フロリダの真ん中を、州間高速道路75号線が南北に貫いている。東側には95号線が海沿いを走り、その二本を横糸のようにつなぐかたちで、国道19号線だの州道だのが果てしなく伸びている。ヤシとマツと湿地と、そのあいだにぽつんと現れるガソリンスタンド。深夜になると、対向車のヘッドライトが数分に一度しか流れてこない区間がいくらでもある。
1989年の暮れから1990年の秋にかけて、その道路網のあちこちで、男の遺体が見つかりはじめた。
年齢も職業もばらばら、住んでいる町もばらばら。共通していたのは、みんな一人で車に乗っていたこと、車が現場から遠く離れた場所で乗り捨てられていたこと、そして体に小口径の弾が撃ち込まれていたことだった。
犯人はひとりの女だった。名前をアイリーン・キャロル・ウォーノスという。ヒッチハイクで拾われては金をもらって体を売る、いわゆる「ハイウェイの娼婦」として何年も路上で生きてきた人間だった。捕まったとき、彼女には住所がなかった。持ち物はほとんど質屋に流れていた。
そして逮捕された瞬間から、この事件はもうひとつの顔を見せはじめる。彼女の周りにいた人間たちが、彼女の話を売りはじめたのだ。警察官が、弁護士が、養母を名乗り出た女性が、映画プロデューサーが、そしてもちろん報道も。「アメリカ初の女性連続殺人鬼」という、事実として間違っている見出しとともに。
以下、その両方を追いかける。七人が殺されるまでに何が起きたのかという話と、殺されたあとに何が売られたのかという話を。
幹線道路という舞台――なぜフロリダの道は人を飲み込むのか
まずは舞台を頭に入れておいてほしい。
1980年代終わりのフロリダ中部というのは、観光地としてのマイアミやオーランドのイメージとはだいぶ違う顔をしていた。オレンジ畑と牧場と、伐採用の細い砂利道と、ハイウェイ沿いに点在するトラック運転手向けの安宿。デイトナビーチの周辺には冬のあいだバイク乗りが大量に流入し、その分だけ酒場も安モーテルも増える。
こういう土地では、人が一人消えても、しばらく誰も気づかない。営業回りのセールスマンが今日戻らなくても「どこかで飲んでいるんだろう」で終わる。トラック運転手が二日連絡を寄越さなくても不思議はない。
しかも管轄がややこしい。ヴォルーシャ郡、マリオン郡、シトラス郡、パスコ郡、ディキシー郡、サンバニー郡。遺体が見つかった郡は全部ばらばらで、当時は郡ごとに保安官事務所が独立して動いていた。隣の郡で似た事件が起きていることに気づくまでに、時間がかかる構造だったのだ。
そこにもうひとつ、加害者側の条件が重なる。
ウォーノスは車を持っていなかった。だから道端に立ち、通りかかった車に乗せてもらう。その車のなかで金額の交渉をして、人目のつかない林道や空き地に入っていく。つまり、彼女の移動手段そのものが被害者の車であり、犯行現場は被害者が選んだ道の奥だった。
この構造のせいで、捜査側からすると「被害者と加害者を結ぶ線」が異様に細い。ナンパでも待ち伏せでもなく、たまたま同じ時間に同じ道を走っていた、というだけの接点しかないからだ。
この、道路の匿名性そのものを利用した連続殺人という形が、あとで「女性の連続殺人としては前例がない」と言われる理由になっていく。
1989年11月30日――リチャード・マロリーが帰ってこなかった夜
最初の被害者はリチャード・チャールズ・マロリーという五十一歳の男性だった。
フロリダ州クリアウォーターで電子機器の修理店を営んでいて、店の名前を看板に出して真面目に商売していた。仕事のあとに酒を飲みに出るのが好きで、ストリップクラブにもよく通う。何日か店を閉めて姿を消すこともある人だったので、いなくなった直後は誰も深刻に受け止めなかった。
彼が最後に目撃されたのは1989年11月30日。翌日の12月1日、彼の乗っていたジープ・チェロキーが、デイトナビーチの北側、ヴォルーシャ郡の道路脇で見つかる。運転席側のドアは開いたままで、車内は荒らされていた。財布はない。それでも遺体はどこにもなかったから、警察は当初これを「行方不明と車両遺棄」として扱っている。
遺体が出たのは12月13日だった。ヴォルーシャ郡の林のなか、道路から少し入った古びた敷物の下に、マロリーは横たわっていた。撃たれた弾は複数。致命傷になったのは左肺を貫いた二発で、その二発による出血が死因だと後に法医学者が証言している。使われたのは小口径の拳銃だった。
このとき、捜査員たちはまだ「連続」という言葉を思いついてすらいない。中年男性が一人殺されて、車と財布を取られた。フロリダではそう珍しくもない事件として、いったん棚に置かれる。
春が来て、遺体が並びはじめる
半年ちかく何も起きなかった。そして1990年の初夏、立て続けに二人が見つかる。
デイヴィッド・アンドルー・スピアーズは、フロリダ州ウィンターガーデンに住む建設作業員だった。五月十九日、勤め先を出たあと連絡が取れなくなる。六月一日、シトラス郡を走る国道19号線沿いの林で、全裸の遺体が発見された。撃たれた弾は六発。彼のピックアップトラックはずっと離れた場所に乗り捨てられていて、そちらのほうが先に見つかっていた。
その五日後、六月六日。今度はパスコ郡で、チャールズ・エドマンド・カースカドンという四十歳の男性の遺体が出る。ロデオの仕事を掛け持ちしていた人で、恋人に会いに行く途中だった。遺体は電気毛布に包まれるようにして道路脇に遺棄されていた。撃たれた弾は九発。前の二件よりも明らかに数が多い。
この時点で、フロリダ州内の複数の郡の捜査員が、ようやく「似ている」と口にしはじめる。中年から初老の男性。単独行動中。車が現場から遠く離れた場所で発見される。持ち物と現金が消えている。そして弾丸が同じ小口径。
ただ、犯人像として最初に想定されたのは男だった。というより、この手の犯行を女がやるという発想自体が、当時の捜査の常識のなかになかった。
消えた老人と、横転した車――シームズ事件が残した最大の贈り物
四人目とされているピーター・エイブラハム・シームズは、六十五歳の元商船船員で、退職後はキリスト教系の慈善活動に打ち込んでいた。1990年六月、フロリダ州ジュピターの自宅からアーカンソー州の親族のもとへ車で向かうと言い残して出発し、そのまま消息を絶つ。
シームズの遺体は、今日にいたるまで見つかっていない。だがこの事件が、結果として捜査を一気に前へ進めることになる。
七月四日、フロリダ州オレンジスプリングス。彼のポンティアック・サンバードが道路脇に突っ込んで大破しているのが見つかった。事故の瞬間を目撃した住民がいた。
ロンダ・ベイリーという女性で、彼女は横転した車から二人の女が出てきて、そのまま歩き去るのを見ていた。片方は背の高い、金髪気味のブロンド。もう片方はずんぐりした体型で短髪。二人は腕に怪我をしていて、助けを申し出た人間を断って立ち去ったという。
この目撃証言から、二人の女の似顔絵が作られた。これが後に、地元紙に載る。もうひとつ、車内から検出された指紋があった。当時のフロリダ州は指紋の自動照合システムを導入したばかりで、この照合が効いてくる。
つまりシームズは、遺体が出なかったせいで殺人罪の起訴対象にすらならなかった被害者でありながら、他の六件を解決に導いた人物ということになる。この皮肉な立ち位置を、彼の名前ごと覚えておいてほしい。
夏から秋へ――ソーセージのセールスマンと、元警察署長と、警備員
七月三十一日、トロイ・ユージーン・バーレスという五十歳の男性が営業から戻らなかった。オカラの食肉加工会社に勤めていて、ソーセージを卸して回るのが仕事だった。配達先を回りきったあと連絡が途絶え、八月四日、マリオン郡の森のなかで遺体が発見される。撃たれたのは二発。彼のバンは、それとは別の場所で発見されていた。
九月十一日には、チャールズ・リチャード・ハンフリーズが殺された。五十六歳。空軍を少佐で退役し、アラバマ州の小さな町で警察署長を務めたこともある。事件当時は児童虐待の調査官として州の福祉部門で働いていた。つまり彼は、生涯を通じて人を守る側の仕事をしてきた人だった。翌九月十二日、マリオン郡で遺体が見つかる。撃たれた弾は七発。彼の車は遠く離れたサンバニー郡で乗り捨てられていた。
そして十一月十九日、ウォルター・ジェノ・アントニオ。六十歳を超えたトラック運転手で、警備員としても働き、地元では予備警察官の身分も持っていた。ディキシー郡の伐採用林道の近くで、ほぼ裸の状態で発見された。撃たれた弾は四発。この人の遺体が、最後になった。
一年たらずで七人。しかも後半になるほど間隔が詰まっている。捜査本部は複数郡の合同態勢に組み替えられ、州の捜査機関も投入された。似顔絵の二人の女が、正式に「重要参考人」として公表される。
彼らは「七人の男」ではない――名前を取り戻しておく
ここで一度、立ち止まっておきたい。
この事件を扱う文章の多くが、被害者を数字で処理してしまう。「七人の男性客」「七人のジョン」。ひどいものになると、彼らを「加害者の物語を成立させるための装置」としか扱わない。映画が公開されたあとには、被害者遺族が「うちの父は悪役として消費された」と抗議する事態にもなった。
だから書いておく。
リチャード・マロリーは修理の腕がよく、常連客に信用されていた店主だった。デイヴィッド・スピアーズは離婚後も元妻と良好な関係を保ち、その日も家族に会う予定を口にしていた建設作業員だった。チャールズ・カースカドンはロデオの世界に憧れて掛け持ち仕事をしていた四十歳で、遺族は彼を人懐こい男だったと語っている。
ピーター・シームズは退職後の人生を教会の慈善活動に捧げていて、遺体すら家族のもとに帰らなかった。トロイ・バーレスは営業の途中で家に電話を入れるのが習慣の、家庭を大事にする父親だった。ディック・ハンフリーズは虐待された子どもを保護する仕事に就いていて、事件の日は職場の異動が決まったばかりだった。ウォルター・アントニオは長距離を走りながら、地元の警察の手伝いを誇りにしていた人だった。
彼らのうち何人が、路上での性的サービスの取引に応じたのか。何人が暴力をふるったのか。そこは今も確定していない。確定していないからこそ、七人まとめて「そういう男たち」と一括りにするのはやってはいけないことだと思う。少なくとも五人については、暴行があったという主張は加害者本人によって後から撤回されている。
二人の女を捜せ――指紋と質屋の伝票がつながった日
1990年の秋から冬にかけて、捜査は「二人の女」に絞られていく。
決め手は二つあった。ひとつはシームズの車から出た指紋。もうひとつは質屋の伝票だ。
フロリダ州には、質入れの際に本人の指紋を伝票に押させる制度があった。捜査員が被害者の失われた所持品――カメラ、工具、レーダー探知機のたぐいだ――を手がかりに周辺の質屋を洗ったところ、デイトナ周辺の店で該当品が出てきた。伝票には「キャメロン・マリー・グリーン」という名前と、押された指紋があった。
この指紋が、シームズの車から出た指紋と一致する。さらに照合を進めると、フロリダ州内の記録にある「ロリ・グロディ」「スーザン・ブラホヴェック」といった別名の記録ともつながった。すべて同一人物。本名はアイリーン・キャロル・ウォーノス。前科は複数あり、武装強盗や銃刀法違反、飲酒運転などが並んでいた。
同時に、もう一人の女の身元も割れる。ティリア・ジョリーン・ムーア。ウォーノスとは1986年にデイトナビーチのバーで知り合い、以来ずっと一緒に暮らしてきた恋人だった。二人はモーテルや安アパートを転々とし、ムーアがホテルの客室清掃などで働き、ウォーノスが路上で稼いだ金で生活していた時期が長い。
捜査当局は、まずウォーノスの身柄を確保することを決める。ただし、いきなり殺人容疑で逮捕はしなかった。ここが重要になる。
1991年1月9日、ラスト・リゾートというバイカーバー
逮捕は1991年一月九日、フロリダ州ポートオレンジにある「ラスト・リゾート」というバイカーバーで行われた。ヴォルーシャ郡の店で、ウォーノスはここに入り浸り、屋外に置かれた古い車のシートで寝泊まりすることもあった。
このとき執行された令状は、殺人ではなく、別名で出ていた銃器不法所持の未執行令状だった。
捜査側の狙いは明らかで、まず彼女を確実に身柄拘束下に置き、そのあいだにもう一人――ティリア・ムーアを見つけて、口を割らせることだった。殺人容疑をこの時点でぶつけてしまうと、弁護人が付き、取り調べのハードルが跳ね上がる。だから泳がせた。この判断が、のちに「不当な手口だったのではないか」という議論の火種になる。
一方でムーアは、すでにフロリダを離れていた。捜査員は彼女をペンシルベニア州ピッツトンにある姉妹の家で発見する。そこで交わされたのが、この事件で最も議論を呼ぶ取引だった。
恋人が受話器を握った十二日間――自白はこうして引き出された
ムーアに提示された条件は、実質的にこうだ。あなたを訴追しない。その代わり、ウォーノスに電話をかけて、自分は無関係だと言わせてほしい。
捜査員はムーアをフロリダに連れ戻し、デイトナのモーテルに部屋を取った。部屋には録音機材が仕掛けられていた。そこからムーアが、拘置所にいるウォーノスに何度も電話をかける。
会話の内容はおおむね一貫している。ムーアは泣き、怯え、警察が自分を疑っている、家族にも迷惑がかかっている、自分は何も知らない、と繰り返す。ウォーノスは最初、落ち着かせようとする。やがて、ティリアを守らなければという方向に、明確に舵を切っていく。
この十数回のやりとりが、法廷でも文献でも「誘導だったのか、それとも自発的な告白だったのか」という論点になった。
批判する側の言い分はこうだ。捜査機関は、被疑者が最も情緒的に依存している相手を、免責という報酬で運用し、録音を仕掛けた部屋から台本に近い会話をさせた。しかも被疑者にはこの時点で殺人事件についての弁護人が付いていない。これは自白の任意性を実質的に骨抜きにする手口ではないか、と。
擁護する側の言い分もはっきりしている。ムーアは自分の意思で協力した。ウォーノスは強制されて話したのではなく、恋人を守るために自分から話したのであって、その動機は本人の内側にある。そもそもおとり的な会話の録音は当時の判例上も違法ではない。実際、裁判所はこの自白の証拠能力を認めている。
どちらの言い分にも筋は通る。ただ、少なくとも「フェアな取り調べ」の絵として美しくないことは確かで、この後味の悪さは、事件そのものの評価にずっとまとわりついていくことになる。
1991年1月16日――三時間の告白と、そこから始まる矛盾
一月十六日、ウォーノスは供述を始めた。取り調べにあたったのはヴォルーシャ郡の捜査員とマリオン郡の捜査員で、聴取は数時間に及んだ。彼女は七人の殺害を認めた。
このときの彼女の説明は、一言でいえば「全員が正当防衛だった」というものだ。金を払うと言って乗せておきながら暴力をふるってきた、縛られた、殺されると思った、だから撃った。七件すべてについて、程度の差はあれ同じ構図を語っている。
ただ、この供述には最初から無理があった。
七件すべてで襲われたというのは、確率としても状況証拠としても苦しい。しかも被害者の持ち物が質屋に流れていて、その伝票に彼女の指紋が押されている。金銭目的だったのではないかという問いに対して、この供述は弱い。
そして彼女は、供述の細部を何度も変える。誰を最初に撃ったのか、何発撃ったのか、相手が何をしたのか。ある時点では、七人のうち一人については「本当に襲われたのは彼だけだ」と言い、別の時点では「全員が悪い男だった」と言う。さらに何年もあとには、正反対のことを書く。この変転そのものが、彼女の言い分の信頼性を削っていった。
供述のなかで彼女が徹底して守り抜いたのは、ただ一点だけだった。ティリアは何もしていない、というところである。
1992年1月、法廷が開く――正当防衛はなぜ通らなかったのか
殺人罪としての最初の裁判は、リチャード・マロリー事件だった。1992年一月、ヴォルーシャ郡の裁判所で始まる。検察側は州検事が指揮を執り、弁護側は公選弁護人が担当した。
弁護側の戦略は、当然ながら正当防衛だった。相手が暴力をふるったから撃った。だから第一級殺人ではない。ここでウォーノス本人が証言台に立つ。彼女は、マロリーに縛られ暴行されたと述べ、殺されると思ったから撃ったのだと訴えた。
だがこの証言は、二重の意味で苦しかった。
ひとつは、彼女自身の過去の供述と食い違っていたこと。取り調べ段階の説明と法廷での説明とで、細部が一致しない。反対尋問でそこを突かれると、彼女はいらだち、法廷で声を荒らげ、検察官や証人に暴言を吐く場面が何度もあった。これが陪審に与えた印象は最悪だった。
もうひとつが、決定的だった。他の六件が、法廷に持ち込まれてしまったのである。
「ウィリアムズ・ルール」という名の壁
フロリダ州には、他の犯罪に関する証拠の取り扱いについて、ウィリアムズ・ルールと呼ばれる判例法理がある。
ざっくり言うと、被告人の別件の悪事は「こいつは悪人だから今回もやったに違いない」という理屈では使えないが、動機、意図、計画性、あるいは事故や正当防衛の主張への反論といった特定の目的に必要なら、証拠として出してよい、というものだ。
検察はここを突いた。被告人は正当防衛だと言っている。ならば、ほぼ同じ状況で同じように男性が撃たれ、同じように所持品が奪われて質屋に流れた事案が他に六件あることは、その主張を反証するために必要だ、と。
裁判所はこれを認めた。
結果として、マロリー一件を裁くはずの法廷に、残る六人の話が全部なだれ込んできた。陪審が受け取った絵は「暴力をふるわれて一度撃ってしまった女」ではなく、「同じ手口を七回繰り返した人物」になる。この時点で、正当防衛という主張が生き残る余地は事実上なくなっていた。
この判断が法的に妥当だったかどうかは、今も論争が残る。妥当だという立場は、正当防衛を主張した以上、その主張の一般性を検証する材料を出すのは当然だ、と言う。妥当でないという立場は、単独の事件を裁くべき陪審に六件分の予断を与えたのだから、事実上まとめて裁いたのと同じだ、と言う。フロリダ州最高裁は上訴審でこの取り扱いを支持し、有罪と死刑判決を維持した。
有罪、そして六つの死刑判決
陪審の評議は短かった。一月二十七日、第一級殺人と武装強盗で有罪。数日後に死刑判決が言い渡される。
判決が出た直後、ウォーノスは法廷で陪審に向かって激しい言葉を投げつけた。自分は無実だ、レイプされたのだ、という叫びと、法廷にいる人間への呪詛のような言葉が混ざっていたと、その場にいた記者たちが書き残している。
その後の展開は、ある意味であっけない。
同年三月三十一日、彼女はハンフリーズ、バーレス、スピアーズの三件について不抗争の答弁をした。争わない、という意味だ。五月十五日、この三件で三つの死刑判決。六月にはカースカドン事件で有罪を認め、十一月に死刑判決。1993年二月にはアントニオ事件でも有罪を認め、こちらでも死刑判決。
合計六つの死刑判決。遺体が見つからなかったシームズについては、そもそも起訴されていない。
争わないという選択を彼女がした理由については、いくつもの説明がある。もう争っても無駄だと思ったから。遺族への贖罪のつもりだったから。早く終わらせたかったから。そして、当時の弁護人と養母が「認めたほうが楽になる」と勧めたから。この最後の点が、後年の再審請求で最大の争点になる。
マロリーの過去という爆弾――報道が掘り出したもの
裁判が終わったあと、報道機関の取材によって、ひとつの事実が明らかになる。
最初の被害者リチャード・マロリーには、他州で性的暴行未遂に関する有罪判決を受け、長期の服役をしていた過去があった。この事実は、彼女の裁判では一度も陪審に示されていない。
これはかなり重い話だ。弁護側の主張は「彼が襲ってきたから撃った」というものだった。もし彼に性的暴行の前歴があると陪審が知っていたら、心証は違ったかもしれない。少なくとも「この男に限っては、彼女の言い分にも現実味があるのではないか」という疑いは生まれただろう。
一方で、これをもって有罪判決が誤りだったとまでは言えないという反論も強い。前歴があることと、その夜に実際に暴行があったことは別問題だ。そして彼女は結局、後年になって自分から「あれは強盗殺人だった」と書いている。裁判所も再審請求の場で、この情報が開示されていたとしても結論は変わらなかっただろうという判断を示した。
ただ、この件が突きつけたものは、判決の当否よりも手続きの質のほうだ。捜査機関が被害者の前歴を把握していたのかどうか、把握していたなら開示すべきだったのではないか。ここは今でもすっきりしない。
事件が商品になった日――映画化権をめぐる不穏な動き
そしてもうひとつ、この事件を特異なものにしている話がある。
逮捕から数週間のうちに、事件は映画の題材として売り込まれはじめた。プロデューサーが動き、権利をめぐる交渉が始まる。問題は、その交渉のテーブルに、捜査に関わっていた警察関係者が着いていたと報じられたことだった。
複数の報道によると、マリオン郡保安官事務所の幹部と捜査員が、事件を扱う映像作品について製作会社側と接触していたとされる。州の捜査機関が調査に乗り出し、公務員が捜査中の事件を商業的に利用したのではないかという疑いが検討された。最終的に刑事責任を問われた者はいなかったが、この一件はメディアで大きく報じられ、弁護側は「捜査そのものが、より劇的な物語を作るために歪められたのではないか」と主張する材料に使った。
弁護側の主張のなかで最も刺激的だったのは、こういうものだ。もし警察が早い段階で彼女を特定できていたのに、より完成された連続殺人の物語を得るために動かなかったのだとしたら、後半の被害者は防げたのではないか、と。
この主張には確たる裏付けがない。捜査の遅れは、郡をまたぐ管轄の壁と当時の照合技術の限界で十分に説明がつく、というのが一般的な評価だ。ただ、疑いが提起されたこと自体が、この事件のイメージを決定づけてしまった。
そして商品化は警察の周辺だけで止まらなかった。彼女の話は、書籍に、テレビ番組に、映画に、次々と切り出されていく。取材の交渉には金額が飛び交い、面会の窓口になった人間がそこから利益を得ていたと報じられた。加害者本人は死刑囚として塀の中にいて、一円も手にしていない。彼女の周りの人間だけが、彼女という素材で回っていた。
弁護人と養母――彼女を囲った二人
その中心にいたのが、二人の人物だった。
ひとりは、養母になったアーリーン・プラール。フロリダ州で馬の牧場を営むキリスト教信者の女性で、新聞に載ったウォーノスの写真を見て、神に導かれたと感じて手紙を書いた、と説明している。文通が始まり、面会を重ね、1991年の暮れには法的な養子縁組が成立した。三十代半ばの死刑囚が、四十代の女性の養女になったのである。
プラールは公然と彼女を擁護し、テレビに出て「この子は無実だと信じている」と語った。同時に、報道機関がウォーノスに接触するための実質的な窓口になった。取材の対価が発生していたと複数の関係者が証言している。彼女の動機が純粋な信仰だったのか、注目と対価だったのか、その両方だったのか。今も評価が割れている。
もうひとりが、プラール経由でウォーノスの弁護人になった弁護士だ。ギターを弾き、独特のニックネームで自称する変わり者で、正統派の刑事弁護人という感じの人ではなかった。彼が就いたあと、ウォーノスは残りの事件で次々と争わない答弁をしていく。
この弁護活動の妥当性は、後年の手続きで正面から問われた。争わない答弁を勧めた判断は適切だったのか。死刑を回避するための情状立証を尽くしたのか。取材の対価を受け取る立場にいたことが、弁護方針を歪めなかったのか。「依頼人の物語の価値」と「依頼人の命」が利害として衝突しうる場所に、弁護人が立っていたのではないか、という指摘である。
ニック・ブルームフィールドが撮った二本の記録
このごちゃごちゃした構造をまるごと映像に残したのが、イギリスのドキュメンタリー監督ニック・ブルームフィールドだった。
一本目は1992年の作品で、邦題を直訳すれば「連続殺人鬼の売り方」といったところになる。この映画がやったのは、事件の再現ではない。監督が彼女に会おうとして、そのために誰にいくら払わされたか、を撮ることだった。
養母に会いに行き、弁護人に会いに行き、面会のための金額を提示され、値段の交渉をする。その過程がそのまま映画になっている。
観客はそこで、当事者たちが彼女の名前を通貨のように扱っている光景を見ることになる。カメラの前で愛と信仰を語った直後に、金額の話が始まる。この映画の批判の矛先は、加害者でも被害者でもなく、その周りで回っていた経済に向いていた。
二本目は2003年の作品で、こちらは彼女の最後の日々を追っている。監督は再審請求の手続きに証人として呼ばれ、一本目で撮った映像が、当時の弁護活動の質を問うための材料として法廷に持ち込まれた。彼女は精神状態を明らかに崩していて、監獄で音の圧力をかけられているとか、電波を送り込まれているといった話をするようになっていた。
そして処刑の前日、監督は最後のインタビューを撮っている。
カメラが回っているあいだ、彼女は「自分は嵌められた」と主張し、警察は自分を早く止められたのに止めなかったと語った。だがカメラを止めたあと、彼女は監督に対して、あれは本当に正当防衛だったのだと言い、それでも死刑囚房にはもう耐えられないから死にたいのだ、と話したという。この「カメラの外での言葉」を映画は最後に置いている。それが真実なのか、それとも最後の演技なのかは、観る側に投げっぱなしにされる。
ミシガンの家で、何が壊れていたのか
ここで彼女の生い立ちに戻る。ただし、断っておく。これは弁明のために書くのではなく、何が起きたのかを知るために書く。
アイリーン・キャロル・ウォーノスは1956年二月二十九日、ミシガン州ロチェスターで生まれた。母のダイアンは結婚したとき十四歳、父のレオ・ピットマンは十八歳。二人の関係はすぐに壊れ、母は1960年一月、二歳になる直前のアイリーンと一歳上の兄キースを置いて姿を消す。同年三月、母方の祖父母が二人を法的に引き取った。
アイリーンは、この祖父母を長いあいだ実の両親だと思って育っている。自分が孫であり、育ての親が祖父母であると知ったのは、かなり大きくなってからだった。
祖父母の家は、酒の問題を抱えた家庭だった。家のなかでどんな扱いを受けていたのかについて、本人と、幼なじみと、後年の精神鑑定が語る内容は、いずれも穏やかなものではない。ここでは具体的な描写には立ち入らない。ただ、彼女が思春期に入る前から、安全な場所というものを持っていなかったのは確かだ。
実父のレオは、アイリーンが会うことのないまま、児童に対する重い性犯罪で服役し、精神疾患の診断を受け、1969年に獄中で自ら命を絶っている。娘は父の顔を写真でしか知らない。
十代の彼女は、学校からも家からも早々に離脱していく。十四歳前後で妊娠し、産んだ子どもは養子に出された。祖母が亡くなった十五歳の年、彼女は家を追い出されて、森のなかで野宿しながら暮らすようになる。近所の子どもに食べ物を分けてもらっていたという証言が残っている。ここから路上での売春が生活手段になり、以後ほぼ二十年、彼女はその形で生きた。
二十歳のとき、五十歳近く年上の資産家の男性と結婚したことがある。数週間で終わった。同じ年に、兄のキースが食道がんで亡くなっている。彼女がある程度まとまった保険金を手にしたのはこのときだが、それも短期間で消えた。
そして1986年、デイトナビーチのバーでティリア・ムーアと出会う。本人の言葉によれば、それは人生で初めて自分を受け入れてくれた相手だった。二人の生活は貧しく不安定で、そのあいだも彼女は路上に立ち続けた。事件が起きるのは、その三年後である。
この生い立ちは、どこまで情状になるのか
さて、ここが一番むずかしい。
彼女の育ちが凄惨だったことは、ほとんど誰も否定していない。検察側も否定していない。裁判所も、量刑の判断のなかで人格障害の存在や判断能力の減弱について検討している。問題は、そこからどこまで踏み込むかだ。
情状として重く見るべきだという立場は、こう言う。人が暴力を選ぶ確率は、育った環境によって大きく変わる。保護されるべき時期に一度も保護されなかった人間に対して、社会は「あなたは自由な意思で選んだのだから全責任を負え」と言えるのか。何より、彼女に手を差し伸べる機会は無数にあった。学校にも、福祉にも、司法にもあった。全部逃した末に、最後だけ国家が登場して命を取るというのは筋が通らない、と。
情状にしすぎるべきではないという立場も、同じくらい強い。同じような、あるいはもっとひどい環境で育ちながら人を殺さなかった人間は無数にいる。育ちを免罪符にすることは、そうやって踏みとどまってきた人たちへの侮辱になりかねない。そして何より、彼女が奪ったのは七人の命であり、そこには家族がいた。加害者の物語の重さで被害者の命を割り引くことは、遺族に対して残酷だ、と。
第三の立場もある。この二つは対立しているようで、実は別の問いに答えているのだ、という見方だ。「彼女に責任があるか」と「彼女を殺すべきか」は違う問いだし、「彼女が悪いか」と「社会が失敗したか」も違う問いだ。両方に同時にイエスと答えることは、論理的にまったく矛盾しない。
個人的には、この整理がいちばん誠実だと思う。責任は本人にある。同時に、社会は何度も取りこぼした。どちらも本当だ。
「もう争わない」と彼女が言った日から、執行まで
2001年、彼女は自分の弁護団を解任し、上訴をすべて取り下げると宣言した。
フロリダ州最高裁に宛てた文書のなかで、彼女は正当防衛の主張を明確に撤回している。自分はあの男たちを殺し、氷のように冷たく金を奪った、という趣旨のことを、自分の言葉で書いた。そして、もし生かしておけばまた殺すだろう、とまで書いた。
これは死刑を望む被告人が取る典型的な行動でもある。争いをやめることが、執行を早める最短の道だからだ。だから弁護士や人権団体は、この撤回を額面どおり受け取るべきではないと主張した。彼女は正気ではない、死にたがっているだけだ、と。
精神状態の評価が、最後の争点になった。
処刑を進めるためには、対象者が自分の刑の意味を理解できる状態にある必要がある。州が指名した精神科医たちが評価を行ったが、その面接時間はごく短いものだったと報じられている。彼らは彼女を「執行可能」と判断した。
この判断への批判は激しかった。彼女は当時、看守が食事に薬物を混ぜているとか、独房に音波をかけられているといった内容を繰り返し口にしていた。ドキュメンタリー映像にもその様子が残っている。それを見て「正常」と言えるのか、と。
擁護する側の理屈も一応ある。妄想的な訴えをすることと、自分が何の罪で何をされようとしているかを理解していることは別だ。彼女は自分の罪状を正確に述べ、上訴を取り下げる意味も理解していた。法が求める基準はそこであって、精神的に健康であることではない。
2002年10月9日、午前9時47分
執行は2002年十月九日、フロリダ州スターク近郊の州立刑務所で行われた。方法は薬物注射。当時の州知事は複数回の執行停止を経て、最終的に手続きを進めることを認めた。
前夜の最後の食事は辞退した。彼女が受け取ったのはコーヒー一杯だったと記録されている。
立会人のなかには、被害者遺族が含まれていた。息子を、夫を、父を奪われた人たちが、そこにいた。彼らの多くは執行後、報道陣に対して、これで区切りがついたとは言えないが必要な手続きだったと思う、という趣旨のことを語っている。同時に、これで家族が帰ってくるわけではない、という言葉も添えられていた。
最後の言葉として記録されているものは、宗教的なイメージと、ある映画のタイトルと、自分は戻ってくるという宣言が混ざった、短くて奇妙な一節だった。岩とともに航海するというような言い回しから始まり、イエスとともに戻ってくる、というところで終わる。この言葉が何を意味していたのか、誰にもはっきりとはわからない。妄想の産物だと読む人もいれば、彼女なりの最後の悪態だと読む人もいる。
午前九時四十七分、死亡が確認された。四十六歳だった。遺体は火葬され、遺灰は少女時代からの友人の手でミシガンに運ばれ、彼女が好きだった木の下に撒かれたと伝えられている。
関係者はこの事件をどう記憶したか
事件から三十年以上たっても、この件について語り続けている人が何人もいる。彼らの言葉を、少し丁寧に紹介したい。
ドキュメンタリー監督のニック・ブルームフィールドは、二本の作品と、その後のインタビューを通して、一貫して同じことを言い続けている。
自分は彼女を無罪だと思ったことは一度もない、と彼は言う。人を七人殺した人間であることを疑ったことはない。だが、あの裁判で起きていたのは司法の手続きというより、興行に近いものだった。誰もが彼女に何かを求めていた。話を、涙を、金を、視聴率を。そして誰も、彼女が正気を保てているかどうかを本気で確かめようとしなかった。処刑の前日に会ったときの彼女は、少なくとも自分の目には、健全な精神状態には見えなかった。それでも三人の医師が短い面接で執行可能と判断した。あれを見て何も感じない社会なら、その社会は何を殺したのか自分でもわかっていないのだと思う。監督はおおむねこういう趣旨のことを繰り返している。
被害者の遺族たちの言葉は、まったく別の方向を向いている。
とくに映画が公開されて賞を取ったあと、複数の遺族が公の場で強い異議を唱えた。うちの父は殺されたのに、映画のなかでは名前も奪われ、ただの「悪い客」として描かれた。あの映画を観た人は、彼女に同情して劇場を出ていく。誰も、殺された側が誰だったのかを覚えて帰らない。私たちが失ったのは、あの女の物語のための登場人物ではなく、実在した人間だった。父が何を好きで、どんな冗談を言う人で、どんなふうに子どもを育てたか、誰も知りたがらない。私たちにとってあの事件は物語ではない。こうした趣旨の抗議が、複数の遺族から繰り返し表明されてきた。ここは事件を語る側が、いちばん重く受け止めるべき部分だと思う。
映画「モンスター」を監督したパティ・ジェンキンスは、批判に対して自分の立場を説明している。
自分は彼女を英雄として描いたつもりはまったくない、というのが彼女の言い分だ。あの映画のタイトルは彼女を怪物と呼ぶためのものではなく、人が怪物と呼ばれるものになるまでに何が積み重なるのかを問うためにつけた。恋愛を描いたのは、彼女に恋愛を許すためではなく、あれだけ孤立した人間が誰かに必要とされた瞬間に何をしてしまうかを見せるためだった。同情と免罪はまったく違うものだと自分は思っている。そういう趣旨の説明である。納得するかどうかは人によるが、少なくとも作り手側の意図としてはこう表明されている。
現地で事件を追った記者たちの証言も残っている。
当時デイトナやオカラを回っていた地元紙の記者たちは、逮捕直後の熱狂の異常さを語っている。全国のテレビ局が押し寄せ、彼女に関するどんな小さな話にも値段がついた。捜査関係者が取材を受けるとき、その先に映像化の話がぶら下がっている気配があった。自分たちも含めて、報道は「アメリカ初の女性連続殺人鬼」というフレーズが商品になることを知っていて、事実として怪しいと薄々わかりながら使い続けた。そうした自己批判めいた回顧が、後年の記事や番組で語られている。
後年の再審手続きに関わった弁護人たちも発言している。彼らの主張の核心は、有罪かどうかではなかった。争点は、彼女が最初の裁判以降に受けた弁護が、死刑という結論に見合うだけの質を備えていたかどうかだ。争わない答弁を積み重ねさせた判断について、当時の弁護人が依頼人の利益だけを見ていたと言えるのか。彼女の生育歴に関する情状立証は尽くされたのか。精神鑑定は十分だったのか。彼らはそう問い続けた。結果として判決は覆らなかったが、この問いが無意味だったとは思えない。
そして、ティリア・ムーアの証言がある。法廷で彼女は、事件当時に何を見て何を聞いたかを淡々と述べた。血のついた服のこと、増えていく他人の持ち物のこと、聞かないようにしていた時間のこと。彼女は免責を得て法廷を去り、その後は公の場からほぼ完全に姿を消した。彼女が何を思っていたのかは、ほとんど記録に残っていない。この沈黙も、事件の一部だと思う。
「アメリカ初の女性連続殺人鬼」という嘘は、なぜあれほど売れたのか
さて、この事件を語るうえで避けて通れないのが、あの見出しだ。
まず事実として、アメリカ初の女性連続殺人犯ではない。まったくない。
十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、患者を次々と死に至らしめた看護師がいた。農場で求婚者を次々に消した女がいた。夫を何人も葬った女がいた。二十世紀後半にも、下宿人を殺して年金を受け取り続けた女がいたし、勤務先の医療機関で子どもの命を奪ったとされる看護師がいた。数の上では、女性の連続殺人犯というのはずっと存在してきたし、決して珍しくもない。
では、なぜウォーノスだけが「初」と呼ばれたのか。
理由は方法にある。統計的に、女性による連続殺人は毒物が最も多く、次いで窒息や薬物の投与が続く。被害者は配偶者、子ども、患者、高齢者といった「近くにいる人」であることが圧倒的に多い。動機は金銭や保険金であることが多く、犯行は家庭や病院や施設という閉じた空間で行われる。つまり、静かで、内向きで、目立たない。
ウォーノスの犯行は、そのどれにも当てはまらなかった。銃を使った。被害者は見ず知らずの成人男性だった。現場は屋外の道路脇だった。移動しながら、無差別に近い形で相手を選んだ。要するに、それまで「男性型」とされてきた連続殺人のパターンをそのままなぞっていたのだ。
だから正確に言うなら、彼女は「アメリカ初の女性連続殺人鬼」ではなく、「男性型と呼ばれてきた形式で殺した、統計的に極めて珍しい女性」だった。長い。見出しにならない。
ここに、あのフレーズが売れた理由がある。
「初」というのは強い言葉だ。前例がないと言われれば人は読む。しかも「女性の連続殺人鬼」という組み合わせには、当時の社会が持っていた不安がぴったりはまった。女性が男性を狩る。売春婦が客を撃つ。同性愛の恋人がいる。一つひとつが1990年代初頭のアメリカにとって刺激的で、まとめて売れば爆発的に売れた。
そしてこのラベルは、事件の理解をかなり歪めた。彼女を「新種の怪物」として扱った瞬間に、なぜ路上でそうなったのかという問いは消える。逆に「男を殺した女」という枠に入れた瞬間に、被害者七人が誰だったのかという問いも消える。どっちに転んでも、失われるのは具体的な事実のほうだった。
掲示板と考察界隈は、彼女をどう扱ってきたか
ネット上でこの事件が扱われるとき、話はだいたい四つか五つの陣営に割れる。
いちばん目につくのが、彼女を犠牲者として見る立場だ。幼少期からの環境、十代からの路上生活、性暴力にさらされ続けた歳月。この文脈を並べたうえで、彼女がやったのは長年の暴力への反撃だった、少なくとも最初の一件は正当防衛だった、と主張する。この立場からすると、死刑は国家による最後の暴力ということになる。海外の掲示板でも日本語圏でも、この見方はかなり多い。
真っ向から反対する立場も同じくらい大きい。七人だ、と彼らは言う。一件なら正当防衛の可能性を検討する余地はある。だが七件を同じ理屈で説明することはできない。しかも彼女は所持品を奪って質屋に流し、金に換えている。そして本人が最終的に「強盗だった」と書いた。被害者にはそれぞれ家族がいて、そのうち何人かは人助けを仕事にしていた人だった。ここに英雄の要素は一つもない、と。
三つ目が、犯行そのものよりも周りの大人たちに怒っている立場だ。この人たちは有罪か無罪かにはあまり興味がない。関心は、なぜ彼女の話が発売されたのか、なぜ捜査に関わった人間の名前が映像化の交渉に出てくるのか、なぜ弁護人が取材の窓口をしていたのか、なぜ養母を名乗る人物がテレビに出ていたのか、という部分に集中する。この見方はドキュメンタリー一本目の影響がかなり強い。
四つ目が、精神医学寄りの議論をする層だ。人格障害の診断、幼少期の複雑性トラウマ、路上生活が認知に与える影響、死刑囚房での精神の劣化。彼らは「正気だったか」という問いを、道徳の問題ではなく臨床の問題として扱う。そして執行前の評価手続きが短すぎたことを、制度の欠陥として批判する。
五つ目は、正直に言うと消費目的の層だ。オカルト寄りのまとめサイトや動画で、彼女は「呪われた女」「悪魔憑き」のような扱いを受けることがある。事実の裏取りはほとんどされず、キャッチーな部分だけが繰り返される。数としてはたぶんこれがいちばん多い。
考察として実際に検証に耐えるものと、そうでないものも分かれる。
よく出る説として「警察は早い段階で犯人を特定できたが、事件が大きくなるまで泳がせた」というものがあるが、これは根拠が弱い。管轄が郡ごとに分かれていたこと、当時の指紋照合の運用、被害者と加害者に事前の接点がないという犯行構造。この三つで捜査の遅れは十分説明がつく。
逆に「最初の被害者について、彼女の言い分に一定の現実味があった」という指摘は、彼の前歴が後から出てきた以上、簡単には否定できない。ただし、それは残る六件の説明にはならない。ここを混同した議論が非常に多い。
フェミニズム的な英雄視と、その批判と、その反論
彼女が処刑されたころ、一部の運動体は彼女を象徴的な存在として扱った。男性の性暴力に反撃した女、家父長制の犠牲者、司法制度が女性を裁くときの二重基準の証拠。そういう文脈で語られた。
実際、逮捕から報道の扱いまで、彼女が「女であること」「売春をしていたこと」「同性の恋人がいたこと」によって余計な色をつけられたのは事実だ。もし同じ犯行を男がやっていたら、あそこまで全国的な見世物にはならなかっただろうという指摘には説得力がある。
だが、この英雄視には内部からも強い批判が出た。批判の中身は大きく二つある。
ひとつは単純に事実の問題だ。七件のうち、性的暴行があったと立証された事案はない。彼女自身が撤回している。強盗の要素が明確にある。この状態で彼女を反撃の象徴に据えるのは、事実を選り好みしていることになる。運動の正当性は事実の正確さに支えられるべきで、都合のいい部分だけ拾った時点でその主張は弱くなる。
もうひとつは倫理の問題だ。彼女を象徴にすると、七人の被害者は自動的に「抑圧の側」に配置される。だがそのなかには、児童虐待の調査を仕事にしていた人がいた。退職後を慈善活動に使っていた人がいた。彼らを構造の記号として扱うのは、まさに彼女がされたのと同じ扱いを別の人間に対してやっていることになる。
これに対する再反論もあって、それも紹介しておくべきだと思う。彼女を象徴として語ってきた人たちの多くは、実は「彼女は無実だ」とは言っていない。彼らが言ってきたのは、彼女の処刑をめぐる手続きが公正だったか、彼女に至るまでの人生に社会は何をしたか、という部分だ。そこを「殺人を肯定している」と読み替えるのは藁人形に近い、と。この再反論にも一理ある。
結局のところ、この事件は、どの立場から見ても自分の主張を補強する材料が見つかってしまう性質を持っている。だからこそ、どの立場も自分に都合の悪い事実をひとつは抱えておくべきなのだと思う。
死刑という論点は、この事件で特にこじれる
死刑制度そのものについても、この事件は両側から引用され続けてきた。
存置を支持する側の論理はシンプルだ。七人が殺された。犯人は罪を認めた。本人が上訴を放棄し、自分は生かしておけばまた殺すと書いた。遺族は執行を望んだ。この条件で死刑を科さないなら、いつ科すのか。制度が制度として機能していることを示す典型例ではないか、と。
廃止を支持する側の論理も強い。まず、執行前の精神状態の評価が短時間で済まされたこと。次に、彼女が上訴を放棄したこと自体が、正常な判断能力の欠如を示唆しうること。さらに、死刑を望む被告人に死刑を与えることは、国家が自殺を代行しているのに近いという指摘。そして、彼女が育った環境に社会が一度も介入しなかった事実を踏まえたときに、その社会が最後に命だけ取るのは筋が通るのか、という問い。
どちらの立場も、この事件から自分の主張を取り出せてしまう。それはたぶん、この事件が「明白な悪」と「明白な社会の失敗」を同時に含んでいるからだ。片方だけを見れば、どちらの結論も出せる。
なぜ、三十年以上たっても語られ続けるのか
理由はいくつも重なっている。
第一に、犯行の形式が統計から外れていたこと。女性による連続殺人が珍しくないのは前に書いたとおりだが、この形式は本当に珍しかった。珍しいものは記憶される。
第二に、被害者と加害者の関係が「取引」だったこと。彼女は道端に立ち、車が停まり、金額が決まり、車が林に入る。この一連の流れは、性を売り買いするという行為が抱える危うさをむき出しにしている。誰が誰に対して弱い立場なのかが、状況によってひっくり返る。この不安定さが、事件をずっと居心地の悪いものにしている。
第三に、彼女の言葉が最後まで一貫しなかったこと。正当防衛だと言い、強盗だと言い、また正当防衛だと言い、そしてカメラの外でもう一度言い直す。真実がどこにあるのかを確定させないまま、彼女は死んでしまった。人は答えの出ない話をいちばんよく覚えている。
第四に、周りの人間たちの動きがあまりに絵になってしまったこと。捜査関係者と映像化の話、養母を名乗る女性、対価を取る弁護人、彼女に会うために金を払うドキュメンタリー監督。これは事件の記録であると同時に、事件が消費される過程の記録でもある。そういう二重構造を持った事件はそう多くない。
第五に、映画がある。アカデミー賞を取った演技は、彼女の外見も声も歩き方も再現していると評された。皮肉なことに、その受賞発表があったのは彼女の誕生日にあたる日だった。映画のおかげでこの事件は世界中に知られたが、同時に映画のイメージが事実を上書きしてしまった部分も大きい。遺族が怒ったのはまさにそこだ。
そして第六に、たぶんこれが本質なのだが、この事件は「誰も勝っていない」から残るのだと思う。
七人が死んだ。加害者も殺された。恋人は消えた。捜査に関わった人間は疑いをかけられた。弁護人は批判された。養母は忘れられた。遺族は今も家族を失ったままだ。映画と本と番組だけが残って、みんなそれで金を稼いだ。この後味の悪さを、人はうまく処理できない。処理できないものは、語り続けるしかない。
語られる「順序」の問題
ここまで書いてきて、いちばん引っかかっているのは順序の問題だ。
この事件の語り方には、ほぼ例外なく決まった順序がある。まず彼女の壮絶な生い立ちが来て、次に路上での生活が来て、それから殺人が来て、最後に処刑が来る。
この順序で並べると、読者の頭のなかには自然と因果の矢印が生まれる。ひどい育ち方をした、だから路上に出た、だから殺した、だから殺された。物語として非常によくできている。よくできすぎている。
だが実際には、この矢印はどこにも保証されていない。同じ育ち方をしても殺さない人が圧倒的多数だという事実は、この順序の説得力を根本から掘り崩す。
にもかかわらず、この順序で語ると納得してしまうのはなぜか。それは、私たちが「理由のわからない暴力」に耐えられないからだ。理由がないと落ち着かない。だから理由を探し、いちばん重そうな出来事を選んで、そこから線を引く。彼女の生い立ちは、その用途にあまりにも都合がよかった。
逆の順序で語ってみるとどうなるか。
まず1990年九月十二日の朝、マリオン郡の森で、児童虐待の調査官として働いていた五十六歳の男性が七発撃たれて死んでいるのが見つかった、というところから始める。彼には家族がいて、その日は職場の異動が決まったばかりだった。
この順序で始めると、読む側の頭には別の矢印が立つ。ここから彼女の育ちの話に入っても、それは因果の説明ではなく、単に「同じ世界で起きていた別の事実」として並ぶ。どちらの順序が正しいという話ではないが、片方しか使われないのは不健全だと思う。
「商品化」という言葉の射程
もうひとつ深掘りしておきたいのが、これだ。
この記事では、警察関係者や弁護人や養母が彼女の話を売ったことを批判的に書いてきた。だが厳密に言えば、この記事そのものも同じ市場のなかにある。事件を面白く書けば読まれる。読まれれば価値が生まれる。書いている側だけが例外という理屈は成り立たない。
では、どこに線を引けばいいのか。
ひとつの答えは、利害の位置だと思う。捜査を担当する立場にある人間が、その事件の劇的さから利益を得られる位置に同時に立つことは、構造として許容できない。捜査の判断が金額に影響しうるからだ。弁護人が依頼人の物語の販売窓口を兼ねることも同じで、依頼人が争えば争うほど話が長く売れるという構造は、依頼人の利益と正面から衝突する。
逆に、事件の外にいる書き手や監督が、事件について書いて金を得ること自体は、避けられないし避けるべきでもない。問題は「事件の進行に影響を与えられる立場かどうか」であって、「金を得たかどうか」ではない。ここを混ぜて語ると、批判が単なる潔癖に堕ちる。
三つ目に考えたいのは、彼女の供述の変転をどう読むかだ。
正当防衛から強盗へ、そしてまた正当防衛へ。この揺れを「嘘つき」の一語で片づけるのは簡単だが、たぶん違う。十年以上を独房で過ごした人間の記憶と言語は、外の人間のそれとは別の状態にある。しかも彼女は、その十年のあいだずっと自分の物語が売買されるのを見ていた。何を言えば誰が喜ぶかを、嫌でも学習させられる環境にいたわけだ。
そういう場所で口にされた言葉のどれが「本心」なのかを外部から確定させようとするのは、そもそも無理筋なのかもしれない。彼女は最後まで、自分の物語の作者になれなかった。作者は常に外側にいた。
四つ目。この事件を語るときにいちばん抜け落ちるのが、ティリア・ムーアの存在だ。
彼女は免責と引き換えに、恋人から自白を引き出す役を引き受け、法廷で証言し、そのあと歴史から消えた。彼女を責める議論も擁護する議論もあるが、どちらも彼女を「役割」としてしか見ていない点では同じだ。二十代の女性が、殺人事件の捜査機関から「協力しなければあなたも」という圧力のなかで選択を迫られた。その選択に、どれだけの自由があったのか。この問いは、ウォーノス本人の自由意思をめぐる問いと、ほとんど同じ形をしている。片方だけ熱心に議論されて、片方は無視されてきた。
この事件が残した、三つの実務的な教訓
最後に、それを書いておきたい。
ひとつは管轄の壁だ。六つの郡にまたがった連続事件が、少なくとも数か月にわたって「別々の事件」として扱われた。この構造的な遅れが被害者の数を増やした可能性は、否定しきれない。広域の情報共有をどう設計するかという問題は、当時よりデータが増えた今のほうがむしろ難しくなっている。
ふたつめは、自白の取り方だ。被疑者が最も情緒的に依存している人物を、免責という報酬で運用して自白を引き出す手法は、当時は合法だったし、今でも多くの場面で合法だ。だが合法であることと、その自白の信頼性が高いことは別だし、その手続きが後年の再審請求で延々と争点になるコストも大きい。この事件は、そのコストの実例として今も引かれる。
みっつめは、事件の当事者性と経済的利害の切り分けだ。刑事司法に関わる人間が、その事件の商品価値から利益を得られる位置に立つことを、制度としてどう禁じるか。この事件のあと、アメリカのいくつかの州で規制が議論された。
だが、動画配信と個人発信が当たり前になった今のほうが、この問題はずっと広く、ずっと曖昧になっている。捜査員が退職後に自分の担当事件を語る番組を持つ。遺族が発信する。加害者の関係者が発信する。どこまでが記録で、どこからが商売なのか。この線引きの難しさを、三十年以上前にあの事件が先取りしていた。
七人の男性が幹線道路で撃たれ、一人の女性が処刑された。そのあいだに何が売られたのかを数えていくと、この事件がいまだに終わっていない理由がわかる気がする。売られたもののほとんどは、まだ市場に出回ったままだ。この記事も含めて。
