四月四日、午前四時四十四分
数字が「四」で埋め尽くされる、その一点の時刻。誰もいない学校のコンピューター室。並んだ机の上で、モニターはどれも黒く眠っている。
そこへ子どもがひとり忍び込む。いちばん端の一台だけ、そっと電源ボタンを押す。ファンが低く唸り、画面が白く一度だけ瞬く。見慣れた起動ロゴが出る。出るはずだった。
浮かび上がったのは、老女の顔だった。
白髪を振り乱し、黄ばんだ歯を剥き出しにしている。皺に埋もれた眼が、モニターのこちら側をまっすぐ睨んでいる。逃げようと椅子を蹴っても、扉は開かない。電源ボタンを何度叩いても消えない。それどころか顔はぐんぐん近づき、画面いっぱいに広がって、裂けるほど口を開けて叫ぶ。
「インストール!」
次の瞬間、平らなはずのモニターの表面から、皺だらけの手がぬうっと突き出てくる。肩を掴まれた者は画面の向こうへ引きずり込まれ、二度と戻らない。AIババアは人間を、ハードディスクにではなく、あの世へインストールしてしまうのだ。
だから四月四日の明け方だけは、学校のコンピューター室に近づいてはいけない。子どもたちはそう囁き合う。
この「AI」、ChatGPTとは何の関係もない
名前の響きから、多くの人はこれを生成AI時代の新作だと思い込む。まあ、落ち着いて聞いてほしい。それが大きな勘違いなんだよな。
AIババアが活字で確認できるのは2018年。民俗研究者・朝里樹が編んだ大著『日本現代怪異事典』(笠間書院)に、戦後から現代までの妖怪譚1092項目のひとつとして収録されたのが、いまのところ最古の記録だ。同じ年に女性誌『女性自身』のウェブ版でも「4月4日午前4時44分に現れる『AIババア』」として紹介され、一般の読者の目に触れている。
2018年といえば、現在の生成AIブームのはるか手前である。つまりこの「AI」は、対話型AIとも大規模言語モデルとも縁がない。物語の技術感覚はむしろ、パソコン教室の起動画面、フロッピーやCD-ROM、そして「インストール」という操作のほうに近い。1990年代以降、学校に情報教育が入ってきた頃の空気だ。中身の見えない不気味な箱、それがコンピューターだった時代の産物なのである。
そして2024年、この古い怪異が思わぬ再ブレイクを果たす。オカルト雑誌「ムー」のウェブ版が「老婆型妖怪・怪異の現在史」という記事で、AIババアを「四時ババア」たち「ババア系」学校怪談のデジタル版として取り上げたのだ。記事の筆者のコメントが的確すぎる。
「AIと名に冠してはいるが、やることはかなり古典的だ」
その通りである。近未来的な名前をまといながら、中身は「決まった時刻に現れ、油断した人間を異界へ連れ去る老婆」。日本の怪談がえんえん繰り返してきた最古典のパターンそのものだ。名前だけが新しく、中身はどこまでも古い。この落差が、AIババアの妙な味わいになっている。
ババアたちは、学校中にいる
細部は語り手によって揺れる。代表的なのは「四月四日」かつ「午前四時四十四分」という、日付も時刻も四で固める型。だが日付を問わず、単に「午前四時四十四分」に現れるとする、もっと汎用的な版もある。
捕まえ方も一定しない。モニターから手だけが伸びてくる版。老婆自身が画面から這い出てくる版。掴まれもせず、勝手に吸い込まれてしまう版。「あの世へインストールする」という決め台詞だけは共通しているのに、その先の実行方法は語り継ぐ子どもの想像力任せで、少しずつ形を変えていく。
「AI」を「アーティフィシャル・インテリジェンス(人工知能)の略だよ」ともっともらしく解説する再話もある。かと思えば、由来をまったく語らない版も多い。名前の意味すら共有されないまま、響きの不気味さだけが独り歩きしているわけだ。
ここで押さえておきたいのが、AIババアが単独の怪異ではないという点である。彼女は「四時四十四分に現れる老婆」という巨大な怪異群の一員なのだ。
学校のトイレや鏡に現れる「四時ババア」。次元の裂け目から来るという「四次元ババア」。全国の学校で語られる「ヨジババ(四時婆)」。さらに色を冠した「紫ババア」「赤ばばあ」といった色ババア群まで数えれば、日本の学校には時刻と色と老婆を組み合わせた膨大なバリエーションが息づいている。
AIババアは、この根深いババア怪談の系譜が、コンピューター室という新しい舞台を得て変異した最新型の分枝だ。しかも子どもたちは、これらを厳密に区別しない。「四時のトイレのババア」と「四時のパソコンのババア」は、彼らの語りの中でしょっちゅう混じり合い、影響を与え合いながら増えていく。
教室で実際に語られてきたこと
放課後のパソコン室で聞いた話。ある人物は、小学生のとき掃除当番でパソコン室に残っていて、上級生に脅されたのを覚えているという。「この部屋、四月四日の朝はヤバいんだぞ」。理由を聞くと、去年の四月、早く登校しすぎた男子が誰もいないパソコン室を覗いたら、一台だけ画面がついていて、そこに皺だらけの婆さんの顔が映っていた。その子はその後、転校していなくなった――という「証拠」までセットだった。
もちろん転校の理由なんて誰も知らない。だが「いなくなった同級生」というディテールが加わった瞬間、話は本物の重みを持ちはじめる。学校怪談は毎年、こうやって証拠ごと新入生に受け継がれていく。
起動画面がバグった、という体験もある。別の人物は、授業中に自分のパソコンだけ起動がやたら遅く、真っ黒な画面のまま数十秒フリーズしたことがあったと語る。周りの席の友達が「AIババア来るぞ」と囃し立て、教室が半分パニック、半分お祭り騒ぎになった。結局ただの読み込み遅延だったのだが、この「機械の不調」と「怪異」が地続きになる感覚こそ、AIババアのリアリティの源なんだよな。
勝手にフリーズし、勝手に再起動する箱の内側は、子どもにとっていつだって「何かがいてもおかしくない」暗闇だ。
そして、四時四十四分に目が覚めた、という話。これはパソコン室に限らずババア系全般に共通する体験談だが、「なぜか毎晩、四時四十四分きっかりに目が覚める時期があった」という語りは驚くほど多い。時計を見た瞬間、ぞっとして布団をかぶる。四という数字が持つ禁忌の力を、身体で体験してしまう瞬間だ。AIババアの怪談は、この時刻に社会が刷り込んできた不吉さを、まるごと借りている。
「インストール」という言葉の裏返り方
現代怪異を追う人たちがまず指摘するのが、「四=死」という古典的な言葉遊びの過剰な反復だ。四月、四日、四時、四十四分。これでもかと積み上げられることで、その時刻はただの時刻ではなく、死へいちばん近づく儀式の刻に変わる。
そこへ重ねられたのが、子どもには中身の見えないコンピューターという装置だった。「インストール」は本来、ソフトウェアを機械に取り込むだけの、ごくありふれた操作である。ところがこの怪談では、その操作がひっくり返る。取り込まれるのは人間で、取り込まれる先はあの世だ。日常の技術用語が、そのまま処刑の呪文に化ける。見慣れた言葉の意味が裏返るこの瞬間に、AIババアの発明がある。
もうひとつ、考察者が気にするのは舞台の移動だ。かつて学校の怪異は、トイレ、階段の踊り場、音楽室、理科室といった古い設備に棲んでいた。ところがAIババアは、当時いちばん新しかったコンピューター室に現れる。ここに学校怪談の法則が透けて見える。新しい設備が学校に入るたび、そこには必ず「触れてはいけない時間」と「勝手に動く画面」の物語が生えてくるのだ。
砂かけ婆が現代のIT環境に適応したように、妖怪は滅びず、器を乗り換えて生き延びる。AIババアは、その妖怪アップデートの教科書みたいな実例である。生成AIが日常に溶け込んだ今、いずれ「スマートスピーカーから聞こえる声」や「AIチャットの向こうの誰か」を題材にした次世代のババアが出てくる。そう予言する考察者も少なくない。
それでも、あの画面を想像すると背筋が冷える
念のため、事実の側にも触れておく。AIババアによる失踪や死亡を裏づける公的記録は、当然ながら一切ない。四時四十四分に特別な物理現象が起きるわけでもない。名前の「AI」も、繰り返しになるが現代の生成AIとは無関係な後付けだ。
この怪談を支えているのは、超常的な事実ではない。「四=死」という言葉の呪力。内部の見えない箱への漠然とした不安。そして「ババア=人を連れ去る老婆」という、日本の怪談が数百年かけて育ててきた最古層の型。この三つ、どれも徹底して文化的な部品である。
現実に、誰もいないはずの画面へ見知らぬ顔が突然出たなら、疑うべきは霊ではない。マルウェア、いたずら、遠隔操作。そのあたりが先に来る。
だが、そういう合理的な説明を全部差し引いてもなお、四月四日の明け方、暗いコンピューター室で一台だけ光る画面を想像すると、背筋にひやりと来るものがある。そのひやりこそが、名前を新しくしながら決して死なない学校怪談の、しぶとい生命力の証だ。
