高島平団地には、夜の怪談と昼の暮らしが重なっている。落ちてくる人影や、下から呼びかける影の噂。その同じ場所で、子どもは育ち、買い物が続き、花壇の世話が行われてきた。怖い名前だけを知って訪ねると、この町の長い時間を見落とす。
東京の板橋区に広がる高層棟を遠くから眺めると、一つ一つの窓の奥には別々の生活があるのに、団地全体が一枚の壁にも見える。その大きさには、目を奪われる。外から見える建物と、その中にある小さな暮らしのずれが気になる。
心霊スポットの紹介では、過去に人が亡くなった場所として語られることが多かった。悲しい出来事があったことと、幽霊がいるという話は、同じではない。けれど、二つが重なると町の印象は強くなる。高島平では、その印象が建物よりも長く残ってきた。
田んぼに住まいと学校と商店が現れてから、若い家族が年齢を重ねるまでをたどると、団地の怖さも違って見えてくる。町と一緒に育った噂。怪談も、その間ずっと同じ姿で止まっていたわけではなかった。
高島という名前の、意外に古い記憶
高島平の「高島」は団地を造った会社や地主の名かと思いたくなるが、由来をたどると、別の人物に行き着く。板橋区立郷土資料館が紹介する、幕末の砲術家、高島秋帆。住宅の町の名前に、江戸時代の軍事技術の記憶が息づく。
天保12年、1841年に秋帆は幕府の命令を受け、弟子たちと現在の高島平一帯に重なる徳丸原で西洋式の砲術調練を披露した。舞台は、広い土地だった。新しい技術を見せたあの日の出来事が、後の地名につながっていく。
後の軍制改革へつながる節目として、この出来事は記憶され、秋帆の名を顕彰する碑も建てられた。名は、徳丸原遺跡碑。郷土資料館の説明では団地建設に伴って移されており、町の姿が変わるときには碑の居場所も動いたのだ。
碑の移転先は、徳丸ヶ原公園。地名だけが新しくなって昔の土地がきれいに消えたのではなく、公園の名や記念碑には、団地が建つより前の記憶が残った。今の風景にも、そんな小さな継ぎ目がある。
建設前には、田んぼが広がっていた。区の郷土資料館の農地の写真と、高層住宅がずらりと並ぶ写真を見比べると、同じ土地の使われ方がまるで違っている。空いていた場所へ突然ビルを置いた、とだけは言い切れない来歴だ。
開発の動きは1960年代に具体化し、郷土資料館によれば、日本住宅公団を主軸にして新しい町を造る計画が進んだ。広い地域の開発面積、333ヘクタール。この数字を団地の敷地だけの広さとして読むと、町と住宅の境目がずれてしまう。
地名を決める際には、秋帆の姓と平らな土地の「平」が結びつき、古い出来事を新しい住宅都市へ持ち込む名前が生まれた。まっさらな記号とは、少し違う。学校の校歌などにも、その歴史の名残があるという。
田んぼが住宅地に変わっても名前や碑が持ち越された高島平は、長く同じ姿で守られた村とは違う仕方で記憶を残した。変わりながら、受け継ぐ町。怪談を読む前に、この成り立ちも頭の片隅へ置いて見てほしい。
名前の五十年と、暮らしの五十年
高島平の歴史には、二つの五十年がある。町の命名から数える時間と、団地の入居開始から数える時間は出発点が違い、それぞれが別の年に五十周年の節目を迎えた。似た数字だが、祝う出来事は別なのだ。
URが紹介した2019年3月の記念行事は、団地の完成を祝うものではなく、高島平という地名の五十歳を祝う催しだった。団地ツアーに、昔の写真展。町の歩みを振り返る内容だが、その五十周年を団地の完成年へ読み替えることはできない。
団地への入居は、1972年に始まった。URの暮らしの紹介でも挙げられる年で、新しい町の名前が決まってから住宅が造られ、そこへ人が住み始めるまでには時間がある。同じ日に起きた、一つの出来事ではなかった。
建設中の住棟に人が入り、部屋に明かりがともって行き来が生まれると、団地の景色にも暮らしの細部が加わった。長い年月は、緑にも残る。現在のURの紹介に登場する育った並木は、建物の古さとは別の形で、入居からの時間を伝えていた。
巨大さにも、数え方がある。東京都の多文化共生情報で紹介される一万戸を超える規模は賃貸と分譲を合わせたもので、URの物件ページに載る管理賃貸住宅の戸数とは範囲が違う。同じ高島平団地の名でも、数字が指す内側は同じではなかった。
細かな数字合わせに見えて、これは暮らしの話でもある。どの住棟や世帯も同じ条件で暮らすと決めれば、賃貸と分譲で異なる管理の仕組みや、住み方の違いが見えなくなる。大きな団地だからこそ、内側を分けて考えたい。
「東洋一のマンモス団地」。いかにも昭和らしい呼び名で、当時この住宅地に託された期待や、大きさを誇る町の勢いを伝えている。現在の世界の全団地を比べた順位表として読むより、その言葉が生まれた時代を思い浮かべる方が似合う。
夢の住宅地だったという話と、心霊スポットという話。ずいぶん離れた二つの呼び名だが、どちらも外から大きな名前を付けており、中で暮らす人の一日は、その看板よりずっと細かい。一つの窓に、一つずつ別の暮らしがあった。
家と一緒に、町が必要になった
商店、学校、保育園、病院、公園。高島平団地の暮らしは住宅だけで成り立ったのではなく、URの物件紹介にも並ぶ買い物の場所や並木が、日々の生活を支えてきた。戸数だけでは測れない、生活の大きさがある。
都営三田線で都心へつながり、家から仕事へ出かけて夕方に戻り、途中で買い物をする往復が、団地の毎日を動かしてきた。住まいの外へ続く生活。住棟だけを写真に切り取れば、その行き帰りは写らなくなる。
入居開始の頃、近代的な住宅に期待した若い家族が数多く集まると、町では子育てに必要な場所も求められるようになった。URの紹介に出る、急な保育需要。新しい建物ができれば、必要な施設まで自然にそろうわけではなかった。
こじか保育園の来歴が、そのことを伝える。保育園を必要とした親たちが増設を求めて運動し、住民自身の力が設立へつながって、1978年に園が誕生したという。町を受け取った人々が、次は造る側になった。
完成した理想郷に家族が入った、という順番にはならないところが、この話の面白さだ。住んでから気付く不足もある。必要な場所を求めて人が集まり、働きかけるところまで含めて、町は造られるって話だ。
団地の子どもたちに用意された場所は、ほかにもある。徳丸ヶ原公園のこども動物園高島平分園について、板橋区は、鳥や魚以外を飼えない子どもたちのため1979年に設立したと紹介する。動物とふれあう場にも、住宅の決まりと暮らしの工夫がつながっていた。
部屋の中でできないことを、町で補う。動物園の来歴からは、住戸の広さや設備を整えるだけでは足りず、外側の施設も住まいの役目を引き受けていたことが分かる。住宅から公園へ続く、子育ての場所。
公園や広場は、建物の隙間に残る余白にも見えるが、そこで遊びや会話が始まれば、暮らしの中に欠かせない場所になる。保育園にも動物園にも、育つ人がいた。高島平の初期を死の噂だけで語ると、その時間が大きく欠けてしまう。
悲しい出来事が、町の呼び名になった
高島平を紹介する心霊記事に自死の話が繰り返し登場するのは、この町が実際に、その問題とともに報じられた時期を持つからだ。海外にも、報道は届いた。住宅都市への期待とは別の不名誉な名前が付き、それと闘う団地を扱った記事が残っている。
米国のUPI通信の1980年10月の記事は、自死の名所というイメージと闘う団地を見出しに取り上げている。同年のシンガポールの新聞にも、高島平の記事。日本語の怪談サイトだけで、後から作られた評判ではなかった。
過去の件数を現在へ持ち越すときは、注意が要る。開設以来の合計と一年間の人数、団地の住民と別の場所から訪れた人では、それぞれ数えている範囲が違い、数字の意味も変わる。見出しに数だけが残ると、その違いが抜け落ちやすい。
英語圏の掲示板には、一年間の死者数を大きく掲げる投稿もあった。その短い見出しは、巨大団地という説明とよく結びつく。ただ、見出しだけでは集計の中身まで分からない。数字の出所が見えないまま、今の住民の姿へ重ねたくはない。
当時を振り返る訪問記には、報道で地名を知った人が外から訪れたという説明があり、見出しの影響がうかがえる。それでも、人生は一人ずつ違った。亡くなった全員の理由を、一つの原因で説明する話には無理がある。
過去の悲劇を知ることと、その場所を死のための舞台にすることも違う。ニュースでは短く伝わる出来事も、町の暮らしとは切り離せない。それでも、一人一人の気持ちを外から代弁することはできない。団地の名前だけで、すべてを語った気にならないようにしたい。
転落防止の設備や見守りも、訪問記には登場する。柵のある風景を霊の強さの証拠として眺めてしまうと、人を守るために住宅の側で手を打ってきた、その仕事が見えなくなる。悲劇の後に、暮らしを支えようとした痕跡だ。
悲しい出来事が起きた後も、子どもは学校へ通い、商店は開き、家の中では食事が用意されていた。別々に流れる、生活の時間。事件の見出しを町のすべてにしてしまえば、団地の厚みは一枚に押しつぶされてしまう。
下にいない人影と、下から呼ぶ人影
高島平の怪談には、上と下の距離を使い、高い建物ならではの怖さを作るものがある。2025年の心霊紹介サイトにも、その型が載った。ここからは住民の実名を追う話から離れ、団地に結びついた二つの語りを読んでみよう。
一つは、洗濯物を干していた女性の視界に、上から大きなものが落ちてきて、驚いて下を見ると何も見当たらなかったという話だ。落ちたはずなのに、そこにない。地上の子どもたちは、上の方を見つめているという。
落下を見た瞬間だけが残り、音や騒ぎの先にあるはずの結果は消えているのに、子どもたちの視線は地面へ向かわない。見上げているのだ。誰が何を確かめているのかが食い違うため、怖さは一度で終わらなくなった。
何が落ちたのかを細かく描かないからこそ、聞く側は頭の中でその姿を補い、次に同じ建物の窓を見たときにも思い出してしまう。短い語りの、長い余韻。普段の風景へ入り込む仕掛けは、物が消えた後にも働いている。
もう一つは、高い場所から地上を見ると、こちらを手招きする人影がいて、その数が増え、建物の周りへ集まってくるという話だ。下で手招きするのは、人のはずだった。顔の部分は、のっぺりとして何もなかったという。
遠くから呼びかける人に見えたものが、数を増してこちらを囲い込み、最後には顔を失って、知り合いの姿からも離れてしまう。日常にあるはずの高低差。それが、逃げ場のない距離へと変わった。
二つの話は、視線の動きが逆になっている。上から落ちてくるものを見て、下を確かめる話。下から呼ぶものを見て、その顔を確かめる話。どちらも、確認しようとした先で日常のつながりが外れる。
高い建物ならほかの場所へも移せそうな短い筋書きだが、高島平という名前が付くと、過去の報道を知る聞き手の記憶が背景になる。場所の評判も、語りの一部なわけだ。怪談は目の前の建物だけでなく、先に聞いていた話も使っている。
大きな団地では、気配も名前をなくす
外を行き来する影に加え、高島平の怪談には室内の気配や勝手に動く建具など、住まいの内側で起きるものも紹介されている。怖さが、部屋にまで近づく。高所を使う話とは、距離の縮まり方が違っていた。
窓の外の影なら自分の部屋との間に境目があるが、室内で起きる話では、休むための場所がすでに落ち着かない場所へ変わっている。隔てる距離が、もうない。団地という大きな建物が、最後には一つの部屋まで小さくなる。
ただ、団地の音には、ほかの人の生活が混じっている。誰かが扉を閉め、別の誰かが廊下を通る。住まいが近くに集まれば、他人の存在を感じる機会もある。聞こえた音の主を、いつも顔と名前で知っているわけではない。
この見知らぬ近さは、人が大勢いるのに誰がいるかは分からず、同じ形の窓だけが続く団地の景色にもよく似合う。無人にも、誰かが隠れているようにも見える。怪談では、その二つの怖さが同じ建物に重なった。
音や影の正体はその場の状況で変わるし、似た形の住棟が並んでいるだけで、同じ体験が生まれるとも思わない。建築だけで決めつけたくはない。正直、私が面白いと感じるのは、建物の特徴を借りて話が組み立つところだ。
知らない部屋の前を通って帰る廊下、人が姿を消す階段やエレベーター、奥の暮らしまでは見せない明かりのともった窓。日常の中に、境目が多い。集合住宅の怪談は、その見えるものと見えないものの間を行き来する。
遠い窓の人影なら近づかずに済むが、自分の部屋の気配だったら、もう逃げるための距離は残っていない。想像してみてほしい。同じ幽霊の噂でも、語る場所を動かすだけで、怖さの手触りまで変わってくる。
高島平という一つの名前の下に集まった話を並べると、すべてが一つの事件の再現というより、違う形の想像が寄り集まっているのが見えてくる。名前の強い場所へ、話が集まる。住宅にまつわる怪談には、そんな広がり方もあった。
一冊の怪談集にも、地名は残った
竹書房が2020年に紹介した加藤一の『「忌」怖い話小祥忌』には、高島平を舞台にした「団地」という作品の案内がある。ネットより長い形で残る、町の怪談。地名は、一冊の本を通して別の読者へも届いていた。
出版社の案内は、清掃工場の脇にある団地で死因の異なる死が続き、そこにある因縁が絡んでくるという内容になっている。目撃談とは違う骨組みだ。一瞬の人影よりも、暮らしへ続いていく連鎖が怖さを作る。
この作品案内を読むと、地名の大きさにも気付く。「高島平」と書かれていても、どの住宅のどの場所まで指すかは同じとは限らない。清掃工場の脇という位置の説明と、巨大団地全体の名前は、雑に重ねられない。地名を手掛かりに読むときほど、話ごとの舞台を分けておきたい。
山奥の祠や峠なら普段の生活から少し離れた場所を思うが、団地は食事をして眠り、翌朝また外へ出ていくための場所だ。題名の「団地」が、そのまま主役になる。日常から始まる怪談だからこそ、読者も自分の住まいを重ねやすい。
ネットの短い噂と、一冊の本の中の作品。形が違えば、読み手の待つものも変わる。前者は場所の名前を覚えさせ、後者は人物や時間を追わせる。団地の怪談を、一つの筋だけで代表させるのは難しい。
町の名前を見出しに残したまま語り方が更新されれば、建物が年を取り、住む人が変わるのに合わせて、受け止め方も変わっていく。言葉まで、同じ姿ではとどまらない。高島平の怪談は、その変化を抱えたまま続いてきた。
海外から届く二つのまなざし
高島平を語る言葉は日本語の外にもあり、かつて海外へ報じられた団地の名前は、後には掲示板や写真作品にも現れた。選ばれる話には、違いもある。同じ住棟でも、何に目を向けるかで別の場所のように見えてくる。
英語の移住相談の掲示板で、入居を考える人が過去の評判を尋ねると、古びた印象を語る返答と、静かな暮らしを好む返答が並んだ。通勤や買い物の都合も、その話に混ざる。怪談だけでは終わらない、住まいの相談だった。
ゴーストタウンという言葉を幽霊の町と直訳すると、そこで話題になっていた、にぎわいの乏しさとは違う意味に近づいてしまう。短い英語から生まれる、別の印象。一つの語を移すだけで、町の風景がまた暗くなることもある。
日本の団地を、海外の公営住宅に重ねる書き込みもあった。建物の形が、投稿者の育った場所を思い出させるのだ。その見方には、本人の記憶や好みが入っている。日本の住宅の管理や制度まで、同じだと説明しているわけではない。
写真家コディ・エリンガムの団地を巡る作品では、高島平も取り上げられ、英語の文化誌ネオチャがその制作を紹介している。写真から入る、もう一つの読み口。戦後の近代的な暮らしへの夢が残る場所として、団地を見ていた。
記事はコンクリートの古さだけに目を向けず、内側の遊び場や共同の施設を見いだし、残る暮らしにも関心を寄せている。失われるものを、記録したい気持ちもある。暗い印象の写真にも、その二つを読む余地があった。
写真が選ぶのは、時間と範囲。人が小さく写れば建物の巨大さが目に入り、遊び場や花壇へ近づけば別の細かさが現れるので、一枚だけでも受け取る印象は変わる。町全体の説明に変えてしまうとき、その選び方は消えやすい。
海外の視線も、初めから一つにそろってはいなかった。怖い評判を知る人も、住む場所として考える人もいる。建物の形に引かれ、暮らしの跡を撮る人もいた。高島平の名前は海を渡ったが、意味まで一つになったわけではない。
日中の訪問記は、噂の続きを書き替える
日中に高島平を訪ねたにっぽん旅行記の書き手は、行く前に抱いていた暗い印象とは違う風景が見えたと振り返っている。定型から外れる、訪問記の瞬間。何かが現れるのを待つ心霊紹介とは、別の時間が流れ始める。
記事に登場する公園の親子や、買い物の途中で話す人々の姿は、書き手が外から持ち込んだ暗い印象と、うまく重ならなかった。そこにあるのは、住民の休日。噂の中の舞台とは違う使われ方が、目の前にあった。
別の訪問ブログ「帝都を歩く」の書き手は、住棟のつながり方や独特の外観に注目し、不吉さよりも建物の面白さを感じたと記した。巨大さから受け取った、別の感想。同じ高層棟も、目を向けるところによって印象は変わった。
二つの訪問記から、町が安全かどうかを一括して決めるつもりはない。それぞれ、訪ねた時に見えた範囲の記録だ。ただ、怖い評判しかなかった場所へ別の言葉を足す力はある。実際の暮らしが、一つの呼び名では収まらないことを伝えてくれる。
心霊巡りで何も起きなかった話は短く扱われがちだが、商店が開き、住民が行き来し、子どもが遊ぶ時間にも、見えるものはある。怪異を待つと、通り過ぎてしまうのかもしれない。その普通の景色を残した文章も、町を知るための記録になる。
写真の影を探す目と、建物の継ぎ目を面白がる目。二つは、同じ場所に向いている。どちらの目で見るかによって、文章へ残す細部が変わった。高島平は、見る人の目的まで写し返す場所なのだと思う。
年を重ねた町が、他人から見えなくなる
1972年に若い家族が集まった町でも、長く住み続ければ住民と建物が年を重ね、高齢化や支え合いがまちづくりの課題になってくる。団地が古くなった、という一言。その中には、人が生きてきた時間も入っている。
若い頃には遠くまで行けた買い物も、後には負担になり、段差を越えることや腰を下ろせる場所の大切さも変わる。住み始めた時とは、必要な設備が違う。住宅の寿命と暮らし方の変化は、同じ速さでは動かなかった。
子どもが多い時代には保育園が足りなかった町で、後の再生計画は、閉校した旧高島第七小学校の土地を取り上げるようになった。施設にも、次の役目が求められる。かつて人を育てた場所が、町を造り直す起点になろうとしている。
使われなくなった校舎も、通っていた人には教室や校庭の時間が残り、閉校後には地域活動の場として使われてきた経緯が計画に記されている。外からは、ただの空いた場所にも見える。一つの役目を終えたことと、何もない場所になったことは違う。
外を歩く人が少ない時間に建物が静かだったとしても、その様子だけから暮らしが消えたと決めるのは早い。室内の時間は、外から見えない。団地を見るときにも、空いた校舎と似た読み違いが起こる。
高齢者の多さを町の暗さの説明に使うより、必要な支えや移動のしやすさを考える方が、暮らしやすさの話へつながる。住民の年齢は、怖さの演出ではない。人を背景に変えてしまうと、団地の何を直すかも見えなくなる。
孤立を心配する話と、孤立した人ばかりだと決める話も分けたい。支え合う活動は、その心配があるからこそ始まる。住民の中には、活動を担ってきた人もいる。高齢化という数字だけでは、その働きは表せない。
町が年を取る中でも、昔からのつながりだけが残るのではなく、新しく入る人が増え、顔見知りが減り、別の言葉が聞こえることもある。変化を怖がるだけでは、関係は生まれない。高島平には、違う人が出会うための場所も作られてきた。
花壇のベンチと、日本語教室
URと東京大学の共同研究を紹介する記事に出てくる共同花壇は、花で景色を明るくするだけでなく、人が立ち寄り、顔を合わせる場所を考えたものだった。住棟の間で始まる、つながり。人が外へ出るきっかけを、団地の中へ作ろうとした。
花壇のベンチには道具をしまう工夫もあり、作業のたびに遠くから運ばなくて済むよう、腰を下ろす場所と手入れを始める場所が一つにされていた。派手さのない、具体的な工夫。使い続けるには、こういう工夫が要るのだと思う。
こうした場所では、花を育てる人の姿が見える。作業する理由が分かれば、立ち寄るきっかけにもなる。何者か分からない人がいる、という感覚とは逆向きの働きだ。知らない相手に、小さな役割と顔が付いていく。
散歩やジョギングと見守りをつなぐまちづくりの試みでは、特別な時間を大きく取るより、普段の行動に役目を重ねようとしていた。広い屋外空間を、いつもの行き来に使う。大きな住宅地へ、少しずつ人の目をつなぎ直す考え方だ。
東京都の多文化共生情報サイトが英語でも紹介した高島平ACTは、外国につながる住民と日本の住民が、一緒に暮らす地域を作ろうとする活動だ。言葉の違う人が増えた町。その変化に応える具体的な取り組みが、内側で始まっている。
地域で経験を重ねた高齢の住民が日本語を教える一方、外国につながる住民が外国語やスマートフォンの使い方を教える場もあった。支える側が、入れ替わる。できることを持ち寄って固定した役割から離れるところに、この活動らしい面白さがある。
言葉が通じない不安を相手が分からない不安のまま残さないために、実際に話す時間を設け、暮らしのルールも顔を合わせて伝える。小さくするのは、町の広さより人との距離。話しやすい場を作る工夫が、団地の中で重ねられてきた。
草花を育てる花壇と、言葉をやり取りする教室は別の活動だが、見知らぬ隣人と出会う場所を作る点ではつながっている。気配に、役割と顔が付く。団地の内側では、名前のない誰かを顔のある人へ戻す作業が続いている。
これからも住むための、建て替えの話
板橋区が2024年3月に定めた駅周辺のまちづくりプランは、年を重ねた建物と住民に、新しい世代の暮らしも重ねていこうとする計画だ。昔の形を残すだけでは、先へ進めない。団地の長い時間を、次の住まいへつなごうとしている。
計画では新しい建物を建てるだけで終わらず、今いる人の住まいの安定と生活の継続も掲げられている。目を引いたのは、その配慮だった。大きな団地を更新するには、暮らしを途中で切らない難しさがある。
再生の起点とされた旧高島第七小学校の土地には、住宅や商業、交流の機能を段階的に整え、校庭が担った地域活動の場も引き継ぐ考え方が示された。造り直すのは、建物だけではない。何を残せば町の役目が続くのかも、問われていた。
線路や道路で分かれた場所を歩きやすく結び直すこと、緑を生かした空間や災害への備えも、駅を中心とする計画に盛り込まれた。歩く道から、防災まで。一つの高い建物が完成しただけで、町の再生を数える計画ではなかった。
計画が描くのは、同じ場所の別の未来だ。かつての図面には、若い家族が住む新しい住宅都市があった。今度は、年齢や暮らし方の違う人が住み続ける町を考えている。半世紀を挟んで、必要とされる未来の形が変わった。
昔の写真、現在使われている場所、将来の計画図は、それぞれ違う時点の姿を示し、計画に書かれたものすべてが今の景色になったわけではない。工事にも、整備にも、時間が要る。時点を重ねずに読むと、変化の途中にいる町が見えてくる。
建物が更新されても地名は残り、過去の記事や怪談は読まれ続けるので、町について語る言葉まで一度に新しくなるとは思えない。別の仕事も、残るわけだ。古い評判に新しい暮らしの話を重ねる時間が、その先にも続いていく。
だから、再生の話と怪談を離れた話にしたくはない。どちらも、この場所をどんな町として覚えるかに関わっている。残すものを選び、違う言葉を足す作業がある。団地の次の半世紀にも、その作業は続いていく。
窓の向こうの暮らしを残して読む
落ちる影、手招きする影、部屋の気配はそれぞれ違う仕掛けを持ち、その上へ、過去の報道から覚えられた高島平の名前が重なった。すべてを一つの事件へ結ぶと、窮屈になる。場所と物語は、互いに印象を強めてきたのだと思う。
正直、この団地の話で私が引っかかるのは、死者の数よりも、巨大な建物に怖い呼び名を添えるだけで、生きている人が見えなくなる速さだ。保育園を求めた親も、花壇を手入れする人もいる。その時間を背景へ退かせるほど、町は簡単に出来上がってはいなかった。
名前の由来や昔の田んぼ、今の並木を思い浮かべ、短い噂を読んだ後に暮らしの文章へ戻れば、怪談を楽しみながら町の厚みも残せる。怖さを消す必要はない。同じ場所の見え方が、一つずつ増えていく。
ここは、今も人が住んでいる団地だ。部屋や共用部を、噂の舞台装置として扱うことはできない。暮らしを乱さずに読める資料だけでも、物語は十分に深くなる。窓の奥にある時間まで消してしまわない読み方を、私は選びたい。
