- 深夜の国道に、ついてくる光があった
- ナイアガラからの帰り、財布には70ドルもなかった
- 「流れ星が、上に落ちた」
- 犬を散歩させた駐車場と、7倍50ミリの双眼鏡
- フランコニア・ノッチ、キャノン山、そして老人の顔
- インディアン・ヘッドの南、道路の真ん中で
- ビープ音、そして二時間
- 夜明けのポーツマスで見つけたもの
- 空軍への通報と、ヘンダーソン少佐の報告書
- ナイキャップのウォルター・ウェッブ、六時間の聴取
- 五夜連続の夢と、十一月の手記
- 1963年12月14日、ボストンの診察室
- 1964年、テープが回り始めた
- バーニーの証言と、目
- 検査室で交わされた会話
- 「あなたが自分の場所を知らないなら」
- サイモン医師は、何と結論したか
- 夫の話と妻の話は、どこが食い違っていたのか
- 1965年10月25日、ボストンの新聞が全部ひっくり返した
- 1966年、『中断された旅』が全米を走った
- 1975年10月20日、テレビが伝説を完成させた
- 星図論争――オハイオの小学校教師が糸とビーズで作ったもの
- カール・セーガンの反論と、ヒッパルコスが崩したもの
- キャノン山の赤い灯
- 『ベレロの盾』、十二日間
- 証言と体験、四つ
- 二人が生きた1961年のアメリカ
- その後の二人
- なぜこの夜の話だけが、六十年たっても怖いのか
深夜の国道に、ついてくる光があった
まず、これだけは先に言っておきたい。この話を「宇宙人にさらわれた夫婦の与太話」として片付けると、たぶん一番おもしろいところを丸ごと取り逃がす。1961年9月19日から20日にかけて、アメリカ北東部ニューハンプシャー州の山道で起きたバーニー・ヒルとベティ・ヒルの一件は、単に有名なユーフォー事件というだけじゃない。
この夜を境に、「宇宙人にさらわれる」という物語のフォーマットそのものが人類の頭の中に誕生した。灰色の小さい人、大きくて吊り上がった目、金属の診察台、体を調べられる屈辱、そして帰り道からごっそり抜け落ちた時間。今あなたが「アブダクション」と聞いて思い浮かべる絵の部品は、ほぼ全部この夫婦が最初に並べたものだ。
しかも厄介なことに、この事件は「嘘つきが作った話」ではまるでない。二人は目立ちたがりでもなければ、金に困った詐欺師でもなかった。むしろ逆で、話が世に出るのを最後まで嫌がっていた。世に出したのは新聞記者だ。そして、二人を催眠にかけて例の記憶を引き出した当の精神科医は、生涯にわたって「あれは現実に起きたことではない」と言い続けた。原典中の原典が、原典の主治医に否定されている。
この構造がこの話をいつまでも腐らせない。行こう。1961年の秋、ハイウェイ3号線に。
ナイアガラからの帰り、財布には70ドルもなかった
バーニー・ヒルは1922年生まれ、第二次世界大戦の従軍経験があり、ボストンの郵便局で夜勤をしていた。片道60マイル、およそ96キロを通っての深夜勤務。胃潰瘍と高血圧を抱えていた。知能指数は140あったと後にジョン・ジー・フラーが書いている。ベティ・ヒルは1919年生まれ、ニューハンプシャー州の児童福祉のケースワーカー。
二人はポーツマスの州道953番地に住み、ユニテリアン・ユニバーサリストの教会に通い、全米有色人種地位向上協会の活動に関わっていた。バーニーは黒人、ベティは白人。1961年のアメリカで、この組み合わせは「珍しい」なんて生ぬるい言葉では足りない。エメット・ティル少年がミシシッピで殺されてから、まだ六年しか経っていなかった。
結婚して16か月。二人は遅れてきた新婚旅行として、思いつきで車を出した。ナイアガラの滝を見て、カナダのモントリオールへ回り、そこから帰る。あまりに衝動的だったので、銀行が閉まる前に金を下ろす時間もなかった。財布の中身は二人合わせて70ドルを切っていた。だから帰りの最後の晩、もう一泊するだけの余裕がない。そのまま夜通し走って帰る、という選択になった。ハリケーンが近づいているという話もあった。
降られる前に抜けよう、とバーニーは考えた。
後部座席にはダックスフントの「ディリー」が乗っていた。車は1957年型シボレー・ベルエア。9月19日の夜、二人はニューハンプシャー州北端に近いコールブルックのレストランで軽く食べた。ハンバーガーとチョコレートケーキ。店を出るとき、バーニーは店内の時計を見た。午後10時5分。ここから南へ、アメリカ国道3号線。深夜のホワイトマウンテンを縦断して、ポーツマスの家までおよそ178マイル。
到着予定は深夜2時から3時のあいだ。この予定は、この夜、盛大に狂う。
「流れ星が、上に落ちた」
ランカスターの町を過ぎたあたり――ウォルター・エヌ・ウェッブの後の報告ではグローブトン付近――で、ベティが空に妙なものを見つけた。その晩の空は快晴で、月齢十日ほどの少し欠けた月が明るく出ていた。その月のすぐ左下に、やけに落ち着いた光の点があった。惑星だろうとベティは思った。実際、それは木星だった。問題はもう一つの光のほうだ。木星の上に、あとから、もっと大きい光が現れた。
最初、二人はそれを流れ星だと思った。ただし妙な流れ星で、下ではなく上に「落ちて」いった。次に人工衛星だろうと考えた。1961年である。宇宙開発の真っ盛りで、肉眼で見える衛星の話は珍しくない。軌道を外れた衛星じゃないか、とバーニーは言った。心配ないよ、と。彼はもともと飛行機好きで、空を見るのが趣味みたいな男だった。空の光の正体を落ち着いて説明できる側の人間だったのだ。
ところが光は消えなかった。それどころか、走るにつれて大きく、明るくなった。木々の向こうに隠れては、また出てくる。道路の右に見えたかと思うと、次は左にいる。高さも変わる。車の動きのせいでそう見えるだけじゃないか、と最初は疑った。この一瞬の冷静さが、この夜のうちで最後の冷静さだったかもしれない。ベティはだんだん興奮していった。彼女には前提があった。数年前、姉が空飛ぶ円盤を見たと話していたのだ。
ベティにとって、円盤は「あり得ないもの」ではなかった。
犬を散歩させた駐車場と、7倍50ミリの双眼鏡
ツインマウンテンの少し南、道端の景色のいい駐車場で、二人は車を止めた。犬のディリーを歩かせるという口実もあった。バーニーは念のためトランクから拳銃を出して座席の下に入れている。記録によって口径の記述が食い違うのだが、当時の調査記録には32口径とあり、別の記録では22口径とされる。彼が後に語ったところでは、熊が出るかもしれないと思ったから、というのが理由だった。
とはいえ、空の光を見ながら銃を手元に置く男の心境が「熊対策」だけだったとは、ちょっと考えにくい。
ベティは双眼鏡を構えた。クレセント製の7倍50ミリ。彼女が見たものは、点ではなかった。細長い光の帯があり、色とりどりの光が明滅している。しかも「奇妙な形」をしていて、月の面を横切っていったという。バーニーも双眼鏡をのぞいた。彼の判断はまだ現実的だった。モントリオールへ向かう旅客機だろう。翼端灯が見えているだけだ。
ところが、その旅客機は旋回らしい旋回もせずに向きを変え、西へ回り込んでから、まっすぐ二人のほうへ来た。バーニーは自分の説明が崩れる音を聞いた。彼はのちに、こう表現している。飛行機だと思っていたこの物体は、飛行機ではなかった、と。
この夜、国道3号線には他の車が一台も通らなかった。二人はそう証言している。街灯もない二車線の舗装路。両側は人の住まない森。バーニーはずっと時速30マイル、48キロを超えない速度で走っていたとウェッブの報告にはある。フラーの本には、バーニーは普段この手の道でも時速50マイルから55マイルは出す男だと書かれていて、ここも記録が食い違う場所の一つだ。どちらにせよ、二人は光を見るためにわざと減速していた。
フランコニア・ノッチ、キャノン山、そして老人の顔
車はフランコニア・ノッチに入った。ホワイトマウンテンを南北に切り裂く谷で、西にキャノン山、東にラファイエット山がそびえる。標高4077フィート、およそ1242メートルのキャノン山の頂には、当時もロープウェイの山頂駅とレストランがあり、その上に航空障害灯が点いていた。二人は、光がキャノン山の頂の向こうへ回り込むのを見た。次に稜線の峰々の裏へ隠れた。
ザ・フルームの駐車場に入ると木立に視界を遮られたので、そのまま南へ走り、インディアン・ヘッドを過ぎて開けた場所に出た。
ここでベティは決定的な観察をしている。光の帯は物体の縁をぐるりと一周しているのではなく、半分だけだった。残り半分は暗い。だから物体が回転すると、明滅して見える。彼女は物体の大きさを「オールド・マン・オブ・ザ・マウンテンの一・五倍はある」と言った。フランコニア・ノッチの断崖に自然にできていた老人の横顔の岩、全長およそ40フィートの、ニューハンプシャー州の象徴である。
つまりベティの見積もりでは、その物体は約18メートル。ちなみにこの岩の横顔は2003年に崩落して、今はもう存在しない。
物体はさらに近づいた。回転が止まった。窓の列が見え、そこから青白い蛍光灯のような冷たい光が漏れていた。両側に赤い光。大きさは四発機くらい。それが音もなく、道の右手の空き地の上、地上80フィートから100フィート――八階から十階建てのビルの高さ――に浮いて静止した。
インディアン・ヘッドの南、道路の真ん中で
バーニーは車を止めた。道路の真ん中で。ヘッドライトはつけたまま、エンジンもかけたまま。後の実地調査によれば、その地点はノース・ウッドストックの北2.3マイル、インディアン・ヘッドの南およそ1マイル。彼は座席の下から拳銃を取り出してコートのポケットに入れ、フロントガラス越しに双眼鏡をのぞこうとした。うまくいかない。ドアを開けて外に出た。車の屋根に肘をついて構え直す。
その瞬間、物体は音もなく道路を横切った。車の前方およそ100フィートを通過して、今度は道の左側の草地の上で止まった。バーニーはまだ理屈を探していた。軍のヘリコプターが悪ふざけをしているのかもしれない。ただ、この距離でこの静けさはおかしい。彼は道を渡り、草地の中へ歩き出した。何歩か進んでは立ち止まり、双眼鏡をのぞく。
そして見た。窓の内側に、八人から十一人の人型がいた。中央部を取り巻く廊下のようなところに立って、こちらを見ている。突然、彼らが一斉に動き出した。背を向け、壁のレバーらしきものを引く動作をする。一人だけが窓に残って、じっとバーニーを見ていた。同時に、赤い光が本体から離れていくのが見えた。両側から尖ったヒレのような構造が伸び出し、その先端に赤い光が付いていたのだ。
下からは長い棒のようなものが降りてきた。
車の中でベティは半狂乱になっていた。座席越しに身を乗り出し、夫を見て、対向車が来ないかと道の前後を見て、また夫を見る。彼女には、バーニーが同じ言葉を繰り返しているのが聞こえた。「信じられない。信じられない」。それから「ばかげてる」。ベティは叫んだ。「バーニー、戻ってきて、このばか」。二年半後、催眠下でこの場面を語ったとき、彼女はここで泣いた。
バーニーが後に語ったところによると、窓に残った一人――のちに「リーダー」と呼ばれることになる人物――の大きな目が、彼の頭の中に食い込んできた。頭の中で声がした。そのまま来い、双眼鏡を下ろすな、危害は加えない。彼の手は双眼鏡に凍りついたようになって離れなかった。ドイツ軍将校のような冷たい精密さで動く連中だ、と彼は感じた。
一人だけレバーを操作しながら肩越しに振り返って、にやりと笑った男がいた、とも言った。ここは矛盾している。顔の造作が見えるほど近くはなかったと本人が言っているのに、笑ったのが見えたと言う。ウェッブはこの矛盾を1961年の時点で書き残している。
そしてバーニーはパニックを起こした。無理やり手を離すと双眼鏡が落ち、首にかけた革のストラップがちぎれた。彼は笑っているとも泣いているともつかない声を上げながら車に走り戻った。「捕まる、俺たちは捕まる」。飛び乗ってアクセルを踏み込んだ。ベティは窓を開けて外を見上げた。星が見えなかった。上空一面が真っ黒だった。彼女は、あれが星を隠しているのだと思った。
ビープ音、そして二時間
走り出してすぐ、後ろのトランクのあたりから音がした。ビープ、ビープ、と符号のような断続音。一回鳴るたびに車体が震えた。二人の体に、しびれるような感覚が広がった。眠い。ものすごく眠い。
ここから先の記憶が、二人にはない。
次に二人がはっきり覚えているのは、二度目のビープ音だ。場所はアッシュランドのあたり、あるいはプリマスを通過する頃。最初の音を聞いた地点から南へおよそ30マイルから35マイル下ったところだ。物体はもういなかった。その間の記憶として残っていたのは、木々のシルエットの向こうにあった、オレンジ色に光る大きな球体だけ。二人はそれを沈む月だと思った。そう思って、そのまま走った。
国道3号線のどこかで幹線を外れたような気もするが、どの道を通ったのかも思い出せない。
家に着いたのは午前5時ごろ。空はもう白みかけていた。
夜明けのポーツマスで見つけたもの
家に入った二人は、どうしようもなく不潔な感じがした。体が汚れている、という感覚。ベティは長いシャワーを浴びた。バーニーは、なぜか自分の下半身を確かめずにいられなかった。
そこから発見が始まる。ベティのワンピースは、右側の裏地が腰から裾まで裂けていた。ファスナーの上部も壊れていた。彼女はそれを畳んでクローゼットの底に入れ、数日放置した。取り出したとき、ワンピースはピンク色の粉に覆われていた。捨てようとしてゴミ箱に投げ、すぐ思い直して外の日なたに干した。粉は風に飛んで消えたが、染みは残った。この服は二度と着られなかった。
バーニーの革のストラップは切れていた。よそ行きの革靴のつま先は、引きずったように削れていた。ズボンの裾と靴下には植物のいがが付いていた。彼はスーツをすぐクリーニングに出している。こちらにはピンクの粉も変色も出なかった。
二人の腕時計は止まっていた。ベティはコールブルックでも、キャノン山のあたりでも時計を見ていて、そのときは正常に動いていた。帰宅後、壊れているとは気づかずに時刻を合わせてぜんまいを巻いたが、二度と動かなかった。バーニーの時計も同じだった。
そして車のトランク。ビープ音がしたあたりに、光沢のある同心円状の斑点がいくつも出ていた。ベティが方位磁石を近づけると、針がぐるぐる回った。数インチ離すと止まる。車体の他の場所では回らない。この現象を、当時13歳だったベティの姪キャスリーン・マーデンが家族と一緒に見に来て、目撃している。誰も写真を撮らなかった。カメラが家に置いてあったから、というのが理由だ。
証拠保全という発想が、この人たちの頭にはまるでなかった。それがかえって、この一件の質を物語っている。
空軍への通報と、ヘンダーソン少佐の報告書
9月21日、二人はニューハンプシャー州ニューイントンのピース空軍基地に電話をかけた。放射能を浴びたのではないかというベティの不安もあった。電話を受けたのは第100爆撃航空団の情報将校、ポール・ダブリュー・ヘンダーソン少佐である。少佐は二人に電話で聞き取りをおこない、翌22日にも追加の聴取をした。
そして9月26日付で「空軍情報報告書100の1の61号」を作成し、第1066航空情報業務中隊経由でオハイオ州ライト・パターソン空軍基地のプロジェクト・ブルーブックへ送った。
この報告書の結論の変遷が、なかなかいい味を出している。最初は「木星の誤認だろう」。木星はその晩、南西の空、高度およそ20度にあり、物体が消えたのとほぼ同じ頃に沈むはずだった。ところが、その後この判定は「光学的条件」に書き換えられ、さらに「気温逆転層」に書き換えられ、最終的に「データ不足」に落ち着いた。
1963年9月27日、ブルーブックは公式に、この件は空軍ファイル上「データ不足」として処理されていると述べている。方位のデータがない、報告に矛盾がある、というのが理由だった。ただし、二人はちゃんと方位を伝えているし、報告のどこが矛盾しているのかは示されていない。
そして、この件にはおまけがある。ブルーブックのファイルには、同じ夜、バーモント州ノースコンコード空軍監視所のレーダーが未確認の目標を捉えた記録があり、さらにヒル夫妻の目撃のおよそ二時間後、9月20日午前2時14分に、ピース空軍基地の精密進入レーダーが妙なものを拾っている。この後者の記述は、ボストン・トラベラー紙が後に開示請求で受け取った報告書の「写し」からは、なぜか抜け落ちていた。
渡されたのは複写ではなくタイプで打ち直したもので、日付も1961年ではなく1963年と誤記されていたという。陰謀と呼ぶには雑だが、雑だからこそ人は疑う。
ナイキャップのウォルター・ウェッブ、六時間の聴取
9月26日、ベティは全米空中現象調査委員会――略してナイキャップ――の代表ドナルド・キーホー少佐に手紙を書いた。彼女はこの少し前にキーホーの著書を図書館で借りて読んでいる。10月19日、ナイキャップのリチャード・ホールから、ボストンのヘイデン・プラネタリウムの講師で同会の科学顧問だったウォルター・エヌ・ウェッブに、取材を勧める手紙が届いた。
10月21日、ウェッブはポーツマスへ出向き、六時間かけて二人から話を聞いた。彼の第一報は、この二人は誠実で知的であり、事件はおおむね報告どおりに起きたと結論している。人間の観測につきものの、時間や距離の見積もりの誤差はあるだろうが、と留保を付けたうえで。ウェッブは後に、この事件のためだけに60ページの最終報告書を書くことになる。
1965年8月30日付のその報告書が、この物語の運命を決めることになるのだが、それは後で書く。
もう一つ大事な日付がある。1961年11月25日、ナイキャップのシー・ディー・ジャクソンとロバート・イー・ホーマンが改めて夫妻に長時間の聞き取りをした。二人はウェッブの報告を読み込んでいて、質問の一つが移動時間についてだった。178マイルの道のりは四時間ほどのはずだ。ところが夫妻は、コールブルックを出てから帰宅まで七時間かかっている。この計算を突きつけられたとき、夫妻は答えられなかった。
ここで初めて「行方不明の二時間」が事件の中心に据わった。ついでにジャクソンとホーマンは、あのオレンジ色の球体は月ではあり得ないと指摘した。月はもっと早い時刻に沈んでいたからだ。
つまり、失われた二時間という概念は、体験者が言い出したものではない。調査者が計算して発見し、体験者に手渡したものだ。この順番は、後の議論でずっと効いてくる。
五夜連続の夢と、十一月の手記
事件からおよそ十日後、ベティは夢を見始めた。ウェッブの報告では「一週間半から二週間後に始まり、六晩ほど続いた」となっており、後年の整理では五夜連続とされることが多い。いずれにせよ、彼女はそれを、これまでの人生で見たどんな夢とも違う、異様に鮮明で筋の通った夢だったと語っている。そして六晩目からは、ぱたりと止んだ。二度と見なかった。
夢の中身はこうだ。夜の道に検問のようなものがあり、男たちが車を取り囲む。彼女は意識を失いかけ、必死に踏みとどまろうとする。気がつくと夜の森を歩かされていて、両脇を小柄な男に挟まれている。振り返るとバーニーが後ろを歩いているが、呼びかけても反応がない。夢遊病者のようだ。男たちは身長5フィートから5フィート4インチ、およそ152センチから163センチ。
おそろいの青い制服を着て、士官候補生がかぶるような帽子をかぶっている。顔はほとんど人間で、黒い髪、黒い目、目立つ鼻、青みがかった唇、灰色っぽい肌。
ここは強調しておきたい。1961年時点でベティが書き留めた夢の中の異星人には、あの吊り上がった巨大な目がない。彼女の記述では鼻が大きく、後年の懐疑論者は「ジミー・デュランテの鼻」と揶揄した。当時の人気コメディアンの、あの立派な鼻である。しかも彼女は、彼らを「怖くはなかった」と書いている。今の「グレイ」とは似ても似つかない。
夢の中で二人は円盤に連れ込まれ、別々の部屋で身体検査を受ける。長い針が彼女のへそに刺され、妊娠検査だと説明される。激痛が走るが、リーダーが手を目の上にかざすと痛みが消える。記号が並んだ本を見せられ、証拠にほしいと頼む。星図を見せられる。最後に、この体験は忘れることになると告げられる。車に戻され、リーダーの勧めで円盤が飛び去るのを見送り、そして帰路を再開する。
1961年11月、ベティはこの夢を五ページの手記にまとめた。この文書が現存し、ニューハンプシャー大学のベティ・アンド・バーニー・ヒル・コレクションに保管されている。催眠に入る二年以上前に書かれた「原型」がある。この一点が、この事件の議論を今日まで生かしている最大の理由だ。
1963年12月14日、ボストンの診察室
その後の二年、二人は静かに壊れていった。バーニーは不眠と胃潰瘍と高血圧が悪化し、股間のまわりに輪を描くようにいぼができて、外科的に取ることになった。ベティは不安発作と悪夢に悩まされた。二人はしばしば車で国道3号線へ戻り、あの晩の場所を探し回った。何度行っても、バーニーが曲がったはずの脇道は見つからなかった。バーニーは妻の夢を「くだらない」と一蹴し続けていた。
彼はもともとユーフォーなんて信じていない。信じていたのはベティのほうだ。
一方で、二人は自分たちの体験を人に話してもいた。1962年11月23日には教会の牧師ジョン・スチュワート・マクフィー宅の集まりで、1963年3月3日には教会の夫婦会で。1963年9月7日、同じ教会でベン・スウェット大尉が催眠についての講演をしたあと、二人は彼に相談した。バーニーがかかっていた精神科医スティーブンス医師に催眠のことを尋ねてみては、と勧められた。
スティーブンス医師が紹介したのが、ボストンのベンジャミン・サイモンだった。
サイモンは軽い人物ではない。第二次大戦中、ロングアイランドのメイソン総合病院で神経精神科の責任者を務め、戦闘によって精神をやられた兵士たちを催眠で大量に治療した実績を持つ。当時のアメリカで、臨床催眠の腕では最上位に数えられる医師だった。そしてユーフォーには何の興味もなかった。
1963年12月14日午前8時、二人はボストンのベイステート通りにあるサイモンの診察室のドアを叩いた。サイモンは後にこう書いている。診察の予約が入っていただけの、いつもと変わらない日だった。バーニー・ヒル氏が奥さんを紹介したとき、彼女が白人であることに気づいて、この人種を越えた結婚が彼の不調に関係しているのだろうかと一瞬考えた、と。
1964年、テープが回り始めた
本格的な催眠回帰セッションは1964年1月4日に始まり、6月27日の治療終了まで、およそ七か月にわたって毎週続いた。夫と妻は別々に催眠にかけられた。しかもサイモンは、セッションの内容を本人が覚えていられないように後催眠健忘の暗示をかけていた。医師が解除するまで、二人は自分が何を話したかを知らない。当然、家に帰って照らし合わせることもできない。すべてテープに録音された。全部で十一時間分。
ウェッブは後に、サイモン医師の自宅で七晩かけて、この十一時間をすべて聴いている。
決定的な回は1964年2月22日、土曜日の朝だった。サイモンはバーニーを診察室に入れ、ベティを待合室に残し、テープをセットした。そして言った。ホテルを出たところから、経験したこと、考えたこと、感じたことを、全部、細かく話してください。
バーニーはまず、前夜に泊まったモーテルの話から始めた。宿の名前も覚えていない。ただ、頭にあったのは別のことだった。彼はサイモンにこう答えている。泊めてもらえるだろうか、と思っていた。満室だと言われるかもしれない。自分が偏見を持っているせいで、そう思ったのかもしれない。医師が聞き返す。あなたが偏見を持っているから。バーニーは言い直す。いや、彼らが偏見を持っているから。医師が確かめる。
あなたが黒人だから。バーニーが答える。私が黒人だからです。
深夜のハイウェイの怪談を掘りに来た催眠セッションの、最初の数分がこれである。コールブルックのレストランの場面でも同じだ。ウェイトレスの肌が浅黒く見えて、白人なのか、先住民なのか、それとも白人として通っている黒人なのかと考えてしまう。自分が黒人だと気づかれているだろうかと考えてしまう。
カナダのレストランでは、通りを歩く人が全員こちらを見ていると感じ、店に入れば全員の目が自分に注がれていると感じ、ダックテールの髪型の若者を見て反射的に身構えた自分を、あとから責めている。なぜあんなに身構えたのだろう、彼らは友好的だったのに、と。
この男が、深夜の空き地で、窓の中からじっと自分を見つめる存在に「捕まる」と感じて絶叫した。ここを無視して事件だけ語るのは、たぶん不誠実だ。
バーニーの証言と、目
催眠下のバーニーは、意識下の記憶と矛盾しない形で、双眼鏡のストラップが切れたのは車に走り戻るときだったと語った。そして、その先を語り始めた。車を走らせたあと、彼はどうしても道を外れずにいられなくなり、幹線を降りた。頭の中の声がそう指示した。もう一本、森の中をくねくね抜ける道へ入れと言われ、また従った。ベティは何が起きているのか分からず戸惑っていた。
しばらく走ると、前方の道に人影の集まりが見えた。右手の森の中がオレンジ色に光っていた。ベティが泣き出したのは、催眠中、この場面を語ったときだ。バーニーは交通事故だと思った。そこでエンジンが止まった。何度回しても、かからない。
人影が二手に分かれて近づいてきた。ベティは10人か12人だと言い、バーニーは6人ほどと言った。三人がバーニー側のドアへ来る。同時に、あの目と、あの声が頭に戻ってきた。目を閉じて、そのまま開けるな、危害は加えない。ドアが開けられた。バーニーは固く目を閉じたままだった。誰かが彼を持ち上げ、両脇から支えて立たせた。ポケットの拳銃は誰かに見つけられ、座席に置かれた。
ベティ側には五人が来た。彼女が自分でドアを開けようとすると、相手が開けてくれた。顔を上げて男を見た瞬間、彼女は「眠って」しまった。次に目を開けたとき、彼女は森の中の広い小道を、森の光のほうへ向かって歩いていた。前に三人、後ろに二人。振り返ると、夫が両脇を支えられて連れられてくるのが見えた。ベティにはバーニーがぐっすり眠っているように見えた。バーニー自身の説明では、彼は目を開けるのが怖かっただけだ。
そして、あの目。バーニーは催眠のなかで、繰り返しこう言った。ああ、あの目。あれが私の脳の中にある。二回目のセッションでは、こう言っている。目を閉じろと言われた、二つの目が近づいてきて、その目が私の目の中に押し入ってくるように感じたから。さらに別の箇所ではこうだ。見えるのは目だけだ。体につながっていなくても、もう怖くない。ただそこにある。私の目に押しつけられている。
ベティはリーダーと英語で会話したと語ったのに対し、バーニーは、彼らが何かもごもごと話す言葉は理解できなかったと言っている。数回だけ通じたコミュニケーションについて、彼は「思考の転送」と表現した。テレパシーという単語を、当時の彼は知らなかった。
検査室で交わされた会話
ベティの証言のほうが、はるかに長く、細かい。彼女は円盤の中で、船体に沿って湾曲した廊下を左へ導かれ、くさび形の小さな部屋に入れられた。バーニーは隣の部屋へ。部屋には検査台と丸椅子と戸棚と機材があり、天井から青みがかった強い光が落ちていた。
医師役の一人が、顕微鏡のような器具を彼女の左腕に近づけた。皮膚を拡大して見ているようだった。次にレターオープナーのような細長い器具で腕の皮膚をこそげ取った。標本はリーダーに渡され、プラスチックのような膜に載せて包まれた。目に光を当てられ、口を開けさせられ、喉と歯を見られた。左耳を綿棒でぬぐわれた。髪を何本か引き抜いて切られた。手を調べられ、爪の間をこすられ、爪を切り取られた。
靴を脱がされ、足を見られた。
それからワンピースのファスナーを開けられた。彼女は服を脱ぎ、スリップ姿で仰向けに寝た。針の束が何本ものワイヤーでつながった機械が引き寄せられた。神経系を調べたい、痛くはない、と説明された。実際、痛くはなかった。体のあちこちに針が当てられ、うつ伏せにされ、背中と脊椎も調べられた。
そこで長い針が出てきた。妊娠検査だ、痛くない、と言われた。彼女は聞き返している。針でどうやって妊娠検査をするの、と。返事はなかった。針はへそに刺さった。鋭い痛みが走り、彼女は悲鳴を上げた。二人の男が驚いた。リーダーが急いでかがみ込み、手を彼女の目の上にかざした。痛みは消えた。ベティはこのとき初めてリーダーに感謝し、初めて彼を信用した。リーダーは、痛むと分かっていればやらなかったと言った。
ベティは言い返した。あんなの妊娠検査じゃない。
検査が終わり、医師役が隣室へ行っているあいだ、ベティはリーダーと長い雑談をした。ここが、この事件でいちばん奇妙で、いちばん人間くさいところだ。ベティは言った。とんでもない体験だったわ。相手は、怖がらせて悪かった、できるだけ和らげたつもりだと答えた。ベティは頼んだ。誰も信じてくれないから、何か証拠になるものをちょうだい。リーダーは、好きなものを探しなさいと言った。彼女は戸棚の上の本を選んだ。
開くと、見たことのない記号が縦に並んでいた。
それから彼女は聞いた。あなたはどこから来たの。リーダーは聞き返した。宇宙について何か知っていますか。ベティは正直に、知らないと答えた。リーダーは壁の何かに触れた。壁が開き、地図が引き下ろされた。
「あなたが自分の場所を知らないなら」
ベティが見たと語る地図は、五セント硬貨ほどの丸と、細かい点が、曲線で結ばれたものだった。太い黒線は惑星間の交易路、細い線は時折訪れる場所への経路、破線は遠方への探検飛行。三次元で、窓をのぞき込むように奥行きがあった。星は色づいていて、光っていた。素材は薄く平らで、立体写真のような細かい線は見えなかった。幅はおよそ3フィート、高さ2フィート。彼女は3フィートほど離れて立っていた。
リーダーは尋ねた。この地図の中で、あなたがいるのはどこですか。ベティは笑って、分からないと答えた。するとリーダーは言った。あなたが自分のいる場所を知らないのなら、私がどこから来たかを教えても意味がない。そして地図を巻き戻した。
このやりとりが、後に世界中の天文学者を巻き込む十年越しの論争を生む。地図を見せた側の言い分としては、これ以上ないくらい正しい応答だった、とだけ言っておく。
そのあと、興奮した乗員たちが医師役と一緒に戻ってきた。手にはバーニーの入れ歯があった。彼らはベティの口を開けさせ、歯を引っ張った。抜けない。なぜ男の歯は外れて、女の歯は外れないのか、彼らには理解できなかった。ベティは笑いながら説明した。バーニーは入れ歯なの。人間は年を取ると歯を失うのよ。船内が入れ歯騒ぎになった。彼らは「老いる」とは何かと聞いた。
人間の寿命はだいたい百年だけど、たいていは六十五から七十くらいで体が衰えて病気で死ぬ、と彼女は答えた。「年」とは何かと聞かれた。時間を測る単位よ、としか言えなかった。何を食べるのかと聞かれた。野菜って何だ、と聞かれた。好きな野菜は。カボチャ。どんな形。黄色くて。黄色って何。
会話はここで詰む。相手が言葉の意味を理解しないので、彼女には説明のしようがなかった。
最後の場面はつらい。廊下でバーニーと合流したとき、乗員たちが騒ぎ出した。リーダーが話し合いに行き、戻ってきて、本を取り上げた。ベティは催眠中、ここで泣いた。あれは私の唯一の証拠なのに、と抗議した。リーダーは、他の者が反対したのだと言った。この体験は誰にも知られてはならない、あなた自身も忘れることになる、と。ベティは怒った。本は返す、でも私は絶対に忘れない、いつか必ず思い出す。リーダーは答えた。
思い出すかもしれない。だが誰も信じない。それに、バーニーは何も覚えていないだろう。万一思い出したとしても、彼の話はあなたの話と食い違う。混乱と疑いと不一致を生むだけだ。だから、思い出しても忘れなさい。ひどく動揺することになるから。
物語の中の登場人物が、その物語の受け取られ方を完璧に予言している。この不気味さは、実話としての真偽とは別の次元で強烈だ。
サイモン医師は、何と結論したか
さて、ここが最重要である。世間の九割は、この部分を知らないまま「ヒル夫妻事件」を語っている。
ベンジャミン・サイモンは、この夫婦が円盤に乗ったとは、一度も考えなかった。
彼の結論はこうだ。ベティが最初の目撃体験に触発されて夢を見た。彼女はその夢を繰り返し夫に語り、友人にも語った。バーニーは最初、ただの夢だと思っていた。しかし次第に被暗示性が働き、彼も「自分たちは連れ去られ、記憶を消されたのだ」と受け入れるようになった。だから催眠下でも同じ話が出てくる。
人は何かを十分に強く信じていれば、それが実際に起きたかどうかに関係なく、催眠下でそれを再現できる――サイモンはウェッブにそう説明している。
サイモンが根拠として挙げた点は具体的だ。まず、ベティの誘拐と検査の記述はきわめて詳細で豊かなのに、バーニーの自分の体験の記述はごく短く、断片的だった。物語がベティの頭の中で生まれ、暗示によって部分的にバーニーへ複写された形跡だ、と彼は見た。次に、二人の記述には無視できないずれがあった。存在の外見が違う。手順の細部が違う。出来事の順番が違う。
共有された一つの現実を二人が別々に思い出したというより、共有された一つの物語を二人が別々に語り直したときの、あのずれ方だった。
そしてもう一つ、これは科学ジャーナリストのフィリップ・ジェイ・クラスがサイモン本人から聞いた話だ。サイモンはテープを再生してみせた。バーニーが催眠下で「空の光を見ている」場面を再体験する部分では、声に本物の恐怖があった。これほど激しく取り乱した患者は診たことがない、とサイモンは言った。ところが、二人が「円盤に乗せられて検査された」場面を語る部分では、声はリラックスして、淡々としていた。
近所のショッピングセンターに行った話でもしているみたいだった、とクラスは書いている。
サイモンは1967年、専門誌『サイキアトリック・オピニオン』にこの症例についての論考を発表した。そして1975年10月20日、テレビ番組『トゥデイ』に出演したとき、司会者に正面から問われた。彼らが実際に宇宙船に乗ったと結論したのか、それとも空想だと結論したのか。サイモンはカメラの前でこう答えている。空想だと結論した。つまり、夢だ。誘拐は起きていない。ただし、何らかの体験があったことは確信している。
当時それが何か分からない物体を見た、という意味での「ユーフォー体験」はあったと思う。だが、そこから先はおおむね夢だ。
彼はまた、ラリー・グリックのラジオ番組で、バーニーの催眠セッションが露わにしたのは「白人社会の中の黒人男性としての強い不安」だったと述べている。あの夜、暗闇の中で彼が見たものは、もともと彼の中にあった「見られている」「危険が迫っている」という感覚によって作られたか、増幅されたのだ、と。そしてこう付け加えた。ユーフォーを信じていたのはベティであってバーニーではない。
物語を養ったのはベティの悪夢だ、と。
自分を有名にした話を、当の本人が四十年近く否定し続けた。これほど誠実で、これほど残酷な立ち位置もない。
夫の話と妻の話は、どこが食い違っていたのか
ここは独立して見ておく価値がある。二人の証言は「驚くほど一致した」と紹介されがちだが、正確には「骨格が一致し、肉付けが食い違った」。
第一の食い違いは、存在たちの姿だ。1961年11月の手記でベティが書いた男たちは、黒い髪と目と、目立つ鼻を持ち、青い制服と士官候補生風の帽子を着けていた。怖くはなかった。ところが1964年の催眠下では、彼らは灰色の肌で、胸板が厚く腰が細く、海軍のピージャケットのような短い上着を着ていた。
そして最初の遭遇時の証言では、バーニーは彼らを「つやのある黒い革のような制服と、つばのある黒い帽子」と描写したのに、催眠下では「黒い制服と帽子を着ていたのはリーダーだけで、他はデニムのような明るい色のシャツで帽子はなかった」と述べている。同じ人物の証言の中で、服装が変わっている。
第二の食い違いは、言葉だ。ベティはリーダーと英語で、外国訛りはあるが普通に会話した。バーニーには彼らの言葉が理解できなかった。通じたわずかな意思疎通は、声ではなく思考の直接伝達だった。同じ船の中の同じ相手が、片方には話しかけ、片方には話しかけていない。
第三の食い違いは、量そのものだ。ベティの話には星図があり、記号の本があり、入れ歯の騒ぎがあり、カボチャの色をめぐる会話がある。バーニーの話には、検査台と、股間に当てられたカップ状の器具と、直腸に入れられた円筒と、皮膚の採取と、あとは目、目、目しかない。彼はほとんどの時間、目を閉じていたと主張しているので筋は通る。
だが「目を閉じていたから語れない」という説明は、「語ることが何もなかった」という説明と外側から見分けがつかない。
第四の食い違いは、二度目の遭遇現場の位置だ。ウェッブは後日、夫妻を車に乗せて、バーニーが曲がったと記憶する裏道をたどった。何マイルも荒野の道を走ったあと、バーニーは「ここだと思う」という場所を指した。最初の遭遇地点から15マイル離れていた。ベティは、そこは違うと言った。夫婦の記憶は、地図の上でも一致しなかった。
1965年10月25日、ボストンの新聞が全部ひっくり返した
夫妻は、この話を売り込む気がまったくなかった。ただし、隠していたわけでもない。教会で話し、友人に話し、1963年11月3日には、マサチューセッツ州クインシー・センターで開かれた「二州ユーフォー研究会」の公開集会で、二百人以上を前に二人そろって語っている。バーニーが目撃と失われた時間と車の物理的痕跡を、ベティが夢の内容を、それぞれ詳細に話した。質疑応答にも応じた。
研究会の書記は後日、素晴らしい講演だったと礼状を書いている。
その会場に、ボストン・トラベラー紙の記者ジョン・エイチ・ラトレルがいた。近所の会員に誘われて来ていたらしい。そして講演を録音したテープが、記者の手に渡った。
ラトレルは一年以上かけてこの話を追った。夫妻の友人たちを訪ね歩き、裏を取った。ナイキャップのウェッブ報告を入手した。空軍情報報告書100の1の61号の写しを、開示要請から一か月待って手に入れた。そして、おそらくサイモン医師の催眠セッションの録音か記録の一部にも到達した。彼は情報源を最後まで明かさなかった。
1965年の夏、サイモンのもとに記者から電話がかかってきた。ヒル夫妻の件、治療の件、催眠を使ったことまで把握している男が、取材を申し込んできた。サイモンは断った。患者の書面の同意なしにこの件を話すことはできない、同意があったとしても患者の精神的健康への影響を自分が判断してからだ、と。一、二か月後、ひどく取り乱したバーニーから電話が入った。
記者が自分たちにも取材を申し込んできた、断った、そうしたら、取材なしでも書くと言われた、と。
1965年10月25日、ボストン・トラベラー紙の一面に、太い活字でこの見出しが出た。「ユーフォーの戦慄――彼らは夫婦をさらったのか」。ジョン・エイチ・ラトレル署名、五回連載の第一回。この連載で同紙は、創刊八十余年の歴史で最多の部数を売った。転載請求は三千件を超えた。翌26日、通信社のユナイテッド・プレス・インターナショナルが記事を配信した。ヒル夫妻は、一晩で国際的な有名人になった。
サイモンはそのとき、ワシントンで学会に出ていた。事務所からの連絡はこうだった。地獄の蓋が開きました。記事には彼の名前も出ていた。ベティは母親への手紙にこう書いている。記者に、公表しないでほしいと頼んだ。私たちは怖かった。嘲笑と侮辱と不信に晒されると思っていた。記者は、公表を止める権利はあなたたちにはないと言った、と。
そして彼女はこう続ける。ところが世間の反応は、私たちが予想したものとは違った。ヨーロッパから、カナダから、全米から電話がかかってきた。誰もが体験を聞きたがった。
1966年、『中断された旅』が全米を走った
連載から二週間後の1965年11月7日、夫妻はニューハンプシャー州ドーバーのピアス記念ユニテリアン・ユニバーサリスト教会で講演した。冷たい雨の晩なのに四百席が満席になり、地下と廊下にあふれた人のためにスピーカーが引かれた。
その客席に、ジョン・ジー・フラーがいた。『サタデー・レビュー』誌のコラムニストで、当時ニューハンプシャー州エクセターで相次いだ目撃事件を取材していた。その取材は『インシデント・アット・エクセター』という本になる。彼は講演のあとウェッブと一緒に夫妻とコーヒーを飲み、翌晩には夕食を共にし、本にしないかと持ちかけた。契約書の草案まで用意していたという。
交渉の末、印税は夫妻とサイモン医師とフラーで分けることになった。
1966年、ダイアル・プレスから『中断された旅――空飛ぶ円盤の中で失われた二時間』が刊行された。序文はベンジャミン・サイモン。本文には、催眠セッションのテープ起こしが戯曲のような形式で大量に収録された。医師と患者の一問一答が、地の文の説明を突き破って現れる。読者は説明を読むのをやめて、その場に立ち会わされる。この構成が、この本の破壊力の正体だった。
同じ1966年、『ルック』誌が10月4日号と10月18日号の二回に分けて、フラーによる抜粋記事「空飛ぶ円盤に乗って」を掲載した。この二号は同誌の販売記録を塗り替えた。表紙はエリザベス・テイラーだったが、売れた理由はたぶんそっちではない。本は30万部以上を売り、ニューヨーク・タイムズのベストセラー第一位に達した。
当時の『タイム』誌の書評は、なかなか意地が悪くて的確だ。ユーフォーを目撃するのと、その中に入るのとは別のことだ、と書き出して、事件を要約したうえで、こう締める。フラーはこの話が真実なら宗教も政治も科学も文学も再検討を迫られると書いているが、その前に頭を再検討したほうがいい、と。同時にこの書評は、サイモンが誘拐を空想と受け止めていることをちゃんと明記している。
1966年の時点で、まともなメディアはそこを外していなかった。
1975年10月20日、テレビが伝説を完成させた
そして、この話を「アメリカ人全員が知っている物語」に変えた決定打が、1975年10月20日午後9時に来る。エヌ・ビー・シーが放送した二時間枠のテレビ映画『ユーフォー・インシデント』。ユニバーサル・テレビジョン製作、監督リチャード・エー・コラ、本編およそ98分。バーニー役にジェームズ・アール・ジョーンズ、ベティ役にエステル・パーソンズ、サイモン医師役にバーナード・ヒューズ。
この作品には二つ、特筆すべき点がある。一つは、人種関係を主題にしていない映画で、人種を越えた夫婦が物語の中心に据えられた、おそらく最初の例だったこと。もう一つは、これがサイエンス・フィクションとして作られていないことだ。異星人が画面に出てくるのは後半も後半で、それまでの大半は、記憶をめぐる心理劇として進む。円盤そのものは映さない。観客の想像に任せる。
ジョーンズが催眠場面で見せる、日常の温和さから号泣寸前の錯乱へ落ちていく演技は、今見ても背筋が寒い。
そして皮肉なことに、この映画は最後まで「本当にあった」と断定しない。サイモン医師も断定しないし、作り手も断定しない。それでも、あるいはそれゆえに、この放送はアメリカ中の茶の間に「宇宙人による誘拐」という概念を配達した。放送のわずか二週間後、1975年11月5日、アリゾナ州でトラビス・ウォルトンの失踪事件が起きる。
認知心理学者のスーザン・クランシーは、この映画がウォルトンの語りに影響した可能性を指摘している。伝説が伝説を生む速度は、驚くほど速い。
星図論争――オハイオの小学校教師が糸とビーズで作ったもの
ベティが例の星図を紙に描いたのは1964年、後催眠暗示によってである。サイモンは条件をつけた。正確に思い出せる場合にだけ描くこと、そして描いているあいだ、自分が何を描いているかに注意を向けないこと。
1968年、オハイオ州オークハーバーの小学校教師マージョリー・フィッシュがフラーの本を読んだ。彼女はアマチュア天文家で、高知能者団体メンサの会員だった。彼女は考えた。もしこれが実在の星の並びなら、視点さえ合わせれば同定できるのではないか。
1969年8月4日、フィッシュはベティを訪ねて地図について直接聞き取りをした。バーニーはその年の初めに亡くなっていた。ベティは地図の見え方を詳しく語った。三次元で、窓の外を見ているようだった。星は色づいて光っていた。他にも星はたくさんあったが、線で結ばれた目立つものと、左側の小さな三角形しか思い出せない。天の川を示すような星の密集はなかった。
だから、もしこれが現実の何かなら、近距離の星だけを描いたものだろう。格子線はなかった。
フィッシュは自宅で、糸とビーズを使って半径22パーセクほどの範囲の三次元星図模型を作った。1969年に刊行されたグリーゼ近傍恒星カタログの距離データを使い、生命を支えうると彼女が考えた条件を満たす太陽に似た星だけを選び出した。そして何年もかけて、何千という視点から模型をのぞき込んだ。
最終的に、彼女の地図と一致すると彼女が判断した唯一の視点は、地球から約39光年離れた二重星系、ゼータ・レチクルから見た方向だった。
フィッシュは分析をウェッブに送った。ウェッブは同意し、天文雑誌『アストロノミー』の編集長テレンス・ディキンソンに持ち込んだ。ディキンソン自身はこの結論を支持しなかったが、同誌史上初めてユーフォー報告に関する議論の場を誌面に設け、1974年12月号に「ゼータ・レチクル事件」という記事を掲載した。以後およそ一年、同誌の投書欄はこの一件をめぐる賛否で埋まった。
ユーフォーに関する主張について、主流の科学雑誌上でおこなわれた議論としては、今なお最も内容の濃いものの一つだ。
肯定側の代表はデービッド・サンダースだった。コンドン委員会に参加していた統計学者である。彼はこう述べた。太陽に近い千個ほどの星の中で、特定のスペクトル型の十六個の星がこの並びに一致する確率は、少なくとも千分の一以下だ、と。完全に一致していれば一万分の一、実際は完全ではないので千分の一程度に落ちる、と。
ユタ大学のフランク・ビー・ソールズベリーも、驚くほどよく合っている、これは目を引く一致で、ヒル夫妻の話を真剣に受け止めざるを得なくさせる、と述べた。ただし彼は、決定的な証拠ではないと釘を刺している。
肯定側がもう一つ強調したのは、日付だ。グリーゼのカタログが公刊されたのは1969年。ベティが地図を描いたのは1964年。五年早い。1969年より前、この距離データは一般には手に入らなかった。だから捏造は難しい、というわけだ。
カール・セーガンの反論と、ヒッパルコスが崩したもの
この主張に真正面から刃を入れたのが、コーネル大学のカール・セーガンと、その指導下にいた天体物理学者スティーブン・ソーターだった。二人が『アストロノミー』誌に寄せた反論は、今読んでも切れ味が落ちていない。
まず彼らは、比較図に引かれた線を問題にした。あの「交易路」の線は、二つの図を似て見せるための誘導だ。法廷なら「誘導尋問」と呼ばれるやつだ。線を引く場所を変えれば、まったく別の対応関係を作れる。線を消して点だけを並べて比べれば、二つの図はほとんど似ていない。残るわずかな類似も、点の個数が同じであることと、その点の選び方によって説明がつく。
次に選択の自由度だ。コンピュータで作られた比較用星図は、グリーゼのカタログから抽出した「太陽に似た近傍の四十六個の星」のリストから、さらに十四個だけを選んだものだった。その十四個をどういう基準で選んだのかがはっきりしない。ヒル図に似せたい、という以外の基準が。大きなランダムなデータ集合からは、あらかじめ想定したパターンに似た部分集合をいつでも取り出せる。
しかも三次元の配置を投影する視点まで自由に選べるなら、類似度の最適化は簡単な作業になる。セーガンとソーターはこれを、統計上の誤謬の典型例だと切って捨てた。彼らが使った言葉は「都合のいい状況の枚挙」である。
さらに彼らは、選択がヒル側の図でもおこなわれていることを指摘した。ベティの原図には、線で結ばれた目立つ点のほかに、背景の星を表す散らばった点がいくつもある。位置を示す意図のない点だ。ところが比較に使われた版では、そのうち三個だけが採用され、残りは消えている。
とどめに彼らは、フラーの本にあるひとつの記述を引いた。ベティは最初、自分の星図がペガスス座の星図に似ていると考えていた、というのだ。1965年にニューヨーク・タイムズ紙が、あるクエーサーの位置を示すために載せた図である。つまり、ゼータ・レチクル説にたどり着く前に、いくつの星図と照合が試みられたのか。試して外れた分を数えずに当たりだけを数えれば、当たりの意義は必ず過大評価される。
セーガンは1980年のテレビシリーズ『コスモス』でも、この件を取り上げた。線を消した二枚の図を並べて見せて、似ていないことを視聴者に示したのだ。
そして最後に、天文学そのものが決着をつけにいった。1990年代、ヨーロッパの位置天文衛星ヒッパルコスが十万を超える恒星の距離をそれまでよりはるかに正確に測り直した。すると、フィッシュのパターンに含まれていた星のいくつかが、想定よりずっと遠くにあることが分かった。
さらに、彼女自身の基準に照らせば除外すべきだった星が入っていたことや、逆に彼女が外した星が生命を支えうる候補として再評価されたことも明らかになった。
そしてマージョリー・フィッシュは、自分の仮説を公に取り下げた。彼女の訃報には、新しいデータで再検討した結果、パターン内の連星が生命を支えるには近すぎることが分かったので、真の懐疑主義者として、この対応関係は成り立ちそうにないという声明を出した、と書かれている。何年もかけて糸とビーズで星の海を作った人が、自分でそれを畳んだ。この態度は、正直、事件の登場人物の中で一番かっこいい。
近年の追試も同じ方向を向いている。2022年のガイア計画の第三次データを使った再検証では、フィッシュ案の一致度が旧データより明確に悪化することが示された。特にある一つの星は、グリーゼ・カタログでは約13パーセクとされていたのに、新データでは59パーセクだった。四倍以上違う。
同時に、まったく別の星を主役に据えた対案――イプシロン・エリダニとイプシロン・インディを「母星」とする解釈――も、フィッシュ案と同程度か、わずかに良い一致を示した。つまり答えが一つに定まらない。パターンの一致は、そこに情報があった証拠にはならない。セーガンが言っていたのは、結局これである。
キャノン山の赤い灯
星図とは別に、そもそも最初の目撃自体を説明しようとする試みもある。地元をよく知る作家ジェームズ・ディー・マクドナルドは、2007年9月19日、つまり事件と同じ日付の夜に国道3号線を実際に走り、二人の証言と地形と光源を一つずつ突き合わせた。
彼の結論は身も蓋もない。二人が追いかけていた光は、キャノン山の山頂展望塔に付いていた航空障害灯だった。
根拠は、彼の言い分では一対一で対応する。二人が最初に光を見つけたのは、ランカスターの南、マウント・プロスペクトの肩を越えたところだった。国道3号線を南下してキャノン山の障害灯が初めて見える地点も、まさにその肩である。光は「上に落ちる流れ星」に見えた。その肩を越えると、道は9パーセントの急な下りに入り、道路は真っすぐキャノン山を向いている。夜、この状況で光は主観的に真上へ跳ね上がるように見える。
光は道の右に見えたり左に見えたり、高さを変えたりした。障害灯も、山道を走れば道の右と左を行き来し、高さを変える。光はどんどん大きく明るくなった。障害灯へ向かって走っていれば、実際に大きく明るくなる。フランコニア・ノッチでは光が車の右側を追い越していった。障害灯も、ノッチを南下する車の右側を追い越すように見える。
決定打とマクドナルドが呼ぶのは、フランコニア・ノッチでの一場面だ。二人はそこで、キャノン山のロープウェイ山頂駅の明かりを見て、そのさらに上に「ユーフォー」を見ている。ところが物理的には、その位置から見えるキャノン山の光は二つしかない。山頂駅の明かりと、その上のやや左にある障害灯だ。つまり二人は障害灯を指さして「あれがユーフォーだ」と言っている。
もし彼らの見ていたものが本物の飛行物体なら、では障害灯はどこへ行ったのか。この問いに答えられる者はいない、というのがマクドナルドの立場である。
彼はもう一つ、悪趣味なくらい鋭い指摘をしている。ノッチを抜けたあと、山頂駅の明かりとユーフォーが同時に消えた。二人は「明かりが消された」と解釈したが、実際には山の肩に隠れただけだ。数分後、オールド・マン・オブ・ザ・マウンテンの南側を通って西空が開けたとき、二人はふたたび光を見た。今度は皿ほどの大きさの赤オレンジ色の球体として。マクドナルドの答えは単純だ。それは月である。沈みかけて赤くなった月だ。
ウェッブ自身、1961年の段階であのオレンジの球を「時刻的に月没と合う」と考えていた。
そして、もしそこまで正しいなら、恐ろしい副産物が出る。二人はその時点で、すでに三十分から一時間を失っていたことになる。犬を散歩させ、何度も止まり、光を見るために意図的に減速していたのだから、当然といえば当然だ。失われた二時間の半分近くは、誘拐される前に自分たちで使っていた可能性がある。
ロバート・シェイファーはこの再現を読んで、ヒル夫妻は「睡眠不足で運転してはいけない」という標語のポスターの顔になるべきだ、と書いた。バーニーはコールブルックを出た時点でおそらく十五時間起きていて、すでに270マイル走り、三度道に迷っていた。そこからさらに七時間、運転を続けることになる。
もっとも、この説にも限界はある。障害灯の誤認は、遠くの光の挙動を見事に説明する。だが、木のてっぺんの高さまで降りてきた物体も、双眼鏡越しの人影も、止まった腕時計も、裂けたワンピースも、トランクの磁性を帯びた円も説明しない。空軍が持ち出した木星説も、気温逆転層説も同様だ。木星は当時、南西の低空にあった。二人は、物体が月の面を横切ったと言っている。木星が月の前を横切ることは、絶対にない。
『ベレロの盾』、十二日間
懐疑論の側から出たもう一つの矢が、これはもう、知ってしまうと忘れられない。
1990年、マーティン・コットマイヤーが雑誌『マゴニア』に「まったく先入観がない」という論考を発表した。当時の誘拐研究者たちは、ヒル夫妻には参照できる文化的下敷きが存在しなかった、彼らは何の先入観もなくこの体験に遭遇した、と主張していた。だからこそ、この証言は本物なのだ、と。コットマイヤーはその主張を検証しにいった。
まず彼は、ベティが夢を見始める直前にドナルド・キーホーの著書『空飛ぶ円盤の陰謀』を読んでいたことを指摘した。その本には十件近い搭乗者目撃例が挙げられている。次に彼が突いたのが、あの目だ。
キーホー自身が、ヒル夫妻の描いた異星人の顔について、あの顔の最悪の部分は目だと書いていた。頭の側面まで回り込む、長く傾いた目。なぜ二人の潜在意識がこんな絵を作り出したのか、それは十分に説明されたことがない、と。
コットマイヤーは地元のテレビ局で往年のサイエンス・フィクション番組『アウター・リミッツ』の再放送を見ていて、「ベレロの盾」という回の異星人を見た瞬間、悪寒が走ったという。目が、頭の側面まで長く回り込んでいた。耳がなく、髪がなく、鼻がない。ヒル夫妻が画家デービッド・ベイカーと共同で描いた顔と、あまりに似ている。
しかも、この異星人はこう言うのだ。私はあなたの目を分析する。すべての宇宙、宇宙の彼方のすべての統一体の中で、目を持つ者はみな、語る目を持っている。そしてその言語はすべて同じだ、と。
コットマイヤーは日付を調べた。「ベレロの盾」の初回放送は1964年2月10日。バーニー・ヒルが催眠下で初めてあの回り込む目を語り、描いたのは1964年2月22日。十二日である。
しかもバーニーの証言には、こんな一節がある。彼らは私に話しかけない。目だけが私に話しかけてくる。分からない。ああ、その目には体がない。ただの目だ。
「目が語る」という発想が、十二日違いで両方に出てくる。偶然だと言い張るには、この発想はあまりに奇妙だ。コットマイヤーの主張はここに尽きる。
反論もある。ユーフォー研究者のジェローム・クラークはベティ本人に確認し、彼女は「『アウター・リミッツ』なんて聞いたこともない、バーニーは夜勤だったし、家にいるときは地域活動で出かけていた」と答えたと報告した。ただし後にピーター・ブルックスミスが調べたところ、バーニーの勤務は深夜零時から午前八時、番組の放送は月曜の午後七時半から八時半だった。時間帯は重ならない。
それに、本人が見ていなくても、見た誰かから聞いた可能性は残る。決着はついていない。ついていないが、この十二日という数字は、催眠回帰という技法が何を拾ってくるのかについて、いやな示唆を与え続けている。
ついでに言うと、翌週放送の「スパイダー郡の子供たち」という回にも、極端に大きな吊り目と禿頭の存在が出てくる。こちらはバーニーのセッションの五日前だ。
証言と体験、四つ
ウォルター・エヌ・ウェッブ――十一時間のテープを一人で聴いた男
この事件でいちばん割に合わない役回りを引き受けたのが、ウォルター・エヌ・ウェッブだと思う。ボストンのヘイデン・プラネタリウムで働く天文教育者で、ナイキャップの科学顧問。1961年10月19日にリチャード・ホールから手紙を受け取り、二日後には60マイル運転してポーツマスへ行き、六時間ぶっ通しで話を聞いた。彼は最初から慎重だった。
搭乗者が出てくる目撃談には、売名か、悪ふざけか、精神的な問題かという可能性が常につきまとう。それは分かっている、と彼は報告書の冒頭に書いている。それでも彼は、この二人は誠実だと判断した。
そして数年後、彼はサイモン医師の自宅に七晩通い、十一時間分の催眠テープをすべて聴いた。星図の分析をフィッシュから受け取って『アストロノミー』誌へ橋渡ししたのも彼だ。1965年8月30日に彼が仕上げた60ページの最終報告書は、1961年の初報の十倍の分量があり、ナイキャップ幹部のあいだで回覧された。皮肉なことに、この報告書の存在が、記者ラトレルに事実確認の材料を与えた可能性が高い。
真面目に調べて真面目に書いた人間の仕事が、当事者のプライバシーを吹き飛ばす爆薬の一部になる。ウェッブの報告書には、感情的な誇張がほとんどない。バーニーの証言の矛盾も、ベティとバーニーで現場の見解が割れたことも、サイモンが誘拐を夢だと結論したことも、全部書いてある。原典に近づけば近づくほど、話は都合よくならない。この報告書はそれを証明している。
キャスリーン・マーデン――十三歳で、止まった腕時計を見た
事件の二、三日後、当時十三歳だったキャスリーン・マーデンは家族と一緒に、伯母夫婦の家を訪ねた。ベティの姪である。彼女はそこで、動かなくなった二つの腕時計を見た。トランクの上の、光沢のある円い斑点も見た。方位磁石をかざすと針が回るのも見た。そして彼女は後年、自分がそのとき何一つ保存しなかったことを繰り返し書いている。写真も撮らなかった。理由は、白黒のブローニーカメラを家に置いてきたから。
十三歳の子供に証拠保全を期待するほうが酷だが、大人たちも同じだった。誰も、これが六十年語られる事件になるとは思っていなかった。
マーデンはその後、伯母の主要な擁護者になった。2007年には物理学者でユーフォー研究者のスタントン・フリードマンと共著で『キャプチャード!ベティとバーニー・ヒルのユーフォー体験』を刊行し、ベティのワンピースの分析を世に出す橋渡しもした。彼女の立場は明確に肯定側で、そこは差し引いて読む必要がある。それでも、彼女の証言には他の誰にも出せない価値がある。
事件から数日後の、まだ物語になる前の家の中の空気を、直接見た人間の記録だからだ。伯母は取り乱してもいなかったし、演技もしていなかった、と彼女は言っている。ただ、困っていた。
フィリス・ビューディンガー――四十年放置されたワンピースを分析した化学者
2001年、分析化学者のフィリス・ビューディンガーが、ある雑誌の四十周年記念記事で、ベティがあの晩着ていたワンピースがまだ現存していることを知った。彼女はマーデンを通じてベティに連絡を取り、布片の提供を受けた。変色した部分から三片、変色していない対照用に一片、そして裏地から一片。2002年7月にはニューヨーク州ロチェスターの集会でベティ本人と会い、追加の布片も受け取った。
分析結果は、正直に言えば、肯定側にも否定側にも痛い。生地はアセテートの編み地で、ピンクからマゼンタに変色した部分は染料と繊維の両方が化学的な影響を受けていた。付着していたのは生物由来の物質で、大部分がタンパク質と、わずかな天然のエステル系油分。この物質は服の内側より外側に多く、外部から来たことを示していた。汗でも尿でも嘔吐物でもない。尿酸は検出されず、糖質も検出されず、においもなかった。
ビューディンガー自身の推定は、湿った状態の何かが服に付き、それを畳んでクローゼットに入れたために乾かず、その物質が栄養になってカビの類が繁殖し、乾いた後にピンクの粉として残った、というものだった。
つまり「宇宙人の証拠」ではない。2004年におこなわれた遺伝子解析でも、異星人のものらしい配列は出ていない。出てきたのは、細菌の一種と、蜘蛛の一種と、人間のミトコンドリア配列だった。それでもこの分析には意味がある。ベティが四十年間、一度も洗わず、保護袋にも入れず、来客に見せながらハンガーに掛けっぱなしにしていた、というその扱い方だ。証拠を売り物にする人間の扱いではない。
彼女は、あれを証拠として管理していたのではなく、思い出として掛けていた。
ロバート・シェイファー――1980年、ベティが舞台から野次られた夜
最後の一件は、聞いていて胸が痛くなる種類の証言だ。懐疑派の論客ロバート・シェイファーは、1980年にニューヨークで開かれた全米ユーフォー会議に出席していた。ベティ・ヒルが登壇し、自分で撮ったユーフォーの写真を上映した。暗い背景に、点と、ぼやけたしみと、輪郭のない塊。それが二百枚をはるかに超えて続いた。ユーフォーが近づいてくる、車を追いかけてくる、着陸する、という説明つきで。
持ち時間の二倍を過ぎたころ、最初は好意的だった会場から野次が飛び始め、彼女は舞台から追い立てられるように降りた。しかも野次っていたのは懐疑派ではない。ユーフォー研究の側の主だった人々だ。シェイファーは、この一件で彼女の信用は完全に失われた、と書いている。
別の記録もある。1977年ごろ、ベティは週に三回以上、夜空を見張りに出ていた。ある晩、同好の士であるジョン・オズワルドが同行した。彼はこう言った。彼女は本当にユーフォーを見ているわけではない。ただ、それをユーフォーと呼んでいるだけだ。その晩、彼女は着陸したユーフォーと街灯を区別できなかった。
これをもって「だから1961年の話も嘘だ」と言うのは論理的に飛躍している。1980年のベティと1961年のベティは同じ人ではない。だが、二十年かけて一人の人間の知覚がどう変わっていくかの記録としては、これ以上ないほど生々しい。事件が人生を食べていく過程が、ここに残っている。
二人が生きた1961年のアメリカ
この事件を、心理学と天文学だけで読むと、たぶん半分しか読めない。
バーニー・ヒルは1922年、バージニア州ニューポート・ニューズに生まれた黒人男性である。ベティは1919年、ニューハンプシャー州ニュートン生まれの白人女性である。二人が結婚した1960年、アメリカの多くの州には、いわゆる異人種間結婚禁止法がまだ生きていた。それが違憲とされるのは1967年のラビング判決を待たなければならない。
ニューハンプシャーにその法はなかったが、法がないことと、視線がないことは別だ。
二人はユニテリアン・ユニバーサリストの教会に通い、公民権運動に関わった。バーニーはニューハンプシャー州の人権委員会にも関与している。ボストンでの深夜勤務、片道96キロの通勤、悪化する胃潰瘍と血圧。ベティは州の児童福祉のケースワーカー。仕事も生活も余裕がない。三日間の旅行が、結婚十六か月目にしてようやく取れた「遅れた新婚旅行」だった。
そして、催眠テープの冒頭で最初に出てくるのは異星人ではなく、モーテルのフロントで断られるかもしれないという恐怖だった。レストランでウェイトレスの肌の色を推し量る自意識だった。歴史家マシュー・ボウマンは2023年にイエール大学出版局から『ベティとバーニー・ヒルの誘拐――異星人との遭遇、公民権、そしてアメリカのニューエイジ』を刊行し、この事件を1960年代アメリカの縮図として読み直した。
彼の論の骨は、こうだ。夫妻は最初、制度を信じていた。空軍に電話したのも、科学者に手紙を書いたのも、真面目な市民として正しい窓口を叩いたからだ。ところが空軍は木星と言い、逆転層と言い、データ不足と言って去った。科学は取り合わなかった。新聞は同意なく書いた。そうやって夫妻は、政府と科学と公民権運動の成功への信頼を少しずつ失っていった。
ボウマンはそこに、後のアメリカ社会全体を覆う不信と陰謀論の萌芽を見ている。
そして、社会学者クリストファー・ベイダーが言った一言が、この話の底を貫いている。あの異星人たちは何だったか。黒と白の混ざりものだった、と。
その後の二人
バーニー・ヒルは1969年2月25日、脳出血で死んだ。46歳だった。事件から七年半、『中断された旅』の刊行から二年半。テレビ映画も、星図論争も、彼は何一つ見ていない。マージョリー・フィッシュがベティを訪ねたのは、その半年後だった。
ベティは再婚しなかった。彼女はユーフォー界の有名人になった。「ユーフォーのファーストレディ」「あらゆる誘拐事件の祖母」と呼ばれた。講演し、夜空を見張り、1995年には自費出版で『ユーフォーへの常識的アプローチ』という本を出した。シェイファーはこの本を、編隊を組んだユーフォーの大群やら高速道路の上に浮かぶトラックやらが出てくる妄想の書だと切り捨てている。
1991年、事件から三十年の節目に、彼女はユーフォー活動からの引退を宣言した。守られなかった。
2004年10月17日、ベティ・ヒルはポーツマスの自宅で癌のため死去した。85歳。ニューヨーク・タイムズ紙は肺癌と報じている。
彼女の資料――ノート、テープ、手紙、あの手記、そしてワンピース――の多くは、母校であるニューハンプシャー大学に寄贈され、ベティ・アンド・バーニー・ヒル・コレクションとして保管されている。2011年7月、ニューハンプシャー州歴史資源局は、国道3号線沿い、リンカーンのインディアン・ヘッド・リゾートの前に、州の歴史標識第224番を設置した。文面はこうだ。
1961年9月19日から20日の夜、ポーツマス在住のベティとバーニー・ヒル夫妻は、国道3号線をリンカーン付近で南下中、未確認飛行物体との接近遭遇と、二時間の「失われた」時間を体験した。二人は翌日、明るく輝く葉巻型の物体について空軍プロジェクト・ブルーブックへ正式に報告したが、1965年にボストン・トラベラー紙に漏れるまで公にはしなかった。
これはアメリカ合衆国で最初に広く報道されたユーフォー誘拐事件である。
州が、公費で、道端に立てた。この話は、もう伝説ではなく地理になった。
なぜこの夜の話だけが、六十年たっても怖いのか
理由を三つ書いて終わりにする。
一つ目。この話の怖さは、宇宙人にあるのではなく、「自分の記憶が自分のものではない」という一点にある。二人が最初に持ち帰ったのは、円盤の記憶ではない。空白だ。ビープ音とビープ音のあいだが、ない。しかも、その空白の存在すら、自分たちでは気づけなかった。他人に計算されて初めて、そこに穴が空いていることを知った。あなたの昨日の夜、二時間、抜けていませんか。
抜けているとしたら、あなたはどうやってそれに気づくのか。この問いは、異星人がいてもいなくても機能する。だから怖い。
二つ目。この話には、逃げ場としての「悪意ある人物」がいない。夫妻は嘘をついていない。少なくとも、彼らが自分では嘘だと思っていた証拠は一つもない。サイモンは患者を守ろうとしただけで、しかも最後まで誘拐を否定した。ウェッブは丁寧に調べた。フィッシュは何年もかけて模型を作り、データが変わったら自分で仮説を取り下げた。セーガンは正しく反論した。
ラトレルは、褒められた手口ではないにせよ、公開の集会で語られた話を報じた。全員がそれぞれの持ち場でおおむね誠実に振る舞って、それでも一つの巨大な神話ができあがってしまった。悪人がいない怪談ほど、始末に負えないものはない。
三つ目。そしてこれが、この事件が「原典」と呼ばれる理由でもある。1961年11月にベティが書いた手記の異星人には、大きな鼻があり、黒い髪があり、青い制服があった。怖くなかった。今の「グレイ」ではない。あの目、頭の側面まで回り込むあの目が現れるのは、1964年2月22日のバーニーのセッションだ。そして1966年の本と『ルック』誌が、その顔を数百万人に配った。
1975年のテレビ映画が、それを茶の間に届けた。以後の誘拐証言は、ほぼ例外なくこの文法で語られる。失われた時間、灰色の小人、検査台、催眠による回収。バッド・ホプキンスも、ハーバードのジョン・マックも、この枠の中で仕事をした。しかも多くの場合、この枠を作ったのと同じ技法、催眠回帰を使って。
言い換えると、この事件が本当に発明したのは、宇宙人ではない。宇宙人の話し方だ。恐怖には、いつでも入れる器が必要で、器はいつでも文化が用意する。ヒル夫妻は、その器を作ってしまった側の人だった。彼らはそれを望んでいなかった。望んでいないのに作ってしまった、という点だけは、この六十年、誰も否定していない。
国道3号線は今も通れる。インディアン・ヘッドの前に標識が立っている。夜、あの道を南へ走ると、キャノン山の頂に赤い光が点いている。それが何かを、あなたは知っている。知っていてもなお、木立の切れ目でその光が現れたり消えたりするのを見ていると、少しだけ落ち着かなくなる。地元を歩き回って全部の説明をつけたマクドナルドですら、そう書いている。分かっていても、あれを見るのは奇妙だ、と。
こっちで消えて、あっちに出る。不気味だ、と。
その居心地の悪さの正体を、二人は1961年の夜に、たまたま最初に言葉にしてしまった。それだけの話かもしれない。それだけの話が、いまだに終わっていない。
