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仮母女

「女性二名」で取った予約

良一と洋子が付き合い始めて、まだ半年ほどのことだ。

洋子の両親は昔気質で、娘が男と二人きりで旅行に出るなんて絶対に許さない。だから洋子は「女友達と一泊で温泉に行ってくる」と嘘をついた。良一もそれに合わせて、宿の予約を「女性二名」で入れた。

宿は山あいの、決して大きくはない旅館。パンフレットには離れの落ち着いた部屋の写真が載っていて、洋子は「静かでいいところだね」と笑っていた。

ところが当日。フロントに二人で現れた瞬間、出迎えた女将の顔が明らかに強張った。

予約台帳と客の顔を何度も見比べ、「お連れ様は……」と言葉を濁す。そして事情を説明した。その部屋は古くから「女性専用」と決まっていて、男女を一緒に泊めることはできない、と。

洋子はとっさに嘘を重ねた。「兄です、兄妹なんです」。

女将はしばらく黙り込み、奥へ引っ込んで誰かと相談していた。戻ってきた女将は、渋々ながら二人を部屋へ案内した。ただし襖の前で立ち止まり、洋子の目をまっすぐ見て念を押す。

「今夜だけは、どうか、男女のことはなさらないでください」

二人は顔を見合わせ、曖昧に頷いた。

押入れの隙間から、赤く濁った目

部屋は広くはないが清潔で、床の間には古い掛け軸がかかっていた。

ひとつだけ、妙な点があった。押入れの襖が、他の部屋よりも分厚い。しかも金具が新しい。

旅の疲れと、若さゆえの気の緩み。二人は女将との約束を破ってしまう。

夜半、良一はふと視線を感じた。押入れの隙間、わずか数センチの暗がりから、赤く濁った目がこちらを覗いていた。

次の瞬間、歯のない口が横に大きく裂けるように笑った。その顔が、隙間からずるりと這い出してくる。

良一はそこで意識を失った。

翌朝、洋子は別人になっていた

目を覚ますと、隣の洋子が変わり果てていた。

白目だった部分は白濁し、黒目のあった場所は赤く血走っている。歩き方も内股になり、明らかに激しい痛みがあるはずなのに、洋子は表情ひとつ変えずに「大丈夫だよ」と繰り返すだけだった。

慌てた良一がフロントへ駆け込むと、女将は青ざめて「やっぱり……」と呟いた。そしてようやく、この部屋の由来を語り始める。

かつてこの土地に、子のできない地主がいた。地主は貧しい家の女たちを金で集め、「仮の母」として子を産ませては、生まれた子だけを取り上げて女たちを追い出した。二度と逃げ出さないよう、女たちの目を潰し、抵抗した者には歯まで抜く仕打ちを加えたという。

そうして哀れな末路をたどった女たちが、いつしか「仮母女(かもめ)」と呼ばれるようになった。

死してなお成仏できない女たちの怨念を鎮めるため、墓には眼窩を模した水晶玉が納められた。それで長らく、祟りは眠っていた。

ところが土地を離れる地主が、金目当てにその水晶を盗み出してしまう。最も酷い扱いを受けた一人の女の怨念だけが、かつて自分が監禁されていたこの部屋へ舞い戻った。

寺の僧侶が代わりのガラス玉を墓へ納め、宿には二つの掟が申し送りされた。男女を一緒に泊めないこと。部屋で情を交わさないこと。

女将がずっと守ってきたのは、この掟だったわけだ。

三日の猶予と、破られた結界

女将の話によれば、完全に失明するまで三日の猶予がある。その間、仮母女は洋子の身体を借りて男を探すのだという。

良一は寺へ運ばれた洋子に付き添うこともできず、家に閉じこもって声を出さないよう厳命された。

だが三日目を待たずに、事態は崩れる。事情を知らない洋子の両親が、怒りに任せて寺へ押しかけたのだ。結界の縄と札を引きちぎり、洋子を無理やり連れ帰ってしまった。

宿から良一のもとへ電話が入る。

「洋子さんとご家族が消えました。あれは耳がいい。絶対に声を出さないでください」

良一は部屋に閉じこもったまま、家族への遺書のような手記をしたためた。旅行に誘ったのも、嘘を重ねたのも、禁忌を破ったのも自分だ。もし自分が殺されても、洋子を恨まないでほしい――そう書き残した。

その手記を後年見つけたのは、良一の弟だった。良一自身は生きていた。ただ、心を病んで精神科病院に入院していた。

洋子と、彼女を連れ去った両親がその後どうなったのかは、誰も知らない。

2010年9月22日、午後六時五十分の投稿

この話の初出として広く確認されているのは、怖い話投稿サイト「ホラーテラー」への投稿だ。投稿者名義は「海星」。

日付は2010年9月22日。1話目にあたる部分の投稿時刻が18時50分、女将による因縁語りが続く部分が18時52分。ここまで細かい記録が、怖い話まとめブログの転載記事(「仮母女(かもめ)」1/2、2/2)に明記されている。

これらの記事はスマートフォン版もPC版も長期間アーカイブされ続けていて、原文の改変が比較的少ない転載として知られている。

ただし限界もある。当時のホラーテラーは個人運営の投稿型サイトで、板番号やレス番のような厳密な管理体系を持たない形式だった。だから5ちゃんねる(旧2ちゃんねる)のスレッドのように「何板の何スレ目の何レス」という形での特定ができない。この点は「詳細不明」と言うほかない。

それでも、投稿サイト名、投稿者名、日付、時刻。ここまで一致して複数の転載先に残っているのだから、後年の創作ではなく2010年時点で既に存在した投稿であることは裏付けられている。

その後の広まり方も追える。2012年前後からまとめブログ、mixiの怖い話コミュニティ、Yahoo!知恵袋の「洒落怖のおすすめ」系質問への回答などを通じて知名度を上げていった。2018年頃からはニコニコ動画の「洒落怖怪談語り」シリーズや、YouTubeの「ナナフシギ」「ゆっくり解説」系チャンネルによる朗読・解説動画が大量に投稿されるようになる。

「洒落怖傑作選」系のまとめ記事では、前日譚にあたる「洋子さん」と並べて紹介されるのが定番だ。この二つは、ほぼセットで語られている。

「洋子さんは、仮母女そのものになったのでは」

本編「仮母女」に対して、事件後の洋子や良一のその後を描く続編「洋子さん」が別の投稿として流通している。

洋子さん編では、精神病院に入院した後の良一の様子や、失踪した洋子の消息をめぐる断片的な情報が語られる。読者の間でよく出てくるのが、「洋子さんは仮母女そのものになってしまったのではないか」という解釈だ。想像すると、なかなかきつい。

水晶玉の効力についても、版によって食い違いがある。「水晶なら一か月、ガラス玉なら三日しか鎮めの力が持たない」とする版があり、女将が語る猶予期間の長さが微妙にずれている。この手のブレは、話が口伝的に少しずつ変質しながら広まった証拠でもある。

「かもめ」という呼称そのものについて、「代理母」や「身売りされた女性」を指す古い方言・隠語だったとする解説を付け加える版もある。もっともらしいのだが、これは後年の考察者が付け足した説明で、史料的な裏付けは一切確認されていない。

「うちは男女一組では奥の部屋には泊められない」

体験談も複数ある。

ある読者は掲示板に、学生時代に友人グループで山間の温泉宿に泊まったときのことを書いている。仲居からこう言われたのだそうだ。「うちは男女一組では奥の部屋には泊められない決まりがあるんです」。

そのときは気にも留めなかった。だが後になって「仮母女」を読んで血の気が引き、「あの宿のあの部屋はもしかして」と今でも思い出すという。

もう一人の体験談は、祖母から聞かされた話として伝わっている。祖母の郷里には「跡継ぎのために外から女を借りてくる」という因習の噂が実際にあったらしい。その女たちが子を取り上げられた後どうなったかは、誰も語りたがらなかった。祖母はこの話を聞いたとき、「うちの田舎の話とそっくりだ」と青ざめていたという。

三つ目。深夜にこの話を読み終えた直後、押入れのある部屋で寝ていて明け方に金縛りに遭い、目を開けると襖の隙間からわずかに赤い光のようなものが見えた気がした――という投稿が、まとめサイトのコメント欄に何度も上がっている。本人は「見間違いだと思いたいが、それ以来押入れのある部屋では眠れなくなった」と結んでいた。

「その部屋、封鎖しろよ」という真っ当なツッコミ

読者の反応がまた面白い。

まとめブログのコメント欄では、女将への批判が根強い。「そんな危険な部屋を客室として使い続けること自体がおかしい」「食中毒を疑われるよりも先に、命に関わる部屋なら封鎖すべきだ」。ごもっともである。

中には「怨霊が出てきた時こそアイアンクローでもかませばよかったのに」という皮肉交じりの反応まである。悲惨な話なのに、この温度差が掲示板らしい。

一方、YouTubeのゆっくり解説やナナフシギ系動画のコメント欄では、意見が真っ二つだ。「兄妹だと嘘をついてまで泊まろうとした二人にも落ち度がある」という自業自得論と、「知らずに巻き込まれた洋子が気の毒すぎる」という同情論。この対立が延々と続いている。

誰に責任を求めるべきか、最後まで割り切れない。だからこの話の議論は終わらない。

noteに投稿された「洋子さん・仮母女」名作選の紹介記事でも、この二作はセットで「洒落怖の中でも特に後味の悪い長編」と位置づけられている。読了後の感想として繰り返し引用されるのが、「救いがなさすぎる」「良一の手記が一番怖い」という二つの声だ。

史実の影を借りた、匿名の創作

作中の旅館や地主の名は明かされていない。特定の実在する宿泊施設や事件と結びつける一次資料も、確認されていない。

それでもこの話が強い実在感を持つのは、日本各地の山間部や湯治場に伝わる記憶と重なるからだろう。飯盛女、座敷わらし、座敷牢。そういった因習や伝承の断片が、読む側の中で共鳴する。

近世の宿場町では、貧しい家の女性が奉公や身売りという形で宿に留め置かれ、劣悪な扱いを受けた歴史的事実が各地に記録されている。そうした暗い記憶の破片が、匿名の創作怪談を通して「仮母女」という一つの物語に結晶した。そう見るのが妥当なところだ。

ただし、作中の代理母や身売りの説明を、実在の日本史全体に安易に一般化するのは避けたほうがいい。あくまでこれはフィクションだ。

フィクションが史実の影を借りて恐怖を増幅させる。この手のネット怪談に共通する手口が、ここでも効いている。それが分かっていても、押入れの分厚い襖を見ると、やっぱり少し身構えてしまうのだが。

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