。この病は、その安心を一度も与えてくれなかった。
## 忘れられていた人たちを、もう一度医学の正面へ戻した仕事
このテーマを追っていて、何度も戻ってきた論点を最後にもう少し掘っておきたい。
まず、「彫像になった人々」を世界がどう扱ってきたかという問題。サックスがベス・エイブラハムで彼らに出会ったのは1966年だから、流行から四十年以上経っている。この四十年、彼らは存在していたのに、医学的にはほとんど話題になっていない。理由は単純で、治せないからだ。治せない患者は、医学の視界から静かに外れていく。ケアの現場には残るけれど、研究の対象にはならない。サックスがやったことの本当の意義は、L-DOPAを使ったことではなく、忘れられていた人々をもう一度医学の正面に戻したことのほうだと思う。
次に、この病の「境界のあいまいさ」について。嗜眠性脳炎は、神経内科の病であり、同時に精神科の病でもあった。子どもの人格変化は当時、しばしば道徳の問題として扱われた。後遺症の強迫症状も、神経症と見られた。つまりこの病は、「体の病気」と「心の病気」の境界線を、歴史のある時期に一回ごっそり引き直してしまったとも言える。この作用は、実は今も続いている。原因不明の不調を前にしたとき、人間がどこまでを「本人のせい」と見なすかという問題は、現代のいろんな疾患で同じ形で繰り返されている。
三つ目に、「覚醒の代償」という視点。これは考えるほど重い。例えば四十年固まっていた人が目覚める。喜ぶべきことだ。だが同時に、その人は四十年分の喪失を一日で受け取ることになる。家族は老いているし、いない人もいる。自分の年齢は自分の感覚と合わない。世界は別のものになっている。しかもその覚醒が数ヶ月で終わることを、やがて本人も知る。これを「奇跡の物語」として消費するのは、ちょっと雑すぎる気がする。サックスの本が今でも読まれるのは、彼がその雑さを避けたからだ。彼は、成功でも失敗でもないものを、そのまま書こうとした。
四つ目。この病の歴史を読むと、医学の進歩というものがいかに不均等かがわかる。エコノモは1917年の時点で、脳のどこが眠りを司るのかについて非常に筋のいい推測をしている。だが同じ病の原因については、百年後の今でも答えが出ていない。顕微鏡は進歩した。遺伝子解析もできる。それでも、保存されていない標本は調べられないし、百年前の患者に問診をとることはできない。時間だけは、どんな技術でも戻せない。
## 怪談として消費して終わるには、惜しい話だ
最後に、この話をどう受け取るのがいいのか。オカルトの材料としては、これ以上ない素材だ。世界を眠らせた謎の病。彫像になった人々。奇跡の覚醒と、消えていく効果。だがこれは怪談ではない。実在の病で、実在の人が固まっていて、実在の家族が面会に通っていた。彼らの大半はもう亡くなっているし、残されたのはカルテの記録と、一冊の本と、一本の映画だ。
もしこの記事を読んで背筋が冷えたなら、それは健全な反応だと思う。ただ、怖がるだけで終わらせるのはもったいない。この話の中心にあるのは、体が動かなくても中に人がいる、というひとつの事実だ。百年前の病棟でも、今のどこかの部屋でも、それは変わらない。これだけは覚えて帰ってもらえるとうれしい。
