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ドッペルゲンガー伝説 ── 自分自身の姿を見た者は死ぬという、洋の東西を超えた言い伝え

もう一人の自分と、道ですれ違う

街を歩いていて、前方に自分とまったく同じ人物を見かけたとする。同じ服装、同じ髪型、同じ歩き方。多くの人はまず、そっくりさんだなと笑って済ませるだろう。

だが世界中の言い伝えの中には、それを笑って済ませてはいけない瞬間がある。

ドイツ語で二重に歩く者を意味する言葉が、ドッペルゲンガーだ。この名のもとに括られる現象は、驚くほど似通った形で語り継がれてきた。自分自身の姿をした分身と遭遇した者は、遠からず死を迎える。あるいは深刻な不幸に見舞われる。洋の東西を問わず、そういう話になっている。

日本のオカルト系まとめサイトや個人ブログ、百科事典的な考察記事、動画のコメント欄。このテーマはあらゆる場所で繰り返し取り上げられてきた。息の長さでは、並みの都市伝説をはるかに凌駕している。

定番の筋書きを、頭からたどる

もっとも典型的な形を、時系列に沿って再構成してみよう。主人公は地方都市に暮らす、ごく平凡な会社員という設定で語られることが多い。

ある日の帰宅途中、いつも通る商店街のアーケードの向こうから、人が歩いてくる。自分とまったく同じ服装だ。今日と同じ服を着ている人がいるものだな。最初はその程度の軽い驚きで済ませていた。

ところが、すれ違いざまに相手の顔を見て総毛立つ。それは紛れもなく、自分自身の顔だった。

動揺した主人公はその夜、なかなか寝付けない。そこへ実家の母親から電話がかかってくる。今日、あなた、うちの前を通ったでしょう。手を振ったのに、無視して行っちゃったんだもの。母親は少し拗ねたように言う。

だが主人公はその日、実家の近くには一歩も近寄っていない。恐怖にかられて友人にこの話をすると、友人は青ざめた顔で告げる。それ、もう手遅れかもしれない、と。

友人いわく、自分そっくりの姿をした「もう一人」に、自分以外の誰かが遭遇してしまった。その時点で、もう逃れる術はないのだという。

結末は語り手によって様々だ。もっとも定番なのは、それから間もなく主人公が原因不明の体調不良に見舞われるパターンである。病院で検査を受けても異常は見つからない。そしてある晩、鏡の中の自分と目が合った瞬間に意識を失い、そのまま帰らぬ人となる。

別の結末もある。主人公自身は無事に生き延びるが、目撃した「もう一人の自分」がその後どこにも現れなくなる。代わりに主人公の身の回りで、まるで別人格が入れ替わったかのような、説明のつかない生活の乱れが起き始める。こちらは後味の悪さで勝負するタイプだ。

この言葉は、どこから来たのか

ドッペルゲンガーという語そのものは、18世紀末のドイツの作家ジャン・パウルが小説の中で用いたことで広く知られるようになったとされる。

生き写しの分身と遭遇することが死や不幸の前兆である。この観念自体は、ドイツ語圏の民間伝承や文学の中で長く語り継がれてきた。それがヨーロッパ各地の民話や怪奇文学と結びつきながら発展していく。19世紀のロマン主義文学やゴシック小説で「分身」というモチーフが繰り返し取り上げられる素地が、こうして整った。

芥川龍之介が怯えていたもの

日本でこのテーマが決定的に有名になった契機のひとつが、大正期の文豪・芥川龍之介にまつわる逸話だ。

芥川は晩年の遺稿とされる『歯車』の中で、分身をめぐる不安に触れている。生前には帝劇や銀座で自分自身の姿をした人物を目撃したと、座談の場で語っていたとも伝えられる。

彼が意識していたとされるのが、江戸時代の随筆に記された「影の病」だ。自分自身の姿を見てしまうという怪異である。分身を目撃した者は遠からず死ぬ。芥川はその言い伝えに、強く怯えていたらしい。

そしてこの体験を語ったとされる時期から程なくして、芥川は自ら命を絶っている。

この事実が、日本国内でこの言い伝えに強烈な説得力を与える結果になった。以来、芥川のエピソードはこのテーマを扱うほぼすべての記事や動画で、必ずと言っていいほど引用される定番になっている。

江戸期の日本にも、分身と遭遇する怪異を記録した文献がいくつか確認できる。奥州の武士・北勇治にまつわる逸話を収めたとされる随筆『奥州波奈志』には、まさにこの「影の病」が記されている。

『曾呂利物語』にも似た記述がある。こちらは「離魂と云ふ病ひ」として、魂が身体から離れ、もう一人の自分として振る舞う怪異が記録されている。

つまり、西洋のドッペルゲンガーという言葉が輸入されるはるか以前から、日本には「自分自身を見る恐怖」というテーマが存在していたわけだ。都市伝説の考察サイトでも、この点はよく引用されている。

ゲーテ、モーパッサン、エカテリーナ2世

この伝説は日本国内にとどまらず、世界各国の著名人の逸話として語り継がれてきた。

ドイツの文豪ゲーテは、若き日に恋人のもとを訪ねた帰り道で体験したという。乗馬姿で、反対方向から自分自身とうり二つの人物とすれ違ったのだ。自伝の中で語られている話である。

面白いのはここからだ。それから数年後、まったく同じ道を、まったく同じ乗馬姿で通りかかったとき、ゲーテは気づく。かつて目撃した「もう一人の自分」の姿と、その瞬間の自分の姿がぴたりと一致していたのである。

この逸話から、通常の死の前兆説とは違う解釈が生まれた。ドッペルゲンガーは過去の記憶ではなく、未来の自分の姿を先取りして見せる現象ではないか。考察系サイトが好んで取り上げる切り口だ。

フランスの作家モーパッサンの逸話も広く知られている。執筆中の書斎に自分自身とそっくりの人物が現れ、その分身が口述するかのように物語の続きを語って聞かせた、というものだ。この経験が怪奇小説の傑作の着想源になったと語られている。

モーパッサン自身は晩年に精神を病んで施設に収容され、比較的若くして世を去った。この経歴が、見た者はやがて心身を病んで死に至るという悲劇的な色合いを、伝説に一層強く与えている。

ロシアの女帝エカテリーナ2世にも逸話がある。自身の玉座の間で、玉座に座っている自分自身の姿を目撃したというのだ。従者たちが発砲までして分身を排除しようとしたが、結局その場から姿は消えた。女帝自身はその後まもなく体調を崩して世を去ったとされる。

アメリカ大統領リンカーンについても、暗殺される前に自分自身の姿を鏡の中に二重写しに見たという話が伝わる。暗殺という現実の悲劇と結びつくことで、この言い伝えに強い説得力を与える事例として扱われている。

「どっぺちゃん」と「こいとさん」

現代日本の学校怪談の文脈では、どっぺちゃんと呼ばれる派生が語られている。

1990年代半ば、ある小学校で一人の少女が校舎内の離れた二箇所で同時に目撃された。それを聞いた友人が言う。それはどっぺちゃんに違いない、本人がどっぺちゃんと出会っていたら死んでしまうところだった、と。

このやや可愛らしい呼び名がミソだ。恐怖の対象でありながら、どこか親しみやすいキャラクターのような印象を与える。花子さんやカシマさんといった、他の学校怪談のキャラクター化現象と同じ構造を持っている。

もう一つ、近年のネット怪談には「こいとさん」がいる。この存在は人生において二度だけ姿を現すとされる。一度目は何気ない日常の中で。そして二度目に遭遇したとき、その人物は死を迎える。

恐ろしいのは外見の設定だ。こいとさんの姿は、本人が死ぬ瞬間の姿を先取りして表しているという。いわば未来の死の光景を、先に見せられるわけである。

この派生には独自の前兆まで付いている。財布から五円玉が消える。二ヶ月以内に飼っているペットが死ぬ。左手の薬指に針で突いたような小さな穴が空いて血がにじむ。この三つだ。

どれも身近で、日常の中でふと気づいてしまいそうな些細な出来事ばかりだ。そこがこの怪談の怖さを増幅させている。回避法は、できるだけ一人にならないようにする程度しか語られていない。根本的な対処法が存在しないという絶望感も、この手の都市伝説らしいところだ。

世界中にある「もう一人」の伝承

ドッペルゲンガーに類する伝承は、ヨーロッパに限らない。

スコットランドやアイルランドの民間伝承には「フェッチ」がいる。その人の死の直前に現れる、生き写しの姿だ。北欧には「ヴァルドガー」と呼ばれる同様の存在の伝承がある。

日本国内でも、生きている人間の魂が身体を離れて別の場所に姿を現す「生き霊」の伝承が古くから各地にある。文化や時代を超えて、独立に、しかし驚くほど似た形で発生してきたテーマなのだ。

温泉宿のベンチと、遅れて動く反射像

ネット上で語られてきた体験談も見ておこう。

ある投稿者は、大学時代に友人数名と旅行に出かけた際の話を語っている。旅先の温泉宿で、部屋の窓から庭園を見ていた。庭園のベンチに人が座っている。その人物がこちらを振り向いた瞬間、自分自身の顔をしていることに気づき、悲鳴を上げて友人を呼んだ。

友人が駆けつけたとき、すでにその姿はなかった。宿の従業員に確認しても、該当する宿泊客はいないと言われる。投稿者は旅行から帰った直後、原因不明の高熱で一週間ほど寝込んだ。あれが自分の分身だったとしか思えない、と振り返っている。

別の体験談は夜勤明けの看護師のものだ。病院の廊下の突き当たりにある窓ガラスに、自分自身の姿が反射している。ところがその反射像だけが、自分よりわずかに遅れて動いていた。

慌てて窓に駆け寄って確認すると、反射像は普通に自分と同じ動きに戻っている。あの数秒のズレは絶対に錯覚ではなかった。投稿者はそう主張している。その後、周辺で特に大きな不幸は起きていないというが、いつか本当に分身と出会ってしまうのではないかという不安が今も拭えないそうだ。

さらに別の語りもある。SNS上に、昨日、実家の母から「さっき家の前を通ったでしょう」と言われたという投稿が上がった。投稿者はその時間、別の県にいて絶対に実家の前を通っていない。

この投稿は多くの反応を集めた。コメント欄には、それドッペルゲンガーの前兆だから気をつけて、家族に目撃された時点でアウトという話を聞いたことがある、といった反応が相次いだ。投稿から数日のうちに一種のミニバズを起こした、という顛末がまとめサイトで紹介されている。

掲示板が真っ二つに割れる理由

オカルト板や心霊系まとめサイトでは、ドッペルゲンガーを見たというスレッドが定期的に立てられる。そのたびに、既視感の一種では、似ている他人と勘違いしているだけだろう、という冷静な指摘が入る。そこへ、いや自分も似たような経験がある、という体験談が投稿されて盛り上がる。

面白いのは、医学的・脳科学的な説明を紹介する記事も多いことだ。側頭頭頂接合部と呼ばれる脳の部位の異常が、自己像幻視と呼ばれる症状を引き起こす。自分自身の姿を幻視してしまう現象である。脳腫瘍などの疾患がこの症状を引き起こす場合があるという医学的な報告も、一部で紹介されている。

オカルト的な解釈と医学的な解釈が並行して語られる。都市伝説としては、やや珍しいバランスだ。

動画の都市伝説解説チャンネルでは、芥川、ゲーテ、モーパッサンといった文豪たちのエピソードを軸に構成したものが特に人気を集めている。コメント欄には、文豪たちが揃って似た体験をしているのが逆に怖い、単なる偶然にしては出来すぎている、といった反応が多い。

創作の世界でも、この言葉は分身やクローンといったモチーフの元ネタとして頻繁に参照されている。本体と分身が出会うと片方が消滅する。漫画やアニメでおなじみのあのルールの起源のひとつが、ここにある。

なぜ、人は自分を見るのが怖いのか

医学や心理学の側からも、説明は試みられてきた。

極度の疲労やストレス、睡眠不足。あるいは脳の特定部位の機能異常。特に自己の身体感覚や視覚情報の統合に関わる側頭頭頂接合部が関係するとされる。ここが乱れると、自分自身の姿を幻視する自己像幻視という症状が現れる。

もっと単純に、よく似た他人を見間違えただけというケースもあるだろう。記憶の混乱によって、見たはずのない場所で見たという既視感が生じることもある。

それでも引っかかるのは、実在の著名人たちが揃って自分自身の姿を目撃した逸話を残していることだ。しかもその多くが、晩年の不幸や早世と結びつけて語られている。偶然の一致で片付けるには、あまりに符合しすぎている。

もちろん、著名人だからこそ逸話が記録され広く知られた、という事情はあるだろう。後から都市伝説的な解釈で脚色されて伝わっている可能性も十分にある。

それでも、洋の東西を問わず、時代を超えて似た発想が独立に発生してきた。この事実そのものは残る。自分がたった一人しか存在しないという前提が崩れることへの恐怖。人間が古来抱き続けてきた、その根源的な不安の反映なのかもしれない。

ドッペルゲンガー伝説が今なお色褪せない理由も、そこにある。異国の作り話としてではなく、誰の身にも起こりうるかもしれない。その拭いきれない不安と、地続きだからだ。

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