深夜二時、寝る前にちょっとだけのつもりで開いたページが、洞窟探検の日記だった。素人くさいレイアウト。個人サイト特有の、背景がちょっと暗い青のやつ。写真は本文に埋め込まれてなくて、いちいちリンクを踏まないと出てこない。読み進めると、穴を掘る話がずっと続く。
ドリルの話。
バッテリーの話もある。膝当ての話。退屈なくらい細かい。で、その細かさに慣れた頃、風の音がする。日記は二〇〇一年五月十九日で止まっており、次の更新はない。
「次へ」のボタンはあるのに、押しても何も起きない。これが『テッド・ザ・ケイヴァー』だ。英語圏のネット怪談――のちに「クリーピーパスタ」と呼ばれることになるジャンルの、最初期の代表作。いや、正確に言うと「クリーピーパスタ」という言葉が生まれる五年も前の作品で、書かれた当時この話に名前をつけるジャンルは存在しなかった。この記事は、その空白の時代の話をする。
誰も名前を持っていなかった頃の、ネット怪談の前史と初期史。ユーズネットの怪談ニュースグループから始めて、チェーンメールで回ってきた「転送しないと死ぬ」話を見る。「コピペ」に「不気味」がくっついて新しい単語が生まれた二〇〇六年の夏。匿名掲示板が怪談工場になった数年間、そして二〇〇九年に細長い男が現れて何もかもが変わるまで。
個別の有名作の解説ではなく、ジャンルそのものがどうやって生まれ、どうやって形になったかの話だ。
- そもそも「パスタ」って何なんだ、という話から始めよう
- 電子の焚き火――九十年代、話はメールで回っていた
- 二〇〇一年三月二十三日、素人くさい個人サイトが一つ立った
- テッドの日記を、最初から最後まで追いかける
- なぜ、こんな地味な話をみんな本気で信じたのか
- 掲示板は割れた――信じた人、笑った人、洞窟屋の証言
- 種明かしは三年半後、洞窟屋のフォーラムで起きた
- 「コピペ」に「不気味」がくっついた瞬間、二〇〇六年八月三十日
- 板が一つできて、怪談が住所を持った
- もう一つの震源――サムシング・オーフルという有料掲示板
- 二〇〇八年以降、怪談に永住権が与えられた
- 初期の名作を、一本ずつ
- 二〇〇九年六月、細長い男の前と後で世界が割れた
- 太平洋の反対側では、二〇〇〇年八月二日に別のスレが立っていた
- 作者不詳のまま増えていく物語、という発明
- なぜ怖いのか、そしてなぜ広まったのか
そもそも「パスタ」って何なんだ、という話から始めよう
先に単語の整理をしておく。ここを押さえておかないと以降の話が全部ぼんやりする。「コピーパスタ」というのは、掲示板で延々とコピー&ペーストされて回っていくテキストの塊のことだ。英語の「コピー」と「ペースト」がなまって、ひとつの単語になった形だ。パスタは食べ物のパスタで、深い意味はない。
ネットスラングにありがちな、語呂だけで決まったやつ。同じ長文が何度も何度も貼られる。誰が最初に書いたのか誰も知らない。貼るたびに少しずつ変わる。それがコピーパスタ。
で、そのコピーパスタのうち、読むと怖いやつ。それが「クリーピーパスタ」。不気味という意味の語と、コピーパスタをくっつけただけの合成語だ。命名した人間がいるわけでもなく、誰かが言い出して、なんとなく定着し、順番が大事なので念を押しておく。ジャンルが先にあって名前がついたのではなく、話が大量に転がっていて、それを指す言葉が後から必要になった。
だから「最初のクリーピーパスタは何か」という質問は、厳密には成立しない。名前がなかった時代に書かれたものを、後世が遡って「あれもクリーピーパスタだったことにしよう」と決めているだけだからだ。テッドの日記が「最初の一本」とされるのも、テッド本人がそう名乗ったからではない。後から来た読者たちが「これ、俺たちの読んでるやつの原型じゃん」と気づいたからにすぎない。
このジャンル、成立の仕方が根本的に後付けなのだ。そこを頭の隅に置いておくと、以降の話がだいぶ見通しよくなる。
電子の焚き火――九十年代、話はメールで回っていた
まだ掲示板文化が今の形になる前。九十年代のインターネットには「ニュースグループ」というものがあった。ユーズネットと呼ばれる分散型の掲示板ネットワークで、話題ごとに部屋が無数にあった。オカルト系だと、都市伝説を扱う部屋、ホラー全般の部屋、幽霊話専門の部屋。九〇年代の初頭にはもう動いており、ここでの怪談のやりとりは、今のクリーピーパスタとはちょっと違う。
基本は「体験談の共有」だ。俺の祖母の家でこんなことがあった、大学の寮でこういう噂があった、という一人称の投稿に、他の参加者が「それ、うちの地元にも似た話がある」と乗っかっていく。要するにキャンプファイヤーの怪談大会を、テキストでやっていた。作者が誰かなんて誰も気にしないし、そもそも創作かどうかを問う空気ですらなかった。
このユーズネットの部屋から、後々まで生き残った話がいくつかあり、代表的なのが黒い目の子どもたちの話だ。一九九七年一月、あるジャーナリストが自分の遭遇談を書き、夜の駐車場で車の窓を叩いてきた二人の子ども。目が真っ黒で白目がない。「乗せてくれ」と言ってくる。理屈抜きの恐怖に襲われて逃げた――という短い話。
これがまず幽霊話のメーリングリストに流れ、翌年ニュースグループに転載され、そこから二十年以上かけて世界中に広がった。作者ははっきりしているのに、広がる過程でどんどん「誰かの実話」に化けていった典型例だ。もう一つ、九十年代に固有の伝播経路があり、チェーンメールだ。「このメールを十人に転送しないと、あなたは七日以内に死にます」。この形式は今でこそ笑い話だが、当時は本気で怖がる人がそれなりにいた。
実際、この時期のチェーンメールにはデマや都市伝説が大量に混ざっていた。実在しない少女の闘病話でお涙頂戴して転送を促すやつとか、実在しない企業の懸賞とか。研究者が指摘しているのは、この「転送しないと呪われる」という構造が、後のクリーピーパスタの根っこにあるということだ。読者を単なる受け手にしないで、拡散の当事者にしてしまう。読んだ瞬間、あなたも関係者になる。
この発明は九十年代のチェーンメールがすでにやっていた。そして技術的な下地。この時代、無料でホームページを持てるサービスが乱立しており、アンジェルファイア、ジオシティーズ、トライポッド。誰でも数分でサイトが作れる。デザインは素人まるだし。
それが逆に、あとで効いてくる。
二〇〇一年三月二十三日、素人くさい個人サイトが一つ立った
さて、本題だ。二〇〇一年の春、アンジェルファイアの無料スペースに、洞窟探検の記録ページが作られた。作った男の名前はテッド・ヘゲマン。趣味で洞窟に潜っている、ただのアマチュアだ。ページのタイトルは「テッドの洞窟ページ」。
最初の記事の日付は三月二十三日になっている。内容は日記形式。テッドが自分の探検ノートを転記した、という体裁になっており、文章は上手くない。というか、そもそも上手く書こうとしていない。専門用語の説明を几帳面に挟むし、装備の話が異様に長いし、感情表現は素朴だ。
写真も貼ってあるが、本文に埋め込まれてはいなくて、「この時の写真はこちら」というリンクを踏むと別ページで開く。二〇〇一年の個人サイトとしては、あまりにも普通。普通すぎるのが、この話の一番の武器で、日記は五月十九日の記事で止まる。そこには「もう一度だけ、あの洞窟に行ってくる。帰ったら更新する」と書いてあり、更新はされなかった。
ページの一番下には「次へ」のリンクがあるのに、押しても何も起きない。この構造だけで、二十五年経った今もこの話は死んでいない。
テッドの日記を、最初から最後まで追いかける
ここからは物語の中身を、時系列で追う。日記の記述にそって再話するので、読んだことがない人はここで一本読んだつもりになってもらっていい。
穴を見つけてしまった十二月三十日
物語の時間軸は、日記の公開よりも前から始まる。前年の十二月三十日。テッドは「B」とだけ呼ばれる友人と、地元の洞窟に潜っていた。この「B」というのが後に名前を明かされてブラッドと呼ばれることになる、実在の相棒だ。洞窟そのものは、地元では知られた場所で、入口から十五フィートほど懸垂下降して、さらに五十フィートの縦穴を下りる。
直径は場所によって三フィートから十フィート。降りきると六フィート四方くらいの小部屋があって、そこから天井の低い通路が十フィート続く。這って抜けると、四方向に百フィートずつ枝分かれした空間に出る。テッドの記述は、こういう数字が異様に細かい。何フィートの縦穴、何フィートの這い進み。
読者は最初、この細かさを退屈だと感じる。そして、そのうち慣れる。慣れた頃に、物語が動き出す。その日、彼らはアーチ状の開口部を抜けた先で、壁のくぼみに拳ほどの穴があるのを見つけた。人が入れる大きさではなく、ただ、そこから風が出ており、洞窟屋にとって、これは特別な意味を持つ。
風が出るということは、向こう側に空間があるということだ。それも、かなり大きい可能性があり、まだ誰も入ったことのない空間。洞窟探検をやる人間にとって、これ以上そそる話はない。テッドはその穴に名前をつけ、「フロイドの墓」。一九二五年、ケンタッキーの洞窟で身動きが取れなくなり、救出作戦が全米中継されるなか十七日目に死んだ探検家、フロイド・コリンズにちなんだ名前だ。
友人の一人が「縁起でもない」と嫌がったが、名前は定着してしまった。ここ、読み返すと本当にうまい。物語の冒頭で、閉所で死んだ実在の男の名前が呼び出される。それが伏線になっているとは、初読では気づかない。
ドリルとハンマーで壁を削り続けた、あの冬
翌年一月末から、二人は本格的な拡張作業に入る。目標は、拳大の穴を人が通れるサイズまで広げること。使った道具の記述がまた細かい。デウォルトのコードレスドリル、コンクリート用のビット、大ハンマー、タガネ、それに自分たちで作った手製の器具。ドリルで穴を並べて開けて、その間をハンマーで叩き割る。
石灰岩は硬い。バッテリーはすぐ切れる。ビットは折れる。何度も出直す。このパートは、ぶっちゃけ地味だ。
地味なのだが、後から効く。読者はここで「この人たち、本当に何ヶ月もこれをやってたんだな」と体で納得してしまう。作り話にわざわざこんな面倒な工程を書くやつはいない、と思ってしまう。物語がまだ何も起きていないうちに、信頼を稼いでいるのだ。装備の描写も生々しい。
テッドが書いているのは、ジーンズ、Tシャツ、グローブ、膝当て。洞窟用のつなぎではなく、狭い穴を通るとき、かさばる服は邪魔だからだ。この「Tシャツ一枚で岩を這う」という選択が、後の場面で効いてくる。狭所を無理やり通ったとき、胸と背中が削られる。ヘルメットを脱がないと通れない箇所もあり、地面のとがった石が、薄い布一枚越しに肋骨に食い込む。
洞窟の中の気温についても書いており、年間を通じて安定していて、夏は涼しく、冬は暖かい。だから外がどれだけ寒かろうと、中では汗をかく。作業は三月まで続いた。
音が出はじめる
拡張作業が進むにつれて、穴の向こうから音が聞こえるようになる。低い、地響きのような唸り。岩がこすれるような音。そして風。風は最初からあったが、日によって強さが変わり、時には吹いていた向きが逆になる。
洞窟の空気は普通、気圧差で一方向にゆっくり動く。逆流はおかしい。ある日、彼らは犬を連れていった。犬は穴の前で怯えて動かなくなった。そして、あの音がする。
テッドの表現を借りると、「恐怖で悲鳴を上げている男と、痛みで叫んでいるピューマを、混ぜたような音」。この一文が、この作品でもっとも有名な行だ。うまい比喩ではない。むしろ、うまくない。うまくないからいい。
本物の目撃者が、聞いたことのない音を必死に言語化しようとして失敗している感じが出ている。プロの作家なら、もっとかっこいい表現にしてしまうところだ。音以外にも、色々起きる。見られている感覚。通信機器の不調もある。
ヘッドランプの不具合。テッドは全部書く。全部書いて、そのうえで「気のせいかもしれない」と何度も自分に言い聞かせる。この「疑いながら書き続ける語り手」というスタンスが、読者の警戒心を下げていく。断言する語り手は疑われる。
迷っている語り手は信じられる。
フロイドの墓を抜けた先にあったもの
四月の初め、ついに穴が通れるサイズになり、向こう側は、細長い通路で、長さはおよそ百六十フィート。壁には結晶がびっしり張りついていて、ライトを当てると光る。誰も見たことのない空間に自分たちが最初に入った――洞窟屋にとっての至福の瞬間のはずだ。だが、通路の先で、テッドはおかしなものを見つける。岩に彫り込まれた記号。
人工的な線。象形文字のようにも、幾何学模様のようにも見えるもの。テッドはこれを言葉で説明しようとして諦め、当時公開されたばかりのある映画の劇中に出てくる、木の枝で組まれた記号に似ている、と書いた。読者に共有されている視覚イメージを借りて説明する、というやり方だ。これも生々しい。
作家なら独自の描写を試みるところを、素人はテレビで見たものにたとえる。さらに奥に、大きな丸い石があり、妙に球に近い形をした石。周囲の岩とは質感が違う。そして、記号が光る場面が来る。テッドは自分の目を疑い、ライトの反射だろうと考え、翌日また確認しに行く。
ジョーが二十五分で戻ってきた日
四月二十日、三人目が加わる。テッドが「ジョー」と呼ぶ人物だ。ジョーは一人で奥の空間に入っていった。二十五分ほどして戻ってくる。血を流していて、まともに口がきけない状態だった。
何を見たのか、何があったのか、彼は説明せず、後日聞いても答えなかった。
人が変わってしまった、とテッドは書いており、この場面が、作品の構造上いちばん賢い。普通のホラーなら、ここでジョーに「見たもの」を語らせる。語らせれば怖い場面が一つ増えるからだ。ところがテッドは語らせない。ジョーが黙っているせいで、読者は何が起きたか永久に知ることができない。
想像するしかない。想像は、書かれた描写より必ず怖い。しかも、この構造には副産物があり、読者が「テッドは全部を書いていない」と感じるようになるのだ。事実を隠している、というより、事実に触れきれていない。この距離感が、フィクションの語り手にはなかなか出せない。
四月二十八日以降、洞窟が家までついてきた
四月二十八日、テッドは奥でさらに何かに遭遇する。詳細は例によってぼかされており、ただ、そこから彼の生活が壊れていく。まず眠れなくなる。眠ると、極端に鮮明な悪夢を見る。日中も理由のない不安に襲われる。
家の中で足音が聞こえる。視界の隅で何かが動く。物が動いている気がする。洞窟でしか聞こえないはずの音が、自宅で聞こえる。Bもジョーも似た状態になっており、三人は連絡を取り合わなくなる。
読者としてここが怖いのは、恐怖の対象が場所から切り離されるからだ。それまで、怖いのは洞窟で、行かなければ安全だった。ところが四月末を境に、洞窟のほうが人についてくる。逃げ場がなくなる。このあと約三週間、日記は途切れる。
最後の更新、二〇〇一年五月十九日
五月十九日。テッドはジョーと連絡を取り、三人でもう一度だけ洞窟に行くことにした、と書く。今度はきちんと装備を整えて。護身用のものも持って。そして、「帰ったら更新する」と書いて、日記は終わる。
更新はされず、「次へ」のリンクは死んでおり、装備の話がずっと続いた退屈な日記が、最後に、無言で終わる。誰も死んだと書いていないし、怪物が出たとも書いていない。ただ、更新が止まっているだけだ。それだけで完成している。追記しておくと、日記の一部には後から書き足された注釈が、本文と違う色の文字で挟まれている箇所がある。
当時を思い返して補足したもの、という体裁だ。これが層をつくる。「当時のノート」と「後から読み返している現在のテッド」という二つの時制が同居していて、その現在のテッドですら五月十九日で消えている。手が込んでおり、というか、たぶん本人はそこまで計算していない。計算していないのに効いているところが、この作品の本質だ。
なぜ、こんな地味な話をみんな本気で信じたのか
正直に言うと、テッドの日記は物語としては上手くない。文章は稚拙だし、構成もぐだぐだだし、途中で読むのをやめる人もいる。それでも二十五年生き残っており、理由はいくつかある。一つ目は、媒体の問題だ。二〇〇一年の個人サイトには「これはフィクションです」という枠組みがなかった。
今なら、あるサイトに投稿されている時点で「そういうサイトね」と分かる。当時は違う。無料スペースの個人ページは、趣味の記録を置く場所だった。洞窟探検の記録ページに紛れ込んだら、それは洞窟探検の記録として読むしかない。判定する手がかりがどこにもない。
二つ目は、写真だ。ページに貼られている写真は、本物の洞窟探検の写真だ。実際にテッドたちが撮ったもの。だから当然、辻褄が合う。しかも本文に埋め込まれていないので、読者はいちいちリンクを踏んで別ページを開く。
この「わざわざ見に行く」という手間が、逆に効く。自分で取りに行った情報は、押しつけられた情報より信用してしまうのが人間だ。三つ目は、退屈さそのものだ。この作品、怖い場面の前に、途方もない量の「怖くない情報」が積んであり、装備、ルート、気温、バッテリーの持ち。フィクションを書く人間は、面白くしようとして、こういうものを削る。
削らないということは、削る動機がないということ――つまり、これは記録なのだ、と読者は無意識に判断する。四つ目、そして最大の要因が、未完だということ。物語は終わらない。作者は消える。完結した話は「作品」に見える。
中断した話は「事故」に見える。この差は決定的だ。
掲示板は割れた――信じた人、笑った人、洞窟屋の証言
この話がどう読まれたか、実際の記録が残っている。当時の掲示板ログはネットの各所に生きていて、そこには生の反応が並んでいる。まず、二〇〇二年八月。あるパソコン系の大型フォーラムに、この話を紹介するスレッドが立った。日付は八月十四日から十六日にかけて。
すでに公開から一年以上経っており、この時点で話は元のページを離れて一人歩きを始めていた。スレッドの投稿者は、アンジェルファイアの元サイトが転送量の上限に達してしまい、有志がミラーを作って回している、と書いている。個人サイトの無料枠が、アクセス過多でパンクしていたのだ。二〇〇二年の時点で、この地味な洞窟日記はそこまで読まれており、このスレッドの反応が面白い。冷静な読者は「もちろん作り話だろう。
これを本気にして動揺している人がいるのが逆に不思議だ」と書いており、一方で、細部から見抜いたという投稿もある。「デウォルトのバッテリーは、石灰岩を削り続けたらあんなに持たない」。洞窟うんぬんではなく、電動工具の実務知識で嘘を見抜くという、極めて具体的な指摘だ。別の読者は「怪我の描写が細かすぎる。あんなパニック状態で、自分の擦り傷の位置を全部覚えているわけがない」と突っ込んでいる。
同時に、生理的な反応の報告が並ぶ。息が苦しくなった、閉所恐怖症が発動した、気持ち悪くなった、狭い穴を通る場面をまともに読めなかった、という声が複数ある。この作品の恐怖は幽霊由来ではなく、圧倒的に閉所由来なのだ、ということが読者側の証言からもはっきり分かる。時代が下って二〇〇八年五月、同じフォーラムに立った別スレッドは、もう少し複雑な様相を見せている。
ある参加者は「昔の短編小説の丸パクリだ、しかもオチが死ぬほど陳腐なやつ」と主張した。別の参加者は「何年も前に読み、あきらかに作り物だ」と切り捨てる。写真が現像できなかったという記述が出てきた瞬間に嘘だと確信した、という人もいる。その一方で、「これは何度でも読み返す価値がある」「無限に再投稿されるべき」といった熱烈な支持が並ぶ。
そして、このスレッドには実際の洞窟探検家も参加しており、彼の見立ては冷静だ。「よくできた与太話だな。たぶん洞窟仲間の誰かが仲間内で書いたやつだろう」。玄人が読むと、装備や手順の記述が正確すぎて、逆に「業界内部の人間が書いた創作」に見えるのだ。そして同じスレッドで、決定的な情報が出てくる。
二〇〇二年の一月から二月にかけて実測された、実在する洞窟の測量図。そこには「フロイドの墓」という名前の通路と、「デウォルトの掘削地点」という名前の地点が記載されていた。つまり、物語の舞台は実在し、しかも、テッドたちが物語の中でつけた名前が、そのまま正式な洞窟測量図に載っていた。信じる材料と疑う材料が、同時に増えたのだ。掲示板が割れるのも当然だった。
種明かしは三年半後、洞窟屋のフォーラムで起きた
決着は、意外な場所からつく。二〇〇四年の十一月、洞窟探検の専門団体系のフォーラムでこの話が議論に上がった。そこにテッド本人が現れた。そして、あれはフィクションだ、と認め、彼の説明はこうだ。穴を見つけたのも、掘って広げたのも、本当のこと。
ただし実際の探検は一九九九年十二月三十日から二〇〇〇年二月二十四日にかけてのもので、日記に書いた日付とは一年ずれている。奇妙な音を聞いたのも本当。ただし途中から、話を「ちょっと盛った」。掘って抜けたところまでは実話で、その先が創作だ、という説明になっている。「ちょっと盛った」の程度については、後年の本人へのインタビューでもう少し具体的に語られている。
約一年かけて話を膨らませ、実際の写真をつけてアンジェルファイアに載せた。洞窟の構造も、物語の都合で意図的に変えており、ここで一つ、ややこしい事件が挟まる。二〇〇四年前後、別の書き手が発表した洞窟ホラー短編と、テッドの日記の内容が酷似している、という指摘が出た。どちらが先か。テッドが盗んだのか、盗まれたのか。
この件は、ある掲示板でかなり執拗に追跡された。追跡した参加者は当初テッドを疑ったが、調べるうちに逆の結論に傾いていく。テッドは自分で反論を書き、「私が原著者だ。誰の作品も写していない」と明言し、彼が挙げた状況証拠が具体的で面白い。相手の版に、テッドの実在の友人ブラッドの経歴と一致する記述があること。
実際に彼らが自作して洞窟に置いてきた道具の描写があること。デウォルトのドリルの件が、後に公式の洞窟測量図に地名として載っていること。最終的には、著作権登録の記録を調べた参加者が、テッドの登録が二〇〇一年であることを確認して、議論はほぼ収束した。洞窟そのものの正体も割れており、二〇〇六年一月には、実在する洞窟が特定された。アメリカ西部、州間高速道路のすぐ近くにある洞窟だ。
総延長は千フィート強、深さは二百フィートほど。実際にこの洞窟を知る探検家が、ブラッドを個人的に知っていると証言し、そして身も蓋もない指摘をした。あの「この世のものとは思えない音」は、たぶん頭の上を走っている高速道路の音だ、と。地面の下で聞く、車の走行音。フィルターがかかって歪んで、何の音だか分からなくなったもの。
恐怖で悲鳴を上げている男と、痛みで叫んでいるピューマを混ぜたような音。この落ちの付き方が、個人的にはこの一件で一番いいところだと思う。怪異の正体が高速道路、というのは、悲しくもあり、なんだかとても現代的でもある。なお、この話は二〇一三年に長編映画化され、兄弟の設定に変わり、結末もきちんとつけられた。原作にあった「終わらない」という最大の武器を捨てた形になっていて、評判はあまりよくない。
当然といえば当然だ。
「コピペ」に「不気味」がくっついた瞬間、二〇〇六年八月三十日
さて、テッドから五年跳ぶ。ここからは言葉の話だ。二〇〇三年、ある画像掲示板が開設される。日本の匿名掲示板文化を英語圏に移植したような場所で、投稿は基本的に匿名、ログは短時間で消える。ここが、以後十年のネット怪談の主戦場になる。
最初に怪談が集まったのは、雑談用の板で、記録によると、二〇〇六年四月の時点ですでに「怖いスレ」が立っている。同年六月には、この手のスレが毎日複数立つ状態になっており、誰かが怖い話を貼る。他の誰かが別の話を貼る。気に入られた話は、翌日別のスレで再び貼られる。次の週にも貼られる。
半年後にも貼られる。転載されるたびに、投稿者の情報は落ちていく。この頃の代表的な出来事が、二〇〇六年七月のある投稿だ。七月十日にある個人サイトに置かれた話が、七月十九日に掲示板へ転載された。これがきっかけで、短い怪談を自作して貼る流れが一気に加速したと言われている。
同じ夏、もう一つ重要なものが生まれ、八月三十一日の夜、「終わりの保持者」という話が投稿される。ある場所へ行き、特定の相手に会わせてくれと頼め、という指示書の形式をとった話だ。読者に手順を教える体裁で、世界を終わらせる力を持つ物品の在り処を示す。この形式が受けて、模倣作が次々に書かれ、翌年一月には八本になり、二月には五十七本、その月末には六十四本。
最終的な目標数として五百三十八という数字が設定され、専用のデータベースサイトまで作られ、作者は誰でもいい。形式さえ守れば誰でも増やせる。匿名の共同創作という、このジャンルの中核的な性質が、はっきり形になった瞬間だった。そして、言葉が生まれる。記録に残る限り、「クリーピーパスタ」という単語が最初に使われたのは二〇〇六年八月三十日だ。
誰かが、掲示板の書き込みでこう言い、「鏡系のクリーピーパスタ、マジで無理」。ジャンル宣言でもなんでもない。ただの雑な感想だ。だが、これがおそらく人類初のクリーピーパスタ使用例ということになっている。母体の「コピーパスタ」のほうは、少し先行する。
ネット上の記録では二〇〇五年十月にはもう使われていて、翌二〇〇六年四月二十日には俗語辞典サイトに正式な定義が登録されている。定義はこうだ。「どこかから何度もコピーされて、無関係な話題に返信として貼りつけられる長文」。ここに「怖い」が付いただけで、新しいジャンルの名前になり、言葉の生まれ方が、いかにも安い。安いのに、二十年生き残っている。
板が一つできて、怪談が住所を持った
二〇〇七年二月十五日。件の画像掲示板に、超常現象専門の板が新設される。いわゆるオカルト板だ。これが決定的で、それまで、怖い話は雑談板の中に埋もれていた。専門の板ができたことで、怪談を書きたい人間と読みたい人間が一箇所に集まった。
しかも匿名。しかもログは流れて消える。だから、いい話は誰かが保存して、繰り返し貼る。貼られ続けた話だけが生き残る。極端に純粋な淘汰圧が働く環境ができあがった。
この板から、四ヶ月後に化け物が出る。二〇〇七年六月二十二日、モト42というハンドルの投稿者が、彫刻のような何かの写真に、収容手順を記した無機質な報告書を添えて投稿した。番号は173。これがSCP財団の最初の一本になる。翌年一月十九日には専用のウィキが立ち上がり、そこから十八年かけて世界最大級の共同創作アーカイブに育っていく。
ただしこれは別ジャンルとして自立していくので、この記事ではここまでにしておく。同じ二〇〇七年の九月十日には、テレビの緊急放送に紛れ込んだ謎の映像、という体裁の映像系怪談が投稿されている。テキストではなく動画で怖がらせる作品の走りだ。九月の終わりには、ネットスラング百科事典サイトに「クリーピーパスタ」の項目ができる。ジャンルとして認知された、という記録上の一区切りだ。
保管の動きも同時に進んでいた。二〇〇六年九月には、怖い話を大量に詰め込んだ圧縮ファイルをアップローダーで配る、という原始的なアーカイブが確認されている。同じ頃、有志が専用のフォーラムを立てて話を集め始める。翌年五月には、まとめサイトの一つが外部から参照されるようになる。つまり、二〇〇六年から二〇〇七年の二年間に、ジャンルに必要なものが全部揃った。
話を書く場所、話を集める場所、話を保存する場所、そしてジャンルを指す言葉。ここが実質的な、クリーピーパスタの成立年だと言っていい。
もう一つの震源――サムシング・オーフルという有料掲示板
匿名の画像掲示板と並んで、このジャンルにとって決定的だった場所がもう一つある。ユーモアサイト発祥の大型掲示板、サムシング・オーフル。ここは性質がまるで違う。まず、書き込むのに登録料がいり、有料だから荒らしが少ない。ユーザーは固定ハンドルを持っていて、発言に責任がついてまわる。
書き手の質が高く、画像加工の腕自慢が集まっていて、スレッドを立てて共同で何かを作り上げる文化があった。匿名で流れて消える掲示板と、実名っぽいハンドルで蓄積する掲示板。この二つが並走していたことが、後のジャンルの形を決めた。前者からは出所不明の怪談が湧き、後者からは「作者のいる共同創作」が生まれた。そして二〇〇九年六月八日、サムシング・オーフルに一本のスレッドが立つ。
スレッド名は「超常写真を作れ」。ようするに画像加工大会だ。心霊写真っぽいものを作って持ち寄ろう、という遊び。六月十日、ヴィクター・サージというハンドルの参加者が、二枚のモノクロ写真を投稿した。一枚目は子どもたちが写った写真。
背景に、異様に背の高い、細長い人影がある。添えられた説明文は、一九八三年という年号と、こんな短い一文だ。「行きたくなかった」「殺したくなかった」「だがその執拗な沈黙と、差し伸べられた腕は、我々を恐怖させると同時に、慰めもした」。
二枚目には、一九八六年の図書館火災の記録という設定がつけられており、十四人の子どもが行方不明になった事件。
写真に写り込んだ異常として、「ザ・スレンダーマン」という名前が記されていた。これで終わりのはずだった。画像加工大会の投稿一件。ところが同じスレッドの参加者たちが乗っかりはじめる。別の写真を作る人が出る。
目撃談を書く人が出る。
設定を足す人が出る。二週間もしないうちに、細長い男は例の匿名掲示板のオカルト板に流入し、そこで爆発した。六月二十日には、この存在をモチーフにした映像シリーズがネット上で始まっている。
二〇〇八年以降、怪談に永住権が与えられた
話を少し戻す。この時期、ジャンルにとって効いてくるのは作品よりインフラだ。二〇〇八年三月十九日、クリーピーパスタ専門のサイトが開設される。運営者は女性で、ハンドルの由来はこの界隈で有名な、文法が壊れた怖い話ネタから取られている。ここは掲示板ではなくブログ形式で、投稿された話が記事として並び、コメント欄がつく。
流れて消える掲示板と違って、話が定位置を持つようになった。この記事ではサイト名を出せないので、以降「クリーピーパスタ・ドット・コム」と呼んでおく。二〇一〇年三月二十四日には、大手ソーシャルニュースサイトに専用の板が作られる。ここには極めて特徴的なルールがあり、投稿はすべて一人称で、実話として書くこと。そして読者は「これ本当ですか」と聞いてはいけない。
全員が「これは実話である」というふりを続ける、という約束事を明文化したのだ。これは実によく考えられている。信じるかどうかの議論を最初から封じることで、逆に「信じているふり」の共同体が成立する。研究者が指摘するとおり、伝説というものは「これは本当か」という議論が起きたときに初めて伝説になる。この板は、その議論をルールで固定化してしまった。
演技としての信仰を、制度にしたわけだ。同じ二〇一〇年の八月八日、クリーピーパスタ専門のウィキが開設される。開設したのは、この界隈では有名なハンドルの人物。ここは「投稿する場所」であると同時に「分類し、保管し、序列をつける場所」になった。名作認定の仕組みができ、削除基準ができ、テンプレートができた。
翌年七月二十一日には、質の低い作品やネタ作品を専門に集める姉妹サイトまで作られている。つまり、二〇一〇年までに、このジャンルには図書館と博物館ができて、同時に、書き手が名前を持つようになった。作者不詳の民話みたいだったものが、投稿者名つきの作品になっていく。この変化は、ジャンルの性質を根本から変えることになる。
初期の名作を、一本ずつ
ここからは、初期を代表する作品を個別に見ていく。細かい解説というより、「なぜこれが残ったのか」の話をする。
ディオネア・ハウス(二〇〇四年から二〇〇六年)
テッドの三年後に登場した、構造の怪物みたいな作品。作者はエリック・ハイセラー。後にハリウッドで大作の脚本を書くことになる書き手だ。形式が異様に凝っており、物語はまず、二人の男が交わすメールの記録として始まる。友人が起こした無理心中の背景を調べるうち、一軒の家に行き着く。
そこから先が問題で、続きは別の登場人物のブログに書かれている。さらに別の人物の日記サイトにも断片があり、読者は複数のサイトを行き来しながら、話を組み立てていく。ブログのコメント欄には、読者からの書き込みも混ざる。
家が家ではないかもしれない、同じような家が他にもあり、物理法則を無視した形でつながっているかもしれない。中身も怖いのだが、それ以上に「ネット全体を紙に見立てた」という発想が新しかった。名前の由来はハエトリグサの学名で、作者本人が「噂に釣られて近づいてきた閲覧者を捕らえる罠」というイメージで書いたと語っている。読者を獲物として設計に組み込んだ、最初期の例だ。
ザ・ホルダーズ(二〇〇六年以降)
さっき触れた「終わりの保持者」から始まった連作。これは物語というより、フォーマットの発明で、各話は、ほぼ同じ構造をしている。どこそこへ行け、こう名乗れ、こう尋ねろ、するとある人物に会わせてもらえる、その人物はこういう話をする、その先で何が起きても振り返るな。指示書の形式だ。読者は物語の受け手ではなく、実行者として呼びかけられる。
そしてこの形式は、誰でも書け、文体の統一も要らない。ただ番号を振って追加すればいい。数百本という規模まで膨れ上がったのは、質が高かったからではなく、参入障壁が異常に低かったからだ。匿名の共同創作という手法が、初めて大規模に成立した例として重要な位置にある。
フーワズフォン(二〇〇八年三月二十八日)
これは怖い話ではなく、文法が全部崩壊した、意味不明な短文だ。オカルト板に投稿され、内容はこうだ。恋人といちゃついていたら電話が鳴る。出ると声が「娘に何をしている」と言う。彼女に伝えると「父は死んでいる」と答える。
じゃあ電話は誰だったんだ――というだけの話。ただし原文は綴りが壊滅的で、締めの「じゃあ電話は誰だったんだ」にあたる一文が、壊れた英語のまま合言葉として定着した。なぜこれを挙げるかというと、このジャンルの重要な一面を示しているからだ。クリーピーパスタは最初から、真面目な文芸ではなく、半分は悪ふざけで、半分はホラーだった。下手な文章はネタとして愛され、あまりに下手だと逆に伝説になる。
この「下手さの受容」がなかったら、ジャンルはここまで裾野を広げなかったと思う。ちなみに、後にできる専門サイトの運営者のハンドルは、この作品から取られている。
キャンドル・コーヴ(二〇〇九年)
作者はクリス・ストラウブ。ウェブ漫画家で、自分の運営するホラー系サイトに載せ、形式が完璧だ。全体が、掲示板のスレッドのログとして書かれている。「ネット懐古板」という架空の掲示板で、参加者たちが子どもの頃に見た番組の話をしている。地方局で放送されていた人形劇。
海賊の女の子と、船と、変な人形たち。誰も彼もが断片的にしか覚えていない。最初は微笑ましい懐かしがりなのだが、記憶が集まってくるにつれてズレていく。誰かが「皮剥ぎ男」という悪役を思い出す。子どもの皮を着た骸骨の海賊。
誰かが「全員がひたすら叫ぶだけの回があった」と言い出す。他の人が「あった、あれは何だったんだ」と応じる。そして最後の書き込みで、参加者の一人が母親に確認した結果を報告する。あなたが番組を見ていると言っていたとき、テレビには砂嵐しか映っていなかった、と。見事なのは、恐怖を「番組の中身」ではなく「記憶そのもの」に置いたことだ。
自分の子ども時代の記憶の一部が偽物かもしれない、という不安は、誰にでも刺さる。この一本が、後の「懐かしいメディアの記憶が壊れている」系の作品群の全部の原型になった。二〇一六年にはテレビシリーズ化され、そこから派生する形でアナログホラーというジャンルまで生えている。
一九九九(二〇〇九年十一月)
作者はカムデン・ラモント。個人ブログに連載され、語り手はエリオットという名前の男。子どもの頃、カナダの地元でしか映らないケーブルの局が、深夜に妙な番組を流していた、という回想から始まる。局番号は二十一。番組の一つが『ミスター・ベアの地下室』で、着ぐるみの熊が子どもたちを自宅に招く、という体裁だった。
エリオットは番組宛に手紙を書く。そして父親に連れられて、その場所へ行った。この作品の恐ろしさは、超自然が一切出てこない点にあり、幽霊も怪物も呪いもない。あるのは、子どもに近づこうとする大人の話だけだ。作中の地名は実在するし、地方局の深夜放送というものが実際にどれほど無法地帯だったかを知っている人ほど怖い。
怪物は実在する。ただし人間の形をしている、というタイプの怖さ。作者名も公開時期もはっきりしているのに、この話は後に大量のファン創作を呼び込んだ。当時の放送を再現したという偽の映像、放置された偽のアカウント、追加のエピソード。作者一人の作品が、集団の神話に変わっていった典型例だ。
ノーエンド・ハウス(二〇一〇年前後)
作者はブライアン・ラッセル。匿名掲示板に投稿された話が、二〇一一年六月三十日にウィキへ収録されており、設定は明快だ。お化け屋敷があり、部屋は九つ。全部抜けたら五百ドルもらえる。主人公のデイヴィッドは、腕試しのつもりで入る。
一部屋目は、ただの安っぽいお化け屋敷。二部屋目も似たようなもの。三部屋目から、少しずつおかしくなる。自分の影が消える。音が消える。
虫の感触があり、部屋を進むほど、外側の現実との接続が切れていく。そして最後に、自分自身と対面する。構造がゲーム的で読みやすく、しかも「進むほど戻れなくなる」という単純な圧力があり、読者は数えながら読む。あと何部屋。この数え上げが、そのまま緊張の目盛りになる。
よくできた作りだ。締めの一撃は、そもそも彼は出られていなかった、というもの。このゲーム的な構造は、後のこのジャンル全体に強い影響を残し、ルールがある、段階がある、進むと悪化する。今のネットホラーの標準文法の一つは、ここから来ている。
サイコシス(二〇〇〇年代後半)
作者はマット・ダイマースキー。ジャンルの中では、いちばん文芸寄りの一本かもしれない。主人公は在宅で働くプログラマ。地下の部屋に住んでいて、何日も人と会わずに過ごす。あるとき、なんとなく世界がおかしいことに気づき始める。
ちょっとした違和感が積み重なる。テレビの様子、ネットの反応、外の音。人類に何か起きたのではないか、と疑いはじめる。恐怖が高まり、いったん安心し、また新しい違和感が来る。この往復が延々と繰り返される。
うまいのは、恐怖の正体が最後まで二つの可能性の間で揺れ続けることだ。本当に世界が終わっているのか。それとも、孤立しすぎた人間の頭がおかしくなっているだけなのか。孤独と偏執を、超常現象の文法で書いている。批評的には、結末で説明しすぎているという指摘があり、曖昧なまま終わればもっと強かった、と。
それは事実だと思う。ただ、この作品が示したのは、クリーピーパスタが「化け物が出てくる話」以外もできる、ということだった。テッドの閉所恐怖、キャンドル・コーヴの記憶不信、そしてサイコシスの孤立。この三つが、初期の恐怖の三つの型と言っていい。
ロシアの睡眠実験(二〇一〇年八月)
二〇一〇年八月、専門ウィキに投稿され、投稿者名はオレンジソーダ系のハンドル。舞台は一九四〇年代末のソ連。密閉室に五人を入れ、覚醒作用のあるガスを流し続けて、十五日間眠らせなかったらどうなるか、という実験の記録という体裁だ。なぜこれが桁違いに広まったのか。答えは形式にあり、この話は一人称ではなく、実験記録の文体で書かれている。
「私が体験した」ではなく、「こういう記録がある」という書き方。だから読者は語り手を信用するかどうかを判断する必要がなくなる。判断するのは記録の真偽であって、他人の証言ではなく、この一段の切り替えが、拡散力を跳ね上げた。そして題材が偽史だ。冷戦、旧ソ連、秘密の軍事研究。
「あり得なくはない」と思わせる背景を、実在の歴史から借りている。事実確認サイトが正式に「これはフィクション」と判定を出す羽目になり、そこで初めて嘘だと知った人が世界中に大量にいる。なお、この作品については別稿で詳しく扱っているので、ここでは初期史における位置づけにとどめておく。二〇一〇年という年は、ジャンルにインフラが揃った年であり、同時に「作者名つきの投稿作品」が主流になった年だ。
この作品は、その転換点のちょうど上に立っている。
二〇〇九年六月、細長い男の前と後で世界が割れた
さて、スレンダーマンの話に戻る。この存在の登場は、単に人気キャラが一体増えた、という出来事ではなく、ジャンルの構造そのものが変わった。それまでのクリーピーパスタは、基本的に「一本の話」で、誰かが書き、貼られ、広まり、消える。テッドの日記も、キャンドル・コーヴも、閉じた一つの物語だ。スレンダーマンは違った。
最初の投稿は写真二枚と短い説明文しかない。物語がない。設定もほぼない。だから、他人が足せる。目撃談を足せる。
設定を足せる。映像を作れる。ゲームを作れる。誰が足しても矛盾しない。なぜなら、元が空っぽだからだ。
これは「作品」ではなく「器」の発明で、以後、ネット怪談は器を作る方向に流れていく。SCP財団も、後年のバックルームズも、この系譜にあり、もう一つ、決定的な断絶があり、出所が完全に見えていることだ。従来の都市伝説は、出所が分からないことで力を持っており、誰が言い出したか分からないから、本当かもしれない。ところがスレンダーマンは違う。
何年何月何日、どの掲示板の何というスレッドで、誰というハンドルの人物が投稿したか、全部記録に残っている。作者本人が名乗り出ており、証拠が公開されており、にもかかわらず、この存在は伝承として広がった。世界中の子どもが、作者を知らないまま怖がる。人によっては、古くからある伝承だと信じた。作者がいることが最初から公開されている神話が、それでも神話として機能してしまった。
これは民俗学的にかなり異常な事態で、研究者たちが一斉に注目したのもそのためだ。二〇一八年には、この現象を主題にした研究論文集が大学出版局から出ている。そして二〇一四年五月三十一日、この存在に関連した重大な傷害事件が起きる。加害者は当時いずれも十二歳の少女二人で、被害者も同年代だった。少女たちはこの架空の存在を実在すると信じ込んでいたと供述している。
裁判では精神鑑定が大きな争点になり、加害者は未成年であり、ここでは名前も具体的な手口も書かない。書く必要がない。この記事で確認しておきたいのは、事件の詳細ではなく、事件がジャンルに与えた影響のほうだ。事件以降、ネット怪談は「無邪気なネット遊び」として扱われなくなった。作者本人は公にコメントを出し、深い悲しみを表明している。
専門サイトの運営者たちは、注意書きや年齢配慮のルールを整備しはじめた。ジャンルが自分の社会的責任を意識した、最初の局面だった。無責任に増殖できた牧歌的な時代は、ここで終わったと言っていい。
太平洋の反対側では、二〇〇〇年八月二日に別のスレが立っていた
ここまで英語圏の話をしてきて、日本の読者としては、当然こう思うはずだ。それ、洒落怖じゃん、と。その通りで、実は日本のほうが早い。二〇〇〇年八月二日、日本の巨大匿名掲示板のオカルト板に、一本のスレッドが立った。タイトルは「死ぬ程洒落にならない怖い話を集めてみない?
」。略して洒落怖。テッドの日記の七ヶ月前だ。このスレッドの方針が、当時としてはかなり異例だった。実話でも創作でも構わない、とにかく「半端じゃなく怖い」ことが大事、というスタンス。
真偽の詮索を最初から棚上げしたのだ。英語圏の掲示板が「これは本当か」で延々と揉めていた同じ時期に、日本の掲示板は最初からその問いを外していた。洒落怖から生まれた話は、英語圏のクリーピーパスタと形がよく似ており、長い。一人称。細部が異様に具体的。
設定が地方の伝承として提示される。江戸期に作られたとされる呪物の話、実在しない駅に着いてしまう話、背の高い女の姿をした存在の話。どれも、匿名の書き手が投稿し、名作認定され、まとめサイトに転載されて広がった。面白いのは、両者がほとんど交流のないまま、ほぼ同じものを作ったことだ。二〇〇〇年代の初頭、日本語圏と英語圏はネット上でほぼ分断されていた。
にもかかわらず、匿名掲示板で長文の一人称怪談が発達し、まとめサイトが生まれ、名作の殿堂ができるという同じ経過をたどった。これは影響関係ではなく、環境が同じなら同じものが生えるという話だと思う。匿名で、ログが流れて、コピペで残る。この三条件が揃うと、人類は同じ種類の怪談を作る。相互影響が本格化するのは二〇一〇年前後からだ。
英語圏の作品を訳して紹介する日本語まとめサイトが増え、「クリーピーパスタ」というジャンル名ごと日本に輸入された。同じ頃、逆方向の流れも始まる。日本の洒落怖名作が英訳されて英語圏の掲示板に流れ込み、背の高い女の話などは「日本版スレンダーマン」という雑な紹介のされ方で受容された。日本のゲームやアニメを題材にした英語圏の作品も大量に生まれ、二つの流れは、二〇一〇年代を通じて完全に混ざった。
作者不詳のまま増えていく物語、という発明
ここからは、ジャンルの性質そのものの話をする。クリーピーパスタを他のホラーから分けている最大の特徴は、内容ではなく、流通形態だ。この形式は、作者から所有権を奪う。普通の小説は、作者のものだ。名前が表紙に載り、勝手に書き換えたら怒られる。
クリーピーパスタは違う。掲示板に貼られた瞬間、それは共有物になる。誰かがコピーして別の板に貼る。長すぎるからと途中を削る。地名を自分の地元に書き換える。
オチが気に入らないから足す。これらは盗用ではなく、正常な流通で、結果として何が起きるか。作品が生き物になる。同じ話の異なる版が同時に流通し、どれが原型か分からなくなる。ある版では主人公が生き残り、別の版では死んでおり、ある版には結末があり、別の版にはない。
読者はどれか一つに出会って、それが「その話」だと思う。これはまさに、民俗学者が口承文芸について言ってきたことだ。語り手が変わるたびに話が変わる。決定版が存在しない。作者がいない。
違うのは、口ではなくコピペで伝わることと、伝播速度が桁違いなことだけ。研究者たちが早い段階からこのジャンルに飛びついたのも、そのためだ。従来、民話の生成過程は再現できず、何百年もかけて起きるからだ。ところがネット怪談では、それが数ヶ月から数年で起きる。しかも全部ログが残っており、ある話が変異していく様子を、一日単位で観察できる。
民俗学にとって、これは実験室ができたようなもので、用語もいくつか出てきている。伝説というものは「本当かどうかの議論を呼ぶ」ときに初めて伝説になる、という古典的な定義がある。この定義に照らすと、クリーピーパスタはまさしく伝説だ。信じる者と信じない者が言い争う、その争いこそが話に生命を与えている。もう一つ、「民俗っぽさ」という概念があり、本物の伝承ではないが、伝承の見た目を意図的にまとったもの。
ザ・ホルダーズも、スレンダーマンの偽の古文書も、コトリバコの偽の由緒も、全部これに当たる。作り手は伝承のふりを演じ、読み手はそれを承知で乗る。誰も騙されていないのに、全員が騙されているふりをしている。そして「儀式化」の問題があり、物語を語るだけでなく、実際にやってみる、という行為だ。深夜に鏡の前で名前を呼ぶ、特定の手順を踏んで異界に行こうとする、という遊び。
ザ・ホルダーズのような「指示書型」の作品は、最初からこれを誘発するように作られており、読者を実行者にする。そして残念ながら、これがときどき現実に流出する。二〇一四年の事件は、その最も痛ましい例だった。
なぜ怖いのか、そしてなぜ広まったのか
最後に、素朴な問いに戻る。なぜこれらの話は怖いのか。一つ目は、判定不能であることだ。テッドの日記を初めて読んだ人が抱えるのは、「怖い」ではなく「判定できない」という不快感だった。本当かもしれないし、嘘かもしれない。
この宙吊り状態は、はっきりした恐怖よりもずっと長く尾を引く。判定できないと、脳は保留を続ける。保留された情報は、消えずに残る。だから夜になると思い出す。二つ目は、未完であることだ。
完結した話は、閉じた瞬間に安全になる。中断した話は、いつまでも閉じない。テッドの「次へ」ボタンは今も死んだままだし、その死んだままの状態が、二十五年ぶんの恐怖を生み続けている。三つ目は、細部の圧だ。このジャンルの初期作品は、揃って情報過多だ。
装備の型番、距離の数字、局番号、部屋の数。日常の怪談は細部が曖昧だが、記録は細部が具体的である。だからこのジャンルは、記録の顔をする。四つ目は、日常の側から侵食してくることだ。洞窟の話が家までついてくる。
子ども番組の記憶が壊れる。地元のケーブル局が怪しくなる。中古ゲームが呪われており、全部、読者の生活圏にあるものだ。異界に行く話ではなく、異界がこちらに滲む話。これがこのジャンルの一貫した戦略になっており、では、なぜ広まったか。
理由はもっと即物的だ。コピーしやすかったからだ。長すぎず、画像がなくても成立し、テキストだけで完結する。回線の細かった時代に、これは決定的な強みだった。そして、貼るのに許可がいらない。
作者名も要らない。ワンクリックで別の場所に増殖できる。生物学の比喩を使うなら、クリーピーパスタは複製効率に全振りした生物だ。芸術性ではなく、コピーのしやすさで選抜され、読み終わった読者が「これ、あそこにも貼っとこう」と思うかどうか。その一点だけが淘汰圧で、二十年生き残った作品は、面白いから生き残ったのではない。
貼られやすかったから生き残り、そう考えると、テッド・ザ・ケイヴァーが最初の一本と呼ばれる理由も見えてくる。あの日記は、実はコピペには向いていない。長すぎるし、写真とセットだし、リンク構造に依存している。にもかかわらず二〇〇二年の時点で個人サイトの転送量を食いつぶすほど読まれ、有志がミラーを作って回した。コピペ以前の、ページの場所を口伝てで回す時代の作品なのだ。
だからこそ、あれは前史の作品と呼ばれる。ジャンルの外側から、ジャンルが生まれる方向を指していた一本。ここからは、記事本編で流した論点をもう一段掘り下げる。年表の確認と、いくつかの言い落としの補足、そして総括だ。
年表を一度、整理し直しておく
このジャンルの記述は、資料によって年が食い違うことが多い。混乱の元なので、確度の高いものだけ並べ直しておく。出発点は一九九〇年代初頭のニュースグループだ。都市伝説、ホラー全般、幽霊話を扱う部屋がすでに稼働していた。一九九七年一月には黒い目の子どもたちの原型となる遭遇談が書かれ、一九九八年に幽霊話のメーリングリストに流れ、そこからニュースグループへ転載される。
同時期、チェーンメールが「転送しないと死ぬ」という形式で拡散構造の実験をしていた。二〇〇〇年八月二日、日本で洒落怖スレが立つ。二〇〇一年三月二十三日、アンジェルファイアにテッドの洞窟ページが立ち、五月十九日に更新が止まる。二〇〇二年八月にはすでに英語圏の大型フォーラムで話題になっており、元サイトは転送量超過でミラーが作られている。二〇〇三年、後に主戦場となる画像掲示板が開設。
二〇〇四年から二〇〇六年にかけてディオネア・ハウスが複数サイトにまたがって展開。二〇〇五年十月、「コピーパスタ」の使用例が確認される。二〇〇六年四月二十日、俗語辞典に定義が登録。同年四月には雑談板に怖いスレが立ち始め、六月には日常化。七月十日から十九日にかけて、ある投稿がジャンル的な自作の流れを加速させる。
八月三十日、「クリーピーパスタ」という語の初出。八月三十一日、ザ・ホルダーズ第一作。九月には圧縮ファイル形式の原始アーカイブと専用フォーラムができる。二〇〇七年二月十五日、超常現象専門板の新設。六月二十二日にSCP財団の第一号が出る。
九月十日、映像系怪談の初期作。九月末、ネットスラング百科に項目が立つ。十二月二十二日、ザ・ホルダーズ専用データベースの登録。二〇〇八年一月十九日、SCP系のウィキ開設。三月十九日にクリーピーパスタ・ドット・コムが開設される。
三月二十八日、フーワズフォン。二〇〇九年、キャンドル・コーヴ。六月八日に画像加工スレッドが始まる。六月十日、スレンダーマンの初投稿。六月二十日には映像シリーズが始まる。
六月二十四日頃、匿名掲示板に流入。八月から十一月にかけて、笑顔の殺人鬼の話が形になる。十一月、一九九九。二〇一〇年三月二十四日、実話ふり専用板の開設。八月八日に専門ウィキが開設される。
八月、ロシアの睡眠実験。九月、ゲームカセットの話。二〇一一年六月三十日、ノーエンド・ハウスがウィキに収録される。七月二十一日、ネタ作品専門の姉妹サイト。八月、ゲーム改造系の代表作。
二〇一四年五月三十一日には傷害事件が起きる。二〇一八年、大学出版局から研究論文集。こうして並べると、二〇〇六年から二〇一〇年までのわずか五年に、ほぼ全部が詰まっていることが分かる。前史が十五年あり、成立が五年あり、あとは拡大と制度化だ。
テッドの日記の、書かれなかった部分について
再話では触れなかったが、この作品を語るうえで重要な「書かれていないこと」がいくつかある。まず、怪異の姿が一度も描写されない。何かがいる、という手応えは繰り返し書かれるのに、それが何なのかは最後まで言語化されない。目があった、とも書かない。輪郭を見た、とも書かない。
ホラーとしては極端に禁欲的だ。次に、動機が説明されない。なぜ彼らは、あれだけ嫌な目に遭っておきながら、何度も戻るのか。作中でテッドは何度か自問するが、答えを出さない。「行くしかなかった」としか書かない。
これは物語としては欠陥に見えるが、実話としてはむしろ自然だ。人間は自分の行動の理由を、大抵うまく説明できない。そして、感情が控えめだ。恐怖の表現は「不安だった」「落ち着かなかった」程度の、どうということのない言葉で処理される。物語の書き手なら、ここで筆が乗る。
乗らないところに、素人の記録らしさがある。面白いのは、これらの「欠点」が全部、後のジャンルの標準装備になったことだ。姿を描かない。動機を説明しない。感情を盛らない。
今のネットホラーの定番作法は、二〇〇一年の素人の洞窟日記にすでに全部あり、意図せずに、である。
信じた人たちの話を、もう少し
本編でいくつかの証言を紹介したが、もう少し立体的に見ておきたい。初期のこの手の話に対する反応は、大きく三層に分かれる。第一層が、単純に信じた人。二〇〇二年から二〇〇八年にかけての掲示板ログには、「読み終わって家中の電気をつけた」「あの音の描写で息が浅くなった」といった生理的反応の報告がずっと並んでいる。
閉所描写で気分が悪くなった、と書く人が繰り返し現れるのがこの作品の特徴で、恐怖の本体が超自然ではなく物理的な圧迫感にあることがよく分かる。第二層が、専門知識で見抜いた人。電動工具のバッテリー持続時間、洞窟の測量の実際、負傷時の記憶の性質。彼らは物語の内容ではなく、細部の実務的な整合性で判定し、この層の存在は面白い。
細部を詰めることで信憑性を上げようとする作者の戦略が、細部に詳しい読者の前では逆に弱点になる、という構図だからだ。実際、洞窟探検家からの見立ては「よくできた与太話、たぶん業界人の内輪の創作」で、これは結果的にほぼ正解だった。第三層が、信じていないのに離れられなかった人。この層がいちばん多い。作り話だと分かっており、それでも読み返すし、人に貼るし、映画化しろと言い出す。
「これは何度でも再投稿されるべきだ」と書いた読者は、真偽の話を一言もしていない。彼にとっての基準は本当かどうかではなく、貼るに値するかどうかだった。この三層構造は、以後のネット怪談すべてに引き継がれる。信じる者と、見抜く者と、承知のうえで乗る者。三種類全員がいないと、この種の話は広がらない。
信じる者だけでは議論が起きず、見抜く者だけでは死に、乗る者だけでは真剣味が出ない。
種明かしが作品を殺さなかった理由
普通、怪談の種明かしは作品を殺す。手品のタネを見せるのと同じだからだ。ところがこのジャンルでは、種明かしが作品を殺さないどころか、しばしば延命させる。テッドの日記がそうだ。二〇〇四年に本人がフィクションだと認め、二〇〇六年には実在の洞窟が特定され、高速道路の走行音という身も蓋もない説明までついた。
それでも今なお、この話は読まれている。むしろ「実在の洞窟がある」「実際に掘って抜けたところまでは本当」という事実が新しい魅力になった。完全なフィクションより、七割実話のほうが強かったのだ。理由を考えると、このジャンルの読者が求めているのが「真実」ではなく「境界」だからだと思う。どこまでが本当で、どこからが嘘か。
その線がどこに引かれるかを見たいのであって、線がないことを望んでいるわけではなく、種明かしは線を引く行為だ。線が引かれると、話はむしろ輪郭を得る。これは初期の作品全般に言える。作者名が判明しても、キャンドル・コーヴは弱くならず、作者が名乗り出ても、スレンダーマンは広がり続けた。事実確認サイトが公式に否定しても、ロシアの睡眠実験は減速しなかった。
むしろ、否定されたという事実自体が話題になって拡散を助け、このジャンルにおいて、否定は宣伝である。この不都合な真実は、二〇二〇年代の情報環境を考えるうえでも、たぶん相当重要だ。
匿名性が失われたあとの話
最後に、このジャンルが失ったものについて。二〇一〇年に専門ウィキができ、投稿者名が記録され、名作認定の仕組みができた。同じ頃、実話ふりを義務づけた板が生まれ、投稿者はハンドルとともに評価されるようになった。ここでジャンルの性質が静かに変わる。匿名で貼られて増える民話から、名前つきで投稿されて評価される作品へ。
これは進歩でもあるし、喪失でもあり、進歩の側面ははっきりしており、書き手が育つ。編集が入る。質が上がる。実際、二〇一〇年代のネットホラーの水準は、二〇〇六年頃の掲示板の落書きとは比べものにならない。書籍化する作家も、映像化する作品も出た。
喪失の側面は、もっと見えにくい。作者がいる話は、書き換えられない。書き換えられない話は、変異しない。変異しない話は、生き物ではなくなる。無断転載は盗用と呼ばれるようになり、改変版は二次創作という別カテゴリに整理された。
つまり、口承文芸のふるまいをやめて、普通の文芸になり、テッドの日記が特別なのは、その手前にいるからだ。名前を持たず、ジャンルを持たず、意図も持たず、ただ更新が止まったまま置かれている。誰も宣伝しなかったし、誰も投稿サイトに登録しなかった。それでも、二〇〇二年の夏に無料スペースの転送量を食い破るほど読まれ、前史というのは、そういうものだと思う。ルールができる前の、ルールがなくても成立していた時期。
今のネットホラーがどれだけ洗練されても、あの素人くさい洞窟ページが持っていた「判定不能」の強度には、たぶん二度と届かない。判定する仕組みが、もうできてしまったからだ。だからときどき、あのページを開く人がいる。装備の話を読み、フィートの数字を読み、風の音の描写に行き当たり、五月十九日で止まっている日付を見て、機能しない「次へ」を一応押してみる。何も起きない。
何も起きないことだけが、二十五年間ずっと起き続けている。
