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腐らないどころか、石鹸になる。人体が蝋に変わる「屍蝋」という現象と、ミュター博物館のソープ・レディが二百年黙り続けている理由

石鹸になった女が、ガラスの向こうで口を開けている

フィラデルフィアのミュター博物館に、ずっと同じ姿勢で寝ている女性がいる。仰向けで、両腕は体の脇。顔は上を向いていて、口が開いている。あくびの途中で時間が止まったみたいな顔だ。灰色がかった白。表面はざらついていて、指で押したらぼろっと欠けそうに見える。実際、欠ける。

彼女は骨じゃない。ミイラでもない。乾いてカラカラになったわけじゃなくて、体の脂肪がまるごと石鹸に化けた。館の職員も来館者も、彼女を「ソープ・レディ」と呼ぶ。石鹸の女。ふざけた呼び名に聞こえるけど、これがいちばん正確な説明でもある。

この現象には名前がある。屍蝋。英語だとアディポセル。ラテン語の「アデプス(脂肪)」と「ケラ(蝋)」をくっつけた造語だ。墓場の蝋、死体蝋、なんて呼ばれ方もする。腐るはずの遺体が腐らずに、代わりにチーズだか石鹸だかよく分からない塊になって、そのまま何十年、何百年と居座る。

で、この記事はその屍蝋の話をする。ソープ・レディが誰だったのか二百年近く分からないままだという話。スコットランドの採石場で兄弟の死を暴いた話。スイスの湖に三百年浮かんでた首なし胴体の話。ドイツとスイスの墓地が「遺体が消えてくれない」せいで回らなくなってる話。そして日本の話。全部、脂肪が水と反応するというだけの、地味きわまりない化学反応から始まっている。

一八七五年、フィラデルフィアの掘り返された墓地で何が起きたか

まず現場から始めよう。時代は一八七五年。フィラデルフィアは都市整備の真っ最中で、市街地のあちこちで古い墓地が邪魔になっていた。道を通す、建物を建てる、そのために墓を潰す。潰すには中身をどかさないといけない。だから作業員たちが墓地に入って、土を掘り、棺を引き上げて、中身を別の場所に移していた。当時としてはよくある仕事だった。

その日の墓地は水はけが悪かったらしい。地下水が長い年月をかけて棺のなかに染み込んでいた。作業員が棺の蓋をこじ開ける。ふつうなら骨が出る。数十年も経てば、肉は土に還って、残るのは骨と釘と布きれくらいだ。ところがその棺には、人のかたちをした重たい塊が入っていた。表面が白っぽくて、湿っていて、触ると脂っぽい。腐臭ではなく、アンモニアっぽい、あるいは古いチーズみたいな匂いがした。

作業員たちは当然ざわついた。石になった死体だ、と言った者もいたはずだ。実際、当時この手の遺体は「石化した死体」と呼ばれていて、ミュター博物館に最初に付けられた展示ラベルにも「いわゆる石化した死体」と書かれている。石じゃなくて石鹸なんだけど、そんなことは誰も知らない。しかも同じ墓地から、もう一体出た。今度は男性。こちらは長いストッキングを履いたままだった。

ここに、ジョゼフ・ライディという男が現れる。ペンシルベニア大学の解剖学者で、アメリカ古脊椎動物学の父と呼ばれる大物だ。医師でもあり、博物学者でもあり、要するに十九世紀型の万能学者。彼はどこかでこの発掘の噂を聞きつけ、現場に飛んでいった。そして二体とも持ち帰った。女性は当時のミュター博物館へ、男性はペンシルベニア大学医学部のウィスター・ホーナー博物館へ。ミュター博物館には、雇った馬車に載せられて到着したと記録されている。

ここまでは、まあ、時代を考えれば理解できる話だ。問題は、ライディがそのとき何を語ったかだった。

「エレンボーゲン夫人」という名前は、どこにもなかった

ライディの説明はこうだった。この女性は「エレンボーゲン」という姓の人物で、一七九二年に黄熱病で死に、フォース通りとレース通りの近くに埋葬された。男性のほうは「ヴィルヘルム・フォン・エレンボーゲン」、一七九二年に黄熱病で死亡、享年六十三歳。ドイツ語の「フォン」が付いているから貴族の血筋だ、とまで匂わせている。

ミュター博物館の最初のラベルには、こう書かれていた。太った女性の体がアディポセルに変化したもの、いわゆる石化した死体。エレンボーゲンという名の女性で、一七九二年にフィラデルフィアで黄熱病により死亡、フォース通りとレース通りの近くに埋葬された。変化の過程は次のとおり。窒素を含む組織がアンモニアを放出し、それが体の脂肪を攻撃して硬い石鹸を作る。かたちはよく保たれている。

化学の説明部分はだいたい合っている。人名と年号が全部でたらめだった。

それを暴いたのが、一九三七年から一九四五年まで館の学芸員を務めたジョゼフ・マクファーランドだ。彼は六十五年間そのまま信じられてきたラベルに疑いを持って、地道に調べ始めた。死亡記録、教会の名簿、船の乗船記録。ありとあらゆる資料を漁って、エレンボーゲンという姓の人物を探した。一七九二年のフィラデルフィアの死亡記録に、エレンボーゲンはいなかった。そもそも一七九二年には黄熱病による死亡の記録自体が見当たらなかった。大流行は一七九三年で、そちらには数千人分の死者リストが残っている。全部当たった。エレンボーゲンはやはりいない。フィラデルフィアにこの姓の人間が現れるのは、一八五六年より後だった。

埋葬地も嘘だった。フォース通りとレース通りの近くにドイツ系の教会は三つあったが、どの教会も墓地は別の場所に持っていた。つまり、そこに墓地はなかった。

そしてマクファーランドは、内科医師会の図書館の書庫で、決定的な紙切れを見つける。一八七五年十一月十八日付の手書きの領収書だ。そこにはライディ自身の筆跡で、遺体を手に入れるのに「策を弄した」という趣旨の言葉が記されていた。使われた単語は「コニヴァンス」。共謀、黙認、なあなあの取引、といったニュアンスの語だ。内科医師会は「アディポセルの遺体の調達に要した費用」として、彼に七ドル五十セントを二回に分けて支払っていた。

ハント医師が新聞に書いた、生々しい告白

ライディがどうやって遺体を手に入れたのか。その答えは、ライディ本人が死んだあとに出てきた。ウィリアム・ハントという医師が、一八九六年一月十六日付のフィラデルフィア・パブリック・レジャー紙に、当時の顛末を細かく書いたのだ。ハントは一八六五年から一八九五年までミュター博物館委員会のメンバーで、ソープ・レディが入ってきた時期には学芸員代行を務めていた。つまり当事者中の当事者だった。

ハントの回想はこう始まる。ある日、ライディがひどく興奮した様子で自分の家にやってきた。そして言った。ハント先生、街なかのすごく古い墓地から、遺体を移してるのをご存知ですか。改良工事のために。ハントは知っていると答える。ライディは続ける。あの遺体はコレクションにとって貴重で有益な追加になる、と。ハントは、けっこうです、喜んで、と応じた。

問題はそのあとだ。ライディが墓地に行くと、監督者が身元の証明を求めた。掘り出した遺体を引き渡すには、遺族であることを示さないといけない。ライディは遺族ではない。ではどうしたか。家具運搬用の荷馬車を雇い、それらしい書類を用意して、自分は縁者だと名乗った。監督者のほうも事情を察していたらしい。そして二体は「私の祖父と祖母です」という建前のもとに引き渡された。

読み返すたびに、この場面の生々しさに感心してしまう。学者が、興奮を抑えきれずに同僚の家に押しかける。荷馬車を手配する。墓地の監督者と目配せを交わす。そして石鹸になった見知らぬ二人が、誰かの祖父母ということにされて、大学と博物館へ運ばれていく。ハントはこれを非難する調子ではなく、むしろ懐かしむような調子で書いている。当時の学者にとって、これはやんちゃな武勇伝だったのだ。倫理観の座標軸が今とはまるで違う。

結果として何が残ったか。彼らはライディの祖父母ではなかった。一七九二年に死んでもいなかった。エレンボーゲンという名前でもなかった。マクファーランドは一つの謎を解いたが、代わりにもっと大きな謎を作った。ミュター博物館は、身元不明の女性の遺体を抱えることになったのだ。

レントゲンが暴いた、屍衣を留める八本のピン

科学の側からの追撃は二十世紀後半に始まる。一九八七年、当時トマス・ジェファーソン大学にいたジェラルド・コンローグが率いるチームが、ソープ・レディのレントゲン撮影を行った。彼女は脆すぎて動かせないので、可搬式のエックス線装置を博物館に持ち込んだ。正面像、斜位像、寝かせたままの側面像を撮った。

出てきた所見が面白い。彼女は歯が一本もなく、見た目はどう見ても老女だった。ライディが「中年か老年で死んだ」と決めつけたのも、歯がないからだ。ところが骨格は健康で頑丈で、加齢による変性がまったく見られなかった。顎の骨は歯が抜けたあとに作り直されていて、これは死のずっと前に歯を失っていたことを意味する。若いのに歯だけがない女性。チームの見積もりは、死亡時およそ四十歳。

さらに、遺体の周囲から八本のまっすぐなピンが見つかった。位置からして、屍衣を体に留めるために使われたものだ。そしてこのピンの頭が、中身の詰まった丸い形をしていた。この形状のピンを作る機械が特許を取ったのは、イングランドで一八二四年。つまり一七九二年に死んだ人物が、一八二四年以降に作られたピンで屍衣を留められていることになる。ありえない。一七九二年という年号は、この八本のピンによって物理的に否定された。

調査はその後も続く。二〇〇二年、博物館はワシントンのジョージタウン大学の画像科学情報システムセンターに依頼して、CT撮影を行った。またしても可搬式の装置を運び込み、館の大広間に据えた。遺体が熱に弱いので、連続では撮れない。休み休み、六時間かけて頭部のレントゲンとCTを取った。ここで彼女の内部が見えてくる。縮んだ脳が残っていた。七ミリの尿管結石、八ミリの胆石。大動脈は石灰化していて、脳の血管にも石灰化があった。顎の骨は左右とも折れていたが、折れ方と治癒の痕がないことから、死後についた傷と判断された。

二〇〇七年、コンローグのチームが再結成される。今度はクイニピアック大学から、ロン・ベケットと組んで、より感度の高い新しい装置を使った。画像は格段によくなり、法医人類学者が骨を評価し直した。結論は、死亡時年齢の大幅な下方修正。四十歳前後という見積もりは、二十代後半から三十代へと引き下げられた。

若い。歯が全部ない。骨は健康。この組み合わせが何を意味するのか、いまだに誰にも分からない。

学芸員が語る「私たちは彼女について、ほとんど何も知らない」

ソープ・レディをめぐる証言のなかで、いちばん胸に残るのはミュター博物館の学芸員だったアナ・ドディの文章だ。彼女は法医人類学と生物人類学の訓練を受けた研究者で、二〇〇四年から契約職員として働き始め、二〇〇七年に正式な学芸員になり、のちにミュター研究所の所長を務めた。子どものころ、母親に博物館へ放り込まれて育ったタイプの人だ。七歳でミュター博物館に来て、そのまま人生が決まった。

そのドディが、ソープ・レディについてこう書いている。かつての学芸員マクファーランドは、彼女を老いていて、たぶん醜くて、くるみ割り人形みたいな横顔だ、と評した。さらに、想像しうるかぎり最も不快な物体のひとつ、とまで言い切っている。ドディはそれを引用したうえで、たしかに彼女はまったく写真映えしないと認める。そのうえで書く。彼女には見た目以上のものがある、と。

そしてこう続ける。彼女がどうやって今の姿になったのかについては、たくさんのことが分かっている。だが、彼女自身については、実質的に何ひとつ分かっていない。話をややこしくすることに、科学的な調査は、我々が知っていると思っていたことのほうを片っ端から偽だと証明してしまった。

この一文は、屍蝋という現象の性格を言い当てていると思う。屍蝋は情報をものすごく残す。かたちを残し、内臓を残し、傷を残す。なのに、いちばん知りたいこと、つまり「この人は誰だったのか」は残さない。名前は肉より先に消えるからだ。

ドディたちが今後やりたいこととして挙げているのが、髪の毛根と爪からDNAが取れないかの評価。それと、髪の毛から重金属や毒物が検出されないかの検査だ。というのも、二十代で全部の歯を失っているのは、単なる口腔衛生の悪さでは説明しづらいからだ。何か病的な背景があったのか、あるいは体内に入った何かが歯を落としたのか。ドディはそこを疑っている。ちなみに彼女は二〇二四年にミュター博物館を退職し、自分の研究所を立ち上げた。館の運営方針と折り合わなくなったことを、彼女は隠さずに語っている。

スミソニアンの屋根裏にいる「ソープ・マン」

ソープ・レディにはもう一人、道連れがいた。同じ墓地から出て、ライディの手で大学へ運ばれ、「ヴィルヘルム・フォン・エレンボーゲン、一七九二年に黄熱病で死亡、享年六十三歳」という嘘のラベルを貼られた男性だ。彼はソープ・マンと呼ばれている。

彼は現在、ワシントンのスミソニアン国立自然史博物館の所蔵になっている。一九七〇年代から一九九一年まで展示されていたが、一九九一年に展示を外され、空調管理された屋根裏の収蔵スペースに移された。展示から外れたことで、逆に研究のチャンスが生まれた。一九九四年、ソープ・マンのレントゲン撮影が行われる。可搬式の装置を持ち込み、遺体だけでなく、載っている板や棚、部屋そのものまで写真と実測で記録した。ライディが一八七五年に語った内容と、ソープ・レディの所見と、三つを突き合わせるための調査だった。

出てきた所見はこうだ。彼は仰向けで、両手を太ももの上に置いている。皮膚は不規則で硬く、白から灰色、茶色、黄色までまだらに色が変わっている。顔のほとんどと、頭皮、耳、目、鼻がまるごと失われていて、腕や肘の圧迫を受けた部分も欠けていて、その下の黒ずんだ骨が露出している。ソープ・レディよりも屍蝋化の程度は徹底しているのに、外側の傷みは激しい。

腕と脚の骨は健康で頑丈、関節に老化らしき狭窄もない。ところが頸椎と上部胸椎には変性があって、びまん性特発性骨増殖症、いわゆるフォレスティエ病を思わせる所見だった。この病変の性質と位置から、彼は肉体労働者だったのではないかと推測されている。煉瓦職人、農夫、船乗り、港湾労働者。そういう類の仕事だ。下顎の小臼歯と大臼歯、上顎の全部の歯が生前に抜け落ちていたことも分かった。頭蓋の形からヨーロッパ系の男性と判定され、腰まわりと下腹部に脂肪の蓄積があった。つまり彼も太っていた。

そして彼のそばからも、頭が丸くて中身の詰まったピンが二本、それに大量の金属釘が見つかった。ソープ・レディと同じピンだ。一八二四年以降の機械製。彼のラベルの一七九二年も、これで死んだ。彼は一八〇〇年から一八一〇年ごろに、四十代で死んだ人物だろうと考えられている。

彼はいまも、履いたままのストッキングと一緒に、温度と湿度を管理された部屋にいる。展示されていない。名前もない。

そもそも屍蝋って、体のなかで何が起きてるのか

ここで化学の話をしておく。難しくない。石鹸を作る話だから。

人間の脂肪組織の中身は、おおむね中性脂肪だ。中性脂肪はグリセリンに脂肪酸が三本くっついた構造をしている。この結合は、水があると切れる。加水分解という。切れるとグリセリンと遊離脂肪酸に分かれる。石鹸工場でやっているのは、この反応をアルカリで強引に進めることだ。だから鹸化と呼ぶ。

死体のなかでは、これがゆっくり起きる。まず自分自身の酵素が働き、次に細菌の酵素が働く。とくにクロストリジウム属みたいな嫌気性の細菌が出すレシチナーゼという酵素が主役になる。脂肪が加水分解されて脂肪酸が出る。そこで話が終われば、ただの脂肪酸の水たまりだ。屍蝋が屍蝋になるのは、この先がある。

出てきた脂肪酸のうち、オレイン酸のような不飽和脂肪酸に、細菌が水を付け加える。二重結合のところに水酸基がくっつく。こうしてできるのがヒドロキシ脂肪酸で、屍蝋のなかで代表的なのが10ヒドロキシステアリン酸だ。これは融点が七十八度から七十九度もある。常温では完全に固体だ。同時に、パルミチン酸やステアリン酸といった飽和脂肪酸が濃縮されていく。一九一七年にラタンとマーシャルが分析した「硬くてきれいな屍蝋の蝋」は、六十八パーセントがパルミチン酸だった。

さらにここに、周囲の水や土から来たカルシウムやマグネシウムが加わると、脂肪酸と結びついて金属石鹸になる。これがまた水に溶けない。日本語の解説で「屍蝋は金属石鹸だ」と書かれるのは、この部分を指している。

そして大事なのは、この最終生成物が細菌にとってまずいということだ。飽和していて、水に溶けなくて、融点が高い。栄養として使いづらい。虫にとってもごちそうではない。つまり体が、自分自身の脂肪から、自分を守る鎧を作ってしまう。腐敗は途中で止まり、そこで固定される。ドイツの研究者ショーネンらは、屍蝋の形成を「微生物による分解が不十分だった結果」と表現している。分解が失敗した状態が、あの白い塊なのだ。

条件も整理しておこう。必要なのは水分と、酸素の少なさと、そこそこの温度。理想的なのは摂氏二十一度から四十五度あたりで、十度を下回ると細菌の代謝が落ちて進みが遅くなる。水は外から来なくてもいい。マントとファーバンクという研究者が指摘したとおり、脂肪組織そのものが持っている水分だけでも反応は進む。だからビニール袋やクローゼットの中でも屍蝋はできる。日本の報告例では、多数のポリ袋に覆われた衣装ケースに約四年間閉じ込められていた七十七歳の女性の遺体が、ほぼ全身屍蝋化していた。乾いた密閉環境でも起きるのだ。

なりやすい人の傾向もはっきりしている。脂肪が多いほどなりやすい。だから女性、乳幼児、肥満体の人に多い。エヴァンズが一九六三年にまとめた百九例の掘り起こし調査では、屍蝋が見られたのは女性で六十二パーセント、男性で四十五パーセントだった。逆に、痩せて栄養状態の悪い体では、そもそも材料が足りない。日本のミステリー好きの法医学解説には、栄養不足の体では屍蝋にならないから、あの小説の設定は成立しない、というツッコミが載っていたりする。

時間のスケールもある。水中なら一、二か月から一年程度、土中なら数か月から数年かけて、皮下脂肪から筋肉、臓器へと進む。おおむね一か月で始まり、三か月で全身に及び、半年で完成する。完全な完成には三年かかるという説もある。そしていったん出来上がると、その先は事実上変わらない。五年でも、五千年でも。

一七八六年、パリの「罪なき者たちの墓地」で名前が付いた

この現象に名前を与えたのは、フランス人だ。舞台は一七八六年から一七八七年のパリ。サン・イノサン墓地、日本語では罪なき者たちの墓地と訳される場所で、大規模な移葬が始まった。何百年も遺体を詰め込みすぎて限界を超えた墓地から、遺骨を掘り出して、廃坑になった採石場の地下へ移す。これが現在のパリのカタコンベになる。

この作業を監督したのが、アントワーヌ・フランソワ・ド・フルクロワとミシェル・オーギュスタン・トゥーレという二人の科学者だった。彼らは掘り出された遺体を観察して記録した。とくに驚いたのが子どもの遺体だ。骨になっているはずのものが、灰色がかった、蝋のような手触りの物質に覆われていた。

フルクロワはこれを「アディポセル」と名づけた。一七八九年のことだ。ラテン語のアデプスとケラの合成語。彼は観察を積み重ねている。埋葬から三年から五年の遺体では、屍蝋のなかに筋肉がまだ残っている。それより長く埋まっていた遺体では、筋肉はもう見分けがつかない。屍蝋は体のなかで脂肪の多い場所に集中している。時間が経つと、柔らかくて湿った屍蝋が、乾いてもろくなる。墓掘り人たちから聞き取りもしていて、三年以上埋まっていた遺体でよく見かける、という証言を得ている。実験もやった。脂肪がアンモニアと反応してできる石鹸の一種ではないか、というのが彼の結論だった。一七九四年には、屍蝋が見つかるとき、脳と骨髄と女性の乳房が必ず影響を受けている、と書き残している。

面白いのは、フルクロワより前にこれに気づいていた人がいることだ。トマス・ブラウンが一六五八年の『壺葬論』で、脂肪の凝結物がカスティール石鹸を硬くしたものに似ている、と書いている。さらに遡って、フランシス・ベーコンが、動物性の物質が自然にマッコウ鯨蝋によく似た物質へ変わる、と言及していたともされる。人類はずっと前から、墓のなかで石鹸ができることに気づいていた。ただ、それが何なのか説明できなかっただけだ。

その後の研究史も人名が並ぶ。一八六〇年にウェザリルが大きな総説を書いた。彼は屍蝋を「墓場の脂肪」と呼び、フィラデルフィアのいくつかの墓地で、屍蝋化した遺体と完全に白骨化した遺体が隣り合って出てくることを記録している。同じ墓地でも、区画によって運命が違う。彼は一八五三年十二月八日に動物の心臓を砂に埋めて湿らせておく実験もした。半年で屍蝋らしきものができ、一年で広範囲に広がった。一九一七年にラタンとマーシャル、一九二二年にドイツでゴイ、その後クラウラント。クラウラントは屍蝋化した妊婦の遺体の報告を残していて、そのお腹のなかの胎児もまた屍蝋化していた。一九六一年にはオランダのデン・ドーレン・デ・ヨングが大きな総説を書いたが、そのきっかけは実務的な悲鳴だった。オランダの墓地で埋葬から十年後に掘り起こしたところ、半分以上の遺体が完全に分解していなかったのだ。

つまり、この分野の研究はずっと、墓地の運用という現実問題に押されて進んできた。

ホープトゥン採石場に浮かんでいたもの

法医学における屍蝋の価値を、これ以上ないくらい鮮明に示した事件がある。スコットランドのホープトゥン採石場事件だ。

一九一一年の秋、ウェスト・ロージアン州の村に、パトリック・ヒギンズという日雇い労働者がいた。前年に妻を亡くし、二人の息子を一人で抱えていた。ジョンが七歳、ウィリアムが四歳。彼が子どもたちを重荷だと思っていたことは、周囲にも知られていた。

十一月のある晩、兄弟は父親を仕事場へ迎えに出かけた。近所の女性が二人にスコッチブロス、つまり野菜と大麦の入ったスープを分けてやっている。目撃者は、ヒギンズが子どもたちの手を引いて採石場のほうへ歩いていくのを見ていた。それが二人の姿を見た最後になった。

一年半以上が過ぎた一九一三年六月。使われなくなって水が溜まったままのホープトゥン採石場に、何かが浮かんでいるのが見つかった。引き上げてみると、小さな体だった。そして岸に上げようとしたとき、作業していた者たちは息を呑む。ロープでもう一体がつながっていたのだ。二人はひもで縛り合わされていた。

引き上げられた二体は、藻に覆われて膨れていたが、人のかたちを保っていた。兄弟だと分かる程度には顔が残っていた。冷たい水と、採石場の石から溶け出した石灰。この組み合わせが完璧な屍蝋化の条件を作っていた。二体はほぼ全身が屍蝋に変わっていた。

検死を担当したのがハーヴィー・リトルジョン教授と、当時まだ駆け出しだったシドニー・スミスだ。スミスはのちに「スコットランドのシャーロック・ホームズ」と呼ばれる法医病理学者になる。この事件が彼の最初の大きな仕事だった。

屍蝋は何を残したか。まず、死後経過時間の推定材料になった。屍蝋の進み具合から、死は発見の約十八か月前と見積もられた。次に、胃の内容物がそのまま残っていた。二年近く水のなかにあった子どもの胃から、死の約一時間前に食べたスープが出てきたのだ。地元で採れる野菜が使われていることまで分かった。警察はこの情報を頼りに、スープを分けてやった女性を突き止める。彼女は、一九一一年十一月初旬のある晩に、ジョンとウィリアムのヒギンズ兄弟にスープをあげたと証言した。衣類に残った洗濯屋の印も手がかりになった。身元が確定し、父親が逮捕される。

裁判で、陪審は一時間二十五分で有罪の評決を出した。ただし、事件から時間が経ちすぎているという理由で寛大な処分を求める意見を添えた。裁判長のジョンストン卿はそれに従わず、黒い帽子をかぶって死刑を宣告した。ヒギンズは表情を変えなかったという。一九一三年十月、エディンバラのカルトン刑務所で絞首刑が執行された。刑務所の外には五百人が集まっていた。エディンバラで二十世紀初の死刑執行だった。

シドニー・スミスが列車の網棚に載せたもの

この事件には後日談がある。というより、後味の悪い続きがある。

スミスとリトルジョンは、検死のあと遺体の一部を持ち去った。頭部、内臓、四肢の半分。スミス自身が一九五九年の回想録『モストリー・マーダー』で、これを「死体泥棒」と自分から呼んで書いている。

その手口が具体的だ。リンリスゴーの遺体安置所で検死をしているとき、立ち会っていた警官が二人いた。スミスはリトルジョンと段取りを組み、リトルジョンが「ちょっと相談があるから」と警官たちを外に呼び出した。その隙にスミスが遺体のかなりの部分を梱包し、棺に納めて蓋のネジを締めた。二人はそれを紙包みにして、エディンバラ行きの列車の網棚に載せた。車内は混んでいて、その日はひどく暑かった。二人は匂いで気づかれないかと冷や冷やしていたという。

なぜそこまでしたのか。スミスの説明はこうだ。遺体が長期間水中にあったり、湿った土に埋まったりすると、はっきりした変化が起きる。人間の脂肪は普通は半流動体だが、それが羊の脂のようにしっかり固まった脂に変わっていく。これが屍蝋だ。この変化はゆっくり進むが、完了すれば永久に続く。我々は純粋に医学的な観点から興味を持った。これほど広範囲な変化はめったに見られるものではなく、これらの標本はまったく例外的なものだった。

当時の大学の雑誌が、この二人の行動を詩にして揶揄している。曰く、寂しい湖に二つの遺体、変じてアディポセルとなり、ハーヴィーは呼ばれて見るなり言った、まさに我が博物館の欲しかったものだ、と。ふざけているが、要するに大学人はこれを面白がっていた。

遺族は何も知らなかった。母親はすでに亡くなっていたが、祖母は健在で、裁判で証言もしている。彼女たちが、あの棺に孫の遺体が全部入っていないと疑う理由は何もなかった。標本は一九五九年の時点でもまだ大学に展示されていて、学生に屍蝋を教えるために使われていた。

百年近く経って、遺族のモーリーン・マレラという女性が返還を求めた。彼女ははっきり言っている。シドニー・スミスは体の一部を持っていくというひどいことをした、と。二〇〇八年一月、エディンバラ大学は、血縁を証明でき、他の親族の同意が得られるなら返還すると回答した。そして二〇〇九年、二人の残りは火葬され、ようやく葬られた。

屍蝋が残したもののおかげで、殺した父親は裁かれた。同じ屍蝋が、二人の子どもの体を百年近く標本棚に足止めした。この現象の功罪は、いつもこういう形で混ざっている。

ブリエンツ湖に浮いていた首なし胴体、通称ブリエンツィ

一九九六年、スイスのブリエンツ湖の入り江に、何かが浮かんでいた。最初、それは死んだ羊だと思われた。白っぽい塊から骨が数本突き出しているだけに見えたからだ。近づいてよく見ると、羊ではなかった。人間の胴体だった。頭がない。全身がセメントのように硬い殻に覆われている。殻は白と青のまだら模様だった。

この胴体は、のちにブリエンツィという愛称で呼ばれるようになる。捜査を任されたのは、当時ベルンで研修医をしていたミヒャエル・タリという若い医師だった。これが彼にとって最初の大きな事件になる。彼は現在、チューリッヒ大学の法医学教授だ。

タリの最初の見立ては、屍蝋の存在から、死後六か月から五年というものだった。彼はのちにこう語っている。屍蝋をまとったこういう遺体を見たら、新鮮な遺体ではないことは絶対に明らかだ、と。だが、青い斑点が引っかかった。ふつう屍蝋にこんな色は付かない。

ベルン大学の生物学者に分析を依頼したところ、青い物質の正体はビビアナイトだった。日本語では藍鉄鉱。鉄のリン酸塩鉱物だ。遺体の上に生成した記録は、それまで世界で三例しかなかった。そのうちの一つが、五千三百年前の氷結ミイラ、アイスマンのエッツィだった。

つまりこの遺体は、まったく想定外に古い可能性が出てきた。決め手になったのは放射性炭素年代測定だ。試料は二つ。骨のコラーゲンと、そして胃のなかに残っていたサクランボの種。屍蝋のおかげで胃と腸が保存されていて、この男が最後に何を食べたかが残っていたのだ。

結果は、死後およそ三百年。彼は千七百年代に、この湖で溺れた男だった。骨髄に珪藻が見つかったことが、溺死の裏づけになった。溺れると水と一緒に珪藻が血流に乗って全身に回る。これは古典的な溺死の証明法だ。

なぜ彼が三百年ぶりに浮かんできたのか。溺れたあと、彼は湖底に沈み、堆積物に覆われた。酸素のない環境で、脂肪がゆっくり屍蝋に変わった。周囲の鉄とリンが反応して藍鉄鉱の青い結晶を作った。そして発見の一週間前に、この地域で弱い地震が二回起きていた。おそらくそれが堆積物をかき乱し、彼を解放したのだと考えられている。タリらのチームがこの調査結果を論文にまとめたのは二〇一一年、発見から十五年後のことだった。

墓が回らない。ドイツとスイスの「蝋の墓地」問題

さて、ここまで博物館と犯罪の話をしてきたが、屍蝋がいちばん深刻な問題を起こしているのは、実はもっと日常的な場所だ。ふつうの墓地である。

ドイツとスイスの墓地は、日本の墓とは仕組みが違う。永代供養ではなく、区画をレンタルする発想に近い。おおむね十五年から二十五年の休眠期間を置いて、そのあいだに遺体が完全に土に還るのを待ち、還ったら区画を掘り返して次の人に使う。回転させる前提の墓地なのだ。

前提が崩れた。遺体が還らないのだ。

土壌学者のライナー・ホルンは、ドイツのキール大学の研究者で、この現象をこう説明している。地下の水分が多く、温度が低く、酸素が乏しい。この条件が揃うと、多くの遺体の軟部組織が腐植土ではなく、灰色がかった白い、ペースト状の柔らかい塊に変わってしまう。そして時間が経つと、その残骸は硬くて丈夫な物質へと凝固する。シャベルで叩くと、蝋のような遺体はうつろな音を返す。

規模の話をしよう。ドイツ連邦環境財団による二〇一二年の調査では、国内三万三千の墓地のうち、およそ四つに一つで分解が不十分だとされた。専門家のターデ・シュプランガーによれば、状況はその後さらに悪化していて、いまやドイツのほぼすべての墓地が、少なくとも一部の区画でこの問題を抱えている。スイスでもおよそ三割の墓地で、土壌が分解を妨げていると言われる。

原因は複合的だ。まず土だ。海岸や河川の近くで地下水位が高い場所。粘土質で酸素が通らない土。ここに人為的なミスが重なる。土壌の改良を専門にする技師のハインリヒ・ケトラーは、率直に、過去数十年に犯した巨大な失策が原因だと言っている。新しい墓地を作るとき、多くの自治体が地元の農家から粘土分の多い土を買ってきて敷いた。水はけが最悪で、埋葬にはいちばん向かない土だ。深く考えずに買ってしまった。

服も効いている。合成繊維は細菌が分解しづらい。だから今は綿などの天然繊維で埋葬するのが望ましいとされる。棺も同じで、プラスチックや金属や陶製の棺は分解を止めてしまう。マホガニー、カラマツ、オークといった硬い木のほうが分解が進みやすい。それから遺族が墓に水をやりすぎるのも、土の隙間を水で埋めてしまうという意味で逆効果になる。薬の影響については専門家の意見が割れていて、フリッツ・ゼルゲル教授は、抗生物質が屍蝋の発生に無視できない影響を与えているとは考えられない、とはっきり否定している。一方で、掘り起こしの専門家であるエーリヒ・エッシュリマンのように、特定の病気が分解を遅らせている可能性を完全には否定できないと語る実務家もいる。人口全体で体脂肪が増えていることも、筋肉より脂肪のほうが分解が遅い以上、効いているはずだと指摘されている。

対策も派手だ。北海沿岸ではポンプで地下水位を下げる。粘土を掘り出して砂や砂利に入れ替える。休眠期間を延ばす。特定の区画を火葬専用にする。酸素フィルター付きのコンクリート製埋葬室を設置する。ケルン市はコンクリートのアーチ型埋葬室を五千基、近郊のヘルネは三千基発注した。作曲家のカールハインツ・シュトックハウゼンの親族のもとにも、この埋葬室が三基届いている。ドイツの墓地管理者向けには、その土地の条件から分解にかかる期間を計算するソフトウェアまで作られた。

スイス発の「リンダー式」という土壌再生工法もある。使えなくなった土をまるごと掘り出して、表土と木材チップと砂利をブレンドした土に入れ替え、排水システムとフィルター層と浸透層を組み込む。チューリッヒ大学法医学研究所は、この方式が数年で軟部組織と骨格の両方を完全に分解させるほぼ理想的な条件を提供する、と評価している。ただしドイツでの普及は簡単ではない。この工法は、蝋になった遺体を別の場所の仮の墓に移し替えることを前提にするからだ。ベルンハルト・ウーファーという業者はこう言っている。そういうことはスイスならできるが、死が伝統的にタブーであるドイツではできない。

そのコンクリート埋葬室にも落とし穴があった。ボン大学病院衛生公衆衛生研究所の医師ディルク・ショーネンが実際に調べたところ、いくつかの石棺では、棺の上に供えられた花のアレンジメントがまだ原形をとどめていた。花も葉も、ただ茶色くなっていただけだ。遺体も塵にはなっておらず、軟部組織はかなりの部分がまだ見分けられる状態で、体積だけが大きく減っていた。防水にしすぎた結果、今度は乾燥して革のようなミイラができてしまったのだ。腐らせるというのは、思っているよりずっと難しい。

そして、この問題がいちばん劇的な形で表に出たのがスイスのツーク州ツークだ。一九九四年、閉鎖された墓地を横切る鉄道の建設工事が行われた。掘削機が土をどけていくと、五十年前に埋葬された二百五十七体の蝋の遺体が出てきた。地元の人々は文字どおり衝撃を受けた。チューリッヒ大学のミイラ研究者フランク・リューリはこれを、脂肪が変化して一種の蝋になったもの、自然のミイラ化だと説明している。

「シラキュースの屍蝋」を探しにいったら、別のものが出てきた

オカルト系の読み物やまとめ記事を追いかけていると、一九九四年に発見された「シラキュースの屍蝋」という言い回しに出くわすことがある。屍蝋の有名事例として、ソープ・レディやブリエンツィと並べて挙げられていることが多い。

正直に書く。この案件を裏取りしようとして、英語、日本語、イタリア語で検索の角度を変えながら探したが、一次資料にたどり着けなかった。ニューヨーク州シラキュースの一九九四年、シチリアのシラクーザの一九九四年、どちらの線でも、屍蝋化した遺体の発見という報道や論文が見つからない。

代わりに、一九九四年に紐づく屍蝋の話は二つ出てきた。一つは、さっき書いたスイスのツークで二百五十七体が出てきた一九九四年の鉄道工事だ。もう一つは、スミソニアンの屋根裏でソープ・マンのレントゲン撮影が行われた一九九四年である。年号が一致していて、どちらも屍蝋の話で、どちらも英語圏で語られてきた。そして片方は都市の名前を含む場所で起きている。

この二つが記事から記事へ転載されるうちに混ざり、地名がすり替わり、いつのまにか「一九九四年、シラキュース」という一行になった。そういう経路はいかにもありそうだと思う。もちろん、私が見つけられていないだけで、地方紙のアーカイブや紙媒体の法医学誌に埋もれている可能性はある。実際、屍蝋の症例報告は世界中で山ほど出ていて、そのほとんどは英語圏のウェブには載っていない。だから「存在しない」とまでは言い切らない。ただ、いま確認できる範囲では、この事例を確かなものとして語ることはできない。

こういう話は、屍蝋というテーマにはよく付いて回る。この現象は事実そのものが十分に不気味なので、盛る必要がないのに、なぜか盛られる。ソープ・レディの年齢が二十代後半と書かれたり三十代と書かれたりして揺れているのも、二〇〇七年の再評価をどの記事が拾ったかの違いだ。レントゲン撮影の年が一九八六年と書かれることもあれば一九八七年と書かれることもあるが、これは撮影と公表のタイミングのずれだろう。ソープ・マンの発見年を一八五七年と書いている資料まである。孫引きが孫引きを呼ぶと、こうなる。

法医学の側にも議論はある。屍蝋を死後経過時間の指標として使えるのか、という問題だ。かつては「屍蝋があるなら最低でも数か月」と言われてきた。ところが実測が積み上がると、話がぶれてきた。イスラエルの沈没船から回収された十五体の遺体を四百三十三日にわたって追跡した研究では、摂氏十度から十二度の冷たい海水に沈んでから、わずか三十八日で皮下組織に屍蝋の初期の巣ができていた。インド北部の亜熱帯気候での三十一例の後ろ向き調査では、十例が二日以内、うち四例の男性は一日以内に屍蝋の形成が見られた。暑くて湿った気候は形成を劇的に早める。逆に、乾いた密閉空間では何年もかけてゆっくり進む。

つまり屍蝋は、時計としてはあまり当てにならない。日本の法医学の解説でも、屍蝋死体は外見の特徴を全部とどめているから身元の判別は容易だが、死亡時刻を割り出すことはできない、せいぜい死後半年以上という程度だ、と書かれている。身元は分かるのに時刻は分からない。この非対称が、屍蝋という証拠のいちばんの癖だ。

日本の屍蝋。福澤諭吉、谷中の甕棺、そして水のなかの遺体

日本でも屍蝋は起きる。日本語では死蝋、あるいは屍蝋と書く。法医学では、腐って消えるのでもミイラになるのでもない、第三の終着点として扱われる。永久死体というカテゴリーに、ミイラと並んで分類される。

いちばん有名なのは福澤諭吉の話だろう。福澤は一九〇一年に脳出血で亡くなり、東京の寺の墓地に土葬された。ところが一九七七年、事情があって改葬することになり、墓を掘り返した。立ち会った人々は絶句したという。七十六年経っているのに、遺体が腐らずにきれいな状態で残っていたのだ。おそらく死蝋化していたと考えられている。ただし、このとき遺族の申し出で写真は一枚も残されなかった。だから厳密には、本当に死蝋だったのかを検証する術がない。遺体はそのまま火葬されたと伝えられている。

もう一つ、実物が今も見られる例がある。一九九九年、東京都台東区の谷中三崎町遺跡で発掘調査が行われた。江戸時代の日蓮宗の寺、正運寺の境内の墓所跡だ。ここから、甕棺に密封されて埋葬された女性の遺体が出てきた。地中で死蝋化していたおかげで、頭髪も爪も残っていた。それどころか心臓や脊髄まで保存されていた。江戸時代の日本人の遺体で、ここまで状態のいいものは極めて珍しい。発掘後、空気に触れて徐々に乾燥し、ミイラのような状態に移行した。現在は国立科学博物館の日本館で、江戸時代人壮年女性の遺体として常設展示されている。上野に行けば会える。

水死体と死蝋の関係もよく語られる。理屈のうえでは、水中は死蝋の条件を満たしやすい。冷たくて、酸素が乏しくて、水がある。日本でも、水中死体で死蝋化と死体硬直が共存していた解剖例が報告されている。ただ、実際に水から死蝋が上がってくる頻度は思ったほど高くない。深い海の底に沈んでしまえば、誰も探しに行かないからだ。海の平均水深は三千八百メートルもある。そこにある遺体は、誰にも見つからないまま死蝋になっているかもしれない。

日本の水辺には都市伝説もある。琵琶湖の底には戦国時代の戦死者が死蝋化して沈んでいる、という類の話だ。東岸にはかつて安土城があったし、湖のまわりは合戦の舞台だった。だから沈んでいてもおかしくない、という理屈になる。ただ、実際に琵琶湖から見つかった遺体の報道を追うと、白骨化しているものばかりで、死蝋化の確認例は出てこない。琵琶湖は条件が揃っていないのかもしれない。

密閉容器の話もある。日本の症例報告で先に触れた、四年間ポリ袋に覆われた衣装ケースに閉じ込められていた七十七歳の女性の遺体は、全身が死蝋化していた。ここで研究者がやったことが興味深い。彼らは皮下脂肪と内臓脂肪を採取して、ガスクロマトグラフ質量分析にかけた。すると、突然死した六人の対照群には存在しない物質が検出された。10ヒドロキシオクタデカン酸だ。さらに、リノール酸がほとんど消えていて、代わりにシス12オクタデセン酸のピークが立っていた。リノール酸が屍蝋化の過程で水素化されている。乾いた密閉環境でも屍蝋はできるが、水中よりずっと遅い。それが化学的に裏づけられたわけだ。

法医学が屍蝋を手放さない理由

屍蝋は、法医学にとって厄介であると同時に、とんでもなくありがたい。

ありがたい理由は三つある。一つ目は、かたちが残ることだ。顔の輪郭、体型、しばしば刺青まで残る。だから身元確認ができる。骨だけになった遺体では、家族が「この人です」と言えることはまずない。屍蝋なら言えることがある。

二つ目は、傷が残ることだ。これが決定的に大きい。たとえば首を絞められたかどうか。舌骨という喉の小さな骨が折れているかどうかが手がかりになるのだが、ふつうは首の軟部組織が消えてしまうので、骨だけ見ても折れたのが生前か死後か、それとも掘り出すときに壊したのかが分からない。ところが屍蝋化した遺体では、折れた舌骨の断面までが屍蝋に包まれていることがある。デュトラという研究者が報告した若い女性の症例では、首の部分に屍蝋が形成されていて、そのなかから骨折した舌骨が見つかり、絞頸があったと示唆された。シドニー・スミス自身も同じような症例を二つ報告していて、いずれも折れた舌骨の断片の破断面に屍蝋が付いていた。つまり骨折は屍蝋ができる前、つまり死のごく近くに起きたことになる。屍蝋が、傷の順番を保存したのだ。

三つ目は、化学物質が残ることだ。井上らの日本の症例では、川に約三か月沈んだ車のなかから二十四歳の男性の遺体が見つかった。屍蝋化していたおかげで解剖が可能で、体内からトルエンが検出された。肺と肝臓と腎臓から珪藻も見つかり、溺死と判断された。トルエンの濃度は中毒域だが致死量ではなく、シンナー吸引によるものと考えられた。屍蝋は毒物学的な証拠まで抱え込んでいる。

厄介な理由は、すでに書いたとおり、時計として当てにならないことだ。それに加えて、現場での扱いが物理的に難しい。屍蝋は硬いのにもろい。指で押せば崩れるのに、全体としてはセメントのように固まっている。運ぼうとして持ち上げると、ぼろりと欠ける。ソープ・レディが二度のレントゲン撮影で装置のほうを博物館に運び込まれたのは、彼女が動かせないからだ。二〇〇二年のCTでは、装置の熱で傷まないように六時間かけて休み休み撮った。そのくらい繊細な物体なのだ。しかも屍蝋ができる環境というのは、水中とか、洞窟とか、森のなかとか、墓室とか、そもそも捜査しにくい場所ばかりでもある。

近年は分析技術が追いついてきた。ガスクロマトグラフ質量分析で脂肪酸の組成を調べる。フーリエ変換赤外分光法で脂質のバンドを検出する。ウッド灯を当てると白紫色に蛍光する。融点を測る。遊離脂肪酸を定量する。肉眼では屍蝋と分からない初期段階でも、化学分析なら捕まえられる。マントとファーバンクが一九五〇年代に、加水分解と水素化には無数の段階があるから、初期の屍蝋は肉眼では分からず、分析でしか確認できない、と書いた予言が、そのまま現実になっている。

腐らない遺体は聖人なのか。長かった混同の歴史

腐らない遺体と聞いて、聖人の不朽体を思い浮かべる人は多いはずだ。歴史的にも、この二つはずっと混ざってきた。

理屈は単純だ。埋葬された遺体を何かの事情で掘り出す。腐っていない。周囲は驚く。信仰の文脈のなかにいれば、それは「この人が特別だった証」に見える。実際、教会の墓地や礼拝堂の地下納骨堂は、屍蝋ができる条件をよく満たしている。石造りで、湿っていて、風が通らず、温度が安定している。そういう場所に葬られるのは、たいてい社会的な地位のある人か、聖性を認められた人だった。つまり、腐らない遺体が出てくる確率が高い場所と、腐らないことに意味を見出す文化とが、まったく同じ場所に重なっていた。

これは深追いしない。不朽体そのものについては別の記事があるからだ。ここで押さえておきたいのは一点だけ。屍蝋という説明が手に入ったからといって、掘り出した人々が見たものが減るわけではない、ということだ。彼らが見たのは、たしかに腐らない遺体だった。説明が違うだけだ。

現代の研究でも、この二つの世界は交差し続けている。パラグアイでもっとも敬われるカトリックの人物、福者マリア・フェリシア・グッジャリ・エチェベリアの遺体が調査されたときには、完全な骨格と、屍蝋の断片と、そして「固化した」脳と小脳が確認された。脳の体積はおよそ八十五立方センチまで縮み、硬くてもろくなっていた。顕微鏡で見ると、大脳皮質の層構造や髄膜や血管の名残がまだ判別できた。研究者たちは、脳が低酸素環境で炭化に近い過程を経たと考えている。そして、その仮説を支える傍証として挙げられたのが、同じ遺体に屍蝋が存在することだった。屍蝋ができる環境条件と、炭化が起きる環境条件が似ているからだ。信仰の対象が、そのまま化学の資料になっている。

もう一つ、笑っていいのか困る逸話がある。一八二五年、医師のオーガスタス・グランヴィルが、公開講義の照明としてミイラの屍蝋から作ったろうそくを使ったと伝えられている。彼はその物質を、古代の防腐処理に使われた蝋だと勘違いしていた。人体が自分の脂肪から作った石鹸を、蝋燭にして、その灯りでミイラの解剖を見せた。科学の歴史というのは、時々こういう場面を残す。

なぜ屍蝋は、あんなに気味が悪くて、同時に美しいのか

最後に、この現象の手触りについて考えたい。

屍蝋の不気味さは、腐敗の不気味さとは種類が違う。腐敗は、人が形を失っていく過程だ。見た目も匂いも耐えがたいが、少なくとも筋は通っている。生き物は死んだら分解されて土に還る。誰もがそう習ってきたし、心のどこかでそれを納得している。腐敗は残酷だが、正しい。

屍蝋はその筋を裏切る。形を失わない。しかも生きているわけでもない。人のかたちをした、人ではない物質が、そこにある。ソープ・レディの開いた口がとりわけ気持ちを乱すのは、あれが表情に見えるからだ。実際には、死後に顎が緩んで開いただけの、意味のない姿勢だ。それでも人間の脳は、開いた口を見ると、そこに叫びや驚きや訴えを読み込んでしまう。読み込んだ瞬間に、こちらの認識のなかで彼女は「物」から「誰か」に変わってしまう。そして、その誰かの名前は分からない。この落差が、あの展示の前で人が黙り込む理由だと思う。

そして美しさのほうだ。屍蝋には確かに美しさがある。まず色がいい。灰色がかった白から、淡い黄色、象牙色。これは石膏や陶器や大理石の色域で、人類がずっと彫刻に使ってきた色だ。表面の質感も、蝋燭や石鹸に近い。つまり工芸品の質感なのだ。しかも屍蝋は体の輪郭を保存するので、結果として「人体の彫刻」ができあがる。作者不在の、モデルの死体そのものを型にした彫刻。

もっと言えば、屍蝋は自然が作った偶然の作品だ。誰も狙っていない。ソープ・レディを蝋にしようとした人間は一人もいない。棺に水が染みた。土に酸素がなかった。彼女に脂肪があった。それだけだ。そういう、意図のない偶然が二百年の保存を実現したという事実に、私はいちばん打たれる。

同時に、忘れたくないこともある。彼女は素材ではないし、標本になるつもりもなかった。ライディが荷馬車を雇ったとき、彼女に同意を求めた人はいない。彼女の顎が両方折れているのは、おそらく運搬か取り扱いの過程でついた死後の傷だ。ドディが「彼女について実質的に何も分かっていない」と書くとき、そこには単なる情報不足への嘆きだけではなく、失われたものへの引け目が混ざっているように読める。エディンバラ大学が二〇〇九年にヒギンズ兄弟の残りを火葬したのも、同じ種類の引け目の帰結だろう。

屍蝋は、腐敗を止めることで人の形を守り、同時にその人を物にしてしまう。その両方を、一度にやってのける。だから見ていて落ち着かない。そしてだから、目が離せない。

止まった針は、いつ止まったかを教えない

ここまで書いてきて、屍蝋という現象の芯にあるのは「時間の壊れ方」だと改めて思う。ふつう、遺体は時間の経過を素直に表現してくれる。硬直の程度、腐敗の進み具合、白骨化。法医学者はそれを読んで死後経過時間を割り出す。遺体は時計なのだ。ところが屍蝋は、その時計を途中で止めてしまう。止まった針は、いつ止まったかを教えない。ソープ・レディの前に立つとき、我々は「彼女がいつからそこにいるのか分からない」という状態に置かれる。分かるのは「昔からいる」ということだけだ。この、時間の目盛りが消えた状態が、あの展示ケースの空気を独特なものにしている。

同じ論理が、事件捜査の場面ではまったく逆に働く。屍蝋は死亡時刻を隠す代わりに、死の様子を保存する。ホープトゥン採石場の兄弟の胃から出てきたスープが典型だ。あれは「いつ死んだか」を教えなかった。教えたのは「死の一時間前に何を食べたか」だった。捜査はそこを起点に、スープをあげた女性を探し当て、そこから一気に時間軸が復元された。屍蝋が保存したのは時刻ではなく、出来事の順序だった。首を絞められた舌骨の骨折が、屍蝋のなかで折れた断面ごと残っている症例も同じだ。折れたのが先で、蝋になったのが後。この順序が読めるだけで、死因の議論は決着に向かう。屍蝋は絶対時刻を捨てて相対順序を守る、という奇妙な保存の仕方をしている。

もう一つ考えておきたいのが、この現象がなぜ「現代の問題」になったのかということだ。ドイツとスイスの墓地問題は、ただの自然現象ではない。人間側の選択が積み上がった結果だ。粘土質の安い土を買ってきて墓地にした。合成繊維の服を着せて埋めた。防腐や医療の変化があった。人口の体脂肪が増えた。防水のコンクリート棺を導入して、今度は乾燥ミイラを作ってしまった。どれも悪意はなく、どれも合理的な判断のつもりだった。その合計が「遺体が消えてくれない墓地」だ。腐敗というのは、我々が当たり前だと思っている自然のサービスだが、実際には細菌と酸素と水と温度の綱渡りの上に成立している。そのバランスをちょっと崩すだけで、サービスは止まる。止まってから慌てて、ポンプで地下水を下げ、土を入れ替え、木材チップを混ぜ、菌類の抽出液で棺を腐らせようとする。腐らせるための技術開発というものが、産業として成立している。これは考えてみると、かなり倒錯した光景だ。

倫理の面も置いておきたい。この記事に出てきた遺体のほとんどは、自分の意思でそこにいるわけではない。ソープ・レディは名前も同意もないまま百五十年展示され続けている。ソープ・マンは屋根裏の棚にいる。ヒギンズ兄弟の頭と内臓は、列車の網棚に載せられて大学に運ばれ、百年近く学生の教材だった。福澤諭吉の遺体は、遺族の判断で写真を残さないまま火葬された。谷中の女性は上野の展示室にいる。この並びを見ると、遺体をどう扱うかという判断の幅がいかに広いか分かる。そして、その判断の基準が時代によってどれだけ動くかも。十九世紀の学者にとって、墓地から遺体を持ち去るのは学問への情熱だった。二十一世紀の博物館にとって、それは説明責任の対象になる。アナ・ドディがミュター博物館を離れるとき、居心地の悪い会話をすることを恐れない、率直であることが大事だ、と語っていた。その居心地の悪さは、屍蝋の遺体を前にしたときにいちばん強く立ち上がる。骨なら標本に見える。屍蝋は人に見えるからだ。

事実確認の話も、もう一度書いておきたい。この記事を書くために資料を突き合わせて、いちばん驚いたのは、確立した事例ですら細部が揺れていることだった。ソープ・レディのレントゲンは一九八六年なのか一九八七年なのか。死亡時年齢は二十代後半なのか三十代なのか。ソープ・マンの発見は一八七五年なのか一八五七年なのか。ライディが遺体を届けたのは一八七四年なのか一八七五年なのか。どれも複数の資料に別々の数字が載っている。そして「一九九四年のシラキュースの屍蝋」のように、一次資料に届かない話もある。オカルトや怪異を扱う書き手として、この揺れとどう付き合うかは避けられない問題だ。私の結論は単純で、分からないものは分からないと書く、である。屍蝋という現象は、それ自体が十分に異様で、十分に美しい。話を盛ったら、むしろ薄まる。

最後に、この現象が人間に何を突きつけているのかを考えたい。我々は死んだあと、消えることを前提に生きている。土に還る、灰になる、循環に戻る。その前提があるから、死をなんとか受け入れられている面がある。屍蝋は、その前提が絶対ではないことを示す。条件次第で、人は残る。腐らないまま、形のまま、脂肪だけが石鹸に化けた状態で、何百年でも同じ場所にいる。それは不老不死でも復活でもない。ただ、終わらないだけだ。ソープ・レディは救われてもいないし、成仏してもいない。誰かの祖母ということにされて荷馬車に載せられて以来、ずっとフィラデルフィアで口を開けている。彼女の名前は今も分からない。もしかしたら永遠に分からない。それでも、彼女の胆石の大きさと尿管結石の大きさは分かっているし、脳が縮んで残っていることも分かっているし、屍衣を留めたピンが八本あって、それが一八二四年以降に作られた機械製だということも分かっている。人間について残るものと残らないものの選び方が、屍蝋という現象では完全に狂っている。私はそこが、この現象のいちばん怖いところであり、いちばん惹かれるところだと思っている。

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