「見ただけで血を吐く石」に、十六歳が手を伸ばした
寛延二年、五月の末のことだったと伝えられている。備後国三次、今の広島県三次市に、稲生平太郎という十六歳の少年が暮らしていた。彼は隣家の相撲取り・三井権八とともに、比熊山の山頂まで肝試しに登る約束を交わす。
きっかけは些細なものだったという説が多い。近所の若者たちの間で「比熊山のたたり石には触れることすらできない」という噂が語られていた。負けず嫌いの二人がその噂に反発したというのが、後の語り伝えでの経緯だ。
たたり石は別名を神籠石とも呼ばれ、古くから神が宿る依代として崇められてきた石である。村の古老たちは子供たちにこう言い聞かせていたとされる。見ただけで吐血する。触れれば即座に命を落とす。
その夜、二人は連れ立って山を登り始めた。道は暗く、木々の間を漏れる月明かりだけが頼りだったという。
ところが山頂近くまで来たところで、権八が急に足がすくんだ。震えながら「今日はやめておこう」と言い出し、そのまま里へ逃げ帰ってしまう。
残ったのは平太郎ひとりだ。彼は暗闇の中を進み続け、ついに石の前に立った。手を伸ばし、腰の高さほどの、苔むしたその岩に触れる。
何も起こらなかった。
平太郎は拍子抜けしたような気持ちで山を下り、何食わぬ顔で家に帰ったという。ここで終われば、ただの武勇伝だった。
三十日間、毎晩ちがう化け物がやってくる
異変が始まったのは、その夜からだ。物語上は七月一日の夜からとされる。
最初の晩、寝所の行灯の火が理由もなく大きく燃え上がった。次の晩には、巨大な蟇蛙が押し入れの奥から飛び出してきた。
ある晩には、老婆の顔をした化け物が、寝ている平太郎の顔を舐め回したという。またある晩は天井から逆さまの生首がぶら下がり、げらげらと笑い声を立てた。
一つ目小僧が現れた晩の話がいい。平太郎がまったく取り合わずに無視していると、一つ目小僧は業を煮やしたのか。みるみるうちに天井を突き破るほどの大入道へと姿を変え、部屋いっぱいに膨れ上がって威嚇してきたと伝わる。手を替え品を替え、必死である。
友人の姿をした化け物が現れ、その頭から赤ん坊が這い出してくる。悪夢としか言いようのない場面も記録されている。大男の物の怪が斬りかかってくる晩もあった。巨大な女の生首から伸びた手が、体中を這い回る晩もあった。
それでも平太郎は蚊帳の中で顔色ひとつ変えず、眠り続けたとまで語られている。毎晩毎晩、趣向を変えて現れる怪異を、ひたすら平然とやり過ごし続けたのだ。
そして三十日目の夜、これまでとは違う気配が部屋に満ちた。
姿を現したのは、格の違う相手だった。魔王である。名を山ン本五郎左衛門と名乗ったという。彼は平太郎の一か月にわたる胆力を讃えた。そして今後お前を助けるという約束のしるしとして、木槌を一つ手渡した。
そのまま雲に乗り、あるいは籠に乗ったとも言われる。いずれにせよ彼方へと姿を消していったとされる。
この木槌は今も比熊山の山頂、たたり石の前に供えられ続けているという。三十日にわたる怪異は唐突に終わりを告げ、平太郎の日常は元に戻った。これが三次に伝わる物語の大筋だ。
妖怪の数が写本ごとに違う、という厄介な話
ここからがややこしい。この物語には、決定版と呼べる一冊の原典が存在しないのだ。
作者は不明のままだ。成立年代の異なる複数の写本・絵巻が並行して伝わっている。研究者はこれを大きく物語系諸本と絵巻・絵本系諸本の二系統に分類している。
三次市の堀田家に伝わる通称「堀田本」がある。吉田家には「稲生武太夫一代記」が伝わる。愛知県西尾市の岩瀬文庫は「稲亭物怪記」を所蔵している。写本ごとに描かれる妖怪の顔ぶれも数も、まったく違っている。
数字で並べると呆れるほどだ。『三好実録物語』系統では五十の怪異が数えられ、柏本系では四十八。国学者・平田篤胤が自ら手を加えて再編集した「平田本」に至っては、六十七もの妖怪が登場するとされる。
この違いについて、民俗学者の繁原央は面白い推測を示している。そもそもの原型は「百物語」形式で平太郎自身が語った五十話ほどの怪談だったのではないか、というのだ。
もしこの説が正しいなら、話の見え方が変わる。たたり石に触れた罰として妖怪に一か月つきまとわれた、というのが物語の筋書きだ。だが肝試し伝承と百物語伝承という二つの民間伝承は、もともと独立していた。その二つが後世の写本作成の過程で一本に縫い合わされた結果である可能性が高い。
つまり私たちが『稲生物怪録』として知っている物語は、単なる一つの怪談ではない。複数の怪異譚の集合体が、長い年月をかけて一人の主人公の体験として再編集されていった。いわば怪談のコラージュなのである。
「もののけろく」か「ぶっかいろく」か
タイトルの読み方についても、実は決着がついていない。
世間一般では「いのうもののけろく」という読みが広く定着している。だが国文学者の田中貴子は、本来は音読みするべきだと主張したことがある。根拠は『国書総目録』だ。国立国会図書館などが編纂するこの目録が、作品の見出しを「いのうぶっかいろく」という音読みで立てているからである。
一方で、「物怪」という漢字を「もののけ」と訓読みする用例もある。享保二年刊行の辞書『書言字考節用集』など、同時代の資料に見られる。少なくとも江戸期の時点ですでに読み方が割れていた、とする見方も根強い。
地味に思える論争だ。しかし、これほど細かい書誌学上の議論が今なお続いている。その事実自体が、この作品がどれだけ多くの研究者・愛好者を惹きつけ続けているかを物語っている。
初出はどこなのか、という問いには答えがない
『稲生物怪録』の場合、ネット怪談のような初出は存在しない。「特定の掲示板のスレッドで何年何月何日に投稿された」という形の記録がないのだ。
江戸中期の実際の写本・絵巻として、複数系統が並行して伝わっている。どの写本が最も古いのか。そもそも平太郎本人がどこまで直接語ったのか。研究者の間で完全な一致は見られていない。
だからこの物語については、詳しい初出は特定されていない。それが誠実な答えになる。
ただし、三次市堀田家に伝わる堀田本は地元の重要文化財に指定されている。地域資料としての価値と信頼性は高く評価されている。
十四年ぶりに登った人が驚いたこと
比熊山は標高三三一メートルほどの、丸みを帯びた形の山だ。登山経験のない人でも普通のスニーカーで登れる程度の難度とされる。
ただし、実際に歩いた人の記録によれば油断はできないらしい。標高の低さの割には体力を使うようだ。そこそこ高いビルを階段で上るくらいしんどい、という感想が語られている。
山道の脇には、大小さまざまなお地蔵様や手作り感のあるレリーフが点々と配置されている。古びたものから比較的新しいものまである。木々に囲まれた薄暗い雰囲気の中を進むことになる。
倒木で道が塞がれている箇所も多い。くぐったりまたいだりしながら山頂を目指す必要があるという。
ある登山者は十四年ぶりにこの山を訪れた際、たたり石の変化に驚いたと語っている。
かつて訪れたときには、たたり石は特に囲いもなかった。ほとんどただの放置された岩のような状態で、周囲の草に埋もれるようにして転がっていたという。それが現在では注連縄が飾られている。明らかに「祀られている石」としての扱いに変わっていた。
三次市が妖怪文化を観光資源として整備してきた成果だと考えられる。山頂からは三次の街並みを一望できるようになったとも記されている。
もっともこの登山者、下山後に近くの神社でおみくじを引いたら「凶」を引いてしまったとも書き添えている。比熊山という土地が今なお何かしら持っていく空気をまとっている。そう冗談交じりに示唆しているようにも読める。
「頭をぶん殴られたような衝撃」の博物館
二〇一九年に開館した「湯本豪一記念日本妖怪博物館」、通称・三次もののけミュージアムがある。妖怪コレクターとして知られる湯本豪一氏の収集品、約五千点を収蔵する施設だ。
館内は大きく三つに分かれているという。稲生物怪録専用のコーナー。日本各地の妖怪を紹介するコーナー。そしてチームラボが手がけたインタラクティブ体験コーナーである。
稲生物怪録コーナーを訪れた人の感想が強烈だ。展示される絵巻の絵の迫力について、想像をはるかに超えた異次元の世界が再現されていると評される。初めて見た来館者が頭をぶん殴られたような衝撃を受けたと述べるほどの没入感があるとされる。
日本の妖怪コーナーでは、琵琶湖に伝わる雷獣の伝承も紹介されている。富山県に伝わる、体長十一メートルとも言われる人魚の伝承も併せて並んでいる。江戸期の刀の鍔や根付に施された妖怪意匠も展示の対象になっているという。
チームラボが手掛けたコーナーは子供向けにも楽しい。来館者がクレヨンで自由に人面を描き、それをスキャナーで読み込む。すると壁面のモニターに現れて、生き物のように動き出すのだ。
ある来館者の言葉が印象的である。幼少期から高知で「シバテン」「七人みさき」「河童」などの妖怪話を聞かされて育ったという。この博物館を何度も繰り返し訪れ、すっかり妖怪の虜になった。もはや半分、異界に足を突っ込んでいる。
稲生平太郎という人物についても、熱い声が寄せられている。世界でも珍しい、対妖怪戦を戦い抜いた英雄である。ぜひ大河ドラマの主人公に据えてほしい。半ば本気とも取れる要望だ。
魔王が二百年後にゲームキャラになる
物語の最後に登場する魔王・山ン本五郎左衛門は、原典の枠を超えた存在になっている。現代のポップカルチャーの中で独自の存在感を放つキャラクターだ。表記揺れとして山本五郎左衛門とも書かれる。
ニコニコ大百科やピクシブ百科事典といったネット上の事典サイトには、専用の項目が立てられている。ピクシブには数十件規模のファンアートや二次創作小説が投稿されているという。
知名度を大きく広げたのは、二〇〇五年公開の特撮映画「妖怪大戦争」への登場だとされる。さらに漫画作品「ぬらりひょんの孫」に登場するキャラクターの一人としても採用された。ブラウザゲーム「千年戦争アイギス」にもキャラクターとして実装された。
江戸時代の一地方伝承に過ぎなかった魔王が、二百年以上の時を経て、若い世代にも認知されるようになったわけだ。
ネット上の妖怪ファンの間での評価も愛がある。平太郎には「一か月間毎晩化け物に脅かされても顔色一つ変えなかった胆力お化け」。山ン本五郎左衛門には「最後まで見届けたうえで律儀に木槌までくれる、存外に義理堅い魔王」。単なる恐怖の対象ではない。かっこいい妖怪キャラクターとして愛でられているのが特徴的だ。
二百七十年前の物語が、まだ輪郭を広げている
比熊山の登山道の整備、たたり石の前に供えられ続ける木槌、そして妖怪博物館の存在。これらはすべて、三次という土地が『稲生物怪録』という物語を大切に扱い続けてきたことの表れである。その扱いは単なる怖い言い伝えではなく、地域のアイデンティティの一部としてのものだ。
二〇二〇年五月には、国際日本文化研究センターが東京の古書店で新資料を発見・収蔵したという報告もあった。旧広島高等師範学校の教員であった及川大渓の旧蔵と見られる別絵巻だ。これまで知られていなかったもので、嘉永二年作と推定されている。
二百七十年以上前の物語が、令和の時代になってもなお、新資料の発見という形でその輪郭を広げ続けているのだ。
祟る石の怪談として消費されるだけではない。書誌学的な論争を呼び、現代の創作者たちに新たな作品を作らせている。観光資源として地域を活性化させ続けてもいる。この息の長さこそ、『稲生物怪録』という物語が持つ特異な強靭さなのだろう。他の多くの怪談にはないものだ。
神と人間をつなぐ媒介となったあの石は、今も比熊山に静かに鎮座している。
