誰もいないキャンプ場で、赤ん坊が泣いた
四月にしては肌寒い、霧雨の晩だった。
十八歳の青年が、愛犬のシェパードを連れて石川県の山間にあるキャンプ場へやってきた。犬の名はルッツ。悪天候のせいで場内には彼のテントしかなく、管理棟の灯りも早々に落ちていた。
夜十時を過ぎたころ。広場の方角から、赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
人里離れた山の中だ。そんなものが聞こえるはずがない。頭では分かっていながら、猫か何かだろうと外に出た。その瞬間、普段は誰にでも尻尾を振るルッツが、全身の毛を逆立てて激しく吠え始めた。
懐中電灯を向けた先の草むらに、それは蹲っていた。
目がないのに、見られている
大きさは寝袋くらい。ナメクジか芋虫を思わせる、細長い胴体をしていた。
表面はヤマアラシのような硬い針毛にびっしり覆われている。頭からは三本の触角が伸び、その先端には目玉のようなものが付いていた。中央には丸い穴。そこから二本、髭のような突起が生えている。
目らしい目はどこにもない。それなのに、見られているという感覚だけが、はっきりとあった。
金縛りにあったように立ち尽くす青年を、ルッツが靴を咥えて引き戻した。二人はテントへ転がり込む。
赤ん坊の声はやがて止んだ。だが今度は、テントの外周を何かが這いずる音が続いた。布越しに黒い影が盛り上がる。ルッツが弾かれたように飛びかかり、外では魚が跳ねるような音を立てて、犬と怪物がもつれ合った。
「イトッシャノウ」と、それは鳴いた
青年は無我夢中で犬を引き剥がし、真っ暗な林道を管理棟へ走った。
途中で転ぶ。追いつかれかける。とっさにガス銃を怪物の顔面へ向けて撃った。
すると、それは聞き慣れない調子の唸り声で鳴いた。
「イトッシャノウ」
憐れんでいるようにも、何かの名を呼んでいるようにも聞こえる声だった。それを最後に、青年はどうにか管理棟へ逃げ込む。
叩き起こされた管理人の話が、また不穏だった。この山には古くから土俗の神が棲むと言い伝えられている。姿はナメクジに似ていて、鹿を食うこともあると聞いたことがある。でも、人を追いかけたなんて話は今まで聞いたことがない、と。
青年が先に何かの逆鱗に触れたのか。それとも犬が怪物を傷つけたせいなのか。誰にも分からなかった。
深夜二時、赤ん坊の声が今度は管理棟の扉の外まで来た。扉を叩き、呼びかけるように鳴く。管理人が猟銃を空へ向けて撃つと、外には何もいなかった。ただ、針のような太い毛が数本、地面に散らばっていた。
夜が明けてテントを見に行くと、上から押し潰されたように骨組みが折れ曲がっていた。荷物は無残に壊されている。呼び集められた猟友会の古老たちも、これは「山のものだろう」としか言わなかったという。
この体験を書き込んだ投稿者に対して、掲示板の読者の一人が名前をつけた。四肢が見当たらない異形だから「四肢除け」。読みを変えて「シシノケ」。
投稿者は後日、無事だったルッツの写真を上げ、犬の怪我を気遣う言葉を添えて筆を置いた。後日談を名乗る別の投稿も流通したが、本人による確認は取れていない。話は不自然に途切れたままだ。
2010年4月12日、掲示板で実況された
初出ははっきりしている。2010年4月12日、匿名掲示板のオカルト板にある長期連載型スレッド「死ぬ程洒落にならない怖い話を集めてみない?」――いわゆる「洒落怖」系のスレッドに、実況形式で投稿されたものだ。
投稿者のハンドル名や具体的なレス番号までは、まとめサイトの転載を経た今となっては追いにくい。この辺りは正直「詳細不明」と言うしかない。ただ、複数のまとめブログが同じ投稿日を示しているので、2010年4月という時期についてはそれなりに裏付けが取れている。
この話が長編怪談として特に語り継がれてきた理由は、たぶん演出にある。読者からの質問に投稿者が答え、即席で描いたという怪物のスケッチを上げ、愛犬ルッツの写真まで提示する。この参加型のやり取りが、話がいま実際に進行しているかのような臨場感を生んだ。
舞台になったキャンプ場の具体的な場所は、本文中では明かされていない。石川県の山中、という以上の情報は確認できていない。
北海道にも、そっくりなやつがいる
派生の中でいちばん面白いのが、北海道を舞台にした類似の目撃談に出てくる「イッポカシ」という怪異だ。
姿形の描写がシシノケと酷似しているとして、洒落怖まとめの読者の間では早くから「同じものではないか」という指摘が出ていた。「怪談ストーリーズ」などのまとめサイトでは「イッポカシ―北海道の怪異」という独立した記事として扱われつつ、シシノケとの類似性が繰り返し言及されている。
さらに時期の近い群馬県での目撃談も、派生として語られることがある。複数の地域で同系統の怪異が報告されている、という体裁が、この怪談に妙な広がりと信憑性の手触りを与えているわけだ。
海外のホラー・怪物愛好家の間では、別の指摘もある。シシノケの外見が、H・P・ラヴクラフトのクトゥルフ神話に出てくる「グラーキ」――棘の生えたナメクジのような胴体を持ち、触手の先に目玉が付いた存在――と酷似している、というものだ。和製クリーチャーとクトゥルフ神話の怪物を並べる比較考察が、同人・考察界隈で行われている。
あの「イトッシャノウ」という鳴き声にも、いくつか説がある。金沢弁で「かわいそうに」を意味する言葉ではないかという方言由来説。単なる鳴き声だとする説。何かの名を呼んでいるとする説。どれも確定していない。
後日談を名乗る投稿にしても、本人確認が取れないまま複数のバージョンが流通している。原話と後日談は分けて読んだほうがいい。
「赤ん坊の声が聞こえても外を見るな」
この手の怪談には、後から類話がくっついてくる。
ひとつ目。まとめサイト「怖い話投稿サイト」の読者投稿欄に、キャンプ場でシシノケらしきものを目撃したという書き込みがある。夜中に犬が異様に吠えるので外を見たら、光沢のある太い針の塊のようなものが茂みの奥に蹲っていた。目が合った気配がしたので、即座にテントへ戻った――そう書かれている。
ふたつ目。ヤフー知恵袋には「石川県で犬と一緒にシシノケが目撃されたというキャンプ場を知りたい」という質問が投稿されていた。回答者たちの反応は冷静だ。特定の場所は明かされていない、訪問や特定は危険だし、地元や施設への風評被害にもなるからやめたほうがいい、と。
みっつ目。怪談朗読チャンネルのコメント欄にあった投稿が、個人的にはいちばん薄気味悪い。田舎のキャンプ場でバイトをしていたとき、夜勤の同僚から「赤ん坊の声が聞こえても絶対に外を見るな」という謎の注意事項を引き継がれた、というものだ。シシノケ譚との類似を指摘するコメントが山ほど付いた。
もっとも、どれも一次資料としての裏付けはない。都市伝説が広まる過程で生まれた類話や、便乗投稿である可能性が高い。
山の神か、害獣か、それともただの虫か
「洒落怖」まとめを扱う複数のサイトが、シシノケを殿堂入り・名作扱いの怪談として載せている。人気の度合いは、まとめブログが「その後」と題した後日談ページまで別に用意しているところに表れている。
ピクシブ百科事典の項目では、怪物の外見的特徴とグラーキとの類似性、北海道のイッポカシとの関係が詳しく整理されている。TOCANAなどのオカルト系ウェブメディアも「人間を恨む山の怪物」としてシシノケを紹介していて、山に棲む神が奇形の子を封じたものだという由来譚を付け加えている例まである。
YouTubeの怪談朗読チャンネルには「シシノケにまつわる話」と題した詰め合わせ動画があり、原話に加えて視聴者投稿の類話も紹介されている。コメント欄での正体談義は賑やかだ。山の神説、害獣説、そして身も蓋もない「ただの巨大な虫の見間違い説」。
ゲーム実況・怪談考察系のYouTuberの間では、シシノケの姿をイラスト化して紹介する動画も多い。二次創作イラストがpixivに投稿される例も見られる。
妖怪とクトゥルフが、山の中で混ざった
舞台は石川県の山中のキャンプ場とされているが、施設名は伏せられたままだ。特定を試みる行為については、まとめサイトでも知恵袋でも繰り返し「風評被害になるから控えるべき」と注意喚起されている。
この怪物の造形で面白いのは、二つの文化が混ざっている点だ。
ひとつは、日本の伝統的な妖怪や山の神への信仰。正体不明の異形を「土俗の神」として畏れる、あの民間信仰の型だ。もうひとつは、海外ホラー文化であるクトゥルフ神話のクリーチャー造形。この二つが山の中で溶け合っている。2000年代後半から2010年代のインターネット怪談に特有の、ジャンルの越境がよく表れた一例だ。
そして北海道のイッポカシ、群馬での目撃談。複数の地域に似た怪異がいると語られることで、単発の創作ではなく全国に分布する怪異であるかのような印象ができあがっていく。ネットロアが地域差を伴って自己増殖していく、典型的な過程がここにある。
民俗学の研究対象として見ても、なかなか面白い標本だ。もっとも、夜のキャンプ場で赤ん坊の声を聞いたときに、そんな冷静な分析ができるかは別の話だが。
