一九七六年七月二十五日、管制室で誰かが声を上げた
パサデナのジェット推進研究所、通称JPLの管制室は、その日、火星周回軌道を回るヴァイキング一号から届く画像データの解析に追われていた。目的はまったく事務的なものだ。着陸機ヴァイキング二号を安全に降ろすため、シドニア地域の地表を撮影して、着陸に向いた平らな地形かどうかを確かめる。それだけの作業だった。
画像処理チームの一人が、コンソールに出た70A13という番号のフレームを見て、思わず声を上げたという。太陽が低い角度から差し込み、濃い影ができている。その影が、岩の隆起の上に人間の顔そっくりの陰影を描いていた。左右対称に見える眼窩。鼻筋を思わせる稜線。口元のような裂け目。
NASAの広報担当はその日のうちに記者会見を開き、これは太陽光と影が偶然作った錯覚に過ぎないと説明した。そのうえで、あえて「人面岩」というキャッチーな呼び名をつけて写真を公開している。皮肉なもので、この先手を打った説明こそが火をつけた。世界中の新聞と雑誌が写真を転載し、「NASAが公式に人面岩と認めた」という見出しのほうが一人歩きし始めたのだ。
惑星科学者ではない二人が、仮説を組み上げた
数年後、この一枚をきっかけに動き出したのは、専門の惑星科学者ではなかった。一人は元CBSニュースの科学担当記者リチャード・C・ホーグランド、もう一人は地図製作の専門家エロール・トーランだ。
二人はヴァイキングが撮ったシドニア周辺の別画像を丹念に見比べ、人面岩から少し離れた場所に五面体のピラミッド状に見える地形があることに目をつけた。これが後に「D&Mピラミッド」と呼ばれる構造物になる。名前はトーランと共同研究者ヴィンセント・ディピエトロの頭文字から来ている。
ホーグランドは一九八〇年代半ば、「火星探査応用センター」という研究グループを独自に立ち上げた。そして人面岩とD&Mピラミッド、周辺に点在する小丘状の地形を線で結び、これらは古代火星文明が意図的に配置した幾何学的モニュメント群だと主張する。しかも地球のギザの大ピラミッドとのあいだに数理的な相関がある、とまで言い切った。これがセドニア仮説だ。
著書『火星のモニュメント』は版を重ね、熱心な支持者を獲得していく。その一方で、天文学界と惑星科学界からはほぼ一貫して疑似科学扱いされ続けた。
発端の一枚は、今もNASAのアーカイブにある
初出をたどるなら、ヴァイキング一号のミッションログに戻ることになる。撮影は一九七六年七月二十五日。人面岩を最初に捉えたフレーム番号35A72の画像は、NASAの公式アーカイブに今も保存されている。当時の画像処理担当だったトビアス・オーウェンが「顔のように見える岩」に気づき、広報部門が「火星に微笑む顔」というユーモラスな見出しでプレスリリースを出した。これが噂の実質的なスタート地点だとされる。
ホーグランドとトーランが本格的にセドニア仮説を唱え始めたのは一九八〇年代前半。一九八四年にニューヨークで開かれた会議で、二人が初めて共同で理論を発表したという記録が、海外の懐疑論者サイトや科学史系の記事で複数言及されている。日本では一九九〇年代のオカルト誌やUFO特集番組を通じて広まり、二〇二〇年代に入ってからもオカルト系ウェブメディアが定期的に蒸し返している。
三つの派生――幾何学、透視、そして隠蔽
セドニア仮説には派生がいくつもある。もっとも古典的なのが、ホーグランドとトーラン流の幾何学配置説だ。人面岩とD&Mピラミッド、周辺の複数の小丘を結ぶと正確な角度の図形が現れ、そこに円周率や黄金比に近い数値が出てくるという。緻密には見える。ただし天文学者からの評価は手厳しい。無数にある地形から都合のいい点だけを選べば、統計的にどんな図形でも作れてしまう。
いわゆるテキサスシャープシューター的誤謬の典型例として名指しされている。
もう一つの有力な派生が、超能力捜査を絡めたバージョンだ。元アメリカ陸軍の遠隔透視プログラム「スターゲイト計画」の関係者として知られるジョー・マクモニーグルが、火星のシドニア周辺を透視したという。その結果として、かつて巨大な文明が存在し天変地異で滅びた痕跡がある、人骨のようなものを見た、といった証言が残されているとされ、オカルト系メディアで繰り返し紹介されてきた。
原理的に検証しようがない主張なので、この派生はセドニア仮説の中で神秘性を担保する役割を果たしている。
三つ目が隠蔽論だ。NASAの探査機が撮った高解像度画像そのものに、意図的なぼかし処理やデジタル加工による証拠隠滅が施されている、という筋書きになる。この主張は、火星表面の別地点で新しい岩の隆起や幾何学的な模様が「発見される」たびに、SNSや動画サイトのコメント欄で何度でも再生産される。
二〇二六年に入ってからも、パーサビアランスやキュリオシティの新しい画像を根拠にセドニア仮説を焼き直す記事が出続けている。
拍子抜けした人と、憧れを持ち続けた人
海外のアマチュア天文学掲示板の過去ログに、こんな書き込みが残っている。大学の天文サークルの先輩から人面岩の話を聞いて、自分でNASAの生データを落とし、画像処理ソフトでコントラストを強調してみた。最初のヴァイキングの粗い解像度なら、確かに顔に見えなくもない。ところがマーズ・グローバル・サーベイヤーの高解像度データを重ねたら、ただの侵食された台地にしか見えず、少し拍子抜けした――という内容だ。
日本のオカルト愛好家のブログにも、似た温度の回顧がある。学生時代に深夜のUFO特集番組でセドニア仮説を知り、衝撃を受けて関連書籍を古本屋で探し回った。手に入れたホーグランドの翻訳書を夢中で読んだ。だが大人になって天文学を学び直してから読み返すと、都合のいい解釈のオンパレードで恥ずかしくなった、と書いている。
一方で、ニコニコ動画やYouTubeの宇宙考察系動画のコメント欄には、まったく別の色の書き込みが並ぶ。小学生の頃に図書館の本でこの写真を見て、本気で火星に文明があると信じ、将来は火星に移住できると思っていた。そういう懐かしみ方だ。セドニア仮説は疑いの対象であると同時に、宇宙への憧れを呼び起こす原体験としても働いてきた。
掲示板では、とっくに決着済みの古典ネタ
日本語圏のオカルト系掲示板や5ちゃんねるの宇宙・オカルト板では、この話題はすでに古典として扱われている。何十年も前にマーズ・グローバル・サーベイヤーが高解像度で撮り直して、ただの侵食地形だとはっきりしているだろう。ホーグランドの主張にいまだに信者がいるのが逆にすごい。冷めた反応が主流だ。
それでいて、新しい写真が出るたびになんとなく気になってしまう、ロマンとしては嫌いじゃない、というエンタメ寄りの肯定も根強く残る。Yahoo!知恵袋には「火星のピラミッドは本物ですか」という質問が定期的に立ち、回答の大半は侵食地形だという科学的説明で占められる。ただし、絶対とは言い切れない、まだ探査されていない場所もある、と慎重な留保をつける回答も一定数ある。
pixiv百科事典やニコニコ大百科の関連項目も似た構えで、NASAの否定的な検証結果を詳しくまとめつつ、ロマンとして語り継がれる分には害はない、という編集姿勢が共通している。
地球のピラミッドと、政府不信という土壌
セドニア仮説が繰り返し引き合いに出すのが、エジプトのギザの大ピラミッド、メキシコのテオティワカン、中国の墳丘群といった、地球上に実在するピラミッド型の建造物だ。これらは高度な測量技術と膨大な労働力を注ぎ込んで築かれた人類の建造物で、存在そのものは考古学的に確立された事実である。セドニア仮説は、その神秘性を借りてくる。
地球と火星の両方に、同じ知的存在が痕跡を残した――という壮大な物語を組み立てるためだ。一九六八年に出たエーリッヒ・フォン・デニケンの『未来の記憶』以降に定着した古代宇宙飛行士説の、いわば火星版になっている。
もう一つ、無視できない背景がある。冷戦期からポスト冷戦期にかけて積み上がった、アメリカ政府や軍、NASAへの不信感だ。ロズウェル事件をはじめとする軍事機密の公開の遅れ、情報公開請求の手続きの煩雑さ。こうした実際の経験が、何かを隠しているに違いない、という直感的な思考の土壌を作ってきた。
セドニア仮説は、その政府不信の文化と、宇宙探査へのロマンチシズムが交差する場所に立っている。科学的にはとうに決着がついた。それでも人は、赤い惑星の写真が新しく届くたびに、そこに顔と直線を探してしまう。半世紀たっても変わらないのは、火星の地形ではなく、こちら側の目のほうなのだ。
