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牛女――六甲山の夜道に立つ牛頭の女、戦中の焼け跡から阪神・淡路大震災後の再燃まで、七十年語られ続けた阪神間最恐の怪異を追う

六甲山には牛の顔をした女が出る。この一文だけで、関西で育った人間のうち一定数は「ああ、それな」という顔をする。神戸、西宮、芦屋、宝塚。阪神間で少年期を過ごした四十代以上に聞けば、誰かしらが夜の山道の話を持っている。牛女。

うしおんな。名前の付き方があまりに素朴で、逆に不気味だ。牛の顔で、体は人間の女で、着物を着ている。四つん這いで走る。バイクより速い。

見た者は死ぬ。ここまで来ると完全に怪物譚なんだが、この話の厄介なところは、出発点がどうも戦争の焼け跡にあるらしいという点にある。空襲。焼け野原。屠場もあった。

座敷牢。並べただけで胃が重くなる単語ばかりだ。今回はこの牛女という怪異を、戦中の流言から一九九五年の震災後の再燃まで、いけるところまで追いかけてみる。

夜の県道に仁王立ちしていた着物の女が、こちらを向いた

まず一番よく流通している型から入る。舞台は兵庫県西宮市、六甲山系の東の端。夜、峠道をバイクか車で走っている。カーブの先、ヘッドライトの届くぎりぎりのところに、着物姿の女が道の真ん中に立っている。こんな時間にこんな場所で、と思いながら慌ててブレーキを踏む。

ライトが顔を照らす。角が生えている。人間の顔じゃない。牛だ。ここで悲鳴を上げて逃げ出すのが正しい反応で、実際みんな逃げる。

だが逃げられない。牛女は四つん這いになって、猛烈な速度で追ってくる。バイクは一台、また一台とラインを外して転倒していく。ようやく振り切ったと思った男が、後ろを確認して安心して、視線を前に戻す。その瞬間、目の前に牛女が立っている。

彼もまたコースを大きく外れて、山肌に突っ込む。この筋書きのいやらしさは、二段構えになっているところだ。一度振り切らせておいて、安心した瞬間に正面に置く。逃走の成功体験をわざと与えてから、それを裏返す。怪談としての設計が妙にうまいんだよな。

しかも追跡者が四つん這いというのが効いている。二足歩行の人型が四つ足になった瞬間、相手は人間の側から獣の側へ落ちる。落ちた瞬間に速くなる。この「人だと思っていたものが獣として走り出す」という転換こそが、牛女という怪異の核だと思う。着物という記号もよく効いていて、和装は本来「ゆっくり歩くための服」だ。

走れない服を着たものが全速力で追ってくるという、動作と衣装のミスマッチが、見た者の頭を混乱させる。出没地点としてよく名指しされるのが、兵庫県道82号の大沢西宮線だ。さくら夙川駅のあたりから北へ上がっていくと、椀を伏せたような山が見えてくる。標高309メートルの甲山。その山裾を回り込んで有馬方面へ抜けていく道が、この県道82号にあたる。

狭い。カーブが多い。見通しが悪い。走り屋にとっては格好のステージであり、同時に事故が起こりやすい道でもある。そういう道に怪異の噂が貼り付くのは、全国どこでも同じだ。

ただ、この道には後述するもう一つの「動かすと祟る岩」があって、それが牛女の噂と絡み合っている。そこが六甲の面白いところで、複数の怪異ネタが一本の県道の上で合流してしまっている。

焼け跡で犬を食っていたものがいた、という噂から全部が始まる

派手な峠の追跡譚は、実は後から生えた枝だ。幹はもっと暗くて、もっと古い。一九四五年、太平洋戦争末期。阪神間の市街地が空襲で焼き払われたあとの焼け跡に、着物を着た牛頭の女が現れて、焼け死んだ動物の死骸を食っていた。犬とも家畜とも言われる。

口のまわりを血で汚しながら、内臓を貪っており、周りには人がいた。何人も見ており、それでも誰も近づけなかった。この話が、牛女という怪異の最初の姿だとされている。ここで押さえておきたいのは、この段階の牛女がまったく追いかけてこないということだ。走らない。

襲わない。ただ焼け跡にいて、死骸を食っている。それだけ。それだけなのに、こっちのほうが数段こわい。峠を追ってくる牛女は「敵」だが、焼け跡の牛女は「風景」なんだよな。

目撃者と怪異のあいだに追跡関係がない。ただ同じ焼け野原に、人間と、牛の顔をした女が、並んで存在している。戦争によって都市が更地になり、常識の土台が崩れた場所には、こういうものが平然と混じっていても不思議じゃない。そういう感覚が、当時の人の腹の底にあったんだと思う。伝承の分布はかなり狭い。

ほぼ兵庫県西宮市、それも甲山の近辺に集中している。

神戸市域や芦屋市までは話が伸びるが、大阪や京都ではまず語られない。この「地域が異様に限定されている」という点は、牛女を考えるうえでかなり重要だ。全国区の口裂け女みたいに列島を横断していかない。阪神間という、山と海に挟まれた細長い帯のなかで、ぐるぐる回り続けている。土地に縛られた怪異なのだ。

一九四五年の阪神間で、実際に何が焼けたのか

牛女の背景として語られる空襲は、雰囲気だけの飾りではない。実際に阪神間は徹底的に焼かれている。米軍による神戸への大規模な焼夷弾攻撃は、一九四五年三月十七日未明、五月十一日、六月五日、そして八月六日深夜と続いた。二月四日にも昼間の空襲がある。とくに六月五日は西の垂水区から東の西宮までを広範囲に爆撃し、それまでの空襲で焼け残っていた神戸市の東半分が焦土になった。

神戸市域の被害は戦災家屋約十四万二千戸、罹災者五十三万人余、死者七千五百人前後とされる。人口千人あたりの戦争被害率は、東京、大阪、名古屋、横浜、神戸の五大都市のなかで神戸が最も高かった。西宮市も五回の空襲を受けている。六月五日には米軍の大型爆撃機の編隊が紀伊水道から阪神地区へ侵入し、川西町、霞原町、川東町、宮西町、荒戎町、市庭町といった市街地に焼夷弾を落とした。

六月九日には鳴尾村が狙われ、川西航空機鳴尾製作所は建物被害が六割に達している。そして最大規模だったのが八月五日夜半から六日未明にかけての波状攻撃で、市の南部市街地はほとんど全滅した。国宝だった西宮神社の三連春日造りの本殿が全焼し、同じく国宝の大練塀も百七十メートルにわたって焼け落ちている。

五回の空襲による西宮市の罹災面積は全市の約二割、死者六百三十七人、重軽傷者二千三百五十三人、全焼全壊約一万五千三百戸、被災者は六万六千五百人を超えた。芦屋市でも百三十九人が亡くなっている。なぜここまで数字を並べるかというと、牛女の噂が立った場所が、こういう場所だからだ。焼夷弾で焼かれた街には、当然、動物の死骸が転がる。牛も豚も犬も猫も焼ける。

人も焼ける。焼けた肉のにおいが街に充満する。そういう場所を、疲れ切って栄養失調で、身内の安否も分からない人間が歩いている。何を見てもおかしくない。何を見たと言われても、否定する材料がない。

牛女の噂は、この条件のもとで生まれている。

座敷牢の娘という筋書きが、なぜここまで気味悪く効くのか

牛女には出生譚がある。しかもかなり具体的だ。西宮の市街地に、牛の屠殺を家業として大きな金を手にした家があった。あるいは肉牛を大量に扱う商家だったとも言われる。その家に女の子が生まれた。

ところがその子は牛のような頭をしており、家長は外聞を恐れて、娘を座敷牢に閉じ込めて育てる。娘は薄暗い座敷牢のなかで年を重ね、恨みを溜めていった。そして空襲の夜、屋敷が炎上し、炎の熱で牢の格子が歪み、あるいは屋敷が崩れて、娘は外へ出た。焼け跡に現れた牛頭の女は、その娘だったのではないか――そういう話だ。

鷲林寺の住職が寺の公式ページに書き残している版は、こうだ。焼失したのは牛の屠殺場で、そこに座敷牢があり、中に牛頭の娘が閉じ込められていたという噂があった。その焼け跡に牛女が現れたのだ、となっている。そして「その事件を地元の新聞が掲載したらしい」という伝聞が添えられている。ここが実に生々しい。

「らしい」という留保がついたまま、新聞という権威が持ち出される。

この構造は流言の典型で、実物の紙面は誰も出してこないのに、「新聞に載った」という一文だけが独り歩きしていく。この出生譚がなぜ強いのかというと、三つの不安を一発で束ねているからだ。ひとつは富への嫉妬。戦時下、国民全体が芋の茎を食って耐えているときに、屠場や肉牛で儲けた家がある。二つ目は隠された部屋への恐怖。

座敷牢は実在した制度で、当時は精神疾患のある家族を自宅の一室に監置する私宅監置が合法だった。「あの家の奥には見てはいけない誰かがいる」という不安は、当時の日本社会ではまったくの絵空事ではなかった。三つ目は牛への贖罪意識。牛を殺して稼いだ家に牛の顔の子が生まれるという因果は、あまりに分かりやすくて、逆に人の口に乗りやすい。嫉妬と密室と因果応報。

この三つが同じ屋敷のなかで合流する。よくできている、と言いたくなるくらいよくできている。だからこそ、はっきり書いておきたい。この筋書きは、実在の家や家系を怪物視するための道具として使われてはいけないし、この記事でも特定の家名や職業従事者を名指しすることは一切しない。屠畜という仕事に従事する人々への差別は、この国で長く現実の暴力として存在してきた。

牛女譚が「屠場の家」を悪の側に置いているのは、怪談の巧妙さではなく、当時の差別意識がそのまま怪談の形を借りて表に出たものだと見るのが正しい。この点は後でもう一度、腰を据えて書く。

人面牛身で、生まれてすぐ予言して死ぬ――件という先輩

牛女を語るとき、絶対に避けて通れないのが件(くだん)だ。人偏に牛と書いてくだん。文字通り、人と牛の合体した妖怪で、こちらは頭が人間、体が牛。十九世紀前半ごろから日本各地で知られるようになった予言獣だ。牛から生まれ、生まれてすぐ人語で予言をし、数日のうちに死ぬ。

予言の内容は豊作か凶作か、疫病の流行か、戦乱か。そして自分の絵姿を貼っておけば災いを免れると教える。史料として古いところでは、文政二年、つまり一八一九年の『密局日乗』に記載がある。周防国の民家の牛から人面牛身の子牛が生まれ、自ら件と名乗って豊作とその後の兵乱を予言したという。天保七年、一八三六年には丹後国与謝郡で刷られた瓦版が流布し、倉橋山に件が現れたと報じている。

この瓦版には「この件の絵を貼っておけば家内繁昌し疫病から逃れ、一切の災いを逃れて大豊年となる、じつにめでたい獣である」という趣旨のことが書かれている。天保七年といえば天保の大飢饉が最悪の局面に入った年で、せめて豊作への期待を持ちたいという心理が働いていたのだろうという指摘がある。

慶応三年、一八六七年の錦絵『件獣之写真』では、出雲の田舎で件が生まれ、「今年から大豊作になるが初秋頃から悪疫が流行る」と予言して三日で死んだ、とされている。安政七年、一八六〇年三月十二日付で牛から件が生まれたという報告書が、二〇二〇年に兵庫県立歴史博物館で見つかってもいる。証文の末尾に書く「よって件の如し」という決まり文句は、件が正直で予言が外れないからだ、という説明が西日本各地に伝わっている。

天保の瓦版にもそう書いてある。ただし「如件」という定型句は平安時代の『枕草子』の時点ですでに使われていて、妖怪の件が文献に出てくるのは江戸後期だから、時系列が逆だ。これは後付けの民間語源、いわゆる俗解語源だろうというのが今の定説になっている。とはいえ、天保の時点ですでにその説明が流布していたということ自体が、件という妖怪が当時どれだけ生活に食い込んでいたかを物語っている。明治以降も件は生き延びる。

ラフカディオ・ハーンの『日本瞥見記』にも、伯耆から隠岐へ向かう章に説明が出てくる。顔が人で胴が牛、牛から生まれることがあり、生まれると何かが起こる前兆で、つねに本当のことしか喋らない。長崎市の博物館に件の剥製が陳列され、生後三十一日目に「明治三十七年には日本はロシアと戦争をする」と言って死んだのだという記事も残っている。

昭和五年の岡山の資料には「件クダン、半人半牛ノ妖怪デ牛カラ生レ出デ予言ヲナシテ直ニ死ヌ」とある。柳田国男が監修した『改訂綜合日本民俗語彙』にも「四、五日しか生きていない。多くは流行病や戦争の予言をする」という説明が載っている。

三日以内に小豆飯かおはぎを食えば空襲を免れる、という予言

そして件は、太平洋戦争でもう一度前面に出てくる。ここが牛女とつながる部分だ。昭和五年ごろ、香川県で「まもなく大きな戦争があり、勝利するが疫病が流行る。しかしこの話を聞いて三日以内に小豆飯を食べて手首に糸を括ると病気にならない」と件が予言したという噂が立った。昭和八年には同種の噂が長野県でも流行し、小学生が弁当に小豆飯を入れることから小学校を中心に広まったという。

ただし長野版では予言したのが蛇の頭をした新生児に変わっていて、諏訪大社の祭神とされていた。噂は移動するたびに形を変える。昭和十八年には山口県岩国市の下駄屋に件が生まれ、「来年四、五月ごろには戦争が終わる」と予言したという話が出る。そして昭和二十年三月ごろ、愛媛県松山市などで噂が流れる。「神戸に件が生まれ、自分の話を信じて三日以内に小豆飯かおはぎを食べた者は空襲を免れると予言した」というものだ。

これは軍の憲兵司令部の資料に記録されている。神戸で件が生まれた、という噂が松山まで届いていた。神戸大空襲の三月十七日は、この直前だ。さらに面白いのが、内務省警保局保安課の資料に残る記録だ。

昭和十九年四月十日付の『思想旬報』第二号に、「戦争の終局近しとする流言」の一つとしてこんな話が挙がっている。「◯◯で四脚の牛の様な人が生れ此の戦争は本年中に終るが戦争が終れば悪病が流行するから梅干と薤を食べれば病気に罹らないと云つて死んだ」。当局はこれを「何れも迷信に基づくもの」としつつ、「食糧不足に関連する流言の激増と相まって治安上相当注意を要する」と結んでいる。

つまり件の噂は、単なる民話ではなく、治安当局が本気で監視していた流言だった。取り締まりの対象になるほど広く語られていたということだ。ここに一つ、皮肉な符合がある。件の予言はどれも「戦争が終わる」方向を向いている。早く終わってほしい、という民衆の願望が妖怪の口を借りて出ている。

厭戦気分を妖怪に仮託して語れば、直接口にするより安全だ。件は民衆の不安の代弁者であると同時に、検閲をすり抜ける器でもあった。

小松左京が「くだんのはは」で牛女に与えたもの

一九六八年一月、雑誌『話の特集』に、小松左京の短編「くだんのはは」が発表される。日本のエスエフを背負った作家が書いた、まぎれもないホラーの傑作だ。この作品が、牛女という噂を全国区へ引き上げた。物語はこうだ。昭和二十年六月、旧制中学三年生の良夫は、芦屋の家を阪神間大空襲で焼かれる。

神戸港の造船所で特殊潜航艇を作る学徒動員の日々。住む場所を失った良夫のもとへ、かつて家に通っていた家政婦のお咲が現れ、自分が住み込みで働いている屋敷へ案内してくれる。父親は疎開先の工場へ行くと言って良夫を置いていくが、実は不倫相手のアパートに転がり込むためだった。その屋敷が異様だ。戦況がどれだけ悪化しても、空襲の危険がない。

食事に困らない。あれだけの大邸宅なのに、住んでいるのはお咲と、屋敷の主である「おばさん」と、病気で姿を見せない女の子の三人だけ。良夫は毎日を生き延びるので精一杯で、違和感は覚えつつも深く追及しない。それでも奇妙なことは重なる。誰かの視線を感じる。

すすり泣く声が聞こえる。お咲が血のようなどろっとしたものを盛った皿を持って奥の間に出入りする。血膿の臭いのする汚れた包帯を運んでいく。獣の毛の付いた血肉の塊を見かける。おばさんの言葉もおかしい。

良夫の母と弟妹の疎開先が広島県だと聞くと、しきりに心配する。芦屋のもっと西はここよりもっとひどいことになる、と言う。もうじき何もかも終わります、とも言う。そして八月十三日、おばさんは良夫に、明後日、敗戦が公式に発表されるはずだと告げる。良夫には受け入れられなかった。

だが八月十五日、その通りになった。あんな予言をしたから日本が負けたんだ。行き場のない怒りに突き動かされて、良夫はついに屋敷最大のタブーを犯す。奥の間を見てしまう。そこにいたのは、十二、三歳ほどの、牛の頭を持つ女の子だった。

赤い振袖を着ている。おばさんが語るには、その子は種々の予言で家を救ってきた守り神であり、同時に、おばさん夫婦の先祖が代々虐げてきた百姓たちの恨みが結晶した「劫」でもあるのだという。そして、他言すれば良夫の身に不幸が起こると口止めされる。二十二年後の昭和四十二年。

社会の空気がふたたび戦争中のように不穏になっていく頃、良夫はあのときお咲が運んでいた皿に何が盛られていたのか、聞いておけばよかったと思い返す。良夫には娘が生まれていた。他言無用を守り抜いたにもかかわらず、その娘の頭には、あの奥の間の子と同じように角が生えていた。小松は自身の戦争体験を土台にこれを書いている。

作中の阪神間の描写は具体的だ。芦屋の本当の大邸宅街は阪急や国鉄の沿線より浜寄りの阪神電車芦屋駅付近にある。山手は新興階級のもので、由緒の古い大阪の実業家の邸宅はこのあたりと西宮の香櫨園、夙川界隈に多かった、といった記述が出てくる。石垣をめぐらせ、忍び返しの付いた高い塀に囲まれ、避雷針の先端の金やプラチナが階級の象徴のように光っている。

西宮大空襲の夜、東の空の赤黒い火炎と、マグネシウムのようにはじける中空の火の玉を見つめる場面もある。三十四年間小松の秘書兼マネジャーを務めた人物が語っている。戦時中の体験は小松左京の原点であり、この小説は人間の業の深さとからめて戦争の悲しみを描いて本当に怖い、と。タイトルの「くだんのはは」には、件の母という意味のほかに、靖国神社のある「九段」とのダブルミーニングを読む解釈がある。

国のために死んだ人々を祀る場所の裏側で、虐げられた者たちの怨念が渦を巻いているという読み方だ。作品の主題が「先祖が虐げてきた百姓の恨みの結晶」である以上、この読みはかなり説得力がある。

件と牛女は同じものなのか、それとも別の生き物か

ここが牛女論のいちばん熱いところだ。結論から言うと、研究者や怪異収集家のあいだでも意見が割れている。同一視する側の根拠はシンプルで、小松左京が「くだんのはは」で描いた件が、牛面人身だったからだ。従来の件は人面牛身、つまり顔が人で体が牛。ところが小松版では顔が牛で体が人になっている。

生まれたときから角があり、それが伸びるとともに顔が牛そっくりになっていく。しかも人間から生まれる。作中では、これに該当するのはギリシャ神話のクレタ島のミノタウロスぐらいだ、とも書かれている。つまり小松版の件は、そのまま牛女なのだ。だから牛女は件の一種であり、小説が噂を全国へ運んだ、という筋になる。

反対する側の代表格が、怪異収集家の木原浩勝だ。木原は件と牛女を明確に区別すべきだと主張している。理由は三つ。件は牛から生まれるが、牛女は人間から生まれる。件は人面牛身、牛女は牛面人身。

件は人語を話すなど知性が認められるが、牛女にそれは認めがたい。姿も出自も知能もまるで逆。同じ扱いにするのは乱暴だ、という立場だ。木原はさらに、四つん這いで猛スピードで追ってくるという目撃情報にも触れている。あれは「路上を四つん這いで追ってくる霊」という別系統のイメージが混入した誤りだ、と強く言っている。

牛女は本来、追いかけてこない存在だったはずだ、と。

どちらが正しいか。個人的には、両方正しいと思っている。というのも、順番の問題だからだ。まず戦中の阪神間に、焼け跡で死骸を食う牛頭の女という噂があった。同時期に、神戸で件が生まれたという予言の噂も流れており、二つは別々の話として並行している。

そこへ一九六八年、小松左京が両者を一本の物語に縫い合わせた。牛の頭を持ち、人間から生まれ、予言をする娘。以後、両者は文化的に融合してしまった。件を知る人が牛女の話を聞くと件を思い出し、牛女の話を聞いた人が件を調べるとくだんのははに行き着く。もはや切り離せない。

区別すべきだという主張は民俗学的には正しく、区別できないという実態は都市伝説的には正しい。ちなみに、件のような予言する怪異には仲間が多い。人面魚の神社姫、三本足のアマビコ、越中立山のクタベ。どれも疫病の流行を予言し、自分の絵姿を写して掲げれば災いを免れると教える。近代になるとこの手の予言獣はだいたい姿を消していくのだが、件だけは息が長かった。

日露戦争を予言し、太平洋戦争の終戦を予言し、そして牛女という形に変異して戦後まで生き延びた。牛の出産に立ち会うことが農家では近代以降も身近だったからだ、という説明がされている。理屈は分かる。件が生まれる現場が生活のなかにあり続けた、ということだ。

動かすと祟る、県道の真ん中の岩

牛女の話には、必ずと言っていいほどこの岩が絡んでくる。西宮市鷲林寺町、県道82号大沢西宮線のカーブの途中に、道路の真ん中に岩がある。高さ約二・五メートル、幅約五メートル。真ん中に亀裂が入っていて、二つの岩が寄り添うように並んで見えることから、夫婦岩と呼ばれる。県道はこの岩を挟んで、北行きと南行きに分かれている。

どう見ても交通の邪魔だ。それでも撤去されない。地元では古くから「動かそうとすると呪われる」と言われてきた。一九三八年の阪神大水害の復旧工事のとき、国がこの岩を爆破しようとしたが、工事関係者が急死して中止になった――そんな話が語られている。ただし西宮市にも県の土木事務所にも、それを裏付ける記録はない。

それでも県はこの岩を動かさない前提で県道の拡幅を設計した。夫婦岩の南北約一キロを拡幅するにあたって、道路全体を西側にずらす形にした。事業費は約八億円。担当部署は「岩を撤去する予定はなかったが、その理由は分からない」と答えている。別の担当者は「言い伝えは担当者に引き継がれ、計画段階でも岩を動かそうという声は出なかった」と語っている。

平成の世に、行政が関わる公共工事が、明確な理由もなく岩を避けて設計された。

これはこれで、なかなかの怪談だ。もともとは信仰の側の岩だったらしい。二つに割れた大岩が寄り添う姿から、鷲林寺に参詣する人々が夫婦円満を願って夫婦岩と呼ぶようになったと伝わる。少し南には夫婦池があり、少し北には夫婦橋がある。鷲林寺に参る人は三つの夫婦を通って詣でたという。

ところが心霊スポットとしても有名になってしまう。岩の近くで幽霊を見た、女のむせび泣く声を聞いた、深夜の霧雨のときに割れ目から女の生首が睨んでいた、無数の手が伸びてきた。そういった話が積み上がっていく。そのなかに、夜中にこの岩の上で何かが怪しげな踊りをしていて、よく見ると赤い着物を着た頭が牛の女だった、という話がある。

牛女がこの岩に座って車を追いかけてくる、という話も西宮の子どもたちのあいだで語られていた。忌避信仰のある岩と、心霊スポットと、牛女。三つが同じ座標に重なっている。ちなみにこの夫婦岩は、貴志祐介の小説『十三番目の人格』にも登場する。地元の作家が地元の不気味な岩を作品に入れる。

そうやってまた噂は補強されていく。

「牛女は引っ越しました」――巻き込まれた寺の三年間

牛女の話でいちばん人間くさくて、いちばん切実なのが、鷲林寺をめぐる一件だ。これは寺が自らサイトに書き残しているので、経緯がかなり詳しく分かる。鷲林寺は西宮市鷲林寺町にある真言宗の寺で、天長十年、八三三年に淳和天皇の勅願で空海が開いたと伝わる。昭和五十年代前半までは、夜になれば何の音もしない静かな山寺だった。

当時高校生だった後の住職は、高野山大学へ進んで四年間を修行と勉学に費やし、西宮に戻ってきたのが昭和五十七年。そのころから、夜中に若者がやってきて肝試しを始めるようになった。最初はそれほどでもなかったが、月を追うごとに数が増えていく。夜中に門を作った。うるさいときは注意しに行った。

ひどいときは警察を呼んだ。それでも訪問者は増える一方だった。ある日、駐車している車のナンバープレートを見て住職は驚く。県外ナンバーが多い。広島、岡山、京都。

なぜこんな遠くから深夜にやってくるのか。理由が分かったのは、たまたま注意した男の子と話をしたときだった。鷲林寺のことが某週刊誌に載っている、というのだ。内容は、境内の荒神さんの祠のまわりを三周すると牛女が追いかけてくる、というもの。誰かの投稿記事だった。

寺は断りもなくでたらめを載せた週刊誌に抗議し、週刊誌側は平謝りしたが、謝ってもらったところで夜中の訪問者は減らない。記事を見た人から人へ、噂はどんどん広がっていった。なぜ荒神の祠を三周すると牛女が出る、という話になったのか。住職の説明が明快だ。荒神を祀る祠には、荒神の眷属として牛を祀るのが普通で、祠の両脇に牛が置かれている。

どこの荒神さんにもある。その牛を見た誰かが「牛女」と言い、そのひとことが噂になり、広がり、最終的に週刊誌に載って一気に燃え上がった。つまり、牛の像を見た誰かの雑な連想が発火点だった。さらに噂は移動する。いつの頃からか、牛女がいる場所は荒神の祠から、本堂の下の洞穴へと移った。

この洞穴は、戦国時代に織田信長によって焼き打ちされたとき、鷲林寺の僧が有馬まで穴を掘って逃げ延びたと伝わるものだ。現在は十メートルほどの位置でせき止めて八大龍王を祀っている。八大龍王は仏法を護る龍衆の八王で、古代インドの蛇神ナーガに由来し、雨乞いの神として崇められてきた。牛とは何の関係もない。それなのに、深夜の訪問者が面白半分に洞穴へ入って奇声を上げる。

寺はやむなく鉄柵を取り付け、すると訪問者はその鉄柵を見て「牛女が出られないようにするための鉄柵だ」と言い出した。完全に逆効果で、夜の訪問者に悩まされる日々は三年ほど続いた。睡眠不足が続き、住職はノイローゼ状態になる。そんなある日、冗談のつもりで山門の入口に看板を出し、「牛女は残念ながら引越しされました」。すると訪問者は激減し、寺は静けさを取り戻した。

まさかこれが効くとは思わなかった、と住職は書いている。後日談がまたいい。寺務所に若い男が訪ねてきて、すいません、牛女はどこに引越ししたんですか、と聞く。答えようがなくて、東北地方と聞きましたが、と思わず答えてしまった。東北地方か、遠いな、せっかく来たのにな。

そう言い残して帰っていく後ろ姿が強く印象に残っている、という。この一連のやりとりは、怪談としてよりも、噂という現象の本質を突いた寓話として素晴らしい。怪異は場所に貼り付いているのではなく、語る人間の頭のなかに貼り付いている。だから「引っ越した」と言われれば、あっさり消える。

テレビ局に騙された、という住職の告発

寺の受難はそこで終わらなかった。一九九九年の夏前、某テレビ局から電話がかかってくる。寺を舞台に撮影させてほしい、と。超有名なタレントが寺に泊まって留守番をして、寺の体験をするという企画だ、という説明だった。住職は迷ったが、寺という場所が心のよりどころとして若い人に親しまれるようにならなければいけない、という日頃の考えから、話だけは聞いてみることにした。

ところがプロデューサーが来て詳しく聞くと、牛女の伝説にからめたバラエティ番組だという。当然断った。だがテレビ局はあの手この手で食い下がる。企画を変えての撮影ではどうか、住職の言う通りにしますから、と言ってくる。そこで住職は自分の見解を伝えた。

寺は葬式と法事の場所だと思われがちだが、昔は寺子屋であり役場代わりであり集会所であり、人が集まる場所だった。それが変わってしまったのは残念だ。導入口として「お化け」を使うのは仕方ないが、最終的に、夜の寺の顔と朝の寺の顔がまったく違うという映像を流してほしい。夜はお化けが出そうで怖いが、朝は鳥がさえずって実にすがすがしい。人の心も同じで、辛いときがあれば楽しいときもある。

そういう心を扱うのが本来の寺の姿なのだと、自分がタレントに話す。それに答えてタレントがコメントする。辛くなったら近所の寺でも神社でも教会でもいいから門を叩いてごらん、きっとやさしく迎えてくれるよ、と。そういう企画案を出したのだ。プロデューサーは、その通りにしましょう、と答えた。

撮影当日、住職も寺の者も別の場所へ移動させられ、何が撮影されているのか分からないまま夜が明ける。放送当日、テレビに映し出されたものを見て、住職は「だまされた」と思った。メッセージなど一切なく、ただのバラエティ番組。まるでお化け寺のイメージで映っていた。抗議の電話はしたが、放送後ではどうにもならない。

全国放送だったため問い合わせが殺到し、釈明に二年ほどかかった。そして当然、夜中の訪問者はふたたび増えた。最終的に撮影許可を出したのは自分だから仕方ない、と住職は書いている。この文章には、怪談ブームの裏側で誰が疲弊していたのかが、はっきり刻まれている。

甲山と神呪寺、そして火を吐く大鷲の神

牛女の舞台がなぜこの一帯なのかを考えるうえで、土地そのものの性格を押さえておきたい。甲山は標高三〇九・四メートル。約一二〇〇万年前の火山活動の名残で、岩質は輝石安山岩。隣接する六甲山が断層の隆起でできた花崗岩の山地であるのとは、まったく成り立ちが違う。周囲の花崗岩を貫いて噴出したマグマが冷え固まり、二〇〇万年ほどの活動が終息したあと、侵食によって火口付近の火道周囲だけが塊状に残った。

だからあの椀を伏せたような独特の形になっている。西宮市南部のあちこちから見える。甲東園、甲風園、甲陽園といった地名は、この山にちなんでいる。明治のはじめ、神戸に来航した欧米人はこの山をビスマルク山と呼んだ。ドイツ帝国の宰相ビスマルクがかぶっていた三角の帽子に似ていたからだという。

そして甲山は、古くからの信仰の山だ。廣田神社の神奈備山、つまり神の宿る山とされてきた。一九七四年には祭祀用の銅戈が出土している。山名の由来については、二つの説がある。神功皇后が国家平安を祈って山頂に如意宝珠や甲冑を埋めたという伝説から「甲」の字が当てられたという説。

そして、もともと「神の山」つまりコウノヤマだったのが転じたという説だ。中腹には神呪寺がある。

神を呪う寺ではなく、神の寺だ。天長八年、八三一年に淳和天皇の妃であった如意尼が開いたと伝わり、本尊は如意輪観音。通称は甲山大師。山号は長らく武庫山、つまり六甲山だったが、後に甲山に改められた。この神呪寺の開基伝説に、実にそそる存在が出てくる。

ソランジンだ。寺の西の山に大きな鷲が住んでいた。その山はいつも黒い雲に覆われ、ときどき火の玉が噴き出す。火の玉は大鷲が吐く火で、ある日、大鷲は火を吐きながら寺に襲いかかってきた。如意尼は仏に供える井戸水を運ばせて火に注ぎかけ、火を消し、大鷲はかなわないと見て西の山へ帰っていく。

この大鷲の正体は、西の山に古くから住むソランジンという神が姿を変えたものだった。ソランジンは、本来自分が神として崇められていたのに、近ごろは人々が仏教ばかりありがたがって自分をないがしろにするのが面白くなかったのだ。弘法大師の助言が良い。

どんなに悪い神でも決して憎んではならない。ソランジンはこの地方のもともとの神、いわば地主神なのだから、東の谷の大きな岩の上に祀ってあげなさい。そうすればもう悪さはしないだろう。如意尼はその通りにした。以後、大鷲が寺を襲うことはなくなった。

鷲林寺側の縁起では、少し話が違う。空海が入山しようとしたところをソランジンが火を吐いて妨げ、空海は桜の大木にこれを封じ込めた。その霊木で十一面観世音菩薩を刻んで寺号を鷲林寺としたことになっている。ソランジンは荒神として祀られ、寺の鎮守になった。つまりこの土地には、もともと「外から来た仏教が、土着の荒ぶる獣神をなだめて祀り込んだ」という物語の型がある。

牛女がこの一帯に居着いたのは偶然ではないのかもしれない。

祟る岩があり、火を吐く鷲の神がおり、荒神の祠には牛が置かれている。牛の頭をした異形が住み着く条件は、戦争が来るずっと前から揃っていた。

追いかけない牛女、追い越していく牛女、丑三つ時の牛女

派生バージョンを一つずつ見ていく。まず、走り屋の間で語られていた版。これは牛の体に女の顔をした、つまり件と同じ人面牛身の型だ。夜、一人でバイクに乗って峠を走っていると、これが後ろから追いかけてくる。ただし追いつかれても何も起きない。

そのまま追い抜いていく。追い越されても特に何もない。ただそれだけ。この身も蓋もない結末が、逆にこの版のリアリティを支えている。神戸市に住む四十代ぐらいの人なら一度は聞いたことがある、と言われるくらい流通していた話で、走り屋のあいだでは有名な都市伝説だった。

恐ろしさより、遭遇したという事実だけが語られる。ある種の武勇伝として消費されていた感じがある。もう一つ、まったく別系統として「丑三つ時に出るから牛女」という版がある。これは牛の要素がまるでない。丑の刻、つまり午前二時前後に出る女の幽霊を、丑にひっかけて牛女と呼んでいるだけだ。

同じ名前で呼ばれているのに中身が違う。こういう名前だけの流用が起きるのは、牛女という語がその土地で圧倒的な知名度を持っていた証拠でもある。とりあえず不気味な女が出れば牛女と呼んでおけ、という状態になっていた。三つ目が、寺の周囲を三周する版だ。六甲山麓のある寺で、真夜中に本堂を外から三周すると牛女が現れる。

竹藪のなかからこちらを覗いている。それを見てしまうと追いかけてきて殺される。あるいは本堂近くの洞穴に龍神を祀る祠があり、夜中にそこへ行くと祠の影に潜んでいる牛女と目が合う。追いかけられて捕まると殺される。だから夜になると洞穴の入口は鉄柵で閉ざされる。

これが鷲林寺で実際に何が起きたかを知ったあとで読むと、なんとも言えない気持ちになる。荒神の眷属の牛像を誰かが牛女と呼び、週刊誌がそれを載せ、噂は洞穴へ移り、寺が防護のために付けた鉄柵が「封印の鉄柵」として噂に組み込まれた。現実の対処が、そのまま怪談の材料に変換されていく過程が見て取れる。四つ目が、六甲山の廃屋・廃墟へ流れ込んだ版だ。

六甲山系はそもそも廃墟の宝庫で、戦前のモダンな社交場だった建物が、戦争と災害と観光の衰退を経て山中に取り残されている。神戸市灘区の山中には日本人形の残る廃屋があり、有馬側の旧道沿いには羊の剥製が飾られていたという洋館の廃墟の噂がある。裏六甲ドライブウェイ沿いのラブホテル跡地には首なしライダーの噂がついている。こうした山中の空き家群に、牛女の噂が滲み出していく。

六甲の山中の廃屋に牛女が棲んでいる、屋敷の奥に牛の頭をした女が座っている、というバリエーションだ。ただしここははっきり書いておくが、これらの廃墟はすべて所有者のいる私有地であり、無断で立ち入れば不法侵入になる。山中は崩落もマムシもスズメバチもいる。牛女に会う前に現実の危険で死ねる。行かないでほしい。

甲山の斜面に座っていた、赤い着物の女

ここから体験談を並べる。まず、怪異収集家の木原浩勝が友人から聞いたという話。その友人の中学校の教師が体験したことだという。その教師は植物採集のために甲山へ入った。標本にする草を探して斜面を歩き回り、気づいたら夕方になっていた。

日が傾いて、木々の隙間から差す光が赤みを帯びてくる。そろそろ帰ろうと山を下りはじめたとき、少し離れた斜面に人影が見えた。座り込んでいる。赤い着物を着ている。女性のようだ。

こんな時間に、こんな斜面で、着物姿で何をしているのか。教師は不思議に思って、その人影をしばらく観察した。距離があるのではっきりとは見えないが、明らかにおかしい点が一つあった。頭部が異常に大きい。人間の頭とは比率が違う。

何かかぶっているのか、それとも髪を結い上げているのか。判断がつかないまま見ていると、女が立ち上がった。立ち上がった全身が見えた瞬間、それが女ではないと分かる。赤い着物を着た牛で、首から上は完全に牛で、口からは血がしたたっていた。何かを食べていたのだ。

この話の怖さは、目撃者が逃げも追われもしないところにある。教師はただ見た。牛女は立ち上がっただけだ。追跡も襲撃もない。にもかかわらず、この短い証言は牛女譚のなかでも屈指の不気味さを持っている。

理由は「口から血がしたたっていた」という一点に尽きる。焼け跡で死骸を貪っていた最初期の牛女と、同じ行動をしている。戦争が終わって何十年も経った甲山の斜面で、それはまだ何かを食っていた。

墓参りの帰り道、畦道に座っていた老婆が振り向いた

二〇〇四年九月に匿名掲示板へ投稿され、その後まとめサイトや朗読動画で無数に拡散した体験談がある。投稿者の友人の両親が体験したという、伝聞の伝聞だ。それでもディテールの積み方がうまくて、ネット上の牛女譚の代表格になっている。四年ほど前のお盆の頃。夫婦は弟夫婦と一緒に、墓参りのために実家へ帰省した。

墓参りを済ませ、実家で夕食をとってから帰ることにした。夫を含む三人は酒を飲んでいたので、運転は妻。助手席に夫、後部座席に弟夫婦が乗り込んだ。実家を出たのはもう真夜中近くだった。しばらく山道を走っていると、前方の道沿いに畑が見えてきた。

あれ、と妻は思う。道路のすぐ横、畑の畦道に、着物を着た老婆が座っている。こちらに背を向けている。首をうなだれて、背中だけが見える。こんな時間におばあさんが畑にいるなんておかしいわね。

後部座席の弟夫婦とそんな会話を交わしながら、妻はスピードを緩めた。老婆はこちらに背を向けたまま、身じろぎもしない。そして車が老婆の真横に来た瞬間。座っていた老婆が、くるりとこちらに顔を向け、牛の顔で、車内の三人が悲鳴を上げるなか、突然エンジンが止まった。そして牛女が助手席側の窓を叩いた。

バァーン、と鈍く重い音が響く。きゃあっ、早く車出して。妻は震える手で何度もキーを回すが、エンジンはまるでかからない。ここで、この話は最高に厄介な一段を挟んでくる。助手席の夫だけが、何も見えていないのだ。

なんや、なんの音や、と夫が叫ぶ。なんでみんな騒いでるんや。なんでって、あなたには見えないの、真横にいるのに。なにがおるんや、なんで止まってる。バーン。

牛の顔の老婆が窓を叩いてるのよ。そんなもんおらん。いるのよ、そこに、あなたの真横に。バーーン。何度やってもエンジンはかからない。

どけ、かわれ。夫が運転席に移り、キーを回した瞬間、嘘のようにあっさりエンジンが回りだした。はやく出して。車は走り出し、牛女は追ってこなかった。その後も里帰りのたびにその道を通ったが、牛女に会ったのはその一回だけだったという。

この話の投稿には後日談がついている。話を聞いていた友人が一冊の本を差し出し、そこにはこう書かれており、太平洋戦争末期、西宮が空襲にあった。牛の屠殺で栄えていた家が焼かれ、その家の座敷牢から頭が牛、少女の体をしたものが出てきた。それは周りが見つめるなか、犬を食っていた――。そして投稿者は二つの問いを残す。

時間の経過とともに、牛女もまた人間と同じように歳をとっていったのか。ではなぜ、見える人と見えない人がいたのだろう。ここが上手い。少女だったはずの牛女が老婆になっている、という時間経過の設定。そして四人中三人にしか見えなかったという知覚の非対称。

この二つを問いの形で放り出して終わる。読者に考える余地を残す構成で、だから二十年以上も生き延びている。

夫婦岩を蹴った若者たちが、一人残らず

三つ目は、池田香代子らが編んだ現代口承文芸の本に収められた話として知られている版。舞台は甲山のあたり、道路の真ん中に居座るあの岩だ。かつて工事で取り除こうとした際、関係者が次々と怪我をしたり亡くなったりして、結局そのままにされた――そういういわく付きの岩だと語られている。ある夜、バイクに乗った若者たちがこの岩のところで騒いでいた。深夜の峠、誰も見ていない。

度胸試しのつもりだったのか、単に酔っていたのか、彼らは岩を蹴った。大声を上げ、岩の周りで騒ぎ立て、そのとき、遠くから何かが走ってくるのが見え、獣のような女だった。着物姿の女に見えるのに、走り方が獣なのだ。若者たちは慌ててバイクにまたがり、エンジンをかけて逃げ出した。だが逃げきれなかった。

一人が転倒する。それをきっかけに次々と事故が起き、最終的に全員が死亡したという。この版では牛女の容姿がはっきり書かれていない。「獣のような女」としか記されていない。むしろそのほうが怖い。

同じ本には、深夜に六甲山を車で走っていると、顔が人で体が牛の女がバイクに乗って追いかけてくる、という別の話も収められている。人面牛身がバイクに乗る。件が二輪車を駆る絵面はほとんどシュールなのだが、これはこれで峠の伝承として筋が通っている。牛女は徒歩で追う型、四つん這いで追う型、そしてバイクで追う型と、追跡手段まで分岐しているわけだ。現地に行った人の記録も残っている。

二〇二三年に観音山と甲山を歩いた登山者が、牛女伝承の聖地巡礼と称して県道82号の夫婦岩、鷲林寺、甲山、神呪寺を回っている。彼の感想が身も蓋もなくて良い。夫婦岩は思ったよりメインな道路にあって岩も大きかった。真っ二つに割れているので夫婦岩、触ると祟られるらしい。で、祟るの主語が牛女という説もあるとか。

現物を見ても割れてるなーってくらいで特に何も感じない。

甲山で牛女を探してみたが、頭が人で首から下も人の女しか見当たらなかった。鷲林寺は濡れ衣、ガセネタ。この距離感が正しい。

瓦礫の上と、霧の高速道路

そして一九九五年一月十七日。午前五時四十六分、淡路島北部を震源とするマグニチュード七・三の地震が発生し、死者六四三四人、建物約五二万八〇〇〇棟が損壊・延焼した。神戸市長田区を中心に約三〇〇件の火災が起き、七〇〇〇棟以上が全焼し、消火栓は壊れ、防火水槽の水も尽きた。震災当日の消防ヘリによる搬送は、西宮市でわずか一名。ピーク時には兵庫県内で一〇〇〇か所以上の避難所が開設され、最大約三三万人が避難した。

この瓦礫の街に、牛女が戻ってきた。語られているのは、瓦礫の上で犬の死骸を食っている牛女を、自衛隊員が何人か目撃した、というものだ。行動が完全に一九四五年と同じであることに注目してほしい。焼け跡で死骸を貪っていたものが、五十年後、瓦礫の上で同じことをしている。都市が破壊されるという条件が揃うと、あれは戻ってくる。

噂の側がそう組み立てている。別系統の話もある。震災後、六甲山麓の高速道路などへ応援に入った警備員たちが、赤い着物姿で直立した牛の群れを目撃したという。しかもその目撃報告が二十件にも及んだと語られる。六甲の山側では高速道路に霧が発生し、その霧のなかで、赤い着物を着て二本足で直立する牛の群れ、あるいは単体が目撃されたという報告が上がっている、と。

ここでは牛女は単体ではなく群れになっている。着物の色は赤で統一されている。二本足で直立している。かなり異様な絵だ。当然ながら、これらに公式の記録はない。

警備会社の記録も、部隊の記録も、誰も出してこない。それでも「二十件」という妙に具体的な数字が付いて回る。数字が付くと信憑性が上がる、という流言の基本文法通りだ。二〇一一年の東日本大震災でも同じ型の噂が発生している。宮城県気仙沼市で、黒い喪服を着た牛女が踊っているのを自衛隊員が何人か目撃した、という話。

あるいは被災した街中を派手な着物を着た牛女が歩いていた、という話。目撃者が自衛隊員に固定されているのが特徴的だ。理由は分かりやすくて、自衛隊員は一般人が入れない場所へ入れるからだ。誰も見ていないはずの場所を見た人、という位置づけが、目撃証言の権威を担保する。同時に、隊員個人の名前は絶対に出てこない。

検証不能な権威。これも流言の教科書通りの構造になっている。なお、阪神・淡路大震災は「流言が少なかった災害」として調査されている一方で、実際にはかなりの数の噂が飛び交っていた。震災の二週間後から現地に入った取材チームが数百人規模で聞き取りを行い、瓦礫の町で飛び交ったウワサを一冊にまとめている。地震雲を見たという問い合わせが神戸海洋気象台に殺到し、予報課長は受話器を置く暇もなかったという。

約三十人の職員が交代で二十四時間対応する体制を作り、電話が落ち着くまでに一か月かかった。火災保険目当てに被災者が自宅に放火しているという噂も流れた。だが、地震から十日間で発生した建物火災一五七件のうち原因が特定できたのは五十五件。そのうち三十五件は通電や漏電によるもので、自宅への放火が確認されたのは一件だけだった。牛女の噂は、こういう情報の空白のなかで語られている。

デマは情報の空白につけ込む、というのはこの震災の教訓としてよく言われることだが、怪異もまったく同じ隙間から入ってくる。

掲示板とネット考察界隈は、牛女をどう扱ってきたか

牛女がネット上で本格的に語られはじめるのは、二〇〇〇年代前半だ。二〇〇四年九月の投稿を起点として、まとめブログ、朗読動画、怪談系サイトへと転載が広がっていった。二〇一五年にはまた別の掲示板で同じ文章がそのまま貼られ、新しい読者を獲得している。同じテキストが十年おきに再流通するのは、ネット怪談ではよくある現象だ。考察の論点はだいたい三つに集約される。

一つ目は「件と同じものなのか問題」。これは前述の通り、木原浩勝の区別論を引く人と、小松左京経由で融合したと見る人で割れる。掲示板ではだいたい「くだんのはは読め」で終わるのだが、真面目に調べる層は瓦版や民俗語彙まで遡っていく。二つ目は「元ネタは小説なのか問題」。牛女は「くだんのはは」が生んだ創作ではないか、という説だ。

これはかなり有力に見えるが、時系列的には成り立たない。小松の作品は一九六八年発表で、牛女の噂は戦中から戦後復興期にかけて存在していたとされる。木原浩勝が尼崎に住んでいた頃に甲山周辺へ出向き、複数の人からこの話を聞いたと証言しており、それは戦前や戦中に噂されていたものと見られている。ただし正直に言えば、戦中の一次史料で「牛女」という語を確認できるかというと、そこは弱い。

件については憲兵司令部や内務省の資料に残っているが、牛女はそこまで明確な公文書の裏付けがない。だから「戦中に確実に存在した」と言い切るのは、慎重にやるなら難しい。実際、二〇一六年に新聞社が甲山周辺で取材したときも、戦前や戦中の妖怪の噂を知っている人は見つけられなかったと書いている。三つ目は「実話系怪談本が噂を作ったのではないか問題」。

『新耳袋』や『都市の穴』といった実話怪談本、そして週刊誌記事とテレビ番組が、断片的だった噂に体系を与えて全国流通させたという見方だ。これはかなり当たっていると思う。鷲林寺の件がまさにその実例で、荒神の祠の牛像から「牛女」というひとことが出て、週刊誌に載って、県外ナンバーの車が深夜の山寺に押し寄せた。噂がメディアを媒介して物理的な人の移動を引き起こしている。

八〇年代から九〇年代の怪談ブームは、こういう増幅装置として機能していた。反証の側も見ておく。件の姿については、人面を思わせる顔の奇形の子牛が疾患によって生まれることがあり、それが伝説に発展したのだろうという推察がある。木原はアカバネ病などの名を挙げている。牛の異常出産という現実の現象が、予言獣の物語に組み替えられていったという説明だ。

牛女の側については、そもそも「牛の頭をした人間」が生まれるという生物学的事実は存在しない。座敷牢に閉じ込められた娘がいた、という部分にリアリティを感じる人が多いが、それは牛の頭を持っていたからではなく、私宅監置という制度が実際にあったからだ。二つの事実らしさ――牛の奇形と私宅監置――が別々に存在し、それを怪談が一つの屋敷のなかで接合した。そう見るのが一番すっきりする。

誰かを怪物にして語る話の、いちばん暗い部分

ここは飛ばせない。牛女という話は、構造上、差別と地続きだ。一つ目は屠畜業への差別だ。牛を殺す仕事で儲けた家に牛の顔の子が生まれる、という因果は、一見すると仏教的な因果応報の説話のように見える。だが実際には、屠畜に従事する人々を穢れた存在として扱ってきた日本社会の差別意識が、そのまま怪談の骨組みになっている。

都市伝説は案外このような差別意識のなかから生まれることが多い、という指摘は、牛女についてまさに当てはまる。空襲で焼かれた街で、生活に困窮した人々が、肉で儲けている家に向けた嫉妬と嫌悪。それが「あの家の奥には化け物がいる」という形をとった。この構造を見ないふりをして「怖い話」としてだけ消費するのは、さすがに雑だと思う。二つ目は、異形の身体を持って生まれた人、障害のある人を怪物として語る問題だ。

牛女譚の中心には、生まれつき人と違う顔をしていたために座敷牢に閉じ込められた娘がいる。物語のなかで彼女は加害者になり、追いかけてきて人を殺す怪物になる。だが筋を素直に読めば、この娘は徹頭徹尾、被害者でしかない。生まれてきただけで隠され、外の世界を知らないまま育ち、空襲で家が焼けてようやく外に出た。そこは焼け野原で、食べるものは焼けた死骸しかない。

誰も彼女を助けなかった。

彼女が誰かを追いかけたという話は、たぶん、彼女を恐れた人間が作った。小松左京の「くだんのはは」がすごいのは、この構図をちゃんと引き受けていることだ。作中で牛頭の娘は、家を救う守り神であると同時に、先祖が虐げてきた百姓の恨みが結晶した「劫」だとされる。異形は罰であり、罰を受けているのは異形を持って生まれた本人ではなく、その家である。

しかもその子は、他の同じ年頃の子のように外で遊べず、予言で分かる世の中のことといえば悪い出来事ばかりという境遇に置かれている。読んで怖いより先に悲しい、という感想が多いのはそのためだ。屋敷が焼けようが、娘が平和になった世界で元気に長生きしてくれるほうがずっといい、それが親心ではないのか。そう書いた読者がいて、この読みは正しいと思う。

明治から昭和にかけて、見世物小屋には「牛女」という演目があったとも言われる。半人半牛として売られていた誰かがいた。その誰かは怪異ではなく、生きていた人間だ。この記事で牛女という怪談を面白がって書いておきながらこう言うのは矛盾しているようだが、矛盾したまま書くしかない。怪異として楽しむのと、実在した人を怪物扱いするのは、絶対に別のことだ。

一九九五年一月十七日以降に、あれが呼び戻された理由

なぜ震災後に牛女が再燃したのか。単純に言えば、条件が同じだからだ。牛女という怪異が発動する条件は、都市が瓦礫になること、動物の死骸が転がること、人が眠れないこと、情報が届かないこと。この四つが揃った瞬間、あれは戻ってくる。一九四五年に揃い、一九九五年にもう一度揃った。

二〇一一年の東北で三度目が語られた。件のほうも同じ論理で動いている。件は世情が不安になると顔を出す妖怪だ、というのは妖怪研究の側からも言われていることで、江戸の飢饉に現れ、日露戦争を予言し、太平洋戦争の終わりを予言した。二〇二〇年の疫病禍でアマビエが爆発的に流行したのも、まったく同じメカニズムだ。予言獣は、人が未来を知りたくてたまらないときにだけ生まれる。

逆に言えば、世の中から不安がなくなれば件のような妖怪は活躍の場を失って現れなくなる、ということになる。それはなかなか難しそうである、というのが妖怪博物館の学芸員の書いた締めで、うまいことを言う。阪神・淡路大震災のとき、なぜ牛女だったのか。もっと言えば、なぜ阪神間の人たちは半世紀前の噂を引っ張り出してきたのか。ここには土地の記憶の問題がある。

一九四五年に焼かれ、一九九五年に潰され、同じ土地が、五十年の間隔をおいて二度、瓦礫になった。震災を経験した人のなかには、空襲を経験した人がいた。祖父母の代の記憶と、自分の目の前の光景が重なる。そのとき、記憶の底に沈んでいた噂が浮かび上がってくる。牛女は単なる怪物ではなく、「阪神間が壊滅したときに現れるもの」という属性を持ったローカルな災害の記号だったのだ。

だから土地が壊れると呼び出される。

それでも山へ行こうとする人へ

最後に現実的な話をしておく。牛女の舞台とされる場所は、全部、普通に人が暮らし、人が働き、人が祈っている場所だ。鷲林寺は現役の寺で、住職と家族が生活している。深夜に押しかけて奇声を上げれば、それは怪異の探索ではなく単なる迷惑行為で、実際に寺は警察を呼ぶところまで追い込まれている。三年間ノイローゼになった人がいる。

神呪寺も甲山も同じで、甲山森林公園は一九七〇年開園の広域公園として整備され、子ども連れの家族がキャッキャと歩く場所だ。県道82号は生活道路であり通勤路であり、深夜に肝試しの車が集まれば事故の確率が上がるだけである。夫婦岩の周辺は見通しの悪いカーブで、拡幅工事が行われたのは、これまで事故がなかったのが奇跡的だと言われるほど危険な区間だったからだ。六甲山中の廃墟についても同じことを言う。

あれは全部、誰かの私有地だ。無断で入れば不法侵入になる。道は閉鎖され、草に覆われ、マムシとスズメバチがいる。崩落もする。国の登録有形文化財になっている建物もあり、当然ながら立入禁止だ。

牛女に会うために法を犯して怪我をするのは、どう考えても割に合わない。牛女は、行かなくても十分に怖い。焼け跡で犬を食っていた着物の女、という一行があれば足りる。むしろ現地に行くと、割れた岩を見て「割れてるなー」で終わる。それが健全な楽しみ方だと思う。

ここまでで牛女の輪郭はだいたい描けたと思うので、最後にもう一段深く掘っておきたい。この怪異について考えるとき、どうしても引っかかる論点がいくつか残っている。まず、牛女が「移動する怪異」ではなく「留まる怪異」であることの意味だ。口裂け女は列島を横断した。ひとりかくれんぼも八尺様も、ネットに乗って一気に全国区になった。

だが牛女は、七十年以上経っても西宮と甲山と六甲の周辺から出ていない。ネットに乗った今でも、話の舞台は必ず兵庫県だ。舞台を移した牛女譚をほとんど見かけない。これはかなり珍しい。ふつう、怪談は移植されると土地の名前を差し替えられる。

学校の怪談は全国の学校で語られるし、峠の女の霊はどの県の峠にもいる。牛女はそれを拒んでいる。なぜか。牛女という怪異が、「あの空襲」と分かちがたく結びついているからだと思う。一九四五年六月五日と八月六日未明に阪神間で起きたことは、どこか別の土地に移植できない。

焼けた屠場、焼けた邸宅街、焼けた市街地。牛女の背景にあるのは一般化された「戦争」ではなく、特定の日付に特定の街で起きたことだ。だから土地から剥がせない。剥がしてしまうと、この話は「牛の顔をした女が追ってくる」という空虚なモンスター譚になる。実際、走り屋バージョンや丑三つ時バージョンはすでにその段階まで薄まっていて、あまり怖くない。

怖いのは焼け跡バージョンだけで、それは土地に根が張っているからだ。次に、牛女の「食べる」という行為について。これは牛女譚の全バージョンを貫く、たったひとつの共通行動だ。追いかけてくる版もあれば追ってこない版もある。予言する版もあればしない版もある。

姿も牛面人身と人面牛身で割れている。だが、口の周りを血で汚して何かを食っているという描写は、焼け跡でも、甲山の斜面でも、震災の瓦礫の上でも、ほぼ必ず出てくる。これは偶然ではないだろう。牛は食われる側の動物だ。日本人が牛を食うようになったのは近代以降で、しかも神戸は牛肉と切り離せない土地だ。

その牛肉の街で、牛の顔をしたものが人間の側の秩序を無視して死骸を食っている。捕食する側とされる側がひっくり返っている。この反転こそが、牛女の中心にある不快さだと思う。屠場で牛を殺して稼いだ家に牛の顔の娘が生まれ、その娘が焼け跡で犬を食う。牛が人の側に立って、人の飼っていた動物を食っている。

食物連鎖の逆流。牛女は「殺された牛たちの恨みが生んだ化け物」ではないか、という見立てがあるのも当然だ。平安初期の『日本霊異記』にはすでに、殺した牛たちが牛頭人身の鬼として現れて男を地獄へ引いていく話がある。摂津国東生郡の富裕な男が、漢神の祟りを恐れて七年間に七頭の牛を殺して祀り、祀り終わったとたんに重病になる。死んだ後、頭が牛で体が人間の鬼が現れて閻魔大王のもとへ連れていく。

閻魔が鬼たちに「この者がお前たちを殺したのか」と問うと、鬼たちは「はい、さようでございます」と答える。そしてまな板と包丁を持ってきて、われわれを殺したようにこの男を切って食べたい、と願い出る。男が助かるのは、生前に生き物を買い取って放してやった善行のおかげだった。

牛を殺して神に捧げる行為は東アジアで広く行われていて、日本では七九一年に桓武天皇が「牛を殺して漢神を祀ること」を禁じる命令まで出している。

つまり牛頭人身の復讐者というイメージは、千二百年以上前から日本語の物語のなかに存在していた。牛女は、その古い型が阪神間の焼け跡で再起動したものだと考えることもできる。三つ目に考えたいのが、件と牛女の「予言」をめぐる決定的な差だ。件は喋る。生まれてすぐ人語で、豊作を、疫病を、戦争を告げる。

そして自分の絵姿を貼れば助かる、小豆飯を食えば空襲を免れる、と対処法まで教える。ここが重要で、件は災厄の告知者であると同時に、救済の手段の提供者でもある。だから件の絵は護符になった。人々は件を恐れながら、同時に頼っていた。牛女は喋らない。

何も教えない。ただそこにいて、食っている。対処法がない。護符にならない。件が「災いを避ける方法があるかもしれない」という希望の器だったのに対して、牛女は完全にどん詰まりだ。

この差は、それぞれが生まれた時代の絶望の深さと対応しているように見える。天保の飢饉には、まだ「せめて豊作への期待を持ちたい」という余地があった。件はその期待の器として機能した。だが一九四五年の阪神間には、その余地がない。街は焼け、国は負ける寸前で、食うものがない。

そこに現れた怪異は、何も予言せず、何も教えず、ただ死骸を食っていた。祈っても、絵を貼っても、小豆飯を食っても、もう何も変わらないという段階の怪異なのだ。だから牛女は件より新しく、件よりずっと救いがない。四つ目。「見た者は死ぬ」という設定について。

牛女譚では、見てしまうと追いかけてきて殺される、という言い方がよくされる。峠バージョンでは実際に事故で全員が死ぬ。この「目撃即死」という設定は、実は語りの安全装置でもある。見た人が死ぬなら、証言者は存在しないはずだ。だから細部を突っ込まれない。

誰も検証できない。同じ構造は「牛の首」という有名な怪談にも使われていて、あちらは聞いた者が死ぬので内容そのものが存在しない。ちなみに「牛の首」を短編にしたのも小松左京だ。一九六五年、「くだんのはは」の三年前。牛にまつわる、内容の存在しない最恐の怪談。

牛女とは直接の関係はないのだが、同じ作家が牛の名を冠した二つの恐怖を書いているのは、偶然にしては出来すぎている。そして「くだんのはは」がいちばん怖いのは、実は牛の頭の娘が出てくる場面ではない。ラストだ。良夫は他言無用を守り、二十二年間、誰にも言わなかった。それなのに、生まれた娘の頭には角が生えていた。

つまり、口止めを守っても無駄だったのだ。呪いは行為に対する罰ではなく、目撃したという事実そのものに付いてくる。見てしまった時点で終わっている。しかも罰は本人ではなく、次の世代に降りる。良夫の娘は何もしていない。

この「無関係な次世代に降りる」構造は、戦争責任の話としてそのまま読める。作品が発表された一九六八年は、社会の空気がふたたび不穏になっていく時期として作中でも名指しされている。小松は明らかに、戦争が終わっても終わっていないという感覚を書いている。牛女を単なるモンスターとして消費してしまうと、この一番効く部分が落ちる。五つ目に、この話の受け手の側の変化について。

八〇年代から九〇年代にかけて、牛女は「行ける場所」になった。週刊誌が場所を名指しし、テレビが映像を撮り、若者が県外から車で押しかけ、怪異が観光地になる。この時期の怪談ブームは、噂を消費可能なコンテンツに変換する装置として働き、その結果、実際に迷惑を被る人が出た。鷲林寺の三年間はその典型で、しかも寺の側は誠実に企画に協力しようとして、結果的に裏切られている。

ここには、怪談を扱うメディアの倫理という、いまだにろくに解決していない問題がそのまま残っている。ネットの時代になって、この構図はもっと悪化した。廃墟に無断で入って撮影した動画が再生数を稼ぐ。牛女の名は、そういう動画のサムネイルにも使われる。噂を語ることと、噂の舞台に押しかけることは、別のことだ。

前者は文化で、後者はだいたい犯罪か迷惑行為になる。六つ目に、牛女がこの先どうなるかを考えてみたい。件は近代化とともに一度死にかけた。農業中心の村落共同体が解体され、牛の出産に立ち会う生活が消えると、件が生まれる現場そのものがなくなる。一九九九年刊行の民俗大辞典には、口裂け女の項目はあるのに件の項目がない、という指摘もある。

では牛女はどうか。牛女が生まれる現場は「都市の破壊」だ。そしてその現場は、残念ながらまだ消えていない。震災は起きる。都市は壊れる。

壊れた都市の瓦礫のうえには、いまでも人の手に負えない何かが立つ余地がある。牛女は、その余地が残っているかぎり呼び戻され続けるだろう。次に呼び戻されるとき、あれはスマホのカメラに映るのか、それとも相変わらず「見えた人と見えなかった人がいた」で終わるのか。個人的には後者に賭けたい。あの話の一番いい部分は、四人乗った車のなかで、助手席の一人だけに見えなかった、というあの理不尽さにあるからだ。

最後に、もう一度だけ書いておく。この怪異の中心にいるのは、生まれてきただけで座敷牢に入れられ、街が焼けてようやく外に出て、食べるものがなくて焼けた死骸を食った少女ということになっている。それを怪物と呼んで追い払ってきたのは、ずっと人間の側だ。牛女の話を面白がりながら、その一点だけは忘れないでいたい。

六甲の夜道で着物の女が振り向いたとして、こちらを追ってくるのは、たぶん彼女の恨みではなく、彼女を閉じ込めた側の後ろめたさのほうだ。

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