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一九七三年、日本が本気で沈むと思った年――『日本沈没』三八五万部と、トイレットペーパーが消えた冬の全記録

一九七三年という年は、ひとことで言いにくい。高度成長の最後の一年でもあるし、終わりの始まりの一年でもあるから、どっちの顔で呼ぶかで印象がまるで変わってくる。でも本題はそこじゃない。この年、日本人はわりと本気で「この国、沈むんじゃないか」と考えた。冗談じゃなく、真顔でそう思ったんだよな。

きっかけは一冊の小説だった。三月に出た『日本沈没』。書いたのは生粋のSF作家の小松左京だから、要するに頭から尻尾まで作り話なんだ。誰も嘘だとは思っていないし、フィクションだと表紙にちゃんと書いてある。それなのにその年の暮れまでに、この国の空気は完全におかしくなった。

物価が狂い、石油が来なくなり、トイレットペーパーを求めて主婦が走り、ネオンが消え、テレビが深夜に止まったのもこの年だ。そして年末に東宝が映画版を封切ると、劇場の外にはガソリンスタンドの日曜休業の張り紙があった。スクリーンの中で日本が沈み、外に出たら本当に何かが終わりかけていたわけだ。

創作が現実の恐怖として受け取られる。そういうことは、めったに起きない。オーソン・ウェルズの火星人ラジオが有名だけど、あれは一晩の話で、一九七三年の日本で起きたのは一年がかりのそれだった。この記事は、その一年の記録だ。

三月二十日、上下巻同時発売という賭け

まず日付から押さえておく。『日本沈没』が書店に並んだのは一九七三年三月二十日で、版元は光文社、レーベルはカッパ・ノベルスだった。上下二巻の同時刊行。

この「同時刊行」が、もう異常な判断だった。当時のノベルスは基本、一冊で完結させる商品で、新書判で電車の中で読めて、読み終わったら網棚に置いていけるものだった。そういう手軽さで売る棚だったんだよ。そこへいきなり上下巻を並べて、読者に二冊ぶん財布を開かせるんだから、売れなければ在庫が倍になる。

担当編集は浜井武という人物だった。この人が二つ、決定的な仕事をしている。ひとつはタイトル。小松左京が持ってきた原題は『日本滅亡』だったというが、浜井はこれを勝手に『日本沈没』に変えてしまった。

滅亡より沈没のほうがユーモラスだ、というのが理由だったと伝えられていて、作者は後から承認した。滅亡だったら、たぶんあそこまでは売れていない。滅亡は説教くさいけど、沈没は絵が浮かぶ。

もうひとつが部数だ。初版は六万部と伝えられ、上下それぞれ三万部という記録もあるけど、どちらにせよ当時としては強気で、常識の範囲内の数字だ。問題はそのあとだった。

刷って、刷って、刷りまくって、年内に上下合わせて三百八十万部を超えた。最終的には上巻二百四万部、下巻百八十一万部、合計三百八十五万部。これが日本の出版史に残る数字になり、一年で三百八十万部というのは、当時の日本の書籍市場で前例のない規模だった。累計は二〇二三年時点で四百九十万部を超えている。

大事なのは、この四百万部近い数字の大半が一九七三年の一年間で出ているところだ。じわじわ売れたロングセラーじゃなく爆発で、しかもそのピークは、後で見るとおり秋以降にやってくる。

九年かかった小説――小松左京が背負い込んだもの

『日本沈没』は、思いつきで書かれた本じゃない。小松左京が構想に着手したのは一九六四年で、完成が一九七三年だから、まるまる九年かかっている計算になる。SF作家がひとつの長編に九年というのは、それだけで異常な話だ。なぜそんなにかかったのか。理由はいくつかある。

ひとつは取材だ。小松は地球物理学者に片っ端から話を聞きにいった。中心にいたのが竹内均で、東京大学の地球物理学者であり、後に科学雑誌『ニュートン』を創刊して初代編集長になる人物だ。竹内は当時、大陸移動説とその後継理論に強い関心を持ち、一般向けの解説に力を入れていた。日本でこの分野の話が通じる、数少ない相手だったわけだ。

もうひとつは単純に、他の仕事が忙しかった。一九七〇年の大阪万博。小松はあの博覧会の企画に深く関わり、テーマ館のサブプロデューサーとして、未来を設計する側にいた。国じゅうが未来に浮かれていたあの祭りの、その裏側で、彼は日本が沈む小説を書いていたんだよな。

この対比は覚えておいたほうがいい。妙な話だけど、万博と『日本沈没』は同じ人間の頭から出ていて、片方は未来を祝い、片方は国土が消える日を描いていた。

執筆量も尋常じゃなく、直筆原稿は千二百二十五枚あり、うち千百九十六枚が現存してデジタル化されている。創作メモも残っていて、沈没の仕組みを図解して検討した紙や、実際には採用されなかったクライマックスの草稿がある。田所博士と渡老人が交わす、幻の会話だ。

それからもうひとつ、後年に見つかってぞっとさせられる偶然がある。原稿の中に、アメリカの測地学会が日本の異変を報じる場面があって、その日付が「三月十一日」なんだ。一九七三年に書かれた小説の中の日付だから、誰も意味なんか持たせていないし、持たせられるわけがない。

田所博士という怪物

この小説の中心にいるのは、主人公の潜水艇操縦者・小野寺俊夫じゃない。中心は田所雄介博士で、いわゆる正しい科学者じゃなく、学界からは変人扱いされていて、データより勘を優先する男だ。怒鳴るし、飲むし、人の話を聞かない。それでも海溝の底で起きているわずかな異常を見て、日本列島が沈むと言い切る。

この人物造形が、たぶん『日本沈没』最大の発明だ。もし田所が冷静で品行方正な権威だったら、読者は「専門家がそう言うならそうなんだろう」で終わっていた。でも田所は誰からも信じられていないから、読者だけが彼を信じるしかなく、この構造が読者を共犯にする。

「あいつは狂っている」と学界が言うたびに、読者のほうは「いや、狂っていないかもしれない」と思う。それが千ページ近く続く。読み終わったとき読者の中には田所が住み着いていて、書店を出て地面が少し揺れたとき、頭の中の田所が「ほら」と言うんだよ。

映画版で田所を演じたのは小林桂樹で、眼鏡の奥で目を血走らせ、日本地図の上に手をついて「日本は沈むんです」と言う。あの顔を、公開当時の観客は正月映画として見た。

田所には小松自身がたっぷり入っていて、学者にはならなかった男が、学者だったらこう暴れたかった、という形の分身だ。同時に田所は、戦争を子どもとして通り抜けた世代の代弁者でもある。誰も信じていない破滅を、ひとりで先に見てしまった人間の役どころだ。

春から夏へ――列島がすこしずつ落ち着かなくなる

一九七三年を、月ごとにたどってみる。年明けの時点で日本の足元がもう揺らいでいたのは、前年からの列島改造ブームで地価と株価が跳ね上がっていたからだ。二月には為替が変動相場制に移行して、円の値段が毎日変わる世界になり、同じ二月には浅間山が噴火した。

火山が噴いたこと自体は、地震と噴火でできているこの国では別に珍しくもない。でもテレビが噴煙を映すと、人の心の底のほうが少しだけ動くんだよな。

三月二十日に『日本沈没』が出て、同じ日に熊本地裁が水俣病訴訟でチッソの責任を認める判決を出した。公害という言葉が、抽象から現実へ変わっていく年だったわけだ。空も川も汚れていて、光化学スモッグの警報が出て、子どもが屋外の体育を止められた。

四月、最高裁が尊属殺の重罰規定を違憲とした。戦後日本の骨格が、ひとつ組み替わる。六月には『はだしのゲン』が少年ジャンプで連載を始め、原爆の記憶が少年漫画の棚に置かれた。そして夏、八月には金大中事件が起きて、日本の首都のホテルから隣国の政治家が消えた。

八月二十五日には、さいとう・たかをによる劇画版『日本沈没』が週刊少年チャンピオンで連載を始めている。ここが分岐点で、小説を買うのは大人だけど、少年誌は子どもが読む。この瞬間から小学生も日本が沈む物語を毎週追いかけ始め、劇画版は累計百万部を超えるロングセラーになる。そして九月一日、関東大震災からちょうど五十年という日がやってくる。

九月一日、五十年という数字が持っていた重さ

いまの感覚だと、震災から五十年なんて単なる記念日だ。でも一九七三年のそれは違った。当時の日本には「六十九年周期説」というものがあった。東京大学地震研究所の所長だった河角広が唱えた説で、南関東の大地震には六十九年前後の周期がある、という主張だ。

誤差を含めて、一九七九年から二〇〇五年のあいだに七十五パーセントの確率で起きる、という数字まで出ていた。東大地震研の所長の言うことだからと、みんな信じたんだ。これは学説として消費されただけで終わらなかった。

都市計画そのものが動き、東京都が防災対策を下町の三区に集中させたんだ。江東区の白鬚東地区では、都営の集合住宅を屏風のように並べ、内側の広場を火災から守るという発想の街がつくられた。今も建っている。あの巨大な壁は、六十九年周期説が本気で信じられていた時代の物証だ。

現在この説は否定されていて、河角は二種類の地震を混同し、ひとつの周期にまとめてしまっていた。七十年から八十年周期で起きるマグニチュード七級のプレート内地震と、二百年ほどの間隔で起きる八級のプレート間地震だ。でも一九七三年の時点では、誰もそれを知らない。

だからその年の九月一日、新聞もテレビも「次の大地震」を特集した。五十年という区切りの数字と、六十九年という周期の数字が同じ紙面に並び、そこへ三月から売れ続けている小説の帯が重なる。日本沈没。

学問の側にはまったく悪意がなかった。周期説は当時の最良の推定だった。フィクションの側にも罪はなく、小説は小説だ。ただ、両方が同じ年に同じ場所に置かれたとき、読む側の頭の中で勝手に接続が起きてしまった。

十月、中東で戦争が起きた

十月六日、第四次中東戦争が始まる。日本人の大半にとって、最初は遠い国の話だった。ところが十日後の十月十六日、ペルシャ湾岸の産油六か国が、原油の公示価格を一バレル三ドル一セントから五ドル十二セントに引き上げると発表する。七十パーセントの値上げ。

翌十月十七日にはアラブ石油輸出国機構が原油生産の段階的削減を決め、石油を武器として使うと宣言した。日本は石油の輸入で動いている国で、しかもその中東依存度が飛び抜けて高かったから、話が届くまでに時間はかからなかった。

十月十九日、中曽根康弘通商産業大臣が紙の節約を呼びかける。ここは覚えておいてほしい日付で、パニックの十三日前にあたる。政府の意図は素朴なもので、石油が減る、紙は石油を使って作る、だから節約しよう、という程度の話だ。ところがこの「紙」という一語が、あとで日本じゅうを走り回る羽目になる。

十一月十六日には石油緊急対策要綱が閣議決定される。総需要抑制策。ネオンサインは早めに消灯され、ガソリンスタンドは日曜休業になり、NHKは総合も教育も二十三時以降の放送を休止した。

夜の街が暗くなり、テレビが夜のうちに終わるようになって、これが効いた。人は数字では実感しないけど、暗さでは実感するんだよ。

十一月一日、千里の午後一時半

そして十一月一日が来る。場所は大阪府吹田市の千里ニュータウンで、当時の日本でいちばん新しい暮らしの象徴のような街だった。丘を削って作った、計画された理想の郊外で、そこにあった千里大丸プラザというスーパーマーケットが、この日の主役になる。

特売の広告が出ていて、トイレットペーパーの安売りだった。文言には「紙がなくなる」という趣旨の文字があったと伝えられている。売り手としては煽り文句で、安いうちに買っておけ、という商売の常套句だ。

午後一時半ごろ、店に主婦の列ができた。並んだのは三百人近い。二時間で、トイレットペーパー五百個が売り切れた。ここまでなら、ただの盛況で済む話だ。

問題はそのあとで、新聞社が写真を撮り、翌日の紙面に「あっという間に値段は二倍」という趣旨の見出しが載る。テレビが行列を映す。そこから先は、教科書に載っているとおりだ。

噂は関西から関東へ、都市から地方へと、あっという間に全国へ飛んだ。人が並ぶ映像が流れると、それを見た人が並ぶ。並ぶ人が増えると、また映像になる。完璧な循環だった。

ここで忘れちゃいけない点がひとつある。この当時、日本の紙の生産量はほとんど変わっていなくて、在庫はあったし、工場も普通に動いていた。足りなくなったのは供給じゃなく、落ち着きのほうだったんだ。

パニックはトイレットペーパーで止まらず、洗剤が消え、砂糖が消え、醤油も塩も灯油も順番に棚から消えていった。買い占めの現場ではけが人が出たし、警察が出る店もあったほどだ。

十一月十二日、政府はトイレットペーパーを含む紙類四品目を特定物資に指定する。翌一九七四年一月二十八日には国民生活安定緊急措置法の指定品目に加え、標準価格を定めた。国が紙の値段を決めるところまでいった。騒動が収束して在庫が通常水準に戻るのは翌年の三月で、四か月かかっている。

ちなみに十一月一日は、もうひとつ別のことが起きた日でもある。読売ジャイアンツが日本シリーズを制して九年連続日本一、いわゆるV9を達成した日だ。日本の戦後がずっと続くと信じられていた、その象徴みたいな記録が、ちょうどその日に完成した。同じ日の午後、千里では紙の行列ができていた。

そして十一月二十九日、熊本の大洋デパートで火災が起きる。死者は百四人。日本の百貨店火災として最悪の惨事だった。十一月という一か月の中に、これだけのことが詰まっている。

十一月二十五日、もう一冊の終末本が出た

その騒ぎの真ん中、十一月二十五日に一冊の新書が出る。五島勉の『ノストラダムスの大予言』。版元は祥伝社で、レーベルはノン・ブック。

企画そのものは、五島の発案ではなかったと伝えられている。祥伝社の編集者が十人の予言者を扱う企画を立てて、それをノストラダムス一本に絞った。五島は女性週刊誌のアンカーマン出身で、記事を仕上げる腕のある書き手だった。北海道函館の生まれで、本名は後藤力。

この本は三か月ほどで公称百万部を突破し、一九七四年の年間ベストセラーではノンフィクション部門一位、総合二位に入った。最終的には二百万部を超えた。ただ、断っておくと、この記事の主役はノストラダムスじゃない。

あの本と「一九九九年七の月」がその後の日本に何をしたかは、それだけで一本の記事になる話だ。ここで見たいのは、もっと単純なことのほう。一九七三年の日本の書店では、三月に出た『日本沈没』と十一月に出た『ノストラダムスの大予言』が、同じ棚に並んで売れていた。片方はSF小説で、もう片方はノンフィクションの体裁をとった予言解説だ。

買う側は、そこをどれだけ区別していただろうか。たぶん、あまりしていなくて、両方とも新書判で、両方とも安くて、両方とも「この国はもうすぐ終わるかもしれない」と言っていた。しかも棚の外では、実際にトイレットペーパーが消えていたんだからね。

ジャンルの区別を保つには、あの秋はあまりに条件が悪かった。小説とノンフィクションの境目が溶ける。これが、この年に起きた本当のことだ。

十二月二十九日、東宝の正月映画

十二月二十九日、東宝が映画版『日本沈没』を封切る。監督は森谷司郎で、黒澤明の門下から出た人だ。脚本は橋本忍で、『羅生門』『七人の侍』『生きる』を書いた、日本映画の脚本家として最高峰のひとりだ。

特技監督は中野昭慶で、円谷英二の系譜を継ぎ、破壊の規模と火薬量で押していくタイプの特撮人だった。音楽は佐藤勝。上映時間は百四十分。キャストは小野寺俊夫に藤岡弘、阿部玲子にいしだあゆみ、田所博士に小林桂樹、山本総理に丹波哲郎という顔ぶれだった。

製作費は当時の金額で五億円と伝えられ、うち特撮に二億五千万円が投じられたというから、総製作費の半分が特撮だ。ミニチュアで東京を作り、それを燃やし、崩し、沈める。高速道路の上で車が連鎖的に爆発する場面は、いまも中野特撮の代表的な見せ場として語られている。

興行のほうは、それこそ特撮より派手に爆発した。配給収入は資料によって幅があり、十六億四千万円という数字と二十億円という数字の両方が伝えられている。どちらにしても一九七四年の邦画配給収入で堂々の一位だ。観客動員はおよそ八百八十万人。翌年二月まで、一か月を超えるロングランになった。

この数字の意味は、当時の邦画の状況を思い出すとよくわかる。一九七〇年代前半、日本映画は坂道を転げ落ちていたんだよ。かつての人気シリーズが次々と終わり、映画館がボウリング場に建て替わり、正月興行のラインナップさえ企画が払底していた。その年末興行に投げ込まれた爆弾が、『日本沈没』だった。

公開初日の状況を想像してみてほしい。一九七三年十二月二十九日。ネオンは早く消え、ガソリンスタンドは日曜に閉まり、テレビは深夜に終わる。スーパーの棚から紙が消えて二か月。その状態でみんな映画館に入り、日本列島が海に沈むのを百四十分見た。

出口を出たら、暗い街があった。冗談としての破滅が冗談じゃなくなる瞬間は、こういう形でやってくる。

映画版はどこを変えたのか

映画版は原作に忠実なほうだけど、決定的な変更がいくつかあって、いちばん大きいのは小野寺と玲子の物語を前に出したことだ。原作は徹底した群像劇で、恋愛は数ある糸のひとつでしかないのに、映画は二人を軸に据えた。二時間強でこの物量をまとめるには、観客が感情移入できる一本の線が必要だったんだろう。

そのぶん、結末が変わる。原作の下巻の終盤で、田所博士は日本と運命をともにすることを選び、沈む島に残る。この選択が原作の思想の核で、国土という母親を捨てられなかった人間が、最後にひとりだけ残るわけだ。

玲子は富士山の噴火に巻き込まれ、小野寺は日本を離れ、下巻の最後には「第一部完」と書かれている。物語は完結しておらず、日本人はまだ漂流の途中にいる。

映画版は玲子の生存をはっきり描き、二人には未来が示唆され、最後に、地球のどこかで、という趣旨の字幕が出る。この改変を甘いと言う人もいる。

でも公開当時の観客にとって、これは救命胴衣だったんだと思う。国土は消える。それでも人は残る。ここを削ったら、あの冬の劇場は本当に息ができなかった。

もうひとつの見どころが、原作の思想を背負う渡老人の扱いだ。日本の裏側に長く座っていた老人が、日本人とは何だったのかを問う。この場面が、作品をパニック映画から引き離している。渡老人は言う。日本人はこれまで、この暖かい四つの島のふところに抱かれた幸せな幼児だったのだ、と。

沈没は罰じゃなく、離乳なんだ。これが小松左京の書きたかったことで、映画もそこは落とさなかった。

テレビが二十六週かけて沈めた列島

映画が終わっても、日本は沈み続けた。一九七四年十月六日から翌年三月三十日まで、TBSがテレビドラマ版を放送する。全二十六回で、小野寺俊夫を村野武範、阿部玲子を由美かおるが演じた。制作費は五億円と伝えられ、当時のテレビドラマとしては空前の規模だった。

映画一本ぶんの予算を、テレビシリーズに突っ込んでいる。このドラマ版が面白いのは、時間の使い方だ。映画は二時間で沈める。ドラマは半年かけて沈めるから、視聴者は半年間、毎週、日本が少しずつ壊れていくのを茶の間で見た。

なにしろ半年だよ。夕食を食べながら、宿題をしながら、国が崩れていく過程を見続けた。その効果は映画とはまるで違う。映画は衝撃を与えるけど、ドラマは日常に染み込ませる。

この二十六週で、日本沈没という言葉は事件じゃなく背景になり、空気になった。ドラマ版は人間模様に比重を置き、原作にない挿話を大量に足している。そして総集編では、小野寺と玲子がオーストラリアで生き延びていることが示され、ここでも救いが用意された。

ちなみにこの村野武範は、後年、二〇〇六年のパロディ映画『日本以外全部沈没』で首相を演じている。三十年越しの内輪ネタ。

ラジオ、劇画、そして便乗の海

メディア展開の速さも記録的で、ラジオドラマは一九七三年十月八日から毎日放送が放送を始め、全百三十回に及んだ。十一月四日には文化放送でも別のラジオドラマが流れていて、ラジオ版が始まったのは映画公開の三か月近く前だ。

石油ショックの真っ最中、通勤の電車の中で、人はイヤホンから日本が沈む音を聞いていた。劇画版は前に書いたとおり、さいとう・たかをが一九七三年八月二十五日から週刊少年チャンピオンで連載したものだ。さいとう・プロダクションの分業体制で描かれ、累計百万部を超えた。

海外にも出ていった。一九七六年には、マイケル・ギャラガーによる三分の一ほどの抄訳が、『ジャパン・シンクス』としてアメリカで出版される。映画版は一九七五年に『タイダル・ウェイヴ』のタイトルで米国公開され、百万ドルの配給収入を上げた。

英語圏だけじゃない。フランス語、ドイツ語、ロシア語、中国語にも訳された。東欧圏への紹介が多く、小松左京は安部公房と並んで、共産圏に届いた日本人作家という位置を得ていく。

そして便乗があった。じつはこれがいちばん、あの年の空気を正確に映している。日本は沈むのか、いつ沈むのか、どこが安全なのか、そういうタイトルの本や記事が、雑誌の棚に大量に流れ込んだ。

地震関連の本が売れ、週刊誌が特集を組み、学者が呼ばれてコメントを求められた。不安は商材になる。それはいつの時代も同じだ。ただ一九七三年が特殊だったのは、便乗する側の書き手も、たぶん半分は本気だったことだと思う。みんな少し怖かったんだ。

筒井康隆の反撃――『日本以外全部沈没』

この空気に、真正面から石を投げた人間がいる。筒井康隆。『日本以外全部沈没』が『オール讀物』一九七三年九月号に載った。原作の刊行から半年、映画公開の三か月前のことだ。

設定は題名のとおりで、日本列島以外の陸地が全部沈む。世界中の難民が日本に殺到し、日本人が地上で唯一の一等国民になり、外国の著名人たちが三等市民として媚びへつらう。ハリウッドスターが、日本の小料理屋で愛想笑いをしている。

痛烈だ。何が痛烈かというと、この短編が本家『日本沈没』の裏面を、これ以上ないほど正確に突いているからだ。小松左京は「国土を失った日本人はどうなるか」を書き、筒井康隆は「国土だけが残った日本人はどうなるか」を書いた。

裏返すと同じ問い、つまり日本人とは何か、という問いになる。ただし筒井のほうは、答えを最悪の形で出した。日本人は威張る。あっさり威張る、それが答えだった。

この短編は一九七四年に第五回星雲賞の短編部門を受賞し、同じ年に『日本沈没』が長編部門を受賞した。授賞式で小松左京は名言を残している。自分は九年かけたのに、筒井は数時間で書いて賞を持っていった、という趣旨のことを言ったんだ。

二〇〇六年に河崎実監督で映画化された際、小松は出演を断っている。理由が振るっていて、できすぎたパロディを書かれた原作者はいつまでも根に持つ、というんだ。もちろん冗談だけど、冗談の形をした本音でもある。パロディが本編の急所を突いていたことを、いちばんよく分かっていたのは小松本人だった。

「本当に沈むんですか」と聞かれた学者たち

ここからが、この年のいちばん奇妙な部分だ。小説が売れると、質問は科学者のところに行く。日本は沈むのか。いつ沈むのか。それは本当なのか。

地震学者、地質学者、地球物理学者。彼らは真面目に答えなければならなくなった。答えは当然、沈まない、だ。でも問題は、その「沈まない」を説明するのが、この年は異様に難しかったことなんだよ。

難しさの理由は、大きく分けて二つある。ひとつは、小松左京の設定が雑じゃなかったこと。マントル対流のパターンが変化し、日本列島を支えている力が失われる、というのが原作のシナリオだ。当時の最先端の議論をきちんと踏まえて組み立ててあるから、素人向けに「そんな馬鹿な話はない」と切り捨てられない。

専門家であるほど、まず「その前提自体は間違っていない」と認めるところから始めなければならなかった。もうひとつは、当時の地球科学がまさに書き換えの真っ最中だったことだ。ここは大きな話なので、章をあらためて詳しく見る。

学者の答えの核心は、「起きない」じゃなく「時間が違う」だった。地球科学には桁の違う時間が並んでいる。マントル対流のサイクルは一億年の単位で、火山の一生は一万年の単位。プレートの沈み込みは、年に八センチメートル程度だ。

この物差しで見ると、一年で列島が沈むという話は、質的には正しくても、量的には百倍の桁で狂っている。面白いのは、後年になっても専門家がこの作品を全否定していないことだ。京都大学の名誉教授の鎌田浩毅は、日本沈没という現象は「ゆっくりとなら実際に起きている」という趣旨のことを述べている。

定性的には正しく定量的には桁が違う、というのがこの作品の科学的な立ち位置だ。皮肉なことに、鎌田は本当の「日本沈没」は地面の話じゃなく、金の話だとも言う。

南海トラフ巨大地震の被害想定は二百二十兆円規模で、首都直下地震は九十五兆円規模、富士山噴火は二兆五千億円規模。長期の累積では国家予算の十年分に届きうるから、列島は沈まないけど、経済は沈みうるわけだ。一九七三年にみんなが本気で怖がった沈没は、五十年たって、まったく違う顔で戻ってきた。

プレートテクトニクスが日本に上陸したばかりだった

一九七三年の日本で「日本は沈まない」の説明が難しかった最大の理由は、これだ。プレートテクトニクスという理論が、日本の学界にまだ完全には定着していなかった。理論そのものは一九六〇年代に固まっていて、一九六七年から六八年にかけてプレートの運動学が整備され、現在の形になった。

世界的には、この時点で決着がついたと言っていい。ところが日本の学界だけは、しばらく事情が違って、戦後の日本の地質学には地向斜論という強力な枠組みがあった。

地層は長い時間をかけて堆積し、褶曲し、山になる。この考え方で日本列島の成り立ちを説明する伝統が、しっかり根を張っていた。そこへ、大陸が動く、プレートが沈み込む、という話が海の向こうから来る。積み上げてきたものが大きいぶん、抵抗も大きかった。

日本の地球科学界がプレートテクトニクスを受け入れていく過程は、後に一冊の学術書になっているくらい、屈折した歴史をたどっている。権威が上にいると、学説はなかなか変わらないもので、八〇年代に入ってもまだ疑いを口にする研究者がいたほどだ。

要はこういうことだ。一九七三年、日本の一般読者は『日本沈没』で初めて「プレート」という言葉に触れた。その言葉は日本の専門家にとっても、まだ完全に手に馴染んだ道具じゃなかった。

小松左京は、学界が受容の途中にある最新理論を大衆小説に持ち込んだ。それも竹内均のような当事者から、直接話を聞いたうえでだ。だから当時の読者にとって、この小説は「新しい科学の解説書」としても読めてしまった。実際、多くの日本人がプレートテクトニクスという言葉をこの小説で覚えている。

ここに、この年の恐怖の秘密の半分がある。新しい科学はまだ輪郭がぼやけていて、ぼやけているものはなんでも入る器になる。

地面が動くらしい。列島は乗っているだけらしい。それが本当なら、外れることもあるんじゃないか。科学が更新されている最中というのは、いちばん不安になりやすい時期なんだよな。

ちなみに竹内均は映画版に出演もしていて、プレートテクトニクスを説明する科学者の役で、本人が画面に出た。フィクションの中で、本物の学者が本物の理論を語るという構造も、境界線を溶かすのに一役買った。

あの年を通り抜けた人たちの話

ここからは、当時を通り抜けた人たちの話をいくつか置いておく。細部は語り手によって違うけど、繰り返し語られてきた形がある。ひとつめは、一九七三年に小学五年生だったという男性の回想だ。

学校で日本沈没ごっこが流行ったという。休み時間になると教室の床が海になり、机の上が生き残った土地になる。床に落ちたら死ぬ。それだけの、恐ろしく単純な遊びだ。

この遊びの残酷なところは、机の数が決まっていることだった。全員は乗れないから、誰かが必ず落ちる。落ちた子は席に戻れず、教室の隅で「沈んだ人」として立っている決まりだった。

先生が止めたそうだ。当たり前の話だけど、子どもたちは意味が分からなかった。ドッジボールと同じつもりだったからだ。

この男性は、いま思えばあの遊びは、たぶん教室にいた全員の不安の吐き出し口だったのだろうと語っている。ラジオでは毎日大人たちが石油の話をしていたし、母親は買い物袋を二つ提げて帰ってきた。夜のテレビも早く終わるようになった。

子どもは事情を説明されないから、遊びの形にして、床が海になる。二学期が終わるころには誰もやらなくなったという。飽きたんじゃない、笑えなくなったんだと彼は言う。

ふたつめは、当時二十代半ばで東京の会社に勤めていたという女性の話。十一月の紙不足のとき、彼女は職場の先輩に「あんた、若いんだから走りなさい」と言われて、商店街に行かされた。着いたら、列はもうできていた。

前に並んでいたのは見たことのある近所の人で、目が合ったのに、お互い何も言わなかったという。それがいちばん怖かった、と彼女は語る。品物より、人の顔が変わったことのほうが記憶に残っている。

ふだんは挨拶する人が、列の中では他人になっていた。前の人が二つ取ったら、自分も二つ取らなければ損をする。誰も悪くない。ただ、全員が同じ計算をしていた。

会社に戻って、買えた紙を配ったら拍手が起きたそうだ。その拍手にも、あとで思い出して寒くなったという。年末には同僚と映画を見に行った。『日本沈没』。並んでいた行列を思い出して、映画の中の避難民の場面が全然フィクションに見えなかった、と彼女は言っている。

みっつめは、当時地方の高校生だったという男性の証言だ。彼の家では、父親が本気で移住の話を始めたという。ブラジルか、オーストラリアか、と地図を広げた。母親のほうは最初から最後まで取り合わなかったという。でも父親は真剣で、田所博士の説明を新聞の切り抜きと並べて説明した。

高校生だった彼にとって衝撃だったのは、父が沈没を信じたことじゃない。父が、日本という国が続かない可能性を口に出したことのほうだ。それまで彼にとって日本は、あって当たり前の背景で、空気と同じく疑うものじゃなかった。

その父は結局どこにも行かず、翌年には移住の話もしなくなった。それでも彼のほうには、あのとき地図を見た感触が残ったという。国というのは前提じゃなく条件なんだ、と十六歳のときに知ってしまったわけだ。

彼は後年、こう言っている。あの年に怖かったのは地面じゃなく、地面がなくなっても日本人でいられるのか、という質問のほうだった、と。

四つめとして、もう少し軽い話も置いておく。当時中学生だった人が語っているのは、映画館の空気のことで、年末年始の東宝の劇場は正月映画を見に来た家族連れで満員だった。子どもが騒ぎ、菓子の匂いがして、いつもの正月だった。

それが特撮の場面に入ると、館内が静まりかえったという。そして東京が崩れる場面で、後ろの席のおばあさんが小さく「あら」と言ったのが聞こえた。悲鳴でもないし、驚きでもない。ため息のような「あら」だったという。その音を、彼はいまだに覚えていると言っている。

なぜ、あの年だけ現実になったのか

ここまで並べてくると、答えは自然に見えてくる。『日本沈没』が現実の恐怖として受け取られたのは、この作品が特別に怖かったからじゃない。もっと怖い破滅ものは、前にも後にもある。一九七三年という一年が、たまたま完璧な受け皿になっていたんだ。

あの年の条件を、ひとつずつ分解してみる。まず、実体験としての物不足があった。この実体験があったことが、たぶん決定的だ。人は数字を信じず、空の棚を信じる。トイレットペーパーの棚が空になった瞬間、日本人は「文明は簡単に止まる」という命題を、頭じゃなく手で理解した。

この体験のあとで小説を読むと、フィクションの解像度が上がる。次に、権威の側から不安が供給されていた。六十九年周期説。東大地震研の所長が、大地震は周期的に来ると言っていた。フィクションと同じ方向を、科学の側が指していた。

片方だけなら笑い飛ばせるけど、両方が同じ方角を向くと笑えない。そこへ、五十年という記念日が乗った。関東大震災から半世紀。区切りの数字は、それ自体は何の意味も持たない。でも人間は、区切りに意味を求める生き物なんだよな。

さらに、成長の終わりがあった。日本は二十年近く右肩上がりを疑わずに生きてきて、万博をやり、新幹線を通し、GNPで世界第二位になった。その勢いが一九七三年に止まる。

翌一九七四年の経済成長率は、戦後初のマイナス一・二パーセントを記録する。消費者物価は一九七三年に十一・七パーセント、一九七四年に二十三・二パーセント上がった。狂乱物価という言葉が生まれた。上がり続けたものが止まった直後は、いちばん転落を想像しやすい瞬間だ。

最後に、メディアの飽和があった。この一年に、小説、劇画、ラジオドラマ二種、映画、翌年からのテレビドラマが並走している。どのチャンネルを開いても、日本が沈んでいた。情報の密度が閾値を超えると、それはもう話題じゃなく環境になる。

条件が五つそろった。ひとつでも欠けていたら、たぶん『日本沈没』はよく売れたSF小説で終わっていた。もうひとつ付け加えるなら、この年の日本には、他人と不安を共有する装置があまりなかったんだ。噂を検証する手段がなかった、と言い換えてもいい。

新聞とテレビが言い、隣の人が言う、それだけだった。訂正情報が回る速度が、噂の速度に負けていたんだ。千里の行列が全国に飛んだのは、そのせいでもある。

一九七四年、熱が冷めていくまで

じゃあ、この熱はどうやって冷めていったのか。一九七四年三月、紙の在庫は通常水準に戻った。棚が埋まると、人は驚くほど早く忘れるもので、夏には誰も紙の話をしなくなった。

でも『日本沈没』のほうは、まだ走っていたんだ。一九七四年、小説は第二十七回日本推理作家協会賞と第五回星雲賞日本長編部門を受賞し、映画は同年の邦画配給収入で一位になる。十月からはテレビドラマ版も始まる。作品としては、一九七四年のほうが評価の年だった。

その一方で、不安の商売は形を変えて続いていく。ノストラダムスは版を重ねた。翌一九七四年にはユリ・ゲラーが来日し、テレビでスプーンが曲がり、超能力ブームが始まる。心霊写真の本が売れ、コックリさんが学校で流行った。つのだじろうの漫画が、教室に霊とオカルトを持ち込んだ。

日本の第一次オカルトブームは、この一九七三年から七四年にかけて立ち上がる。その最初の一段を、SF小説が押し上げた格好だ。小松左京自身は、この構図を面白く思っていなかった節がある。彼は科学の側の人間だからだ。

自分の小説が、科学じゃないものの露払いになるのは本意じゃない。でも売れてしまったものは止まらない。そして『日本沈没』第二部は、長く書かれないままになった。

下巻の末尾には「第一部完」と書かれていた。国土を失った日本人がどうなるか、その続きの物語を、彼は生涯かけて構想していたんだ。それが形になるのは三十三年後の二〇〇六年で、谷甲州との共著という形で『日本沈没第二部』が出た。

国を失った日本人が、民族としてのまとまりを保ちながら、人類社会の停滞をゆるめる役を果たしていく。小松がずっと語っていた構想は、そういうものだった。沈没は終わりじゃなく、日本人の第二の人生の始まりのはずだった。

二〇〇六年、二〇二〇年、二〇二一年――沈み方の変遷

『日本沈没』は、そのあと三回作り直されている。時代が変わると沈み方が変わるし、その変わり方がまた面白い。二〇〇六年七月十五日公開の映画版は樋口真嗣監督で、主演は草彅剛。製作費二十億円、興行収入五十三億四千万円。数字だけ見れば、文句なしの大成功だ。

でも中身は大きく変えられた。玲子は東京消防庁のレスキュー隊員になり、小野寺は自らの命を懸けて地殻変動を止める。そして日本は沈まず、部分的な被害にとどまって、全土沈没は回避される。

沈没の仕組みも更新された。下部マントルに沈み込んで溜まったプレートの塊を、メガリスと呼ぶ。それが落下して地表が凹む、という設定だ。三十三年で科学が進んだぶん、フィクションの仕掛けも進歩している。

ただ、日本を沈めなかったのは科学の問題じゃない。二〇〇六年の日本には、国土が消える物語を最後まで見届ける気力がなかったんだと思う。ヒーローが体を張って止める、それが二十一世紀の型だった。

二〇二〇年にNetflixで配信されたアニメ『日本沈没2020』は、湯浅政明が監督した。主人公は原作の登場人物じゃなく、武藤という一家だ。国家の意思決定は描かれず、家族が逃げる。ただ、ひたすら逃げる。

これは賛否が激しく割れた。原作の骨格をほぼ捨てているからで、田所博士の科学も、D計画の官僚劇も出てこない。あるのは、崩れる国の中を歩き続ける人々の生活だけだ。

でも見方を変えると、これは震災後の日本にしか作れない『日本沈没』でもある。二〇一一年を通った国では、災害はもう国家のドラマじゃない。個人の避難の連続。湯浅版が描いたのは、その手触りだった。

二〇二一年のTBSドラマ『日本沈没-希望のひと-』は、小栗旬主演。ほぼ完全なオリジナルで、原作から引き継いだのは田所博士という名前くらいだ。物語の中心は、環境省の官僚たちの政治劇になった。放送中の視聴率も、終始かなり好調だった。

並べるとこうだ。一九七三年は、日本が沈むことを受け入れる話だった。二〇〇六年は沈没を止める話になり、二〇二〇年は沈んでいく中を生きる話に、二〇二一年は沈没を政治で扱う話になった。

原作だけがいまだに日本を最後まで沈めていて、この点で一九七三年版はいまも異物として立っている。国土を失うことを本当に書ききった日本の大衆娯楽は、ほとんどあれ一本だけだ。

小松左京はこれを「パニック小説」とは呼ばなかった

作者本人の位置に戻ろう。小松左京は一九三一年、大阪の生まれだ。神戸一中に入って、そのまま戦争に入った。飢えたし、空襲に遭ったし、米軍機の機銃掃射で死にかけた。敗戦のときの年齢は十四歳。

彼は後年、繰り返しこう言っていた。あのまま戦争が続いていたら、自分は武器を取って戦い、戦場で死んでいただろう、と。

そして『日本沈没』を書くとき、彼にははっきりした決意があった。自分はどんなことがあっても、日本人を玉砕させない。この一文で、あの小説の性格が全部わかる。

『日本沈没』は破滅の物語じゃなく、国民をどう逃がすか、という避難の物語だ。作中で政府が動かすD計画は、国民を国外へ逃がす計画なんだ。戦って死ぬんじゃなく、逃げて生き延びる。それを国家の総力を挙げてやる。

一九四五年に日本がやらなかったことを、小説の中でやり直しているわけだ。だから小松は、この作品をパニック小説とは考えていなかった。彼が語っていたのは、日本人とは何か、日本とは何か、という問いのほうだ。

日本人は高度経済成長に酔って浮かれている、と彼は見ていた。だから一度、国土を取り上げてみる。国という土台を外したとき、日本人に何が残るのか。小松左京が見たかったのは、たぶんそこだけだ。

渡老人の台詞に戻る。日本人はこれまで、この暖かく、やさしい、四つの島のふところに抱かれた幸せな幼児だった。二千年もの間そうだった。その先こそ、小松の書きたかったものだ。

幼児は大人にならなければならない。国土という母親から離れて、それでも日本人でいられるか。一九七三年の読者は、そこまでは読んでいなかったと思う。

彼らが読んだのは、地面が割れて東京が燃える場面だった。田所博士が地図を叩く場面だった。それでいいんだよ。娯楽としてまず面白かったから、四百万部が動いたんだ。

でも年の暮れ、映画館を出た人たちが暗い街を歩きながら考えたのは、たぶん地震のことだけじゃなかったはずだ。この国は続くのか。続かなかったら、自分は何者なのか。

その質問は、一九七三年に一度だけ日本じゅうに配られた。みんな答えないままポケットに入れて帰って、たぶん、まだ持っている。ここからは、本編で流した部分をもう少し深く掘ってみる。数字の裏側と、いま読み返したときに何が見えるか、という話だ。

三百八十五万部という数字を、当時の感覚に置き直す

上巻二百四万部、下巻百八十一万部で、合計三百八十五万部。この数字がどれくらい異常なのか、いまの読者にはたぶん伝わりにくい。当時の日本の人口はおよそ一億九百万人で、世帯数はざっと三千万世帯だった。

単純に割ると、およそ八世帯に一世帯が『日本沈没』を買っている計算になる。しかもこれは上下巻の合計だから、実際に読んだ世帯はもう少し少ない。それでも十世帯に一世帯前後だ。

その規模の本が、貸し借りされ、床屋の待合に置かれ、社員食堂で回覧される。実際に本文に触れた人数は、購入部数の二倍か三倍と見るのが妥当だろう。日本人の四分の一から三分の一が、あの年に田所博士の顔を頭の中に持っていたかもしれない。

そこに、映画の観客動員八百八十万人が乗る。ラジオドラマが全百三十回、翌年からのテレビドラマが全二十六回、劇画版が少年誌で毎週だ。現代のヒットには、数字だけなら当時を上回るものもある。

でも決定的に違うのは、チャンネルが少なかったことだ。テレビは数局、新聞は数紙で、雑誌の棚も共通。全員が同じものを見ていた。ヒットが「みんなが知っている」を意味していた、最後の時代だ。

だから『日本沈没』は、話題じゃなく共通言語になれた。「日本沈没だな」と言えば通じる。そういう言葉が生まれると、その中身は事実かどうかを問われなくなる。ここが怖いところだ。

恐怖の質が二種類あった

一九七三年の恐怖は、実は均質じゃなかった。よく見ると、きれいに二層に分かれている。上の層は災害の恐怖で、地面が割れ、津波が来て、高速道路が落ちる。

これは身体的で、映像的で、分かりやすい。映画版が担当したのはこの層で、中野昭慶の特撮は、まさにここを撃ち抜くために作られている。下の層は、消滅の恐怖だ。

国がなくなり、帰る場所がなくなり、自分が何者かを説明する土台がなくなる。こちらの層は、どう頑張っても映像にできない。原作の下巻と、渡老人の台詞が担当している層だ。

パニック作品はふつう、上の層しか持たない。爆発があって、逃げて、生き残って、それで終わる。『日本沈没』が五十年以上生き延びているのは、下の層があるからだ。

一九七三年の日本人が本当に反応したのは、たぶん下の層だった。石油が止まった年で、輸入が止まれば国が回らないことを、全員が体で知ったばかりだった。日本という仕組みは意外と脆い。その実感が下地にあるところへ、国土そのものが消える物語が来た。トイレットペーパーの行列と渡老人の台詞は、同じ不安の表と裏なんだ。

ノストラダムスとの決定的な違い

同じ年に売れた二冊だけど、機能はまるで違う。似た顔をして中身が違うから、ここは整理しておきたい。『ノストラダムスの大予言』は、未来を確定させる本だ。一九九九年という年号が出てくる。

日付があるということは、そこまでは大丈夫だという含みでもある。恐怖に締め切りを与えているわけで、締め切りのある恐怖は案外扱いやすい。カレンダーに書き込んで、日常に戻れるからね。

『日本沈没』は逆で、日付がない。作中では観測から沈没までの期間が示されるけど、それは物語の中の時計だ。読者の現実には目盛りがないから、「いつか」としか言えない。いつか、という形の恐怖は消えない。カレンダーに書けないからだ。

その違いが、結果としてどう出たか。ノストラダムスは一九九九年の夏に賞味期限を迎えて、盛大に終わった。あれは終われた恐怖だ。

一方の『日本沈没』は、いまだに地震のたびに引用される。二〇一一年にも引用された。終わり方を持っていないんだよ。同じ年に生まれた双子のような二冊だけど、寿命の形が違った。

「三月十一日」の偶然をどう扱うか

原稿の中の日付の話に戻る。小松左京の直筆原稿には、アメリカの測地学会が日本の異変を報じる場面があって、その日付が三月十一日になっている。二〇一一年以降、この話は繰り返し語られてきた。予言だ、という言い方をする人もいる。

でも、そこは冷静にいきたい。長い小説には日付がたくさん出てくるし、三百六十五分の一の確率のくじを何十回も引けば、どこかで当たる。

身も蓋もない言い方をすれば、それだけの話でもある。小松本人が生きていたら、まず間違いなくそう言ったはずで、彼は徹底して科学の側の人だった。

ただ、その上でひとつだけ言えることがある。小松左京は、日本という国が地震と火山と津波の上に載っていることを、当時の誰よりも正確に理解しようとした作家だった。九年かけて学者に話を聞き、原稿を千二百枚も積んだ人だ。だから彼の書いた災害は、当てずっぽうじゃなく、起こりうる形をしていた。

予言が当たったんじゃない。この列島で起こりうることを真面目に調べた人間の記述が、実際に起こったことと似ていた。それだけだ。そしてそれは、予言よりずっと不気味な話だと思う。

一九七三年と、いまの噂の走り方

千里の行列をいまの目で見ると、気づくことがある。あのパニックの伝播経路は、ずいぶん遅いんだ。店に行列ができ、翌日の新聞に載り、テレビが夕方に流し、それを見た人が翌日買いに走る。一巡するのに丸一日から二日かかっていた。それでも四か月止まらなかった。

それが今は、一巡するのに数分もかからない。画像が飛び、動画が飛び、位置情報つきで飛ぶ。二〇二〇年の春、まったく同じことが起きたのを覚えている人は多いだろう。マスクと紙が同時に消えて、しかも「紙は原料が中国だから止まる」という、事実と違う理由づけまでついていた。

一九七三年の教訓は、四十七年後にはまったく効かなかった。ここから引き出せることは、たぶんひとつしかない。人は情報の正しさで動くんじゃなく、他人の行動で動く。

棚が空いているのを見た人は、理屈と関係なく手を伸ばすもので、それを責めても仕方がない。だから対策は、個人の理性じゃなく、棚のほうを埋める仕組みに置くしかない。

当時、日本の紙の生産量はほとんど落ちていなかった。これは何度でも強調していいことだ。足りなかったのは物じゃなく、物があるという確信のほうだった。

小松左京が結局のところ書いたもの

そろそろ話をたたみにかかろう。『日本沈没』は災害小説の顔をしているけど、正体は日本人論だ。小松はそれを隠しておらず、日本人は高度成長に酔っている、という苛立ちが出発点にあった。

だから彼は思考実験をした。日本人にとっての大前提である国土を、まるごと外してみる。外したときに残るものが、日本人の中身だ。その答えを彼は第一部では出しておらず、下巻の最後は「第一部完」で終わる。

答えは第二部にあるはずだった。三十三年後、谷甲州との共著という形で一応の続きは出たけど、小松自身が単独で書き切ることはなかった。この壮大な問いは、開いたままなんだ。

その開きっぱなしの問いが、五十年以上たっても人を引き寄せている。二〇〇六年も、二〇二〇年も、二〇二一年も、作り手たちは同じ場所に戻ってきた。戻ってくるたびに、止めたり、家族の話にしたり、政治劇にしたりして、日本を沈めきれずに引き返している。沈めきったのは、いまのところ一九七三年の小松左京だけだ。

一九七三年十二月二十九日の夜へ、もう一度

もう一度、あの夜を想像してみてほしい。一九七三年十二月二十九日の夜だ。仕事納めが済んで、家族で正月映画を見にいく。街のネオンは早く落ちていて、ガソリンスタンドは日曜に閉まると聞いている。

母親は先月、紙を求めて行列に並んだ。テレビは夜十一時で終わり、物価は毎月上がっている。その状態で、百四十分間、日本が沈むのを見る。

田所博士が地図を叩き、総理が決断し、船が出る。列島が海に消えて、字幕が出る。地球のどこかで、と。そして館内が明るくなって、外に出る。街は暗く、年の瀬の風が足元を通り抜けていく。

信じたわけじゃないし、誰も明日日本が沈むとは思っていない。ただ、その夜だけは「絶対にありえない」と言い切れなかった。言い切るための材料が、あの年には足りていなかったんだ。

創作が現実の恐怖になるというのは、そういうことだと思う。作り話が現実に化けるんじゃない。現実のほうが少しだけ足元をぐらつかせて、作り話と同じ高さまで下りてくるんだ。

一九七三年、日本は沈まなかった。石油も紙も、ちゃんと戻ってきたしね。経済は翌年に戦後初のマイナスを記録して、それから形を変えて続いた。列島は今日も同じ場所にある。

それでも、あの年に一度だけ、この国は自分がなくなる可能性を全員で想像した。あんなことは前にも後にもない。だから一九七三年は、日本がいちばん本気で沈んだ年なんだ。地面じゃなく、気分のほうが。

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