幹に顔がある、と言われたら
木の幹に、人間の顔が浮かんでいる。あるいは枝先の実が、泣き笑いする赤ん坊みたいな形をしている。そんな話を聞かされたら、たいていの人はまず笑い飛ばそうとする。気のせいだろう、と。
ところが写真に撮って見返すたび、その顔はどうしても人間にしか見えない。しかも夜、その木の下を通ると、かすかな笑い声のようなものが聞こえた気がする。
日本と中国に古くから伝わる怪異「人面樹」は、こういう素朴な違和感から生まれた。そして時代ごとに姿を変えながら、しぶとく語り継がれてきた。中国の古典に残る原型から、江戸期の日本への輸入、そして現代のネットロアまで、順にたどってみよう。
大食国の山に生えている、笑う花
人面樹のもっとも古い記録のひとつとされるのが、中国の明代に編まれた類書『三才図会』になる。天文、地理、人物、器用、草木、鳥獣と、あらゆる事物を図解つきで解説した、当時の百科事典だ。
その異国・異域の項目に、奇怪な樹木が載っている。伝えられるところでは、その木は「大食国」の山谷に自生しているという。西方はるか彼方にあるとされた異国である。
枝の先には、人間の首のような形をした花が咲く。この花は言葉こそ話せない。だが人間が話しかけると、こちらに向かってにっこり笑いかけてくる。
ただし、あまり長く笑い続けさせると、花はやがてしぼんで、ぽとりと地面に落ちてしまう。この一風変わった生態が、記述の肝になっている。
人語は解さないのに感情らしきものがあり、笑いすぎると命を落とすように散る。不気味なだけでなく、どこか哀れを誘う奇妙な余韻が残る説話だ。
なお大食国というのは、アラビア方面を指すとされた古い呼称になる。実際にそこへ生えていた植物、という話ではないらしい。シルクロードを通って伝わった異国の情報が、伝聞に伝聞を重ねるうちに誇張されていく。そうやって幻想的な怪異として結晶したものだと考えられている。
中国の類書には、遠い異国にいるという奇妙な生き物や植物の記述が数多く収められている。人面樹も、その系譜のひとつなのだ。
江戸の百科事典と、鳥山石燕の妖怪画
この物語が日本に渡ってきたのは江戸時代になる。大阪の医師、寺島良安が編纂した『和漢三才図会』がその入り口だ。名の通り『三才図会』を手本にして、日本と中国の事物を網羅的にまとめた書物になる。正徳二年、西暦でいえば一七一三年ごろの成立とされる。
寺島良安は、原典の記述をほぼそのまま引用する形で人面樹を紹介している。山谷に生え、人の首のような花をつけ、話しかけると笑いかけるが、笑わせすぎると花がしぼんで落ちる。この内容が、日本の読者に届けられた。
さらに人面樹は、江戸中期の絵師である鳥山石燕の妖怪画集『今昔百鬼拾遺』にも収録された。石燕は『画図百鬼夜行』シリーズで知られる人物で、日本の妖怪を体系的に絵として残した最初期の作家のひとりになる。
彼の作品に取り上げられたことで、人面樹は文献上の記述にとどまらなくなった。妖怪としての、目に見えるイメージを手に入れたのだ。
石燕の解説文には「山谷にあり その花人の首のごとし ものいはずしてたゞ笑ふ事しきりなり」という一節が添えられている。先行する『和漢三才図会』の記述を踏まえたものだとわかる。この妖怪画集に描かれたおかげで、人面樹は中国由来の怪異のなかでも、日本の妖怪文化にしっかり足場を築いた。
このほか、会津地方に伝わる奇談集『老媼茶話』でも、『三才図会』からの引用という形で人面樹に触れている。江戸期の知識人や怪異好きのあいだで、この笑う木の話が一定の知名度をもって共有されていたことがうかがえる。
現代版は、だいたい三つの型に分かれる
古典の人面樹は、あくまで異国にあるという伝聞上の植物だった。ところがこれが現代日本の都市伝説に持ち込まれると、ぐっと生々しくなる。現代版の噂は、大きく三つの型に整理できる。
ひとつめが「笑い続ける木」の型になる。山中や旧家の庭先にひっそり生えている古木が、風もないのに枝葉を揺らし、くすくすという忍び笑いのような音を立てる。
近づいてよく見ると、幹のコブや枝分かれの模様が人間の顔に見えてくる。それも、笑っているような表情だ。この手の話では、最初は気のせいだと思っていた語り手が、日を追うごとに顔の表情が微妙に変わっていることに気づく。そして最後は、夜な夜な聞こえる笑い声に耐えきれず、その土地を離れる。
ふたつめが「実がなる」型だ。ある木に、幼児の顔のような形をした実がなる。最初は珍しい果実だと評判になり、見物人まで集まってくる。
ところが日が経つにつれ、その実の表情が変わっていく。笑顔から泣き顔へ、さらに苦悶の表情へ。実を食べようとした者が原因不明の体調不良に見舞われた、もいだ途端に実が悲鳴のような音を立てて弾けた。そんな逸話が付け加えられることもある。
みっつめ、そしていちばん恐れられているのが「伐採すると祟る」型になる。人面樹と噂される古木を、道路拡張や宅地開発のために切ろうとする。すると業者や住民が、原因不明の事故や病に見舞われる。
伐採作業の当日に作業員が高所から転落した。伐採後、その土地の関係者が立て続けに不幸に遭った。そんな尾ひれまでついて語られることもある。木を切ると祟りが起きるという構造は、日本各地の祟る神木、切ってはいけない大木の伝承とよく似ている。人面樹の都市伝説が、土着の巨木信仰や御神木信仰に強く影響されながら形になったことがうかがえる。
これらのネットロアが、どの掲示板でいつ生まれたのかは特定しにくい。古典の妖怪のように、はっきりした文献上の初出があるわけではないからだ。二十一世紀に入ってから、怪談系の掲示板やまとめサイト、動画共有サービスに断片的な体験談や創作が集まりはじめた。それが少しずつ、ひとつの型として固まっていったのだと思う。
舞台は語り手によって変わる。学校の裏山、廃屋の庭、峠道の途中。それでも骨格は変わらない。
木に人間の顔が浮かぶ。話しかけると笑う。笑わせすぎたり傷つけたりすると悪いことが起きる。江戸期の古典の構造が、そのまま生き残っているのが面白いところだ。
廃校の校庭に残された「笑い顔のおじさんの木」
派生バージョンのなかで、とくによく語られるものがある。山あいの廃校になった分校に伝わる人面樹の話だ。
児童数の減少で廃校になった山間部の分校。その校庭に、一本の古い大木が残されていた。地元の子どもたちのあいだでは「笑い顔のおじさんの木」と呼ばれ、むしろ親しまれていたという。
ところがある年、その木の幹の瘤に、年老いた男性の顔のような模様がくっきり浮かんでいることに気づいた児童がいた。
最初は面白い木がある、という程度の噂だった。それが次第に、尾ひれを増やしていったらしい。その木に向かって悪口を言うと、その晩に同じ言葉を耳元でささやかれる。木の前で笑うと、木も一緒に笑い返してくる。
ある夜、肝試しのために数人の中学生が分校跡を訪れた。暗闇のなかで、その木の顔がはっきり笑っているのを目撃したという。全員が悲鳴をあげて逃げ出した。
後年、廃校の取り壊しにともなって、この木を伐採する計画が持ち上がる。ところが作業を請け負った業者の関係者が、原因不明の高熱で入院してしまう。伐採用の重機も故障を繰り返し、作業は難航した。結局、その木だけは切られずに残された。
この派生は、学校怪談と祟る神木という二つのジャンルの融合形になる。都市伝説研究の界隈でも、よく話題に上る代表例だ。
顔に見えてしまった人たちの話
体験談も見ておこう。ある地方在住の女性は、実家の裏山にあるエノキのような木が気になっていたらしい。その幹に、人間の横顔そっくりの瘤があるのだ。
とくに夕暮れどき、西日が斜めに差し込む時間になると、その瘤の陰影がくっきり浮かび上がる。誰かがこちらを見つめているように感じられ、日暮れ前には必ずその道を通り抜けるようにしていたという。大人になってから見に行くと、周囲の枝ぶりが変わったせいか、以前ほど顔に見えなくなっていた。当時の恐怖は思い過ごしだったのではないか、と今では思っているそうだ。
別の男性は、キャンプ場の近くの雑木林を散策していて、一本の木の幹にできた大きな洞に気づいた。まるで叫んでいる人間の口に見える。友人と写真を撮って笑い話にしていた。
ところがその晩、テントで寝ていると、外からくぐもった呻き声のようなものが聞こえてくる。一睡もできなかった。翌朝あらためて木を確認したが、変わった様子はない。風か動物の鳴き声だったのだろう。そう言い聞かせたものの、以来その場所でのキャンプは避けるようになったという。
庭の手入れをしていた高齢の男性の話もある。長年放置していた庭木を剪定しようとしたところ、幹の表面に浮かんだ木目が人間の顔に見えて、どうしても鋸を入れられなかった。結局その木だけを残した。以降は特に何も起きていないが、なんとなく切ってはいけない気がした、という感覚だけは今も消えないそうだ。
四つ目は、旅先で撮った写真の話になる。外国の古い庭園に生えていた木の幹を、女性が何気なく撮影した。帰宅して見返して、彼女は驚く。
撮影時には気にも留めなかった幹のこぶが、写真では苦しげにもがく人間の顔としてはっきり写っていた。同行者に見せると、全員が息を呑んだという。後に調べたところ、その庭園はかつて多くの囚人が拘束され、命を落とした牢獄の跡地に隣接していた。彼女は、あの木にはきっと何かが宿っている、と確信するようになった。
水木しげるが描いた人面樹
人面樹は、日本の妖怪文化を語るうえで外せない水木しげるの作品世界にも入っている。『ゲゲゲの鬼太郎』シリーズのうち、比較的新しい第六期のアニメ版に登場した。
この版では、古典の「笑う花をつける木」という設定から一歩踏み込んでいる。大木そのものに人間のような顔がはっきり備わったビジュアルで描かれ、子どもたちを誘い寄せる役割を担っていた。
古典の人面樹は、話しかけられて笑い返すだけの受動的な存在だった。それが、積極的に人間へ働きかけてくる存在へとキャラクター性を広げられている。ここは興味深い変化だ。
水木しげるは生涯にわたって古今東西の妖怪資料を読み込み、自らの妖怪画集や図鑑でマイナーな怪異を数多く紹介してきた。人面樹のような中国由来の地味な怪異が、いまの子どもたちにまで知られている。その背景には、こうした再解釈と普及の力が大きく働いているのだろう。
このほかにも、顔を持つ木というモチーフは植物系ホラーの定番になった。ホラー小説、ホラーゲーム、漫画のなかで、人面樹的な怪異はキャラクターやモンスターの下敷きとして何度も引用され続けている。古典の一行程度の記述が、時代を経て多様なメディアで肉付けされ、独自の生命力を持つに至った。人面樹という怪異の懐の深さだと思う。
アコウの木と、脳が勝手に顔を見る仕組み
面白いのは、現実の樹木が人面樹として話題になった例が複数あることだ。
たとえば南西諸島など温暖な地域に自生するクワ科の樹木、アコウがある。成長の過程で無数の気根を幹の周りに垂らし、それが地面に達すると太い支柱根へ変わっていく独特の生態を持つ。
この気根が絡み合って作る複雑な模様は、光の当たり方や見る角度によって、人間の顔や体のシルエットに見えることがある。地元では畏怖と親しみを込めて特別視されてきた木でもある。
しかもアコウは、他の木の幹に着生して成長し、やがて宿主を気根で覆い尽くして枯らしてしまうことがある。そこから「絞め殺しの木」という物騒な異名まで持っている。生態そのものが、人面樹的な不気味さと結びつきやすい。
海外に目を向けると、ヨーロッパの古い庭園で撮影された一本の木が、人面樹としてメディアで話題になった例が報告されている。幹に生じたこぶ状の模様が、見る人によって穏やかな微笑みにも、苦痛にもがき苦しむ表情にも見える。撮影者本人も気味悪さを感じたと証言している。
心理学の専門家は、この現象をパレイドリアで説明する。人間の脳には、あいまいな視覚情報のなかからパターン、とりわけ顔を見出そうとする性質がある。
人間は進化の過程で、物陰に潜む天敵や仲間の顔をいち早く見分ける必要があった。だから丸や線が集まっただけの単純な配置からでも、顔を認識してしまう強い本能を備えている。木の幹やこぶ、木目に顔を見てしまうのは、この本能のせいだ。
そこへ恐怖や不安が重なると、ただの模様がもっと不吉な表情に見えてくる。シミュラクラ現象と呼ばれるものも相まって、何の変哲もない古木が一夜にして恐怖の対象に化ける。
とはいえ、科学的な説明がついたからといって人面樹の魅力は色あせない。木にはたまたま顔のような模様ができることがある。しかし、その偶然の模様に何かが宿ってしまうこともあるのではないか。この余白こそが、人面樹を現代でも生かし続けている最大の理由だろう。
なぜ、この木は「笑う」のか
怪異や妖怪をまとめるオンラインの百科事典やSNSでは、人面樹は古典由来の妖怪のなかでも根強い人気を保っている。考察好きのユーザーのあいだで、しばしば的になるのが、なぜ人面樹は笑う存在として語られるのか、という問いだ。
一説には、笑いという行為の二面性が理由だとされる。笑いは人間にとってもっとも分かりやすい感情表現でありながら、文脈次第でもっとも不気味にもなる。
楽しくて笑うのではない。理由もわからず一方的に笑いかけてくる。そういう存在には、コミュニケーションが成立しない相手特有の恐怖がある。いわゆる不気味の谷に近い感覚を呼び起こす、というわけだ。
「笑わせすぎると花が落ちる」という古典の設定についても、読み解きがある。これを一種の因果応報譚として読む考察がある。調子に乗って相手をからかいすぎると、手痛いしっぺ返しを受ける。そういう教訓譚だという見方だ。異国の珍しい植物という体裁を取りながら、人間関係の戒めを寓話的に説いた話だったのではないか、という解釈になる。
真偽は分からない。ただ、こうした多角的な考察が絶えず続いていること自体が、この怪異の懐の深さと生命力を裏づけているのだと思う。
人面魚、人面犬と並べてみる
人面樹を語るなら、同じく人面を冠する二つの都市伝説にも触れておきたい。人面魚と人面犬である。
人面魚は平成初期に大きなブームになった怪異になる。寺院の池などに人間の顔そっくりの模様を持つ鯉が飼われている。その話が全国的な注目を集めた。人面犬も、犬の顔が人間そっくりだという噂が広まり、テレビのバラエティ番組で大きく取り上げられて一大ブームを起こした。
この人面シリーズに共通するのは、ひとつの違和感である。動物や植物という非人間の存在に、顔という人間のもっとも認識しやすいパーツが重なる。
ただ人面樹だけは、少し事情が違う。動物と違い、植物は自分で動けない。それなのに、笑うとか祟るとか、能動的な性質を与えられている。
動けないはずのものが、こちらの働きかけに応じて反応してくる。この静と動のギャップこそ、人面樹という怪異が持つ恐怖の核心なのかもしれない。笑う木、祟る木、顔を持つ木。人面樹の物語は姿を変えながら、これからも山野のどこかで新しい目撃者を待ち続けるのだろう。
