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エヴァンゲリオン「幻の最終回」封印エピソード都市伝説を検証する――抽象的な25話・26話はなぜ生まれたのか

テレビの前で正座していた全国の視聴者を待っていたもの

1996年3月、『新世紀エヴァンゲリオン』はまだロボットアニメの顔をしていた。第24話「最後のシ者」で渚カヲルが死ぬ。あの展開まで、視聴者もスポンサーの玩具メーカーも信じて疑わなかった。次はいよいよエヴァ対使徒の最終決戦だ、と。ところが放送された第25話「終わる世界」は、まるで違う画面だった。線画のラフ。フィルムのコマ落とし。暗闇の中でシンジがひたすら自問自答する独白。実写の観客席のカット。

誰もが我が目を疑ったらしい。「これは総集編か、放送事故なのか」と。

翌週の第26話「世界の中心でアイを叫んだけもの」に至っては、それまで積み上げてきた戦闘もSF設定も全部無視した。最後は「おめでとう」の合唱と拍手喝采で幕を閉じる。あまりに抽象的すぎる最終回だ。これを前にして、当時のファンの間で自然と語られ始めた噂がある。「本当はもっと具体的な、使徒との最終決戦を描いた25話・26話の絵コンテが存在していた」というやつだ。

「そこでは登場人物のほとんどが死ぬ、あるいはシンジ以外の全人類が死ぬラストだった」。「あまりに救いがなく、庵野秀明監督自身が精神的に耐えられなくなって差し替えた」。これが噂の基本形だ。都市伝説の中では、この「幻の絵コンテ」はガイナックス社内のロッカーか金庫にしまわれていたとされる。一部のスタッフしか見ることを許されなかった、とも。

後年これが極秘裏に流出し、同人誌即売会や一部のアニメ雑誌の版元に持ち込まれた。だが著作権と内容の過激さゆえにお蔵入りになった――という尾ひれまでついて回っている。ここまで来ると、もう立派な都市伝説だ。

この噂、いったいどこから生まれたのか

たどっていくと面白い。単一の投稿がきっかけというより、複数の要素が同時多発的に絡み合って一つの「定番ネタ」に育っていった経緯が見えてくるのだ。まず土台になっているのは、放送当時のアニメ雑誌『アニメージュ』や『ニュータイプ』でのインタビューだ。庵野監督は「絵コンテがアフレコの後にできた」「スケジュールがどうにもならなかった」という趣旨の発言を何度もしている。

これが額面通りに「本来の話数が存在した」という解釈を生む土壌になったわけだ。

次に大きかったのが、1997年公開の劇場版『THE END OF EVANGELION』。人類補完計画が強行され、多くの登場人物が命を落とす凄惨な展開だ。テレビ版の静けさとあまりに対照的だった。だから「ああ、これこそが本当は25話・26話で描かれるはずだった内容なのだ」という解釈が、ファンの間で自然に生まれてしまった。パソコン通信の会議室やニフティサーブのSFフォーラム、初期のテキストサイト。

そして2000年代に入ってからは2ちゃんねるのアニメ・特撮板やオカルト板の「アニメ 封印されたエピソード」スレッド。こうした場所で、断片情報が繰り返しコピペされていく。次第に「幻の最終回シナリオが存在した」という、一つの完成された物語として固定化していったんだ。

こういうスレッドで語られる話には型がある。大抵「知り合いのアニメーターから聞いた話だが」「昔読んだ雑誌のインタビューにこう書いてあった」という体裁を取る。原典を確認できないまま伝聞が伝聞を呼ぶ構造になっているのが特徴だ。後年のオカルトまとめブログや「アニメ封印エピソード大全」系のサイトも一役買った。

こうした匿名書き込みを裏取りなしにまとめて再掲載したことで、都市伝説としての体裁がさらに強化されてしまった。

「全員死亡説」から「ゲンドウとユイの再会説」まで、バリエーションの数々

この都市伝説には無数のバリエーションが存在する。もっとも広く流布しているのは「全キャラクター死亡説」だ。シンジ、アスカ、レイ、ミサト、リツコ、加持リョウジ。主要人物が使徒との最終決戦でことごとく命を落とす。最後にシンジだけが廃墟と化した第3新東京市に一人取り残される。そういう結末だったとされる。

別の系統には「シンジ発狂説」がある。人類補完計画の真相を知った衝撃でシンジが完全に精神崩壊する。エヴァに乗ったまま二度と目覚めない植物状態になる。救いのない結末だ。さらにマニアックな派生としては「ゲンドウとユイの再会エンド説」がある。碇ゲンドウが人類補完計画によって死んだ妻ユイと融合する。シンジたちを置き去りにしたまま宇宙の彼方へ消えていく。

家族の断絶をより強調したバージョンで、これは一部のオカルト系掲示板で語り継がれてきた。

もう一つ興味深いのが「打ち切り説」との混同バージョンだ。「本当は全50話近くの構想があったが、視聴率不振でテレビ東京から打ち切りを通告され、慌てて25話・26話にすべてを詰め込んだ」。制作サイドの内部事情をより陰謀論的に語り直したもので、こちらも根強く残っている。ただ、これらの派生はいずれも裏付けを持たない。庵野監督や制作スタッフの公式発言にも、ムック本の後年の解説記事にも出てこない。

あくまで噂は噂なんだよな。

「先輩が見たらしい」から始まった思い出語り

放送当時、地方都市の中学生としてリアルタイムで最終回を見ていたという投稿者がいる。後年のインターネット上の思い出語りスレッドで、こう振り返っている。「1996年3月、友達の家に集まって最終回を見た。みんな最終決戦を期待してテレビの前に正座していたのに、画面には線画のラフとテロップだけが流れて、誰も何も喋れなかった」。

「友達の兄貴が『これ、本当は違う話があったらしいぞ、うちの高校の先輩がアニメ雑誌の編集部でバイトしてて、幻の絵コンテを見たことがあるって言ってた』と言い出して、その日から俺たちの間では『幻の最終回』が本当にあるものとしてずっと語り継がれていた」。

1990年代後半にアニメ専門店でアルバイトをしていたという別の体験談もある。「常連の客から『裏ルートで出回っている幻の台本のコピーを見せてもらったことがある』という話を聞かされた」。「内容を尋ねると『詳しくは言えないが、とにかく救いがない終わり方だった』とだけ返された」。「今思えば眉唾だったのだろうが、当時は妙な説得力があった」。さらに2000年代のオカルト系掲示板には、こんな投稿もある。

「祖父がガイナックスの下請けスタジオに知人がいて、実際にボツになった原画の束を目撃したと聞いた」。だけど、これもいずれも又聞きの域を出ない。裏付けとなる現物や証言者本人の名前が明かされたことは一度もないのだ。こうした「又聞きの又聞き」が積み重なっていく。都市伝説としての実在感だけが際限なく膨張していった。これがこのエピソードの一番おもしろいところだと思う。

ファンコミュニティは「面白いけど眉唾」で落ち着いている

エヴァンゲリオンファンのコミュニティでは、この都市伝説はしばしば「面白いが眉唾」という位置づけで扱われてきた。5ちゃんねるのアニメ板やオカルト板の過去ログには、「幻の最終回スレ」的な議論が定期的に立つ。その都度、反論が出て議論が紛糾する。「岡田斗司夫が言ってた『間に合わなかったんじゃなくて庵野が最初から狙ってた説』の方が信憑性が高いだろ」。この構図がずっと繰り返されてきた。

一方でTwitter(現X)やニコニコ動画のコメント文化圏では、「幻の最終回」という言葉自体がある種のミームとして扱われている。考察系YouTuberの動画も多い。「都市伝説としては面白いが、実際には劇場版という形で結末は提示されている」。そういう結論に落ち着くパターンだ。ニコニコ大百科やアニヲタWikiのような集合知型サイトの記事にも、注記が必ず添えられている。

「未確認の噂」「公式の裏付けなし」というやつだ。考察勢の関心は、都市伝説そのものよりも別のところに移っている。「なぜこの噂が生まれ、なぜこれほど長く語り継がれたのか」。この現象そのものの分析だ。

噂に妙なリアリティを与え続けた、実在の周辺事情

この都市伝説の背景には、実在するいくつもの周辺事情がある。まず放送終了直後、庵野監督のもとには一部の熱心なファンから抗議や批判の声が殺到した。これは広く知られている。「あまりに衝撃的な結末を作ったせいで監督が精神的に追い詰められた」。こういう都市伝説的解釈をより補強する材料になったわけだ。また『THE END OF EVANGELION』のキャッチコピーも強烈だった。「げんきでいてね」「気持ち悪い」。

公開時のポスタービジュアルの生々しさもすごかった。当時のファンにこんな想像をかき立てるには十分すぎるインパクトだった。「ここまでやるなら、テレビ版でもっと過激な結末が用意されていたはずだ」。

さらに気になる事実がある。庵野監督は後年『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(2021年)まで四半世紀近くにわたって「エヴァの結末」を作り直し続けた。この事実そのものが皮肉だ。「最初の結末は本当の結末ではなかったのではないか」。この都市伝説的な直感に、一定のリアリティを与え続けてしまっている。庵野監督が敬愛する特撮作品や実相寺昭雄監督の演出手法。

制作会社タツノコプロ出身のスタッフたちが持ち込んだ実験的な映像文法。実在する影響源の数々もまた、都市伝説的想像力を刺激し続けている一因だろう。「あの表現には何か特別な、隠された意図があったに違いない」と。

結局、「幻の最終回」はどこにあったのか

『新世紀エヴァンゲリオン』は1995年10月4日から1996年3月27日にかけてテレビ東京系列で放送された。第24話まではロボットアニメとしての体裁を保っていた。だが最終2話は一転する。主人公・碇シンジの内面を静止画やコラージュ、テロップの多用によって表現する。実質的な「精神分析劇」になったわけだ。声優の緒方恵美は後年のイベントで証言している。

アフレコ時点では絵コンテすらなく「タイムコードもなかった」「何がなんだか分からない」状態だったと。庵野監督自身も認めている。「シナリオが上がったのが前日、絵コンテはアフレコの後に作った」。放送直前まで制作が逼迫していたのは紛れもない事実だ。

ただ、この「間に合わなかった」という説明を額面通りに受け取るべきではない、という見方も根強い。当時ガイナックスでプロデューサーを務めた岡田斗司夫は、自身のブログでこう述べている。「あの終わり方は最初から庵野と山賀博之が狙っていたもの」だと。「間に合わなかった」という説明は、取材に飽きた二人が半ば冗談で口にしたものが独り歩きした結果だ、とも。

庵野監督自身も1996年のアニメージュ誌の対談でこう語っている。「商売っけも全部捨てて、自分の正直な気持ちをフィルムに焼き付けたかった」。単純な制作事故ではない。意図的な表現選択という側面が強いのだ。

ここで大事な点がある。「もう一つの明確な結末」が別に存在し、それが「封印された」という都市伝説の核心部分だ。ここには公式・関係者証言のいずれにも裏付けがない。庵野監督は2014年のインタビューでこう述べている。「劇場版は2種類作らせてくださいとお願いした。テレビ版をやり直すものと、新作」。

つまり「テレビ版のやり直し」=『THE END OF EVANGELION』が、事実上の「本来の結末」を担ったわけだ。「幻の最終回」は封印されたのではない。劇場版という形でちゃんと世に出ていた、ということになる。

「全キャラクターが死ぬ結末」という具体的なバリエーションについても考えたい。劇場版『THE END OF EVANGELION』の凄惨な展開――人類補完計画の強行、多数の登場人物の死。これが逆輸入的に「テレビ版で本来描かれるはずだった内容」として語り直された可能性が高い。実際には劇場版はテレビ版の「別ルート」だ。正史として単純に接続できるものではない。これが庵野監督や制作側の一貫した立場だ。

実在する制作の混乱がある。スケジュール逼迫、絵コンテの遅延。これは事実の核だ。そして庵野監督自身の芸術的選択。これも事実の核だ。この二つが、ファンの憶測によって「隠された結末」という第三の物語に融合してしまった。それがこの都市伝説の正体だ。都市伝説としては魅力的だ。だけど「封印された明確な結末」そのものは、公式記録にも関係者証言にも存在しない。それに代わるものとして作られたのが劇場版だった。

これが今のところ一番事実に近い整理といえる。

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