- 家だけが、人の帰りを待っている
- 一 犬鳴谷 水没した集落に、架空の村が重なる
- 旧道の封鎖は、村の掟ではなかった
- 二 松尾鉱山 雲の高さに、近代的な町があった
- 人が去っても、山から水は流れ続ける
- 三 日窒・小倉沢 鉱山の斜面に、家族の町が重なる
- 診療所と会館は、別々の日常を置いていった
- 四 土倉鉱山 森の中の遺構は、一度移った町の跡
- 採鉱事務所の時計は、閉山だけを示していない
- 五 端島 人の密度だけが抜け落ちた軍艦島
- 海の向こうで、町が閉じた後の時間が進む
- 六 旧徳山村 湖の底へ移った、帰る場所
- 写真の中の村には、まだ水が来ていない
- 七 八丁 御留山の奥で、炭焼きの家々が暮らした
- 離村後の蔵に、東京の風景が描かれていた
- 杉沢村は、七つの外側で語られ続ける
- 鍵を掛ける人がいなくなった後も
家だけが、人の帰りを待っている
家は残っているのに、帰る人がいない。山の斜面に重なる窓や、水底へ続いていた道を思い浮かべると、村がなくなるという出来事が、急に身近で薄気味悪いものになる。名前まで消えた村の噂に惹かれるのも、こんな空白を埋めたくなるからだろう。
ただ、日本に残る無人の集落が、みな秘密を守るために閉ざされたわけではない。鉱石の値が下がり、雪に暮らしを断たれ、ダムのために住まいを移した人々がいた。七つの土地に残ったのは、呪いの跡と呼ぶにはあまりに具体的な、仕事と家族の時間だ。
犬鳴谷のように、実在した集落の名へ架空の村が重なる場所もある。松尾や日窒、土倉、端島では、鉱山の仕事とともに一つの町が生まれ、終わった。徳山と八丁を含む七つをたどると、同じ廃村という言葉の中に、まったく違う別れ方が見えてくる。
「禁断」という響きには、近づけない場所を見たい気持ちが潜んでいる。けれども、昔そこで暮らした人々まで、異様な住民へ変わるわけではない。家の中にいた者を忘れないまま、家だけになった風景の怖さを読んでみたい。
一 犬鳴谷 水没した集落に、架空の村が重なる
この先では法律が通じず、迷い込んだ車も動かなくなる。犬鳴村の語りには、そんな境界の看板や、助けを呼んでも届かない集落が現れる。山を一つ越えるだけで、知っている日本から外れてしまう話。怖いのは遠さより、戻れるはずの道が戻り道でなくなることだ。
伝説の名前を背負う犬鳴谷は福岡の現在の宮若市にあたり、ダム建設で集団移転が行われる前には、人々が暮らしていた。住む場所が変わったのだ。誰かに消された村人を探す話とは違い、その後の湖と都市伝説の村は、同じ名前のまま別々の時間を持つ。
犬鳴ダムは、遠賀川水系の犬鳴川上流に設けられ、一九九五年四月に管理が始まった多目的ダムだ。洪水を抑えるほか、川の流れを保ち、水道や工業に使う水も供給する。水底の暮らしを想像させる湖が、その一方で、いまの暮らしを支えている。
幕末の福岡藩では、有事に藩主をかくまう逃げ城を設ける際、加藤司書が犬鳴谷の険しい地形を選んだ。人を守るための山だ。外から来る者を隔てる山を、内にいる者の備えに使う考え方が、谷の閉ざされた形へ、当時の政治の緊張を重ねている。
犬鳴御別館の跡には、門や高い石垣、庭園の池の跡が伝わり、黒田家の家紋を刻んだ瓦なども見つかっている。誰とも関わらず生きる秘密の村とは違い、藩の中枢へつながる土地だった。山奥というだけでは、その場所の性格は決まらない。
逃げ城と聞いたら、誰にも知られない抜け道や、山に隠した屋敷を想像してみてほしい。そんな絵が、すぐ浮かぶ。犬鳴谷には空想の屋敷を足さずとも地形に備えを託した実際の選択があり、入りにくい谷は、その内にいる者を守る場所にもなった。その表裏が、後の村の噂によく似合う。
都市伝説の犬鳴村では、よそ者を拒む住民や、逃げる人を追う者の姿が語られる。家の灯りを見つけても、助かったことにはならない。普通なら安全の目印になる人家が、危険の始まりへひっくり返る。この逆転が、村という舞台を恐ろしくしている。
現実の集団移転を、そのまま伝説の住民が姿を隠した証拠にすると、湖の下にある生活まで別の話に塗り替わる。畑や家が見えなくなったことと、そこにいた人の素性が分からないことは同じではない。犬鳴谷には、土地を離れた人々の続きの人生があった。
旧道の封鎖は、村の掟ではなかった
宮若市は、映画『犬鳴村』が公開された二〇二〇年、物語をフィクションと説明し、ダム建設による移転や旧道の廃止とは異なると知らせている。旧犬鳴トンネルと旧道は、崩落や落石などの危険がある場所だ。封鎖の向こうにあるのは、まず古い土木施設だった。
看板や柵が本当にあると伝説の入口を見つけた気になるが、旧道の封鎖は、壊れた道に人を入れないための設備だった。秘密の掟とは違う。現実の危険から人を守る境界へ、村の掟を読み込むことで、噂の中にだけ通じる別の地図ができ上がっていく。
犬鳴という名の下には、谷の暮らし、幕末の別館、ダム、旧道、映画と、違う時代の出来事が折り重なった。同じ年の話ではない。それでも語るうちに一枚の風景へ縮まり、山奥のどこかに、その全部を抱え込んだ村が今もあるように聞こえてしまう。
犬鳴谷の不思議な手触りは、単に架空の村だったと片づけても残る。住んでいた場所が水の下になり、隣を通った道も使われなくなる。二つの変化が重なるだけで、人の記憶から土地へ帰る道は細くなる。伝説は、その細くなった先へ別の村を置いたのだろう。
二 松尾鉱山 雲の高さに、近代的な町があった
岩手県八幡平市の松尾鉱山を思うとき、まず現れるのは、山中に並ぶ大きな集合住宅だ。標高千メートル近い場所に、窓が幾重にも重なる。山小屋の集まりとは違う規模。一万人を超す人々が暮らした町が、山の上でまとまって空になった。
硫黄の露頭が見つかったのは一八八二年で、人や設備が集まった松尾は、住居や学校も備えた東洋有数の鉱山の町へ育った。岩を掘る場所の隣で、子どもが育つ。働く人だけが山に通う形から家族も暮らす町になり、山の上へ日常そのものを運んだわけだ。
一九五一年に建てられた緑ヶ丘アパートは四階建ての鉄筋コンクリート住宅で、水洗便所や暖房設備も備えていた。売店なども入る。寒さの厳しい山で家族が暮らす工夫を集めた建物は、いまの廃墟という印象とは遠く、当時は新しい生活を迎える場所だった。
学校、病院、郵便局、映画館。仕事だけをする山なら必要のない施設が並び、家へ帰ってからの時間まで町の中で過ごせた。麓から買い物や映画のために上がる人もいたと伝えられる。山の上だから不便だろう、という見方が逆になるほどの賑わいだった。
雲上の楽園という呼び名は、山の暮らしを思わせる。窓の一つずつに家族がいて、同じ建物へ学校帰りの子も仕事帰りの大人も戻ったことを、想像してみてほしい。何十軒もの帰宅だ。その全部がなくなった姿には、一軒だけの空き家より、はるかに大きな落差がある。
工場などで公害対策の脱硫が進み、安い回収硫黄が市場に出回ると、山から硫黄を掘って町を支えた松尾の経営は、次第に追い詰められていく。働く者の怠慢ではない。山の鉱石に頼らず硫黄を得る仕組みが広がり、その遠くの産業の変化が、山上の家族の住まいまで揺らした。
一九六九年に松尾鉱業が倒産し、一九七二年には鉱業権が放棄されたため、経営の崩れと閉山は、一つの日に重ならない。終わりにも段階があった。灯りが消えた景色を一枚だけ思い浮かべると、町がそこへ至るまでの暮らしや、その間にも過ぎた時間が見えなくなってしまう。
人が去っても、山から水は流れ続ける
松尾の廃墟には、神隠しの噂を取り上げる散策記もある。大きな建物と山の隔たりがそろうと、人のいない場所に、いなくなった誰かの話を置きたくなる。どの窓にも部屋があるのに、どこからも家族が帰らない。建物の大きさ自体が、噂を受け止める余白になる。
松尾鉱山では、閉山後も坑内から強い酸性の水が流れ続け、赤川を通って北上川へ影響を及ぼしたため、去った後にも仕事が残った。水は止まらない。人間の暦で引いた閉山の線を地下の水は越え、無人の町の傍らで、その流れを受け止める手が必要になっていた。
一九八二年四月に本格稼働を始めた大規模な中和処理施設は、鉄を多く含む酸性水から沈殿物を分け、処理した水を川へ戻す。細菌の働きも使う。廃墟として見える住宅の静けさのそばで、水の管理は現在も続き、山に残った流れを、人の手が引き受けている。
赤茶けた水に不気味さを感じても、その色は呪いだけを考えさせるものではない。鉱山が流域へ残した、物質としての長い余波だ。住民が去った後も、山と川を守る人の手が必要になる。廃墟という一言で止めたはずの町が、水の中ではまだ終わっていない。
かつての生活は、八幡平市の松尾鉱山資料館でも伝えられている。山に残る空の住宅と、山の暮らしを集める場所。二つを思い合わせると、雲上の楽園は、はじめから怪談のために造られた舞台ではなくなる。たくさんの窓の向こうにいた人々のほうが、廃墟より先に見えてくる。
三 日窒・小倉沢 鉱山の斜面に、家族の町が重なる
秩父の山奥に残る日窒の住宅地区では、木造の長屋が斜面に重なる。松尾の大きなコンクリート住宅とは違い、一軒ごとの暮らしが手の届く大きさで見えてくる。小倉沢の鉱山集落。通称ニッチツという会社の名が、土地そのものの呼び名のようにもなった。
秩父市は、小倉沢集落と日窒鉱山跡地を、山の暮らしを伝える遺跡の一つとして扱っている。大正期に始まった開発が、昭和十年代から本格化した場所だ。岩を掘る事業の周囲に、家や学校、商店、診療の場が集まった。仕事場だけを残した山ではない。
秩父鉱山は、多様な鉱物を産した土地でもある。地下の性質が違えば、採れるものが変わり、掘る場所も設備も変わる。住居の風景からは見えにくいが、その家々を山へ呼んだのは地面の中身だった。生活の始まりが、岩の性質へつながっている。
日窒鉱山では一九七八年に結晶質石灰岩以外の採取が終わったが、住宅から人が離れた後も、別の鉱物を扱う仕事は続いた。終わり方がずれている。空き家ができる時期と鉱山全体が止まる時期を分けると、古い記録が日窒を稼働中と記した理由にも、合点がいく。
二〇二二年九月三十日には、ニッチツの結晶質石灰石事業が終了した。会社は翌日の通知で、その完了を知らせている。採掘の終わりを記す短い一枚。長屋から人が離れた時期と重ねて一日に縮めるより、働く山と空いていく町が並んだ時間を考えるほうが、この場所に近い。
廃墟の写真記録には、長屋の内側だけでなく、保育園や文化会館、診療所の姿も残された。小さな子を預ける部屋と、人々が集まる建物。大人が地下で働くあいだにも、地上では別の一日が進んでいた。山の集落を、坑夫だけがいた場所と考えると、その広さを取り逃す。
診療所と会館は、別々の日常を置いていった
日窒診療所は、鉱山の社員や住民の健康を担った場所として記録されている。人の来なくなった診療の部屋を、ただ恐ろしい病院と呼ぶのは簡単だ。けれども、その部屋が必要だったのは、人が山で暮らしていたからだった。身体の不安があったときに向かった先でもある。
使い手のいない医療器具には、道具の目的だけが残る。誰かのために整えた場所が、その誰かを失うと、同じ形のままよそよそしくなる。物がこちらへ向いているような、居心地の悪さ。新しい惨事を足さなくても、道具と人の関係が切れただけで、部屋は怖く見える。
赤岩文化会館では、演劇や映画を楽しむ時間があったと伝えられている。働く山に、芝居を見る場所まで用意されていた。仕事が終われば皆がすぐ眠ったわけではない。山の中にも、その晩だけ別の世界へ入るための暗い客席があったのだろう。
長屋と診療所と文化会館を、一つの町として思い浮かべてほしい。寝起きする家族、体調を崩した人、映画を待つ人と、建物が変われば、そこへ向かう人の姿や用事も変わってくる。暮らしを抱えた町の広さだ。無人の建物へ浮かぶ気配にも、そこで果たしていた役割が一つずつある。
写真に残った部屋が、今日も同じ形で保存されているわけではない。山の家々は、誰も使わない間にも傷み、物は動き、屋根や床は変わっていく。過去の一枚へ帰れないことも、廃墟の怖さだ。日窒は昭和を閉じ込めた箱というより、残された暮らしがゆっくりほどけていく場所に見える。
四 土倉鉱山 森の中の遺構は、一度移った町の跡
滋賀県長浜市の土倉鉱山は、巨大な選鉱場の遺構が知られる一方、金居原の中で人が暮らした鉱山集落でもあった。もともとの地域には、山の木を使う炭焼きの歴史がある。森と仕事の結びつき。銅の発見によって、そこへ別の産業が重なった。
地域の保存継承団体が伝える沿革では、一九〇七年に鉱床の露頭が見つかり、一九一〇年に採掘が始まった土倉は、やがて田中鉱業の仕事となった。後に経営は日窒へつながる。秩父と同じ会社の名でも、こちらは滋賀の別の鉱山であり、二つの土地の暮らしを一つの町へまとめることはできない。
土倉の集落は、同じ谷の中でも場所を変えている。奥土倉で営まれた暮らしが、大雪の被害などを経て、下流側の出口土倉へ移った。名前だけを見ると二つの廃村に見えるが、鉱山とともに移った一つの集落だった。閉山する前にも、町は一度生まれ変わっている。
およそ四百戸、千五百人ほどが暮らした新しい住宅地区には、診療所や配給所、男女の浴場に映画館までそろい、一日の暮らしを支えていた。掘るだけの町ではない。石を運び、砕き、選ぶ設備の周りで、鉱山で働く者と家族は、食べ、洗い、遊ぶ場所も一緒に造っていた。
山の傾斜に沿う大きなコンクリートの構造物は、人の大きさを見失わせる。設備の働きが分からないまま見ると、壁や穴の配置が、別の目的で造られた建物のようにも思える。選鉱場という名を知るだけで、風景に作業の向きが戻る。鉱石を処理するための形が、森の中へ残ったのだ。
一九六五年に土倉が閉山するまでには、安い銅が入る市場の変化や、鉱石の品位、採掘費の問題が積み重なり、谷で暮らす土台が揺らいだ。森が人を追い出したのではない。遠くで決まる金属の値段が、地下の仕事から山の家の灯りにまで届き、暮らしの続け方を変えてしまった。
採鉱事務所の時計は、閉山だけを示していない
土倉で生まれ育った白川雅一が残した写真は、鉱山の仲間や子どもたちの姿を伝えている。写真展を訪ねた記録には、運動会や出勤する人々、坑内の休憩の様子が紹介された。鉱山の中で暮らした人の目。怖い場所を探しに来た目とは、同じ谷の見え方が違う。
採鉱課の事務所にあった時計も写真とともに展示され、取材記には、閉山から後のその場所で、なお動く品として記されていた。止まった時計ではなかった。町を離れた道具が、故郷を語る別の場所でも時間を刻んでいると思うと、閉山の日だけで土倉を区切ることはできなくなる。
白川は閉山後も残務整理のために土倉へ残ったと語り、山を下りる時期が、集落の全員で一斉にそろったものではなかったことを伝えている。最後まで仕事があった。人が去った後を片づける役目と、その間も続く自分の暮らしが、無人になる直前の町に重なっていた。
働く人々の記憶には、つるはしで岩を砕く採用試験の話も残る。いまなら体力を測る試験と説明できても、山の鉱山で硬い岩へ向かった姿には、仕事を始める前の緊張が見える。地下で働く厳しさと、写真に残る柔らかな表情は矛盾しない。どちらも一つの集落にあった。
土倉の遺構には古い建物の危険があり、人が去った構造物は、暮らしの側にあった頃と同じ強さを保てず、廃墟の遊具にはできない。近づかずとも奇妙だ。遠くから森の中の形を思い浮かべるだけでも、人の大きさから離れた巨大な仕事場が、用途を失って残った風景になる。
五 端島 人の密度だけが抜け落ちた軍艦島
海に囲まれた端島は、山の奥へ隠れた村とは逆に、輪郭をはっきり外へ見せる集落だった。護岸の内側に建物が重なり、軍艦のような姿を作る。長崎の海に浮かぶ、炭鉱の町。小さな島の上に、学校も店も、人々の帰る部屋も詰め込まれていた。
掘っていた石炭は、島の地表だけでなく海底の下にある。地下へ仕事場を伸ばす一方、地上では埋立てによって暮らす面積を広げた。建物が多いのは、景色を埋め尽くすためではない。限られた島へ、働く者と家族の場所を積み重ねた結果だった。
一九一六年には鉄筋コンクリートの集合住宅が造られ、後にも高層の住居が続いた。海の風や波に囲まれた土地で、木の家を横へ並べる代わりに、堅い建物を上へ伸ばしていく。島の輪郭を軍艦らしく見せたものが、生活のための住宅だったことに驚く。
一九六〇年頃にはおよそ五千三百人が暮らし、窓の向こうに家族がいて、学校へ向かう子どもの声もあった島から、いまは人影が消えている。五千人を超す日常だ。無人島という現在の言葉から逆向きに人の声を戻すと、建物の大きさだけでは測れない町の密度が浮かんでくる。
狭い島にも、映画館、病院、理髪店、寺や神社などがあり、住居の外にも日々の行き先があった。建物を結ぶ廊下や階段が、人々の通う道になる。外から見えるのは壁の塊でも、中にいた人には、それぞれ用事の違う場所だった。
英語で島の歴史を記したブライアン・バークガフニは、労働者や職員の立場によって住居の広さや設備が異なったことを述べている。島の中にも差があった。近代的な住宅が並んだ写真だけで、誰もが同じ楽園を生きたと決めると、その立場の違いや、暮らしの手触りを見失う。
戦時期の端島には、朝鮮半島や中国から動員され、厳しい労働を強いられた人々の歴史もある。島を囲む海は、暮らしを守る輪郭であるとともに、そこから離れたい者を隔てるものにもなった。海の向こうへ帰る意味は、人によって違っていた。
採掘の危険や労働の記憶を、幽霊の数へ置き換える必要はない。そこにいた人々が経験した苦しさは、島を怖く見せるために初めて価値を持つものではなかった。廃墟の壮観に見とれる目と、その中で生きた人の目。端島には、その距離が強く残る。
海の向こうで、町が閉じた後の時間が進む
石炭から石油へ産業の主役が移る流れは海の小さな町にも届き、一九七四年の閉山で住民が去ると、端島は無人になった。家族も島を離れた。採る物があるから集まった人々が、採らなくなると暮らしごと移る点は山の鉱山と重なるが、残された町の周囲には海がある。
人のいない窓や廊下へ潮風が入り、建物は無人になってからも傷み続けた。住民が使った最後の日の姿が、そのまま保存されたわけではない。誰も修理しない時間が、町を別の形へ変える。廃墟の古さには、建設からの年月だけでなく、人の手が離れた後の年月も重なっている。
海外では上陸観光が始まる前からゴースト・アイランドと呼ぶ記事があり、人影のない町そのものが、幽霊の島という響きをまとっていた。島ごとの空白だ。目撃された霊を一体ずつ数える話と違い、たくさんの部屋が、使う人を失ったまま海に浮く姿が、何かを宿したように感じられる。
二〇〇九年に一部の見学区域への上陸が始まった端島には、見られる範囲と、崩壊の危険から入れない範囲があり、島の全部が開かれたのではない。全面封鎖の秘密の島でもない。近くへ行ける現在も、人々の生活していた頃の島の内側へ、そのまま戻れるわけではないのだ。
二〇一五年、端島炭坑は明治日本の産業革命遺産の一部となった。ユネスコの説明でも、建物の劣化は保全の難しい課題として扱われている。世界遺産という名は、以後何も壊れないという約束ではなかった。海の中の町を、どんな形で次の人へ残すかという仕事が続く。
六 旧徳山村 湖の底へ移った、帰る場所
岐阜の揖斐川上流にあった旧徳山村では、人の住む家より先に、地名だけが知られることがある。ダムに沈んだ村、という短い呼び名だ。けれども、名前の下にあったのは幾つもの地区と家々。水が増えた瞬間に、ひとかたまりの村が消えたわけではない。
一九八七年に徳山村は藤橋村へ編入され、自治体としての名を閉じた。水資源機構の事業史では、予定湛水域の四百六十六世帯の移転完了は一九八九年とされる。役所の区切りと、暮らしの移動は別の時期だった。村がなくなった日を、一枚の暦だけで示すことは難しい。
ダム本体の建設や試験湛水を経て二〇〇八年に徳山ダムが完成するまでには、移転からも合併からも、長い時間が過ぎていた。すぐには湖にならない。その間も村を離れた住民は土地へ戻り、空いた家と帰ってくる人が同時にいた時期を経て、廃村の景色は水の下へ移っていった。
村の区域のすべてが、同じ深さの湖底になったわけでもない。集落のあった場所と、山の斜面、湛水の外の土地では、その後の姿が違う。地図で旧徳山村を丸く囲み、その全部が水になったと考えると、村域の広さがかえって見えなくなる。
湖底の村という言葉は、消えた物を具体的に想像させる。道が通り、家が建ち、その前で人が声をかけ合った場所へ、いまは水がある。もう戸を叩けないという隔たり。山の空き家なら見えるはずの玄関まで、ここでは目で確かめられない。
ただし、昔の村は水面の下だけに残ったのではなかった。徳山で農業と民宿を営んだ増山たづ子は、ダム計画が本格化した六十一歳頃から、村の人や行事、自然を写真に収め続けた。手にしたのはフィルムカメラ。なくなる場所を前に、暮らしている人が撮った日常だった。
写真の中の村には、まだ水が来ていない
増山は村を離れた後も跡地へ通い、遺した写真はおよそ十万カット、アルバムは六百冊を超えるという。枚数の多さは、廃村の一場面だけを選んだ記録ではないことも感じさせる。帰るたびに違う一日があった。村の終わりを、一度きりの別れにしたくない時間だったのだろう。
二〇〇六年に増山が亡くなった年、村の跡地は試験湛水で水の下へ移り、撮る人と、撮られた風景が相次いで遠ざかった。アルバムは残った。ページの中の村民は、その日にその場所で暮らしていて、湖が来る前の一日を、そのまま残している。
写真の怖さを、人影が余計に写ったかどうかだけで測ると、徳山の記録は違うものに見えてしまう。写っている人がいた場所へ、もう同じようには立てない。何もおかしな物のない写真が、その事実だけで不思議に見える。風景の方が、あとから別の世界へ行ってしまったのだ。
元住民が集まる場所として徳山会館が設けられ、村の歴史や文化も伝えられている。誰も故郷を語らなくなったわけではない。家のあった地面が見えなくても、村で暮らした人の側には、帰りたい場所が残る。湖は記憶まで同じ水位で満たせなかった。
水底から何かが呼ぶという物語を考える前に、呼び返したい名がたくさんあったことへ思いが向く。村を離れた後にも、故郷を覚えている人がいる。静かな湖に重なるのは、正体不明の気配だけではない。帰れない場所を知っている、生きた人の記憶もある。
七 八丁 御留山の奥で、炭焼きの家々が暮らした
京都の京北にあった八丁は、山の奥に集落が実在した例だ。古い地域史や現地掲示が伝えるのは、炭を焼き、山の資源を分け合って暮らした家々の歴史である。はじめから、誰も入れない怪しい村だったのではない。山の仕事とともに、人の住む場所になった。
八丁の山には、一六八二年に御留山となったという来歴がある。山の利用を制限する、当時の仕組み。その後、請負山となり、十八世紀初めには炭焼きの家が入ったと伝えられる。禁じるという言葉が現実に関わる土地でも、その意味は時代によって変わった。
炭焼きに使う木がある山で暮らすには、資源を使う決まりがあり、燃料を作る仕事とともに、限られた場所を分ける仕組みが家々を支えた。使える森にも区切りがある。周囲に木ばかりある風景は外から見ると広々としていても、その内側で炭焼きをした家々には、自分たちの暮らす範囲があった。
一九〇〇年には分教場が設けられ、児童八人と教師一人という記録も残る。小さな学校の人数。山中の集落にも、子どもを育て、学ばせる日々があった。廃村という言葉からは消えやすいが、出ていった家族には、それぞれ年齢の違う子がいたはずだ。
昭和初めの大雪は、八丁の生活を大きく揺らした。冬の間、山の向こうと行き来することが難しくなると、家の中の暮らしを保つ負担が増す。一九三三年末から翌年にかけての豪雪が、離村を考える転機として語られている。山に囲まれることが、守りより重荷になる冬だった。
その後、家々は段階を追って土地を離れ、一九四一年頃には最後の家族も去ったと地域史に記される。大雪の年と、集落が住む場所でなくなった年は違う。昨日まで全員いた村が、一夜で姿を消した話ではなかった。暮らしが続けられるかを、一軒ずつ考えた末の別れだった。
離村後の蔵に、東京の風景が描かれていた
八丁で長く人を惹きつけたものに、土蔵の壁へ描かれた絵がある。山の集落の壁へ現れた、都会のビルや富士山、ヨットのある風景。なぜここに、という取り合わせだ。家の持ち主を知らずに絵だけに出会えば、村の秘密を想像したくなるのも分かる。
八丁には、住民が去った後も戦後の造林などの仕事で人が入り、集落の跡は作業の場として使われていたため、人の出入りが続く時間があった。村には、その後がある。壁画を見たときに感じる不思議さは、離村の日で止めた山へ、さらに後の仕事と暮らしが重なっていたことへつながる。
壁画には一九五七年九月二十六日の日付と署名があり、後の調査で伊藤義夫の作と分かったため、離村後に入った人の時間へたどり着ける。謎の印とは違った。仕事でそこへ来た人が都会を山の壁へ描いたという取り合わせは、作者の名前を知った後にも、やはり面白い。
以前は銀座と受け取られたビルの風景も、日本橋の建物に結び付けて調べられ、見慣れた都会の中へ、別の場所が見つかる。記憶が、少しずれる。山奥の村だけの秘密を解く話から、誰の目でどの街角を切り取ったかという、日常の景色の不思議さへもつながっていく。
絵のあった土蔵はその後崩れ、いま山へ入っても、昔の写真と同じ壁画に会える場所ではなくなった。写真が、蔵をとどめている。残る記述にもその姿をたどれるが、人の去った村から、後に仕事へ来た人の絵まで失われたことで、八丁の時間は一段深く遠ざかって見える。
八丁には、山の静けさや荒れた小屋を不気味だと感じた山行記も残る。けれども、壁画の作者を知った後では、闇の中にいるかもしれない誰かの姿も、少し違って思える。炭を焼いた人、学校へ通った子、造林の仕事へ来た人。人のいない山に、異なる時代の人々が重なっている。
杉沢村は、七つの外側で語られ続ける
村を一つ数えようとすると、実在の集落以上に強い顔で現れるのが、杉沢村の伝説だ。若い男が村人を皆殺しにし、村そのものが地図から消されたという筋。入口の鳥居、髑髏に似た岩、命を保証しない看板が、その村を見分ける目印として語られる。
犬鳴村が法律の届かない境界を置くなら、杉沢村は、事件の後に場所ごと消された空白を置く。誰かに聞いても知らず、記録にも出てこないほど恐ろしい村。見つからないことさえ、隠された証拠になってしまう。この語り方は、ダムで移転した村の歴史とは別の強さを持つ。
怪異を集める朝里樹は、一九九五年の弘前大学の報告に収められた怖い話にも、杉沢村の筋があると紹介している。後にはネットやテレビへ広まった。語られた時間の跡が残ることと、同じ事件の起きた村が現地に見つかることは違い、噂にも、語り継ぐ人の側の歴史がある。
実在する村や神社の名前を似た語りへ当てはめると、伝説の謎は急に解けたように思える。けれども、名前や目印が似るだけで、そこで皆殺しが起きたことにはならない。いまの土地の人々に、物語の住民の役を負わせることもできない。杉沢村は、七つの実在集落へ無理に入れなくても、十分に怖い。
廃村を見たい気持ちと、最初から存在しない村を探したい気持ちは、よく似ている。どちらも、普段の地図にはない入口を求めているからだろう。それでも、徳山の写真や八丁の壁画を思い返すと、空白の中には正体を持った人がいた。伝説の名前だけで埋めるには惜しいほど、違う暮らしが残っている。
鍵を掛ける人がいなくなった後も
湖になった谷、空の集合住宅、海に囲まれた炭鉱の町に、離村後に描かれた絵まで、七つの場所には違う終わり方があった。そこへ通い直す人もいた。村を離れる日にすべてが切れる話へまとめず、去った後にも続いた仕事や、かつての住まいへ関わる人の時間を、もう少し思い浮かべておきたい。
誰も住まない家を見ると、そこへ戻る誰かを想像してしまう。鍵を持った人はどこへ行ったのか、窓を閉めたのはいつだったのか。幽霊だと決めるより先に、そんな問いが残る。もう人を迎えない玄関に、かつては帰ってくる人がいた。
