- 地図にない道の先に、赤い屋根が並んでいた
- 階段のない二階と、多すぎるトイレ
- 初出は『新耳袋』第四夜、そして2ちゃんねるの反応
- コミック版という派生、「カジモト君」と「黒い男たち」
- 裏社会、和牛投資、UFO基地、そして銀山跡
- 語れば祟られる、という構造
- ここからは、あらすじではない話をする
- あの日、車が止まったのは午後3時すぎだった
- 「あと100メートル」と書かれたドラム缶
- 牛舎に入った瞬間、匂いがないことに気づいた
- 裏返しに置かれた、トラクター
- 階段がない、という言葉の本当の意味
- 六畳間いっぱいのお札と、仰向けに並べられた人形
- 白いペンキの「たすけて」と、壁一面の読めない文字
- 巨石が生えている部屋
- 十日後、後輩たちは黒い車とすれ違った
- 記録して外に出そうとすると、記録ごと消える
- 5年後、牧場は「営業中」になっていた
- トイレだけが、生き物みたいに増えたり減ったりする
- 天井裏の骨と、鏡に貼られた白いテープ
- 正体をめぐる説を、一つずつ
- 食肉加工場説と、「全部ふつうの説明がつく」説
- 補助金説と、銀山跡説と、UFO基地説
- 「これ以上、調べんほうがええ」と言われ続けた四十年
- 電波に乗り、DVDになり、動画になった四十年
- 場所が割れてから始まった、もう一つの問題
- 実際に行った人たちが、何を見て何を思ったか
- 作り話じゃないの、という真っ当な疑い
- なぜこの一本だけが、こんなに怖がられ続けるのか
- 結局、山の牧場とは何だったのか
- 怪談は、現場を変えてしまう
地図にない道の先に、赤い屋根が並んでいた
1982年の夏。大阪府立大学の映画研究会に所属していた学生、中山市朗は、自主制作映画のロケハンで仲間たちと兵庫県の山中を訪れていた。
目的の場所を探して車で林道を進むうち、地図には載っていない細い脇道を見つける。轍だけが続くその道を、好奇心で辿っていった。
すると突然、視界が開けた。赤い屋根の建物群が姿を現す。どうやら牧場のような施設らしかった。
しかし、そこにはひとつ決定的な違和感があった。牛舎らしき建物はあるのに、牛の姿もその糞尿の匂いも、餌の気配も一切ない。
中山たちは車を降り、興味本位で敷地内を歩き回った。事務所らしき建物の窓から中を覗くと、実験器具のようなガラス製品が割れて散乱している一室がある。
別の部屋の襖には、赤黒い塗料のようなもので「タスケテ」という文字が殴り書きされていた。さらに奥の部屋には、複数の人形が仰向けにきちんと並べられている。壁という壁、天井という天井には、無数の御札が隙間なく貼り巡らされていた。まるで、何かを封じ込めるための結界のようだったという。
階段のない二階と、多すぎるトイレ
異様さはそれだけにとどまらなかった。建物のひとつは二階建てだったが、内部をいくら探しても階段が見当たらない。二階に上がる手段がどこにもないのに、外から見ると窓は確かに二階部分にも存在していた。
トイレの数も、施設の規模に対して明らかに多すぎる。まるで大勢の人間が寝泊まりしていたかのような形跡がある。敷地の隅には使われた形跡のないトラクターが不自然に横転しており、まるで急いでその場を放棄したかのような印象を与えた。
中山たちはこの光景に強い薄気味悪さを覚えながらも、写真におさめてその場を後にした。しかし、話はそれで終わらない。
後日、中山の後輩にあたるK君という人物が、友人と共に興味本位でこの牧場を再訪し、写真を撮影しようとした。その際、彼らは山道の途中で黒塗りのリムジンとすれ違ったという。
山奥の細い道に不釣り合いな高級車を目撃した二人は、言いようのない不安を覚えて撤収した。ところがその後まもなく、同行した友人の一家が忽然と姿を消してしまう。真相は語られないまま、この後日談は「山の牧場」という怪談の核心部分として繰り返し語り継がれることになった。
初出は『新耳袋』第四夜、そして2ちゃんねるの反応
この体験は、木原浩勝と中山市朗による実話怪談シリーズ『新耳袋』の第四夜に収録されている。1999年の刊行で、巻末に実に40ページにわたる長編として置かれた。
『新耳袋』はそれまでの怪談本の常識を覆したシリーズだった。作者の脚色を極力排した、体験者からの聞き書きそのもの。その体裁を貫いている。なかでも「山の牧場」は群を抜いて長い。しかも謎が謎のまま放置される後味の悪さから、シリーズ最恐エピソードのひとつとして読者の記憶に刻まれた。
書籍の刊行から数年後の2002年頃、2ちゃんねるのオカルト板にスレッドが立つ。「新耳袋 四巻『山の牧場』を語るスレ」だ。当時のネットユーザーたちが、この話について活発に議論を交わした。
スレッドでは、実際に現地を再訪したと主張する者が報告を投稿している。自分が行った時にはもう改築されていて、階段のなかった建物にちゃんと階段が付いていた。敷地がさらに拡張されていて、以前の写真と一致しない部分が多い。そういう続報が、話に現実味を与えていった。
一方で、冷静な考察を書き込む者もいた。バブル期には和牛や不動産に投資するのが流行っており、あの施設もそうした投資絡みの失敗の跡ではないか、と。怖がる者と謎解きをしたい者が同じスレッドのなかでせめぎ合う。初期2ちゃんねるオカルト板特有の、熱量の高い議論が展開された。
スレッドの後半では、これ以上詮索しない方がいいという趣旨の書き込みが増えていく。そして最終的に、核心に触れることなく尻すぼみに収束した。この収束の仕方そのものが、語れば祟られるという構造を体現しているとしばしば指摘されている。
コミック版という派生、「カジモト君」と「黒い男たち」
「山の牧場」には重要な派生版がある。2013年から2014年にかけて、雑誌『コミック特盛 新耳袋アトモス』に連載された。鯛夢によるコミカライズ版で、2014年に単行本化されている。
この漫画版では、原作の曖昧だった時系列に「1982年の夏」という具体的な年号が明記された。体験者が中山本人として明確に描かれるなど、実話怪談としてのディテールが強化されている。
特筆すべきは、漫画版冒頭に追加された「カジモト君への呼びかけ」という導入部分になる。かつて中山と共にこの牧場を訪れた関係者の一人であるカジモト氏に向けて、作品を通じて間接的に語りかけるという異例の構成だ。実話怪談と創作物の境界を、あえて曖昧にする効果を生んでいる。
さらに単行本の巻末には「黒い男たち」という独立したエピソードが併録された。山の牧場に関わった人々の周辺に、謎の男たちが出没する。そして両エピソードの間に何らかの関連があることが、うっすら暗示される構成になっている。
この追加要素によって、「山の牧場」という物語は変質した。単発の不可解な目撃談から、複数のエピソードが絡み合うひとつの「事件」として再構築されたのだ。ファンの間での考察は、ここからさらに加速していく。
裏社会、和牛投資、UFO基地、そして銀山跡
この牧場の正体については、長年にわたって実に多様な説が唱えられ続けてきた。
まず初期段階でよく語られたのが、反社会的勢力による監禁や軟禁の施設ではないか、という説だ。しかし2005年、実際にその筋の関係者を伴って現地を再調査したという報告が出る。逃げ場のない山奥の一本道に、わざわざそうした施設を作るはずがない。そういう理由で、この説は当事者自身によって否定されたとされている。
次に有力視されたのが、補助金詐欺説になる。オカルト系雑誌の調査報道でも取り上げられた説だ。「農事組合法人T」という名の団体が、畜産業振興のための行政補助金を騙し取ろうとした。そのために、表向きだけの牧場施設を建設したのではないか。
実際の運用実態がないまま、施設だけが放置された。牛舎があるのに牛がいない、という最大の違和感に対する、もっとも現実的な説明として支持を集めている。
さらに、UFO秘密基地説も一部で根強く語られてきた。階段のない二階、法的に説明のつかない増改築、人間の生活様式を知識だけで模倣したかのような不自然な設計。そこから、地球外由来の存在が関与しているのではないかという発想が出てくる。
加えて、和牛投資破綻説も有力なもののひとつになる。バブル経済期に流行した和牛預託商法、つまり出資者から資金を集めて和牛を育てさせ、配当を約束するという投資スキーム。それが破綻した跡地なのではないか、という見方だ。
オカルト的な解釈に懐疑的な立場からは、別の指摘もある。この山域は、かつて平安時代から採掘が行われていた銀山の跡地になる。地下の空洞や不可解な地形の多くは、この鉱山跡で合理的に説明できるというものだ。
さらに1989年以降、地元自治体によって実際に畜産研修施設として運用されていた時期があったという情報もある。時代によって施設の用途そのものが、何度も変遷してきた可能性が浮かび上がってくる。
語れば祟られる、という構造
「山の牧場」というネットロアが今なお多くの人を惹きつける最大の理由は、たぶん建物ではない。詮索した者に不幸が及ぶ、という物語構造そのものにある。
写真を撮りに行った友人の一家が失踪したという後日談。黒いリムジンという、不釣り合いな存在もある。そして掲示板の議論が核心に迫るたびに、誰かが「やめておいた方がいい」と釘を刺す展開。
これらすべてが、読者や語り手自身に、これ以上調べてはいけないという禁忌の感覚を植え付けていく。結果として、この話は語られれば語られるほど謎が深まる。しかし誰も最終的な答えにはたどり着けない。極めて完成度の高い恐怖の様式が、そこで保たれ続けている。
近年ではYouTuberや動画配信者が現地を訪問したとされる映像も投稿されている。施設が現在も存在し、かつ継続的に増改築が行われている様子が報告されてきた。一部では敷地内での地盤沈下も確認されているという。
四十年以上前のひとつのロケハンから始まったこの物語が、今なお色褪せずに最恐のネットロアとして語り継がれている。その事実こそが、山の牧場という怪談の底知れなさを物語っている。
ここからは、あらすじではない話をする
さて、ここまで書いた分は、正直に言えば「あらすじ」だ。山の牧場という話は、あらすじで済ませた瞬間に、いちばん怖い部分が抜け落ちてしまう。
だからここからは、体験者が現地でどう動き、何を見たのかを、一歩ずつ順番に再現していきたい。四十年ぶんの検証と反証と、この話が今もどう更新され続けているのかまで、まとめて書き切ってしまおうと思う。長くなるが、この話はもともと長い話なのだ。
あの日、車が止まったのは午後3時すぎだった
まずは、いちばん肝心なところをちゃんと書いておきたい。この話は、あまりにも要約されすぎてしまった。
「学生が変な牧場に迷い込んだ」の一行に潰されてしまって、いちばん怖い部分が抜け落ちたまま流通している。その場に立っていた人間が何を見て、何を言い合って、どういう順番でまずいと気づいたのか。そこがごっそり落ちているのだ。
だからここでは、語られてきた証言をつなぎ合わせながら、あの日の午後をできるだけ丁寧に再現してみたいと思う。
1982年の夏。大学の卒業制作で映画を撮っていた学生グループが、兵庫県の山あいでロケハンをしていた。撮りたかったのは特別なものじゃない。村を上から見下ろした俯瞰の画、それだけだ。
だから彼らは「高いところ」を探していた。地元出身のメンバーが運転する車で、朝から山道をあちこち走り回っている。この日はロケ最終日で、みんな少し焦っていた。夕方までに撮れる場所を見つけないと、また出直しになるからだ。
県道から分岐する未舗装の脇道を見つけたのは、その焦りの延長線上だった。轍が二本、草をかき分けて奥へ続いている。この上、何かあるんちゃうか。行ってみよか。それくらいの軽さで、ハンドルが切られている。
いま振り返ってみれば、ここが決定的な分かれ道だった。誰も、この道が四十年以上たっても終わらない話の入り口だとは思っていない。
「あと100メートル」と書かれたドラム缶
道はとにかく細く、車一台がぎりぎり通れる幅しかない。右は斜面、左は落ちたら終わりの谷になる。しかもカーブがきつく、何度も切り返しが必要だった。
エンジンがうなる。窓を開けても、聞こえてくるのは蝉と、タイヤが砂利を噛む音だけだ。そして途中から、妙なものが現れはじめる。
道の脇に置かれたドラム缶に、白いペンキで文字が書いてあった。「あと100メートル」。しばらく登ると、また一本ある。「あと50メートル」。さらに「あと30メートル」。
この標識が、実はいちばんおかしい。そもそも誰に向けたものなのか。地元の人間が使う道なら、こんな案内はいらないはずだ。初めて来る人間が迷わないように置かれている。
つまりここには、初めて来る誰かが定期的に来る前提があった、ということになる。だが後年、地元の役場に問い合わせても、ここには何もないことになっていた。標識は、存在しない場所への案内だったわけだ。
そして最後のカーブを抜けた瞬間、視界が開ける。木がなくなって、空が広がって、その下に赤いトタン屋根が並んでいた。それが、あの牧場だった。
牛舎に入った瞬間、匂いがないことに気づいた
車を降りて、彼らが最初に感じたのは「静かすぎる」ということだったという。
牧場というのは、たとえ規模が小さくても、それなりに音がする場所だ。牛の鳴き声、機械の音、人の気配。それが一切ないうえ、真夏の昼下がりでじりじりと日差しだけが降ってくる。
牛舎に近づいて、中を覗いてみる。ここで全員が、同じ違和感に突き当たった。匂いがしないのだ。
牛舎というのは、掃除がどれだけ行き届いていても、あの独特の匂いが染みついている。糞尿と、藁と、飼料の匂い。それが本当に、まったくないのだ。
中を見ると、その理由はすぐに分かった。まったく使われた形跡がないのだ。
牛をつなぐための鉄柵が並んでいるが、その鉄柵がぴかぴかしている。錆びていない、というより、擦れていないのだ。牛が首をこすりつけていれば、必ず塗装が剥げて地金が出る。それがない。
糞尿を流すための溝も掘られているが、藁一本落ちていない。飼料桶も空っぽで、汚れひとつ付いていなかった。
新品なんじゃないか、と誰かが言った。でも、建物の外観のほうは新品じゃない。トタンは色褪せているし、雨だれの跡もついている。建ってから何年か経っているのは明らかだった。
つまりこの牛舎は、建てられてから一度も牛を入れられないまま、何年か放置されていたことになる。
裏返しに置かれた、トラクター
屋根のほうも変だった。牛舎の屋根の一部が、半球形にへこんでいる。上から何か重いものが落ちてきたような凹み方で、ただ錆びて落ちたのとは違う。
何かがぶつかったとしか思えない。だが、まわりには落ちてきそうな崖もなければ、大木もなかった。
もうひとつある。牛舎の外壁から30センチほど離れたところに、トラクターがひっくり返っていた。
これも妙な話になる。トラクターがひっくり返るには、何かに乗り上げるか、何かにぶつかるか、斜面から落ちるかしかない。だがそこは平らな地面で、障害物もない。轍の上に、ただ裏返しで転がっている。まるで、誰かが持ち上げてひっくり返して置いたみたいに。
階段がない、という言葉の本当の意味
牛舎の向こうに、二階建ての建物があった。どうやら宿舎らしい。近づいて一階を覗くと、扉のない大きな空間に、石灰が山のように積んである。ただ積んであるだけだ。袋にも入っていない。
問題はここからになる。この建物には、一階から二階に上がる階段がないのだ。
ネットで「階段のない二階建て」と縮められて広まっているせいで、多くの人が「へえ、変な建物だね」くらいで流してしまう。でも実際にその場に立ってみると、これは相当に気持ちの悪い状況になる。
まず、外を一周してみる。外階段はなかった。次に、一階を全部見て回る。上に抜ける穴も、はしごも、天井の点検口もない。
それでも二階には窓があるし、外から見ればちゃんと部屋がある高さだ。じゃあ二階の人間はどうやって出入りしていたのか。答えが出ないまま、気がつくと視線だけが上に向いている。
この、上に部屋があるのに上がる手段がないという感覚は、単に不便というレベルの話じゃない。建物という概念が、途中で嘘をついている感じがする。
結局、彼らは裏の崖から庇に飛び移り、窓をこじ開けて二階に入った。今の感覚だとかなり無茶だが、当時の学生のノリだ。そして、飛び移った先で、この話は取り返しがつかなくなる。
六畳間いっぱいのお札と、仰向けに並べられた人形
窓から入った先にあったのは、L字型の廊下と、二つの部屋だった。
まず手前が和室になる。六畳ほどの畳の部屋で、そこに人形が転がっていた。雛人形が二体、博多人形、市松人形、セルロイド製のキューピー、それにリカちゃん人形。時代も種類もばらばらの人形が十数体、畳の上に仰向けに並べられている。
「散らばっていた」なら、まだ理解できる。押し入れから落ちた、荒らされた、動物が入った。だがこれは「並べられていた」のだ。しかも全部、顔が天井を向いている。押し入れを開けると、その中にも同じように、仰向けの人形が並んでいた。
そして問題は壁だった。壁と天井と、畳にまで、お札がびっしり貼られている。一枚や二枚じゃない。何百枚単位で、押しピンで留められて、隙間がないほど貼り詰められている。
しかも一種類じゃなく、いろんな神社仏閣のお札が混ざっている。貼りきれなかった分が、束のまま机の上に置いてあった。
これは、何かを封じているというより、何かに追いつめられている人間の手つきに見える。ひとつの寺社を信じているなら、そこのお札を貼る。効かないから次を買う、また効かないから別のを買う。そうやって集めた結果が、あの壁だ。
誰かがここで、必死に何かから身を守ろうとしていた。いったい、何から。
白いペンキの「たすけて」と、壁一面の読めない文字
部屋と部屋を仕切っていた襖が倒れていて、その襖に、白いペンキで大きく殴り書きがしてあった。「たすけて」と。
たった四文字である。誰が書いたのか、いつ書いたのか、何から助けを求めていたのか、一切分からない。分からないから、余計に効いてくる。
ここで正直に言っておくと、後年この文字は、廃墟マニアが書いた新しい落書きに置き換わっている。現地を丁寧に検証している探索者が指摘している。今その建物で見られる「たすけて」は、後から誰かが模倣して書いたものだ。本来の襖はとっくに交換されている。
だから今行っても、1982年の「たすけて」は見られない。本物が失われて模造品だけが残っているという状況もまた、この話らしいといえばこの話らしい。
襖の奥は、畳ではなく板張りの部屋だった。ここにも人形が仰向けに並べられている。そして壁一面に、文字がびっしり書き込まれていた。
英語でもないし、ハングルでもない。中山市朗自身は、それを「見たことのない文字」と表現している。幾何学的で、記号のようでもあり、文字のようでもある。それが壁を埋め尽くしている。
床には分厚い医学書が落ちていた。その近くにメモ用紙があって、そこにも壁と同じ文字が書き込まれている。最後のページには、幼児が描いたような、人間らしきものの絵。その絵の各部分から線が引かれていて、横に例の文字で説明のようなものが書かれていた。
人体の解説をしているように見える。それが、彼らの受けた印象だった。
つまりここは、誰かが人間の体について、自分たちの文字で、必死に何かを記録していた部屋だということになる。医学書があるということは、書いた人間は日本語の医学書を読めた可能性がある。なのに書き付けは読めない文字。この食い違いが、いちばん気味が悪い。
巨石が生えている部屋
宿舎の隣には、木造の平屋があった。引き戸を開けた学生たちは、そこで思わず足を止める。部屋の中に、高さ2メートル近い巨石がそびえ立っていたからだ。
その巨石が、床にめり込んでいる。床板を突き破って下から生えているようにも、上から落ちてきたようにも見える。そして石のてっぺんが、テーブルみたいに平らになっていた。
その平らな面に、食器が並べられている。周りには酒瓶と、子どものままごと道具。
ここが、この話でいちばん「礼拝堂」と呼ばれてきた場所だ。実際に祭壇と呼ぶ人もいる。巨石に食器と酒を供えるという行為は、日本の民間信仰の文脈でいえば、そう突飛な話ではない。磐座信仰といって、大きな岩そのものを神の依り代とする信仰は各地にある。
だから「山にあった巨石を動かさずに、その上に建物を建てた」と考えれば、一応の筋は通る。
ただ、そう考えると次の疑問が出てくる。なぜ、ままごと道具なのか。酒と食器はまだいい。子どものおもちゃが混じっているのは、何なのか。
そしてこの部屋にも、天井と壁にお札が貼り詰められていたという。信仰の場だとしたら、自分で祀った岩に、なぜあれほどのお札を重ねる必要があったのか。
後年、この巨石は姿を消している。2005年に再訪した一行が確認したときには、もうなかった。
ただし完全に消えたわけではない。砕かれた石を組んでテーブルのように積み直したものが、事務所の玄関に置かれているのが確認されている。その上には、牛の品評会でもらったらしいトロフィーが三本と、湯呑みが置かれていた。祭壇が砕かれてトロフィー台になっている。この落差も、なかなか強烈だ。
そうこうしているうちに、日が傾いてきた。誰かが「そろそろやばい」と口にする。誰も言い返さなかった。全員がずっと同じことを思っていたからだ。
彼らは何も持ち出さず、無言で車に戻って山を下りた。撮影は結局、この日はできなかった。
十日後、後輩たちは黒い車とすれ違った
ところが、話はここで終わらない。
実家に戻った中山市朗が、遊びに来た地元の友人にこの話をしたところ、友人は「そんなとこ、あらへん」と言った。地元で生まれ育った人間が知らない牧場。この一言で、話の性質が変わる。
そして十日後のことだ。バイク乗りの後輩が「面白そうやから行ってくる」と言い出し、連れと二人で牧場に向かった。彼らは写真を撮ってくると約束していた。
ところが帰ってきた後輩の様子がおかしい。山道の途中で、黒い高級車と二台すれ違ったというのだ。あの細い、切り返しが必要な道を、リムジンが下りてきた。
窓は見えなかったか、あるいは黒ずくめの男が乗っていたか。そのあたりは語り口によって揺れる。すれ違うために車を寄せたとき、なんとも言えない圧を感じたという。
写真は現像されなかった。連れの男が実家に帰ったきり、連絡が取れなくなったからだ。しばらくして分かったのは、その男の家が、一家まるごといなくなっていたということだった。フィルムは、そのまま行方が知れない。
記録して外に出そうとすると、記録ごと消える
ここが「持ち帰った物」をめぐる、この話のいちばん重い部分になる。
中山市朗たち自身は、あの日、何ひとつ持ち帰らなかった。医学書もメモ帳も、置いてきた。それは怖かったからでもあるし、当時は「よそのものを勝手に持ち出す」という発想がなかったからでもある。
だが、後輩の連れは持ち帰ろうとした。写真という形でだ。そして持ち帰る前に、本人ごと消えている。
この構造が、この怪談の背骨になっている。見るだけなら許される。記録して外に出そうとすると、記録ごと消える。
だから写真がない。だから証拠がない。そして、話だけが残る。
証拠の不在が、そのまま恐怖の証拠として機能してしまう。なかなかたちの悪い循環がここにある。
なお、この失踪譚は単独で存在しているわけではない。同じ『新耳袋』第四夜には「黒い男たち」という別のエピソードが収録されている。そちらはUFOの写真を撮ったと言い張った少年が、スーツ姿の背の高い男二人組の訪問を受けたあと消えてしまう話だ。空の棺で葬式が出された、という後日談まで付いている。
この二つの話が同じ巻に並んでいることで、読者の頭のなかでは自然に接続される。撮ると消える。写すと来る。そういう構造だ。コミック版でこの二作が意図的に並べられたのは、その接続を作り手側も自覚していたからだろう。
5年後、牧場は「営業中」になっていた
さらに時間が飛ぶ。最初の訪問から5年後のことだ。中山市朗は小学校教師になっていた友人と一緒に、もう一度あの場所へ向かった。今度は正面から、堂々と。
驚いたのは、牧場が動いていたことだ。人がいるのである。役場の人間らしき人物が出てきて、説明してくれた。ここは学校のキャンプ場として使われている。もともとは医者が道楽で建てた牧場で、経営が立ち行かなくなって手放されたのだ、と。
理屈としては通っている。通っているのだが、どうにも腑に落ちないのだ。
牛の姿がほとんど見えないのだ。閉め切った小屋の中に何頭かいるらしいが、放牧場には一頭もいない。相変わらず匂いもしない。そして、あの二階建ての建物には、いつのまにか階段がついていた。
従業員に聞くと、こう説明された。隣に建物があって、そっちに階段があったんです。壊したら階段もなくなってしまって。
この説明が本当なら、5年前に彼らが見たとき、隣の建物はまだあったはずだ。だが、まるで記憶にない。渡り廊下の痕跡も見当たらない。しかも事務所棟と宿舎棟は、渡り廊下でつなぐには距離がありすぎる。
合理的な説明を提示されればされるほど、辻褄が合わなくなる。この「説明されると余計に怖くなる」現象こそが、山の牧場という場所の最大の特徴かもしれない。
さらにその3年後、同じ事務所のタレントたちと訪れた回もある。この頃には、あの牧場は関西のラジオを聴いている一部の人間のあいだで、静かに有名になり始めていた。
トイレだけが、生き物みたいに増えたり減ったりする
山の牧場を語るとき、お札と人形と「たすけて」が有名になりすぎている。そのせいで、実はいちばん説明がつかない部分が置き去りにされてきた。ほかでもない、トイレのことだ。
1988年の時点で、この牧場には男子用の小便器が30個近くあったと報告されている。後の時期には12から13基に作り替えられていた。そして牛舎の一番奥という、なぜそこに、という場所にまとめて設置されている。
個室も異様に多い。宿舎の規模から考えて、常時いる人間は数人のはずだ。なのに、修学旅行の施設みたいな数の便器が並んでいる。
言い訳ならできる。研修施設として使われた時期があり、視察の団体と学校キャンプが重なる可能性を考えて多めに作った。この説明は実際になされているし、筋も通る。
通るのだが、それなら牛舎の奥ではなく、宿舎の近くに作るはずだ。しかも一度作ったものを、なぜわざわざ数を減らして作り替えたのか。
この「数が変わる」という現象は、トイレに限らない。訪れるたびに、ドアの位置が変わっている。階段が生えている。ステンレスのキッチンが消えている。
増築部分の入り口は、なぜか子どもの背丈ほどの高さしかなくて、階段がないから板が渡してある。浴室にはバスタブだけがあって、蛇口がない。
近年の探索者が丁寧に記録したところによると、宿舎の一角には妙な部屋が増設されていた。コンクリートブロックの壁をぶち抜いて、長い板を渡さないと入れない部屋だ。中には冷蔵庫が二台と、脚が折れて斜めになった畳のベッドがある。
この部屋は長らく「女性が暮らしていた痕跡」として語られてきた。だが生活用品も家電も足りなさすぎるという指摘があり、鍼灸の施術部屋だったのではないかという見方も出ている。明らかに素人が手を入れた増設で、その雑さが逆に生々しい。
こういう「一つ一つは説明できるが、全部合わせると誰の設計思想も見えてこない」という状態を、人間は最も気味悪く感じる。山の牧場の建物群は、まさにその状態にある。
天井裏の骨と、鏡に貼られた白いテープ
近年の現地調査で新しく話題になったものがある。牛舎の一番奥のトイレ、その洗面台の鏡の近く、天井パネルが剥がれた隙間に、動物の骨が置かれていた。
牛の前足の骨だとされている。ただ牛にしては小さく、生まれてすぐ死んだ子牛のものかもしれない、というのが実際に見た人の観察だ。一部に毛が残っていたという。
天井裏に骨があること自体は、タヌキやアライグマや野良猫が咥えて上がった可能性で説明がつく。実際、あの一帯は野生動物が多い。
問題は、その骨のすぐ近く、洗面台の鏡に、白いビニールテープで「殺」という字の部首に似た形が貼られていたことだ。
これも冷静に見れば、単なる悪ふざけの一環なのだろう。ボイラー室にも同じテープで別の記号が貼られており、後年の侵入者の仕業と考えるのが妥当になる。実際そう指摘している検証者もいる。
だが、こうやって「後から誰かが付け足した怖さ」が、元の怖さと見分けがつかなくなって層を成していく。それが、この場所の現在地なのだ。
1982年の異常と、1990年代の運用と、2000年代以降の侵入者の落書きが、同じ空間で重なっている。誰かが本気で怖がって貼ったお札と、誰かが面白がって貼ったテープが、同じ壁に並んでいる。もう分離できない。
正体をめぐる説を、一つずつ
ここからは、この施設の正体をめぐって語られてきた説を、一つずつ独立して見ていく。断っておくと、どれか一つが正解だと言うつもりはない。むしろ、これだけの説が並立してしまうこと自体が、この場所の性質を表している。
まずは宗教施設説から見ていこう。壁と天井を埋め尽くすお札、仰向けに並べられた人形、巨石の上の食器と酒。この三点セットを見せられたら、まず宗教を疑うのが自然だ。
しかもお札が複数の寺社のものが混在しているところがポイントになる。ひとつの教団の道場なら、こうはならない。むしろ、特定の教団に属さない誰かが、手当たり次第に神仏の力を集めていた形跡に見える。
何かが起きていて、その何かを止めたくて、効きそうなものを片っ端から貼った。人形が仰向けなのも、飾るためではなく、寝かせて祀るための配置だと解釈できなくはない。この説の弱点は、ではなぜ牧場の外形が必要だったのかを説明できないところにある。
新興宗教の道場説は、その発展形として長く語られてきた。山奥、大量の便所、寝泊まりできる宿舎、共同の食堂らしき空間、そして壁一面の読めない文字。この組み合わせは、確かに集団生活の場を連想させる。
読めない文字を教団独自の神聖文字と考えれば、人体図に説明が付されていたことも解釈できる。独自の身体観や治療理論の記録だった、というふうに。
ただ、これにも決定打がない。そもそも教団名が、一つも出てこないのだ。日本の新興宗教で、山中に施設を持ちながら名前が一切残らない例は考えにくい。行政も地元も、そうした団体の存在を確認していない。
戦時中の施設説は、比較的あとから出てきた説になる。この山域には古い坑道があり、地下に空洞が広がっているという話がある。そこから、軍需関連の疎開工場や地下施設の跡が転用されたのではないか、という発想が生まれた。
ただし建物そのものは戦後、それも1970年前後に建てられたと見るのが記録上は妥当で、戦時中の建造物ではない。この説が生き残っているのは、建物ではなく「山の中身」への疑いが根強いからだろう。四股を踏むと山が響く、という証言が独り歩きしている面もある。
食肉加工場説と、「全部ふつうの説明がつく」説
食肉加工場説も根強い。ここが厄介なのは、牧場という施設の性質上、屠畜や解体に関わる設備があっても何もおかしくないという点だ。
コンクリート製の水槽らしき構造物、水を流すための溝、天井の低い作業部屋、そして排水設備。こうしたものを「実験施設」や「解体場」として読むことは、確かにできる。天井裏の骨の話も、この文脈に接続されて語られてきた。
ただ、実際に現地を確認した人たちの多くは、コンクリートの構造物は浄化槽であって地下室ではない、と冷静に指摘している。赤い液体を見たという証言も繰り返し流通しているが、出所をたどっていくと、たいてい伝聞の伝聞にたどり着く。錆水や、放置された塗料や、単なる泥水が、語られるうちに血の色を帯びていったと考えるほうが自然だ。
単なる廃牧場説、つまり全部ふつうの説明がつくという立場も、きちんと紹介しないとフェアじゃない。
この立場の人たちの主張はこうだ。鉄柵がぴかぴかだったのは、新体制で牧場を再開する準備をしていた時期だから。階段がなかったのは、事務所棟と宿舎棟を結ぶ屋根付きの空中渡り廊下があり、その支柱から地面に階段が下りていたから。それが台風で壊れて撤去され、後に各棟に簡易階段が付けられた。
12メートルの鉄骨をどう運んだのか、という疑問もある。だが地形図上、その林道は4トン以上のトラックを通せる規格で記載されているから解決する。牛が少なかったのは種牛専門の牧場で、しかも貸し出しに出ていたから。トイレが多いのは研修とキャンプの受け入れのため。黒いリムジンは、車好きの経営者の趣味。
ここまで並べられると、正直、かなり説得力がある。
補助金説と、銀山跡説と、UFO基地説
補助金説は、現実的な線としては最有力だと思う。
1970年前後、畜産振興のための融資や補助が受けやすい時代があった。この土地は農事組合法人の名義で、政策金融の融資を受けて取得されている。そして会計検査院の1970年度の資料に、補助事業の実施が不当と指摘された記録が残る。
牛舎はあるのに牛がいない、という最大の違和感に対して、これは一番きれいに刺さる説明になる。実際に牧畜をやる気がないまま、書類上の要件を満たすために建物だけを建てた。だから使われていない。だから設計思想がちぐはぐで、誰の使い勝手も考えられていない。
この説の恐ろしいところは、超常現象より人間の側がよっぽど不気味だという後味を残すことだ。
和牛預託商法説は、そこに時代の空気を足したものになる。バブル期には、出資者から金を集めて和牛を育て、配当を約束するという投資スキームが流行した。破綻したものも多い。牧場の実態が薄いのに施設だけ立派、という条件は、この商法の跡地としても説明できる。ただ、この牧場の建設時期はバブルよりだいぶ前なので、後年の運用がそれに乗った可能性、という限定付きになる。
銀山跡説と地下空洞説は、オカルト的な現象に対する合理的説明として提示されたものだ。
この山域は平安時代から銀の採掘が行われ、江戸期以降も掘られてきた。だから山の中に空洞があり、地盤が緩い。敷地内に穴が開いたり、クレーターのような陥没が生じたりするのも、坑道の崩落で説明がつく。
夜に見える発光体は、ガスの噴出に伴う自然現象だという。山中に響くエンジン音のようなものは、地形による反響。二足歩行する何かの足音は野犬で、骨はシカやイノシシ。個別には、どれも十分ありうる話だ。
そしてUFO基地説だ。これは笑いどころではなく、この話の初期から真剣に語られてきた説である。
根拠は主に三つある。まず、建築的にありえない構造が多すぎること。資材の運搬経路が説明できないこと。そしてこの地域がもともとUFO目撃の多い土地として知られていたこと。役場の人間ですら、あそこではよくUFOが目撃される、と口にしたという。
人間の生活様式を、知識だけで真似したような不自然な設計。階段のない二階、外に出たら落ちるだけのドア、蛇口のない風呂。それを人間以外の存在が作ったものだと解釈すれば、たしかに全部つながる。もちろん、つながりすぎる説明は疑ってかかるべきだが。
裏社会説については、話の初期にかなり語られた。隠し部屋のような、コンクリートで三方を囲んだベッド付きの空間があること。黒塗りの高級車が出入りしていたこと。地元が存在を知らないこと。監禁施設だったのではないか、という疑いは自然に出てくる。
中山市朗自身、一時期はこの線を強く疑っていたと公言していた。だが2005年、実際にその筋を知る人物を伴って現地に入ったところ、あっさり否定されたという。逃げ場のない山奥の一本道に、そんな施設を作る組織はいない。出入りが目立ちすぎるし、追い込まれたら終わりだから。当事者の実務感覚による否定というのは、外野の推理より重い。
「これ以上、調べんほうがええ」と言われ続けた四十年
この怪談を特別にしているのは、実は建物ではない。語りの周りに張り巡らされた「止めようとする力」のほうだ。
まず、体験者本人が長く語らなかった。中山市朗がこの話を活字にしたのは1999年で、体験から17年たっている。それまでは封印していた、と本人が言っている。ラジオでは断片的に流れていたが、書き物としてまとめる決心をするまでに、それだけの時間がかかった。
次に、話を聞いた側が止めにかかる。地元の友人は「そんなとこあらへん」と言い、役場は記録がないと言う。掲示板では、議論が核心に近づくたびに誰かが「これ以上詮索しないほうがいい」と書き込む。2002年頃に立った掲示板のスレッドも同じだ。後半になるほどそういう書き込みが増えて、結局は結論に触れないまま尻すぼみに終わっている。
そして、関わった人間の不運が数え上げられる。連れの一家の失踪に、写真の消失。撮影機材があったのに、映像が一切残っていないという不自然さ。
この最後の点は、懐疑派からの最大の突っ込みどころでもある。映画を撮りに行っていたのに、なぜ撮らなかったのか。何度もそう問われてきた。
本人の答えはこうだ。当時フィルムは高価で、作品に使う以外を撮る余裕がなかった。それに、とにかく早く帰りたかった。これは、貧乏学生の現実としては納得できる。納得できるが、証拠は依然としてない。
面白いのは、中山市朗本人が近年、自分の創作である可能性を完全には否定しない言い方をしている点だ。創作なんじゃないかと言われれば、そうかもしれないなと思うこともある。そういう主旨の発言をしている。
これは怪談の語り手として、かなり誠実な態度だと思う。同時に、この一言が話を殺さないどころか、むしろ強くしている。断定しないことで、聞き手の側に判断が委ねられる。委ねられた側は、自分で怖がるしかなくなる。
電波に乗り、DVDになり、動画になった四十年
この話の伝播経路は、実話怪談としてはかなり珍しく、はっきり追える。
最初は電波だった。1980年代半ば、関西のラジオでこの牧場の話が語られ始める。深夜のトーク番組で、まだ本にもなっていない噂として流れた。
ここでリスナーが動いた。候補地とされた場所に人が押し寄せ、まったく別の山が「山の牧場」として扱われてしまう騒ぎが起きている。オカルト業界で大江山事件と呼ばれてきた出来事で、これが場所の誤同定の最初の例になる。この時点で、話はもう体験者の手を離れている。
1988年には、タレントの北野誠がプライベートでこの牧場を訪れている。このときは無人だった。翌1989年には、ラジオの取材として再訪している。この時期には牛が20頭ほど飼われ、柴犬が一匹いて、一般人は許可なく入れない状態だったと記録されている。壁にはアイドルのポスターが貼ってあった。
1990年にはテレビ番組の企画として取材が行われ、番組の結論としては「普通に経営されている牧場」ということになった。ただ、現場にいた人たちが納得していた様子ではなかった、というのが後年の証言だ。
1999年、『新耳袋』第四夜への収録。ここで全国区になる。ちなみにこの巻数は、しばしば第三夜と誤って記憶されている。
四十ページ規模の長編で、巻末には手描きの見取り図が二ページ付いていた。牧場全体の配置図と、二階建て建物の間取りに、見たものの位置を書き込んだメモ。この見取り図の存在が、この話を「怪談」から「記録」に近づけた。図があると、読者は現場を頭の中で歩けてしまう。
2000年代に入ると、映像作品が続く。ホラー系の現地突撃DVDシリーズがここを取り上げ、深夜に現地でUFOを呼ぼうとする企画まで行われた。ラッパーが本気で怯えている絵が、シリーズの中でも屈指の名場面として語られている。
心霊探訪番組では、著者本人や漫画家を交えて現地で一夜を明かす企画も組まれた。2019年にはラジオ番組のチームが初めて現地に入り、写真付きの詳細なレポートを出している。
このレポートで、新しい発見があった。事務所棟の裏に山の斜面がそのまま建物の中に取り込まれていて、二階の床の一部が斜面になっていること。そしてその上に、さらに上がれない三階部分があること。
2013年から2014年にはコミック版が刊行され、活字を読まない層に届いた。ここで年号や人物名が明示され、話は輪郭を得る。
そして2020年代、動画配信の時代に入ってから、この話は三度目の全国区を迎える。著者本人が語る動画は、繰り返し再生された。怪談師たちが本人を連れて現地を歩く動画も公開され、テレビのバラエティ番組でも取り上げられている。
2022年の映像では、また変化が確認されている。階段がないと言われ続けた建物の二階の床が無理やりくり抜かれて、鉄製の階段が付けられていた。位置がおかしいと指摘されていたステンレスのキッチンは、撤去されている。
指摘されたところから直されていく。これが、この話でいちばん薄気味悪い現象かもしれない。誰かが見ていて、誰かが直している。
場所が割れてから始まった、もう一つの問題
ネットで場所が特定されたのは、この怪談にとって決定的な転機だった。今では住所レベルまで書かれているし、地図サービス上に名前が載っている状態が続いている。
そのせいで何が起きたか。まず人が来た。落書きが増える。そして備品が壊されていった。
トイレの小便器は割られている。和式の個室は取っ手がもぎ取られて開かなくなり、扉が枠ごと便器にはまり込んでいる状態のものまであった。「たすけて」の文字は模倣されて書き直され、鏡には物騒な形のテープが貼られた。牛の骨をめぐる話も、誰かが動かした可能性を否定できない。
つまり今、あの場所で見られる異常の何割かは、この怪談を読んで来た人間が作ったものだ。怪談が現場を作り替えてしまった。
これはネットロアの一種の到達点であり、同時に取り返しのつかない損失でもある。1982年に何があったのかを検証しようにも、現場がもう別物になっている。
もう一つ、深刻な問題がある。ここは私有地なのだ。土地の登記は残っているし、放牧場の跡が手入れされている形跡もある。関連する組合は2015年に改めて法人登記され直しているという指摘もあり、管理が完全に途絶えているわけではない。
だから、勝手に入るのは単純に不法侵入になりうる。建物は老朽化していて、床が抜ける危険も、地盤が陥没する危険もある。野生動物もいる。
この記事を読んで行きたくなった人がいたら、はっきり言っておく。行かないでほしい。少なくとも、無断で敷地に入ることは絶対にすすめない。撮影も探索も、所有者や地元の了解なしにやっていいことじゃない。
実際、丁寧な検証記録を残している人ほど、事前に周辺で作業していた人に目的を伝えて駐車の許可を取っている。そういう手順を踏めない人が行く場所ではない。
実際に行った人たちが、何を見て何を思ったか
ここからは、実際に現地を訪れたと語る人たちの言葉を、いくつか紹介しておきたい。どれも一次証言ではなく、公開されている記録から拾ったものだが、温度は伝わると思う。
一人目は、1989年から1990年にかけて取材に入ったテレビ側の証言になる。このときの牧場は稼働していた。
牛が20頭ほどいて、柴犬が一匹いて、従業員もいる。一般人は入れないように管理されていた。二階に上がる階段は建物の中にはなかったが、外に土を盛って作った階段があって、そこから上がれたという。その先には露天風呂があったが撤去された、と説明されている。
壁にはアイドルのポスターが貼ってある。トイレは水洗だった。最初は獣医が所有していて、売られて猟師が使い、その後に牧場経営になった、という来歴も語られている。
ここだけ切り取れば、ただの山の牧場だ。だが取材陣は、放牧場に牛が一頭もいないことと、匂いがしないことに、最後まで引っかかり続けた。
二人目は、2010年代に一人で現地に入った探索者の記録になる。彼が書き残しているのは、怪異ではなく徹底した観察だ。
トイレの小便器が破壊されている。和式の個室は取っ手がもぎ取られて開かない。二つ目の個室は長四角の枠が便器にぴったりはまり込んでいる。便器の向きが違うものがある。照明がないと何も見えない真っ暗な個室がある。
牛舎に入ると、仕切り板の付いた木製の巨大な箱がある。向かいの部屋には藁だけが残っている。そして1998年5月のカレンダーが壁に掛かっていて、特定の日付が消されている。
「ここまで謎が多いスポットは初めてだ」という一言で、その記録は締めくくられている。彼が怖がっているのは幽霊ではなく、意味が読めない物の配置だ。
三人目は、2020年代に廃墟巡りの一環としてこの山に登った人の記録になる。この人の視点はもっと乾いていて、面白い。
遠かった、暑かった、と最初に書く。山道をひたすら歩いて登り、敷地の広さに驚く。畜舎が道路の左右に広がっていて、コの字型に配置されている。壁が完全には閉じていない構造で、隙間から向こう側の緑と木漏れ日が見える。
一頭ずつの区画がくっきり残っている。下半分がガラス張りのドアが珍しい。柱に斜めに貼られた注意書きが妙に味わい深い。
この人の記録には、怪談の要素がほとんど出てこない。ただ「たくさんの畜舎が山の上に残る」という、それだけの事実がある。同じ場所を見ても、そこに何を読み取るかで、まったく別の風景になるということだ。
四人目として、2022年に著者本人を伴って現地を歩いた怪談師たちの記録も挙げておきたい。彼らが確認したのは、三つの変化だった。階段が新しく付けられていること。キッチンが消えていること。そして敷地内に、大きな穴が開いていること。
地面が沈んでいる。山そのものが、施設を飲み込もうとしているように見える。四十年かけて、この場所は怪談の舞台であることをやめて、ただの崩れていく山に戻ろうとしている。その過程を見届けようとしている人たちがいる、という構図がなかなか切ない。
作り話じゃないの、という真っ当な疑い
ここでいったん、きちんと反証の側も書いておきたい。都合の悪い話を省いたら、それはもう読み物として不誠実だ。
まずは作り話説から。いちばん強い指摘は、やはり「映画を撮りに行っていたのに、なぜ映像がないのか」だろう。
カメラを持った集団が、これほど異様な場所に入って、一秒も回さないというのは不自然に見える。写真も残っていない。1982年当時の現場を示す一次資料が、体験者の記憶と、後年に描かれた見取り図しかない。しかもその見取り図がいつ描かれたものかも特定できない。
人間の記憶は簡単に書き換わる。十七年寝かせた記憶が、語るたびに整えられていった可能性は十分ある。
次が、複数の廃墟の合成説になる。これは意外なほど説得力がある。
ひとつの物語の中に、実験室、宿舎、事務所、牛舎、巨石の平屋、大量のトイレ、隠し部屋と、詰め込まれている要素が多すぎる。別々の時期に、別々の場所で見たものが、記憶の中で一つの敷地にまとまってしまう。これは記憶研究の世界ではよくある現象だ。
とくに、後年に何度も訪れているという事実が事態をややこしくする。1982年の記憶と、1987年の記憶と、1990年の記憶が、語り直されるうちに混ざる。実際、実験室の位置がコミック版と現地の位置関係で食い違っていることは、現地を検証した人が指摘している。
三つめが、場所の誤同定だ。ここは一番やっかいで、しかも一番重要な論点でもある。
現在「山の牧場」として広く知られている兵庫県朝来市の施設は、旧・朝日牧場と呼ばれてきた場所になる。ところが、この施設についての情報を追いかけると、別の記述が出てくる。開設は1970年代前半で、繁殖用の牝馬を飼っていた。閉業は1998年から1999年頃。電話帳にも名前が載っていた。
つまり、少なくとも一時期は、堂々と営業している普通の牧場だった。すると、1982年に無人で放置された不気味な施設だった、という体験談と時系列が噛み合わない部分が出てくる。この矛盾を指摘する声は、実は少なくない。
さらにややこしいことに、この牧場のすぐ近くには、別の廃牧場も存在している。バブル期に建てられて短期間で放棄されたとされる施設だ。主施設の拡張計画が頓挫したものではないか、という見方もあるが、関連は確定していない。
近接した二つの廃牧場。訪問者がどちらを見たのか、いつの時点で見たのか。写真や証言が混線する条件は、はじめから揃っている。1980年代にラジオのリスナーがまったく別の山に押し寄せた一件も含めて、この話の「場所」は最初から一つに定まっていない。
そして最後に、いちばん身も蓋もない反証がある。四十年以上のあいだに、この場所に関連して報道された事件が一件もないのだ。
失踪も、監禁も、傷害も、新聞記事として存在しない。一家が丸ごと消えたなら、それは捜索願が出るし、記録が残る。何も残っていない。この事実はかなり重い。オカルトを信じるかどうか以前の問題として、公的記録の不在は、それ自体が強い反証になる。
とはいえ、である。反証が積み上がっても、この話が痩せないのが不思議なところで、そこにこそ、この怪談の本質がある。
なぜこの一本だけが、こんなに怖がられ続けるのか
実話怪談は星の数ほどある。幽霊が出る話も、人が消える話も、山で不思議なものを見た話も、いくらでもある。なのに、なぜこの話だけが四十年以上も特別扱いされ続けているのか。理由をいくつか整理してみたい。
一つめは、これだ。この話には、怪異というものが一つも出てこない。これは決定的だと思う。
そもそも幽霊が出ないし、血まみれの女も、追いかけてくる何かも、呪いの言葉もない。あるのは、ただの建物と、ただの物だけになる。人形、お札、文字、石、便器。全部、この世のものだ。
ところが、その配置と組み合わせだけが徹底的におかしい。人間は、明確な化け物より、意味の読めない配置のほうを怖がる。化け物には「そういうもの」というラベルが貼れるが、意味不明な配置にはラベルが貼れないからだ。読み取ろうとして、読み取れなくて、脳が空回りする。あの空回りが恐怖の正体だと思う。
二つめは、空間の前提が壊れていることになる。二階があるのに上がれない。ドアがあるのに開けたら落ちる。
風呂があるのに蛇口がない。トイレが人数の何倍もある。
これらは幽霊よりずっと根源的な不安を刺激する。人間は建物という枠組みを、無意識に信頼して生きている。上には行ける、ドアの向こうには床がある。その信頼が壊されると、足元そのものが揺らぐ。ホラー映画が延々と使ってきた手法を、この話は実在の建物でやってしまっている。
三つめは、とにかくオチがないという点だ。もしかすると、これに尽きるかもしれない。
ふつうの怪談には終点がある。正体が分かるか、逃げ切るか、やられるか。この話にはそれがない。不安で始まって、不安のまま終わる。
読み終えた読者は、解決されなかった問いを持ち帰ることになる。持ち帰った問いは、頭の中で勝手に育つ。四十年たっても育ち続けている。
四つめは、検証できてしまうのに検証しきれないことになる。ここが他のネットロアと決定的に違う。
多くの都市伝説は「場所が特定できない」ことで守られている。ところがこの話は、住所まで割れていて、写真も動画も山ほどあって、誰でも見に行こうと思えば行ける。にもかかわらず、四十年たっても答えが出ない。むしろ検証するほど、新しい謎が増える。近づけるのに届かない、というのは、届かないものより強く人を引きつける。
五つめは、話が終わらない仕掛けが物語の内側にあることだ。撮った写真が消える。撮った人が消える。証拠を持ち出そうとすると失敗する。
これは、この話が「証拠が出ないこと」を最初から予告している構造だと言える。だから証拠がないことが、この話にとってダメージにならない。証拠がないほど、話の予告が的中したことになる。反証不能な構造が、無自覚に組み込まれている。
六つめは、現場が更新され続けていることになる。指摘された欠陥が、いつのまにか直されているのだ。階段がつき、キッチンが消え、トイレの数が変わる。
読者は「誰かが読んでいる」と感じる。この、こちらの言及に応答してくる感じが、他のどの心霊スポットにもない特異な魅力を生んでいる。実際には、単に所有者が普通に補修しているだけかもしれない。だがそう思えないのは、この話を読んだ後だからだ。
七つめは、語り手がいまも生きているという点だ。これは、かなり大きい。
多くの怪談は、体験者が匿名で、もう追跡できない。だがこの話は違う。体験者本人が名前を出して、四十年語り続けていて、しかも聞かれれば「自分の創作かもしれない」とまで言う。
この態度が、話に生々しい体温を与えている。作り手が話を守りにいかないから、話が固まらない。そして固まらないから、生き続ける。
結局、山の牧場とは何だったのか
ここまで書いてきて、正直に言っておきたい。私自身は「補助金がらみで建てられた、実態のない牧場だった」という線が、かなり有力だと思っている。
牛のいない牛舎、誰の使い勝手も考えていない間取り、辻褄の合わない増改築、そして行政記録に残る不当という一言。これらは全部、超常現象ではなく制度の隙間で説明がつく。
書類のために建てられた建物は、人が使うことを想定していない。だから人の使い方の常識を外れる。上がれない二階も、落ちるだけのドアも、蛇口のない風呂も、「実際に使う予定がなかった」と考えれば全部つながる。
そう考えたとき、あのお札と人形と「たすけて」は何なのか。ここからは想像になる。
書類のためだけに建てられた建物が、その後、誰かの生活の場になった時期があったのかもしれない。事情を抱えた誰かが、山奥の空き施設に流れ着く。そこで何かに追い詰められて、手当たり次第にお札を貼り、人形を並べ、壁に自分だけの文字を書き付けた。
医学書を読んで、体のことを書き留めてもいる。そして最後に「たすけて」と書いた。誰も来なかった。
この想像が当たっているかどうかは分からない。分からないままでいい、とすら思っている。
ただ、この読み方をすると、この話の怖さが少し形を変える。宇宙人でも裏社会でもなく、山の上に打ち捨てられた誰かの孤独が、四十年たっても消えずに残っている。そう考えたほうが、私にはよほど怖い。
怪談は、現場を変えてしまう
もう一つ、この話の四十年が教えてくれることがある。それは、怪談は現場を変えてしまう、ということだ。
1999年にこの話が本になったとき、あの牧場はただの経営に失敗した山上の施設だった。それが、語られ、読まれ、探され、特定され、撮影され、落書きされ、直され、また撮影された。今では「山の牧場という怪談の現場」という、まったく新しい何かになっている。
もはや、あそこにあるのは牧場の廃墟ではない。四十年分の視線が積もった場所だ。壁のお札の上に木目の壁紙が貼られ、その上に落書きが書かれ、その落書きが動画に撮られて、また誰かがそれを見に来る。地層みたいになっている。
そして、この地層はまだ増えている。この記事もまた、その一層になる。
私はここに来て、公開されている記録を読み込んで、自分なりに再構成して、あなたに手渡した。あなたが読んだ瞬間、あなたの中にもこの牧場が建つ。赤い屋根、匂いのしない牛舎、ひっくり返ったトラクター、階段のない二階、仰向けの人形、白いペンキの四文字。
実物を見ていないのに、たぶんかなり鮮明に浮かんでいるはずだ。それが、この話が四十年生き延びてきた仕組みそのものになる。
最後に、繰り返しになるけれど大事なことを書いておきたい。この話をどれだけ怖がってもいいし、どれだけ考察してもいい。ただ、現地に行くのはやめてほしい。
あそこは私有地で、建物は崩れかけていて、地面には穴が開いている。管理している人がいて、近くには生活している人がいる。怪談を面白がる自由と、他人の土地に踏み込む権利は、まったく別のものだ。四十年語られてきた話の、次の一章が「誰かが床を踏み抜いて大怪我をした」であってほしくない。
分からないものは、分からないまま置いておく。それができる場所は、そう多くない。山の牧場は、その数少ない一つとして、これからも山の上で静かに崩れていけばいい。たぶん答えは出ないし、出ないほうがきっと正しいのだと思う。
