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「副作用のない安全な睡眠薬」が世界一万人の赤ん坊を変えた――サリドマイド、警告から回収まで日本だけ十カ月遅れた理由と、悪魔の薬が特効薬に戻るまでの六十八年

## 「無害」と刷られた箱が、世界中の玄関に置かれていた
1957年10月1日。西ドイツのアーヘン近郊、シュトルベルクという小さな町に本社を置くグリュネンタール社が、一錠の白い薬を売り出した。商品名はコンテルガン。効能は睡眠と鎮静。売り文句はこうだ。無害。非毒性。子どもにも安心。
この「無害」という二文字が、あとで一万人規模の赤ん坊の体を書き換える。
先に断っておく。この記事は、腕のない子どもの写真を並べて「ほら怖いでしょう」とやる類のものではない。サリドマイドの話が本当に怖いのは、見た目じゃない。誰も嘘をつくつもりがなかったのに、誰も止めなかったという構造のほうだ。そして当事者たちは、こっちが勝手に想像する「悲劇の人」なんかじゃ全然ない。足でハンコを押し、足でパソコンを打ち、大学で薬を教え、国連の委員長までやっている。その事実まで含めて、ぜんぶ書く。
薬の出自からして少し怪しい。グリュネンタールは1954年に自社の研究陣が合成したと説明してきたが、スイスのチバがもっと早く手をつけて途中で放り出していたという記録も残っている。どちらにせよ、この分子には最初から不思議な性質があった。動物に飲ませても、死なないのだ。
普通、新薬の毒性試験ではLD50という数字を出す。実験動物の半数が死ぬ量だ。ところがサリドマイドはマウスに桁違いの量を流し込んでも平然としている。研究者は数字を出せなかった。出せない、という結果は本来「よくわからない」を意味する。だがグリュネンタールはそれを反転させた。致死量が測定できないほど安全な薬。これが宣伝コピーになった。
言葉のマジックとしては見事だが、中身は空っぽだ。安全である証拠がないことを、安全の証拠として売った。この一点が、以後の全部の悲劇の根っこにある。
## アスピリンの次に売れた眠り薬
戦後の西ドイツは眠れない国だった。空襲で焼けた街の記憶、行方不明の家族、猛烈な勢いで動き出した工業社会。神経がささくれ立っている人が山ほどいて、バルビツール酸系の睡眠薬が普通に飲まれていた。ただしバルビツールは怖い。飲みすぎれば死ぬ。自殺に使われる薬でもあった。
そこへ「いくら飲んでも死なない睡眠薬」が来た。しかも処方箋がいらない。薬局で歯磨き粉と同じ棚から買える。売れないわけがなかった。コンテルガンは数年でアスピリンに次ぐ西ドイツ第二の売り上げを記録する。母親が子どもの夜泣きに使い、シロップ版まで出た。妊婦のつわりにもよく効いた。吐き気が止まってぐっすり眠れる。産科医が勧め、口コミが回った。
グリュネンタールは各国の製薬会社にライセンスを配っていった。イギリスではディスティラーズ社がディスタバルとして1958年4月14日に発売。オーストリアやスイスではソフテノン。日本では大日本製薬が1958年1月にイソミンとして睡眠薬で出し、1960年8月には胃腸薬プロバンMとしても売り出した。「ストレス時代の新しい胃の薬」というコピーだった。つわりに使われた薬の一つは、胃腸薬の顔をしていたのだ。ここは後で効いてくる。
最終的に、サリドマイドを含む薬は世界で四十以上の国で売られた。スペイン、イタリア、ブラジルではライセンスなしに勝手に作った会社まであった。1960年前後の地球には、この分子が薄く均一に撒かれていた。
## 手足がしびれる、という最初のノイズ
異変の第一報は、赤ん坊ではなく大人から来た。1959年ごろから、コンテルガンを長く飲んでいる人に末梢神経炎が出るという報告が上がりはじめる。手足の先がしびれる、感覚が鈍る、こむら返りが続く。やめても戻らない例があった。
グリュネンタールは対応した。ただし最小限に。1960年に添付文書を書き換えて神経障害の記載を足し、1961年8月には西ドイツの一部の州で処方箋薬に格上げされた。会社はそれ以上動かなかった。当然だ。この時点でコンテルガンは会社の屋台骨で、社内の空気は「悪い話は握りつぶす」に傾いていた。医師からの苦情の手紙が積み上がっても、営業は「安全性は確立されている」と言い続けた。
ここに一人、名前を出しておかないといけない人物がいる。ハインリッヒ・ミュックター。グリュネンタールの研究部門を率い、サリドマイドの開発を主導した化学者だ。彼は戦時中、ドイツ占領下のポーランドでクラクフの発疹チフス研究所の副所長を務めていた。収容所の被収容者を使った実験に関わったとして、戦後ポーランドの当局が訴追しようとしたが、彼は西へ逃げた。そして1946年、グリュネンタールの研究部長の椅子に座った。
ここは慎重に書く。彼が戦時中の件で有罪になったことは一度もない。サリドマイドについても最終的に有罪判決は出ていない。ただ、「人体への影響を軽く扱う文化が、戦後の製薬会社の研究部門にそのまま持ち込まれていた」という指摘は、後の裁判でも報道でも繰り返し出てきた。会社という組織の記憶は、こういう形で連続してしまうことがある。
## 1961年11月15日、その電話が鳴った
ハンブルクの小児科医、ヴィドゥキント・レンツ。彼のもとに1961年6月22日、ある相談が持ち込まれた。生まれた子の腕が異様に短い。原因が分からない。
レンツは動いた。ハンブルク周辺で新生児の奇形の発生率を洗い直すと、五十例近くが出てきた。おかしい。この種の四肢欠損はもともと極端にまれで、ある大学病院では十年に一例あるかないかという珍しさだった。それが去年から急に増えている。しかも増え方が異常だった。統計のノイズではなく、明らかに何かが起きている。
彼は母親たちに聞き取りをした。何を食べたか。何を飲んだか。どこに住んでいたか。放射能を疑い、洗剤を疑い、食品添加物を疑った。そして11月半ばまでに、十四例の母親が妊娠初期に同じ薬を飲んでいたことをつかむ。コンテルガン。
11月15日、レンツはグリュネンタール社に電話をかけた。この薬をすぐに市場から引き上げてほしい。会社の反応は冷たい。証拠が足りない。学術的でない。あなたは思い込みで会社を潰す気か。以後数日、レンツは会社と保健当局を相手に何度も話をしたが、動かない。
そこで彼は正面から殴った。11月18日、デュッセルドルフで開かれた小児科の学会で、レンツは公の場で名指しした。ある薬剤が四肢の奇形を起こしている疑いが強い、直ちに使用をやめるべきだ、と。会場は騒然とした。証拠を出せ、という声も飛んだ。この時点で彼が持っていたのは疫学的な相関にすぎず、動物実験の裏づけもメカニズムの説明もなかった。学術的には確かに弱い。
だが彼は正しかった。そして「証拠が揃うまで待つ」という選択は、待っている間ずっと赤ん坊が生まれてくる、という意味だった。レンツは待たなかった。この判断のおかげで、ドイツの被害は間違いなく途中で止まった。
## 11月26日、たった十一日で棚から消えた
決め手はマスコミだった。11月26日、西ドイツの日曜紙がレンツの警告を特ダネとして報じた。薬が奇形を起こしているらしい、と。
同じ日、グリュネンタールはコンテルガンの販売中止を発表する。レンツの電話から十一日。会社は最後まで因果関係を認めず、「世論の混乱を避けるため」という理由をつけたが、実質的には陥落だった。ヨーロッパ各国の提携先も年内にほぼ追随して回収に入る。イギリスは12月2日に販売を止めた。
一方、地球の反対側でも同じ結論に達した男がいた。シドニーのクラウン・ストリート産科病院の産科医、ウィリアム・マクブライド。彼の病院では助産師のパット・スパロウが、続けて生まれた奇形児に気づいて記録をつけていた。マクブライドはそこから薬に行き着き、1961年12月16日付のランセット誌に短い書簡を載せる。英語圏で最初の警鐘だった。
この二人の名前は、いまも並べて語られる。ただしマクブライドについては後日談がある。彼はその後も催奇形性の研究を続けたが、1981年に別の薬について発表した論文でデータを操作していたことが共著者から指摘され、1993年にオーストラリアの医籍を抹消された。1998年に復帰は認められている。人間は、一度正しかったからといって、その後もずっと正しいわけではない。この後味の悪さも含めて、サリドマイドの物語の一部だ。
## 日本だけ、時計が止まっていた――十カ月の空白
さて、日本である。ここが一番きつい。
グリュネンタールから大日本製薬に通知が届いたのは1961年12月4日。ドイツの回収からわずか八日後だ。情報は届いていた。12月6日には厚生省と協議もしている。日本は知らなかったのではない。知っていて、動かなかった。
このときの厚生省側の反応として伝えられているのが、有用な薬品を回収すれば社会不安を起こす、という趣旨の判断だ。レンツの警告には科学的根拠が乏しい、と受け取られた。要するに、様子を見ましょう、になった。
その後の展開が信じがたい。1962年2月、厚生省はサリドマイドを含む別の製剤パングルを新たに承認する。5月にはネルトンも承認した。ドイツが回収を終えて半年たった国で、同じ成分の薬が新規に認可されていたわけだ。グリュネンタールからは3月と4月にも重ねて販売中止の警告が来ていたが、これも動かなかった。
流れが変わったのはまた新聞だ。1962年5月17日、朝日新聞が報じ、同日に大日本製薬が自主的に出荷停止を決める。8月末には読売新聞が、日本にもサリドマイドによる被害児が存在することをスクープした。そして1962年9月13日、ようやく全面回収の決定が出る。レンツの警告から約十カ月。ヨーロッパの一カ月から二カ月と比べて、桁が違う。
しかも回収は決定してからも徹底されなかった。薬局の店頭に残ったものが売られ続け、家庭の薬箱には当然そのまま残っている。完全に姿を消したのは1963年の半ばごろとされる。警告後も広告が打たれていたという指摘もある。
この十カ月と、そのあとの回収の甘さが、そのまま子どもの数になった。ある集計では、日本の被害児の発症のうち約44パーセントが1962年9月以降に集中している。別の研究者は、1962年9月以降に生まれたサリドマイド児がおよそ百人いたと数えた。総合すると、日本のサリドマイド児の三分の一から半数近くは、判断が早ければ障害を持たずに生まれていた可能性がある。
これは結果論ではない。同じ情報を、同じ日に、他の国も受け取っていた。彼らは止めて、日本は止めなかった。それだけの話だ。
## 309という数字の、その内側
日本で最終的に認定された被害者は309人。1981年5月に確定した数字で、男性171人、女性138人。ただしこれは生存して認定された人の数であって、被害を受けた胎児の推定はおよそ千人にのぼる。
世界全体では、生まれて生き延びた子がおよそ一万人。影響を受けた胎児は一万から二万とも言われ、そのうち四割前後は出生時か生後まもなく亡くなったと推定されている。西ドイツで生まれた被害児は約2,500人から3,000人。イギリスでは約2,000人が生まれ、2010年時点の生存者は466人だった。
被害はよく「腕が短い」というイメージで語られるが、実際にはもっと広い。肩から直接手が出ているように見えるフォコメリア。上腕や前腕の短縮。親指の欠損や異常。耳がない、あるいは小さく、そのために重い難聴がある。顔面神経の不全麻痺。心臓の奇形。消化管の閉鎖や狭窄。胆嚢や虫垂がそもそもない。目の動きの異常。外から見えない部分の被害のほうが、生死に直結することが多かった。
日本の被害には統計的な奇妙さもある。生存率が約25パーセントと、レンツが報告したドイツの60パーセントに比べて異様に低い。しかも下肢に障害のある例が極端に少ない。これは日本の子が軽症だったという意味ではなく、逆だ。重い障害を負った子が生き延びられなかったことを示唆している。当時の新生児医療の水準、そして生まれた子をめぐる社会の空気が、この数字の裏側にある。
そう、社会の空気だ。1960年前後の日本で、障害のある子が生まれるということは、母親が責められるということだった。嫁いだ先で血が汚れているといった言葉を投げられ、離婚に至った家庭が少なくない。薬を飲ませたのは製薬会社と行政なのに、責任を負わされたのは母親だった。この二重の理不尽が、被害者家族の初期の何年かを覆っている。
## 一人の審査官が、アメリカを止めた
同じ時期、まったく違う結末を迎えた国がある。アメリカだ。理由はほぼ一人の人間に帰着する。
フランシス・オールダム・ケルシー。カナダのバンクーバー島生まれ、薬理学の博士号と医学博士号を持つ研究者で、1960年8月1日にFDAに着任した。医薬品審査官としては新人だ。その机の上に、着任からひと月ほどで一つの申請書が置かれる。リチャードソン・メレル社が9月8日に出した、ケバドンという名前の睡眠薬。中身はサリドマイド。
当時のアメリカの制度では、審査官が60日以内に異議を出さなければ、申請は自動的に通ってしまう。会社側はクリスマス商戦に間に合わせる気満々で、パンフレットはすでに刷り上がり、1500万錠分の原料も確保していた。しかもこの薬はすでに世界数十カ国で売られている実績がある。通らないほうがおかしい案件だった。
ケルシーは通さなかった。
彼女が引っかかった点はいくつもある。まず資料の質だ。臨床データが、患者一人ひとりの年齢や用量や経過ではなく、ざっくりした要約でしか出ていない。ドイツ語の原資料と、会社が付けてきた英訳が、細かいところで一致していない。そして薬理のセクション。動物にどれだけ与えても毒性が出ない、という記述に彼女は違和感を持った。ヒトではっきり眠くなる薬が、動物ではまるで無反応。それは安全の証明ではなく、この薬がヒトと動物でまったく違う振る舞いをする可能性の示唆ではないのか。
彼女には土台があった。大学院生のころ、ジエチレングリコールを混ぜた風邪シロップで百人以上が死んだ事件を目の当たりにしている。動物で調べる仕事もしていて、妊娠中の動物では薬の代謝が変わることも知っていた。だから「データがないこと」を空欄として素通りしなかった。
会社は圧力をかけた。電話が繰り返しかかり、担当者が直接乗り込み、上司に苦情を入れ、彼女を「頑固な官僚」と呼んだ。ケルシーは追加資料を要求し、また要求し、さらに要求した。とくに1961年に入って、イギリスから末梢神経炎の報告が届くと、彼女は「神経に作用する薬が胎児に何もしないと言い切れるのか」という問いを立てた。この問いが、結果としてアメリカの子どもたちを救った。
とはいえアメリカも無傷ではない。承認前の臨床試験という名目で、メレル社は250万錠を全米の医師に配っていた。服用した人は二万人規模、うち妊婦も相当数いた。アメリカ生まれのサリドマイド児は少なくとも17人が確認されている。制度の穴からこぼれた分だ。
1962年8月7日、ケルシーはケネディ大統領から連邦文民功労賞を受けた。そして同年10月、審査に「有効性の証明」を義務づけるキーフォーバー・ハリス改正が成立する。世界中の医薬品審査は、この事件を境に別のものになった。
## なぜ、よりによって腕なのか
ここから体の話をする。サリドマイドの被害でいちばん不気味なのは、傷つき方があまりに規則的だという点だ。
母親が薬を飲んだのが受精後20日ごろなら中枢神経に、22日ごろなら耳と顔面に、24日ごろなら腕に、28日ごろまでなら脚に障害が出る。感受性のある窓は、受精後およそ20日から36日という短い期間に限られる。この時期は、多くの女性が「あれ、生理が遅れてるな」と思いはじめるかどうかというタイミングだ。つわり止めとして飲むには、最悪のドンピシャだった。
しかも量が関係ない。眠るために一錠飲んだだけで起きる。用量反応関係という、毒性学の基本ルールが効かない。だから当時の常識では捕まえようがなかった。
そして左右対称。片腕だけ、ということが基本的に起きない。これは事故や外傷とはまったく違う挙動で、体の設計図そのものに介入したことを意味する。四肢の芽が伸びていく、その伸ばす司令のほうを止めている。
最初に有力だったのは血管新生の阻害という説明だ。手足の芽が伸びるとき、そこには新しい血管が猛烈な勢いで伸びていく。1990年代に、サリドマイドがこの血管新生を強く抑えることが分かった。血管が来なければ組織は伸びない。左右同時に、同じ時期に、同じだけ止まる。説明としては筋が通っている。他にも活性酸素による酸化ストレス説、神経堤細胞の障害説と、候補は次々に出た。どれも部分的には正しそうで、決め手を欠いた。
四十年以上、この薬は「なぜ効くのか誰も知らない毒」であり続けた。
## 2010年、セレブロン――五十年目に出た答え
決着をつけたのは日本の研究チームだった。2010年3月、伊藤拓水と半田宏らのグループが、サリドマイドが直接くっつく相手のタンパク質を突き止め、科学誌サイエンスに発表する。名前はセレブロン。
やり方が力技で面白い。サリドマイドを固定した磁気ビーズを作り、細胞の中身をどばっと流し、くっついてきたものを回収する。網にかかったのがセレブロンだった。結合の強さを示す解離定数は8.5ナノモーラー。かなりしっかり結合している。
セレブロンは単独では働かない。DDB1、Cul4Aといったタンパク質と組んで、E3ユビキチンリガーゼという複合体をつくる。この複合体の仕事は、細胞の中でいらなくなったタンパク質に「ゴミ」の目印を貼りつけて分解装置に送ることだ。細胞のゴミ収集システムの、伝票を書く係だと思えばいい。
サリドマイドはこの伝票係に貼りついて、仕事を狂わせる。
チームは念のためを重ねた。セレブロンのうち、サリドマイドがくっつく部分だけを二カ所いじって結合しなくした変異体をつくる。この変異体は伝票係としての機能は正常なままだ。これをゼブラフィッシュやニワトリの胚に多めに入れてやると、サリドマイドを与えても胸びれや肢芽の異常が出にくくなった。四肢の伸長を指令する遺伝子の働きも守られた。原因がセレブロン経由であることの、ほぼ決定的な証明だった。
話はさらに進む。2018年、サリドマイドがセレブロンにはまると、本来なら分解されないはずのタンパク質が「ゴミ」と誤認されて壊されることが分かってきた。中でも重要なのがSALL4という転写因子で、これは四肢や耳の形成に必須の遺伝子だ。SALL4の遺伝子に生まれつき異常がある人には、サリドマイド胎芽症とよく似た四肢と耳の症状が出る。パズルがはまった。サリドマイドは、体を壊しているのではなく、体をつくるための設計者を誤って処分させていた。
なお、なぜセレブロンなどという名前かというと、この遺伝子がもともと知的障害の研究から見つかったからだ。脳を意味するラテン語が入っている。四肢の奇形とはまるで関係のない文脈で名前がついていた分子が、五十年越しの謎の中心にいた。科学のこういう伏線回収は、ちょっと鳥肌が立つ。
## 「S体だけ抜けば安全だった」という話の、本当のところ
ネットでサリドマイドが話題になると、九割方この話が出てくる。曰く、サリドマイドには右手型と左手型があって、片方は良い睡眠薬、もう片方が奇形の原因。当時の技術で分けられなかったのが悲劇だった。今なら分けられるから大丈夫。
半分は合っている。そして肝心なところが間違っている。
まず事実。サリドマイドの分子は鏡像の関係にある二種類の立体構造をとる。R体とS体だ。1979年ごろから、R体に鎮静作用があり、S体のほうに催奇形性がある、という報告が出てきた。ここまでは正しい。
問題はその先だ。この分子は、体の中で勝手に反転する。片方だけを純粋に精製して飲ませても、血液のなかで速やかに変換が進み、あっという間に両方が混じった状態になる。1990年代の報告では、R体だけ与えても体内での変換の半減期が十時間に満たない。つまり「安全なほうだけ飲む」ということが、原理的に成立しない。
だから当時の化学者が異性体を分離できなかったことは、この悲劇の主因ではない。分離できていても、飲めば同じことが起きた。ここは強調しておきたい。「昔は技術が未熟だった、今は大丈夫」というきれいな教訓に落とし込むと、この事件の本当の教訓が消えてしまう。
ついでにもう一段深い話をしておく。名古屋工業大学の柴田哲男らのグループが2018年に報告した内容が面白い。彼らはサリドマイドのラセミ化を遅らせる工夫として、分子の一部をフッ素や重水素に置き換えた誘導体をつくっている。重水素版は通常のものより五倍ラセミ化しにくい。
そのうえで彼らが見つけたのが、自己不均一化という現象だ。純度の低い片方の異性体を溶かすと、混ざりものが勝手に分離してくる。純粋な片方はよく溶け、両方が組んだ二量体は溶けにくい。溶けたほうだけが吸収される。つまり、飲んだ薬の異性体の比率と、体に入る比率がズレる。過去の実験で異性体ごとの毒性の差がきれいに出たり出なかったりした背景に、この現象があったのではないか、という話になる。
要するにこの分子は、化学的にもまだ底が見えていない。ネットで語られる「ラセミ化神話」は、複雑な現実をつるっとした物語に圧縮した結果だ。圧縮しすぎると、原型が失われる。
## ウサギは異常が出て、ネズミは平気だった
もう一つよく出る疑問。動物実験をしていれば防げたのでは。
これも、そう単純ではない。まず時代の話をすると、1950年代の医薬品開発では、妊娠した動物で催奇形性を調べるという試験がそもそも標準ではなかった。胎盤が薬をブロックしてくれる関所だと広く信じられていたからだ。つまり「調べなかった」以前に「調べる項目が存在しなかった」。
そして仮に当時の標準的なやり方で調べていても、たぶん見逃していた。サリドマイドは種によって効き方が極端に違う。マウスやラットは、この薬に対して驚くほど強い。マウスでは体重一キロあたり4,000ミリグラムを与えても異常が出ない。ヒトは一キロあたり0.5ミリグラムで被害が出る。八千倍の開きだ。
理由は代謝と防御にある。げっ歯類はグルタチオンをはじめとする抗酸化系が強く、サリドマイドの分解も速い。マウスの体内での半減期はおよそ三十分。一方、ヒトの胚では七時間を超える。同じ分子でも、胚が浴びる時間がまるで違う。
事件のあと、ウサギ、とくにニュージーランド白色種でならヒトに似た四肢の異常を再現できることが分かった。1962年にその報告が出ている。だがそこにも罠がある。ウサギで異常を出すには、ヒトが被害を受けた量の数十倍から三百倍の投与が必要だった。予測ツールとしては使いものにならない。ニワトリの胚や、霊長類でようやく素直に再現する。
だから、動物実験神話にも動物実験不要論にも、この事件はきれいに乗ってくれない。正確な教訓はこうだ。動物で出なかったことは、ヒトで出ないことの証明ではない。データの不在は安全の証拠ではない。ケルシーが六十年以上前に一人で言っていたのは、まさにこれだった。
## 語る人たち――足で署名する法学者、薬学者になった被害者
ここからは、数字ではなく人の話をする。
日本のサリドマイド被害者に佐藤嗣道という人がいる。彼の母親は1962年の初め、胃腸薬としてサリドマイド剤を飲んだ。ストレス時代の新しい胃の薬、という宣伝を信じていた。眠り薬だとも、まして胎児に何かするものだとも思っていない。佐藤さんが生まれたのは1962年10月。日本が回収を決めた9月13日の、翌月だ。あと数カ月早く国が動いていれば、という時間差のすぐ内側にいる。
彼はその後、薬学に進んだ。いま大学で医薬品の安全性を研究し、疫学の手法で薬のリスクを評価する仕事をしている。被害者団体の理事長も務めている。彼が繰り返し言うのは、リスク管理のキーパーソンは現場の医療従事者、とくに薬剤師だという話だ。そしてもう一つ、2008年にサリドマイドが日本で再承認されたとき、彼は反対しなかった。厳格な管理を条件に賛成にまわった。自分の体を作り替えた薬を、他人の命を救う道具として認めるという判断を、彼はした。この重さは、外から軽々しく評価できるものじゃない。
ドイツにはテレジア・デーゲナーがいる。1961年4月10日生まれ。ちょうどコンテルガンが世界中で売れていた時期の子だ。両腕がない。
彼女が子ども時代に通されたのは、当時のヨーロッパで標準だった義手のリハビリだった。金属とプラスチックでできた重い腕をつけ、それで日常動作を覚えさせられる。多くの当事者が、この訓練を苦痛として記憶している。動かない、重い、思ったところに届かない、そして何より遅い。デーゲナーは義手を捨てた。足を使うことにしたのだ。
字を書き、食事をし、本のページをめくり、書類にサインする。全部足でやる。彼女はそのままカリフォルニア大学バークレー校のロースクールで法学の学位を取り、法学者になり、ドイツ政府の法律顧問を務め、2014年に連邦功労十字章を受け、国連の障害者権利委員会の委員長になった。障害者権利条約の思想的な骨格をつくった一人だ。
ここで大事なのは、彼女が「義手を捨てた」という選択そのものだ。健常者の体に似せることをリハビリのゴールに置く発想を、当事者の側が拒否した。自分の体で最も合理的な方法を、自分で決める。障害の社会モデルという考え方が、机上の理論ではなく、こういう生活の実感から立ち上がってきたことを彼女の経歴は示している。日本でも、足で生活を組み立てた当事者は少なくない。義手をつけたままの人もいる。どちらも正解で、外野が決めることではない。
イギリスの当事者の言葉も引いておきたい。2012年にグリュネンタールが初めて公式に謝罪したとき、被害者団体のニック・ドブリクはそれを「不誠実だ」と切って捨てた。彼の言い分はこうだ。謝罪というのは無条件でするものであって、条件つきの謝罪は謝罪ではない。本物の謝罪とは、自分が間違ったことをしたと認めることだ。
同じとき、団体の責任者マーティン・ジョンソンは、会社は「誰にも分かりようがなかった」という神話を維持しようとしている、と指摘した。別の当事者フレディ・アストベリーは、謝るのはいいが補償の話し合いに応じないなら意味がない、と言った。五十年待たされた人の言葉としては、驚くほど抑制が効いている。彼らが求めていたのは感情ではなく、事実の認定と、生活の保障だった。
そして、いま被害者たちを診ている医師たちの視点。日本のある調査では、サリドマイド胎芽症の当事者の二割が自分の健康状態を「よくない」と答え、四割が健康問題が日常生活に影響していると答えている。同年代の一般集団と比べて明らかに高い。これは生まれつきの障害の話ではなく、二次障害の話だ。
数十年間、残された機能をフル稼働させて生きてきた結果、肩と首と腰が壊れる。腕や指がしびれる。頸椎の変形が出る。もともとの血管の走り方に異常がある人も多く、突然死の例も報告されている。四十代五十代で早期退職を余儀なくされる人が増えた。生まれたときの被害が、六十年かけて別の形で請求書を送ってくる。1974年の和解の枠組みは、そこまで想定していなかった。
## アーヘンの法廷で、誰も有罪にならなかった
1968年1月、西ドイツのアーヘンで刑事裁判が始まった。被告はグリュネンタールの幹部九人。罪名は過失致死および過失傷害。国民の関心は高く、証人の数は膨大で、レンツ自身も専門家証人として法廷に立った。
ところがこの裁判は判決に到達しない。1970年4月10日、審理が続いている最中に、被害者家族側と会社の間で示談が成立した。会社が拠出したのは一億マルク前後(資料によっては一億一千万マルク)。そして1970年12月、裁判所は手続きの打ち切りを決めた。理由は、被告の責任の程度が軽微であることと、訴追を継続する公益が失われたこと。
つまり、誰も有罪にならなかった。
会社は今でも公式サイトで、裁判所は被告の有責性を最終的に判断することが困難だと考えた、という説明をしている。法的にはそのとおりだ。ただ、被害者側から見れば、二年半かけて審理して、示談金を払ったら終わり、という結末になる。ミュックターも起訴されたが有罪にならず、戦時中の件でも一度も裁かれないまま1987年に亡くなった。
1972年10月31日、西ドイツは公法上の法人としてコンテルガン財団を設立した。国が制度として被害者を支える枠組みだ。会社の拠出金は年月とともに枯れ、2009年にグリュネンタールが五千万ユーロを追加拠出した。財団は現在、四十を超える国の当事者を支援している。障害の程度に応じた月額の年金が支払われ、最高額は月一万ユーロを超える水準まで引き上げられてきた。当初の月額が数百マルクだったことを思えば、この改善は当事者運動が半世紀かけて勝ち取ったものだ。
## 1974年、日本の和解と「いしずえ」
日本では1963年から、被害者の家族が国と大日本製薬を相手取って提訴を始めた。名古屋、東京、京都、各地の裁判所に散らばった原告団が、やがて統一された。
裁判は十年を超えた。医学的因果関係の立証、行政の責任の有無、企業の過失。争点は多く、被告側は当初、因果関係そのものを争っていた。
1974年10月、和解が成立する。ここで効いてくるのは、金額よりも文言のほうだ。国と製薬会社は、サリドマイドと被害の因果関係を認め、責任を認めた。そのうえで厚生大臣は、新医薬品の承認審査を厳格化すること、医薬品の安全性確保の体制を強化することを確約した。確認書というかたちで文書に残された。
この和解を土台に、サリドマイド福祉センター「いしずえ」が設立される。基金は五億円。健康管理、相談、年金の給付、そして薬害を繰り返さないための啓発活動を担ってきた。当事者が自分たちで運営する組織が、五十年にわたって被害の記録を保ち続けている。
戦後日本の薬害集団訴訟は、ここから始まった。サリドマイドは出発点であって――残念ながら――終着点ではなかった。
## そして日本は、同じことを何度もやった
サリドマイドの和解の直前、日本はもう一つの大きな薬害の渦中にあった。スモンだ。整腸剤として広く使われたキノホルムによって、激しい腹部症状のあとに下半身の麻痺と視力障害が起きる。原因が特定されて販売が中止されたのは1970年9月。患者は一万人規模にのぼった。
この二つを受けて、1979年に薬事法が大きく改正される。副作用の情報を集める仕組み、承認基準の整備、添付文書への副作用記載、誇大広告の禁止、そして医薬品副作用被害救済制度。適正に使っていて健康被害が出た人を救済する公的な仕組みが、ようやくできた。
それでも止まらなかった。1980年代、血友病患者に使われた非加熱の血液凝固因子製剤がHIVに汚染され、多数の感染者を出した。薬害エイズ事件だ。行政と企業の対応の遅れという構図は、サリドマイドとほぼ同じである。危険性を示す情報は入っていた。だが決断が先送りされ、その間ずっと製剤は使われ続けた。1996年に和解が成立し、1999年8月24日、厚生省の前庭に「誓いの碑」が建てられた。二度と薬害を起こさないという誓いを刻んだ石碑だ。この日は薬害根絶デーになっている。
そのあとも、止血に使われた血液製剤フィブリノゲンによるC型肝炎の集団感染が明るみに出た。投与された可能性のある人は二十九万人と推計され、2008年に特別措置法が作られた。
同じ構造が、四十年おきに三回繰り返された。情報はあった。判断する人がいた。そして決めなかった。サリドマイドが「日本の薬害史の原点」と呼ばれるのは、最初だったからというより、その後もこの型がそのまま使い回されたからだ。
## 悪魔の薬が、特効薬として戻ってきた
ここから話が急旋回する。
1964年、エルサレム。ハンセン病の療養施設で働いていたヤコブ・シェスキンという医師が、らい性結節性紅斑という激烈な合併症の患者を診ていた。全身に痛みを伴う結節が出て、熱が下がらず、痛みで眠れない。当時は打つ手が乏しかった。
シェスキンは、薬棚の奥に残っていた古い睡眠薬を思い出した。せめて眠らせてやりたい。それだけの理由でサリドマイドを渡した。すでに世界中で回収された、あの薬だ。
数錠飲んだところで、患者の症状が劇的に引いた。熱が下がり、結節が消えていった。シェスキンは他の患者でも試し、同じことが起きた。のちに世界保健機関の主導で比較試験が行われ、この薬がらい性結節性紅斑に対してアスピリンよりはるかによく効くことが確認される。
なぜ効くのかは、しばらく分からなかった。1990年代になって、サリドマイドが炎症の中心にある腫瘍壊死因子アルファの産生を強く抑えることが判明する。免疫の暴走を鎮めていたわけだ。
次に来たのが、がんだった。1994年、ロバート・ダマートとジュダ・フォークマンらが、サリドマイドの血管新生阻害作用に注目した。腫瘍は自分に血管を引き込んで育つ。血管を止めれば兵糧攻めになる。かつて手足の芽を伸ばさなかったのと同じ働きが、腫瘍にも効くのではないか。
これが多発性骨髄腫の臨床試験につながる。1990年代後半、既存の治療がすべて効かなくなった患者たちに投与され、1999年11月に権威ある医学誌に結果が出た。84人の難治性の骨髄腫患者のうち、およそ三分の一に効果が見られ、完全に寛解した人もいた。三十年以上、新しい薬が出ていなかった領域での出来事だった。
その後、サリドマイドの骨格から派生した薬が次々に生まれる。レナリドミド、ポマリドミド。いずれも骨髄腫治療の中核になった。そして皮肉なことに、これらが効く理由もまたセレブロンだった。伝票係を狂わせて、がん細胞が生きるために必要なタンパク質のほうを誤って処分させる。胎児の腕を止めたのと同じメカニズムが、がん細胞を殺している。
いまではこの現象は分子接着剤と呼ばれ、創薬のホットな分野になっている。従来の薬は酵素の穴に鍵を差し込むように働くが、分子接着剤は本来出会わない二つのタンパク質を無理やりくっつけて、片方を分解させる。狙えるタンパク質の範囲が一気に広がった。この研究分野は、サリドマイドという事故から生まれている。
## 二度と妊婦に届かせないための、執念みたいな仕組み
当然、大問題がある。この薬を市場に戻せば、また同じことが起きうる。
その懸念は現実に起きていた。ブラジルでは、ハンセン病の治療薬としてサリドマイドが使われ続けた。管理が緩く、家族に薬が回り、1965年以降も新しい被害児が生まれている。二世代目のサリドマイド児という、あってはならないことが実際に起きた。
だからアメリカが1998年にらい性結節性紅斑の治療薬として承認したとき、同時にSTEPSという管理制度が組まれた。処方する医師は登録が必要。調剤する薬局も登録が必要。患者も登録される。妊娠する可能性のある女性には二種類の避妊法が義務づけられ、定期的な妊娠検査が要求される。男性にも、精液から胎児に届く可能性を考慮した避妊が求められる。処方できる日数には上限があり、余った薬の返却まで管理される。薬を人から人へ渡すことは固く禁じられる。医薬品の流通管理としては、当時としては前例のない厳格さだった。
日本での再承認はさらに遅れ、そして慎重だった。2005年1月21日に希少疾病用医薬品に指定され、2008年10月3日に審議会が承認を答申、10月16日に多発性骨髄腫の治療薬として正式に承認される。商品名はサレド。ここで組まれた管理制度がTERMSだ。基本の考え方はSTEPSと同じで、医師、薬局、患者の全登録、避妊の遵守、定期確認、そして錠剤の数が最後まで追跡される仕組み。
この制度設計の議論に、当事者が直接参加した。自分たちを傷つけた薬を医療に戻すにあたって、どこまでの管理なら許容できるのか。その線引きを、被害を受けた側が引いた。これはかなり異例のことだ。管理が厳しすぎれば必要な患者に届かない。緩ければ悲劇が繰り返される。その天秤を、いちばん重い経験をした人たちが持った。
## ネットで見かける「サリドマイドの話」の、直しておきたいところ
考察系のスレッドやまとめ記事でこの事件が扱われるとき、いくつか定番の誤りがある。まとめて直しておく。
いちばん多いのがラセミ化の件だ。「当時は光学異性体を分離できなかったから悲劇が起きた」。これは違う。分離できていても、飲んだ瞬間から体内で相互変換が起きるので結果は同じだった。技術の未熟さの話に落とすと、いま同じ判断ミスをしている可能性から目が逸れる。
次に多いのが「動物実験をしなかったから」。これも正確ではない。当時は妊娠動物での催奇形性試験そのものが標準の項目として存在せず、しかもマウスやラットでは何をやっても異常が出ない。やっていても素通りしていた可能性が高い。この事件が本当に変えたのは、試験の項目ではなく「データがないことを安全とみなさない」という審査の思想のほうだ。
「グリュネンタールはナチスの残党の会社」という言い方もよく流れる。ミュックターの経歴は事実として記録されているし、そこを無視するのは誠実ではない。ただ会社全体をその一語で片づけると、この事件が特殊な悪人によって起きた例外的な出来事に見えてしまう。実際には、売れている商品の悪い知らせを握りつぶすという、どこの会社でも起こりうる行動が起点になっている。特殊事例にしたほうが、読む側は安心できる。安心してしまうから、繰り返される。
「ドイツは十一日で回収した、日本は十カ月かかった、日本は最低だ」。前半は事実だが、ドイツも褒められた話ではない。1959年から神経障害の苦情が積み上がっていて、会社は二年以上それを軽く扱っていた。回収が早かったのは会社の判断が優秀だったからではなく、レンツという個人と新聞が会社を追い詰めたからだ。日本にレンツがいなかったこと、そして日本の新聞が動くのに半年かかったこと。差はそこにある。
最後に、これは誤りというより態度の話だが、当事者の体の写真を「衝撃画像」として流すのはやめたほうがいい。この事件の当事者は、いま六十代を超えた生活者であり、研究者であり、法学者であり、親であり、誰かの同僚だ。見せ物として消費された歴史を、彼らは十分すぎるほど経験している。
## なぜこの話は、いつまでも怖いのか
サリドマイドが怖いのは、腕が短いからではない。怖さの正体は、たぶん四つある。
一つ目。胎盤は関所ではなかった。当時の医学が信じていた「母体が守ってくれる」という前提が、根本から間違っていた。人間は、自分の体の一番守られているはずの場所が、実は素通しだったことを知ってしまった。
二つ目。用量が関係ない。一錠でいい。安全な量が存在しない。私たちが毒について持っている常識、たくさん飲めば危ないという直感が、この薬には通用しない。
三つ目。時間差。飲んだ日と、結果が現れる日のあいだに、八カ月から九カ月ある。因果関係が、当事者にすら見えない。母親は、自分が何をしたのか、生まれるまで知りようがなかった。そして知ったあとも、多くの場合、周囲が責めたのは彼女だった。
四つ目。これが一番怖い。誰も悪意を持っていなかった。医師は良かれと思って勧め、母親は良かれと思って飲み、会社の営業は本当に安全だと信じ、役人は社会の混乱を避けようとした。全員がそれぞれの持ち場でそこそこ真面目にやっていて、結果として一万人の子どもの体が変わった。
悪人が出てこない災害は、対策の立てようがない。だから制度に頼るしかない。ケルシーが一人でやったことを、制度としてやらせる。誰かの勇気に依存せずに、退屈な手続きとして毎回それが起きるようにする。世界中の医薬品審査が今日やっていることは、突き詰めればそれだ。
そして、この記事を書いていて一番ぞっとするのは、日本の当時の判断が、いま読んでも「わかる」ということだ。証拠が弱い外国の報告一つで、よく効いている国民薬を回収したら、混乱が起きるかもしれない。責任問題にもなる。もう少し情報を集めてからにしよう。この判断を下した人は、たぶん悪人ではない。私だって、同じ立場でこれをやらない自信がない。
十カ月。その先送りが、百人分の人生の形を変えた。
## 同じ一件が、四つの別々の物語として成立してしまう

改めて全体を見渡すと、サリドマイド事件が語り継がれる理由は、被害の大きさそのものより、この事件が同時に四つの異なる物語として成立してしまう点にあると思う。医学史の物語、企業犯罪の物語、行政の失敗の物語、そして当事者運動の物語。どの角度から入っても筋が通り、しかもそれぞれ結論が違う。だからこの事件は、誰の議論にも使われる。動物実験に反対する人も賛成する人も、規制強化を求める人も過剰規制を批判する人も、全員がこの事件を引用する。引用される回数が多すぎて、原型が磨り減っている。だから細部を戻す作業に意味がある。
細部で言うと、私がこの取材でいちばん引っかかったのは日付の並びだ。1961年11月15日にレンツが電話をかけ、11月18日に学会で公言し、11月26日に新聞が報じて同日ドイツで回収。12月2日にイギリス。12月4日に大日本製薬へ通知が届く。12月6日に厚生省と協議。ここまで、情報の伝達速度は当時としては驚異的に速い。国際的な情報網は機能していた。壊れていたのは、届いた情報を判断に変換する部分だ。
そして1962年2月と5月に、日本で新たにサリドマイド製剤が承認されている。この二件は、単なる遅れではない。遅れというのは何もしないことだが、これは能動的に薬を市場に足す行為だ。ドイツの回収を知りながら、同じ成分の製剤に判子を押した。今日の目で見ると理解不能に近いが、当時の承認業務は成分ごとの安全性の再評価を伴わない、書類上の事務処理だったのだろうと想像はつく。制度が、判断の場所を持っていなかった。1979年の薬事法改正が作ったのは、まさにその「判断の場所」だった。
もう一つ考え込んでしまうのが、回収の実務の話だ。9月13日に回収を決めても、全国の薬局の棚と、各家庭の薬箱にあるものは消えない。当時は市販薬だから、誰がどれだけ買ったか記録もない。テレビと新聞で告知しても、届かない人には届かない。そして睡眠薬というのは、常備しておくものだ。買い置きの箱が家にある。1963年半ばまで被害が出続けた理由の一部はここにある。回収というのは、宣言した日ではなく、最後の一錠が消えた日に完了する。この当たり前のことが、当時は制度としてケアされていなかった。医薬品の流通を追跡する仕組みも、後の薬害の教訓から少しずつ整備されていったものだ。
科学の側の深掘りもしておきたい。セレブロンの発見は、それ自体としては2010年の一本の論文だが、あの研究の面白さは方法論にある。薬から出発してタンパク質を釣り上げる、という発想の順序だ。普通の創薬は逆で、標的のタンパク質を先に決めて、それに合う分子を探す。サリドマイドの場合は、効果だけが先に五十年分積み上がっていて、相手が分からなかった。だから磁気ビーズで物理的に釣るしかなかった。この「効くのは分かっているが相手が不明」という状態は、実は伝統薬や偶然見つかった薬に広く共通する。セレブロンの発見は、そういう宙に浮いた薬効に決着をつける手法の実証でもあった。
そして分子接着剤という概念が、そこから立ち上がった。従来の創薬では、薬が結合できる明確なポケットを持つタンパク質しか標的にできず、細胞内のタンパク質の大半は「狙えない」と分類されていた。分子接着剤は、その分類を書き換えつつある。壊したい相手にポケットがなくても、細胞のゴミ処理系に無理やり紹介してやれば処分できる。この考え方の出発点が、腕を消した毒物だという事実は、科学の残酷なユーモアとしか言いようがない。
ただし、この「毒が薬になった」という筋書きに酔いすぎるのも危ないと思っている。復活の物語は美しいので、語り口が自然と救済寄りになる。サリドマイドが多発性骨髄腫の患者の余命を延ばしたのは間違いない事実だし、らい性結節性紅斑の患者を痛みから解放したのも事実だ。だがそれは、被害者の受けた損害と差し引き計算できるものではない。別々の帳簿に書かれるべき話だ。当事者が再承認に賛成したのは、この二つを混ぜなかったからだと思う。自分たちの被害は被害として決着を求め続けたうえで、他人の命の話は別勘定で判断した。この切り分けの厳密さは、正直、こちらの想像を超えている。
もう一点、二次障害の問題は、これから十年でもっと深刻になる。日本の当事者は現在六十代前半に差しかかっている。半世紀にわたって、少ない可動域と限られた関節に全負荷をかけて生活してきた体が、いま順番に限界を迎えている。首、肩、腰、そして血管。生まれつきの血管の走行異常が、加齢とともにリスクに変わる。介助が必要になったとき、足で生活を組み立ててきた人にとっての介助とは何なのか。一般的な介護のマニュアルは、この体を想定していない。医療者の側にも、サリドマイド胎芽症を診た経験のある医師が減っている。医学教育の中でこの事件が扱われる時間も短い。歴史として教えられているものが、いま現在の臨床課題であるという認識が、共有されていない。
1974年の和解の枠組みが半世紀前のまま更新されていない、という当事者側の指摘は重い。ドイツとイギリスは2010年前後に補償の水準を大きく見直した。年金の月額が引き上げられ、加齢に伴う医療費や住宅改修の支援も組み込まれた。日本は、和解時の設計思想のまま来ている。あのとき想定されていたのは、障害を持って生まれた子が成人するまでの支援だった。六十年生きるという前提が、書き込まれていなかった。
最後に、この事件を読み解くときに私が一番手放したくない視点を書いておく。レンツが1961年11月に持っていた証拠は、今日の基準では弱い。相関を見ただけの十四例だ。メカニズムの説明はできず、動物実験の裏づけもない。もし彼が「もう少しデータを集めてから」と言っていたら、学者としてはむしろ真っ当だと評価されただろう。彼はその真っ当さを捨てて、不完全な証拠のまま公の場で名指しした。会社からは名誉毀損で潰されかねない立場だった。
一方で日本の担当者たちは、その真っ当さを守った。証拠が不十分な外国の警告で市場を混乱させるべきではない。手続きとしては正しい。組織人としては満点に近い。
この二つの態度の差が、何百人分の人生を分けた。そして、どちらが正しかったかは、事後にしか分からない。ここが本当に厄介なところだ。レンツが間違っていた世界線では、彼はデータもなしに大企業を攻撃した狂信者として記憶されただろう。あのとき彼の正しさを保証するものは、何もなかった。
だから教訓は「勇気を持て」ではないと思う。個人の勇気に頼る仕組みは、勇気のある人がたまたまその席に座っていなければ機能しない。ケルシーがあの日FDAにいなければ、アメリカにも数千人の被害児が生まれていた。あれは幸運であって、制度ではなかった。
必要なのは、レンツやケルシーがいなくても同じ結論に到達する退屈な手続きだ。副作用の報告を集める義務、警告を受け取ったら判断を記録する義務、データがないことを理由に承認を保留する権限、そして流通した薬を最後の一錠まで追う仕組み。これらは全部、この事件のあとに作られた。つまり私たちが今日、薬局で買った薬を疑わずに飲めるのは、六十年以上前に生まれてきた一万人の子どもたちが払った代償の上に立っている。
その事実に、感謝という言葉を使うのは違う気がする。誰も進んで払った代償ではない。ただ、忘れないでいることくらいは、こちらの側の義務としてある。309人という数字と、その一人ひとりが六十年を生きてきたという事実を、統計の外に出しておくこと。この記事を書いた理由は、たぶんそれだけだ。

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