- 夜の海に浮かぶ船、という噂
- 冬の季節風が真横から吹く港町
- 「柄杓を貸せ」と寄ってくるもの
- 「〇〇年の地方紙に載った」という一文
- 仲間を海で亡くした町の記憶
- 三つの層をはがしてみる
- 文永十一年の春、嵐に流された一艘
- 一夜の宿と、宗旨を改めた住職
- 三十番神の堂が見下ろす岬
- 越後富士と呼ばれた目印の山
- 棒鱈と鰊を積んだ船が寄った港
- 文化九年の本に出てくる、新潟沖の痩せた船
- 帆船の時代は帆船、汽船の時代は汽船
- 日本海側に並べてみた船幽霊の顔
- 「いなだ貸せ」「櫂をよこせ」
- 灰をまけ、四十九の餅を投げろ
- コンパスを狂わせ、かがり火で迷わせる
- 海の向こうにもいた覆舟鬼
- 西の海に出るのは平家の死霊
- 帆柱の下に納めた髪と賽子
- 盆の十六日と霧の晩
- 船が進まなくなる、あの現象
- 洞爺丸のスクリューの傷
- 十一か月漂った良栄丸と、後から付いた尾ひれ
- 二〇一七年十二月、柏崎の浜に着いた木造船
- 佐渡の寺に預けられた遺骨
- 柏崎の夜の海でいちばん目立つ光
- 心霊スポットの一覧に、船は出てこない
- 柏崎に割り当てられた妖怪は、池と不動
- 同じ顔つきの幽霊船が、ほかの港にもいる
- 出典らしい一文を見かけたら
- 図書館の棚にある『柏崎市伝説集』
夜の海に浮かぶ船、という噂
新潟県柏崎市の海には、夜になると幽霊船が浮かぶって話がある。この手の話は出典が細かい。江戸の郷土史に明治の県史、それに戦前戦後の地方紙の名前まで、いかにも見てきたような顔で添えられてくる。だからその引用が別の資料で裏づけられるのか、先に確かめてみた。日本海沿いに根を張る船幽霊の伝承が、もともとどんな顔をしていたのかも追いかけている。
冬の季節風が真横から吹く港町
柏崎は中越地方の港町で、漁と海運で栄えてきた。冬がきつい土地だ。日本海側は冬に低気圧が発達して、強い季節風をまともに受ける。近代より前にこの海で海難が相次いだことは、地域史からも気象の面からも、ちゃんと裏づけのある話だ。
弔いの話は多い。海で亡くなった人を弔う行事や言い伝えは、柏崎に限らず日本海沿いの漁村のあちこちで見つかる。どれか一つの事件というより、荒れる海と向き合ってきた漁の暮らしが土台だと見たほうが筋が通る。
「柄杓を貸せ」と寄ってくるもの
筋は単純だ。民俗学でいう船幽霊は、海で死んだ者の霊が船の姿で現れて「柄杓を貸せ」と寄ってくるものだ。うっかり貸すと海水を汲み入れられ、船ごと沈められる。瀬戸内海や東北の太平洋岸でも似た話が採られていて、日本の沿岸部に広く散らばる型になっている。
柏崎も例外じゃない。柏崎の幽霊船も、この全国的な船幽霊の信仰が土地ごとに少し姿を変えたものと見るのが自然だ。底を抜いた柄杓を渡すとか、お経を唱えるとか、対処法まで各地でよく似通うのもこの型の特徴だった。
「〇〇年の地方紙に載った」という一文
柏崎の幽霊船を扱う記事には、何年の地方紙にこう書かれていた、という形で出典が添えられていたりする。結果は空振りだった。別の経路で検索しても、その新聞記事や郷土史の記述は見つからなかった。年代も人名も引用元もそろった書き方って、それだけでもっともらしく見えるんだよな。
一次資料に当たれないうちは事実と決めつけず、ネット上でそう語られている、という距離を保つほうがいい。これは柏崎に限らない。近ごろ急に増えた、生成的な手法で書かれたらしい郷土怪談の記事全体に言える注意点だ。
仲間を海で亡くした町の記憶
荒い海と毎日向き合う漁師には、遭難への恐れがある。死んだ仲間を悼む気持ちもある。その気持ちが年月をかけて怪異の話になっていくのは、世界中の海の文化でごく広く見られる流れだ。柏崎でも、実際の海難の記憶が年月とともに名前を失い、型に収まっていったと考えるのが妥当だと思う。
個別の年代までは、今回確かめられなかった。それでも動かないものがある。日本海側で遭難が繰り返されたこと自体だ。その記憶が全国共通の船幽霊に結びついていく流れは、民俗の側から見ても、ごく自然なものだ。
三つの層をはがしてみる
分解してみよう。柏崎の幽霊船伝説は、三つの層が重なってできている。一つ目は、日本海の沿岸では昔から海難が多くて、浜ごとに弔いの行事が残っているという一般的な事実だ。二つ目は、全国に散らばる船幽霊という民俗の型。
そのうえに三つ目として、年代や引用元をそろえた近年のネット記事が乗っかっている。三つ目は裏づけが取れなかった。これははっきり書いておく。海難の歴史にも伝承にも敬意は保ったまま、この三つ目だけは慎重に扱う情報として脇に置いておきたい。
材料は地味だ。下敷きにしたのは、船幽霊の伝承の型についての民俗学の一般的な知見。それに日本海側の気象と近代以前の海難の知見、そして柏崎市が出している地理や港の歴史の情報を重ねてある。
文永十一年の春、嵐に流された一艘
柏崎には、確かな形で伝わる「流れ着いた船」の話がひとつある。主役は日蓮だ。文永十一年、西暦でいえば一二七四年の春のこと。佐渡に流されていた日蓮が赦されて、三月十五日に島を発ち、海を渡って対岸の寺泊を目指した。
ところが嵐だった。船は暴風雨にあおられ、目指していた寺泊にはどうしても着けない。二日後の三月十七日に流れ着いた先は、柏崎の番神岬にある十院坊岩という岩のそばの小さな入り江だった。予定よりずいぶん南西へ流された。
地元での呼び名は小澗だ。今の住所でいえば番神の大磯あたりで、浜には石碑が立ち、昭和五十一年二月二十日に市の史跡に指定された。嵐の日本海で帆と櫓しか持たない小さな船がどれだけ翻弄されるか、この一件だけでも十分わかる。
日蓮は、無事に上陸できたのは八幡大菩薩の力のおかげだと感謝したらしい。そこで法華経を守る三十番神を祀った、というのが番神堂の由来として伝わる話だ。三十番神っていうのは、ひと月の一日から三十日まで毎日交代で国や人を守るとされた神々のことだ。神仏が溶け合う頃の信仰だった。
一夜の宿と、宗旨を改めた住職
日蓮はこの地で一晩を過ごしたという。当時ここには真言宗の大乗寺があって、住職の慈福法師が日蓮の教えを聞き、日蓮宗に改めたそうだ。授かった法号は日心。嵐が運んできた一人の僧が、浜の寺の宗旨まで変えてしまった。
大乗寺は慶長二年の地震のあと、別の寺と合わさって海岸山妙行寺になり、番神から西本町へ移った。慶応四年の戊辰戦争では本堂が官軍の本陣になり、兵士の落書きが今も残るそうだ。番神堂は今も妙行寺の境外仏堂だ。裏の高台には、海のほうを向いた日蓮の像が立つ。
佐渡にも話がある。赦されて島を離れる際、日蓮は渋手の浜で大黒天の絵を描いたと伝わっている。その画像を今に伝えているのは、佐渡の世尊寺だ。
幽霊船と関係ないって? でも柏崎で沖から船が流されてくる話といえば、まず日蓮なんだよな。嵐に負けて岩に打ち上げられた一艘が、そのまま町の名所の起こりになり、七百五十年たった今も参拝客を集めている。海から来る船をどう語るか、その手本がこの岬にある。
三十番神の堂が見下ろす岬
番神堂は、着いた岩を見下ろす高台に建つ。今の建物は明治四年の大火で一度焼けて、十一年後の明治十五年に建て直されたものだ。造りは権現造り。本殿の壁には彫刻がびっしり入っていて、ここは柏崎の民謡の三階節にも歌われるおなじみの場所らしい。
蝶の話もある。彫刻のどこかに蝶が一匹隠れていて、見つけると幸運が来るって話だ。職人の遊び心だろう、と番神堂を紹介したある記事は書いていて、写真を撮りながら探す参拝客もいるらしい。しっかり探しても、なかなか見つからないそうだ。
冬はにぎやかだ。年の暮れから正月は、除夜の鐘と初詣で人が集まる。三が日だけで一万人近い参拝客が来るという。高台からは柏崎港がよく見渡せて、夏になると今度は花火大会を見物する場所にもなる。
岬のあたりは景勝地だ。奇岩や洞窟が続いていて、霊峰とされる米山のふもとにあたる。番神岬から聖が鼻までおよそ十二キロの海岸には、米山福浦八景と呼ばれる八つの景色が並んでいる。見て楽しむ海岸だが、船乗りの目で見れば岩だらけの危ない磯でもある。
岩礁の多い岬は、昔の船にとって目印だった。同時に罠でもあった。夜にそのあたりで灯りや船影を見たと誰かが言えば、聞く側はすぐに岩に砕けた船を思い浮かべたはずだ。番神岬が幽霊船の舞台として名指しされた記録は、今回は見つけられなかった。話が生えそうな地形がそろっているのは確かだ。
越後富士と呼ばれた目印の山
番神岬の背後にそびえる米山は、標高九百九十二メートル。上越市と柏崎市の境にある山だ。円錐形の美しい山容から、越後富士と呼ばれる。北前船について書かれた資料は、この山を北前船の航海の目印として、海上安全の信仰を集めた山だと紹介している。
山は地図だった。海の上から見える山の形と向きで、船乗りは自分がどのあたりにいるかを確かめていた。霧や時化で山が隠れれば、自分の位置がわからなくなる。田畑の豊作や雨乞いに加えて、海の安全にも霊験があるとされたのは、そういう暮らしの実感から来ている。信仰は県内にとどまらず、全国から人を集めてきた。
三階節の一節目も、米山から雲が出たという天気の歌だ。山にかかる雲で空模様を読む。浜で暮らす人の知恵だった。曲名の由来は二通りあって、同じ文句を三回繰り返すからとも、仏教の三界からとも言われる。
棒鱈と鰊を積んだ船が寄った港
江戸時代の柏崎は、北前船の寄港地でもあった。新潟県の説明では、県内のおもな港は北から岩船、新潟、出雲崎、柏崎、今町で、今町は今の上越市にあたる。いちばん大きかったのは新潟湊。信濃川と阿賀野川の舟運で、内陸まで荷が運ばれた。
陸の道もある。柏崎は北国街道の宿場町でもあって、高田宿から出雲崎宿まで、およそ七十三キロの街道が通っている。陸の道と海の道が交わる場所として栄えた、と新潟県は紹介している。人も荷も噂も、この町を通り過ぎていった。
柏崎は網も北へ送り出した。柏崎から刺し網が持ち込まれ、十八世紀にはその漁法が北で広まったらしい。鰊を獲る網は越後網と呼ばれたって話で、柏崎の橋場村から出て松前で有力な商人になった人物の名も取引の記録に見える。
帰り荷も面白い。松前から積んで戻ってきたのは、棒鱈に身欠き鰊、塩鮭に数の子と、北の海の味ばかりだった。そうした海産の加工品が柏崎を含む県内のあちこちで食べられていて、北の海と越後の港は帆船でじかにつながっていたわけだ。
港には影もある。帰ってこなかった船の記憶だ。北へ出たきり戻らない船があれば、浜ではその話が長く語られる。帆船が亡霊になって姿を見せる、そんな型の話が根づくための土壌は、港の側にもしっかり用意されていた。
文化九年の本に出てくる、新潟沖の痩せた船
新潟の海の幽霊船なら、江戸時代の本にちゃんと載っている。文化九年、一八一二年に出た『北越奇談』だ。越後の文人の橘崑崙が書き、挿絵の大半を葛飾北斎が描き、戯作者の柳亭種彦が校合と序文を受け持った。豪華な顔ぶれの本だった。
本は全六巻ある。そのうち四巻と五巻が怪談の巻で、ほかの巻には北越の奇岩や怪石、植物の記録までぎっしり詰まっている。橘崑崙は刊行当時は無名で、生没年もわかっていない。
その『北越奇談』に、宝暦年間の新潟沖の話がある。話はこうだ。沖に来た船が大風を受けて、乗っていた者が海に投げ出された。するとボロボロの船が、死者のように痩せ衰えた者たちを乗せて現れたという。その船は一晩じゅう、出たり消えたりを繰り返した。
ここが大事なところだ。柄杓をねだる船幽霊とは違う。船そのものが、乗っている死者ごと現れる型だ。柏崎の幽霊船の噂が本当に古い伝承に根を持っているとしたら、系統としてはたぶんこっちのほうに近い。
舞台は新潟沖だ。柏崎の名前はどこにも出てこない。それでも越後の海に幽霊船の記録が江戸時代からあったのは確かで、出典不明の郷土史よりずっと確かな足場になる。
帆船の時代は帆船、汽船の時代は汽船
時代で姿が変わる。船の姿で現れる船幽霊は、出る時代に合わせて形を変えるらしい。帆船の時代には帆船が、汽船の時代には汽船が出る。現れるのは主に夜なんだけど、船そのものが光っていて、暗くても船体の細かいところまで見えるという。
ここが怖いところだ。本物の船なら、闇の中では舷灯や漁火のような灯りしか見えないはずで、船の形まではわからないものなんだ。見えすぎることが、この世のものじゃない証拠になっている。
船幽霊の出方は、実はひとつじゃない。船と亡霊がいっしょに水の上に出るもの、人の乗った船に亡霊だけが現れるもの、海坊主や怪火の姿をとるもの。山や断崖の幻や、妙な音として出るものまである。幽霊船は、その一つにすぎない。
日本海側に並べてみた船幽霊の顔
柏崎と同じ日本海側の話を拾っていくと、船幽霊というのはずいぶん多彩な顔をしているのがわかってくる。島根から行こう。島根県の隠岐、旧都万村にはムラサという怪異が伝わっている。潮の中の夜光虫の光に混じって、ぼうっと光りながら丸く固まっているものだ。
ムラサは船に乗りかかると、ぱっと散らばる。まるで光の粒だ。夜の海がちかっと光るのは、ムラサに取りつかれたからだと言われた。竿の先に刀や包丁をつけて海面を何度か切ると、離れていくそうだ。
山口県の相島は、今の萩市の沖に浮かぶ島で、ここには夜走りという名の怪異の話が伝わっている。白い帆を張って走る船に、並んで走ってくるものだ。対処法もある。灰をまいて音を立てると引き下がる。
富山県には、北海道へ向かう漁船に船幽霊が乗り移って乗組員の首を締め上げる話がある。柄杓で水を汲むどころじゃない。船の中まで入り込んでくるあたり、北へ向かう航路の怖さがそのまま怪異の形になったようにも見えてくる。
次は福岡だ。福岡県の宗像市鐘崎や遠賀郡に出るのは迷い船。盆のころの月夜になると帆船の姿で現れて、ときには怪火が出たり、人の声が聞こえたりすることもあるという。
並べてみると気づく。どれも柏崎の噂より、ずっと細部が濃いんだよな。どこの浦で何が光って、何をすれば退くか、土地に根ざした話はたいていそこまでちゃんと言ってくれる。
「いなだ貸せ」「櫂をよこせ」
太平洋側はどうか。目を向けてみると、船幽霊が要求するものは柄杓だけじゃない。福島県の沿岸では「いなだ貸せ」と声をかけてくる。いなだっていうのは柄杓のことで、穴をあけてから渡さないと、船に水が入って沈んでしまうという。
千葉県の銚子や旧海上郡では、亡霊ヤッサの名で呼ばれた。霧や時化の日に、モウレン、ヤッサ、いなが貸せえ、と声が近づき、やがて海から柄杓を貸せと手が飛び出す。水木しげるの本では猛霊八惨。鳥取県の境港市では、これを鎮める祭礼が開かれている。
北の岩手にもいる。岩手県の旧宇部村小袖、今の久慈市にあたる浜には、なもう霊と呼ばれるものが出たという。時化のときに黒い船といっしょに現れては櫂をよこせと無理を言うもので、返事をしても貸してもいけないと固く戒められていた。
九州の西、長崎の平戸や熊本の御所浦島ではウグメと呼ぶ。風もないのに帆船が追ってくる。船や島に化けることもあり、淦取り、つまり船底にたまった水をかい出す器をくれと言ってくるという。
灰をまけ、四十九の餅を投げろ
撃退法も楽しい。宮城県では船を止めてにらみつけ、竿で水をかき回す。伊豆の神津島のやり方はもっと手厚くて、香花や線香、団子、洗米、それに水までを海へ投げ入れた。
高知県では灰や四十九個の餅を海へ投げ込む。死者の四十九日を思わせる数だ。わしは土左衛門だ、と言い張る方法まである。同じ高知の大月町では土用豆を投げたそうで、長崎では苫や灰、それに燃えさしの薪まで投げ込んだ。
愛媛県は火をつけたマッチ。平戸では灰を海へ放り込み、御所浦島では錨を入れるぞと言いながら石を海に投げて、それから錨を下ろした。煙草を吸うと消える、なんて話も九州にはある。
並べてみると、どれも「相手の頼みを空振りさせる」か「こちらも強いぞと見せる」かのどちらかだ。要は駆け引きだ。海の上で追い詰められた人間が、手持ちのもので何とかしのごうとした跡が見える。
コンパスを狂わせ、かがり火で迷わせる
悪さの種類も多い。船幽霊は水を汲み入れるだけじゃない。高知県の大月町では船のコンパスを狂わせるといい、愛媛県では進む向きを変えさせて船を岩に乗り上げさせるらしい。
古い伝承には、かがり火を見せて船頭を迷わせ、溺れさせる話もある。たちが悪い。沖で灯りを見つけて、浜だと思ってそっちへ舵を切ったら、そこは浜じゃなかった、という種類の怖さだ。高知では、鬼火の一種のけち火も船幽霊と見なされることがあった。
海がなくても出る。茨城の霞ヶ浦には三叉沖に出る亡者船が柄杓貸せと叫ぶという話があって、この館の別の棚でも扱っている。柄杓を貸せという声は、潮の香りがしない水の上でも響いていた。
千葉県の州崎には、大正十五年の記録としてこんな話が残る。潮の流れが鋭い場所がある。船がひとたび入ると逃げられない。船幽霊や難船した亡霊たちはこの潮路をやって来て、州崎で止まって、恨めしげな舟歌を歌うのだという。
海の向こうにもいた覆舟鬼
海の向こうはどうか。寛政十二年に出た『桂林漫録』は、舟がひっくり返って溺れ死んだ者の鬼を、中国では覆舟鬼と呼ぶと書いている。日本人が思い浮かべる船幽霊に当たるものが、海の向こうにもいたわけだ。
中国の鬼哭灘の怪という話では、はげた怪物が舟をひっくり返そうとする。船幽霊より海坊主寄りだ。海で人が死ぬ場所には、どこでも似た話が生まれる。柏崎の噂が本当かどうかという話とは別に、この普遍さはちゃんと頭の片隅に置いておきたいところだ。
西の海に出るのは平家の死霊
絵にもなった。天保十二年、一八四一年の刊行とされる『絵本百物語』だ。作者は桃山人で、挿絵は竹原春泉斎が描き、色版を重ねた多色刷りの、怪談集と画集が合わさったような本だった。
その二十五番目の絵が船幽霊だ。添えられた文は、西の海に出るもので平家一門の死霊のしわざだと伝える、と書く。壇ノ浦で滅びた平家が、関門海峡の壇ノ浦と和布刈のあいだの沖に甲冑姿で現れ、提子をくれと言って船に取りつくという。
貸せば沈められる。だから船乗りたちは椀の底を抜いて供えておき、それを渡してしのいだという。話の最後には、ある法師が法会を営むと怪異は消えた、という結末までちゃんとついている。
同じ本は、遺言も言えずに死んだ者や飢えと渇きで死んだ者が迷い出て、水を乞うて物悲しげに泣き叫ぶとも書いている。亡霊は水を欲しがる。なのになぜ、水を汲む道具を欲しがるのか。そう考えると、柄杓の話は急に哀しく見えてくる。
理屈で割り切る人もいた。江戸の知識人の山岡元隣は、朱子学の考え方で幽霊を説明した。恨みを抱いて死んだ者の気が滞ると形や声になり、その滞った気が散ってしまえば消える、という理屈だ。
帆柱の下に納めた髪と賽子
船の中にも神がいる。船玉様は、船霊と書くこともある神様だ。船を守る神として古くから船乗りのあいだで信仰されてきて、住吉の神や水天宮、金毘羅権現を祭神にすることもある。
帆船の時代には、帆柱の根もとのツツやモリと呼ばれる部分に祀った。御神体がちょっと変わっている。中に納めるのは男女一対の人形、銭十二文、さいころ二つ、それに女の髪の毛だ。紅やおしろい、櫛やかんざしを加える土地もあって、ネズミの糞を入れる所まであったそうだ。
船霊は女の神様だと考えられていて、女が一人で船に乗るのを嫌う土地が多いのもそのためだという。八丈島はもっと具体的だ。髪を差し出した少女が、船霊の現れとされた。
船霊は音も立てる。その音を、いさむと言う。泣き声のようにも聞こえる音で、吉凶の前触れを告げるとされた。船の中には耳を澄ます相手がいて、外の海には柄杓をねだる亡霊がいるんだから、昔の船乗りの夜はずいぶん騒がしかった。
盆の十六日と霧の晩
出る晩は決まっている。雨の日や新月、満月の夜、時化の夜、霧のかかった晩が多い。どれも見通しが悪くて、自分の船がどこにいるのかもわからなくなってしまうような夜ばかりだ。
盆の十六日に漁をしていると死者が船べりに近づいてくる、そんな話も伝わっている。盆は海で死んだ者も帰ってくる日で、その日に沖へ出るのは死者の通り道に割り込むようなものだ。盆や大晦日を禁漁の日にして海に出ない。そういう決まりが各地にあった。
民俗学者の花部英雄は、出現が風雨や濃霧の晩、急に天気が崩れたときに多いことに目を向けた。そういう夜は事故が起きやすい。不気味さと不安から、わずかな異変も伝承の枠に組み込み、幻を現実として語ったのだろう、という見立てだ。盆に多いのは、精霊船のイメージと重なるからだという。
根っこにあるのは、祀られないままの水死者の霊が海をさまよい、船幽霊になって現れるという死霊への信仰だ。弔われない死者への恐れ。弔えなかったことへの負い目もある。その両方が、柄杓一本に込められていた。
船が進まなくなる、あの現象
船幽霊に取りつかれると船が進まなくなる、という話も多い。これには海の物理で説明がつく場合がある。内部波ってやつだ。大きな川の河口の近くでは、塩分の薄い水が海面にとどまっていて、下の海水と簡単には混じらない。
その境目のあたりにスクリューがあると、力が波を起こすことに使われてしまい、船が前へ進まなくなる。船は本当に止まる。極地探検家のナンセンも、同じ現象を書き残した。
柏崎にも川はある。鵜川や鯖石川が、この海に注いでいる。ここで船が進まなくなった話が伝わっていても、おかしくはない。ただ、そういう具体的な話が柏崎の幽霊船の記事に一つも出てこないことが、この噂の手触りをよく表している。
洞爺丸のスクリューの傷
噂は近代にも出た。一九五四年の洞爺丸事故は、戦後最大の海難と言われる。そのあと連絡船のスクリューに奇妙な傷が見つかって、犠牲者が船幽霊になって爪を立てているという噂が立ったそうだ。
正体は電蝕だった。のちにわかったのは、金属が電気の作用で傷んでいく電蝕という現象で、傷はそれによるものだったんだ。怖い噂が先に広まって、説明は後から来る。
噂はほかにも続いた。北海道の七重浜でタクシーに乗った全身ずぶ濡れの女が、目的地に着くと消えていた、という話。青森駅の宿直室で職員が窓を叩く音に目を覚ますと、窓越しにずぶ濡れの手が見え、翌朝には手形が残っていた、という話もある。どれも洞爺丸の犠牲者が助けを求めているのだと語られた。
一九六九年の神奈川県では、白い人影が見えて、柄杓を下さいという声が聞こえたという話まで伝わっている。遭難した大学ヨット部の部員が、沈んだヨットの水をかい出したがっているのだと言われた。柄杓の話は昭和でも生きていた。
十一か月漂った良栄丸と、後から付いた尾ひれ
日本の船が本物の幽霊船になってしまった例として、よく名前が挙がるのが大正の終わりに遭難した良栄丸だ。和歌山県の和深村、今の串本町に船籍を持つ四十二トンの小さな動力漁船。一九二六年の十二月五日、船長の三鬼登喜造ら十二人を乗せて神奈川の三崎漁港を出た。無線の設備はなかった。
銚子沖でマグロを追っていた十二月七日、低気圧が通ったあとに強い季節風が吹きつけて、海が大きく荒れてしまう。十二日の午前、エンジンのクランクが折れた。船は東へ吹き流されていく。西へ戻ろうとしても、うまくいかない。
十二月二十六日、西へ戻るのをあきらめた船長は、アメリカの岸まで流されていく道に賭けると決めたという。それから約十一か月。一九二七年十月三十一日、シアトル沖でアメリカの貨物船マーガレット・ダラー号に見つかった。そのとき乗組員は全員亡くなっていた。
手がかりは日誌だ。航海日誌は五月十一日の分で終わっていて、最後の一語は病気だった。遭難から最後の段階まで、日誌には細かい記録が残されている。重い脚気と栄養失調のせいで、最後まで生きていた人たちもすっかり弱り切っていたらしい。
最後の二人は、船長ともう一人の乗組員だったと推定されている。発見時、船内には九人の遺体。十一か月ものあいだ誰にも見つからず太平洋を漂った船は、見つけた側から見ればまさに幽霊船だった。
ここからが、柏崎の話ともつながるところだ。戦後になって子ども向けの本で、乗組員たちが半狂乱になって悶え死んだ、という話が広まってしまった。日誌にはいっさい出てこない。当時のアメリカの新聞が推測で書いた記事が、もとになったとみられている。
本物の記録があっても、後から付いた尾ひれのほうが有名になってしまう。幽霊船って言葉の引力だ。柏崎の噂を確かめるときにも、この同じ引力のことは、最初から疑ってかかっておく必要があった。
二〇一七年十二月、柏崎の浜に着いた木造船
柏崎の海に「幽霊船」という言葉が実際に使われた出来事がある。ここからは現実の話だ。二〇一七年十二月、柏崎市の海岸に木造船が一隻流れ着いた。船の中から男性の遺体が一体見つかって、船から北へ六百五十メートルの地点でもう一体が見つかっている。
CNNの日本語版は十二月十三日、この件を含むまとめ記事を出している。北朝鮮から流れ着くいわゆる「幽霊船」の出現が後を絶たない、という書き出しだ。人が乗っていない、あるいは乗っていた人の行方がわからない、そういう船を報道はそう呼んだ。柏崎の木造船の写真も載った。
ほかの浜でも起きた。同じ冬には、青森県の深浦町で遺体が三体見つかっている。北海道の松前町には十人が乗った漁船が流れ着き、秋田や山形、石川の沿岸でも木造船の漂着と遺体の発見が相次いだ。
その少し前の十一月二十三日には、秋田県由利本荘市の海岸に小型の木造船が着き、八人が上陸して保護された。船は全長七メートル、幅二メートルほど。船体にはハングル。GPSを積んでいたといい、イカ漁に出ていた船とみられた。
海上保安庁の調べによると、二〇一七年の漂着は百四件あって、とりわけ十二月の四十五件が突出していた。ものすごい数だ。その前の二〇一四年から一六年の三年間でも、政府の答弁書によれば百七十六件あった。漂着の多い状態は、二〇一九年まで続いたらしい。
背景は北朝鮮の漁の事情。国連の制裁で外貨が細り、漁業の操業権を中国に売ったため、漁民は沖合まで出ざるをえなくなった、という指摘がある。老朽化した小さな木造船で冬の日本海に出れば、どうなるかは想像がつく。
冬の日本海で、季節風は沖から岸へ吹きつける。北前船の時代に帆船を苦しめたのと同じ風が、平成の終わりには今度は木造船を浜へ押しやっていた。柏崎の浜は風の通り道だ。
佐渡の寺に預けられた遺骨
その後の話もある。流れ着いた船に乗っていた人たちが、どこでどう弔われたのか。二〇二〇年二月になって、ノンフィクションライターの中原一歩が、その行方を追いかけた記事を書いている。舞台は柏崎の沖に浮かぶ佐渡だった。
二〇一九年の十二月、佐渡の素浜海岸に、全長で十メートルを少し超えるくらいの木造船が打ち上げられる。甲板には何もない。操舵室は無残にもぎ取られていた。船内には、乗組員のものらしい長靴が残されていたという。
身元のわからない遺骨は、佐渡市吉岡の真楽寺が市役所から預かって安置していて、この寺は九五二年に開かれたとされる古い寺だ。住職は三浦良廣さん。誰も分け隔てなく弔うことが自分の仕事だと語っている。遺骨は七年保管されたあと、無縁仏として永代供養される仕組みだった。
幽霊船という言葉は目を引く。けれど浜に着いた船には、実際に人が乗っていた。怪談の幽霊船を追いかけていった先で、最後にこういう現実の船に行き当たるのが、今の日本海沿岸だ。
二つを並べてみる。祀られない水死者を恐れながら弔おうとした昔の浜の人たちの心と、身元のわからない遺骨を預かる今の寺。二つは驚くほど近い場所に立っている。
柏崎の夜の海でいちばん目立つ光
柏崎の人が夜の海で見上げる光といえば、幽霊船じゃない。花火なんだよな。ぎおん柏崎まつりの海の大花火大会で、長岡や片貝と並んで越後三大花火に数えられる。もとは八坂神社の祇園祭に奉納した煙火で、一九五〇年に市の商工祭と合わさり、今の祭りの形になった。
七月二十四日が民謡の街頭流しで、二十五日がたる仁和賀、そして二十六日がいよいよ海の大花火だ。三日間の祭りの締めくくりに、およそ一万六千発が海の上に上がる。海の柏崎、川の長岡、山の片貝。新潟の花火好きは、三つの花火大会をそんなふうに呼び分けている。
夜の海に光るものを見て、人がまず何を思い浮かべるか。漁師なら漁火、船乗りなら灯台かもしれない。柏崎なら、たぶん花火だ。幽霊船の噂が町の中でほとんど聞こえてこない理由の一つは、案外そんなところにあるのかもしれない。
心霊スポットの一覧に、船は出てこない
ネットも見ておこう。柏崎市の心霊スポットを十九件並べた一覧サイトがあり、掲示板の書き込みを地域ごとにまとめたページもある。一覧は二〇二六年八月にも更新されていた。そこで話題になるのは、廃屋や港、海水浴場みたいな陸の場所の噂ばかりで、沖の話は出てこない。
沖に船が浮かんでいるとか、漁火に混じって見慣れない灯りが動いているとか、そういう書き込みは見当たらない。海辺の噂はある。なのに、船の話がない。土地に根ざした怪談なら、どこかに一つくらい体験談が引っかかりそうなものだ。
地元の人が語る怪談と、外から書かれた怪談とでは、細部の置き場所が違う。前者は細かい。たいていは、どこの浜のどの岩のあたり、というところまでちゃんと具体的に言ってくれるものだ。柏崎の幽霊船の話には、その地面が見えなかった。
柏崎に割り当てられた妖怪は、池と不動
面白い一覧がある。新潟県の市町村ごとに一つずつ妖怪を割り当てたファンサイトだ。二〇一〇年に考古堂から出た『新潟の妖怪』をもとにした一覧で、県内の百十二の旧市町村に妖怪が並ぶ。
柏崎市のところを見ると、旧西山町の鳴環池、市内の佐藤ヶ池、旧高柳町の片腕不動。隣の刈羽村は米山と天狗だ。佐渡には一つの島で十もの妖怪が割り当てられていて、海の島らしい顔ぶれとの差がはっきりしている。
海辺の町なのに、挙がるのは池と不動と山の天狗だった。幽霊船どころか海の怪異がゼロ。地元の怪異を拾い集めた本を下敷きにしてこの顔ぶれなら、柏崎の幽霊船が代表格じゃなかったことくらいは言っていい。
同じ顔つきの幽霊船が、ほかの港にもいる
ほかの港にもいる。検索をかけていくと、よく似た見出しの幽霊船の記事がほかの港町にもあると気づく。横浜のみなとみらいを舞台にした幽霊船の記事があって、長崎港の幽霊船を扱ったページも見つかった。港の名前を差し替えれば、どこにでも置けそうな話の形だ。
長崎のように古い港には、昔からの語りがあってもおかしくない。ただ、ネット上で同じ体裁の記事が各地に並ぶと、どれが土地の伝承でどれが後からの作文なのか見分けにくくなる。柏崎の件は、その見分けにくさがはっきり出た例だった。見出しの型が同じなら、中身の作り方も同じかもしれない。疑ってみる価値はある。
この館の歴史ミステリーの棚でも、似た体裁のサイトから来た話を何本か検証している。出典らしい書名をずらりと並べておきながら、肝心の巻や日付はどこにも示さない、そういう書き方が共通していた。柏崎の幽霊船記事も同じ匂いだ。
出典らしい一文を見かけたら
ここまで引いてきた話は、どれも出どころを辿れるものばかりだ。州崎の舟歌がいい例になる。あれは大正十五年の記録で、国際日本文化研究センターの怪異・妖怪伝承データベースでちゃんと引ける。出典の名前と年がそろっていれば、図書館で現物にたどり着ける。
柏崎は違った。記事にある新聞や郷土史には、そこが抜けていた。何年の何新聞の何面か。郷土史なら書名と巻と頁。これがないと誰も確かめようがないし、そもそも書いた本人が本当に現物を見たのかどうかさえわからない。
日文研のデータベースは、呼び名と地域で引ける。船幽霊を新潟県で探して、柏崎の話が一件でも出てくれば、それがいちばんの手がかりになる。ただ、今回は届かなかった。
『旅と伝説』は、国立国会図書館のデジタルコレクションにも入っている。昭和の初めに全国から寄せられた海の怪異が、今は家から読める。ありがたい話だ。ネットの記事の出典がこういう場所に見当たらなければ、まずは疑っていい。
江戸の本も同じだ。『北越奇談』は、早稲田大学の古典籍総合データベースで六巻の版本を画像のまま読める。国文学研究資料館の国書データベースにも載っている。新潟沖に出た痩せた船の話を自分の目で確かめたくなったら、北斎の挿絵ごとまるごとたどれる。
図書館の棚にある『柏崎市伝説集』
資料は地元にある。柏崎市教育委員会が出した『柏崎市伝説集』は、市立図書館のソフィアセンターで電子書籍になった。誰でも自由に印刷やダウンロードができる扱いだ。
雑誌もある。柏崎民俗の会の会誌『柏崎の民俗』や、新潟県民俗学会の会報『高志路』が、郷土資料として棚に並んでいる。浜の言い伝えを拾うなら、こういう地元の記録がいちばん確かだ。
伝説集の目次はネットで公開されている。ただ、こちらからは開けなかった。だから、幽霊船が載っていないとまでは言い切らない。もし載っているなら、年代も引用元もそろったネット記事なんかより、ずっと手触りのある話が出てくるはずだ。
日蓮の船、北前船、『北越奇談』の痩せた船、二〇一七年の木造船と、この海には記録に残る船の話がいくらでもある。柏崎港の防波堤は昭和二年。港の整備が本格的に始まったのは昭和二十八年だ。その防波堤の外では、冬になると季節風が真横から白い波を立てる。
