- 雑木林の中で呼び止める声
- 七つの名前、二通りの数え方
- 年に三度実る栗
- 天保の書状と、池に沈めた子石
- 休館中の屋敷と、静かな集落
- 夜道で聞こえた「待って下さい」
- 米一俵の握り飯と、無数の手
- 三つの語りで違うところ
- 殿様に召し上げられても池へ戻る石
- 石を召し上げた城には、天守がなかった
- 天保という時代
- 投げ込んでも戻ってくる石
- 昭和の池さらいで出た卵大の二つ
- 生身の石から生石村へ
- 旧宮生小学校のすぐ隣
- 庄屋の家は十七世紀の建物
- 厩が二つある土間
- 釘を使わない小屋組み
- 百年でやっと三十センチ
- 子を生む石、育つ石
- 三浦半島の海沿いの子産石
- 生石と書いておうしこと読む社
- さざれ石が巌になる
- 泣く石、しゃべる石
- 飴で育った子と、泣く石
- 同じ山形の、もう一つの化け石
- 年に三度実る栗の伝説
- 死者の婚礼を描く絵馬と、むかさりの水
- 天童の若松寺と山寺の絵馬
- 七不思議は七つで収まらない
- 遠州には子生まれ石と三度栗と夜泣き石がそろう
- 越後の七不思議は八つある
- 化け石が文字になるまで
- 名前だけ残る四つの不思議
雑木林の中で呼び止める声
山形県上山市の下生居は、小さな集落だ。ここには昔から、七不思議と呼ばれる話が伝わっている。いちばん有名なのが化け石で、その子石は今、江戸時代に代々下生居村の庄屋を務めた尾形家の池に沈んでいるという。国の重要文化財の旧尾形家住宅は、中世の豪族の家系と伝えられる家の屋敷だった。化け石は天保年間の藩の書状にも出てくるらしいが、残りの六つはほとんど知られていない。
七つの名前、二通りの数え方
七不思議の顔ぶれは、語る人によって揺れる。ある伝えでは、化け石のほかに六つが挙げられていた。三度栗、むかさり清水、お花畑、葉山権現と妙見菩薩、ころころ清水、明見坊と植えし松だ。どんどん引き、三光の松、大杉権現といった名前が挙がることもあるけど、今回たどれた語りには出てこなかった。
むかさり清水は、濁らず涸れない水として語られる。むかさりは山形の村山地方の言葉で婚礼のこと。同じ上山市の寺には、この言葉を冠したムカサリ絵馬が伝わっていて、縁と結びつく水の名前として聞くと、どうしても気になる。ころころ清水は、名前のとおり水が鳴る清水だったんだろうか。詳しい説明までは見つからなかった。
年に三度実る栗
三度栗は、年に三度実をつける栗の木のことだ。ふつうの栗は年に一度しか実らない。その当たり前を外れる木だからこそ、不思議の一つに数えられた。
葉山権現と妙見菩薩、明見坊と植えし松、お花畑は、名前だけが伝わっていて中身がわからない。山の神と星の仏、僧が植えた松、花の咲く場所。名前の並びを見るかぎり、生居の七不思議は水や木や山といった村のまわりの自然と、信仰の場所が中心になっているようだ。
天保の書状と、池に沈めた子石
これらの話は、ただの口伝えだけで残ってきたわけじゃない。化け石の話は、昭和四十一年の『山形民俗通信』創刊号に「郷土の伝説」として載った。国際日本文化研究センターの怪異・妖怪伝承データベースにも採られている。子石は旧尾形家住宅の池に沈んでいて、天保年間、一八三〇年代の藩の書状が残るという。少なくとも幕末には、化け石の話が村に根づいていたことになる。
有力な家を中心に、身のまわりの不思議を七つにまとめて語るやり方は、江戸の本所七不思議や京都の知恩院七不思議にも通じる。ただ、都会の七不思議が寺や屋敷や町の出来事を集めるのに対して、生居のほうは石や水や木といった村の自然が中心だ。そこがいちばんの違いだった。
休館中の屋敷と、静かな集落
旧尾形家住宅は、ふだんは一般公開されている。ただ、地元の案内によると、二〇二五年十月六日から当面のあいだ臨時休館になっていた。行く前に確かめたほうがいい。
開いていれば入館料は大人二百十円、高校生百六十円、小中学生五十円で、月曜と年末年始が休みになる。JRかみのやま温泉駅から車で十五分ほどで、駐車場は十台分あるという。大きな寺社の七不思議と違って、生居の話は人の少ない静かな集落に、そのままの形で置かれている。
夜道で聞こえた「待って下さい」
ここからが本題。化け石の話を、資料ごとの違いも含めてもう少し細かく追ってみる。遠い昔、このあたりは昼間でも薄暗い雑木林だった。夜になると石が化けて出る、という噂があったそうだ。
ある晩、下生居の庄屋の権左衛門が、灯りも届かないその林の中の道を一人で家へ向かって歩いていた。すると暗がりから声がした。待って下さい。女の声だった、と地元の案内は伝えている。
別の伝えでは、語り方が少し違う。声の主ははっきり石の化け物で、お願いします、お願いします、と繰り返したという。権左衛門が、何の頼みだと聞き返す。答えはこうだった。
私には子供がたくさんおり、食べ物がなくて困っております。何か食べ物を下さい。
女の声か、石の化け物の声か。資料によって姿は揺れる。ただ、どれも夜道で呼び止められ、子どもが飢えていると訴えられるところは同じだ。怖い話というより、頼みごとの話として始まる。
米一俵の握り飯と、無数の手
断らなかった。家に戻って飯を炊き、握り飯をこしらえて石の前に供えたが、別の伝えではその量が米一俵分だったとされる。
すると石のまわりから無数の手が伸びてきて、あっという間に握り飯を平らげてしまったという。子どもがたくさんいる、という訴えはうそじゃなかった。
食べ終えたあと、声はお礼を言った。地元の案内の語りでは、女は感謝の言葉を残して消えたという。別の伝えが残す言葉はこうだ。
有り難うございます。お礼にこの石を差し上げます。この石がある限り、家も子孫も栄えることでしょう。
昭和四十一年の『山形民俗通信』の要約では、化け石は礼として生き石を何個か権左衛門に与えた。その後、権左衛門の家には幸運が続き、生き石も数を増やしていったという。増える石。ここがこの話の芯になる。
三つの語りで違うところ
ここで、語りの違いを並べてみる。まず声の主。地元の案内では女の声で、別の伝えでは石の化け物、昭和四十一年の記録では妖怪になった石そのものだ。
握り飯の量も違う。別の伝えは米一俵分と書き、ほかの二つは量に触れていない。礼の品は、地元の案内では感謝の言葉、別の伝えでは一つの石、昭和の記録では生き石が数個だった。
細部は揺れるのに、骨組みは動かない。夜道、子どもを抱えた声、施し、無数の手。この四つは、三つの語りのどれにも出てくる。礼の石と栄える家は、地元の案内の語りには出てこず、そのかわり地名の由来として子持ち石の名が語られていた。
口伝えは変わる。語る人が変わるたびに、細部も少しずつ変わっていく。それでも骨組みが残っているなら、その骨組みこそが村で大事にされてきた部分なんだと思う。
殿様に召し上げられても池へ戻る石
続きがある。噂を聞いた上山の殿様が、その石を献上するよう命じた。庄屋の家にある不思議な石が、城へ運ばれていく。
ところが次の日になると、城へ運んだはずの石が、いつのまにか元の池の底に戻っていた。何度召し上げても同じことが繰り返された、と別の伝えは書いている。石は庄屋の家を離れようとしなかった。
江戸時代の上山は、上山藩の城下町だった。元禄十年から幕末までは松平家が藩主で、石高はおよそ三万石。殿様が一つの石を欲しがった、という筋は、村の庄屋と城の距離の近さをよく表している。
上山藩は小さな藩だが、幕末には名が出る。慶応三年の暮れ、江戸で浪人の放火が相次ぎ、藩主の松平信通は主犯が薩摩藩だと突き止めて薩摩藩邸を攻めた。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わって新政府軍と戦い、一八六八年九月に降伏。一八七一年の廃藩置県で藩はなくなった。
戻ってくる石の話は、礼として渡された石が本当に権左衛門の家のものだったことの証にもなる。人の力で動かしても、石は自分の居場所を知っている。
石を召し上げた城には、天守がなかった
殿様が石を運ばせた先は、上山城だったはずだ。月岡城とも呼ばれる。天文四年、一五三五年に武衛義忠が天神森、今の月岡公園に築いた平山城だ。壊される前は三重の天守を持ち、羽州の名城と呼ばれた。
ところが元禄五年、一六九二年に藩主の土岐家が国替えになった直後、幕府の命令で城は壊された。そのあとは二の丸に御殿が建てられ、松平家の時代には二の丸に居館を置く程度の構えになっていたという。
天保のころの上山の城には、天守がなかった。
今の三層の天守は、昭和五十七年、一九八二年に二の丸の跡に建てられた模擬天守で、郷土歴史資料館になっている。石が戻っていった池の話を聞いてから資料館を見上げると、ちょっと見え方が変わる。
天保という時代
化け石のことが藩の書状に出てくるという天保年間は、東北にとってひどい時代だった。天保四年、一八三三年の大雨と冷害で大凶作になり、そこから天保十年まで飢饉が続く。天保の大飢饉だ。同じ年の一月には中米ニカラグアのコシグイナ火山が大噴火していた。噴煙が日射をさえぎり、冷え込みを強めた可能性もあるそうだ。
いちばん被害が大きかったのは、陸奥と出羽、つまり今の東北地方だった。日本の推計人口は、一八三三年からの五年間で百二十五万人あまり減ったとされる。大坂では毎日百五十人から二百人を超える人が飢えて死んだという。天保七年には甲斐国で一国規模の一揆が起き、翌年には大坂で大塩平八郎の乱が起きた。
同じ山形でも、米沢藩は天明の飢饉の教えを生かしていた。義倉を整え、かてものという救荒食の手引書を作って配っていたという。享和二年、一八〇二年に家老の莅戸善政らがまとめた本で、前の藩主の上杉治憲、つまり鷹山の意思で企画された。食べられる草木を八十二項目、いろは順に並べ、味噌の作り方まで載せた。
藩内に千五百七十五冊が配られ、天保の飢饉では多くの命を救ったと伝わる。飢えへの備えが、藩の仕事だった時代だ。
子どもがたくさんいて、食べ物がない。化け石の訴えは、そういう時代の村の人の耳には、ずいぶん身につまされる言葉に聞こえたはずだ。化け石の話が天保の飢饉から生まれた、と言える証拠はない。ただ、藩の書状が交わされたという年代と、話の中身が妙に響き合っているのは確かだ。
投げ込んでも戻ってくる石
殿様の城から池へ戻る石には、新潟に似た話がある。昭和十五年の『高志路』六巻四号に載った「續新津郷奇談」によると、ある神社の境内に生き石と呼ばれる石があった。
冗談で堀に投げ込んだ人がいた。ところが翌日には、一人では引き上げられないほど深い堀の底から、石が元の場所に帰っていたという。
生居の石は殿様の命令に逆らって池へ戻り、新津の石はいたずらに逆らって境内へ戻る。どちらも生き石だ。生きている石は、自分の居場所を自分で決める。
昭和の池さらいで出た卵大の二つ
後日談もある。この話には、昭和になってからの出来事までついている。昭和の時代に一度、池の中をさらったことがあった。そのとき、卵ほどの大きさの石が二つ出てきたという。
江戸時代に授かった石が、池の底で子を生んでいた、と受け取るのが自然な流れだろう。化け石が子を生む石として語られる理由は、ここにある。
今、化け石の子石は旧尾形家住宅の庭の池に沈められたままになっているらしい。化け石があった場所から、尾形家は五百メートルほど東にある。
生身の石から生石村へ
地名の話。生居という地名も、この石から来たと言われている。地元の案内の説明では、化け石はやがて子持ち石と呼ばれるようになった。村人はそれを生きている石、生身の石として、村の名を生石村と改めた。
生石村は、のちに生居と書くようになる。生きた石が、生きて居る場所の名前に変わったわけだ。字を替えても、読みの響きは残った。
明治二十二年の町村制で、上生居村、中生居村、下生居村は宮脇村、金生村と一つになり、宮生村になった。宮生という名は、宮脇と金生と生居から字を取ったように見える。その宮生村も昭和二十九年に上山町などと合わさり、上山市になった。
旧宮生小学校のすぐ隣
化け石そのものは、下生居地区の旧宮生小学校のすぐ隣に、今も置かれている。地元の案内には、二〇二二年三月二十三日に撮った写真が載っていた。旧上山市立宮生小学校の前、中央にあるのが化け石だという説明が添えられている。
学校の隣の石。人の言葉を話したと伝わる石が、校舎のすぐ横にある。村の名前の由来になった石と、村の子どもが通った学校。二つが並んでいる光景は、なんだか出来すぎた話にも思える。
昼でも暗い雑木林だった、という昔の姿は、今の写真からは想像しにくい。林は切り開かれ、道が通り、学校が建った。それでも石だけは同じ場所に残された。
庄屋の家は十七世紀の建物
屋敷の話もしておこう。子石が沈む旧尾形家住宅は、十七世紀に建てられたと推定される大きな農家だ。尾形家は中世の豪族の家系で、江戸時代には代々下生居村の庄屋を務めたと伝えられる。昭和四十四年十二月十八日に国の重要文化財に指定された。
山形県の文化財の解説では、建物は桁行二十三点六メートル、梁間九点一メートルの寄棟造りで、茅葺き。上山市の解説では、建坪三百二十三平方メートル、母屋は桁行二十六点三六メートル、梁間九点六一メートルとなっている。数え方の範囲が違うのか、数字が少し食い違う。
間取りは広間型の五間取りで、土間、土座、三間続きの座敷、板敷の部屋が並ぶ。素朴で豪壮な造りと、数寄屋風の座敷を合わせ持つ。この地らしい貴重な建物だと県は書いていた。上山市の解説も、間取りや座敷に家の格式がよく表れていると説明している。
厩が二つある土間
二〇二〇年十一月に旧尾形家住宅を訪ねた人が、中の様子をくわしく伝えている。案内してくれたのは、ご当主本人だったそうだ。ユーモアを交えた説明で、敷地には昔の農具も並べてあったという。
まず土間。ふつう厩はひとつなのに、この家には二つあって、馬を二頭飼っていたという。柱は石場建てで、地面に置いた礎石の上に立てる造り。揺れに強いと説明されたらしい。
約四十畳の広間は、土の床の上に籾殻や藁を厚く敷き詰め、その上に筵をかぶせた土座だった。大黒柱は栗の木で、釿で削った跡が残る。窓は内開きの格子窓で、雪に備えた工夫だという。
広間の奥には、下座敷、中座敷、そして床の間と欄間のある上座敷が続く。家族の暮らしの場から、客を迎える奥の間へ。一つの屋根の下に、村の暮らしと藩とのつきあいが順番に並んでいる。
釘を使わない小屋組み
釘がない。旧尾形家住宅の見どころとしてよく挙がるのが、屋根を支える小屋組みに釘を一本も使わない、この釘なし工法だ。地元の案内は、この工法が重要文化財に指定された理由の一つだと紹介していた。
建物は寄棟に中門を切妻で張り出した形で、百坪を超える。中門造りは、母屋から突き出した中門に馬屋や出入り口を置く民家の形で、東北や北陸の日本海側の雪の多い土地に広がった。母屋の中にあった馬屋を中門へ移したことで生まれた形だと説明されている。土間と広間は、家の人たちが毎日暮らした場所だった。黒光りする大黒柱が、その真ん中に立つ。
一方の数寄屋風の座敷は、藩の役人を迎えるための格式の高い部屋だったという。庄屋の家は、村の暮らしの場であると同時に、藩との窓口でもあった。殿様が石を欲しがった話は、そういう家の立場を思うと妙に生々しい。
敷地には、樹齢三百年とされるイチイの大木もある。下生居のいちいの名で、昭和三十二年四月二十日に上山市の天然記念物になった。目通りの幹回りは二点七六メートル、高さは約十メートル。まっすぐな幹の樹皮は鮮やかな赤褐色で、今も勢いがいいそうだ。
子石の沈む池と、三百年の木と、釘のない屋根。尾形家の庭は、それだけで一つの不思議の集まりに見える。
百年でやっと三十センチ
イチイは、北海道や東北ではオンコとも呼ばれる木だ。東北にはオッコという呼び名もあり、長野の松本ではミネゾ、アイヌの人たちはラルマニと呼んだ。耐寒性が強く、北の土地では庭木や生け垣によく使われてきた。刈り込みにも強いので、形を整えて動物の姿に仕立てることもある。
名前の由来は、仁徳天皇がこの木に正一位を授けたから、という話が伝わる。神官が持つ笏がイチイで作られたことにちなむ逸話だ。材は年輪が細かく紅褐色で美しく、飛騨の一位一刀彫でも知られる。
成長はとても遅い。そのかわり、高さは十五メートルほどまで育つ。幹の直径が三十センチになるまでに百年かかると言われる。下生居のいちいは幹回りが二点七六メートルあるから、直径にすると九十センチ近い。三百年という推定樹齢にも、なるほどと思える太さだ。
秋に赤い実。果肉は甘くて食べられるが、種は硬く、飲み込むと中毒を起こすことがあるので気をつけたい。
子を生む石、育つ石
よその石も子を生む。化け石が子を生む、という話は、生居だけのものじゃない。日本には、石が育ち、子を生むという信仰が昔からあった。一般に、いつも湿り気を帯びた石や、育って子を生むと言われる霊石は、生石や子産石と呼ばれた。
海や川から拾ってきた石を毎日拝むと子ができる、という俗信も各地に広まっていたらしい。子持石、子得石と呼ばれる石も同じ仲間だ。石の中に命が宿っていると考えるから、石が増えたり育ったりしても不思議じゃない。
生居の化け石が生石村の由来になった、という話は、この生石の信仰とぴったり重なる。生きている石だから、生石。名前がそのまま信仰を言い当てている。
三浦半島の海沿いの子産石
海辺にもある。子を生む石の話で、よく知られた場所がもう一つ、三浦半島の海沿いだ。逗子駅からバスで二十分ほど走った葉山の先、国道百三十四号に、子産石という名のバス停がある。降りた目の前には、球の形をした大きな石が置かれている。
近くの浜の岩場が長い年月をかけて波に削られていくと、その中から小さな丸い石がころりと出てくる。岩が石を生んでいるように見えるわけだ。この子産石のことは、江戸時代の地誌『三浦古尋録』にも載っている。
ご利益は子宝と安産。大きな石に触れた手で腹をさする。丸い小石でじかに腹をさする。浜で拾った丸石を持ち帰って祈る、という習わしもあるという。
生居の化け石は池の底で数を増やし、三浦の子産石は岩の中から生まれてくる。どちらも、石が増えるところを人が見届けた話だ。
生石と書いておうしこと読む社
字も同じだ。生石という字は、よその土地にもある。兵庫県高砂市の生石神社は、おうしこじんじゃと読む。おおしこ、おいしこと読み違えられることも多いらしい。御神体は石の宝殿と呼ばれる巨大な石造物で、横六点四メートル、高さ五点七メートル、奥行七点二メートルもある。
石の宝殿は、水面に浮かんで見えることから浮石とも呼ばれる。宮城の鹽竈神社の塩竈、宮崎の霧島東神社の天逆鉾と並んで、日本三奇の一つに数えられてきた。
『播州石宝殿略縁起』の言い伝えでは、大穴牟遅と少毘古那が一夜のうちに石の宮殿を造ろうとした。途中で地元の神の反乱をしずめているあいだに夜が明けて、宮殿は横倒しのまま起こせなかったという。
読みも由来も、生居の生石とは別物だ。それでも、石に生という字をあてる感覚が各地にあったことはわかる。石はただの物じゃなく、生きているものとして見られていた。
さざれ石が巌になる
石が育つという考え方は、もっと身近なところにもある。君が代のさざれ石だ。小さな石が長い年月をかけて大きな巌になる、という歌の文句は、古代の巨石信仰に根を持つ。
古今和歌集の序には、さざれ石の巌となるよろこびという言葉がすでに見える。柳田国男は、石が育つという言い伝えが近代でも全国に少なくとも三十五例あると記録した。
学問の目で見ると、岐阜県で天然記念物になったさざれ石は、伊吹山の石灰岩が細かく砕けて固まった石灰質角礫岩だという。小石が集まって大きな石になったように見えるのは、そのためだ。
一九六一年に旧春日村で見つかり、一九七七年に天然記念物に指定された石で、岐阜県は君が代発祥の地を名乗っている。宮崎県日向市の大御神社も、境内の礫岩を君が代のさざれ石としている。ラグビーの日本代表が、ワールドカップの前にこの石の前で国歌を歌うのが恒例になっているそうだ。
池の底で二つ増えていた化け石の子も、この長い信仰の流れの中に置くと、急に筋の通った話に見えてくる。
泣く石、しゃべる石
石はしゃべる。石が声を出したり泣いたりする話も、日本の各地にたくさん残されている。夜泣き石と呼ばれる伝説は、夜に泣き声がするものと、子どもの夜泣きを止めてくれるものに大きく分かれる。静岡の小夜の中山の夜泣き石は、殺された者の霊が乗り移って泣くと言われてきた。
岡山県の苫田郡には、味噌をくれと言う杓子岩の話がある。食べ物をねだる石だ。生居の化け石が握り飯を求めた話と、どこか似ている。
同じ岡山の御津郡には夜に音を立てるこそこそ岩、香川県の旧琴南町には老婆が現れるオマンノ岩。長野県の小谷村には、危険を知らせる物岩がある。石や岩は昔から霊の宿るものとして崇められ、ときに妖怪の住みかにもなった。
飴で育った子と、泣く石
有名な話がある。遠州の夜泣き石には、東海道を行き来した人たちのあいだで広まった筋がある。身ごもったお石という女が、小夜の中山の峠で産気づいて苦しんでいた。通りかかった轟業右衛門という男がしばらく介抱したが、お石が金を持っていると知ると斬り殺し、金を奪って逃げた。
お石の霊はそばの丸い石に乗り移り、夜ごとに泣き声を上げる。それで夜泣き石と呼ばれるようになる。生まれた子は音八と名づけられ、飴で育てられたという。
音八はやがて刀の研ぎ師になった。ある日、客の刀の傷の話から、その男が妊婦を斬り捨てた業右衛門だと知り、母の仇を討つ。のちに弘法大師が石に仏の名を刻んでいった、という結びまでつく。
石は今、国道一号の小夜の中山トンネルの手前の道ばたにある。久延寺の境内にも一つあるが、こちらは本来の夜泣き石じゃないそうだ。明治には石を東京で見世物にしようとした興行があったが失敗し、焼津に置き去りにされたのを地元の人が運び戻したという。
子を抱えた母の霊が石に宿り、子は飴で命をつなぐ。生居の化け石も、子どもを飢えさせまいとする声だった。石に宿るのは、しばしば母の声らしい。
同じ山形の、もう一つの化け石
山形県内には、別の化け石もある。生居から見ると北の、山辺町だ。峠を越えた山あいの村に、曼荼羅石とも呼ばれる化け石が立っている。
二〇〇七年九月にそこを訪ねた人の話によると、石は見事に二つに割れていた。立て看板には、昔、夜中にこの石の脇を通るとウワーン、ウワーンと泣き声がしたと書かれていたという。
そこへお坊さんが通りかかり、お経を唱えながら石を割った。すると中から、真っ黒な妖怪が飛び出してきたという。お坊さんありがとう、と言って逃げていったそうだ。
山辺の化け石は割られて中身が去っていく石で、生居の化け石は施しを受けて子を増やす石だった。同じ山形の化け石でも、人との付き合い方がまるで違う。
年に三度実る栗の伝説
栗の話に戻る。七不思議の三度栗にも、全国に仲間がいる。三度栗は、年に三度実をつけるといわれる栗で、植物としてはシナグリの一品種とされる。伝説の型は大きく二つあった。
一つは弘法大師の型だ。旅の途中で子どもから栗をもらった大師が、礼に年に三度実るようにしてやると約束する。静岡県菊川市の三沢の三度栗は、遠州七不思議の一つに数えられている。高知県四万十町の岩本寺でも、寺の七不思議の一つになっていた。
もう一つは親鸞の型で、新潟に伝わる。阿賀野市の孝順寺では、親鸞が滞在した家で別れ際に焼き栗をもらった。この栗から芽が出て年に三度実るように、と唱えて植えたという。越後七不思議の一つだ。
孝順寺の伝承では、栗は毎年六月、九月、十一月の三回に分けて花を咲かせ、実を結ぶという。原木は枯れたが、若木が育って同じ性質を保っているそうだ。
生居の三度栗が、弘法大師と親鸞のどちらの型の話を持っていたのかは、今回の資料からはわからない。ただ、よその七不思議でも三度栗が顔を出すのを見ると、この栗が七不思議の常連だったことはよくわかる。
死者の婚礼を描く絵馬と、むかさりの水
水の名前の話。むかさり清水の名前に引っかかったのは、同じ上山市にムカサリ絵馬が伝わるからだ。ムカサリ絵馬は、戦死や事故などで結婚しないまま亡くなった人のために、あの世での婚礼の様子を描いて寺に納める絵馬のこと。山形県の村山地方を中心とする供養の習わしで、江戸時代から続く。
上山市牧野の久昌寺は、寛文元年、一六六一年に開かれた寺だ。本堂には三十三体のムカサリ絵馬が奉納されていて、いちばん古いものは明治三十五年、一九〇二年のものだという。
絵馬には、生きている人は描かないという決まりがある。新郎新婦のどちらかが死者なら、相手は実在しない架空の人物として描かれる。昔は仲人や稚児まで描いたが、時代とともに新郎新婦だけの絵に変わってきたらしい。
むかさりという言葉の由来には、嫁を迎えて去る、娘が去る、向こうへ去る、といった説がある。迎えられからくる結婚の方言だ、という説明もある。似た方言のムカーサルは、長野から静岡の伊豆や駿河、宮崎の南部でも使われるそうだ。
涸れない清水に婚礼の名がついている理由は、今回の資料ではわからなかった。でも、この土地でむかさりという言葉が生と死の両方にまたがって使われてきたことは覚えておいていい。
天童の若松寺と山寺の絵馬
ムカサリ絵馬でいちばん知られているのは、上山から北へ行った天童市にある若松寺だ。完全な調査では供養された人の数は千百二十人にのぼり、確認できた一番古い絵馬は一八九八年のものだという。
山寺の名で知られる立石寺にも、明治の中ごろ以降の絵馬が残る。村山地方と置賜地方に広がる習わしで、絵馬を納める風習そのものは山形県と青森県の津軽地方に限られるそうだ。
歴史学者の佐藤弘夫によれば、始まりは親心だった。結婚しないまま亡くなった男性を供養して、半人前から一人前にしてやりたい。戦後に急に増え、一九七〇年代の後半からさらに盛んになる。
供養する相手も広がった。昔は結婚の年ごろの死者が中心だったが、今は水子や四十代以降で亡くなった人の絵馬もある。絵も変わり、仲人や両親まで描いた婚礼の場面から、新郎新婦だけの記念写真のような絵が増えた。合成写真やクレヨン画まであるという。
青森の津軽には、似た供養として花嫁人形を納める習わしがある。これはオガミヤサンの教えから、花嫁人形の代わりとして奉納されたものだ、という研究もあるそうだ。
七不思議は七つで収まらない
数は合わない。七不思議という数え方は、実は七つにきっちり収まらないことが多い。江戸の本所七不思議は、伝承によって話が入れ替わり、八種類以上のエピソードが伝わっている。墨田区が紹介しているのは九つだ。
置いてけ堀、落ち葉なき椎、狸囃子、消えずの行灯と灯りなしの蕎麦、送り提灯、送り拍子木、片葉の芦、足洗い屋敷、津軽の太鼓。釣った魚が消える堀も、葉の落ちない椎も、村の自然の不思議というより、町の夜の不思議だ。
京都の知恩院の七不思議は、鴬張りの廊下、白木の棺、忘れ傘、抜け雀、三方正面真向の猫、大杓子、瓜生石の七つ。御影堂の軒裏に骨ばかりで残る忘れ傘は、火事から寺を守るものと信じられてきた。
抜け雀は、大方丈の襖絵に描かれた雀が命を得て飛び去ったという話だ。大杓子は長さ二点五メートル、重さ約三十キロ。どこから見てもこちらを睨む三方正面真向の猫の絵もある。瓜生石は、知恩院が建つ前からあったとされ、誰も植えていないのに瓜が実ったという石だ。石と実りの不思議が、ここにも並んでいる。
遠州には子生まれ石と三度栗と夜泣き石がそろう
静岡の遠州七不思議を見ると、生居の話と重なる顔ぶれに驚く。小夜の中山の夜泣き石、牧之原市の大興寺の子生まれ石、菊川市三沢の三度栗。泣く石、子を生む石、年に三度実る栗が、一つの七不思議の中にそろっている。
ほかにも御前崎の桜ヶ池の大蛇、水窪の池の平の幻の池、春野の京丸牡丹が並ぶ。遠州灘の波小僧、菊川の片葉の葦、御前崎の天狗の火もある。吉田町の能満寺のソテツ、粟ヶ岳の無間の鐘、井伊谷の柳井戸、大渕の晴明塚まで数えると十三。組み合わせには諸説あって、物語は百以上あるという。
牧之原の子生まれ石は、崖からまゆの形をした石が落ちてくるという珍しい石だ。寺の住職が往生を前に予言すると、裏山の崖から石が生まれる。それが二十九代続いているそうで、子を生む石はここにもちゃんといた。
越後の七不思議は八つある
新潟の越後七不思議は、親鸞にまつわる話が中心だ。一九二二年に国の天然記念物になった逆さ竹は、竹の杖を逆さに挿したら根づいたという話だ。生き返った焼鮒、梅干しの種から育った八房梅、数珠を掛けて法を説いた数珠掛桜が続く。数珠掛桜は紅色の花に約八十枚の花びらをつける桜で、一九二七年に国の天然記念物になった。ここに孝順寺の三度栗、食膳のカヤの実から育ったつなぎがや、一夜で片葉になった片葉の葦が加わる。
さらに新潟市秋葉区の八珍柿まで数えると、八つになる。八珍柿は樹齢約三百年の県の天然記念物で、親鸞との直接のつながりは書かれていなかった。
片葉の葦は、遠州にも越後にも、そして江戸の本所七不思議にも出てくる。三度栗も遠州と越後の両方にある。七不思議は、土地ごとに勝手に作られたように見えて、同じ部品を貸し借りしているところがある。
生居の七不思議の顔ぶれが資料によって揺れるのも、七不思議という形の宿命みたいなものだ。数が先に決まっていて、中身はあとから入れ替わっていく。
化け石が文字になるまで
化け石の話は、いつから文字で残されてきたのか。一番古い記録として確かめられたのは、昭和四十一年十二月三十日に出た『山形民俗通信』通巻一号の「郷土の伝説」だった。国際日本文化研究センターの怪異・妖怪伝承データベースは、この論文をもとに化け石のカードを作っている。
その後も話は語り継がれてきた。地名の由来と化け石の話は、地元で写真つきで紹介されていた。殿様の話や昭和の池さらい、七不思議の顔ぶれまで細かく伝える語りもある。
天保年間の藩の書状も、そうした語りの中で触れられていた。書状の中身や所在までは、今回たどれなかった。旧尾形家住宅が再び開いたら、案内の人に聞いてみたいことの一つだ。
名前だけ残る四つの不思議
七不思議のうち、お花畑、葉山権現と妙見菩薩、明見坊と植えし松、ころころ清水は、名前以上のことがほとんど伝わってこない。上山には標高六百八十八メートルの葉山という山があり、近くの三吉山と合わせて登る人もいる。ただ、生居の葉山権現がその山とどうつながるのかは、確かめられなかった。
妙見菩薩は、北極星や北斗七星を神格化した仏だ。善悪や真理を見通す目の良さで敬われ、軍神としても、国を守り命を延ばす仏としても信仰された。七世紀に渡来人が伝え、中世には千葉氏が氏神として各地に妙見の寺社を置いた。明治の神仏分離のあとは、多くの妙見神社の祭神が天之御中主神に改められている。
山と星。この二つが村の七不思議に並んで入っているだけでも、生居の人たちが空と山をどう見上げていたかが少しうかがえる。
松の話も同じだ。明見坊という僧が植えたという松の話も、名前しか残っていない。誰がいつ植え、何が不思議だったのか。池の底の子石のように、話の中身はまだどこかに沈んでいる。
