- 四人で数えたら、四人とも違う数になった
- 千歳空港、四十五分遅れの離陸
- 「盛岡」という名前だけで空域を決めた
- 午後二時二分三十九秒
- サンデー毎日の表紙に、「全日空機散る」と出た
- 黒い豆粒が落ちてくる、と地上の人は言った
- 木という木に、帯とストッキングが引っかかっていた
- 北海道から帰る途中の、遺族会の旅行だった
- 富士市は、二度目の喪失を数えることになった
- 報告書がいちばん長く書いたのは、地図のことだった
- 三十三時間後の逮捕と、十二年かかった裁判
- 四千八百二十三万円という判決
- 長官が辞め、空の使い方が書き換えられた
- 前の山の頂きに、供養塔が建った
- 四文字に、二度と起こすなという意味を入れた
- 三十三回忌で、毎年の慰霊祭に区切りをつけた
- 富士山をかたどった塔が、令和になって建った
- コンビニの明かりで見たら、車じゅうが手形だった
- 駐車場の右側を走っていたはずが、左の崖にいた
- 木の根を素手で掘りはじめた女の子
- テントが揺れて、熱い、助けて、と聞こえた
- 頭が割れるように痛い、という書き込み
- 五百五十段と、霧と、崖のふち
- タクシーが坂の途中で停まって、運転手が降りてきた
- 実況スレの男が、十八時二十三分に登りはじめた
- 日本で一番ヤバい心霊スポット、と言った動画
- 遺族の前で、面白半分で来ないでくれと言うこと
- 七月の草刈りと、富士から来る子どもたち
- 三十五年後、斜面から窓枠が出てきた
- 激励会のために、自衛隊機が十三機飛んだ
- 心霊スポットという看板は、いつ掛かったのか
- 地元の人は、あの山の話をあまりしない
- 記帳台のノートと、地蔵の列
四人で数えたら、四人とも違う数になった
石段を数えながら登る人がいる。四人で登って、四人とも違う数を言った。ひとりが五百四十いくつ、ひとりが五百六十いくつ。
数え直そうと言い出したやつがいて、結局やめた。降りるときは誰も口をきかなかったらしい。誰も正解を知らない。
この話は形を変えながら二十年以上、掲示板の上を回っている。段数そのものは公表されている。財団の案内には「山頂まで階段五百五十段」と書いてある。数が合わないのは、たぶん息が上がって数えるどころではなくなるからだ。五百五十という数字を先に知って登った人でも、たいていは三百段を過ぎたあたりで数えるのをやめてしまう。
それでも話は死なない。むしろ段数がはっきりしたぶん、ずれの怪しさだけが濃くなった。岩手県岩手郡雫石町西安庭第四十七地割。
ここは日本の心霊スポット人気投票でしょっちゅう一位を取る場所。そして、百六十二人が空から落ちてきた場所だ。花はいつもある。
千歳空港、四十五分遅れの離陸
一九七一年七月三十日は金曜だった。よく晴れていた。全日空五十八便、ボーイング727―281型、機体記号JA8329。製造からまだ五か月も経っていない、ぴかぴかの機体だった。風はほとんどなかった。
定刻より四十五分遅れて千歳空港を出たのが午後一時二十五分。離陸は一時三十三分。乗客百五十五人と乗員七人、合わせて百六十二人が乗っていた。機長は四十一歳、陸上自衛隊出身で総飛行時間は八千時間を超えていた。操縦室の三人にとっては、羽田まであと二時間の、なんということもない金曜午後の勤務でしかない。
一時四十六分、函館の無線標識を高度二万二千フィートで通過。ジェットルートJ10Lに乗り、松島の標識へ向けて針路を変えた。松島の通過予定時刻は二時十一分と管制へ報告済み。あとは自動操縦で、高度二万八千フィートを真対気速度四百八十七ノットで滑っていくだけだった。札幌の管制部とのやりとりに異常はなく、操縦室の三人は隣の空域に戦闘機が上がっていることを知らずにいた。
同じころ、宮城県の松島基地からF―86Fが二機上がっている。第一航空団松島派遣隊。離陸は一時二十八分ごろ。呼出符号はライラック・チャーリー。教官は三十一歳の一等空尉、訓練生は二十二歳の二等空曹だった。
予定は一時間十分の編隊飛行訓練。基本隊形から疎開隊形、機動隊形、単縦陣と順に組み替えて、最後は松島へ戻って進入訓練をする。そういう段取りだった。段取りとしては普通だ。
「盛岡」という名前だけで空域を決めた
問題は、その日の訓練空域の決め方にあった。本来は別の部隊が使う予定だった空域。飛行班長補佐の三等空佐が、それを百万分の一の地図の上で「盛岡」と名づけて臨時に設定した。
その地図にはジェットルートが載っていなかった。飛行班長が承認し、飛行隊長もそのまま通す。主任教官は教官と訓練生に訓練を指示したが、空域の具体的な位置も範囲も説明していない。説明は一行もない。
松島派遣隊の飛行制限空域は決まっていた。ジェットルートJ11Lの中心線から左右九キロ、高度二万五千から三万一千フィートのあいだ。よほどのことがなければ訓練してはいけない帯だ。帯の幅は十八キロ。
教官は「盛岡」という名前から、そこがJ11Lの西側だと受け取った。実際には隣接していた。後年の最高裁判決は、この空域設定を杜撰と呼び、上官の責任を正面から書き込んだ。思い違いを個人の不注意として処理しなかったところに、その判決のいちばん大きな意味がある。
午後二時二分三十九秒
衝突は一九七一年七月三十日午後二時二分三十九秒ごろ。雫石町の上空、高度およそ二万八千フィート。地上から八千五百メートル。晴れていた。
教官機は右に百八十度まわり、十五秒ほど直進してから左旋回に入った。その最中、訓練機と、その後ろ下方から近づいてくる全日空機に気づく。回避を指示し、自分は右に切ってから左へ反転し、旅客機の下をくぐった。間一髪だった。
訓練生の側はもっと悪い。教官機の右後ろ、三千フィートほど上を飛ぶ位置。左旋回についていく途中で右を見る。四時から五時の方向、すぐそこに大きな機影があった。
左へ六十度バンクを取ったのが衝突の約二秒前。距離にして五百メートル。もう間に合わない。
727のT字尾翼、その水平安定板の左先端の前縁が、F―86Fの右主翼の付け根あたりに突っ込んだ。水平安定板と昇降舵を失った旅客機は、機首を下げたまま加速していった。水平尾翼を削がれた旅客機がどんな姿勢で落ちていったのかは、地上から撮られた数枚の写真に残っている。
音速を超えた。高度一万五千フィート、およそ四千六百メートル付近で空中分解。十五キロ離れた盛岡の市街でも衝撃音が聞こえている。そこで機体は終わった。
無線には「エマージェンシー、エマージェンシー」が残された。後半は絶叫としか受け取れない。解読不能の音声になっている。花巻上空にいた全日空六十一便の操縦士が、百三十五・九メガヘルツで混乱した交信を拾った。東亜国内航空百十四便の操縦士も同じものを聞いている。
訓練機も錐揉みに入った。射出座席は遠心力で作動しない。訓練生はキャノピーが外れているのに気づき、安全ベルトを自分で外して機外へ抜けた。落下傘で降りた先は雫石駅の南東三百メートルほどの水田で、無傷だった。
教官機は接触を管制へ通報する。現場上空を回りながら、位置と状況を報告し続けた。松島へ降りたのが二時五十九分。この二機のうち一機だけが、無事に地上へ帰った。空は晴れたままだ。
サンデー毎日の表紙に、「全日空機散る」と出た
事故が起きたのは晴れた金曜の白昼で、雫石の空を見上げていた人の数が異様に多い。そのうちの何人かがカメラを持っていて、空中分解した直後の機体が白い燃料の煙を曳きながら落ちていく瞬間を撮っている。世に出たのが早かった。
毎日新聞社が出した週刊誌の緊急特別号が、その写真を表紙に使った。一九七一年八月十五日号。見出しはたった六文字だった。
全日空機、散る。
事故からわずか半月あまりで、日本中の駅の売店や書店の店頭に、あの瞬間の写真が並んだ。活字の下で、機体は二つに折れたまま宙を滑っている。当時の日本で、旅客機が壊れていく途中の姿がここまで鮮明に印刷されたことはなかった。この一枚が雫石という地名を全国の記憶に刻み込み、そのまま怪談の下地にもなっていく。
写真は残酷なくらい昼の明るさを持っていた。だからこそ、あとから来る夜の話がよく映える。心霊スポットとしての慰霊の森は、この明るい写真の裏返しとして育ったところがある。
黒い豆粒が落ちてくる、と地上の人は言った
地上にいた人たちの言い方は、みごとに揃っている。空から黒い豆粒のようなものが落ちてきた、というのだ。きらきらと異様に光る雨が降ってきた、と話した人もいた。豆粒、と何人もが言う。
豆粒の正体は機体の破片と、座席ごと放り出された人たちだった。高度四千六百メートルから、傘も何もなしに落ちてくる。西安庭の田んぼにも、山にも、屋根にも降った。落ちてくるあいだの数十秒がどういう時間だったのかを、その日の地上にいた誰も想像する用意がなかった。
全日空機の車輪の残骸が民家の屋根を突き破り、八十一歳の女性が怪我をしている。もし破片の落下点が数百メートルずれていたら、地上の死者が出ていてもおかしくなかった。偶然でしかない。
散らばった範囲は東西およそ六キロ、南北およそ六キロ。機体の主要な破片は雫石駅から東へ二キロから三・五キロ、南へ三・五キロから五キロの帯に落ちた。左の水平尾翼と垂直尾翼の一部だけが、もっと離れた場所で見つかっている。拾い集める作業は地元の消防団と警察が担い、人が横一列に並んで林の斜面を上がっていった。
墜落による火災は起きていない。燃料は空中で霧になって散ったからだ。皮肉な話で、火が出なかったおかげで身元の確認は比較的早く進んだ。そこだけが救いだった。
木という木に、帯とストッキングが引っかかっていた
雫石町の動きは速かった。町は即座に対策本部を立ち上げ、町立安庭小学校に現地対策本部を置いている。炊き出し、遺族や来町者の受け入れ、収容資材の調達、宿舎の確保。町民が総出で動いている。
現場へ入った人たちが見たものは、言葉にしにくいものだった。地面に叩きつけられた遺体はほとんど衣服をまとっていなかった。落ちるあいだに剥ぎ取られてしまったからだ。夏の日差しの下だった。
鬱蒼とした林のなかで、女性の頭が地面に突き刺さって肩から下だけが出ていた、という証言が残る。木という木に、おびただしい数のストッキングや下着や着物の帯が引っかかっていたという記録もある。山へ入った消防団員のなかに、その夏のあとしばらく肉が食べられなくなった人がいたという話も伝わる。
派遣された自衛官や警察官が、最初は手を付けられなかったという話も伝わっている。七月三十日の岩手の山中で、気温は上がる一方だった。収容作業は日をまたいで続き、岩手県警は犠牲者一人の身元を取り違えるミスも出している。
八月十一日、岩名目林道の入口で百六十二柱の供養が営まれた。全員ぶんの収容が済んだのが、ようやくそのころだ。十二日かかっている。
北海道から帰る途中の、遺族会の旅行だった
乗客百五十五人のうち、百二十二人が同じ団体だった。静岡県富士市の吉原遺族会の北海道旅行団。添乗員三人が付いていた。同じ市から来た人たちだ。
遺族会というのは、戦争で身内を亡くした人たちの会だ。夫を、息子を、兄を戦地で失った人たちが、戦後二十六年目の夏にようやく組んだ北海道旅行。その帰り道での全滅だった。二度目の通知だった。
富士市は市民百二十五人を一度に失っている。市はただちに全日空遭難対策本部を置き、市長以下の職員が動いている。八月三日、富士市農協広場での合同慰霊式には県の内外から六千人が集まった。同じ町内会から十人以上が一度に消えた地区もあって、葬式の日程を組むこと自体が市役所の仕事になった。
当時の市長と議長の言葉が、広報に短く載る。航空機の安全対策はかけ声だけだったのか。役所の文章としては、はっきり言って尖った書き方だった。
乗員七人のうち四人は客室乗務員の女性たちで、航空機関士はアメリカ人の三十歳だった。副操縦士は二十七歳。機体は新品、乗員は経験十分、天気は快晴。念のため書いておくと、落ちる理由は飛行機の側に何ひとつなかった。
富士市は、二度目の喪失を数えることになった
失われた百二十五人という数字の重さは、富士市の側で見ると別の形になる。吉原遺族会は、戦争で身内を亡くした人たちの集まりだ。会員の多くは、すでに一度、家族の死を役所の紙で知らされていた。
その人たちが二十六年ぶりに組んだ旅行で、今度は自分たちが名簿に載った。ひとつの地区から百二十五人。町内会単位で人が消えた集落もある。町は静まり返った。
八月三日の合同慰霊式に六千人が集まったのは、弔いの規模というより、市全体が同時に喪に服していたからだ。市内の寺という寺で葬儀が重なって、僧侶の数が足りなくなったという話も残る。遺族の遺族が、また遺族になった。この事故が富士市で特別な位置を占め続ける理由がここにある。
だから慰霊堂は静岡を向いている。祈念の塔は富士山の形をしている。富士市との少年交流事業が二十年以上続いているのも、雫石側が一貫してその方角を意識してきたからだった。山の上に建つ堂が真っ直ぐ南西を向いている理由は、突き詰めれば百二十五という数字に行き着く。
報告書がいちばん長く書いたのは、地図のことだった
事故調査の焦点は、ぶつかった二機の動きよりも、その日の訓練空域がどう決まったかに寄っていった。ジェットルートの記載がない百万分の一の地図の上で、飛行班長補佐が鉛筆一本で臨時空域を「盛岡」と名づけて囲ったこと。その紙切れが百六十二人の生死を分けた。
承認の判子は上から下まで揃っていた。飛行班長も、飛行隊長も、誰ひとり地図の縮尺を疑っていない。主任教官が訓練を指示したときにも、その空域がどこからどこまでなのかを言葉で伝えた記録は残らなかった。誰も止めていない。
命令を受けた側へは、盛岡という地名だけが渡された。教官はそこをジェットルートの西側だと受け取り、そのつもりで高度二万八千フィート付近まで訓練生を連れていく。旅客機が飛ぶ帯のすぐ隣で、編隊の組み替えを繰り返していた。
見張り義務という言葉が判決文には何度も出てくる。晴れた昼の空で、時速八百キロ超の機体どうしが接近する。相手が視野に入ってから判断できる時間は、十秒あるかないかしかない。その十秒を前提にした空域の引き方を誰もしていなかったことが、報告書の行間からはっきり読み取れる。
三十三時間後の逮捕と、十二年かかった裁判
岩手県警が動いたのは早かった。事故から三十三時間後、教官と訓練生を逮捕している。容疑は業務上過失致死と航空法八十三条違反。盛岡地検が起訴した。動きは異例に速い。
一審の盛岡地裁判決は一九七五年三月十一日。教官に禁錮四年、訓練生に禁錮二年八月、どちらも実刑だった。全日空機は管制上の保護空域の西寄りを飛んでいた。裁判所はそう認定している。弁護側が主張した旅客機側の過失は容れられていない。
二審の仙台高裁判決は一九七八年五月九日。教官の控訴は棄却され、禁錮四年が維持される。訓練生のほうは逆転無罪になった。訓練生の二年八月の実刑がここでひっくり返り、刑事責任の重さが教官ひとりの肩に乗ることになった。
無罪の理由がはっきりしている。訓練生は臨時訓練空域の位置も範囲も知らされておらず、J11Lの経路も教わっていない。機位を確認する義務がそもそも成立しない。そして全日空機は衝突の二十九秒前から、訓練生の視野の外にあった。
最高裁の判断が出たのは一九八三年九月二十二日。教官の見張り義務違反は認めたうえで、量刑を禁錮三年、執行猶予三年へ引き下げた。訓練生を無罪にしておいて教官だけを実刑にするのは酷だ、という理屈だった。
判決文が踏み込んだのは、そこから先だ。ジェットルートに隣り合わせに訓練空域を設定し、被告人たちに特段の説明もしなかった。杜撰な計画にもとづく上官の命令による訓練であり、被告人たちにその命令を拒む余地はなかった。
訓練命令を出した部隊長側にも捜査は及んだ。起訴は見送られている。上司の幹部は、誰ひとり法廷に立たなかった。責任は下で止まった。
元教官は有罪確定によって自衛隊法の規定で失職し、再審請求も辞退して、操縦士に戻らないまま二〇〇五年八月に亡くなっている。元訓練生は判決後に戦闘機から救難機へ移り、二〇〇三年十月の定年まで人命救助の任務に就いている。同じ空を同じ時間に飛んでいた二人の人生が、判決の一文によって完全に別の方向へ分かれてしまった。
刑事裁判の費用は被告人個人の負担だった。航空自衛隊OBの組織がカンパを集めて支えている。国は出していない。
四千八百二十三万円という判決
遺族が国を相手取った民事訴訟も、刑事裁判と並行して進んでいた。東京地裁は一九七四年三月一日、亡くなった大学助教授の妻子に対し、国に四千八百二十三万円の支払いを命じている。国は控訴せず、この判決は確定した。
金額の争いはもっと大きいところでも起きた。全日空と保険会社十社が国家賠償法に基づいて国を訴え、国は民法の使用者責任で反訴する。全日空の請求は営業損失など十八億円、保険会社は航空保険金二十五億円、国は失った戦闘機と遺族へ立て替えた賠償金など十九億円。
最終的に、東京高裁は全日空機の機体損害額を二十二億六百六十五万八千三百七十七円と認定した。すでに航空保険金でそれ以上を受け取っていたため、賠償請求権は消えている。国が全日空へ七・一億円、保険会社へ十五・二億円、全日空が国へ六・五億円を払うところで双方が控訴をやめた。
高裁は旅客機側の過失もわずかに認めている。衝突の七秒前に決断していれば回避できた、という認定だ。七秒。二万八千フィートの上で、それだけの時間があった。その七秒をどう評価するかだけで、国と航空会社は二十年近く法廷で争い続けた。
長官が辞め、空の使い方が書き換えられた
防衛庁長官の増原恵吉が責任を取って辞め、航空幕僚長の上田泰弘も職を離れている。制度の側の動きも、事故から一週間で始まっている。引責は上まで届いた。
八月七日、政府の中央交通安全対策会議が航空安全緊急対策要綱を出した。柱は三つ。自衛隊の訓練空域と民間の航空路を完全に切り離すこと。
訓練空域は防衛庁長官と運輸大臣が協議して公示すること。その空域を飛ぶ航空機すべてに、管制の指示へ従う義務を課すこと。日本の空の使い方が、ここで一度書き換えられた。
一九七五年六月二十四日には改正航空法が成立し、同年十月から施行された。管制空域での曲技飛行と訓練飛行は原則禁止。見張り義務とニアミスの報告義務が明文化された。トランスポンダや飛行記録装置の装着も義務になる。それまで適用の外に置かれていた自衛隊機にも、同じ規制がかかることになったのが大きい。
当時の東北には航空路監視レーダーがなかった。操縦士からの位置通報を管制官が地図盤の上で拾う、ノンレーダー管制が主流だったからだ。国は事故のあとレーダー整備を進め、一九九一年六月に十七基でほぼ全域を覆い終えた。
空中衝突防止装置が生まれ、一定の規模以上の旅客機への装着が義務になったのも、この系譜の上にある。雫石の空で起きた三十九秒ほどの出来事が、その後の数十年の飛び方を決めた。衝突を防ぐ仕組みが人の目から機械の側へ移っていく流れも、この事故の報告書から枝分かれしたものだ。
民事のほうは長く揉めた。全日空と保険会社十社が国を訴え、国も民法七百十五条で反訴し、互いに損害賠償を請求し合っている。東京地裁は一九七八年に過失割合を国六対全日空四と認定した。東京高裁は一九八九年五月九日にこれを二対一へ改め、自衛隊側の責任をより重く見ている。
高裁は接触地点も細かく認定している。駒木野地区の矢筈橋西詰から北西へ一・五キロ、雫石町西根八丁野地区の北側を中心とする半径一キロ以内。西の端でもJ11Lの線から西へ六・七キロほどで、保護空域の内側だった。
前の山の頂きに、供養塔が建った
収容が終わった一九七一年九月、地元の人たちは前の山の頂きに供養塔を建てた。まだ制度も裁判も何ひとつ決まっていない時期で、町の判断だけで先に手を合わせる場所を作ったことになる。制度より先に塔が建ったわけだ。
翌一九七二年七月三十日、一周忌に合わせて全日空機遭難者慰霊碑が建立された。碑の文字を書いたのは、当時の内閣総理大臣である佐藤栄作だとされる。総理の筆で刻まれた慰霊碑というのは、そう多くない。異例のことだ。
財団法人慰霊の森が設立されたのは一九七四年六月一日で、同じ年の七月三十日から慰霊祭が始まった。遺族と全日空と地元が金と手を出し合って、墜落地点の山そのものを慰霊のための場所として囲い込んでいった。
一九七五年十月十日、慰霊の森が竣工する。同じ月に慰霊堂と、慰霊の森と刻んだ碑が完成した。事故から四年と少し、ようやく形が整う。秋のことだ。
慰霊堂は飛行機の翼に似せた張り出しを持つ建物で、内部の薄明るい散光のなかに、亡くなった人たちの位牌が安置された。堂の向きは静岡県のほうを向いている。犠牲者の大半が富士市の人たちだったからだ。堂の中へ入ると、翼の形をした張り出しの下に位牌が並んでいて、外の蝉の音がふっと遠くなるのが分かる。
一九九三年に慰霊堂と慰霊碑が改修され、供養塔が置かれた。三十三回忌にあたる二〇〇三年には各施設がもう一度手直しされ、この年を区切りに毎年の慰霊祭は形を変えていく。以後の維持管理は財団と地元住民、それに全日空の社員が担ってきた。
四文字に、二度と起こすなという意味を入れた
一九七五年十月に建てられた碑には、慰霊の森とだけ刻まれている。財団はこの四文字について、こういう遭難事故を二度と起こしてはいけないという強い思いを込めたものだと説明してきた。単なる場所の名前ではない。宣言として彫られた文字だ。まあ、そう読むほうが近い。
だから改称は簡単な決断ではなかったはずだ。慰霊という言葉を園地の名前から外すことは、その宣言を薄めかねない。財団の名前のほうに慰霊の森を残したのは、その折り合いの付け方だった。
森の雫となりて。二〇一九年十二月に建った碑の言葉は、雫石の雫と、遺族の涙を重ねている。翌年の改称は、この一行から自然に出てきた名前だ。誰の発案かは伝わらない。正直、そこは分からないままだ。
犠牲者の名前は百六十二人ぶん、いまも碑の面に刻まれたまま順番に並んでいる。名前を読んでいくと、同じ姓が何度も続く箇所がある。夫婦で、親子で、兄弟で乗っていた人たちだ。
三十三回忌で、毎年の慰霊祭に区切りをつけた
遺族会が毎年の慰霊祭を続けたのは、二〇〇三年の三十三回忌までだった。三十三回忌は弔い上げの節目にあたる。遺族の高齢化も進み、静岡から岩手まで毎年上がってくるのが体力的に厳しくなっていた。
この年、園内の各施設がもう一度手直しされている。以後の維持管理は財団と地元住民、それに全日空の社員が引き受けた。式の名前も規模も少しずつ変わり、献花と拝礼というかたちに落ち着いていく。遺族が毎年上がってこなくなっても山の草は伸びるので、手を入れる役目だけは残り続けることになる。
財団自体も二〇一四年に一般財団法人へ移行した。制度の衣替えだけの話に見えて、これは山を次の五十年へ持っていくための作業でもあった。碑も堂も、手を入れ続けなければ二十年で草に飲まれる。
一九九三年の改修、二〇〇三年の改修、二〇一六年のトイレ建て替え、二〇一九年の大規模改修。年表を並べると、十年に一度の間隔でずっと金と手が入り続けてきたことが分かる。放置された廃墟ではない。
富士山をかたどった塔が、令和になって建った
二〇一九年、五十回忌を前にした大規模改修が入った。十一月二十二日に竣工式。この改修で、園内には新しい塔が立った。冬の手前だった。
航空安全祈念の塔と名づけられたその塔は、三本の長い石柱で富士山を、十四本の短い石柱で岩手山をかたどっている。訪れた人が拝むとき、自然と富士山の方角を向くように据えられた。二つの山が、静岡と岩手をつないでいる恰好になる。
十二月には森の雫となりて、と刻まれた碑が建った。改修の記念碑で、雫石の雫と、遺族が流した涙とをかけた言葉だ。この言葉が、翌年の改称の下地になる。短い言葉だ。
二〇二〇年五月一日、園地の名前が慰霊の森から森のしずく公園へ変わった。追悼の場から、空の安全を祈る場へ。財団の名前は一般財団法人慰霊の森のままで、園の名前だけが変わったかたちだった。
改称には照明の設置をはじめとした安全対策も伴っている。心霊スポット扱いを減らしたい、という意図が働いていたことは、当時の報道からも読み取れる。名前を変えれば話が消えるかというと、そう簡単ではなかった。夜間に人が入ることを前提として明かりを付けるという判断そのものに、この山が置かれた立場が出ている。
コンビニの明かりで見たら、車じゅうが手形だった
心霊スポットとしての慰霊の森を語るとき、ほとんどの人が最初に口にするのが手形の話だ。原型はだいたい同じ形をしていて、細部だけが語り手ごとに入れ替わる。
よく出回っている一本は、こういう筋書きになっている。男が深夜に車で登り、頂上まで行って引き返した。下りはじめてすぐ、車が理由もなく止まった。
エンジンがかからない。そのあいだに、後ろの窓ガラスを外から叩かれた。誰かいるのかと思っても、叩く音だけが続いて、姿は見えない。しばらくしてエンジンがかかり、彼は山を下りた。外に人はいない。
異変に気づいたのは麓のコンビニに入ってからだ。明かりの下に車を置いて振り返ると、ボンネットにもドアにも屋根にも、手形がびっしり付いていた。ひとつやふたつではなく、数えきれない数だったという。語り手が誰に変わっても、麓のコンビニの明かりの下で初めて気づくという段取りのところだけは動かない。
この筋書きは二〇〇〇年代の掲示板で定着し、心霊スポット紹介サイトに何十回も転載されてきた。手形に顔を押し付けた跡が混じるバリエーションもある。車のバッテリーが上がる、ブレーキのワイヤーが切れている、窓が落ちる。車まわりの不具合は、この土地の怪談でひとつの定番になった。
駐車場の右側を走っていたはずが、左の崖にいた
二つ目は、同じ語り手の二度目の体験として語られる話だ。一度目の手形の話をした男が、今度は職場の仲間四人で慰霊の森へ行った。車中では前回の話で盛り上がっている。
駐車場に入って、場内をゆっくり走っていた。運転席も助手席も、自分たちが駐車場の右側を走っていると認識していた。そのとき後部座席の同僚が、止まれ、と叫んだ。後ろの席から見ていた人間だけが、車が右から左へ寄っていくのに気づいたという順番になっている。
急ブレーキを踏んで外へ出ると、タイヤの左側は崖のふちすれすれで止まっていた。数十センチ動いていたら落ちている。誰ひとり、右から左へハンドルを切った覚えがなかった。
この手の話は方向感覚が壊れる型に分類できる。森から出られない、足が異様に重くなる、背後から気配が迫ってくる。慰霊の森の怪談では、この型が手形の型と並んで多い。型としては古い。
木の根を素手で掘りはじめた女の子
三つ目は、肝試しのグループのひとりに起きたとされる話だ。車で向かう途中から、女の子のひとりが体調を崩していった。大丈夫と言い張ったが、顔色は誰が見ても悪くなっていく。
森のなかを歩いているうち、彼女は返事もできなくなってしゃがみ込んだ。仲間が抱えようとした瞬間、急に顔を上げて森のほうをじっと見た。止める間もなく走り出し、一本の樹の根元に膝をついて、素手で土を掘りはじめたという。
男たちが数人がかりで押さえつけ、車まで運んだ。車に入れるとすぐ気を失ったので、そのまま病院へ直行している。翌日には回復して退院した。記憶は飛んでいる。
後日、彼女が話したことが、この話の芯になっている。森に近づいたあたりから意識がぼんやりして、樹の根元に、手を取り合った悲しそうな顔の男女がぼうっと立っているのが見えた。助けなければ、という衝動だけを覚えていて、病院に運ばれた経緯は何も残っていないと語った。
似た構造の話は、事故直後の寺を舞台にしたものにもある。遺体が安置された寺で、影のような人影がお堂を出入りし、ここはどこだ、と話しかけてきた。当時中学一年生で空中分解を目撃したという投稿者が、その光景を胡麻粒が降ってくるようだったと書き添えている。
テントが揺れて、熱い、助けて、と聞こえた
定番化したテンプレはほかにもいくつかある。テントを張って泊まった人数が、朝になると一人増えている。ささやき声が聞こえるのに、内容だけがどうしても聞き取れない。人数が合わなくなる話は全国にあるが、百六十二人が一度に落ちてきた山で語られると意味がまるで変わる。
熱い、助けて、という声を聞いたという書き込みも繰り返し現れる。空中で燃えたわけではないので、この訴えは事故の実態と噛み合わない。それでも語りのなかでは、飛行機と火のイメージが自然に結びついてしまう。
車の屋根の上で、関節がありえない方向に曲がった人影が踊るように動いていた、という話も有名だ。車の下で何かがもがく音を聞いた、と続く。空中分解で落ちてきた人たちの体の壊れ方が、この不気味な運動のイメージの元にある。
写真の型も厚い。慰霊碑のまわりで人の顔や体の一部が写り込む、撮った写真がいつのまにか消える、オーブが出る。グーグルマップの画像にもオーブが写ることがある、と書き込む人までいた。検証はされない。
もう一つ、白髪の話がある。肝試しに行った若者が一夜で白髪になった、という噂。話が膨らむと、友人二人が白髪の老人の遺体として発見された、という形にまで伸びる。霊能者としてテレビに出ていた人物が高校時代の体験として語ったことで、この型は一気に広まった。
頭が割れるように痛い、という書き込み
体験談の型のなかで、いちばん数が多いのは体調の話だ。派手さがないぶん、まとめサイトでは飛ばされやすい。掲示板の過去ログを辿ると、これが厚い層をつくっている。
通り過ぎただけで頭痛が始まり、帰ってからも何日か抜けない。吐き気が止まらない。咳が出る。自分の趣味でも何でもない歌を、気づくと口ずさんでいる。眠れない夜が続く。
姿を見た系の書き込みもある。夜、森の入口あたりで女の姿に行き会った。同行者が、あれ影がない、と言い出して、二人で走って逃げた。白い人影、男の霊、気配だけ、といった報告が延々と並ぶ。影がない、という指摘を同行者がするところまでが型で、そこから先を語った書き込みはほとんど見ない。
もっと大げさな型も混じる。行った友人の車が燃えた。性格が変わった。家が火事になり、仕事も失っている。いろんな思いを残して死んだ人たちの念だ、と書き手は結論づけている。
これらは互いに矛盾しない。頭痛も吐き気も、五百五十段を夜に駆け登れば普通に起きる。歌の件は、静かすぎる場所で脳が勝手に音を埋めようとする働きで説明がつく。それでも書き込みが途切れないのは、体に出た違和感というのが、いちばん本人にとって否定しにくい証拠だからだ。
五百五十段と、霧と、崖のふち
これらの話をひとつずつ地面の上で見ると、説明の付く部分がかなりある。まず階段だ。駐車場は砂利敷きで、車四、五台しか置けない。広くはない。
そこから山頂まで五百五十段。昼間に登った人が三百段あたりで音を上げているくらいの勾配で、途中に休憩所があり、その先にまた階段が現れる。夜に懐中電灯一本で登れば、息は上がるし足元しか見えない。段数を正確に数えきれないのは、むしろ当たり前だった。
方向感覚の話も地形で説明がつく。園地は県道から山の奥へ入ったところにあり、周囲は見通しの悪い林だ。駐車場は斜面を削って作られていて、へりはそのまま落ち込んでいる。昼でも薄暗い杉と広葉樹の混じった斜面で、五メートルも離れると人の輪郭はすぐに分からなくなる。
雫石は北上川の上流にあたる盆地で、放射冷却の効いた夜や雨上がりには霧が出やすい。夏の夜、標高のある森のなかで霧に巻かれれば、五メートル先の輪郭も溶ける。ベンチが雨も降っていないのに濡れていた、という報告は、その霧の結露で足りる。御所湖の水面から上がった湿気が斜面を這い上がる晩は、懐中電灯の光がそのまま白い壁になってしまう。
手形も同じだ。夜露と、下りの階段で汗だくになった手のひら。それに、手形の怪談は全国どこの心霊スポットにも同じ形で現れるモチーフで、この土地に固有のものではなかった。
音についても、森のなかは落枝や落果の音が絶えない。熊の出没注意の掲示が出る山で、斜め左から鈍い音が落ちてきたとしても、正体の候補はいくらでもある。枝は落ち続ける。
それでも説明しきれないのが、あの場所の圧の話だ。訪れた人が判で押したように書くのは、耳が痛くなるほどの静けさと、この先は行くなと体が言っている感じ。そこだけは地形でも気象でも片付かない。
タクシーが坂の途中で停まって、運転手が降りてきた
掲示板の話のなかに、霊タクシーの型がある。深夜に山を下りていると、対向してくるはずのない車のライトが坂の下から近づいてくる。すれ違いざまに減速し、窓を開けた運転手が、ここは来る場所じゃない、と一言だけ言って走り去るという筋立てだ。
振り返ると、後続のライトはもうない。麓の営業所に問い合わせても、その時間に走った車はなかったと言われる。警告してくる側の霊という、少し珍しい型になっている。記録は残らない。
この型がなぜ生まれたのかを考えると、答えは案外つまらない。実際に慰霊の森へ徒歩で行く人はタクシーを使うしかなく、深夜の山道でタクシーとすれ違う確率がもともと高いからだ。単独潜入の実況でも、逃げ帰る手段はやはりタクシーだった。山あいの細い県道を深夜に走る車といえば、地元の軽トラか、誰かを迎えに行くタクシーくらいしかない。
怪談は、その土地で実際に起きる出来事の形を借りて育つ。手形の話は車社会の話、階段の話は五百五十段の話、タクシーの話は公共交通が細い山あいの話。
実況スレの男が、十八時二十三分に登りはじめた
掲示板の語りのなかで、いちばん生々しいのが単独潜入の実況だ。二〇一〇年代に投稿されたある実況では、昼のうちに下見を済ませた男が、十八時二十三分に駐車場を出発している。
予備の懐中電灯は出発前に壊れていて、手元は一本きり。十九時の時点で、電灯を消したら本当に何も見えないと書き込んでいる。階段の途中では、マジでいつまで続くんだこの階段、と弱音が混じった。
十九時二十六分、慰霊碑が見えたと報告が入る。その奥の森から爆発音が二回した、と続く。屋根付きのベンチが濡れていることに気づいたのもこのあたりだ。二回、続けて鳴った。
慰霊堂の前では、恐怖で言葉が出ない、とだけ書いた。地蔵の群れを抜けて祈念塔へ向かう区間で、体がこの先は行くなと言っている、と書き込んでいる。塔のまわりに白い物体が落ちていて、コンクリートのようでもあり、航空機の残骸のようにも見えたという。
残骸は事故当時に警察が回収したはずだと自分で打ち消しつつ、彼は塔を離れた。下りでは背後から何人もの気配がして、振り返らずに走った。森を抜けたところで気配は消え、呼んでおいたタクシーに乗ってからも、バンパーを叩くような音がしたと書いている。
この実況が面白いのは、怖がりながらも自分で反証を書き込んでいるところだ。残骸のはずがない、イタズラかもしれない。そう書いた上で、気配だけは説明できないまま残した。怖い話として読ませたい欲と、見たものを正確に書きたい欲が、同じ書き込みの中で喧嘩している。
掲示板の側では、慰霊の森はずっと最上位の扱いを受けてきた。二〇〇〇年代のオカルト板発祥のランキングでは、生きている者が行ってはいけない場所として最高ランクに置かれている。恐怖度、話題性、人気度、危険度が全部満点という、身も蓋もない格付けだった。
日本で一番ヤバい心霊スポット、と言った動画
二〇二〇年二月四日、登録者数で国内最大級のユーチューバーが動画を出した。日本で一番ヤバい心霊スポットに行きました、というタイトルがついている。撮影地は慰霊の森。公開直後から批判が集まりはじめた。
岩手県民としてはやめてほしかった。遊び半分で行く場所でも撮影していい場所でもない。動画のネタにするのは亡くなった人に失礼だ。コメント欄の声はだいたいこの三種類に分かれている。地元紙の岩手日報が報じたことで、炎上は県外にも広がった。
二月六日、本人は諸事情により動画を非公開にしたと告知し、不快に思われた方に申し訳ありませんでした、と書いた。この一件以降、大手の配信者が慰霊の森に突撃する例はぐっと減っている。説明は短かった。
炎上の芯にあったのは、撮影の是非というより名前の問題だった。慰霊の森という名前そのものが、ここが誰かの追悼のために作られた場所だと告げている。その名前を付けたまま、日本一の心霊スポットと呼んだところに反発が集中した。
批判の言葉として繰り返されたのは、ここは悲しみを癒やすための慰霊の場であって心霊スポットではない、という一文だ。遺族が土地を買い、碑を建て、木を植え、五十年近く手入れをしてきた山に、肝試しの列ができている。その構造そのものへの怒りだった。名前を付けた側の意図と、その名前を消費する側の作法とが、この一件ではじめて正面から衝突した。
遺族の前で、面白半分で来ないでくれと言うこと
心霊スポット紹介サイトの側にも、この十数年で変化が出ている。体験談を載せる記事の末尾に、面白半分で行かないでほしい、という文言を置くのが半ば標準になった。ランキングサイトですら、遺族や地元から心霊スポット扱いへの批判がある、と注記を入れている。
実際に起きたトラブルは、怪異よりもよほど世俗的だ。深夜の車の出入り、路上の騒音、階段や慰霊堂の周りのゴミ、園内の物を動かしてしまう行為。山の中腹の小さな砂利駐車場に肝試しの車が何台も入れば、それだけで近隣には響く。
財団の側は、園を閉ざす道を選ばなかった。慰霊の森を広く一般の憩いの場として開放し、公共の福祉に寄与する、と目的に掲げている。誰でも来ていい場所にしたうえで、来方のほうを変えてもらおうとしてきた。門を閉めて鍵をかけてしまえば噂だけが残り、山の管理はもっと難しくなるという判断もあったはずだ。
二〇二〇年の慰霊式で、財団理事長を兼ねる猿子恵久町長はこう述べている。気軽に来ていただいて、空の安全を祈ってもらえる場所になれば。心霊スポットとして名前が売れてしまった山を、もう一度べつの名前で呼び直そうという試みだった。
七月の草刈りと、富士から来る子どもたち
森を実際に支えているのは、年に一度の行事ではなく手作業だ。一九八四年から、雫石中学校の生徒による清掃が毎年七月に続いている。刈るのは生徒たちだ。
二〇一九年七月二十日の清掃には、御所地区の生徒と保護者、全日空労働組合連合会、町の職員など約二百人が入った。林道の刈り払いと慰霊堂まわりの掃除。五百五十段の階段も、放っておけばひと夏で草に埋もれる。汗だくになる。
二〇〇四年には富士市との少年交流事業が始まった。犠牲者の大半を出した市の子どもたちが、墜落現場のある町の子どもたちと行き来する。事故を知らない世代どうしを毎年つなぎ直す仕組みで、二十年以上続いている。事故の年に生まれてもいない子どもたちが、毎年どちらかの土地へ渡って、同じ碑の前に立つことになる。
献花と拝礼の式は毎年七月三十日。二〇一九年の四十八年目の式には、町長、遺族、全日空と自衛隊の関係者、富士市長を含めて約百十人が集まった。遺族代表は、語り継いでいきたい、と短く述べている。
二〇二〇年の五十回忌は新型コロナウイルスのために様子が変わった。遺族にも全日空関係者にも富士市にも案内を出さず、財団関係者九人だけで慰霊碑と慰霊塔に献花し、焼香した。節目の年を関係者と迎えられなかったのは残念だ、と町長が言葉を残している。
二〇二一年には衝突から五十年の航空安全祈念式が営まれた。式の名前から慰霊という言葉が外れ、祈念に置き換わっている。二〇二六年七月三十日には五十五年の献花が行われ、静岡から来た児童も列に並んだ。
三十五年後、斜面から窓枠が出てきた
森が静かになったあとも、山は事故を手放していない。二〇〇六年八月、墜落地点から数百メートル離れた急斜面で、事故機の部品が十点近く埋まっているのが見つかった。窓枠や座席の一部だった。
回収したのは全日空の社員だ。事故から三十五年、捜索も回収も終わったはずの山から、まだ物が出てくる。実況の男が祈念塔のそばで見た白い物体を残骸かもしれないと疑ったのは、こういう前例があったからでもある。
全日空はこの事故を組織の記憶として扱い続けてきた。七月を航空安全推進の月間に定めているのは、雫石の事故と、同じ月に起きたハイジャック事件を並べて置いているからだ。二〇〇七年からは東京の研修施設内に安全教育センターを置いた。他の死亡事故の遺品や資料と並べて、雫石の機体の一部を見せている。安全月間という制度の形を取ることで、記憶を個人の感傷から組織の手順へ移し替えてきたことになる。
展示されているのは垂直尾翼の下のエンジン空気取入口の一部と、胴体側面のジュラルミン製の外板。飛行機の外側だった金属が、ガラスケースの内側に置かれている。
事故調査報告書の勧告を受けて、常設の航空事故調査委員会も生まれた。今の運輸安全委員会の遠い出発点のひとつが、この空中衝突だった。系譜は続く。
激励会のために、自衛隊機が十三機飛んだ
自衛隊の側にも後日談がある。一九八六年十月、元教官を励ます会が福岡県内で開かれた。十五年後の話だ。
その移動のために、複数の自衛官が訓練飛行などの名目で自衛隊機を十三機使っている。私的な集まりのための装備使用だとして、これが国会と報道で問題になった。防衛事務次官と航空幕僚長を含む計四十人が処分を受けている。
操縦士五人は本人の意思ではなく上官の命令だったとして処分を免れた。会に出ていないのに監督責任で処分された者もいる。命令で飛んで責任だけが下へ落ちるという構図が、十五年前の事故と気味の悪いほど似ていた。
この一件は、雫石という地名を新聞の見出しにもう一度戻した。事故そのものを覚えていない世代が、不祥事の解説記事として一九七一年の衝突を読むことになる。慰霊の森が心霊スポットとして名前を広げていったのも、ちょうどこの前後からだ。命令で飛んだ者の名前だけが記録に残り、命令を出した側の名前は残らないという形が二度繰り返された。
心霊スポットという看板は、いつ掛かったのか
看板が掛かった正確な日付は誰も知らない。ただ、広がり方はだいたい三段に分かれる。
一段目は八十年代から九十年代の口伝だ。盛岡や雫石の若者のあいだで、あそこはやばい、という話が回っていた時期がある。当時の心霊ブームのなかで、東北の事故現場はテレビや雑誌の格好の素材になった。
二段目が二〇〇〇年代の掲示板。オカルト板や洒落怖のスレッドに体験談が集まり、手形、人数が増える、階段の数が合わないといった型が固まった。ランキングという形式が生まれたのもこの時期で、慰霊の森はほぼ常に上位に置かれている。
三段目が動画の時代だ。二〇一〇年代後半、心霊スポット凸の動画が量産されるなかで、慰霊の森は分かりやすい目的地になった。二〇二〇年の炎上は、その流れが限界に触れた瞬間だった。
面白いのは、三段目まで来たところで語りの一部が自壊しはじめたことだ。いまネットに新しく上がる慰霊の森の話には、明らかに作り物としか思えないものが混じる。深夜巡回の警備員が、一九七〇年代の服装の人影に出会う。
まだ着きませんか、と読唇で伝えられる。翌日、背中に座席番号の痣が浮かぶ。そういう作りだ。
座席番号の痣というのは、よくできている。よくできすぎていて、聞いた瞬間に作り話だと分かる。二〇〇〇年代の書き込みにあった粗さや言い淀みが、こういう話には最初からない。怖くもない。
地元の人は、あの山の話をあまりしない
盛岡や雫石の人に慰霊の森の噂を振ると、返ってくる温度は驚くほど低い。あの山を肝試しの名所として消費してきたのは、だいたいよそから来た人たちだったからだ。事故の記憶が生活のなかに残っている土地では、怪談は娯楽になりにくい。知り合いの誰かが収容に関わっているような土地では、その話を酒の肴にする気にはなかなかならない。
安庭小学校に現地対策本部が置かれ、町民が炊き出しをし、収容資材を集め、遺族の宿を探して走った。あの夏に大人だった人たちは、いまも高齢ながら町にいる。木に引っかかった衣類を下ろす作業に関わった人も、まだ何人か生きている。
雫石中学校の清掃が一九八四年から毎年続いているのは、その記憶の引き継ぎ方として地味だが効いている。生徒は刈り払い機の音のなかで五百五十段を登る。怖い場所ではない。草を刈りに行く場所として、山を覚えていく。
よそ者にとっては最恐スポット、地元にとっては七月に草を刈る山。同じ斜面に二つの意味が重なって、五十年以上ほどけていない。山は同じだ。
記帳台のノートと、地蔵の列
いま森のしずく公園へ行くと、たどり着くまでの道のりのほうが記憶に残る。JR雫石駅から車で七キロ、十五分ほど。盛岡駅からは十七キロで三十五分、盛岡インターからは十三キロで三十分かかる。
バスで行く手もある。岩手県交通の繋鶯宿線のつなぎ多目的運動場前で降りて、一キロ、歩いて十五分ほど。御所湖の脇を通る県道から山側へ折れると、道はこの公園のためだけに作られたような細さになる。県道から折れる入口には小さな看板があるだけで、知らなければ通り過ぎてしまう程度の目印しかない。
駐車場は砂利で、四台か五台。携帯の電波は一本か二本しか立たない。熊の出没注意の掲示が出ている。秋には栗が落ち、大きな蟻が歩いている。人の気配はない。
階段を登りきった先に、慰霊堂と地蔵の列と、奉拝者の記帳台がある。記帳台にはノートが置かれていて、来た人が名前と言葉を書いていく。手を合わせに来た人と、肝試しに来た人が、同じノートに書き込んでいる。ページをめくると、静岡の住所と岩手の住所が交互に並んでいる年があって、そこで手が止まってしまう。
慰霊碑には百六十二人の名前が刻まれている。慰霊堂の位牌は静岡の方角を向く。航空安全祈念の塔は、富士山をかたどった三本の長い石柱と、岩手山をかたどった十四本の短い石柱でできている。塔の前に立つと、自然に南西を向くようになっている。
夏の昼間に登れば、汗が引かないうちに蝉の音が耳を埋める。日が落ちれば、五百五十段はただの暗い縦穴に変わる。七月三十日の午後二時二分過ぎ、この真上で二つの機体がぶつかった。
いまも百六十二人の名前の前には花が置かれている。富士市から来た子どもが去年もここへ登って、記帳台のノートに名前を書いて帰った。
