京都の怪談を掘っていると、必ず一度はこの池に突き当たる。北区の深泥池だ。「乗せた女が消え、座席だけが濡れていた」という、日本でいちばん有名なタクシー怪談の舞台。
ただ、この話はどこまでが京都のもので、どこからが全国共通の型なのか。掘ってみたら、思っていたのとずいぶん違う地層が出てきた。正直、ちょっと驚いたよ。
- 雨の夜、あの池へ――まずは一番よく知られた形で
- 二番目の型――京大病院の玄関先で乗せた女
- 三番目の型――乗務日報に「幽霊」と書いた男
- 一九六九年十月七日、朝刊十六面
- 「発祥の地」という看板は、たぶん外したほうがいい
- 濡れたシートは、いつ生まれたのか
- 深泥池という土地――十四万年ぶんの水たまり
- 鬼が出入りする穴と、豆を投げた村
- 街道口の地蔵――送る者と、送られる者
- 大蛇と、将軍の夢
- 「みどろ」なのか「みぞろ」なのか
- 病院をめぐる俗説について、はっきり書いておく
- 底なしの池、という言い方について
- 派生と別バージョンを、一つずつ
- 体験談として語られてきたもの
- 掲示板とSNSは、この話をどう扱ってきたか
- 全国の類話、そして海外の型との距離
- 行く前に、これだけは
- 一九六九年という年に何があったか
- 「濡れている」という一語の力
- 池が舞台であることの、もう一段奥の話
- 怪談が土地に与える損害と、それでも語る理由
- 消えた乗客は、誰の不安だったのか
雨の夜、あの池へ――まずは一番よく知られた形で
深夜零時をだいぶ回っていた。四条河原町の客待ちの列はとっくに解けて、流しに切り替えた運転手が烏丸通を北へ上がっていく。雨は小降りで、ワイパーを一段落として、そろそろ営業所に戻ろうかと考えていた。
北大路を越えたあたりで、歩道に女が立っていた。傘はなく、薄い色のワンピースの裾が足に貼りついている。手を挙げたわけでもないのに、車を寄せると自分でドアの外に立って待っていた。
京都のタクシーは自動ドアだから、開けてやると、女は黙って後部座席の左側に沈み込むように座った。「どちらまで」と聞いても返事がない。もう一度聞くと、消え入るような声で「深泥池まで」とだけ言った。
運転手は少しだけ嫌な感じがした。深泥池なら、この時間はもう住宅の灯りもまばらだ。それでも仕事は仕事だから、賀茂川を渡って北山通へ抜け、旧鞍馬街道を目指す間、車内は無言のままだった。
ラジオを入れようかと思ったが、なぜか手が伸びず、バックミラーには、うつむいた女の髪の分け目だけが映っている。濡れた髪が、額に何本も貼りついていた。
「えらい降られましたなあ」と話しかけた。返事はない。「傘、お持ちやなかったんですか」。やっぱり返事はない。
やがて道が細くなり、右手に黒い水面が見えてくる。深泥池のバス停の前で、街灯は一つ二つしかなくて、池の向こう岸の山の輪郭がかろうじて分かる程度。運転手は「お客さん、このへんでよろしいか」と声をかけ、ミラーを見た。
誰も座っていなかった。慌てて振り返る。ドアは閉まっているし、走行中に開いた記録もない。
ただ、女が座っていた場所のシートだけが、黒々と濡れていた。雨に濡れた人間が座った程度の湿り方じゃない。水を含んだ布を絞らずに置いたような、はっきりした水たまりだった。
運転手が手を伸ばして触れると、その水は冷たかった。それから、しばらく動けなかったという。
二番目の型――京大病院の玄関先で乗せた女
深泥池の話には、もう一つ、より具体的で、より生々しい型があって、こちらのほうが古い形に近いとされる。出発点が繁華街じゃなくて、病院なんだよ。
京都大学医学部附属病院。東大路と川端の間、聖護院の一角にある大きな病院で、深夜、そこの正面あたりで手を挙げた女を乗せた。年齢は四十代くらい、髪がびしょ濡れで顔色が悪い。
行き先は深泥池。運転手はそのとき、雨は降っていなかったのに、と一瞬思ったらしい。でも病院前という場所柄、身内の付き添いで疲れ切った人だろうと思い直した。深夜の病院前は、そういう客が拾える場所でもある。
川端通を北へ、丸太町、荒神口、出町柳。そこから下鴨本通に入って北大路、北山通を越える、距離にして七、八キロ、時間にして二十分ほどの道のりだ。その間、女は一言も喋らなかった。
深泥池に着いて後ろを見ると、後部座席は空で、シートは濡れていた。この型の凄みは、運転手がそのあと警察に行ったことになっている点にある。
無賃乗車の届け出という体裁を取ったとも、単純に怖くて相談したとも言われる。交番の警官も対応に困った。事件性はない。かといって笑い飛ばすには、運転手の様子が真剣すぎて、ここが、後で触れる新聞記事の見出しに直結してくる。
話にはまだ尾ひれがつく。後日調べたら、その晩に京大病院で亡くなった女性がいて、その人の家が深泥池のあたりだった――という結末だ。よくできている。よくできすぎている。
正直、この部分こそが後年に足された装飾である可能性が高い。でも、装飾があることと、話の芯が空っぽであることは別の話だ。そこは分けて考えたい。
三番目の型――乗務日報に「幽霊」と書いた男
京都のタクシー業界の内輪話として、ずっと語られてきた型もあって、こちらは怪異そのものより、そのあとの手続きが怖い。
深夜、女を乗せて深泥池へ向かい、着いたら消えていた。運転手は営業所に戻る。当時は無線と紙の乗務日報の時代で、一乗車ごとに、乗車地、降車地、料金、実車距離を書き込む。
困ったのは、料金を回収していないことだった。メーターは動いていて、実車扱いのままだから、数字は記録にある。なのに金は入っていない。
配車係に事情を話しても信じてもらえない。仕方なく、備考欄に「幽霊」と書いた。「客消失」と書いたという型もある。あるいは自腹で立て替えて、何も書かなかった。語り手によって細部は変わる。
この型が広まったのは、たぶん、聞いた側が「ありそう」と感じるからだ。タクシーの現場には、実車と空車の区別、メーターの記録、無線の交信、日報という書式が実在する。怪異が業務システムに触れると、途端に手触りが出る。
幽霊が出た、では終わらない。幽霊が出たあと、書類をどう埋めるかという問題が発生する。ここが、この怪談のいちばん日本的で、いちばん現代的なところだと思う。
面白いのは、この「日報に幽霊」の逸話が、深泥池版でも東京の青山霊園版でも、ほぼ同じ形で語られていることだ。となると、これは深泥池固有の話じゃなく、タクシー怪談という職業譚のフォーマットのほうに属している。
深泥池は、そのフォーマットが日本で最も強く貼りついた土地。そういう位置づけになる。
一九六九年十月七日、朝刊十六面
ここからが本題だ。この話の「初出」はどこにあるのか。
ネット上には「一九六九年の朝日新聞に載った」という記述が山ほどある。でも、どの日の何面か、見出しは何かまで書いてある例はほとんどなく、孫引きの孫引きが延々と続いている状態だった。
これを実際に潰したのが、京都府立図書館のレファレンス記録だ。利用者から「深泥池のタクシー怪談が新聞に載ったというが確認できるか」という趣旨の問い合わせがあり、司書がマイクロフィルムを当たった。
最初の調査では見つからず、いったん「確認できず」となりかけた。そこから丁寧に再閲覧して、掘り当てている。粘り勝ちだった。
朝日新聞、一九六九年十月七日、大阪本社版の京都市内版、十六ページ。見出しは「車から乗客消えた」で、そこに「パトカーも怪談めいた届け出に汗だく」という主旨の袖が付く。
この見出しだけで、話の骨格がだいたい分かる。これは怪談として書かれた記事じゃなくて、「妙な届け出があって警察が困っている」という、社会面の小さな軽い記事だ。
新聞社は、幽霊が出たとは報じていない。運転手が消えた乗客について届け出て、警察が処理に難儀した、という出来事を報じた。ここが決定的に重要だ。
一九六九年十月の時点で、「乗客が消えた」と本気で届け出る運転手が既にいたわけだ。しかもそれが、記事になる程度には奇妙な出来事として扱われていた。
話が先にあって、それが警察沙汰になり、新聞がすくい上げた。新聞が話を作ったんじゃない。順番が逆なのだ。
この記事は、深泥池のタクシー怪談を全国区に押し上げた決定打として機能した。関西のローカルな噂が、活字になったことで「新聞にも載った本当の話」という格を手に入れる。
以後、テレビの心霊特番が夏になるたびに再現フィルムを作り、雑誌が特集を組み、その全部が「一九六九年、朝日新聞」という一行を引き写した。噂の権威づけとして、これほど便利な札はない。
ちなみに、この怪談を扱った関連書もいくつかあって、倉松知さと『本当は怖い京都の話』(彩図社、二〇一三年)がそうだ。読売新聞大阪本社編集局『謎解き京都――京をめぐる百の疑問に答えます』(淡交社、二〇一五年)も扱っている。
京都の達人倶楽部編著『京都の「不思議」を楽しむ本』(ロングセラーズ、二〇一五年)などにも出てくる。読売の本のほうは「女の幽霊が乗るタクシーの都市伝説は一九六〇年代以降に広まった」という書き方をしている。これは後で見るように、相当に慎重で正確な言い回しだ。
「発祥の地」という看板は、たぶん外したほうがいい
ここで水を差す。深泥池は「タクシー怪談発祥の地」とよく呼ばれる。観光的にはキャッチーだ。でも史料に当たると、この看板は掛け違いだと分かる。
消える乗客というモチーフは、自動車より圧倒的に古い。明治十六年九月五日付の大阪朝日新聞に、こんな趣旨の記事が載っている。人力車の車夫が客を乗せたところ、その娘が途中で消え、調べると先に身投げして死んでいた、というものだ。
一八八三年の話で、タクシーどころか、日本にまともな自動車はまだない。そんな時代から、客は消えていた。
大正期になると、東京の両国、回向院の前で女を乗せたら、その女が実は先日亡くなった妻だった、という類話が出てくる。人力車の時代には、消える客の正体は幽霊だけでなく、狐や狸であることも多かった。
払った金が翌朝には木の葉になっていた、という古典的な化かされ譚と地続きだ。一柳廣孝が『怪異の表象空間』で扱っているように、明治大正の人力車には、この手の怪異報告が実際に大量に付随している。
乗り物が自動車に変わると、化かす側の主役が獣から死者へ移っていく。田中貢太郎の実話怪談の集成には、大正期のものと見られるタクシー幽霊譚が複数収められている。
決定的なのは池田彌三郎『日本の幽霊』(中央公論社、一九五九年初版)だ。ここに「昭和五、六年ごろに聞いた」という断り書きつきで、ある話が収録されている。青山墓地から横浜方面へ着物姿の娘を乗せ、走行中にミラーから姿が消え、行き先の家では娘が先日埋葬されていた、というものだ。
一九三〇年前後の東京の話だから、深泥池の新聞記事より四十年近く古い。
乗り物ですらなくてもよくて、宮沢賢治「ざしき童子のはなし」には、舟の渡し守が乗せた子どもが途中で消える話が出てくる。人を運ぶ者が運んだはずの誰かを失う、という骨格は、日本語圏でずっと反復されてきた。
だから正確にはこうなる。深泥池はタクシー怪談の発祥地じゃない。「消える乗客」という古い型が、戦後日本で最も強く、最も具体的に、一つの実在地名と結びついた事例なのだ。
発祥でなく定着。起源でなく結晶。掘れば掘るほど、そう言うしかなくなる。
濡れたシートは、いつ生まれたのか
ではこの話のいちばんおいしい部分、濡れたシートはどこから来たのか。面白いことに、初期の型には濡れたシートが出てこない。
池田彌三郎が伝える昭和五、六年の青山墓地版では、決め手は「ミラーに映らなくなる」ことと「行き先の家で埋葬済みだと判明する」ことだ。座席は濡れていない。
濡れたシートが標準装備になるのは、戦後、それも昭和三十年代以降とみられる。その普及に深泥池が噛んでいる可能性が高い、という見方がある。理由は簡単で、深泥池は池だからだ。
墓地から乗せた客は乾いていていい。でも池へ帰る客は濡れていないとおかしいし、行き先が水である以上、乗客は水から来た者でなければ筋が通らない。
逆に言えば、濡れたシートという物証は、行き先が池である深泥池版で初めて必然になる。他の土地の話では、濡れたシートは単なる怖い装飾だ。深泥池では、それが論理になる。
ここが、この土地の固有性だと思う。青山霊園版は「死者が家に帰ろうとする話」で、深泥池版は「水に還る者が、いったん陸に上がって、また水へ戻る話」だ。方向が逆なんだよね。
前者は帰宅譚で後者は帰水譚だから、深泥池版では、客の家族が出てきて頭を下げる場面が省略されがちになる。帰る家がないからだ。池が家なのだから。
この差は小さいようで大きい。深泥池の話には、慰められる遺族がいない。回収されない料金がある。ただ濡れた座席だけが残る。
救いの回路が最初から閉じていることが、他の同型の話より深泥池版のほうが後味が悪い理由だと思っている。
深泥池という土地――十四万年ぶんの水たまり
ここで舞台の話をしよう。深泥池を「不気味な池」としか思っていない人は、この池の履歴書を見たほうがいい。控えめに言って化け物だ。
所在は京都市北区上賀茂狭間町で、面積はおよそ九・二ヘクタール、周囲は約千五百四十メートル。ケシ山、高山、西山という標高百三十から百八十メートル級の低い山に三方を囲まれ、南西の一方だけが開いている。
地形としては、東から西へ流れる開析谷の出口が、鴨川扇状地の堆積物で堰き止められてできた低地だ。本格的に水が溜まりはじめたのは、およそ一万年前とされる。
池の「歴史」はもっと古く、ボーリング調査で十七・四メートルまで掘ったところ、泥炭層が続いていた。この堆積から逆算して、湿地としての成立は十数万年前、およそ十四万年前まで遡る、という見立てだ。
氷期と間氷期を何度もまたいで、この窪地はずっと湿地であり続けた。そのおかげで、とんでもないことが起きた。氷期に日本列島の広い範囲に分布していた北方系の植物が、温暖化のあと本州のほとんどから消えたのに、この池にだけ取り残されて生き延びたのだ。
ミツガシワ、ホロムイソウ、ハリミズゴケ。本来なら北海道や東北の高層湿原にいるべき連中が、京都盆地の北端で、暖温帯の生き物と同居している。
しかも池の三分の一を占めるのは、水に浮いた島だ。浮島といって、ミズゴケなどの遺体が分解されずに積み重なってできたマットが、下に水の層を抱えたまま浮いている。
夏はメタンガスを溜めて浮き上がり、冬にはガスが抜けて沈み、水をかぶる。人が乗れば揺れるし、踏み抜けば下は水だ。
一九二七年六月十四日、この池の水生植物群が国の天然記念物に指定された。一九八八年には対象が広げられ、「深泥池生物群集」として、植物だけでなく生き物のつながり全体が指定対象になった。
トンボは約六十種、日本産のおよそ三割がここにいる。野鳥は年間を通じて百種を超え、ミツガシワの花粉を運ぶ小さなハナアブに至っては、本州でここにしかいないとされる。この関係は、最終氷期から途切れずに続いてきたと見られている。
深泥池は幽霊が出るから貴重なんじゃなく、幽霊の話が一つも無くても、日本の自然史の中で外せない場所だ。そこは先に言っておく。
鬼が出入りする穴と、豆を投げた村
ただ、この池が近世以前から「そういう場所」だったのも、また事実で、怪談は昭和に始まったものじゃない。
洛北のこのあたりには、ある伝承がある。平安京の北に出没した鬼が、貴船の谷から地下道を通ってきて、深泥池のほとりの穴から出入りしていた、というものだ。地下でつながっている、というのがいい。
鬼は空から来るのでも、山から下りてくるのでもなく、地面の下を這って、池のふちにぽっかり空いた穴から顔を出す。想像するとけっこう嫌な絵だ。
村人はこの穴に鬼が嫌う豆を投げ込んで封じた。これが節分の豆まきの起源だ、という筋書きだ。現に、深泥池のほとりの深泥池貴舩神社は「豆まき発祥」を掲げている。
この社は、貴船の本宮が遠くて参りにくいという理由で、寛文年間、つまり一六六〇年代に分霊を勧請したものと伝わる。旧鞍馬街道の筋に鎮座している。
境内には秋葉神社もあって、こちらは明治の廃仏毀釈で社が壊された翌年に村が大火に遭った、という因縁つきだ。そのとき焼け跡から見つかった漬物桶の中身を村長が食べて「酸い茎や」と言ったのが、京の名産すぐきの始まり。そんな話まで付いている。話が多すぎる村なのだ。
昭和の初め頃までは、このあたりに「豆塚」というものがあったと言われている。鬼の穴に投げ込んだ豆を祀った塚だ、とも。今はどこにあったかも分からず、深泥池貴舩神社の境内だったのではないか、という説があるだけだ。
見落としたくないのは、鬼の出入り口という伝承が、単なる怖い話でなく境界の標識だという点だ。深泥池は、洛中から鞍馬街道へ抜ける分岐点にある。都の内側と、山の向こう側。人の世界と、そうでない世界。
その継ぎ目に池がある。境界には門番が要る。門番が要る場所には、必ず入ってくる何かがいる。中世の人はそう考えた。
街道口の地蔵――送る者と、送られる者
もう一つ、この土地を決定づけているのが地蔵だ。京の六地蔵という信仰があって、伝承では、八五二年に小野篁が一本の桜の大木から六体の地蔵菩薩を彫ったのが始まりとされる。
篁は冥府に通ったという伝説を持つ人物で、そこからしてもう地獄と接続している。この六体が保元年間、一一五六年から五九年にかけて、京へ入る六つの街道口にそれぞれ分置された。後白河天皇の勅により、平清盛が西光に命じてのことだ。疫病を都に入れないための結界である。
その六つのうち、鞍馬街道口を守っていたのが、深泥池のほとりにあった地蔵堂で、深泥池地蔵、あるいは御菩薩池地蔵と呼ばれた。これが一一五七年のこととされる。
明治初年の神仏分離のあおりで、この地蔵は池のほとりから動かされ、鞍馬口の上善寺に移された。今は鞍馬口地蔵と呼ばれている。八月下旬の六地蔵めぐりでは、今も六か所を回る参拝が続く。
地蔵は、賽の河原で子どもを守る仏でもあり、道の辻に立って行き倒れを弔う仏でもある。街道口の地蔵は、要するに「ここから先は都の外です」という札だ。都に入る者を検める役でもあり、都から出ていく死者を見送る役でもある。
深泥池が「葬送地」だったという明確な史料はなく、京の三大葬送地といえば鳥辺野、蓮台野、化野で、深泥池はそこには入らない。
誠実に書くなら、深泥池は死者を捨てた場所じゃなくて、死者と生者の通り道を管理する場所だった。ここは混ぜないほうがいい。念のため強調しておく。
それでも結果は似たようなことになる。境界に置かれた地蔵、境界に開いた鬼の穴、境界の水。そこへ夜中に人を運ぶ商売がある。役者は揃っている。
ついでに言うと、地名の変遷もここに絡む。この池は古くは「御菩薩池」と書いた。地蔵菩薩の池、という意味だ。
その地蔵が明治に移されて、字面から菩薩が消え、「深泥池」という、泥ばかりが前に出る名前が定着した。仏が抜けて泥が残った。文字通りの話として、この改称は象徴的すぎる。
大蛇と、将軍の夢
深泥池が古文献に出てくるのは、平安時代前期からで、『類聚国史』に「泥濘池」として出てくる。八二九年、淳和天皇がここで鳥網を使って水鳥を獲った、という記事だ。
天皇家の狩場だったわけだ。平安中期の一〇一八年には「美度呂池」、室町期の一四六九年には「美曾呂池」と、表記が揺れながら続く。
中世には、説経節『小栗判官』の冒頭で物語の舞台になった。二条大納言兼家の子として生まれた小栗は、鞍馬の毘沙門天の申し子。頭は切れるが妻選びがうるさく、十八から二十一までに七十二人の妻を追い返している。
その小栗が鞍馬で笛を吹く。その音色に引き寄せられて、深泥池の大蛇が現れる。十六丈、およそ四十八メートルの大蛇が、十六、七歳の美しい娘に化けて、小栗と契る。
この一件が都で噂になり、父は小栗を常陸へ流して、物語はそこから熊野へ、餓鬼阿弥へと転がっていく。
中世の芸能で、深泥池は「都のすぐ北にいる、人に化けて男を惑わす大蛇の棲む池」だった。人に化ける。近づいてくる。契ってしまう。で、男の人生が狂う。
ここまで書けば、六百年後のタクシー怪談との距離がどれくらいなのか、見当がつくと思う。乗り物が変わっただけだ。
一四二八年には、室町幕府の将軍足利義教がこの池にまつわる不吉な夢を見た、という記録もある。将軍が悪夢を見る場所として名前が挙がる池、というのは相当なものだ。
八池のひとつに数えられ、八大竜王が祀られていたとも言う。竜王は水神だ。水が深く、底が見えず、季節で島が浮き沈みする。
そういう池を、人は神として祀るか、化け物の巣として恐れるか、どちらかにする。深泥池は両方をやった。
「みどろ」なのか「みぞろ」なのか
細かいが、この池は読み方が確定していない。文化庁の天然記念物の登録名称は「みどろがいけ」で、京都市交通局の市バス停留所も「みどろがいけ」。
ところが京都市自身のサイトでは、「みぞろがいけ」と表記される場面があるし、地元でも両方が使われる。
由来説も二系統ある。泥がぬかるむ「泥」から来たとするなら「みどろ」、山からの水が流れ込む「溝」から来たとするなら「みぞろ」。
御菩薩、弥勒、地蔵といった仏の音が訛ったとするなら、「みぞろ」に近い。行基がこの池から弥勒菩薩像を見つけたという伝承を採るなら、なおさら「みぞろ」に軍配が上がる。
怪談を語る現場では、この揺れが逆に効いていて、名前が一つに定まらない池というのは、それだけで少し落ち着かない。地図の上には確かにあるのに、呼び方が人によって違う。心霊スポットの条件として、これほど地味に効く要素もない。
病院をめぐる俗説について、はっきり書いておく
ここは飛ばさずに読んでほしい。深泥池の怪談を扱ったサイトや動画の相当数が、池の近隣にある精神科病院の存在を引き合いに出す。
入院していた人が抜け出して池に入った、だから雨の夜に泣き声がする、消える女はその人だ――という筋書きだ。ひどいものになると、病院そのものを心霊スポットの構成要素として扱い、施設名まで書く。
これは、はっきり否定しておく。事実関係から言うと、そうした死者が大量に出たという同時代の報道記録は確認できない。
池で人が亡くなった例が過去に皆無かというと、水辺である以上そうは言えない。でもそれは全国どの湖沼にも起こりうることで、特定の疾患や特定の施設に結びつける根拠は、どこにもない。
「近くに病院がある」ことと「幽霊が出る」ことの間に、因果関係を示す材料は一つも存在しない。ゼロだ。
では、なぜこの俗説が生まれたのか。ここが本題だ。怪談は、怖さの理由を外部に探す。深泥池は不気味だ。では誰が出るのか。
名前のある個人を出すと角が立つから、語り手はそこで、社会が「異質」と扱ってきたカテゴリーに手を伸ばす。精神疾患は、日本社会が長いこと隔離と沈黙で扱ってきた領域だ。
その沈黙の中に、都合よく理由を放り込める空白があった。それだけの話だ。怪談が病院を選んだわけじゃない。社会が作った空白に、怪談が流し込まれた。
その代償を払うのは、怪談を楽しむ側じゃない。実際に治療を受けている人、受けようか迷っている人、その家族、そこで働く医療者だ。
精神疾患をめぐるスティグマは、知識の誤り、態度としての恐怖や忌避、行動としての排除の三つが絡まって成立する。厄介なのは当事者自身がそれを内面化してしまう部分で、自分は怖がられる側の人間だという感覚が、受診の遅れに直結する。
国立精神・神経医療研究センターの整理では、社会構造のレベルと個人のレベルの双方でスティグマが働くとされる。いずれも当人の自尊心や社会参加を削っていく。
日本の高校の学習指導要領が精神疾患を扱いはじめたのは、二〇二二年度からだ。それでようやく、最低限の知識が学校に入ったという段階にすぎない。
怪談の書き手として言うと、この手の俗説は、単に倫理的に悪いだけでなく、話としてもつまらない。「近くに病院があるから」で片づけた瞬間、何が起きるか。深泥池という土地が持つ十四万年ぶんの奥行きも、鬼の穴も、街道口の地蔵も、大蛇も、全部要らなくなる。
安い説明で高い素材を潰している。もったいないにも程がある。
だから、このページではこの説を採らない。採らないだけでなく、見かけたら否定する。深泥池の怖さは、人の病気のせいじゃない。あそこは、それ以前からずっと怖かった。
底なしの池、という言い方について
もう一つ、定番の俗説を潰しておく。「深泥池は底なしで、何万体もの死体が沈んでいる」ってやつだ。
名前からして「深い泥」だから、そう言いたくなる気持ちは分かる。でも実際に棒を突き刺した記録では、十センチから二十センチ程度で底に当たる場所がいくらでもある。
ボーリングでは泥炭が十七メートル以上続いていた。でもそれは湿地の堆積であって、水深の話じゃない。深さで人を飲み込む池じゃないんだ。
だからって、危険がないという話でもない。この池は水草が異常に濃い。ジュンサイ、ヒツジグサ、ミズゴケのマット、そこに外来のオオバナイトタヌキモやナガバオモダカが加わって、水面下は繊維の塊だ。
二〇一二年の夏には、オオバナイトタヌキモが水面を十センチの厚さで覆い尽くしたことがあった。ここに足を突っ込んで絡まれると、水深が浅くても簡単には抜け出せず、もがけばもがくほど巻きつく。浮島も、見た目は地面でも下は水だ。
「底なし沼だから危ない」は嘘で、「浅いのに絡まって出られなくなるから危ない」が本当だ。怪談としては前者のほうが映えるが、命に関わるのは後者のほう。この逆転は覚えておいて損がない。
派生と別バージョンを、一つずつ
深泥池の話には、いくつも枝がある。順に見ていく。
一つ目は、行き先が池でなく、その先の墓地や火葬場になっている型で、深泥池を過ぎて、さらに北か東へ向かわせる。運転手が「もう住所がありませんが」と言うと、後ろから「もう少し先です」と声がする。着いたところで後ろを見ると、誰もいない。
この型では、指定された番地が実在しないことが多い。後日調べると、その番地はかつて池の水面だった場所、あるいは埋め立てられた区画に当たっていた、という落ちが付く。土地の記憶が住所という制度を突き破ってくる型だ。
二つ目は、髪の毛が残る型。座席が濡れているだけでなく、長い黒髪が何本も残っていたり、シートの布目に細い水草が絡んでいたりする。
この水草バージョンは深泥池でしか成立しない。池の水草の濃さを知っている人間が作った変奏で、地元性がいちばん強く出る派生だと思う。
三つ目は、料金が支払われる型だ。消えたあとの座席に硬貨が置かれていて、しかもそれが古い年号のものだったり、六枚だったりする。
六枚というのは、三途の川の渡し賃、六文銭を踏まえた装飾だ。深泥池版でこれが出るときは、たいてい語り手が仏教的な意匠を意識的に足している。
四つ目は複数回型で、同じ運転手が、あるいは同じ営業所の別の運転手が、命日に当たる日に毎年同じ客を乗せてしまう。単発の怪異じゃなくて、暦に結びついた反復現象として語られる。
これは怪談の寿命を延ばすための構造で、「今年もそろそろだ」という言い方ができるようになる。うまい仕掛けだ。
五つ目は、乗せない型だ。乗せる前に気づいて逃げる。深泥池と言われた瞬間にドアを閉めて走り去った、という話。
あるいは、京都のタクシーには「夜に深泥池行きを断っても乗車拒否にはならない」という業界の暗黙のルールがある、という噂。これは真偽不明の言い伝えとして繰り返し出てくる。でも、そんな取り決めが制度としてあるわけじゃない。
あくまで運転手の間で語られる、冗談まじりの言い回しだと考えたほうがいい。ただ、この「業界にルールがある」という装いこそが、怪談を職業世界の内側の話として補強してきた。
六つ目は人形の話で、池のほとりで見つかった布の人形が、警察に届けられたのに、いつのまにか元の家に戻っていた、という筋。持ち主だった女の子が不幸な目に遭っていて、寺に持ち込んでも供養がうまくいかない。
これはタクシー怪談とは別系統の、深泥池独自の枝で、水辺と子どもと人形という、日本の水辺怪談の古い語彙で組まれている。
七つ目は、水面の話。夜、池の中央あたりの水面が風もないのに一箇所だけ揺れるのを、地元の人は、浮島が動いているだけだと言う。
その説明はそのとおりで、あの島はガスと水位で上下する。でも理屈を知らずに見れば、水の下から何かが押し上げているようにしか見えない。この派生は、自然現象と怪異が同じ現象を指している珍しい例だ。
体験談として語られてきたもの
ここからは、体験談として流布してきた話をいくつか。裏は取れない。取れないという前提で読んでほしい。
一つ目。個人タクシーの運転手をしていた父を持つ人が、ネット上に書いた話。父はもともと迷信をまったく信じない性格で、家族の前で怪談を語ることなど一度もなかった。
その父が、ある年の夏の終わり、営業から帰ってきて夕飯の席で急に黙り込んだ。母が「どうしたん」と聞くと、「今日はもう乗らんとこ思う」と言った。理由を聞いても答えない。
数日経って、ようやく話した内容はこうだ。北山のほうで女の客を乗せて、行き先が深泥池だった。着いたらいなくて、座席が濡れていた。それだけ。
父はそのあと車内の座席を全部張り替えて、しばらく深夜営業をやめた。投稿者の言葉はこうだ。父は嘘をつく人ではなかったし、そもそも嘘をつく動機がなかった、と。この一文が、多くの読者の記憶に残ったらしい。
二つ目は、無線越しの話。ある晩、まだ入って間もない若い運転手が、本部に無線を入れた。客に告げられた住所が地図で見つからない、どうしたらいいか、という問い合わせだ。
配車を捌いていたベテランが番地を聞き取って、少し黙ってから聞き返した。今日は何日や、と。運転手が日付を答える。
ベテランはそれ以上何も言わずに、いったんそこで切ってええから戻ってこい、とだけ言った。若い運転手が営業所に帰ってきたとき、後部座席には誰もいなかった。
話の要点は、ベテランが何を知っていたのかを最後まで語らないところにある。組織の中に、公式には存在しない知識が溜まっていく感じ。タクシー怪談がいちばん怖い形はこれだと思う。
三つ目は客の側から語られる珍しい型で、深夜、深泥池のバス停で終バスを逃した学生が、通りかかった空車を止めたところから始まる。乗り込んで行き先を告げると、運転手が振り返らずに「その前に、ちょっと確認させてもろてええですか」と言い、ルームミラーを何度も見た。
学生が「何かありましたか」と聞くと、運転手は「いや、あんたちゃんと映ってはるから、ええんです」と答えて、そのまま黙って走った。妙な答えだ。降りるときに学生が理由を尋ねると、運転手は「この時間にここで手を挙げる人は、たまに映らへんのですわ」とだけ言った。
この話の巧さは、怪異が一つも起きていないことにある。起きなかったことが、逆に「起きる場合がある」という前提を確定させてしまう。ぞっとする。
四つ目は、地元の生活実感の側から。池のそばで長く商売をしてきた家の人が、取材にうんざりしているという話は、複数のメディアに出ている。夏になると若い連中が深夜に車で乗りつけて騒ぎ、撮影機材を持った人間が住宅の前で照明を焚く。
取材の申し込みが来ても、もう無視していると言い切る人もいる。保全活動に関わっているボランティアの人たちは、心霊目的で来た調査を笑い飛ばす。ここは大学の研究者が真面目に調べている場所だ、と説明する。同じ池が、来る人の目的によってまったく違う顔を見せる。
ある地域の生活協同組合の広報誌が、池のほとりに二十四時間居続けるという企画をやった。昼間は保全作業の人が何十人も出入りし、日が暮れると肝試しの若者が現れる。真夜中にはガマガエルが跳ねる音だけが残り、明け方には朝もやの中を朝日が差す。
何も出なかった。でも、この記録のほうが、どんな心霊レポートより深泥池という場所の実像を捉えていると思う。
掲示板とSNSは、この話をどう扱ってきたか
匿名掲示板のオカルト板では、深泥池はずっと定番の題目だった。夏になるとスレが立ち、必ず「これタクシー怪談の総本山」「一九六九年の新聞に載ったやつ」というレスが付く。
同時に、「発祥ちゃうで、青山墓地のほうが古い」「明治の人力車の記事がある」のように、それを冷ますレスも必ず付く。この怪談をめぐるネット上の議論は、驚くほど早い段階から出典志向だった。
見どころは、一九六九年の新聞記事を実際に確認しようとする動きだ。何面かも分からない、日付も曖昧、という状態が長く続いた。その空白が、かえって「本当にあったのか」という疑いを呼んだ。
そこに図書館のレファレンス記録が公開されて、日付と面と見出しが確定した。この瞬間の掲示板の反応は、なかなか面白かった。
実在が確認されて怪談が強くなった、という流れじゃない。「幽霊の記事ではなく届け出の記事だった」ことが分かって、話の性格が読み替えられたのだ。新聞は幽霊を報じていない。困っている警察を報じている。
この落差を面白がる層が確実にいる。考察系のチャンネルや個人ブログの書き手にも、この話を丁寧に潰した仕事がいくつかある。
代表的なのは、深泥池発祥説をはっきり「でまかせ」と切ったものだ。江戸の駕籠、明治の人力車、昭和初期の自動車、と段階を追って並べ直している。
同時に、そういう合理化に対する反発もある。高速道路催眠現象や感覚遮断による幻覚で説明しようとしても、濡れた座席や置かれた硬貨の「残ったもの」は説明できない、という反論だ。この論争はたぶん永久に決着しない。決着しないから続く。
もう一つ、近年になって強くなったのが、心霊スポット扱いそのものへの批判だ。天然記念物であること、近隣が普通の住宅地であること、保全に関わる人が実際に困っていること。それが知られるようになって、「面白半分で行くな」という声が目に見えて増えた。
怪談を愛する側から、怪談の消費のされ方を叩く言説が出てくるのは、この十年ほどの明確な変化だと思う。深泥池は、その変化がいちばん分かりやすく現れた場所の一つだ。
全国の類話、そして海外の型との距離
同型の話は全国にある。東京の青山霊園はもっとも古い記録を持つ本家筋で、佐賀の犬尾橋のように地方に根を張った例もある。
東北の被災地で語られたタクシー運転手の証言は、これらとは性格が違う。あれは娯楽としての怪談じゃない。突然の大量死のあとで、生き残った人が死者との関係を語り直す行為として、社会学の聞き取りの対象になった。
同じ「消える乗客」という形をしていても、語られる目的が違う。ここを混ぜてはいけない。
海外の消えるヒッチハイカー型と比べると、日本のタクシー型には決定的な違いが一つある。金銭だ。ヒッチハイカーは善意で乗せるから、その話は、親切と裏切り、あるいは霊からの警告として組み上がる。
タクシーは商売だ。メーターが回り、料金が発生し、記録が残る。だから日本の型では、未払いの料金、書けない日報、立て替えのような、事務的な後始末が怪異の証拠になる。
幽霊が出たかどうかより、帳簿が合わないほうが怖い。この感覚は、たぶん相当に日本的だ。
深泥池版は、その日本型の中でもさらに特殊。行き先が家でも墓でもなく、水だからだ。ヒッチハイカー型も青山霊園型も、最後は「その人の家」に着いて、家族が出てきて、写真を見せて、話が閉じる。
深泥池版は閉じない。池に着いて、いなくなって、濡れている。それだけ。回収も供養も説明もない。だからこそ、六十年近く語られ続けている。
行く前に、これだけは
ここからは実務的なことを書く。深泥池は国の天然記念物「深泥池生物群集」だ。池そのものと、そこに生きている生き物のつながり全体が、文化財保護法で守られている。
植物を採る、生き物を持ち帰る、勝手に何かを放す。これらはすべてやってはいけない。特に外来の魚や亀を放す行為は、この池の生態系にとって致命的で、在来のメダカやタモロコが消えた原因にもなっている。
浮島は歩ける地面じゃない。下は水だ。池の周囲にも整備された遊歩道が全周あるわけではなく、足元が悪い箇所が多い。夜間に立ち入るのは、怪異に遭遇する以前に単純に危ない。
周囲は普通の住宅地で、駐車場もない。深夜に車を停めて騒げば、それは怪談の取材じゃない。ただの迷惑行為だ。
行くなら昼間、バス停で降りて、道から眺めるのがいい。市バスと京都バスに「深泥池」の停留所があり、地下鉄烏丸線の北山駅からなら、歩いて十分ちょっと。
晴れた日の午前中に行くと、水面が驚くほど明るくて、拍子抜けする。それでいい。あの池の本当の凄みは、暗さじゃなくて、十四万年ぶん途切れなかった水の連続性のほうにあるのだから。
一九六九年という年に何があったか
ここからは、いま書いてきたことを踏まえて、もう一段深く掘る。深泥池のタクシー怪談が新聞に載った一九六九年十月という時期を、当時の状況に置き直してみると、腑に落ちる点がいくつかある。
京都のタクシーは「流し」で商売する形態が完全に定着し、戦後の混乱期を抜けて車両数も増え、深夜の営業が普通になっていた。同時に無線配車が普及して、運転手が個人で完結せず、営業所と常時つながる働き方に変わっていた。
この「一人で走っているのに組織とつながっている」という状態が、怪談の器として絶妙だったわけだ。一人だけの体験なのに記録が残り、証言が個人の主観で終わらず、書類と無線という他者の目に触れる。
深泥池の周辺も、まさにこの時期に、北山通の整備と洛北一帯の宅地化で変貌していた。それ以前の深泥池は、街道沿いの農村の池だった。
すぐきを漬け、上賀茂神社の氏子圏に属する、洛外の集落で、それが高度成長期に、市街地の縁に飲み込まれていく。池の南側は住宅と病院と学校になり、北側には山が残った。
境界というものは、動くときにいちばん濃くなる。かつて洛中と山の間にあった境界線が、宅地化によって塗り潰されようとしていた。まさにその時期に、境界の怪談が新しい形で噴き出した。これは偶然じゃないと思う。
都市が縁を食べていくとき、食べられる側の記憶が、いちばん現代的な乗り物の姿を借りて顔を出す。タクシーは、その役をやるのに最適だった。乗り物であり、商売であり、深夜に一人で境界を越える職業だからだ。
一九六九年から七〇年代にかけて、日本のテレビは心霊番組の量産期に入っていく。夏の恒例特番が定着し、再現ドラマという手法が確立される。新聞に載った一件は、テレビにとって最高の素材だった。
実在の地名がある、警察が絡んでいる、絵になる水辺がある。おそらく、深泥池が全国区になった決定打はテレビだ。新聞は権威を与え、テレビは映像を与えた。
一九七四年のテレビ番組でタクシー運転手の消えた女性客の話が扱われた、という指摘もある。この時期に全国的な拡散が起きたことは間違いない。
「濡れている」という一語の力
この怪談の中心にある濡れたシートについて、なぜこの一つの細部がこれほど強いのか、改めて考えたい。
一つ目に、証拠として理想的だ。目撃談は主観だが、濡れは物だ。触れる。冷たい。時間が経てば乾く。
確かめられるのに確かめようとした頃には消えていて、証拠であることと、証拠が残らないことを同時に満たしている。怪談の物証として、これ以上の設計はない。
二つ目に、体液を連想させる。汗、涙、羊水、そして死体から出る水。人が濡らすものは、だいたい不吉だ。
しかも座席という、体が直接触れていた場所が濡れていて、座っていた形に濡れている、と語られることさえある。人の輪郭が水でできている。
三つ目に、これがいちばん重要だが、濡れは方向を示す。乾いた幽霊はどこから来たか分からない。濡れた幽霊は水から来た。
深泥池版では、乗せた場所が街で降りる場所が池だから、客は水から出てきて街をさまよい、水へ帰る途中だったことになる。座席の水は、その旅程の途中経過を示す証拠品だ。地理と怪異が、水という一つの物質で結ばれている。
比べてみると分かる。青山霊園版の客は、墓地から乗って家に向かう。乾いていていい。着いた先には家族がいて、話が閉じる。
深泥池版の客は、街から乗って池へ帰る。濡れていなければならない。着いた先には誰もいない。話が閉じない。同じ「消える乗客」でも、水を入れた瞬間に別の物語になる。
池が舞台であることの、もう一段奥の話
日本の怪談で、水域は特殊な扱いを受ける。海は他界そのもの。川は境界線だ。井戸は縦の通路だ。では池は何か。
池は、閉じた水だ。流れない。出口がない。だから溜まる。何が溜まるかというと、時間だ。
深泥池は文字通り、十四万年ぶんの堆積物を底に溜めていて、氷期の植物がその堆積とともに現在まで命をつないでいる。物理的に、この池には過去が保存されている。
この事実を知ってから怪談を読み直すと、話の解像度が上がる。深泥池に消えていく女は、流されていくわけじゃない。溜まりに行くんだ。
あの水面の下には、ミズゴケが分解されずに泥炭になるように、消えたものが分解されずに積み重なっている。それが浮島となって、夏には浮かび、冬には沈む。
浮島という装置も、怪談的にできすぎている。地面のように見えて、地面じゃない。乗れそうに見えて、乗ってはいけない。季節によって浮き沈みする。
存在の確からしさが揺れている。深泥池には、この揺らぐ島が水面の三分の一もある。池の三割が、確かなようで確かでない。そんな場所に人が不安を覚えないほうがおかしい。
最後が底なし説だ。実際には浅いのに、人はこの池を底なしだと言い続けてきた。名前に「深」と「泥」が入っているせいもある。
本当の理由は、たぶん、あの水が黒く見えるからだ。腐植酸を含んだ貧栄養の水は、光を吸って底を見せないし、浅くても見えなければ、人はそこを無限だと感じる。
見えなさが深さに翻訳される。この誤読は、あらゆる心霊スポットの基本構造でもある。
怪談が土地に与える損害と、それでも語る理由
深泥池について、書き手として一番悩ましいのは、書くこと自体が土地に負荷をかける点だ。
現に、地元では実害が出ている。夏になると深夜に人が来る。撮影がある。取材の依頼が来る。取材に応じない、という選択をした人がいる。
保全に関わっている人たちは、この池を「日本の自然史上ほとんど代替のない場所」として守っている。なのに世間では「幽霊が出る池」で通っている。この落差は、率直に言って不当だ。
同時に、怪談を書くなという結論も採りたくない。理由は二つある。
一つは、この怪談自体が、この土地の歴史の一部だからだ。鬼の穴の伝承、街道口の地蔵、小栗判官の大蛇、将軍の悪夢。深泥池は千二百年にわたって、人に不安を抱かせ続けてきた場所だ。
二十世紀後半にタクシー怪談が生まれたのは、その系列の最新版であって、突然変異じゃない。この連続性を消してしまったら、深泥池は「珍しい植物がある池」になってしまう。それは、この場所の半分しか見ていない。
もう一つは、怪談の語られ方を放置しておくと、いちばん質の悪い型が生き残るからだ。病院と結びつける俗説が、まさにそれ。あれは、深泥池の歴史を何も知らない人間が、いちばん手っ取り早い他者化のカードを切っただけの説明だ。
それを放置すれば、実在の人と施設に害が及び続ける。だったら、もっと面白くて、もっと正確で、誰も傷つけない語り方を上書きするしかない。怪談は上書きできる。現に、この六十年で何度も書き換えられてきた。
だから、こう提案したい。深泥池の怪談を語るなら、鬼の穴から始めろ。地蔵の移転を入れろ。大蛇を出せ。氷期の遺存種と浮島を語れ。
そのうえで、雨の夜のタクシーを出せ。そうすると、あの話は「病院が近いから幽霊が出る」などという貧しい話じゃなくなる。「境界であり続けた場所が、乗り物が変わるたびに同じ話を語り直してきた」という、はるかに気味の悪い話になる。
消えた乗客は、誰の不安だったのか
話の芯にあるものに、最後に触れておく。タクシー怪談の主人公は、幽霊じゃない。運転手だ。話の焦点は、消えた客でなく、客を失った男のほうにある。
彼は深夜、一人で車を走らせている。見知らぬ人間を後ろに乗せている。相手の名前を知らない。顔もろくに見ていない。
会話がなくても仕事は成立する。目的地は相手が決める。行ったことのない場所へ、自分の意思とは無関係に運ばれていく。
考えてみると、これは相当に不安定な状況だ。運転手は運ぶ側なのに、行き先を決められない。主導権は後ろにある。しかも後ろは見えない。
見えるのは、ミラー越しの断片だけだ。この構造的な無防備さが、怪談の器を作っている。
深泥池版では、その行き先が水だ。誰も住んでいない、何も帰るところのない場所。客は自分の消滅地点を運転手に告げて、そこまで運ばせる。
運転手は、他人の消滅の手伝いを、それと知らずにやらされたことになる。料金も受け取れない。
ここまで来ると、この話が単なる幽霊譚でなく、他人をどこかへ運ぶという行為そのものへの怯えだと見えてくる。自分が誰かの最後の道行きに関わってしまったかもしれないという感覚。深夜に人を乗せる仕事をしている人間なら、誰でも一度は考えることだと思う。
だから、この怪談はタクシーが存在する限り消えない。乗り物が自動運転になっても、たぶん形を変えて残る。車に人を乗せて、その人がどこへ行くのか本当のところは分からない。この不確かさが、駕籠の時代から人力車を経て、タクシーまで続いてきた。
深泥池は、その不確かさを引き受けるのに、たまたま最も適した地形を持っていた。都の縁にあって、街道の分かれ目で、鬼が出入りする穴がある。地蔵が立っていて、大蛇が棲んでいて、底が見えない。島が浮き沈みして、氷期からの生き物が生き延びている。そういう池だ。
そんな場所が終着点として告げられたら、そりゃあ振り返るのが怖い。ミラーを見るのが怖い。座席に手を伸ばして、そこが濡れているのを確かめるのが怖い。
濡れていた、という一行が六十年もったのは、要するに、あそこがそういう池だったからだ。
