湖の上に建った家で、家族の全員が踊っていた
一九七九年七月、ベネズエラ北西部。マラカイボ湖の水面から杭を何本も立てて、その上に板を渡して建てた家がある。壁はトタンと板の継ぎはぎ。床の隙間から下を覗くと、緑がかった濁った水がゆっくり揺れている。屋根の下は蒸し風呂みたいに暑い。窓に硝子はない。風が入ってくるのだけが救いだ。
その家のハンモックに、一人の男が座っていた。座っている、というのが正確かどうかは怪しい。体が勝手に動くのだ。肩が跳ね、指がひらひらと泳ぎ、首がぐるりと回る。本人はいたって普通の顔でこっちを見ている。話しかけると答える。でも喋っている最中も、体はずっと踊り続けている。止まらない。眠っているときだけ少しおさまる。
奥から妻が出てきた。妻も踊っていた。同じ動きだった。二人とも同じ病気だった。そして子どもが十四人いた。そのうち十人が、すでに同じように体をくねらせはじめていた。まだ十代の子もいた。台所らしき一角では、上の姉が鍋をかき混ぜようとして、手が跳ねてスプーンを落とす。落としたスプーンを拾おうとしてまた跳ねる。誰も笑わない。誰も驚かない。この家では、それが日常なのだ。
訪ねてきたアメリカ人の女性研究者は、その場に立ち尽くしていた。名前はナンシー・ウェクスラー。三十三歳。母親が同じ病気で死んでいる。つまり彼女自身も、五〇パーセントの確率で同じ運命を相続している。目の前で踊っている十四人きょうだいは、他人事じゃなかった。
村の人たちは、それを「エル・マル」とだけ呼んだ
病名を言わない、というのがこの村の作法だった。バランキータス。ラグニータス。サン・ルイス。マラカイボ湖の岸辺に散らばる漁村と、街の外れのバリオ。そこで暮らす人たちはこの病気を「エル・マル」と呼んだ。訳すと「あの悪いもの」。あるいは「エル・マル・デ・サン・ビト」、聖ヴィトゥスの舞踏。中世ヨーロッパで踊り狂う病に付けられた呼び名が、なぜかカリブ海の対岸の漁村に残っていた。
呼び名がぼかされていた理由ははっきりしている。名指しすると、その家の全員に烙印が押されるからだ。あの家の血には「エル・マル」が入っている、という噂が立てば、子どもは結婚できない。仕事にも就けない。だから病気を持つ家同士でくっつくようになる。ここが恐ろしいところで、隔離されて内側で結婚を繰り返した結果、次の世代の患者密度がさらに上がった。差別が病気を濃縮する装置になっていた。
数字で言うと異常な村だった。ハンチントン病というのは世界的にはおよそ一万人に一人の病気だ。ところがバランキータスでは十人に一人。桁が三つ違う。二〇一〇年にこの村を訪ねた英国の放送記者は、村人およそ千人がすでに発症していると書いた。通りに立っていると、歩いている人の何人かがゆらゆら揺れている。それが普通の風景だった。研究者の一人は後に、文字通り、街角に舞踏運動の人が立っている村だった、と振り返っている。
さらに気味の悪い話がある。この村の患者たちは、ほぼ全員が親戚だった。十八世紀か十九世紀か、時期には諸説あるが、マラカイボ湖畔にマリア・コンセプシオン・ソトという一人の女性が住んでいた。湖の上の杭上集落に暮らしていたとされる。彼女が持っていた一個の遺伝子変異が、十世代かけて枝分かれし、一万八千人以上の子孫にばらまかれた。ある人の言い方を借りれば、村ごと、一つの巨大な家系図なのだ。
二二歳の町医者が、たった一本の論文で医学史に名を残した
話を一度、北半球に飛ばす。一八七二年二月十五日、アメリカ、オハイオ州ミドルポート。ミーグス・アンド・メイソン医学アカデミーという地方の医師会の集まりで、二十二歳の若造が壇上に立った。医学部を出て一年も経っていない。自分の患者はほとんどいない。名前をジョージ・ハンチントンといった。
演題は「舞踏病について」。話の大半は、当時よく知られていた子どもの舞踏病、いわゆるシデナム舞踏病の説明だった。ところが最後の数段落で、彼はまったく別のものを持ち出した。ロングアイランドの東端、イーストハンプトンという町にだけ存在する、奇妙な舞踏病がある、と。
なぜこの若造がそんなものを知っていたか。答えは家業だ。ハンチントン家は三代続けての開業医だった。祖父アベルが一七九七年にイーストハンプトンで診療所を開き、父ジョージ・リーがそれを継いだ。少年時代のジョージは、父の往診に馬車でくっついて回っていた。そこで、体を捩じらせて歩く大人たちを何度も見ている。しかも祖父と父の二代分の診療記録が家に残っていた。同じ家の、祖父の代、父の代、そして自分が見た代。三世代分のカルテが縦に並んでいたのだ。
だから彼は言い切れた。この病は親から子へまっすぐ伝わる、隔世遺伝はしない、と。彼の原文は今読んでも鳥肌が立つ。もし親のどちらかが罹っていれば、子のうち一人以上は成人すればほぼ必ず罹る。だが偶然にも生涯罹らずに済んだなら、糸はそこで切れる。孫もひ孫も、もう安心してよい。この病は世代を飛ばさない。他のことでは気まぐれなくせに、この一点だけは決して曲げない。一度権利を手放したら、二度と取り返しに来ない。
一八〇〇年代前半に統計遺伝学なんてものは存在しない。メンデルの法則が再発見されるのは一九〇〇年だ。それより二十八年早く、田舎の新米医者が常染色体優性遺伝のパターンを言葉で描き切ってしまった。原稿は喝采を浴び、フィラデルフィアの週刊誌『メディカル・アンド・サージカル・リポーター』第二十六巻十五号に、同年四月十三日付で掲載された。三一七ページから三二一ページ。たったの五ページだ。
面白いのは、ジョージ・ハンチントン本人がこの論文を「医学的な珍品」くらいにしか思っていなかったことだ。ロングアイランドの東の端の、ごく少数の家系だけの話だと書いている。研究者にもならなかった。生涯、田舎の家庭医のままだった。それでも一八八七年には「ハンチントン舞踏病」という呼び名が医学用語として定着してしまう。人類が二〇二六年になっても解けていない謎に、彼の名前が貼りついたままだ。ちなみに父親は息子の原稿に赤を入れていた。手書きの修正が残っている。親子で仕上げた五ページが、一五〇年以上生き延びた。
魔女裁判の被告は、本当にこの病気だったのか
ここからが怪談じみてくる。この病気には昔から「セイラムの魔女はハンチントン病だったのでは」という説がついて回る。踊るように体が跳ね、顔が引きつり、性格が変わり、正気を失っていく。十七世紀のニューイングランドで、これを見た人間がどう解釈したか。悪魔に取り憑かれた、と考えるのは自然すぎる。
この説を強力にばらまいたのは、一九三二年、コネチカット州グリニッジの高級療養所の医長パーシー・R・ヴェッシーという精神科医だった。『ジャーナル・オブ・ナーヴァス・アンド・メンタル・ディジーズ』誌に「三〇〇年にわたるハンチントン舞踏病の伝播――ビュアーズ家系群」という論文を発表している。筋書きはこうだ。一六三〇年、イングランドのサフォークとエセックスの境にあるビュアーズ・セント・メアリーという村から、三組の若い夫婦が新大陸へ渡った。彼らは行儀が悪く、航海中から問題ばかり起こし、定着先でも素行不良で、近親婚と私生児と犯罪の巣になった。そして女たちのうち七人が魔女として告発され、処罰された。あの有名なグロトンの魔女もその一族だった。そういう物語である。
七〇年代までこの話は医学書にも高校の生物の教科書にも載った。ハンチントン病の「起源神話」として機能した。イギリスの高名な神経学者マクドナルド・クリッチリーも、初期の裁判記録には野放図な顔の歪みや体の捩じれの記述があり、悪魔憑きとされたものの正体は神経疾患だった、と書いている。
ところが、これがかなり怪しい。まずヴェッシーが使った家系データの出所が問題だった。元をたどると、優生学の総本山だったコールドスプリングハーバーの優生学記録局が一九一一年に始めた大規模な家系調査に行き着く。チャールズ・B・ダヴェンポートとエリザベス・B・マンシーが一九一六年に発表した論文では、九六二人の「舞踏病患者」が列挙された。この調査には診断の誤りと系図の取り違えが山ほど混じっていた。しかも当時の優生学の空気の中で、この病気は「不適格者を断種すべき理由」として使われた。断種を予防法とする発想は、驚くべきことに一九六〇年代まで生き残る。
反証をやったのが、ほかならぬナンシー・ウェクスラーの姉、歴史学者のアリス・ウェクスラーだ。彼女は二〇〇八年の著書と、その後の学術論文で、この起源神話を丁寧に解体している。ビュアーズから渡った女たちが魔女として告発された記録は確認できない。有罪になった、あるいは告発された人物の中に、今日のハンチントン病に合致する症状を示した証拠は見当たらない。逆に言えるのはこうだ。不随意運動のある人は、魔女術の犠牲者だとか悪魔に憑かれたと見なされることが確かにあった。だが「被告」が病気だったという話とは別物だ。彼女は率直に、説得力のある証拠を見たことがない、と書いている。
じゃあこの説は完全なガセかというと、そこも単純じゃない。十七世紀のニューイングランドやヨーロッパで、体の制御を失った人間が「悪魔憑き」の枠に押し込まれたこと自体は事実だ。グロトンのエリザベス・ナップという少女の記録は、牧師サミュエル・ウィラードが克明に書き残している。中世の踊り念仏じみた集団舞踏、パラケルススが記録した聖ヴィトゥスの舞踏、それらとハンチントン病を直結させるのも無理筋だ、というのがアリス・ウェクスラーの立場でもある。集団舞踏は疫病や災厄のあとに起きる一時的な現象で、家族に代々受け継がれるものではなかったからだ。
要するに、ここには二重の恐怖がある。一つは、病気が悪魔の仕業と見なされて人が焼かれたかもしれないという恐怖。もう一つは、二十世紀の科学が「あいつらの血は汚れている」という物語を作り、それを何十年も再生産したという恐怖だ。後者のほうが手触りとしては生々しい。
ロサンゼルスの横断歩道で、警官が言った一言
一九六八年、ロサンゼルス。五十三歳の女性が、陪審員の仕事に行く途中で道を渡っていた。足がもつれる。体が斜めに流れる。それを見た警官が声をかけた。奥さん、朝からそんなに酔っぱらって恥ずかしくないのか。
彼女の名はレオノア・セイビン・ウェクスラー。元高校の生物教師で、一九三〇年代にコロンビア大学の動物学科で遺伝学の修士号を取っている。酒はほとんど飲まない。ここ最近、動作がぎこちなくなっているのは自分でも気づいていた。彼女はパニックになって別れた夫のミルトン・ウェクスラーに電話をかけ、その日の午後には神経内科にかかった。診断はついた。ハンチントン病。
彼女の父はこの病気で死んでいた。三人の兄も全員この病気で死んでいた。四十代から独立を奪われ、順番に消えていった。それを彼女は知っていた。そして自分は違う、と思い込んでいた。
同じ年の夏、ミルトン・ウェクスラーは二人の娘を自分の六十歳の誕生日という名目で呼び寄せた。姉のアリスは二十六歳、歴史学の博士課程。妹のナンシーは二十三歳、大学を出て心理学の大学院に進むところだった。誕生日を祝うような家ではなかったから、ナンシーは何かあると勘づいていたという。父はアパートに戻ってから話した。母さんは助からない。そしてお前たちには、それぞれ二分の一の確率がある。
ナンシーはその日のことをほとんど覚えていないと言っている。覚えているのは、姉と二人で、子どもは持たないと決めたことだけだ。父ミルトンは同じ年に遺伝病財団を立ち上げた。フォークシンガーのウディ・ガスリーがこの病気で死んでいたので、その妻マージョリー・ガスリーが患者家族の運動をすでに始めていたが、ミルトンの方針はもっと直球だった。ベッドに羊毛を敷いて患者が青あざを作らないようにするのも大事だが、それより患者をベッドから出す方法を見つけろ、という考え方だ。研究に金を出す。それだけをやる。
ナンシーは臨床心理学の博士号を取り、博士論文のテーマに「ハンチントン病のリスクを抱えて生きる人の心理」を選んだ。自分の話を、他人の話として書いたわけだ。
一九五五年、若い医師が「酔っぱらいだらけの村」を見つけていた
その頃すでに、ベネズエラ側では下ごしらえが済んでいた。一九五二年、医学部を出て三年目のアメリコ・ネグレッテという若い医師が、マラカイボ近郊のサン・フランシスコ、そしてサン・ルイスという小さな漁村に、義務としての地方勤務で赴任した。着いて数日で彼は妙なことに気づく。朝から酔っ払いがやたら多い。よろよろ歩いている人が通りにいくらでもいる。
彼は診察してみた。酒の匂いがしない。話は通じる。ただ体が勝手に動く。住民に聞くと、あれは「サン・ビテロス」だと言われた。「エル・マル・デ・サン・ビト」に罹った人たちだ、と。そして必ずこう続く。あの人たちはそのうち何もできなくなって、死ぬ。
ネグレッテは家系を丁寧に聞き取った。親から子へ、そのまた子へ。彼は結論に到達する。これは舞踏運動と認知症を伴う、常染色体優性遺伝の病気だ。つまりジョージ・ハンチントンが書いた、あの病気だ。
一九五五年、彼はベネズエラ第六回医科学会議でこの発見を報告した。反応は冷たかった。地元の学界は乗ってこず、行政は聞き流した。彼は諦めずに一九五八年に大学出版から論文集を出し、一九六三年には『ハンチントン舞踏病』という本を第二版まで出した。患者一人ひとりの臨床像を書き込んだ本だ。ただしスペイン語だった。だから世界には届かなかった。
届いたのは十七年後だ。一九七二年、ハンチントン論文の発表から百年を記念する学会がアメリカで開かれた。そこにネグレッテの教え子で共同研究者のラモン・アビラ・ヒロンが、患者たちを撮影したフィルムを持って現れた。会場のスクリーンに、マラカイボの村の光景が映った。参加者は絶句した。アメリカでは患者は施設に隔離されている。ところが画面の中では、患者が村の一員として、家族と一緒に暮らしていた。しかも人数が桁違いだった。
その会場に、ナンシー・ウェクスラーがいた。
一九七九年七月、ハンモックの男に会いに行く
なぜ彼女がわざわざベネズエラに行こうと考えたか。当時の科学の状況を知ると腑に落ちる。七〇年代、マイケル・ブラウンとジョセフ・ゴールドスタインが、家族性高コレステロール血症の生化学を、変異を一つ持つ両親と二つ持つ娘の家族を調べることで解き明かしていた。ならばハンチントン病も、両親ともに患者で、両方から変異を受け継いだ「ホモ接合体」の人を見つければ何かわかるかもしれない。ところがこの病気は稀すぎて、そんな家族はまず見つからない。
ただし、患者同士が差別ゆえに結婚を重ねている村なら話は別だ。ナンシー・ウェクスラーは一九七九年七月、下見のためにベネズエラへ飛んだ。そこで湖の上の家に辿り着き、ハンモックの男とその妻、そして十四人の子どもに出会う。ホモ接合体の人も何人か見つかった。ただし彼らが特別に重症というわけではなかった。変異が二個あれば二倍ひどくなるはずだ、という予想は外れた。この時点ですでに、教科書が書き換わりはじめていた。
同じ一九七九年十月、彼女は米国立衛生研究所でワークショップを開いた。そこで議題に上がったのが、DNAの中に散らばる小さな個人差、当時最先端だった制限酵素断片長多型、いわゆるRFLPを目印にして遺伝子の場所を探す方法だ。PCRはまだ存在しない。会場は紛糾した。何年かかる。五十年か。百年か。そもそも可能なのか。研究者の何人かはこう言った。治療法が見つかるかもしれないと家族に言うのは倫理に反する、どうせ見つからないのだから、と。
彼女は引かなかった。マーカーが病気と一緒に遺伝していくかどうかを確かめるには、とにかくデカい家系が要る。そしてついさっき、その馬鹿デカい家系を見てきたところだったからだ。
血液四〇〇〇人分、家系図一万八〇〇〇人
一九八一年から、米国とベネズエラの共同研究チームが毎年一か月、湖畔に通うようになった。米国立衛生研究所とスリア大学の共同プロジェクトで、名前を「米国ベネズエラ・ハンチントン病共同研究グループ」といった。参加した研究者は延べ五十七人。ナンシー・ウェクスラーとベネズエラ側のエルネスト・ボニージャが主任研究者だった。
作業は泥臭い。マラカイボの街から湖岸を三時間半ほど車で走ってバランキータスに入る。コンクリートブロック造りの集会所に机を並べる。冷房などない。村人が来る。入口には巨大なコンピュータ用紙の連続帳票を持った人間が立っていて、その人がどの枝の誰なのかを照合する。九六年の時点でこの家系図は、マラカイボのホテルの一室の壁をぐるりと一周してもまだ足りない長さの巻物になっていたという。
医師は神経学的診察をやる。看護師が採血する。皮膚生検も取った。二〇〇二年までの二十三年間で集まったのは血液サンプルおよそ四千人分、記録された個人が一万八千百四十九人、うち生存者が一万五千四百九人。十世代、二百年分。八十三の独立した家系が確認され、そのうち最大の一つだけで一万四千七百六十一人を含んでいた。一つの家族の人数は一人から二十一人まで。神経学的診察と認知検査は延べ二万人分に及んだ。
一つ言い添えておくと、村の人たちは最初から協力的だったわけではない。当たり前だ。白衣を着た外国人が採血管とメスを持ってやってきて、血と皮膚をくれと言うのだ。ウェクスラーのスペイン語は当時ほとんど使い物にならず、自分の母も同じ病気で死んだのだと説明することもできなかった。膠着を破ったのはチームのアルゼンチン人看護師だった。彼女はウェクスラーの腕をつかんで袖をめくり、皮膚生検の傷跡を村人に見せた。この人も同じことを自分の体でやっている。それで空気が変わった。
村人はこうも言ったという。あんたたちは月まで行って帰ってきたんだろう。なんでこの病気は治せないんだ。
一二番目のマーカーが、染色体4の先端で光った
一九八〇年、遺伝病財団の資金も入って、マサチューセッツ工科大学のデイヴィッド・ハウスマンと、その教え子だったジェームズ・ガセラが、遺伝子探しに本格的に着手した。トム・マニアティスがマーカーを次々に作っていた。試すたびに外れる。アイオワの家系で十二番目のマーカーを試したが、これも駄目だった。もう諦めかけていた。
そこでベネズエラのDNAを突っ込んだ。すると十二番目のマーカーが、第四染色体の短腕の先端で光った。統計的に、偶然ではありえないレベルで光った。一九八三年、この結果は『ネイチャー』に発表される。染色体上の位置が事前にまったくわかっていない病気の遺伝子を、DNAマーカーだけで座位特定した史上初の例だった。
これが何を意味したか。病気の遺伝子がどこにあるかわからなくても、家系のDNAさえ十分にあれば場所を絞り込める、という方法論が成立したのだ。この手法はそのままヒトゲノム計画の原理的な下敷きになった。心疾患、アルツハイマー病、筋萎縮性側索硬化症。あとに続いた無数の遺伝子探しは、マラカイボ湖の血液が敷いたレールの上を走っている。
ただし、マーカーが見つかることと遺伝子そのものが見つかることは別だ。この間が地獄だった。目星をつけた領域は染色体の端に近く、当時の技術では扱いにくい場所だった。そのうえ探しているものが「三塩基の繰り返しが伸びる」という、当時まだ誰も知らないタイプの変異だった。何を探しているのかわからないまま十年掘り続けたわけだ。
一〇年後、「IT15」という名前のない遺伝子
一九九三年三月、ついに遺伝子が捕まった。仮の名前は「IT15」。のちにHTTと呼ばれるようになる。作られるタンパク質はハンチンチンと名付けられた。論文は『セル』誌に出た。著者名の欄には個人名がなく、「ハンチントン病共同研究グループ」という団体名が並んでいた。五十八人の研究者が誰も一番になろうとしなかった。当時としては異例の署名の仕方で、これは十年間の共同研究の性格そのものだった。
変異の正体はこうだ。この遺伝子の頭のほうに、CAG、CAG、CAGという三文字の繰り返しがある。健常な人ではだいたい二十六回以下。二十七回から三十五回は「中間型」と呼ばれ、本人は発症しないが次世代で伸びる可能性がある。三十六回から三十九回は「浸透率が下がる」範囲で、この長さを持っていても生涯発症しない人がそれなりにいる。そして四十回以上になると、寿命を全うすれば、ほぼ確実に発症する。
ハンチンチンというタンパク質は、実は誰の体にもある。胎児の発生に必須で、細胞の中で足場のような働きをしている。なくては生きられない。ところがCAGが伸びすぎると、このタンパク質の一部が長い尻尾のようになり、脳の深部にある線条体という場所でべたべたした塊を作って溜まる。線条体が壊れていく。だから運動の制御ができなくなり、判断力が落ち、性格が変わる。
CAGの回数が、人生の締め切りを決める、はずだった
ここが残酷で、そして意外な話につながる。CAGの繰り返し回数と発症年齢は逆相関する。長いほど早く発症し、経過も重い。成人発症の患者はおおむね三十六回から五十五回の範囲に収まる。五十五回を超えると若年発症になりやすく、二十歳以下で発症するケースは全体のおよそ一割を占める。若年型は進行が速く、発症からの期間が八年から十二年と短い。
さらにえげつないのが「表現促進現象」だ。CAGの繰り返し数は親から子へ渡るときに不安定で、しばしば伸びる。特に父親から受け継ぐときに伸びやすい。精子が作られる過程でこの繰り返しが不安定になるためと考えられている。七回を超えるような大きな伸長は、ほぼ父親由来でしか起きない。つまり世代を下るごとに発症年齢が前倒しになりうる。子が親より先に発症することが現実に起こる。しかも小さい子どもの遺伝子診断が、そのまま親のどちらかにとっての「発症前診断」になってしまうという、聞いているだけで頭を抱える事態も起きる。
ところが、である。二〇〇四年、ウェクスラーらのチームがベネズエラの家系のデータで発表した論文が、この単純な図式を叩き壊した。四百四十三人の患者のCAG数と発症年齢を突き合わせると、リピート数が四十から八十六回まで幅広く散らばっている全体では、確かに発症年齢のばらつきの七十二パーセントをリピート数が説明できる。ところが実際の患者の八十七パーセントを占める「四十から五十回」の帯だけに絞ると、リピート数で説明できるのは四十四パーセントに落ちる。残りは何なのか。統計解析の結果、残りのばらつきの四十パーセントはHTT以外の遺伝子、六十パーセントは環境要因によるものだった。
これは希望の話でもある。同じリピート数を持つ兄弟でも、発症する年齢が違う。ということは、何かが発症を遅らせている。その何かを薬で真似できれば、発症を五年、十年、あるいは寿命の外側まで押し出せるかもしれない。ウェクスラーはこう言っている。症状を軽くしたいんじゃない。発症を百十歳まで押しやって、人生から追い出したいのだ、と。
検査を受けるか、受けないか。世界一残酷な選択肢
一九八六年、まず連鎖解析による発症前検査が可能になった。一九九三年からは遺伝子を直接調べられるようになった。血を数ミリリットル取れば、あなたが将来この病気になるかどうか、ほぼ百パーセントの精度でわかる。値段も安い。検査費用は数万円程度で、保険が効く国も多い。
だから研究者たちは、リスクを持つ人がこぞって検査を受けに来ると思っていた。宙ぶらりんの不安から解放されたいだろう、と。
結果は正反対だった。イギリスのハンチントン病予測検査コンソーシアムが一九九三年から二〇一四年までの二十一年分、九千四百七件の検査データを集計した結果、五〇パーセントのリスクを持つ人のうち検査を受けた人の累積割合は約十七・四パーセントと推定された。八十パーセント以上は受けていない。オーストラリアのビクトリア州で十五・四パーセント、北アイルランドで十二から十五パーセント程度。アメリカのデータではさらに低く、症状の出ていない人に限れば五パーセント前後という数字も出ている。ある研究者の言い方だと、リスクを知っている人のうち検査を受けたのは十から十五パーセント、しかもこの割合は三十年間ほとんど変わっていない。
なぜ受けないのか。一九九九年から二〇〇八年にかけて千一人を追跡した大規模研究の分析によると、理由の一位と二位ははっきりしている。有効な治療法がないから。そして、知ってしまったら二度と知らなかったことにできないから。
経済学者がこの現象に食いついたこともある。予測が完全に的中し、費用も時間もほとんどかからない検査を、人はなぜ受けないのか。標準的な経済モデルだと説明がつかない。分析すると、検査を受けていない人は自分の健康について楽観的な信念を語り、退職も貯蓄も出産も「自分は罹らない」前提で決めていた。一方で陽性が確定した人はまるで違う行動を取る。研究者たちが出した結論は、人は将来の期待そのものから効用を得ている、という身も蓋もないものだった。希望は経済財なのだ。しかも試算では、検査費用をゼロにしても受検率は五パーセントから十パーセントに上がるだけだった。金の問題ではない。
証言その一、「不確かさの中に希望を見つけていた」
ジェマという女性の話をする。彼女は二十九歳で検査を受け、母親から変異を受け継いでいたことを知った。CAGは四十五回だった。
彼女が母親の異変に最初に気づいたのは十四歳、学校の生物の授業だ。遺伝性疾患の例としてハンチントン病が紹介され、教師が症状の一覧を見せ、患者の映像を流した。画面の中の人の動きが、家の母の動きと同じだった。教師は「多くの患者は自分の不随意運動に気づいていない」と説明した。それも母と同じだった。母がなぜ自分の手の動きに無自覚なのか、ずっと不思議だったからだ。彼女は授業中に確信した。そしてもう一つ理解した。母がそうなら、自分の確率は二分の一だ。
一年後、母が採血から帰ってきた日、父が「残念だがいい知らせじゃない」と言った。彼女は即座に返した。ハンチントン病でしょう。その一年で本を読み尽くし、インターネットの隅々まで調べ尽くしていた。
そこから検査まで、彼女は十年以上かけている。最初のうちは、わからないままでいることに希望があった、と彼女は言う。ところがある時点から、その不確かさが自分を内側から食いはじめた。自分は長く生きないと勝手に決めつけて、長期的な人間関係も、仕事の決断も、全部保留にしていた。誰も近づけないようにしていた。押し込めようとするほど、その考えは大きな声で叫んできた。
検査を受けると決めた瞬間のことを、彼女はこう書いている。最初の遺伝カウンセリングを終えて駐車場へ歩いているとき、これしか道はないと突然わかった。自分は水のボトルすら選べないほど優柔不断な人間なのに、あのときだけは体の全部の細胞が同意していた。
結果を聞いた直後、彼女はむしろ安堵した。ようやく必要な情報が手に入ったから。それから数週間はショックが体を運んでくれた。そして現実が沁みてきて、深く落ち込み、数か月後にはついに折れて、仕事を何か月も休むことになる。それでも彼女はこう言う。検査を受けたことを後悔した日は一日もない。暗くて怖い日はある。でもそれは検査のせいじゃない、病気のせいだ。自分は最悪の状況の中で最善の判断をしただけだ。私はハンチントン病よりずっと大きな存在だし、人生はゆっくりと悲しみのまわりに育っていく。
証言その二、「陰性だったのに、私は罪悪感で潰れかけた」
もう一人。四十六歳で検査を受けた女性の記録がある。父親が発症し、五十歳を過ぎて診断がつき、彼女が四十二歳のときに亡くなった。弟も四十三歳で診断された。彼女には子どもが四人いた。
彼女は二十二歳のときに一度、遺伝カウンセラーに会っている。当時まだ父は検査を受けておらず、もし娘が陽性なら父も自動的に陽性が確定してしまう。父は自分は受けたくないと言い、それでも娘たちのためなら受けると申し出た。その申し出をしたときの父の顔が怖がっていたのを、彼女は覚えている。
三十一歳のとき、父の診断が確定した。もう一度検査を考えたが、やめた。治療法がないし、自分に病気が出るまではまだ時間があると思った。父が亡くなり、弟が発症し、自分が父の発症年齢に近づくにつれ、考えはまた変わった。カウンセリングを再開したが、今度はカウンセラー側が心配した。父を亡くしたばかりで、弟の支援も必要な時期に検査を受けるのは負荷が高すぎる、と。彼女も同意して、いったん中断した。
自分の判断が信じられなくなったのが決定打だったと彼女は書いている。父も弟も、自分が変わっていくことに気づいていなかった。じゃあ自分はどうやって気づけばいい。
採血から結果まで八週間。眠れない夜が続いた。自分の手が跳ねている気がしてくる。息子が十八歳になるまで面倒を見られるだろうか。母と弟は誰が支えるのか。いつ運転をやめないといけないのか。働けなくなったら家計はどうなるのか。
結果の日、彼女は妙に落ち着いていたという。カウンセラーが「よかったですね」と言った瞬間、泣いた。陰性だった。
ところが、そこから彼女を襲ったのは純粋な喜びではなかった。弟は発症している。自分の結果は不公平に感じられた。数週間、自分の体に症状を探す癖が抜けなかった。母は素直に喜べなかった。息子が病気で娘が無事という事実に、母は罪悪感を抱えていたからだ。弟は結果を尋ねてきたが、この病気は男系だけに出るものだと勘違いしていた。もう認知が落ちはじめていた。
この「陰性の罪悪感」は例外ではない。別の女性は、自分と兄が陰性だったと知ったとき、真っ先に浮かんだのは喜びではなく、じゃあ姉が持っているのでは、という考えだったと語っている。彼女は数年間、家族に結果を言えなかった。姉が陰性だと判明した日を、彼女は人生で一番いい日だったと呼んでいる。
証言その三、「弾が一発、薬室が二つのロシアンルーレット」
三人目は、家族に伝える側の話だ。ある女性が陽性と告げられたあと、夫が彼女の言葉を書き留めている。
想像してみてほしい、と彼女は言う。自分が不治の病だと知らされる。次に、それを家族に伝える場面を想像する。それは自分の人生で最悪の出来事だ。そして家族の人生にも影響する。彼らは自分が弱っていくのを見る。頭が鈍っていくのを見る。介護をしなければならなくなる。経済的にも崩れるかもしれない。
でも他の病気なら、と彼女は続ける。他の病気は家族全体に負担をかけるけれど、病気そのものは一人のものだ。ハンチントン病は違う。この病気はあなただけのものじゃない。それは親のものだった。そして今、自分の子のものかもしれない。子の子のものかもしれない。どこまでも続く。
彼女はこの遺伝の仕方を、弾が一発で薬室が二つしかないロシアンルーレットに喩えている。そして自分は、結果が陽性でも陰性でも心が引き裂かれるとずっと前から気づいていた、と言う。陰性なら自分は助かる。でも二人の兄はどうなる。伝えるべきか。伝えたら彼らを検査に追い込むのではないか。彼らは自分のために喜んでくれるだろう。でも彼らが自分ほど幸運でなかったら。自分は罹っていないことに罪悪感を持つのだろうか。
結局彼女は陽性だった。母に伝え、娘に伝え、兄たちに伝えた。そのとき言えたのはごめんなさいだけだったという。誰にもこんなことをしたくなかった。真実を知ってしまったせいで、みんなの人生を面倒にしてしまって申し訳ない。悲しませたくなかった。でも自分は経験から知っている。それは自分への同情の悲しみではない。彼らがこれから毎日抱えることになる知識から来る悲しみだ。心の一番奥の暗いところに染み込んでいく悲しみだ。
そして最後にこう書いている。心配を止める唯一の方法は、話すことだと思うようになった。不安に飲み込まれる前に、不安について話すこと。愛する人に、恐怖のことも、年を取ったらどうやって一緒にやっていくかも話すこと。どんなに怖くても正面から向き合うこと。
付け加えておくと、選び方は本当に人それぞれだ。検査を受けて前に進む人、受けないと決めて日々を生きる人、受精卵の段階で調べる着床前診断を選んで子どもに病気を渡さない道を取る人、結果を知らないまま子どもだけを守る「除外検査」を選ぶ人。イギリスのある女性は、体外受精と着床前診断で娘を授かってから、自分の健康に責任を持ちたいという気持ちが強くなって検査を受けたと語っている。どの選択も、他人が上から評価していいものじゃない。そして、どの段階でも遺伝カウンセラーや患者団体という受け皿はある。採血の直前まで、いつでも降りていい仕組みになっているのが、この検査の作法だ。
「同意書は英語で書かれていた」という告発
きれいな話ばかりでは終わらない。ここからが、この物語のもう一つの顔だ。
スリア大学医学遺伝学部門でハンチントン病プログラムの責任者を務めた遺伝学者レニー・ピネダは、この共同研究に初期から複数の倫理的問題があったと批判している。二〇一〇年にユネスコから出た論文に、その内容をまとめた。
彼女の指摘は具体的だ。八〇年代初頭の訪問で、自分が承服できない行為が複数あった。研究に参加した患者は、研究の性質について適切に説明を受けていなかった。読み書きのできない人に対して、英語で印刷された説明文書が渡され、内容を理解しないまま同意書に署名した人がいた。中には、これで自分は治してもらえると思い込んでいた人もいた。研究グループは血液、皮膚、精液のサンプルを得るためにドル建ての支払いを申し出た。毎年の訪問では玩具や衣類も持ってきた。もちろん村人は喜んだ。
批判はカサ・オガールという介護施設にも及んだ。家族が、自分の身内がどんな薬を投与され、どんなケアを受けているのか知らされていない、という苦情を彼女は受け取ったという。さらに彼女は、患者が亡くなったとき、遺族が葬儀費用の全額負担と引き換えに患者の脳の提供を持ちかけられた、という話を複数の人から聞いたと述べている。
これは、生命倫理の議論で長年争点になってきた構図そのものだ。極貧の地域で、経済的なインセンティブと、不十分な説明が組み合わさる。同意は本当に自由な同意なのか。研究のリスクと利益を理解した上での判断なのか。低中所得国での研究をめぐっては、インフォームド・コンセントの不透明さ、地域社会との対話の欠如、利益の分配の不公正という三つが繰り返し批判されてきた。標本を差し出したのは村で、成果を持ち帰ったのは北半球の研究機関だ、という構図は否定しにくい。
反論もある。ただし、その反論にも別の批判がある
この批判に対して、プロジェクト側の言い分もある。
まず、遺伝子が見つかったあと、チームは村に施設を作った。マラカイボ近郊のサン・ルイスにあった「エル・トロ・ロホ」、つまり赤い雄牛という名の、町で一番たちの悪い酒場を政府に買い取らせ、十年かけて全面改装し、一九九九年に「カサ・オガール・アモール・イ・フェ」という介護施設として開いた。売春と薬物の温床だった建物が、患者の家になったわけだ。ベネズエラ人医師が常駐し、スタッフは全員が患者の家族だった。二〇一三年初めの時点で六十五人以上が入所し、全国から来る七十例以上の患者に無料で専門的な医療を提供していた。ハンチントン病の患者は一日に五千キロカロリー以上必要とされることがあり、食事の回数も多い。ピューレ状にした食事を毎日何百人分も作っていた。遺伝病財団が人件費、食費、薬代を丸ごと負担し、年間およそ百万ドルを投じていた。シェルなどの企業も金を出した。累計では千七百万ドル規模になる。
もう一つの争点が「検査」だ。遺伝子が見つかり、発症前検査が世界中で使えるようになったあとも、マラカイボの住民は事実上その検査にアクセスできなかった。アメリカやヨーロッパ、あるいは同じベネズエラでもカラカスなら受けられる。しかし千ドル以上かかる。村の人にはとうてい払えないし、そもそも検査というものが存在することすら知らない人が多かった。ある女性は取材に対して、検査って何の検査ですか、と聞き返している。
現地の医師で遺伝学者のエルネスト・ソリスは、こう批判した。アメリカやヨーロッパでは、家族に病気がある人は「知りたい」か「知りたくない」かを自分で選べる。ところがこの人たちは、研究に協力したのに、その選択肢すら持っていない。
ナンシー・ウェクスラー側の立場ははっきりしている。彼女は、検査がマラカイボの人々の役に立つとは考えていない、と述べている。目指しているのは検査ではなく治療法だ。治療の見込みがないまま陽性を告げられれば、かえって害になりうる。絶望した人が自ら命を絶つ可能性すらある。だから代わりに六百万ドルを集めて診療所を作り、幻覚や妄想、激しい感情の起伏に対処する高価な向精神薬や抗うつ薬を提供してきた、と。
ここに対して、アルバート・アインシュタイン医科大学の生命倫理学者ルース・マクリンが真正面から反論した。研究者が「これは悪い知らせだから住民に知らせるべきではない」と主張するのは、許容できないほど父権的だ。それは知的な植民地主義の一形態にほかならない。彼らにとって何が良いかを我々が知っている、知らないほうが彼らのためだ、という態度だからだ、と。
どちらが正しいか、私には断言できない。ただ、この論争が「善意で始まった研究」の内側で起きていることは押さえておきたい。悪人が搾取した話ではない。母を亡くした娘が、同じ病気の人たちのために四十年通い詰めた話だ。それでもなお、同意と説明と還元の問題は発生する。むしろ善意だからこそ発生する、という気味の悪さがある。
そして村は、いま
現在のバランキータスの話をしないと、この記事は嘘になる。
カサ・オガールは二〇一四年に入所者の受け入れを停止した。理由として挙げられたのは、食料と治安の問題だった。民間からの資金の一部を失ったという話もあるが、正確なところは誰にもわからない、と現地の関係者は言っている。共同研究チームの現地訪問も、二〇〇二年を最後に長く途絶えた。米国とベネズエラの政治的な関係が悪化し、DNAサンプルの持ち出しに関する正式な取り決めも結べなくなったからだ。ウェクスラーが最後に村を訪ねたのは二〇一二年七月だった。
そのあと、国そのものが崩れていった。二〇二四年時点で、ベネズエラの人口の五分の一を超える七百七十万人が国外に出た。医療と栄養が足りない人が千九百万人いる。ハンチントン病の家族もこの流出から逃れられなかった。二〇二三年にこの地域を訪ねた支援団体の記録によると、マラカイボとバランキータスから毎日四十人から五十人が出て行っている。残されるのは老人と子どもだ。若い世代が消える。
現地で活動している支援団体の報告は生々しい。バランキータスには上水道が通っていない。停電が毎日起きる。電気が戻るたびに人々が「ラ・ルス」、光だ、と叫ぶ。ある女性の家を訪ねたら、家財が何もなかった。ハンチントン病らしき息子二人が、薬のためか生活のためか、家具を売ってしまったらしい。彼女に残されていたのは、紐で編んだ椅子一つ、ハンモック一つ、汚れたマットレス一枚、そして猫。名目上の介護者である息子たちの代わりに、彼女の世話をしているのは近所の人と義理の姉妹だった。
三か月に一度、支援団体が神経内科医と理学療法士を連れて村に入る。二〇二三年九月の記録では、二十七人の患者を診察し、六人の寝たきりの患者には家庭訪問でおむつと栄養補助食品を届けた。バランキータスの住民から十四人がボランティアとして手伝った。ある区域では、その年の十二月から八月までの間に、進行期の患者が十人まとめて亡くなっていた。
象徴的な出来事もあった。支援団体が二〇一八年に日中ケアセンターを建てるために買った村の中心広場わきの土地が、盗まれていた。誰かが勝手に建物を建てていたのだ。団体の代表が村長に掛け合い、村長は調べると約束し、その年の十一月に代替地が確保された。
遺伝子探しの舞台になった村は、いま、そういう場所になっている。
二〇二〇年、追う側だった人が、追われる側だと認めた
二〇二〇年三月十日。ナンシー・ウェクスラー、七十四歳。彼女はアメリカの新聞のインタビューで、自分がハンチントン病を発症していることを初めて公にした。
彼女は何十年もの間、取材のたびに「あなたは検査を受けたのか」と聞かれ続けてきた。そして毎回はぐらかしてきた。これは極めて個人的な決断だから、と言って。実際、彼女は検査を受けないと決めていた。治療に結びつく何かが出てくるまでは受けない、と。
彼女の言葉を読むとわかるが、認めるまでに時間がかかっている。十年ほど前に一度、自分はハンチントン病だと思った、と彼女は言っている。そのあとで、忘れよう、と思った。認めたくないからだ。ビデオに映る自分を見るたびに、少しずつ悪くなっているのがわかった。そのことを考えると涙が出た。この病気を持つという考えは、自分にとって恐ろしいものだから。
最終的に背中を押したのは姉のアリスだった。長い間ハンチントン病の顔として立ってきたのだから、と彼女は言う。だから診断を受けに行った。そして言われた。ええ、ナンシー、あなたは持っています。
夜中に目が覚めて考えると、最悪の気分になる、と彼女は率直に語った。いい気分ではない。今でも考えると息が止まる。今でも泣きたくなる。自分が選んだものじゃない。でもそれが私を選んだ。だったらどうする。
同時にこうも言っている。致死的な病気を持つのは怖いし、それを軽く扱いたくはない。でも、もし私が「人生を止めない、仕事に行く、まだ治療法を探している」と言えるなら、それは誰かの助けになる。この病気につきまとう重荷を少しでも減らせるなら、そうしたい。
そして彼女は今も働いている。研究費の申請書を査読し、資金集めをし、学会に出る。取材の最後に彼女はこう言った。生きられるうちに人生を楽しみなさい。自分に喜びをくれるものを見つけて、それをやりなさい。この病気に人生を誘拐させてはいけない。
母のために治療法を見つけたかった。ベネズエラの人たちのために、今も欲しい。そして自分のためにも欲しい。全部が、自分に間に合ううちに来てほしい。
遺伝子治療は、いま、どこまで来たか
そして二〇二六年の現在地だ。
ユニキュアという企業が開発しているAMT-130という遺伝子治療がある。仕組みは乱暴に言うとこうだ。AAV5というウイルスの殻を運び屋にして、人工的に設計したマイクロRNAを脳に届ける。このマイクロRNAがハンチンチン遺伝子の働きを抑え、悪さをするタンパク質が作られる量を減らす。投与は一度きり。脳外科手術で、MRIで位置を確認しながら、線条体、つまりこの病気で真っ先に壊れる場所に直接注入する。
二〇二五年九月に発表された結果が大きかった。米国と欧州の第一・二相試験で二十九人が投与を受け、そのうち高用量群の十二人が三年間の追跡を終えた。比較対象には、世界最大の自然経過データベースから統計的に条件を揃えて選んだ九百四十人が使われた。三年後の複合評価尺度の変化は、治療群がマイナス〇・三八、対照群がマイナス一・五二。進行が七十五パーセント遅くなっていた。統計的にも有意だった。日常生活の機能を測る指標でも六十パーセントの進行抑制が見られた。神経細胞が壊れると出てくるタンパク質の脳脊髄液中の量も、三年目に八・二パーセント下がっていた。
その後の道のりはかなり荒れた。二〇二五年秋、米国の規制当局が態度を変え、外部対照を使った解析では不十分だと言い出した。株価は三割落ちた。二〇二六年に入ると当局は、偽の手術を対照にした試験をもう一本やれと強く勧告した。関係者の間では最悪のシナリオと呼ばれた。ところが二〇二六年に入って当局の幹部が相次いで辞任すると、方針がまた変わる。二〇二六年六月十七日、当局は三年間のデータを承認申請の主要な根拠として認めると通知した。企業は二〇二六年第三四半期に申請を出すと発表している。確認試験は必要だが、その対照は偽手術ではなく標準治療でよいかもしれない、という話になっている。
もし承認されれば、ハンチントン病に対して初めて、症状を抑えるのではなく進行そのものを遅らせる治療が世に出ることになる。米国、欧州、英国を合わせておよそ七万五千人の患者がいて、その何倍もの人が「リスクを持つ人」として生きている。
ただし、これで終わりではない。効果がどれだけ長持ちするのかはまだわからない。脳に直接ウイルスベクターを入れる治療の長期的な安全性も、これから何十年もかけて見ていくしかない。バイオマーカーの改善が本当に人生の質につながるのかも、まだ答えが出ていない。そして何より、七十五パーセント遅くするというのは、止めるという意味ではない。
もう一つ、どうしても考えてしまうことがある。この治療がもし承認されたとして、値段はどうなるのか。脳外科手術を伴う一回きりの遺伝子治療だ。安いはずがない。そしてこの治療を可能にした血液は、マラカイボ湖の岸辺で、電気も水道もない家から提供されたものだ。ナンシー・ウェクスラーは二〇〇四年の時点でこう言っている。ベネズエラの家族は私たちに多くの贈り物をくれた。世界はどれだけ彼らが与えたかを知るべきだし、将来の治療の恩恵を最初に受けるのが彼らであれば、それがふさわしい。
二十二年経った。まだそうなってはいない。
なぜこの病気は、人を凍りつかせるのか
最後に、この話が持っている独特の冷たさについて考えたい。
怖い病気は他にもいくらでもある。もっと死ぬのが早い病気も、もっと痛い病気もある。それでもハンチントン病の話を聞くと、多くの人が特有の凍りつき方をする。理由はいくつか重なっている。
一つ目は、確率が二分の一だということ。三パーセントでも九十九パーセントでもない。ちょうど半分だ。コインの表と裏。人間の頭は、この確率が一番扱いにくい。四捨五入して忘れることも、諦めて受け入れることもできない。ずっと宙吊りになる。
二つ目は、答えが手の届く場所にあること。検査は存在する。数万円で、ほぼ完全に的中する。つまり「知らないでいる」ことが、自分の選択になってしまう。運命が封筒に入って机の上に置いてあって、開けるかどうかを毎日自分で決めなおさなければならない。開けない人は、開けないという行為を毎日続けている。これは無知とは違う。もっと能動的で、もっと疲れる状態だ。
三つ目は、病気が自分だけのものにならないこと。自分の診断は、そのまま子の確率になり、親の診断にもなりうる。ある人が検査を受けると決めるだけで、家族の中に波が立つ。反対する人、なぜ受けたのかと怒る人、知りたくないと逃げる人。実際、告知をめぐって家族関係が壊れる例は珍しくない。検査を受けたことを親に告げたら親が自分を責めて泣き崩れた、という話も、陰性だったのに兄弟の分の罪悪感で潰れたという話も、繰り返し記録されている。
四つ目は、変わっていくのが体だけじゃないこと。舞踏運動はわかりやすい。だが家族が本当にこたえるのはそこじゃない。怒りっぽくなる。無頓着になる。攻撃的になる。判断力が落ちる。感情が抜け落ちる。つまり、その人が「その人らしさ」を失っていく。しかも本人はそれに気づかない。ジョージ・ハンチントンが一八七二年に、身体所見だけでなく人格の変化と精神症状を書き込んだのは慧眼だった。家族が失うのは、死ぬずっと前から始まっている。
五つ目は、時間の長さ。発症からおおむね十五年から二十年。長い。介護する側は、たいてい同じ遺伝子のリスクを持つ子どもだ。自分がこれからなるかもしれない病気の介護を、十年、二十年やる。鏡を見ながら未来を介護しているようなものだ。バランキータスのケア従事者を撮った記録映像を作った人たちが、その負担を「見えないが不可欠な責任」と呼んだのは的確だと思う。
六つ目。これが一番怪談じみているのだが、この病気が「家に住み着く」感覚を持たせることだ。イーストハンプトンの人たちはこの病気を名前で呼ばず「あの障害」と言った。マラカイボの人たちは「エル・マル」と言った。どちらも、名指しを避けている。名指しを避けるのは、それが呪いのように振る舞うからだ。実際、十九世紀のロングアイランドでは、遠い先祖が十字架上のキリストの苦しみを嘲笑ったせいで一族に呪いが降りかかった、という言い伝えが語られていた。呪いだと思うから隠す。隠すから孤立する。孤立するから、内側で結婚が繰り返される。そしてまた濃くなる。
科学はこの呪いを分子の言葉に翻訳した。CAG、CAG、CAG。三文字が四十回以上。それだけだ。それだけのことで、人が踊り、性格を失い、名前を呼ばれなくなり、村ごと世界から切り離された。翻訳が済んでも、恐怖は消えなかった。翻訳が済んで初めて、恐怖には値段と手続きと選択肢がついた。それが二十世紀後半にこの病気が人類に投げたものだと思う。
一万八千人の家系図の一番上に、空いている穴
改めて全体を見渡すと、この話には「たった一人」が何度も出てくるのが不気味だ。マリア・コンセプシオン・ソトという一人の女性。二十二歳で五ページの論文を書いた一人の町医者。スペイン語でしか書けなかった一人のベネズエラ人医師。母の診断を聞いた日に子どもを持たないと決めた一人の娘。どれも「一人」から始まって、そのあと万単位に広がっていく。遺伝という現象そのものの構造が、この物語の語り口を決めてしまっている。一の分岐が十世代で一万八千になる。逆に言えば、一万八千人の家系図を睨んでいた研究者たちは、二百年前の一人の女性を探して逆算していたことになる。
マラカイボの起源については、実は決着していない。地元では十九世紀にやってきたスペイン人の司祭アントニオ・フスト・ドリアが最初の患者だという言い伝えが語り継がれていて、ネグレッテもそれを記録した。ところがナンシーとアリスのウェクスラー姉妹が現地で出生証明書と死亡証明書を洗いざらい調べたところ、このドリアという人物は見つからなかった。ヨーロッパから来た船乗りの誰かが持ち込んだのだろう、という以上のことは今も言えない。世界で最も詳細に記録された家系図の一番上に、名前のわからない穴が空いている。この穴の存在自体が、この物語の性格をよく表している。分子レベルまで解像度を上げたのに、歴史の入口はいまだに霧の中だ。
そしてこの物語には、もう一つの反復がある。「見えているのに、見ないことにされる」という反復だ。イーストハンプトンの人々は病気に名前を与えなかった。マラカイボの村人はエル・マルと呼んで曖昧にした。優生学者たちは病気を見ずに「劣った血筋」を見た。ヴェッシーは診療記録を読まずに道徳的な物語を読んだ。研究者は村人の同意書を英語で渡した。検査を受けない人は、封筒を毎日見ないことに決めている。そしてナンシー・ウェクスラー自身が、十年前に一度気づいて、忘れることにした。この病気の周りでは、あらゆる立場の人間が、それぞれの理由で目を逸らす。目を逸らすことは弱さじゃない。むしろ人間がまともに機能するために必要な機構なのだと思う。経済学者たちが「人は将来への期待そのものから効用を得ている」と結論したのは、まさにこれを数式に押し込んだものだ。希望は消費財である、というのは冷たい言い方だが、二分の一の確率の下で三十年生きた人にとっては、たぶん一番正確な説明でもある。
倫理の論争についても、もう少し踏み込んでおきたい。ここで対立しているのは「善意」と「悪意」ではなく、二つの善意だ。片方は、治療法がないのに陽性を告げれば人を絶望させるという配慮。もう片方は、知るか知らないかを決める権利を奪うなという原則。前者は目の前の人の苦しみを見ていて、後者は制度としての公正さを見ている。どちらも切実で、どちらも相手を傷つける。生命倫理学者が「知的な植民地主義」という強い言葉を使ったのは、この配慮が北から南へ一方向にしか流れないことへの苛立ちだったのだろう。アメリカやイギリスの患者には検査を受けるかどうかの熟慮と支援の体制が用意されていて、そこでは八割以上が「受けない」を選んでいる。それは尊重されている。ところが同じ選択肢が村には届かなかった。結果として同じ「受けていない」でも、意味がまるで違う。選ばなかったのか、選べなかったのか。ここが決定的だ。倫理の議論というのは、結局のところ、この二つを区別する努力なのかもしれない。
さらに厄介なのは、この論争に時間が絡むことだ。八〇年代の同意書の話を、二〇二六年の基準で裁くのはフェアではない、という反論は成り立つ。当時の国際的な研究倫理の規範は今よりずっと粗く、低中所得国での標本収集に関するガイドラインもまだ整備の途中だった。だが同時に、こうも言える。基準が未整備だったからこそ、当事者が何を理解していたのかという問いは残り続ける。四十年後にサンプルから生まれた治療が承認されようとしている今、その血の出どころに何が返ってきたのかを問うのは、後知恵ではなく現在進行形の問題だ。細胞株は世界中の研究室の冷凍庫に眠っている。研究は続いている。だとしたら還元の義務も続いていると考えるほうが自然だろう。実際に今、現地で三か月に一度の巡回診療をやっているのは、政府でも大学でもなく、いくつかの小さな非営利団体だ。神経内科医は国を出た。検査をやっていた人も国を出た。残ったのは、おむつと栄養補助食品と、名前を覚えている隣人たちだ。
科学の側の話も、まだ整理し足りない。二〇〇四年にウェクスラーらが示した「発症年齢のばらつきの六割は環境要因」という結果は、この病気の性格を根本から変えた。それまでハンチントン病は、遺伝子決定論のもっともわかりやすい教材だった。CAGの回数を数えれば運命が読める、という説明は高校の教科書にも載る。だが実際は、同じ回数を持つ人が十年以上ずれて発症する。何かが効いている。それが何かはまだ完全にはわかっていないが、他の遺伝子による修飾と、生活環境の両方が関与しているらしい。DNA修復に関わる一群の遺伝子が、体細胞の中でCAG繰り返しをさらに伸ばす速度を左右しているのではないか、という方向の研究も進んでいる。ここが面白いところで、もし発症年齢が操作できる変数なら、この病気は「いつか必ず来る運命」から「どこまで遠ざけられるかという勝負」に性質を変える。ウェクスラーが百十歳という数字を出したのは比喩ではなく、戦略の宣言だったのだと思う。寿命の外側まで押し出せば、遺伝子を持っていても発症しない。それは治癒とは違うけれど、当事者にとっては同じくらいの意味を持つ。
ではAMT-130の登場で全部が解決するかというと、そんなに単純ではない。二〇二六年六月の規制当局の方針転換は、科学的な新事実によって起きたものではない。三年間のデータは二〇二五年九月にはもう出ていた。変わったのは規制当局の人事だ。この事実は、患者にとっては幸運だが、制度としては落ち着かない。承認の基準が人によって揺れるなら、次の薬のときにまた逆に振れる可能性がある。外部対照を使った解析を認めるかどうかは、希少疾患の治療開発全体に関わる大問題で、統計的な厳密さと患者の待てなさが正面からぶつかる領域だ。偽手術を対照にした試験というのは、脳に穴を開けるふりをして何もしない群を作るということで、これを希少疾患の患者に求めるのが妥当かという議論には、簡単な答えがない。どちらの側にも、譲れば人が死ぬ、という感覚がある。
個人的に一番引っかかっているのは、この物語の中で「踊る」という比喩がずっと生き残っていることだ。コレアという言葉はギリシャ語の踊りに由来する。中世の聖ヴィトゥスの舞踏。マラカイボのサン・ビテロス。ジョージ・ハンチントンが名前をつけた舞踏病。二十世紀に入って、不随意運動は症状の一つにすぎず誤解を招くという理由で、海外では八〇年代から、日本では二〇〇一年から「ハンチントン病」に呼び名が改められた。それは正しい変更だった。だが、この病気を最初に見た人間が全員「踊っている」と表現したという事実は消えない。人間の目は、制御を失った他人の体を見たときに、まずリズムを探してしまう。そこに音楽があるはずだと思ってしまう。ないのに。この誤読が、悪魔憑きの物語も、魔女裁判の推測も、村の呼び名も、病名そのものも作った。私たちが何かを恐れるとき、恐怖は必ず何らかの物語の形をとって現れる。呪い、悪魔、汚れた血筋、遺伝子。形は時代ごとに変わったが、中身は同じものだった。
最後にもう一度、選択の話に戻る。ここに出てきた人たちの選び方は、全員ばらばらだった。十年迷って受けた人。四十六歳まで待って受けた人。生涯受けないと決めた人。受けないと決めていたのに、症状が出てから確定させに行った人。着床前診断で子どもに渡さない道を選んだ人。自分の結果は知らないまま、子どもだけを守る方法を選んだ人。そして、告げられた後に大学に行き直した人。世界一周を自転車で走った人。誰も正解を持っていないし、誰も間違っていない。二分の一の下でどう生きるかという問いに、外部から採点する権利は誰にもない。
ナンシー・ウェクスラーが最後に言った言葉が、たぶんこの話全体の締めくくりとして一番いい。生きられるうちに人生を楽しみなさい。喜びをくれるものを見つけて、それをやりなさい。この病気に人生を誘拐させてはいけない。彼女はそう言ったあとも、査読を続け、金を集め、学会に出続けている。追う側だった人が追われる側になってなお、机の前に座っている。その姿が、この百五十四年の物語の中で、たぶん一番強い場面だ。
