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山の測量

望遠鏡だけが視た、もうひとりの女

先月の話だ、と語り手は書き出している。俺と同僚のA、これは版によっては「杉山」なんて妙にリアルな仮名で呼ばれることもあるんだが、とにかくこの二人で山の中に入っていた。境界を確定するための測量、つまり現地調査の仕事だ。土地勘のある案内人がひとり、道案内としてついてきてくれていた。

三人でまだ雪の残る斜面を登って、尾根まで出たところで案内人の携帯が鳴る。本社からの呼び出しだったのか、家の用事だったのか、そのへんは版によって語られ方がバラバラなんだが、とにかく案内人は「あとは小径沿いに進めば境界標識まで行けるから」とだけ言い残して、さっさと一人で下山していってしまう。残された語り手とAは、正直ちょっと拍子抜けするくらいあっさり、案内人抜きの二人きりになった。

そこから空模様が急変する。見る間に曇って、風が出て、雪が横殴りになってきた。それでも仕事は仕事だから、二人は作業を続けようとする。語り手は方位磁石と小型望遠鏡が合体した、現場で「ポケットコンパス」と呼ばれる測量道具を三脚にセットして、数十メートル先で測量ポールを掲げるAに照準を合わせた。レンズの中にAの後頭部がドアップで映る――はずだった。

ところが覗き込んだ望遠鏡の視界には、黒くて長い髪の後頭部が映っている。おかしいだろ、と語り手も思う。Aは茶髪だし、そもそも安全のためヘルメットを被っているはずなんだから。慌てて望遠鏡から目を離して肉眼でAを見ると、そこにはいつも通りのA、正面をこっちに向けて立っているだけの、何の変哲もないAがいる。

だがそのAの後ろ、少し離れた木立の陰に、白っぽい半袖の服を着た女がひとり、じっと立っているのが見えた。

真冬の雪山で半袖。この時点でもう十分おかしい。女はしばらくそこに佇んだあと、音もなく斜面の奥へと消えていった。二人は「単独登山の人が道に迷ったのかもな」と無理やり自分を納得させて、作業を再開する。まあ、そう思い込むしかなかったんだろう。

レンズの中で、女がAの髪をつかんだ

ここからが本番だ。吹雪はどんどん強まっていく。それでも語り手が望遠鏡を覗くと、女はまたAのすぐ後ろに立っていた。今度は消えない。それどころか、女の手がゆっくりとAの髪をつかんで、耳元に顔を寄せて何かを囁いている。

肉眼で見る限り、Aはただそこに立っているだけにしか見えない。なのに望遠鏡越しには、Aが女の言葉に頷いて、抵抗する素振りも見せずに女のあとをついて小径を外れ、獣道みたいな斜面の奥へと歩き出していく様子が、はっきり映っていた。

語り手は機材を放り出して、叫びながら追いかける。ようやく追いついてAが振り返ったとき、そこにいたのはもうAじゃなかった。目の焦点は完全に失われていて、顎が外れたんじゃないかと思うくらい口が大きく開き、裂けたように見える口の端から血を流しながら、言葉にならない絶叫を上げている。しかも今度は、女に代わってAのほうが語り手ににじり寄ってきた。

恐怖に耐えきれず、語り手はAを置いて単独で下山し、麓から警察に通報する。捜索が始まって二日後、山中で見つかったのはAじゃなかった。白い服の女の遺体だ。前年の夏、遠く離れた町で行方不明になっていた女性だという。着ていたのは真夏の薄着のまま、髪は黒くて長い。そして両目には古い外傷の痕があって、警察の見立てでは生前からほとんど視力を失っていたはずだという。

Aは結局、見つからなかった。

髪を剃った理由

語り手は以前ネットで読んだ話を思い出す。「後ろ髪をつかまれた者に、憑いていたものが乗り移る」という、また別の怪談だ。Aも長髪だった。乗り移られたんじゃないか――そう考え込んだ語り手は、藁にもすがる思いで自分の髪を剃り落とす。

後日談まで含む版だと、さらに時間が経った春先、Aは麓の斜面で下着姿のまま凍死した状態で発見されて、その両目もまた同じように損なわれていたと語られる。しかもこの一件を報告するために語り手が連絡を取った本社の事務員までもが、その後行方をくらませたという、なんとも不穏な尾ひれまで付いている版もある。語り手は、山でもう一度Aに会うことだけは二度と望めないと悟りながら、筆を置く。

出所を辿るとぶつかる壁

この話は2000年代、匿名掲示板の「死ぬほど洒落にならない怖い話を集めてみない?」系スレッド、通称「洒落怖」に投稿された長編だとされている。正直に言うと、初出となる具体的なスレッド名も投稿日時もレス番号も投稿者のコテハンも、今回いくら調べても一次ログには辿り着けなかった。

それでも多くのまとめブログや朗読動画は「洒落怖の名作」「自己責任系の代表作の一つ」として本作を紹介している。原スレッドのアーカイブがちゃんと残っている例は乏しいのに、それでも本作が長年語り継がれてきたのは、登山愛好者のブログや怪談専門サイトなど、複数の独立したまとめサイトに繰り返し採録されてきた事実からもわかる。

あるまとめサイトでは「5ch史上最も怖い話」として満場一致で名前が挙がったという紹介のされ方までしていて、洒落怖という膨大なジャンルの中でも指折りの知名度を持つ一作らしい。

「自己責任」とつながる、読者が編んだ世界観

この話が単なる山岳怪談にとどまらず、洒落怖読者のあいだで特別扱いされているのには理由がある。「自己責任」という別の長編怪談との接続を、読者自身が指摘し出したからだ。

「自己責任」は、冒頭から「これを読んだ者は自己責任で」と延々と警告を発し続ける、いわゆる「読んだだけで呪われる」系統の話で、コトリバコや八尺様と並んで「自己責任系」というジャンル名の由来にもなった代表作のひとつだ。読者の中には、山中に現れて視力を失っていた白い服の女こそ「自己責任」の被害者で、Aは女に取り憑いたものの新しい依代として選ばれたんじゃないか、と読む人が出てきた。

本文には両者を直接結びつける記述なんてどこにもない。それなのに読者コミュニティが後から二つの話のあいだに糸を張って、ひとつの大きな「世界観」として編み上げていった、その経緯そのものがこの話の怖さをさらに底上げしている。もっとも、これはあくまで遭難による幻覚や低体温症下の錯乱を描いた独立した創作で、他作との接続は考察好きな読者の深読みに過ぎない、という冷静な解釈も根強くある。

細部の異同も少なくない。相棒の名前を「杉山」という具体的な仮名で語る版、髪を剃った理由を「忌み回し」という別の民間伝承の対抗術になぞらえて説明する版、本社の事務員まで行方不明になるという不穏な後日談を足す版。「山を舞台にした一連の洒落怖長編群」なんて便宜的な括りで並べて紹介されることもあるけど、これは単一の確定した続編や前日譚があるわけじゃない。そこは念のため注意しておきたい。

「あれ、俺にも似たことがあった」という書き込みたち

本作自体はフィクションとして流通しているんだが、朗読動画のコメント欄やまとめブログには、これを読んで自分の体験を重ねる書き込みがけっこう集まっている。

ある登山者を名乗る投稿者は、「学生時代に測量のバイトをしていたとき、望遠鏡越しに一瞬だけ、誰もいないはずの茂みに白いものが映って、慌てて肉眼で確認したら本当に何もなかった。あの話を読んでから、あのときの妙な寒気を思い出すようになった」と書いている。

別の書き込みでは、「冬山で単独行動していたとき、後ろから誰かに髪を引っ張られる感覚があった。もちろん誰もいない。あとで写真を確認したら、自分の後ろの木立の色がなぜか不自然に暗く写っていた」という、細部までよく似た「後づけの実体験」が語られている。測量の仕事をしていたという別の投稿者も、「望遠鏡やカメラのファインダーは、なぜか肉眼より先に妙なものを拾うことがあると先輩から聞かされたことがある。

都市伝説だと笑っていたが、この話を読んでからは冗談に思えなくなった」と書き残している。

こういう体験談の多くは後づけの創作である可能性が高い。それでも「レンズという機械の目が、生身の目より先に異界を映し出す」という本作最大の恐怖装置に、読者たちが自分の記憶を重ね合わせずにいられないのは確かなんだろう。

賛否も考察も、まとめて盛り上がる掲示板

登山者コミュニティのブログに寄せられたコメントは賛否が分かれている。「終盤の展開はさすがに創作丸出し」「後日談を盛りすぎて逆に興が削がれた」という辛口の指摘がある一方で、「設定の作り込みはうまい」「怪談としての完成度は洒落怖の中でも屈指」と評価する声も多い。

実際に測量業に従事しているという投稿者からは、「今どきの現場は3Dレーザースキャナやデジタル測量が主流で、望遠鏡だけを頼りに山奥へ入ることはまずない」という、時代考証めいた指摘も寄せられている。逆に言えば、これが投稿当時、つまり2000年代の測量現場のリアリティを裏付ける材料として読まれているわけだ。

YouTubeの朗読・考察動画のコメント欄では、「望遠鏡だけがおかしいものを映すという発想が秀逸」「自己責任と繋げて読むと鳥肌が止まらない」「Aが振り返った瞬間の描写が一番怖い」といった感想が並んでいて、「自己責任」との接続を前提に考察を展開する動画も複数ある。

こういう「内輪の設定合戦」を指して、一部の読者は「気持ち悪いが、これこそがネット怪談という文化の本質そのものだ」と評していて、単一の作者による一話完結の物語が、無数の読者の手によって共同で拡張されていく、いわゆる「共同構築型ネットロア」の典型例として本作を位置づける見方も広がっている。

それでも、実在の裏付けはどこにもない

結論から言ってしまうと、本作の舞台となった山、測量を発注した会社、行方不明になった女性、消えたAの身元、そのどれを特定できる公的な記録も報道も、今回の調査では見つからなかった。

作中で描かれる測量作業――ポケットコンパスや測量ポール、境界確定業務の流れ――は現実の測量業務に即したディテールで描かれていて、これが本作にリアリティを与える大きな要因になっている。一方で、雪山という設定そのものは、実際の山岳遭難事故の危険性と地続きだ。

厳冬期の吹雪の中で作業を続けること、仲間の様子がおかしくなったときに単独で行動すること、これは怪異の有無にかかわらず、現実には低体温症や道迷い遭難につながりかねない重大なリスクを伴う。

もし山中で同行者の意識や言動に急な異常が見られたら、それを怪異のせいだと即断せずに、まず低体温症や外傷、高山病といった現実的な可能性を疑ってほしい。できる限り複数人で行動して、早めに救助を要請すること。これは実際の登山においては何より大事なことだ。本作はあくまでネット上で語り継がれてきた創作怪談であって、特定の実在事件との対応関係を示す一次資料は存在しない。

そのことだけは、ここに記録として残しておく。

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