奇怪千万からのお願い

このサイトの記事が面白かった、役に立ったと思って頂けたら、一つお願いがございます。
Amazonで何か買う予定があるとき、その前に下のボタンから入って頂いて買い物をしていただくと
サーバーの運営費と心霊スポットやパワースポットの取材費になります。

ここから入って買い物をすると、金額の数%が紹介料として私に入ります。
貴方様の支払いが増えることは一切ありません。買う物も何でも構いません。
記事をもっとたくさん増やしたいので、ご協力をお願いします。

当サイトではアマゾンアソシエイト以外のアフィリエイトは使用しません
(記事が見づらくなるから・・・)

サンユキサマ

山に入るのは、遊びではなく仕事だった

祖父がまだ小学校に慣れきらない歳のころ、山へ入ることは遊びではなかった。仕事だ。

朝、母が握った握り飯を懐に入れ、兄たちの後ろについて杣道を登る。山菜を摘む。茸のありかを覚える。罠を仕掛けて兎を獲る。それが家の食卓を支える現実だった。だからその日も、少年だった祖父はいつもと同じ気持ちで山に入ったという。

いつもと違ったのは、斜面だけだ。普段は兄たちが決めた道筋を外れないのに、その日はなぜか一人だけ違う斜面に入り込んでいた。理由は本人にも分からない。

獣道を辿るうち、草の陰に一羽の鶏がうずくまっているのを見つけた。里の鶏と変わらない姿だ。ただ、山奥にいるのに羽根一枚汚れていない。

そして何よりおかしいことがあった。身じろぎし、餌をついばむような仕草をしているのに、一度も鳴かないのだ。

音がない。匂いもない

不審に思いつつ、子供心に「捕まえて持ち帰れば手柄になる」と近づいた。その瞬間だった。

鶏の背後の斜面に、それまで影も形もなかったはずの大きな屋敷が現れた。

今しがた登ってきた道には、確かに何もなかった。見落とせるような小さい建物ではない。黒々とした立派な門が開き、見たこともない花が両脇に咲き乱れている。左右に伸びる厩には馬と牛がそれぞれ十頭ずつ繋がれ、庭にはさっきの鶏と瓜二つの鶏が、さらに五羽群れていた。

異様なのはここからだ。これだけの数の生き物がいるのに、蹄の音がしない。鳴き声もない。糞尿の臭いも、干し草の匂いも、何ひとつ漂ってこない。

精巧な絵の中へ迷い込んだようだった。視覚だけがそこにあって、他の感覚がすべて置き去りにされている。

玄関の重い戸が、軋みもせず、ひとりでにゆっくりと開き始めた。少年はそこで限界を迎えた。悲鳴を上げ、踵を返して走り出す。

山頂へ走ったはずが、麓に出た

恐ろしいのはここからだ。

屋敷とは逆方向、つまり山頂に向かって走ったはずなのに、気づいたときには麓の集落に転がり出ていた。方角の感覚も、走った時間の記憶も、すっぽり抜け落ちている。

息を切らして帰ってきた息子から事の次第を聞いた父親は、笑い飛ばさなかった。それどころか顔色を変えて激怒した。

「お前が見たのはサイ……様だ」

そう言いかけて、言葉を濁す。そして「挨拶をしなかったのなら、詫びねばならん」とだけ告げると、その足で少年を麓の小さな神社へ連れて行った。

何の神なのか。なぜ屋敷が現れるのか。父はついに説明しなかった。ただ一点だけを、繰り返し叩き込んだという。「今度出会ったら、必ず挨拶をしろ」。

数十年後、祖父は山で泣いた

物語はここで終わらない。

数十年が経ち、少年はもう祖父と呼ばれる年になっていた。妻と娘を連れて久しぶりに故郷へ帰った祖父は、誰に断るでもなく、黙って山へ向かった。

家族が追いつくと、祖父は開けた場所に膝をつき、声を上げて泣いていた。

「すまなかった。わしにはできなかった」

その言葉だけを繰り返す。何を約束し、何を果たせなかったのか。最後まで語らなかった。

祖父の死後、家族が改めてその神の名を確かめようとしたとき、記憶はもうほどけていた。娘は「サンユキサマ」と覚えている。語り出しの音は「サイ」だった気もする。屋敷そのものが神なのか、屋敷の奥に座す誰かが神なのか。それさえ、一族の記憶の中でついに定まらなかった。

検索しても、どこにも出てこない怪異

調べる過程で、いろいろな組み合わせで検索をかけた。「サンユキサマ」「サイユキサマ」「サンユキサマ 山の神」「サンユキサマ 東海地方」。さらに物語の核心にあるモチーフでも横断的に探した。山中に忽然と現れる無人の富裕な屋敷。鳴かない動物。牛馬十頭ずつ。

結果は、ゼロだった。この名称をタイトルや本文に含む独立した掲示板ログ、まとめサイト記事、pixiv百科事典項目、ニコニコ大百科項目は、一件も確認できなかった。

ただし、これは「話が存在しない」という意味ではない。

ネット怪談の世界には二種類ある。有名になって転載を重ね、まとめサイトに何十件も複製される話。そしてもう一方、たった一つの掲示板の一レスとして書き込まれ、誰にも拾われずに沈んでいく話だ。後者は無数にある。検索エンジンのインデックスに乗る前に元スレッドが落ち、過去ログサービスにも保存されないまま消えていく。珍しいことではない。

「サンユキサマ」は、まさにこの拾われなかった側の怪異である可能性が高い。

原資料を信じるなら、初出は2000年代の不可解体験系掲示板への投稿だ。祖父の体験を孫が再話し、母親の証言によって数十年後の場面が加筆された。つまり家族内の伝聞が先にあり、それがネットに書き起こされたわけである。全国どこにでもある「祖父が語った不思議な話」型の実話怪談の典型だ。だからこそ同工異曲の話が無数にあり、一つ一つが個別に埋もれていく。

屋敷が神なのか、屋敷の主が神なのか

まず名称の揺れそのものが、最大の異本要素になっている。ある家系の記憶では「サンユキサマ」、別の語り手の記憶では「サイ○○サマ」。語頭の音から違う。口承伝聞が世代をまたいで劣化した結果とも読めるし、地域によって呼び名が違う神格を、家族が一つの記憶に統合してしまった結果とも読める。

次に大きいのが、屋敷そのものが神体だという解釈と、屋敷の奥に座す何者かが神で屋敷は仮の宮にすぎないという解釈の併存だ。前者を採る語り手は、屋敷が現れたり消えたりすること自体を神の意志の顕現とみなす。後者を採る語り手は、いずれ玄関の奥から出てくるはずだった「何か」こそが本体だと考える。

原話では、戸が開きかけたところで少年が逃げてしまう。だからこの対立は、永久に解決しない構造になっている。

鳴かず匂わない動物たち、そして二階建てが強調される点も、異本ごとに扱いが微妙に違う。ある系統では「動物たちは死者の魂の仮の姿だ」と解釈する。別の系統では「あの屋敷全体が異界からの歓待の見せかけであり、富を見せつけることで人間を試している」と読む。

その試しに応じて、何かを持ち帰った者がどうなるのか。この話には一切語られていない。

気づいたら、数百メートル離れた沢にいた

類話を探す過程で、直接「サンユキサマ」の名を使わないのに、構造が酷似した体験談がいくつか見つかった。

ある投稿者は、祖母の実家がある山間部でキノコ狩りをしていたときの話を書いている。獣道の先に、見たこともない立派な屋根瓦の家が見えた。近づくと同時に強い眠気に襲われて気を失い、気づいたら数百メートル離れた沢のそばに座り込んでいたという。本人は「あれは屋敷ではなく、疲労による幻覚だったと思う」と冷静に注釈を添えている。それでも、方角感覚の消失という一点で、祖父の体験と重なる。

別の証言は、もっと断片的な世間話の形をしている。親戚の法事で山間の実家に集まった際、年配の親族が「うちの裏山にも、めったに人を招く家がある」と言い出した。子供たちが怖がって話をやめさせたので、全容は語られていない。ただ「その家に招かれた人間は必ず礼を尽くさねばならない」という戒めだけが繰り返された。挨拶をしなかったことへの叱責。物語の核心と、構造がぴたりと一致している。

山中の異界訪問譚に共通する、礼儀作法への強いこだわりだ。

さらに踏み込んだ話もある。林業関係者を名乗る投稿者が、若い頃に山中で「妙に整然とした庭のような開けた場所」に出くわしたという。そこには獣の足跡が、幾何学的な円を描くように残っていた。人が住んでいる形跡はないのに、手入れの行き届いた庭のようだった――この描写は、サンユキサマの屋敷が持つ「豊かだが無人」という不気味さと、よく響き合う。

記憶が割れているほうが、リアルに聞こえる

この種の「祖父の体験談」型ネット怪談には、定番の反応パターンがある。

まず名前の表記ゆれが考察の的になる。「サンユキサマなのかサイユキサマなのか、家族の記憶が割れているのが逆にリアルだ」。実話系怪談のスレッドで頻出する評価軸だ。細部が食い違うことで、かえって作り話らしさが消える。伝聞のリアリティが担保される、という読み方が広く共有されている。

屋敷の「音も匂いもない」という描写には、合理的な説明を試みるレスがつきやすい。幽体離脱的な感覚の再現ではないか。山中で疲労と低体温により知覚が歪んだ結果ではないか。そういう心理学的・生理学的な読みだ。

同時に「そういう合理的な説明をあえて拒否するところに、この手の話の怖さがある」という反論も定番である。両者がかみ合わないまま並走する。家族伝承型怪異の考察スレッドは、たいていこうなる。

そして祖父が晩年に山へ登り、「わしにはできなかった」と泣いた場面。ここが最も感情に訴えるところで、言及されやすい。何を約束し、何を果たせなかったのか。明かされないまま終わる構成が、読者の想像を掻き立てる。祖父は何かを差し出す約束をしたのではないか。兵役や出征で山へ戻れなかった空白の期間があったのではないか。家族史と絡めた二次的な物語を、各自が脳内で補完する余地が残されている。

『遠野物語』のマヨイガと、細部まで重なる

この物語には、日本民俗学でもっとも有名な山中異界譚と、驚くほど重なる要素がある。

柳田國男が1910年に発表した『遠野物語』に収められた「迷い家(マヨイガ)」だ。山中で偶然たどり着いた、無人の立派な家の話である。描かれる屋敷は、黒く立派な門構えを持ち、庭には紅白の花が咲き乱れ、牛や馬、鶏が多数飼われているのに人の姿は一切ない。

第六三話では、無欲な女がその屋敷から流れてきた器物を持ち帰り、富を得たとされる。第六四話では対照的に、欲を出して屋敷を探しに行った若者が、二度とたどり着けなかったと語られる。

サンユキサマの屋敷も、黒い立派な門、大量の牛馬と鶏、無人なのに手入れされた様子という点で、マヨイガの描写と細部まで符合する。

決定的に違うのは結末の方向だ。マヨイガは「富をもたらす吉兆」として語られる。サンユキサマでは、屋敷への接近が「叱責と謝罪を要する禁忌」になる。同じ山中異界訪問譚のモチーフを使いながら、片方は招福譚、もう片方は禁忌譚として結晶化した。東北のマヨイガ系伝承と、東海地方の山の神系伝承。それぞれ独自に、しかし共通の民俗的想像力の型から生まれた好例である。

加えて、日本各地の山岳信仰には、山の神を粗略に扱った者に祟りが下るという類型が古くから広く分布している。サンユキサマの「挨拶をしなかったことへの叱責」と「数十年後の悔恨」も、この山の神信仰の型に忠実に沿っている。

地域や神社の実名を特定する資料は、結局見つからなかった。それでもモチーフの系譜という点では、日本の山岳民俗の本流に連なる話であることは間違いない。

タイトルとURLをコピーしました