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九十九話目で、なぜ止めるのか――『新耳袋』が日本の「実話怪談」を作り替えた三十年

怪談の本棚の前に立つと、いまはもう当たり前みたいに「実話怪談」という言葉が並んでいる。帯にも背表紙にも書いてある。誰も疑問に思わない。でも、この言葉が本屋の棚を占領するようになったのは、そんなに昔の話じゃない。三十年ちょっと前まで、日本の怖い話の主流は「作り話としてよくできたホラー小説」か、「テレビで語られる芸としての怪談」のどちらかだった。

その真ん中に、まったく違うものをねじ込んだ二人組がいる。木原浩勝と中山市朗だ。彼らが出した『新耳袋』という本は、怪談の書き方そのものを変えてしまった。この記事では、その成立から完結、その後の影響、そして三十年ずっと決着のついていない喧嘩の種まで、まるごと追いかけていく。

江戸の南町奉行が書き溜めた「聞いた話」の袋を、平成の二人が勝手に継いだ

まずタイトルの話からいこう。『新耳袋』の「耳袋」は、江戸時代に南町奉行を務めた旗本、根岸肥前守鎮衛が書き残した随筆『耳嚢』から取られている。奉行という立場上、根岸のところにはとんでもない量の話が集まってきた。事件の話もあれば、薬の効き目の話もあり、そして「こういう妙なことがあったらしい」という怪異の話もあったのだ。彼はそれを、判定を下さずに書き留めた。

信じているとも信じていないとも書かない。ただ「こう聞いた」と記す。これが『耳嚢』の姿勢だ。木原と中山は、この志を継ぐという意図でタイトルを付けたと明言している。ここがけっこう重要で、彼らは最初から「江戸の記録者の系譜に自分たちを置く」と宣言していたわけだ。

怖がらせ屋の系譜じゃない。記録者の系譜。この自己規定が、後の文体を全部決めてしまう。そもそもの発端がまた地味でいい。木原の証言によれば、大学時代に中山の下宿に泊まり込んだとき、三日三晩ひたすら怪談をやり続けたのが面白くて、メモを取り始めたのがきっかけだという。

特撮雑誌『宇宙船』の二〇〇三年五月号でそう語っている。壮大な使命感じゃない。友達の下宿で夜通し喋ったのが楽しかった。それだけ。ただ、この二人はメモを取り続けた。

しかも十年単位で。二人の経歴も面白い。木原は一九六〇年に兵庫県尼崎市で生まれ、大阪芸術大学の映像計画学科を出てアニメーションの世界に入った。『風の谷のナウシカ』を作ったトップクラフトに入社し、そのままスタジオジブリへ。『天空の城ラピュタ』では制作進行、『となりのトトロ』『魔女の宅急便』では制作デスクを務めている。

ジブリを退社したのが一九九〇年。つまり『新耳袋』の初版が出た年だ。宮崎駿の現場で消耗品みたいに働いていた男が、辞めた年に怪談本を出した。この符合はちょっと出来すぎている。中山は一九五九年、兵庫県朝来市竹田の出身。

同じく大阪芸術大学の映像計画学科を一九八二年に卒業している。当初は映画監督志望で助監督をやり、一九八四年には黒澤明の『乱』のメイキング映像を企画した。日本映画で本格的なメイキング制作をやった初期の例だとされている。要するに二人とも「映像を作る側」の人間だった。文学の人ではない。

この出自が、後で効いてくる。

一九九〇年に出た最初の一冊は、あっさり絶版になった

一九九〇年、扶桑社から『新・耳・袋 あなたの隣の怖い話』が出る。タイトルの中黒がやたら目を引く、いま見るとちょっと不思議な装丁の本だ。ここには本当に百話が入っていた。百物語をやりきる、という構えだったわけだ。そして、この本は売れずに絶版になった。

これ、後から見ると信じられない話なんだけど、事実だ。日本の実話怪談というジャンルの起点になる本が、出版から数年で書店から消えた。当時の読者にとっては、たぶん「オチのない、地味な、よくわからない怖い話の寄せ集め」に見えたんだと思う。九〇年前後の怖い話といえば、心霊写真の本か、テレビの再現ドラマか、稲川淳二の語りか、そのあたりが相場だった。

そこに「淡々と事実だけ書いた短い話が百個並んでる本」を出したところで、棚のどこに置けばいいのかすら誰もわからない。風向きが変わったのは八年後だ。一九九八年、メディアファクトリーが『現代百物語「新耳袋」第一夜』として仕切り直しの刊行を始める。この年は日本のホラーにとって特別な年で、映画版の『リング』が公開され、Jホラーという言葉が動き出した年でもある。

世の中の側が、ようやく「説明されない怖さ」を受け入れる準備を整えたところだった。ここで、あの有名な数字の話が出てくる。扶桑社版には本当に百話入っていた。ところがメディアファクトリー版の第一夜を出すにあたって、二人は話数をわざわざ削っている。具体的には「お寺の大天狗その一・その二」を一話にまとめ、「狐狸妖怪を見たという十三の話」を十二の話に組み替えた。

内容そのものは基本的にそのままに、数だけを九十九話に落としたのだ。以後、シリーズは全巻この構成で通した。第一夜と第二夜が一九九八年、第三夜と第四夜が一九九九年、そこから毎年のように積み上げて、二〇〇五年の第十夜で完結。全十巻、収録話数は合わせて九百九十話。角川文庫版は二〇〇二年から二〇〇八年にかけて順次刊行され、装丁は祖父江慎が手がけている。

あの文庫、書店の平台でやたら目立ったのを覚えている人も多いと思う。あれは偶然じゃなくて、日本のブックデザインで最も癖の強い人間が本気で作った結果だ。

百話目を語るな、という禁忌を、シリーズ全部で背負い込んだ話

なぜ九十九話なのか。表向きの理由はシンプルで、百物語の禁忌だ。百本の蝋燭を立て、一話語るごとに一本消していく。百話目を語り終えて最後の灯りが消えたとき、本物が出る。これは江戸の遊興として実際に流行した作法で、だからこそ多くの座では九十九話でわざと止めた。

角川文庫版第一夜の紹介文にも「百話を完結させると怪しいことが起こると語り継がれる」とはっきり書かれている。ただ、ここで終わらないのが『新耳袋』の意地悪なところだ。読者の間で長く語り継がれている話がある。第一夜に寄せられた京極夏彦の文章に、九十九話しかない理由として「あなたの棲むその世界を勘定に入れれば」百になる、という趣旨のことが書かれていた、というものだ。つまり、九十九話は本の中にある。

百話目はあなたのいる場所にある。だから本は九十九で止まっている。読み終えた瞬間、読者自身が百話目の器になる。この仕掛けが恐ろしいのは、シリーズが十巻続いたことで意味が反転していく点だ。一冊で九十九、十冊で九百九十。

二人は十回にわたって、毎回「百話目はあなたの側にある」と言い続けたことになる。しかも刊行は一九九八年から二〇〇五年まで、七年がかりだ。七年間、読者は毎年百話目を渡され続けた。これを単なる縁起担ぎと呼ぶのはさすがに雑だと思う。構造そのものが、読者を怪談の外側に置かないための装置になっている。

木原はのちに単独シリーズを『九十九怪談』と名付けた。二〇〇八年八月八日、角川書店から第一夜が出ている。タイトルの時点でもう「百にしない」という宣言だ。この本にも面白い仕掛けがあって、読者の記録によると、九十九話と数えられている本文の途中に、番号が振られていない話が一本紛れ込んでいるという。数えると百になってしまう。

数えなければ九十九のままだ。読者にカウントを委ねている。この人、本当に性格が悪い。褒めている。

オチをつけない。説明しない。怖がらせに行かない

さて、ここが本題だ。『新耳袋』が本当に変えたのは、話数でも装丁でもなく、文体だった。三つの禁則がある。まずオチをつけない。普通、怖い話には落としどころがある。

振り返ったらそこに立っていた、で終わる。ところが『新耳袋』の話はしばしば、何も起きずに終わる。何かがあった気配だけがあって、それが何だったのか判明しないまま次の話に進む。読者は宙吊りにされる。次に説明しない。

因縁を解説しない。土地の由来も、霊の正体も、なぜその人だったのかも書かない。ある読者が第一夜のレビューで、こう書いている。「しかもそれは何なのか、原因は、因果は、そういうものの正体を親切に解説もしてくれない。わからない事、これが一番怖い」。

まさにそのとおりで、これは方針として徹底されている。三つ目が一番大きい。怖がらせに行かない。文章から煽りを抜く。効果音を書かない。

読者の反応を先回りして誘導しない。同じく読者の言葉を借りると、「実話怪談を名乗る書籍の中には怖がらせようと力み過ぎてギャグになっているものが多々ある。だが、このシリーズは淡々と冷静な筆致」ということになる。この「力まない」という選択が、当時どれだけ異常だったかは強調しておきたい。怖い話の本というのは、読者を怖がらせるために存在するはずのものだ。

それが商品性そのものだ。そこで「怖がらせに行かない」と決めるのは、商売としては自殺行為に近い。実際、最初の一冊は絶版になっている。木原自身が後年、別シリーズのあとがきで書いた一文が、この姿勢を一番きれいに言い当てている。「怖くなければ怪談ではないが、怖いことが怪談の全てではない」。

これは講談社文庫の『現世怪談』第一巻に収められた言葉だ。同書に入っている十八話のうち、およそ半分は親子や身内が怪異と関わる話で占められていて、恨みも呪いも祟りも出てこない。ただ不思議で、少し温かくて、それでもどこか薄気味悪い。怪談を恐怖の装置としてだけ使わない、という宣言だ。もうひとつ、実務的な文体の要がある。

プライバシーの秘匿だ。『新耳袋』は取材に基づく体験談を、体験者が特定されないよう意図的に加工して書いている。地名は伏せる。職業はぼかす。時期はずらす。

ここが後で「実話怪談とは何なのか」という大論争の火種になるんだけど、それは後半で扱う。

章立てという発明。「車や路上に出るもの」の十三話で人は震える

もうひとつ、あまり語られないけれど決定的に効いている技術がある。章立てだ。『新耳袋』は九十九話をただ並べているわけじゃない。テーマごとに束ねている。第一夜の第三章は「車や路上に出るものの十三の話」。

第七章は「狐狸妖怪を見たという十二の話」。第四夜には「UFOの八つの話」があり、その中に「黒い男たち」が入っている。第六夜には、読者の記録によると「噺家に関する六つの話」という章や、「絆を感じる話」を十四話まとめた章があったという。これがなぜ効くのか。単体では弱い話が、束になると急に怖くなるからだ。

夜道で妙なものを見た、という話は一本だけ読んでも「ふうん」で終わる。ところが十三本並べられると、読者の頭の中に「夜の道路というのはそういう場所なんだ」という一般法則が組み上がってしまう。個々の証言に説明がないぶん、読者は自力でパターンを抽出しようとする。その抽出作業の結果として、読者自身が結論を作る。書き手は何も言っていないのに、読者は「夜、車を停めてはいけないんだな」と思い込む。

第一夜第三章について、ある読者はこう書いている。「夜道やトンネルを走るのが恐ろしくなる。トンネルの中は得体のしれないものが、巣食いやすいのだろうか」。これだ。書き手は一言も「トンネルには何かがいる」と書いていない。

読者が勝手に導出している。この構造は『新耳袋』の中核的な発明で、後続の実話怪談本はほぼ全部これを真似している。テーマ別に束ねる、という編集の作法自体が、このシリーズの遺産だ。

「山の牧場」――怪談が取材対象を持ってしまった日

『新耳袋』の話をして、これを飛ばすわけにはいかない。「山の牧場」だ。事の起こりは一九八二年。中山が大学の卒業制作として、故郷の近くでモノクロ十六ミリの映画を撮っており、村の俯瞰図が欲しくて山道に入った。その先で、無人の、そして異様な牧場に行き当たった。

ここから先は本を読んでもらうのが筋なので詳述はしない。だが、要点だけ言えば、建物の作りが建築の常識から外れていて、あるはずのものがなく、ないはずのものがある。そして、その場にいた者が説明のつかない体験をする。この体験談はまずエッセイストの竹内義和がラジオなどで紹介して口伝えに広まり、噂の中でどんどん場所が入れ替わっていった。

そして『新耳袋』の第四夜に、中山自身の体験として「山の牧場に関する十の話」という形でまとめられ、ようやく詳細が本人の口から出た。菊地秀行はこの第四夜のあとがきで、「文章で読んだ恐怖譚の最高傑作である」と書いている。ホラー小説の第一線にいた作家が、体験談にそこまで言い切ったわけだ。ここで起きた事件が、実話怪談というジャンルにとって決定的だった。読者が現地を探し始めたのだ。

本には場所が書かれていない。それでも、地図と証言を突き合わせて特定したと主張する人たちが現れた。「ただの廃業した牧場跡にすぎない」という反論も出た。『映画秘宝』が取材し、『不思議ナックルズ』が取材し、北野誠の心霊スポット企画が取材し、『新耳袋 殴り込み』のチームが中山本人を連れて乗り込んだ。それぞれが独自の解釈を出した。

周辺の土地は古くから鉱山として掘られていた地域で、山の中に空洞があること自体には説明がつく、という調査を積み上げる書き手も出てきた。カレンダーが何年何月で止まっていたか、といったレベルまで検証されている。つまり、一本の怪談が検証可能な対象になってしまった。ここが実話怪談と創作ホラーを分かつ、最大にして最厄介な境界線だ。創作なら「じゃあ現場に行こう」とはならない。

実話を名乗った瞬間、読者は取材者になる権利を持ってしまう。そして取材の結果、話が痩せることもある。ある読者は正直にこう書いている。「魔が差して検索してしまい萎えてしまった。この様な怪談話はネットで調べてはいけないと新たな教訓が得られた」。

念のため書いておくが、この場所を含め、実在の施設や私有地に興味本位で立ち入るのは端的に犯罪だし危険だ。この記事は場所を書かないし、行くことを勧めない。それは怪談の楽しみ方ではないと思っている。なお、山の牧場は第四夜で終わっていない。中山はその後も断続的に関連する話を集め続け、トークライブや動画で語り、二〇二〇年代に入っても続きが生まれている。

ある読者が第十夜のレビューで書いた一文が本質を突いていて、「代表作『山の牧場』は今も物語を生み出し続けている」。完結した本の中にある話が、本の外で成長し続けている。これが実話怪談という形式にしかできない芸当だ。

赤いもの、絆創膏、掛け軸。記憶に残るのはいつも「余った部分」

『新耳袋』の中で語り継がれている話を、確認できた範囲で挙げていく。丸写しはしないので、輪郭だけ。第五夜では「虎渓の三笑」の掛け軸をめぐる話が読者の記憶に強く残っている。誰かを楽しませるために誰かが描いた絵が、めぐりめぐって不幸を撒き散らす。悪意のない起点から悪意のない不幸が生じるという不条理が、この話の怖さの芯にある。

第七夜には「訪問者」という話とその後日談があり、読者の間では「赤い系」として括られている。日常に赤いものが侵入してくる形の話が、この巻には集中していたらしい。実話怪談を長く読んでいる人ならわかると思うが、色が強い話は記憶への焼き付き方が違う。理屈がないぶん、色だけが残る。第九夜の大ネタは、警備員の体験を核にした一連の話だ。

読者の記録によれば、同じ語り手による警備員怪談がいくつか置かれた後に、大きな建物での出来事が来る構成になっている。体験者の数が多いことから、複数の証言が積み重なった形になっているらしい。この「証言の複数性」というのは、実話怪談の信憑性設計の要になっている。一人の記憶なら勘違いで片付くところを、同じ夜に居合わせた別々の人間が同じものを見た、という形にする。すると途端に反証が難しくなる。

仕事で偶然集まった人間たちが共通の幻覚を見る、というのはそれ自体が怪談だ。そして第十夜。絆創膏をめぐる話と、いわゆる百目が出てくる話が、シリーズの締めくくり近くに置かれている。ある読者は、絆創膏という小道具が一種の匿名性の装置になっていて、ホラー映画の殺人鬼がかぶるマスクみたいに機能している、と指摘していた。的確な読みだと思う。

顔の一部を隠すという最小限の操作だけで、そこにいるものが「誰でもありうる何か」に変わる。ドラマ化された話のタイトルからも、原作の傾向は逆算できる。「幽霊屋敷と呼ばれる家」「第三診療室」「エレベーター」「さとり」「手形」「近づく」「現場調書」「庭」「開けちゃだめ」。「カセットテープ」「オルゴール」「赤い三輪車」「花嫁さん」「乗客」「訪問者」「ふたりぼっち」。

「中学の同級生」「社長室」「無表情」「水辺の写真」「家紋」「狐風呂」「一滴の血」「石つぶて」「待ち時間」。並べてみると特徴がよくわかる。ほとんどが名詞一語か、短い言い回しだ。「呪われた」も「悪霊」も「絶叫」も入っていない。タイトルの時点で煽っていない。

ここまで徹底している。ひとつ、面白い自己言及もある。第一シリーズでドラマ化された話に「百物語の取材」というものがあって、監督は中山市朗本人が務めている。百物語を取材する話を、百物語を取材した本人が撮る。この入れ子は狙ってやっているに決まっている。

東の「超」怖い話、西の『新耳袋』。同じジャンルの、まるで違う手つき

実話怪談を語るとき、『新耳袋』を単独で扱うのは片手落ちだ。もう一方の横綱がいる。『「超」怖い話』だ。こちらの創刊は一九九一年六月、勁文社。初代編著者は安藤薫平。

『新耳袋』の扶桑社版の翌年だ。つまり日本の実話怪談は、東西でほぼ同時多発的に立ち上がっている。この事実は重要で、要するに時代がそれを求めていた。『「超」怖い話』の特異な点は、編著者を代替わりさせながら三十年以上続いていることだ。二代目が樋口明雄、三代目が平山夢明、四代目が加藤一、五代目が松村進吉。

途中で二度休刊し、そのたびに読者の声で復活している。ゾンビみたいな伝説を持つシリーズで、熱心な読者は怪談ジャンキーと呼ばれた。勁文社から竹書房へ版元も移り、巻数表記もキリル文字、ギリシア文字、干支、十干と変遷していく。平山夢明の参加は一九九三年の『新「超」怖い話』から、当時はデルモンテ平山という筆名だった。この人が三代目編著者になった時期の文体が、いわゆる「超怖の文体」を決定づけている。

『新耳袋』が引き算なら、平山は圧をかける。乾いた俗語を使い、体験者の生活の汚れをそのまま書く。人間の側の狂気を書く。実際、平山の『東京伝説』シリーズは幽霊が一切出てこない、隣人が怖いだけの本だ。同じ実話怪談というジャンルにいながら、恐怖の置き場所が違う。

界隈での言い回しはこうだ。「西の横綱の新耳、東の横綱の超怖」。ここに稲川淳二を足して三大実話怪談と呼ぶこともある。同じジャンルの二つの横綱が、これほど作法の違う相撲を取っていたというのは、後続にとっては幸運だった。選択肢が二つあったからだ。

淡々と記録するか、圧をかけて語るか。以降の書き手はだいたいこの座標のどこかに自分を置いている。相互影響も普通にある。竹書房のネット配信ドキュメントには、平山と木原が並んで舞台挨拶に立った記録が残っている。二〇二四年には『「超」怖い話×中山市朗』という、松村進吉と深澤夜を交えた共著まで出た。

三十年かけて、東西の横綱が同じ土俵に乗ったわけだ。長生きするジャンルはこういうことが起きるからいい。

京極夏彦、東雅夫、そして『幽』。怪談が「文芸」に格上げされた十年

一九九九年一月十三日、東京の根津にある旅館で、四人の男が座談会を開いた。小説家の京極夏彦、文芸評論家の東雅夫、そして中山市朗と木原浩勝。これが「怪談之怪」の発足だ。目的は「怪談を聞き、語り、愉しむ」ことで怪談文化を復興させること。以後、雑誌『ダ・ヴィンチ』を舞台に、著名人を招いた座談や、読者投稿怪談の添削指導といった活動を続けた。

ゲストには春風亭小朝、中島らも、山岸凉子、佐野史郎、岩井志麻子、高橋克彦といった顔ぶれが並ぶ。単行本も『怪談之怪之怪談』と『怪談の学校』の二冊が出ている。この会が果たした役割は、思っている以上に大きい。実話怪談は当時、サブカル本の一角、下手をすると際物扱いだった。そこに京極夏彦という当代随一の売れっ子小説家と、幻想文学の批評をやってきた東雅夫が入ったのだ。

つまり文壇の側からの承認が付いた。読者投稿の添削指導までやっているのが象徴的で、これは「実話怪談には巧拙がある。技術がある。だから教えられる」という主張に他ならない。技術があるということは、それは芸であり、文芸だ。

そして二〇〇四年六月十八日、怪談専門の文芸誌『幽』が創刊される。版元はメディアファクトリー、編集顧問は東雅夫、アートディレクションは祖父江慎。東自身が、『幽』の創刊は怪談之怪での活動実績を踏まえた集大成であり、次のステップへの一歩だと語っている。掲げた理想は「実話と小説とコミックを三本柱にした極上の怪談エンターテインメント・マガジン」。

同時に「古今東西の怪談文化を探求し、再発見するためのメディア」でもあった。『幽』の特集ラインナップを追うと、このジャンルが自分自身をどう問い直していたかが透けて見える。三号の第二特集がずばり「『新耳袋』大百科」。五号が「実話と創作のあいだに」。十一号が「プロに学ぶ実話取材の極意」。

十七号が「出でよ、怪談実話の新星たち」。そして二十四号が「リアルか、フェイクか。」。つまり創刊の翌年に『新耳袋』を丸ごと特集で解剖し、その次の号ではもう「実話と創作の境目はどこだ」と自分に問いかけている。ジャンルが自分の足元を疑い続けていた証拠だ。

『幽』は二〇〇六年から二〇一五年まで『幽』文学賞を主催し、途中から怪談実話コンテストも併設した。実話怪談の書き手を賞という制度で選ぶ、というのはそれまで存在しなかった発想だ。二〇一八年十二月、三十号で終刊。翌年、妖怪誌『怪』と合併して『怪と幽』に生まれ変わった。十四年半、年二回。

怪談専門誌がそれだけ続いたという事実自体が、このジャンルの層の厚さを物語っている。

超-1という発明、そして怪談最恐戦へ。書き手から語り手へ

二〇〇六年、竹書房が「超-1」という奇妙なコンテストを始める。『「超」怖い話』十五周年記念という名目だ。だが、実際の狙いははっきりしていて、平山と加藤の二人体制に加わる第三の書き手を、市井から発掘することだった。このコンテストの仕組みが、いま見ると異様に先進的だ。審査員が選ばない。

一般読者の採点で順位が決まる公選方式。投稿された作品は無加工、無選別で随時ブログに掲載される。閲覧者がコメント欄で講評と採点をつけ、自分のブログからトラックバックを飛ばして採点することもできる。実力不足と判断されれば優勝者は空位。実際、第一回以外はほとんど優勝者が出ていない。

第一回の優勝者は高山大豆と名乗っていた久田樹生と、ロールシャッハと名乗っていた松村進吉。この二人は本当にシリーズの共著者に昇格し、松村はのちに五代目編著者になる。制度が機能したわけだ。もっと過激なのが「リライト制度」だ。投稿者が許諾した作品は、誰でも書き直して自分のブログに公開していい。

書き直した側が元作品にトラックバックを飛ばすと、元の作品に加点が入る。第一回では「インスパイ屋」という名前の遊びとして自然発生し、第二回で正式なルールになった。考えてみてほしい。他人が取材した実話を、他人が書き直して公開する。それを主催者が奨励して、点数まで付ける。

これは実話怪談というジャンルの本質を、これ以上ないほど乱暴に暴いている。つまり、実話怪談において作品の価値は「体験」にあるのか「文章」にあるのか、という問いだ。もし体験にあるなら、リライトは原作の盗用になる。もし文章にあるなら、リライトは正当な競技だ。超-1は後者の立場を取った。

素材は共有財、加工技術が勝負。この割り切りは、あとで詳しく書く「実話怪談の矛盾」に対する、ひとつの回答になっている。超-1は二〇一三年の第八回まで開かれ、以降は実施されていない。だが、この大会が発掘した書き手たちが竹書房の怪談レーベルを支え、「恐怖箱」という派生シリーズ群を生み、いまのシーンの骨格になった。そして二〇一八年、同じ竹書房から今度は「怪談最恐戦」が始まる。

こちらは書き手ではなく、語り手を決める大会だ。オーガナイザーは住倉カオス、初代大会には稲川淳二が最高顧問として参加した。優勝者には「怪談最恐位」の称号が与えられる。予選は動画審査、決勝はトーナメント方式で、持ち時間五分、七分、そして決勝は無制限。初代王者はありがとうぁみ、二〇一九年は下駄華緒、二〇二〇年は夜馬裕、二〇二一年は田中俊行。

二〇二五年には吉田猛々が七代目の座に就いた。この移行がジャンルの現在地を示している。書かれた実話怪談から、語られる実話怪談へ。動画配信が主戦場になり、怪談師という職業が成立した。木原と中山も早くからトークライブをやっていたし、木原はラジオ番組でポッドキャストのダウンロード数記録を更新している。

中山はオーディオブックで自分の怪談を五十集を超える規模で出し続けている。つまり二人とも、書き手であると同時に語り手だった。ジャンルは彼らが立っていた場所に、二十年遅れで追いついた。

五分間ホラーという発明と、『殴り込み』という壮大な自己パロディ

映像化の話をしないと、この本の広がりは説明できない。前身は二〇〇二年のビデオソフト『新耳袋 木原浩勝の美女怪談』だ。木原が女優の三輪ひとみに怪談を語るだけの企画で、この監督を務めた鈴木浩介の協力によってテレビドラマ化が動き出した。二〇〇三年二月、BS-iで『怪談新耳袋』の第一シリーズが始まる。一話五分のショートフィルム形式。

この尺の選択が発明だった。原作の一話が短いのだから、映像も短くする。オチを付けずに切る。説明を入れない。原作の文体を、そのまま映像の文法に翻訳したわけだ。

参加監督が凄まじくて、清水崇、鶴田法男、高橋洋、佐々木浩久、三宅隆太、豊島圭介、井口昇、村上賢司、吉田秋生、そして佐野史郎や雨宮慶太まで名を連ねている。日本のホラー映像を担う人材が、五分の枠で腕を競った。この現場が育成機関として機能した面は間違いなくある。シリーズは第五シリーズまで続き、第一シリーズから目標としていた九十九話の製作を二〇〇六年に達成した。ここでも九十九だ。

作品は世界二十三カ国で放送され、英題は「Tales of Terror from Tokyo and All Over Japan」。劇場版は二〇〇四年八月二十一日公開。監督は三宅隆太、脚本は木原と中山の連名、竹中直人や坂井真紀、高岡早紀が出ている。十分から十五分の八話構成のオムニバスだ。翌二〇〇五年の『幽霊マンション』で、シリーズ初の長編になった。

二〇〇六年に『ノブヒロさん』、二〇一〇年に篠崎誠監督の『怪奇』、二〇一二年に井口昇監督の『異形』が公開されている。この劇場版第一作には、伝説的なエピソードがある。DVDのオーディオコメンタリーで木原が語ったところによれば、こういうことがあったらしい。「約束」に出てくる異常に背の高い女性の等身大ポスターを、公開前にTBS本社のエレベーター前に貼った。

するとそのビジュアルが怖すぎて、利用者から苦情が殺到したのだ。結果、局始まって以来はじめて番宣ポスターが役員会の議題になり、協議のうえ撤去された。宣伝物が社内政治問題になった怪談というのは、なかなか他に例がない。そしてスピンオフの『怪談新耳袋 殴り込み!』だ。

ギンティ小林を筆頭にした面々が、原作に出てくる場所へ実際に押しかけていくドキュメンタリーシリーズで、初期には木原と中山、清水崇や豊島圭介まで同行している。二〇一一年からは劇場版としても公開され、関東編、沖縄編、東海道編、北海道編、地獄編、魔界編と続いた。面白いのは、これが本編の姿勢の完全な裏返しになっていることだ。原作は説明しない。断定しない。

現場に行かない。『殴り込み』は説明しようとする。断定しようとする。現場に行く。つまりシリーズは自分自身の禁則を破るスピンオフを、自分の名前で作った。

ジャンルとしての余裕というか、単に面白がりの本性が出たというか。二〇二三年には『怪談新耳袋 暗黒』としてBS-TBSで新作ドラマも作られ、十年ぶりの新作が四本、そこに旧作の傑作選が組み合わされて放送された。二十年もった映像フランチャイズだ。派生商品も多い。伊藤潤二による漫画版『ミミの怪談』が二〇〇三年に出て、二〇二二年には新作を加えた完全版が朝日新聞出版から刊行された。

恩田陸が編んだ『新耳袋コレクション』もある。PSPのソフトも出た。一九九九年にはCDの『聴く新耳袋』が怨の巻と怪の巻の二枚出ている。二〇一〇年にはオリオンから『新耳袋ラムネ』というものまで発売された。パッケージの一部が切り離すとミニブックになっていて、抜粋された怪談が一話入っている。

駄菓子で怪談を配る。ここまで来ると清々しい。

二人が別々に歩き出したあとの話

第十夜の刊行後、木原と中山の共著は途絶えた。第十夜のあとがきでは二人は親友だと書かれていたが、その後『新耳袋』名義の続編は編まれていない。怪談之怪の四人が揃って登場することもなくなった。この会は平山夢明、福澤徹三、加門七海といった『幽』の常連作家を加えた形のイベントへ姿を変えた。そして事実上の発展的解消に至っている。

コンビ解消の内実について、当事者双方が公の場で詳細を語った記録は見当たらない。だから憶測でどちらかを悪く書くのは筋が違うし、この記事ではやらない。確かなのは、二人が別々に、それぞれ膨大な仕事を続けたという事実だけだ。そして正直に言えば、その後の二人の仕事を並べて見ると、共著が終わったのは自然なことにも思える。目指す方向が違いすぎるからだ。

木原は『隣之怪』シリーズを始めた。二〇〇七年の『木守り』を皮切りに、『蔵の中』『病の家』と続き、後に角川書店から第四夜以降が出ている。並行して二〇〇八年から『九十九怪談』シリーズ。さらに講談社文庫では『現世怪談』として編み直された。伊藤潤二の刺し絵を得た『怪、刺す』のような実験もやった。

彼の単独作の傾向ははっきりしていて、恐怖の純度を上げるより、怪異の幅を広げる方向に行っている。泣ける話、温かい話、ただ不思議なだけの話を平然と混ぜてくる。「怖いことが怪談の全てではない」を実践している。ちなみに木原は怪談以外でも化け物じみた仕事をしていて、『空想科学読本』の企画監修は累計三百万部を超え、岡田斗司夫の『いつまでもデブと思うなよ』も手がけている。

そして二〇一六年の『もう一つの「バルス」』、二〇一八年の『ふたりのトトロ』で、ようやくジブリ時代のことを書いた。三十年近く黙っていたわけだ。中山は『怪異実聞録・なまなりさん』を二〇〇七年に出した。これは短い話の集積ではなく、一つの長い怪異を追い続けた記録で、彼の関心が「短編の蒐集」から「一つの謎の追跡」へ移っていることがよくわかる。二〇一四年からは『怪談狩り』シリーズを角川で継続している。

『市朗百物語』『赤い顔』『四季異聞録』『禍々しい家』『黄泉からのメッセージ』。『あの子はだあれ』『黒いバス』『山の足音』『葬儀猫』『まだらの坂』『逆さ煙突』と、二〇二五年まで途切れずに出ている。加えて聖徳太子や古代史のオカルト方面にも深く踏み込み、作劇塾の塾頭として人材育成もやり、トークライブと動画配信を膨大にこなしている。

彼はUFO目撃談も取材の切り口次第で怪異遭遇談になるという立場を取っていて、『ムー』の編集長から「UFO怪談は中山市朗が創った」とまで言われている。もうひとつ、中山について書いておきたいことがある。本人は数々の怪異に立ち会いながら、自分では何も感じないと自覚している。ある深夜の取材に同行した漫画家から「午前0時のさわやかウィンドウ」というあだ名を付けられたという話が残っている。

そして彼の主張はこうだ。怪談と霊感は関係ない。これは実話怪談の書き手としては、最も誠実な立ち位置だと思う。見える人が書けば、それは証言ではなく体験談になってしまう。見えない人間が、見た人の話を聞いて書く。

だから記録になる。『耳嚢』の根岸鎮衛だって、自分で幽霊を見たなんて一言も書いていない。

『残穢』が示した、もうひとつの回答

二〇一二年七月、小野不由美の『残穢』が新潮社から出た。翌年、山本周五郎賞を受賞している。装丁は祖父江慎と鯉沼恵一、装画は司修。祖父江慎という名前がまた出てくるのが面白い。この小説は、作者と同じ経歴の小説家「私」が主人公だ。

読者から寄せられた「寝室で畳を掃くような音がする」という手紙をきっかけに、マンションの一室の怪異を延々と遡って調べていく。そして遡った先で、まったく別の場所の別の事件と繋がる。穢れが土地を越え、人を越えて伝染していく。この小説が実話怪談の歴史にとって効いてくるのは、モキュメンタリーとして書かれている点だ。平山夢明と福澤徹三が、実名で登場人物として出てくる。

実在の怪談作家が、フィクションの中で怪異の調査に参加する。小野本人がホラー・フェイクドキュメンタリーの熱心な視聴者で、その影響だという。『残穢』がやったのは、実話怪談が構造上できないことの実演だ。実話怪談は、体験者の証言を尊重するために、話を繋げない。第一夜の話と第七夜の話に因果関係があるなんて書かない。

書けば嘘になる。ところが小説なら書ける。だから『残穢』は「もし全部が繋がっていたら」という仮定を全力で展開してみせた。読者が『新耳袋』を九百九十話読んで薄々感じていた「これ全部どこかで繋がってるんじゃないか」という気配を、小説の形で回収した。このジャンルの面白さは、こういう補い合いが起きるところにある。

記録する側は繋げない。小説の側が繋げる。読者は両方読んで、勝手に自分の中で世界地図を作る。

掲示板の空気、SNSの空気、そして批判の中身

インターネットの側の話もしておこう。一九九九年五月に2ちゃんねるが開設され、同年七月にオカルト板が設置される。翌二〇〇〇年八月二日、「洒落にならないほど恐い話を集めてみない?」というスレッドが立った。いわゆる洒落怖の始まりだ。

趣旨は明快で、実話でも創作でも、自分の体験でも人から聞いた話でもいい、とにかく怖い話を集めて究極の怖い話集を作る、というもの。ここから「コトリバコ」「八尺様」「きさらぎ駅」といった、いまも語り継がれる存在が生まれた。面白いのは、掲示板の怪談が『新耳袋』とまるで逆の方向に進化したことだ。ネットの話は長い。描写が細かい。

怪異に過去や設定が付く。地域に古くから伝わっていた、という背景が加えられる。つまり説明する。『新耳袋』が捨てたものを全部拾って肥大させたのが、洒落怖の名作群だった。コピー&ペーストで簡単に転載できるという媒体特性が、長文化を後押ししたという分析もある。

この対比があったからこそ、『新耳袋』の削ぎ落とし方の異常さが逆照射された面がある。掲示板を読み慣れた目で紙の『新耳袋』を開くと、あまりの情報の少なさに戸惑う。そして戸惑ったまま読み終わって、なぜか一週間残る。批判の側もきちんと見ておこう。作品評価としての否定的な声は、大きく三種類ある。

ひとつめは「オチがなくて物足りない」というもの。これは避けられない。ある読者は正直に「さらっと通り過ぎるように話が次々と書かれている。だが、こういう話には当然、落ちが無く、聞くよりも読む方が物足りなさも感じる」と書いている。これはもう好みの問題で、書き手が意図的に選んだ結果だから、批判というより相性の話だ。

実際、電子書店のレビューでも星の分布は真ん中に集まりがちで、絶賛と失望が同居している。ふたつめは、巻ごとの出来のばらつきだ。第八夜あたりについて「いつもより切れ味が鈍っていた」と書く読者もいれば、第九夜で「初期に戻ったようだ」と感じる読者もいる。九百九十話も出せば当然で、これはむしろ長期シリーズの健全な受け止められ方だと思う。みっつめが一番厄介で、真偽をめぐる突っ込みだ。

よく持ち出されるのが、映像化作品の中に、登場人物が事実上全員死んでしまう話がある、という指摘だ。全員死んだのなら、誰がその話を取材者に伝えたのか。情報提供者が存在し得ないじゃないか、と。この指摘、実は少し的が外れている。映像版は原作を独自に解釈し脚色していると明言されていて、ドラマの結末は原作の結末ではない。

だから「映像でこうなっているから原作が嘘だ」とは言えない。とはいえ、この突っ込みが界隈でずっと生き延びているのには理由がある。読者が本当に気にしているのは個別の一話ではなく、「実話怪談は、どこまでが実話なのか」という一点だからだ。そして、この問いに完全に答える方法は存在しない。

「実話怪談」という言葉が抱え込んだ、三十年ぶんの矛盾

最後に、このジャンルの喉に刺さり続けている骨の話をする。『新耳袋』は、体験者に直接取材し、裏づけ調査をしたうえで、体験者のプライバシーを守るために意図的にリライトして書かれている。ここまでは誰も文句を言わない。倫理的にも当然だ。名前を出したら生活が壊れる人がいる。

地名を書いたら他人の家に人が押しかける。だから変える。問題は、変えていい範囲に線が引けないことだ。名前を変えるのはいい。じゃあ職業は。

会社員を教師にしたら、話の意味は変わるか。変わることもある。場所はどうか。都心のマンションを郊外の団地にしたら、怖さの質が変わる。時刻は。

真夜中を夕暮れにしたら別の話になる。証言の順番は。体験者が話した順番と、読者が読んで一番効く順番は、たいてい違う。順番を入れ替えるのは改竄か、編集か。体験者が「なんか、変な感じがしたんですよ」としか言わなかったところを、書き手が「背筋を這い上がるような感覚があった」と書いたら、それはもう書き手の創作だ。

でも「なんか変な感じがした」とだけ書いたら、読者には何も伝わらない。伝えるためには足すしかない。足した瞬間、実話ではなくなる。つまり実話怪談という言葉は、成立の瞬間から自己矛盾している。実話であろうとすれば読めない。

読めるようにすれば実話ではなくなる。三十年、このジャンルはこの矛盾の上でバランスを取り続けてきた。この問題に対する回答は、いくつも試みられている。『新耳袋』の回答は「足す量を極限まで減らす」だった。オチを足さない。

感情を足さない。解釈を足さない。足さないことでリライトの幅を最小化し、証言との距離を保つ。ある読者の言葉を借りれば、「感情や検証討論とかそんな無駄な物を加えずに語ってある」。これが第一の回答だ。

『「超」怖い話』側の回答は逆だった。文章の力で読ませることを最初から選び、書き手の文体を前面に出す。素材が同じでも書き手が違えば別の作品になる、という立場だ。この考え方を制度化したのが超-1のリライト制度で、他人の取材素材を誰でも書き直していいというルールは、「実話怪談の作品性は文章にある」という宣言に等しい。『幽』の回答は、問いをそのまま特集にすることだった。

「実話と創作のあいだに」「プロに学ぶ実話取材の極意」「リアルか、フェイクか。」。答えを出さずに、問い続けることを雑誌の芯にした。これはこれで、極めて誠実な態度だと思う。そして小野不由美の回答は「小説にする」だった。

実話怪談ができないこと、つまり話と話を繋ぐことを、小説の中でやってみせた。どれも正解で、どれも完全ではない。だからこの議論は終わらない。終わらないのが健全だとも思う。もし「実話怪談とはこういうものだ」という定義が確定していたら、このジャンルはとっくに死んでいたはずだ。

定義できないから、書き手が毎回自分の作法を発明し直さないといけない。だから面白い本が出続ける。最後に、話を一番最初に戻したい。根岸鎮衛は、判断を保留したまま「こう聞いた」と書き留めた。木原と中山がやったのも、突き詰めればそれだけだ。

信じるとも信じないとも言わない。ただ、聞いた話を、聞いたままの形にできるだけ近づけて置いておく。判断は読む側がやってくれ。この態度は、二百年以上前の江戸の役人が発明したものだった。それを一九九〇年に掘り起こして磨き直した二人がいて、そのおかげでいま、書店の棚に「実話怪談」という区画がある。

九十九話目まで読み終えたあなたが、百話目だ。これは冗談じゃなくて、たぶんジャンルの構造そのものの話だ。ここからは、上で書ききれなかった話と、いま振り返ってはじめて見えてくる部分を、もう少し踏み込んで書いておく。まず、あらためて数字を確認しておきたい。扶桑社版が一九九〇年で百話。

メディアファクトリー版が一九九八年の第一夜から二〇〇五年の第十夜まで、各巻九十九話で全十巻だ。合計九百九十話。角川文庫版が二〇〇二年から二〇〇八年。この数字の中に、実は不気味な引き算が埋め込まれている。十巻ぶんで百話ずつ収録していたら千話になっていたはずが、九百九十話。

つまりシリーズ全体で、ちょうど十話ぶん足りない。第一夜だけが一話足りないのではなく、十回にわたって毎回一話ずつ削られている。空席が十個ある。この空席をどう解釈するかは読者次第で、たぶん著者も答えを言うつもりはない。次に、時代との噛み合いの話。

『新耳袋』のメディアファクトリー版第一夜が出た一九九八年は、映画版『リング』が公開された年だ。翌年には『リング2』と『死国』が出て、二〇〇〇年には『回路』、二〇〇二年には『呪怨』の劇場版に至る。この時期のJホラーが共有していたのは、まさに「説明しない」という方法だった。呪いの理屈を説明しない。幽霊の動機を説明しない。

ただ映す。『新耳袋』が八年前に文章でやっていたことに、映像がようやく追いついた形になる。逆に言えば、扶桑社版が売れなかったのは早すぎたからだ。読者の側に、説明されないことを恐怖として受け取る訓練ができていなかった。一九九八年には、それができていた。

同じ本が、八年で意味を変えたわけだ。作品の評価が作品の中身ではなく時代の受容能力で決まる、というのは怖い話だと思う。三つ目に、映像化の副産物について。BS-iの『怪談新耳袋』が果たした人材面での役割は、もっと評価されていい。一話五分という枠は、監督にとっては地獄のような制約だ。

人物紹介も伏線も張れない。使えるのは、状況を一発で理解させる画と、間の取り方と、切るタイミングだけ。ここで腕を磨いた面々が、その後の日本のホラーを担っていく。清水崇、鶴田法男、高橋洋、三宅隆太、豊島圭介、井口昇、佐々木浩久、村上賢司。彼らが同じフォーマットで競作した記録として見ると、あのシリーズは日本ホラー映像の共同実験場だった。

しかも五シリーズで九十九本作っている。原作と同じ数を映像で並べたわけだ。ここでも九十九だ。数え方の律儀さがすごい。四つ目、装丁の話をもう少しだけ。

角川文庫版の『新耳袋』も、怪談専門誌『幽』も、小野不由美の『残穢』の単行本も、どれも祖父江慎が関わっている。同じデザイナーが、ジャンルの主要な結節点をすべて手がけている。これは偶然ではなく、平成の怪談文芸に統一されたビジュアルの言語があったということだ。派手なホラー的意匠ではなく、書物としての佇まいで不穏さを出す。

この方向づけがあったから、実話怪談は「際物の本」から「本棚に置いておける本」になれた。棚に置ける、というのは商業的にはとてつもなく大きい。読み終わって捨てられる本と、置いておかれる本では、寿命が違う。五つ目に、語り手の時代について。二〇一〇年代以降、実話怪談の重心は明らかに動画と配信へ移った。

怪談最恐戦がその象徴で、書かれた怪談ではなく語られる怪談を評価する制度が、竹書房という同じ版元から出てきた。ここで面白いのは、語りの世界では『新耳袋』的な作法がむしろ通用しにくいことだ。五分で客を掴まないといけない語りの現場では、間と抑揚と表情という「足す技術」が勝負になる。文章で足さないことを選んだジャンルが、語りの場では足すことを競っている。矛盾しているようで、実は同じことをやっている。

文章の書き手が足さないのは、読者が自分で足すからだ。語り手が足すのは、その場で客の頭の中に像を立ち上げないといけないからである。どちらも狙いは「聞き手の側で怪異を起こす」ことで、媒体が違うから手段が反転しているだけだ。六つ目、批判にきちんと向き合っておきたい。実話怪談に対する最も鋭い批判は、「検証不可能なものを事実として売っている」というものだ。

これは真っ当な指摘で、逃げるべきではない。ただ、ジャンルの側にも言い分はある。実話怪談が主張しているのは「怪異が実在する」ではなく「こう証言した人が実在する」だ。この二つは全然違う。前者は超常現象の存在証明で、証明できるわけがない。

後者は取材の記録で、これは成立する。『新耳袋』の書き方が徹底して「誰々はこう言った」という形式に寄っているのは、この線を守るためだと考えると筋が通る。解釈を書かないのは、書いた瞬間に前者に踏み込んでしまうからだ。とはいえ、読者の大半はそんな区別をしていない。「実話」と書いてあれば実際にあったと読む。

ここに書き手と読者の非対称がある。そして商業出版である以上、その誤読は売上に貢献してしまう。この構造的な後ろめたさこそが、三十年ずっと界隈で議論が絶えない本当の理由だと思う。技術論に見えて、実は倫理論なのだ。七つ目に、東西の横綱がその後どうなったかを書いておく。

『「超」怖い話』は編著者を代替わりさせることで生き延びた。個人の作家性を捨て、シリーズを器として存続させる戦略だ。結果、三十年以上続いている。一方の『新耳袋』は個人の名義を守り、十巻で完結させた。器を残さず、作品を閉じた。

どちらが正しいという話ではないが、この二つの選択の違いが、いまの二つの遺産の形を決めている。竹書房の怪談文庫という巨大なプラットフォームがあるのは前者の帰結で、『新耳袋』という名前が汚れずに残っているのは後者の帰結だ。二〇二四年に『「超」怖い話×中山市朗』という共著が出たのは、この二つの戦略が三十年後に握手したということで、業界史的にはかなり大きな出来事だったと思う。

八つ目、いま『新耳袋』を初めて読む人に向けて。順番はどこからでもいい。第一夜から読むのが素直だが、第四夜の「山の牧場」だけ先に読んでしまうのも悪くない。ただし、読む前に検索しないほうがいい。これは本当に。

あの話は情報の欠落そのものが構造になっていて、答え合わせをした瞬間に別物になる。読み終わってから調べるぶんには、今度は「調べても埋まらない部分」の存在が見えてきて、それはそれで面白い。そして、一気読みはしないほうがいい。一日十話くらいで止めるのがちょうどいい。理由は、束で読むと個々の話が溶けてしまうからだ。

この本の話は、単体では弱く、記憶の中で発酵して強くなる。三日後の夜に、風呂場で急に思い出す。そのために書かれている。最後に、このジャンルの三十年をひとことでまとめるなら、こうなる。日本の怪談は、怖がらせることをやめた瞬間にいちばん怖くなった。

木原浩勝と中山市朗がやったのは、たったそれだけの逆張りだ。でも、その逆張りには「体験者を守る」という倫理と、「読者を信用する」という賭けと、「判断を保留する」という江戸から続く記録者の作法が、全部束ねて入っていた。だから真似が難しい。文体だけ真似ても、態度が伴わないとすぐ嘘になる。いま書店の実話怪談の棚には、毎年おそろしい数の新刊が並ぶ。

その中には素晴らしい本もあれば、力み過ぎてギャグになっているものもある。それを見分けるいちばん簡単な方法を、最後に書いておく。書き手が読者を怖がらせようとしているかどうかだ。怖がらせようとしている本は、たいてい怖くない。怖がらせようとしていない本が、なぜか三日後に効いてくる。

三十年前に二人の男が発見したのは、たぶんその一点だけだった。そして、それだけで一つのジャンルが立ち上がってしまった。

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