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ロア

説明を尽くさずに終わる話

「ロア」というのは、特定の怪物の名前ではない。語りの形式の名前だ。

前振りがない。いきなり事実らしい一文から始まる。そして説明を尽くさないまま、決まった一句で終わる。それだけの構造で、驚くほど効く。

まずは四つ、読んでもらったほうが早い。

踏切のカメラマン

ある踏切では、飛び込みが後を絶たない。

奇妙なのは死者たちの動き方だ。彼らは決まって、迫りくる列車ではなく、背後の何かから逃げるようにして線路へ足を踏み入れる。列車に向かっていくのではない。何かから離れようとして、たまたまそこに線路があった、という動き方をする。

取材に訪れたカメラマンがいた。彼は調査用の映像を回収する前に姿を消している。

残されたテープには、映像が入っていた。誰もいない踏切だ。そこに向かって「来るな」と絶叫する、彼自身の声だけが記録されている。

何から逃げたのか。何に向かって叫んだのか。映像はそこを説明しない。

信じようと、信じまいと。

肩こりという概念

海外には「肩が凝る」という感覚そのものが存在しない、という噂がある。

日本でこの言葉を有名にしたとされる作家がいる。その作品が売れ始めた頃から、肩こりを訴える人が急増したという。

つまり順番が逆かもしれない。身体の不調があって、それに名前がついたのではない。名前がついたから、身体がそれを感じるようになった。病名や概念が、身体感覚を後から作り出したのではないか。

ところで、ここまで読んだあなたは今、肩の重さを意識していないだろうか。

信じようと、信じまいと。

誰の無意識なのか

コックリさんで十円玉が動くのは、参加者の無意識の筋肉運動によるとされる。不覚筋動という現象だ。これで説明は完結するはずだった。

だが一つ問題が残る。誰の指も触れていないときに硬貨が動いたなら、その「無意識」は誰のものなのか。

いま画面をスクロールするために動いているのは、あなたの指だ。その動きは本当にあなたの意思だと言い切れるだろうか。次にどこへ向かうかを、自分で決めていると。

信じようと、信じまいと。

最後の一行

これはロアという形式そのものを扱った一編だ。

短い怪談を百本集めた投稿者がいた。彼は最後の一話だけを空欄にして公開した。理由を尋ねられて、こう答えたという。

「百本目は読む人の家で起きるから、書く必要がない」

その夜から、空欄だったはずのページを開いた端末には、一行ずつ文章が増えていく。

最初の一行はこうだった。

「いま、あなたが読んでいる」

信じようと、信じまいと。

逃がさないための一句

四編とも、最後は同じ定型句で締めくくられる。「信じようと、信じまいと。」

この一言は、一見すると判断を読者に委ねているように見える。好きなように受け取ってくれ、と。

だが実際は逆だ。信じないと決めても、物語の外へは出られない。判断を放棄させておいて、余韻からは逃がさない。そういう仕掛けになっている。

差出人不明の手紙から始まった

ロアという形式の起源は、匿名掲示板オカルト板のあるスレッドに遡る。タイトルは「信じようと、信じまいと―」だった。

伝えられるところによれば、投稿者は差出人不明の手紙を受け取ったという。中には62篇ともいわれる奇妙な逸話が記されていた。それが「ロア」である。

手紙には警告文が添えられていた。「この中のロアについては十までしか人に教えてはならない」。

投稿者は前置きをしている。自分はこの手の話を信用する人間ではまったくない、と。そのうえでスレッドを立て、逸話を一つずつ紹介する連載を始めた。

投稿開始日は2003年8月24日と伝えられている。当時のオカルト板の反応は素朴で好意的だった。こんな書き込みが残っている。「昨日はじめてオカ板来たんだけどすっげーラッキー!希に見る良スレです!」

ここまでは、ただの面白いスレッドだった。

「ロアはあなたを見つけ、あなたはロアになる」

投稿者は、やがて警告の十篇を超えて語り続けたとされる。

その直後から、身辺に不可解な出来事が起こり始めたという。

なかでも有名なのが、乱丁の逸話だ。購入した小説の乱丁部分に、一文が現れたというのである。

「ロアはあなたを見つけ、あなたはロアになる」

この一件が、スレッドそのものを一つの怪談として完結させた。語り手が語られる側に取り込まれるという構造だ。最終的に投稿者は消息を絶ち、スレッドは未完のまま伝説化したとされる。

ここで押さえておきたいのは、この起源譚自体が真偽不明のメタフィクションだという点である。

ロアという形式は、内容の真偽よりも別のところに軸がある。情報が人から人へ伝播すること自体が怪異になる、という構造だ。起源譚もその構造の一部として、きれいに機能している。仕掛けの外側に、仕掛けを説明する仕掛けが置いてあるわけだ。

62篇には何が書かれていたのか

原初のスレッドで語られた逸話は、海外を舞台にしたものが多いとされる。

たとえばドイツのアイゼナハ地方の館の話がある。訪れるたびに部屋の配置や廊下の形が変わるという建物だ。1972年、調査に入った大学生が壁を傷つけた。その瞬間、館全体に響くような悲鳴じみた音が鳴った。以後、現象は止んだという。

ほかにも、超能力者を使った透視実験の逸話がある。富士の樹海で発見された遺体のうち、身元不明者が多数を占めるという話もある。点灯しない外灯の噂。未来の建造物が刻まれた古い石碑。

超常現象と都市開発と戦後日本の風景が、区別なく混ざり合っている。そういう逸話が数十篇単位で存在するとされる。

このスレッドを起点に、二次創作的な文化が定着した。後年、さまざまな書き手が独自の「ロア」を創作し、同じ結句を使って発表するようになったのだ。

個人ブログ、note、pixiv。そこには「厳選フォークロア」と題したシリーズや、書き下ろしのロア集が多数投稿されている。原典の逸話と、後年の新作が、同じ形式の中で区別なく流通している。

この記事で再話した四編も、その系統に属している。どこまでが元でどこからが新作か、もはや誰にも切り分けられない。それがこの形式の実態だ。

読んだせいで肩が凝る

ある読者は、深夜にロアのまとめサイトを読み進めていた。コックリさんの話を読み終えた直後のことだ。

手元のスマートフォンが、勝手にスクロールしたように感じたという。指は画面から離していた。それなのに画面が数センチ動いた気がした。

本人は「疲れによる誤操作だと思う」と自分を納得させている。ただ、その直後にページを閉じ、二度と同じ記事を開けなかったとも書いている。

別の体験者は、肩こりの話でやられた口だ。読んだ翌日から、肩の重さが気になって仕方なくなった。

この人はもともと肩こりを自覚したことがなかったという。ところが話を読んで以降、事あるごとに肩に手をやる癖がついた。周囲からも指摘されるようになった。「最近やたら肩を気にしているね」と。

怪異というより暗示、あるいはプラシーボに近い現象だ。だが本人はこう捉えている。「知ってしまったこと」自体が、身体感覚を変えてしまった実例だと。

三つ目は踏切の話だ。ある投稿者が、自宅近くの踏切を夜間に一人で通ろうとした。警報機が鳴り出す直前、背後から誰かに呼ばれたような気配を感じた。

思わず振り返る。誰もいない。列車が通過するまでその場から動けず、通過してようやく寒気が引いたという。

本人もわかっている。ロアの踏切の話を読んだ直後だったから、暗示にかかっただけかもしれない。それでも、二度とその踏切を一人では渡らないと決めたそうだ。

ヴードゥーの精霊とは別物である

原初スレッドへの当時の反応は、前に挙げた歓迎コメントが示すとおり、素朴な驚きと好意が中心だった。

流れが変わるのは、この形式が転載・再構成されていく段階だ。pixiv百科事典、ニコニコ大百科、個人ブログ。そこでは決まって注記が添えられるようになった。

ロアという言葉は英語のfolkloreに由来する用法である。ハイチ系ヴードゥーの精霊loaとは別概念だ。この混同を正す一文が、繰り返し置かれることになった。

考察界隈が注目するのは、やはりあの結句の心理的な仕掛けだ。真偽判断を放棄させておいて、余韻からは逃がさない。この構造について、複数のブログやnote記事が独立に同じ指摘をしている。ロアという形式そのものを、都市伝説というジャンルの縮図として扱う見方も定着している。

波及先も広い。TRPGやボードゲームの領域にまで届いている。「チェーン・ロア―連鎖する恐怖―」と題されたクトゥルフ神話TRPGのシナリオ集が同人頒布された例もある。

短い謎めいた事実が連鎖して恐怖を作る。この形式が、ゲームデザイン上のフォーマットとしても認識されているわけだ。

一段階だけ、非日常を重ねる

ロアの各話に出てくる地名や事件は、実在の場所を思わせる書き方をしている。ところが特定の地点や事件との一対一対応は確認できない。

富士の樹海。事故が多いとされる踏切。どちらも国内で実際に報道されてきた場所のイメージを借りている。だが具体的な地名は出さない。だから読者は、自分の身近な場所に物語を投影できる。

肩こりの逸話も同じ構造だ。「肩がこる」という表現を日本で広めたとされる文豪の存在は、広く知られた文化的通説である。もともとは言語学や文化史の話題として独立に語られてきたものだ。それをロアの文脈に組み込み直している。

コックリさんも同様である。十円玉と紙を使う降霊遊びは、昭和期の学校文化として実際に大流行した。その集団心理的な側面は、民俗学と心理学の両面から説明が試みられてきた。不覚筋動、集団ヒステリー。学術的な語彙も揃っている。

ロアがやっているのは、こういうことだ。現実に存在する現象や文化的通説を土台に置く。そこへ一段階分だけ、非日常の説明を重ねる。二段階は重ねない。だから嘘に見えない。

実話とフィクションの境界を、意図的に曖昧なまま放置する。この技法を確立したところに、ロアという形式の発明がある。

信じようと、信じまいと。

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