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アンドレイ・チカチーロ――「連続殺人は資本主義の病だ」と言い張った国で、十二年間、駅に立ちつづけた男

ロストフ州の郊外には、線路と並んで細長い雑木林が延びている。ロシア語でレソポローサ、防風林とか林帯とか訳される、あの帯みたいな森だ。冬は葉が落ちて透けるが、夏は数メートル入っただけで人の姿が見えなくなる。列車の窓から見ると、ただの緑の筋にしか見えない。一九八二年から一九九〇年にかけて、この緑の筋のあちこちから、子どもと若い女性の遺体が次々に出てきた。捜査本部の名前はそのまま「レソポローサ」になった。

犯人の名はアンドレイ・ロマノヴィチ・チカチーロ。逮捕されたのは一九九〇年十一月二十日、五十四歳。裁判所が認定した被害者は五十二人。本人が語った数はもっと多い。ソビエト連邦という国が最後の一年をあがいていたころ、その国が長いあいだ「うちにはいないことになっている」と言い張ってきた種類の犯罪者が、鉄格子の中で吠えていた。

この記事は、その十二年をできるだけ細かくたどる。ただし、先に一つだけ言っておきたいことがある。この事件のいちばんきつい部分は、殺害そのものじゃない。無関係な男が一人、彼の代わりに撃ち殺されていることだ。その男の名前はアレクサンドル・クラフチェンコという。話はそこから始めたほうがいい。

兄は近所の人に食べられた――母親が寝物語に語った飢えの記憶

チカチーロは一九三六年十月十六日、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の農村ヤブルーチネで生まれた。行政区画の呼び方が時代で変わっているせいで、資料によってスームィ州とされたりハルキウ州とされたりする。どちらにせよ、コルホーズ、つまり集団農場で働く両親のもとに生まれた、土間に近い一間の小屋で育った子どもだった。賃金はほとんど現金では出ない。

彼が生まれる少し前、このあたりは人為的な大飢饉に襲われている。集団化の失敗と穀物の強制徴発が重なって、村ごと人が消えた地域があった。母のアンナは、幼い息子に何度もこう語ったという。おまえには兄さんがいた、ステパンという名で、四つのときに近所の飢えた連中にさらわれて食われたのだ、と。この話に一次資料の裏づけはない。役所の記録に該当する子どもが見つからないという指摘もあるし、飢饉の記憶がそういう寓話を大量に生んだのも事実だ。ただ、事実かどうかとは別に、この物語が幼児の頭のなかにどれだけの重さで居座ったかは想像がつく。外に出れば人が人を食う、という前提で世界を覚えた子どもだった。

一九四一年、父ロマンが赤軍に召集される。負傷して捕虜になり、生きて帰ってきた。だがソビエトの理屈では、捕虜になった時点でそれは裏切りに近い扱いだった。戦後の父は村で肩身が狭く、息子はその烙印を分け合った。一九四一年から一九四四年にかけて、少年は空襲と銃撃と占領を見ている。母と同じ寝床で寝ていて、夜尿が止まらず、そのたびに殴られた。一九四三年に妹タチアナが生まれているが、父はまだ戻っていない。占領下のウクライナで女性が受けた暴力を考えると、その出生をめぐる沈黙の意味は察するしかない。

飢えのせいで学校でよく倒れた。体は弱く、極端に近視で、いじめられた。それでいて成績は抜群によかった。読書量が異様に多く、数字や記事を丸暗記するのが得意で、十四歳で学校新聞の編集係、十六歳で共産主義青年同盟の委員長役をやっている。一九五四年、モスクワ大学を受験して落ちた。点数は悪くなかったが、競争率がそれ以上だっただけだ。本人は生涯、父が捕虜だったせいで落とされたと信じ続けた。自分は不当に踏まれている、という物語をこの時期に完成させている。

優等生だった男が、教壇から二度追われるまで

一九五五年に通信技術の職業学校へ入る。この年に初めての恋人ができたが、性交はうまくいかなかった。関係は一年半で終わっている。一九五七年から一九六〇年まで徴兵で、中央アジアの国境警備部隊と、東ベルリンの通信部隊に配属された。勤務評定はきれいなもので、除隊直前に共産党に入党している。

一九六一年、ロストフ・ナ・ドヌの北にあるロディオノヴォ・ネスヴェタイスカヤに移り、建設資材の工場で通信技師として働いた。一九六三年、姉の紹介で会ったフェオドシア・オドナチェヴァと、出会って二週間で結婚する。一九六五年に長女リュドミラ、一九六九年に長男ユーリーが生まれた。一九六四年からロストフ大学の通信教育課程でロシア文学と文献学を学び、一九七〇年に学位を取った。夜学の学位を取った工員というのは、当時のソビエトでは真っ当な向上心の証明だった。

一九七一年、ノヴォシャフチンスクの職業学校第三十二番でロシア語とロシア文学の教師になる。ここから壊れ方が表に出はじめる。授業を統率できず、生徒に完全になめられていた。一九七三年五月、十五歳の女子生徒に対する性的加害の記録が残る。数か月後にも、教室に閉じ込めた別の少女への加害があった。同僚が彼の異常な振る舞いを目撃した記録もある。それなのに、正式な処分は一度も下りていない。校長は懲戒ではなく「自分から辞めろ」という形で処理し、彼は一九七四年一月に静かに学校を去った。翌月には同じ町の別の学校に職を得ている。一九七八年九月、人員整理を理由に職を失い、ロストフの北にある炭鉱町シャフティの技術学校第三十三番に移った。そして一九八一年三月、複数の生徒への加害の訴えが積み重なって、ようやく教職から追われた。

ここは何度でも指摘されるべき点だと思う。彼は一九七三年の時点で、被害者を出す人間として学校組織に把握されていた。にもかかわらず、告発は書類にならず、警察には行かず、次の学校へ人事として流された。ソビエトの職場が不祥事を「なかったこと」にして人を横に移す癖を持っていたことが、後の十二年を準備している。

一九八一年三月から、彼は建設資材工場の調達係になった。物資が慢性的に足りない計画経済で、資材をかき集めてくる係だ。仕事の中身は、ほぼ全土を列車で移動して回ることだった。出張命令書と鞄と眼鏡と、地味な背広。ソビエト社会で最も疑われにくい姿を、彼は職業として手に入れた。

一九七八年十二月二十二日、雪に落ちた血と、間違って撃たれた男

最初の殺人は、まだ教師だったころに起きている。一九七八年十二月二十二日、シャフティ。九歳のイェレーナ・ザコトノヴァが行方不明になり、二日後にグルシェフカ川で遺体が見つかった。

このとき、彼を指す材料は最初からそろっていた。チカチーロは近くにぼろ小屋をひそかに買っていて、その小屋の柵のそばの雪に血痕が残っていた。近所の人間が、その晩に彼を見ている。少女の学用品の鞄は川の対岸で見つかった。橋のたもとで少女と一緒にいた中年男を見たという目撃者は、警察に人相を細かく話しており、その人相はチカチーロによく合っていた。

それでも警察が捕まえたのは、二十五歳の労働者アレクサンドル・クラフチェンコだった。彼には一九七〇年に少女殺害で服役した前歴があった。前歴者リストの上のほうにいる人間だ。妻のセーターに血がついていたが、その血液型は被害者とも妻とも一致するありふれた型だった。クラフチェンコには強いアリバイもあった。その日の午後、妻と友人と家にいたと近所も認めている。

ここからが最悪だ。捜査側は妻を「共犯にする」と脅し、友人を「偽証で挙げる」と脅した。二人の証言は「彼は遅くに帰ってきた」に書き換えられた。書き換えられた証言を突きつけられて、クラフチェンコは自白した。一九七九年の裁判で彼は自白を撤回し、強要されたと訴えたが、有罪になり死刑判決を受けた。一九八〇年十二月、ソビエト連邦の上級審は死刑を破棄して懲役十五年に減刑している。ところが被害者遺族と地元世論の強い突き上げを受けて事件は差し戻され、彼はふたたび死刑判決を受け、一九八三年七月に銃殺された。

やっていない。少なくとも、この事件については完全にやっていない。真犯人は同じ町で当時まだ教師をしていて、その後も殺し続けた。クラフチェンコの死刑執行から名誉が回復されるまでには長い時間がかかった。一九九〇年から一九九一年にかけてチカチーロがザコトノヴァ殺害を詳細に自供し、現場と経緯について犯人しか知りえない事柄を語ったことで、ザコトノヴァ事件におけるクラフチェンコの有罪判決は根拠を失った。のちに司法判断としてもこの有罪は取り消され、彼は冤罪の犠牲者として扱われるようになっている。それでも撃たれた人間は戻らない。この記事でチカチーロの名前と同じくらいの回数、クラフチェンコの名前を出したいと思うのは、そういう理由だ。

さらに言えば、犠牲者は彼一人ではない。十二年の捜査の過程で、知的障害のある少年たちを含む多数の男性が「自白」させられている。一九八四年十月に事件が一本化されたとき、彼らへの容疑はまとめて取り下げられた。捜査線上で同性愛者だという理由で身元を暴かれ、自ら死を選んだ人が複数いたことも記録に残っている。ソビエトの刑法は同性愛を犯罪として扱っていたから、捜査対象にされること自体が社会的な死刑宣告だった。この事件の被害者を数えるとき、その人たちを数から外すのは公平じゃないと思う。

「連続殺人は資本主義の病である」という国是が捜査を縛った

ここが日本の読者にいちばん伝わりにくく、そして事件の核心でもある部分だ。

ソビエト連邦の公式の犯罪観では、快楽のために人を殺し続ける人間というのは、社会の腐敗が生む現象だった。つまり資本主義の産物だ。搾取と失業と個人主義と退廃的な文化がある国でこそ、切り裂き魔が生まれる。社会主義はそういう病を根絶したのだから、ソビエトに連続殺人犯はいない。あるのはせいぜい酔っ払いの喧嘩と、外国のスパイと、精神を病んだ個人の突発的な事件だけだ。そういう建前が、法執行から報道までを覆っていた。

この建前は、単なる思想のお題目では終わらなかった。実務を三段階で壊している。

第一に、報道が封じられた。連続殺人が起きていることを新聞が書けない。書けないから、市民に警告が届かない。ロストフ州で子どもが次々に消えているのに、地元紙は沈黙し、駅にも学校にも「見知らぬ大人についていくな」という具体的な情報が回らなかった。警察は非公式に学校を回って口頭で注意を促す程度のことしかできず、その注意も「なぜ危ないのか」を言えないまま伝えられた。一九八〇年代半ばになってようやく地方レベルで断片的な警告が出るが、犯人像も手口も伏せられたままだったので、抽象的な「気をつけろ」にしかならなかった。

第二に、統計と情報の共有が壊れた。ソビエトの警察には検挙率のノルマがあり、未解決事件が積み上がることは地方の党組織にとって政治的な失点だった。だから事件は横につながりにくい。ロストフ州で起きた殺人と、モスクワ郊外で起きた殺人と、ウラルのレヴダで起きた失踪が、同じ人物の仕業として突き合わされる仕組みがそもそもなかった。チカチーロが調達係として全土を移動していたことが、この構造上の穴に完璧にはまった。彼は出張のたびに管轄をまたぎ、そのつど別の事件簿の中に散らばった。

第三に、自白偏重が加速した。ノルマがあり、時間の圧力があり、上からの叱責がある。そこで最短距離は自白を取ることになる。クラフチェンコに起きたことは例外的な暴走ではなく、制度がそう作られていた結果に近い。捜査本部はこの十二年で千件を超える無関係な犯罪を解決している。殺人九十五件、加重暴行百四十件、強姦二百四十五件。これは皮肉な話で、網を広げれば広げるほど別の犯罪が引っかかり、その検挙実績が「捜査は進んでいる」という体裁を作ってしまった。肝心の獲物だけがすり抜けていく。

グラスノスチが始まって報道が緩みはじめると、状況は変わる。一九八〇年代の終わりごろから、地元紙と全国紙がロストフの怪物について書けるようになった。皮肉なことに、犯人がついに捕まるのは、その情報公開が始まって数年後だ。逮捕の決め手になった駅の張り込みは、市民に危険を知らせ、犯人に「駅は見張られている」と思わせることを前提にした作戦だった。つまり、情報を隠す体制のもとでは成立しない捜査だった。

一九八二年、線路沿いの森に遺体が並びはじめる

ザコトノヴァ事件のあと、彼はしばらく殺していない。次の殺人は一九八一年九月三日、ロストフ市中心部のバス停で声をかけた十七歳のラリサ・トカチェンコだ。ドン川沿いの森に連れ込まれ、翌日、落ち葉と枝と新聞紙をかぶせた状態で見つかった。ここで彼の「型」が固まる。人の流れる場所で声をかけ、少し歩いた先の緑地や林で殺す。

一九八二年に入って頻度が上がる。六月十二日、ドンスコイ村で買い物帰りの十三歳リュボフ・ビリュークが襲われた。遺体が見つかったのは六月二十七日。頭部、頸部、胸部、骨盤部に二十二か所の刺し傷があった。ここで検死担当者が奇妙なものに気づく。眼窩の骨に細かい傷が入っていた。七月二十五日にはクラスノダール空港近くで、待合室にいた十四歳のリュボフ・ヴォロブエヴァが連れ出されている。八月にはノヴォシャフチンスク近郊で、九月にもロストフ州内で。十二月十一日、ノヴォシャフチンスク行きのバスから十歳のオリガ・スタルマチョノクが降ろされた。乗客の一人が、男が少女の手をしっかり握って連れて行くのを見ている。遺体は翌春の一九八三年四月に、市外れの畑で見つかった。

眼窩の傷。ここが捜査の入り口になった。一九八三年三月に鑑識分析官として捜査に入ったヴィクトル・ブラコフは、複数の被害者に共通するこの痕跡を並べて、単独の同一犯だと確信する。同じ人間が同じ理由で同じ場所を壊している。後年チカチーロ自身が説明したところによれば、殺された人間の目には犯人の姿が焼きつくというロシアの古い俗信を信じていたのだという。後にあれは迷信だと考えを変え、途中からその行為をやめている。捜査側からすると、犯人の頭のなかの俗信の更新が、遺体の状態の変化として現れていたことになる。

一九八三年一月、モスクワから来たミハイル・フェチソフ少佐がロストフに送り込まれ、十人態勢の捜査班が組まれた。作戦名レソポローサ。一九八三年六月にはノヴォチェルカッスク近くの無名の乗降場のそばの林で、十五歳のラウラ・サルキシャンが見つかる。九月までに、ソビエトの検察は六件の殺人を同一犯の仕業として公式に結んだ。

そこから先の四年間は、ひたすら重い。一九八三年十月には十九歳のヴェラ・シェフクン、十二月には十四歳のセルゲイ・マルコフ。ここで捜査は混乱する。それまでの被害者はほぼ女性と少女だったのに、少年が出てきた。一九八四年三月二十四日、ノヴォシャフチンスクの切手売り場から十歳のドミトリー・プタシニコフが連れ去られた事件では、複数の目撃者が犯人の人相を証言し、三日後に見つかった現場からは犯人の足跡と体液の資料が採れた。五月二十五日には、以前から彼を知っていた女性タチアナ・ペトロシャンと、その十歳の娘スヴェトラーナ。一九八四年の夏は最悪で、七月から九月にかけて、ロストフの「飛行士公園」を中心に立て続けに人が殺された。八月二日に十六歳のナタリヤ・ゴロソフスカヤ、八月七日に十七歳のリュドミラ・アレクセーエワ、九月六日に二十四歳の図書館員イリーナ・ルチンスカヤ。

しかも八月にはタシケントへの出張が入り、彼はそこでも二人を殺している。うち一人は十歳のアクマラル・セイダリエヴァだった。捜査本部はロストフの公園に人員を集中させていて、二千数百キロ離れた中央アジアの事件が同じ手の仕業だとは誰も思っていない。

レソポローサ――前例のない規模の捜査本部が積み上げた、膨大な空振り

一九八五年十一月、ソビエト検察は特別捜査官イッサ・コストエフを投入する。イングーシ出身の切れ者で、体制内では相当な実力者だった。検事十五人と刑事二十九人が、この事件だけに専従する体制が組まれた。ソビエトの犯罪捜査史でも異例の規模だ。

やったことは、力技の総当たりだった。前科者と精神科の通院歴のある者を洗い、性犯罪歴のある人間を片端から呼び出し、駅と公園に私服の女性警察官を配置した。血液型の照合対象になった人間の数は、資料によって数万から二十万まで幅があるが、いずれにせよ当時としては途方もない数だ。容疑者カードの束は二万五千枚を超えたと言われる。

同時に、捜査本部は間違った仮説にも大量の資源を注いだ。臓器売買の組織説、悪魔崇拝のカルト説、精神障害者の単独犯説。当時のソビエト警察の常識では、こういう犯罪をやるのは「異常者」であり、異常者なら見た目でわかるはずだ、という前提があった。だから捜索は、施設に出入りしている人、近所で変わり者と呼ばれている人、同性愛者に向かった。取り調べは苛烈で、複数の人間が虚偽の自白をし、そのうちの何人かは知的障害があった。三人の同性愛者と一人の性犯罪前歴者が、この捜査の圧力のなかで自ら命を絶っている。

捜査の網は毎年細かくなっていくのに、犯人だけがすり抜けていく。理由は単純で、彼は「異常者」に見えなかったからだ。眼鏡をかけた元教師で、党員で、妻と子どもがいて、工場の調達係で、出張命令書を持っていて、いつも背広を着ていた。子どもが道で見知らぬ大人を「おじさん」「おじいさん」と呼んで話しかけるのが当たり前の社会で、彼の外見は最強の擬装だった。

一九八四年九月十三日、彼は確かに捕まっていた。そして帰された

十二年の中でいちばん惜しい日がある。一九八四年九月十三日だ。

ロストフのバス停で若い女性に次々と声をかける中年男を、私服の刑事二人が視認した。そのまま市内を尾行すると、男は公共の場でみだらな振る舞いを繰り返す。中央市場で身柄を確保した。所持品を検めると、刃渡り二十センチほどの折りたたみナイフ、複数のロープ、ワセリンの瓶が出てきた。この持ち物の組み合わせが何を意味するかは、誰が見てもわかる。

しかも当時の彼は、前の勤め先の備品を横領した件で調べを受ける立場にあった。つまり、身柄を長く押さえておく法的な口実が警察側にあった。名前も、住所も、勤務先も、出張歴も、この時点で捜査本部の手元にある。

そして採血が行われ、彼の血液型はA型と判定された。ところが一九八四年の春から夏にかけての被害者六人から採取された体液の資料は、AB型と判定されていた。

型が違う。犯人ではない。

そう結論づけられて、彼は連続殺人の容疑から外された。備品の横領では有罪になり、共産党を除名され、懲役一年を言い渡された。実際には三か月で出所している。一九八四年十二月十二日、彼は塀の外に戻った。名前はカード索引の中に残ったが、それは二万五千枚の一枚でしかなかった。

翌一九八五年八月一日、彼はモスクワ出張中にドモジェドヴォ空港近くの乗降場で十八歳のナタリヤ・ポフリストヴァを殺し、八月二十七日にはシャフティで若い女性を殺している。

血液型が合わない、というたった一行が十二年を溶かした

この「A型とAB型」の一行が、この事件を有名にした最大の理由だと思う。

理屈から説明する。ABO式の血液型を決めているのは赤血球の表面にある糖鎖の抗原だ。そしてこの抗原は、多くの人では血液以外の体液、つまり唾液、精液、汗、涙、鼻汁などにも水に溶ける形で分泌される。この性質を持つ人を分泌型、持たない人を非分泌型と呼ぶ。人口の二割前後は非分泌型で、その人たちの体液からはABO型が読み取れない。だから当時の血痕・体液鑑定は、そもそも二割の取りこぼしを前提にした技術だった。

チカチーロの場合はもっと厄介だった。血液と唾液からはA型が出るのに、精液からはB抗原まで検出されてAB型と読まれた。逮捕後の一九九〇年十一月二十一日にあらためて調べても、血液はA型、精液はAB型で、同じ結果が再現された。この、体液によって型判定が食い違う稀な体質は、しばしば「逆説的分泌型」と呼ばれる。B抗原がごく微量に出るのか、抗原の分解にかかわる酵素の働きが偏っているのか、腸内や尿路の細菌が持つ抗原が混じったのか、説明はいくつかあるが、決定的な合意はない。

そしてここが肝心なところで、当時の分析に対する批判も根強い。ソビエトの鑑識が用いていた吸収阻止法などの手法は、微量の資料や、時間の経った資料、土や体液が混じった資料に対して弱く、偽陽性を出しやすい。屋外に何日も置かれた遺体から採った資料なら、細菌由来の抗原が紛れ込む余地はいくらでもある。つまり「彼は逆説的分泌型という珍しい体質だった」という説明と、「鑑定が単純に間違っていた」という説明は、いまも決着していない。前者ならソビエトの捜査は不運だったことになり、後者なら怠慢だったことになる。この差はけっこう大きい。

さらに手痛いのは、型が合わなかったときに捜査本部がそれを「決定的な除外条件」として運用したことだ。ひとつの検査結果が、目撃証言とも、所持品とも、行動観察とも、職歴とも矛盾していたのに、検査のほうが勝った。血液型鑑定は個人を特定する技術ではなく、母集団を絞る技術でしかない。それを個人識別の道具のように使ってしまったところに、この失敗の本質がある。DNA型鑑定がイギリスで初めて刑事事件に使われたのが一九八六年から一九八七年にかけてで、ソビエトの地方警察に届くのはずっと後だ。技術が追いついていなかったのは事実だが、それ以上に、検査結果に人間の判断が丸投げされたことが問題だった。

プロファイルという禁じ手――ブハノフスキーの六十五ページ

一九八五年、ヴィクトル・ブラコフは行き詰まっていた。そこで彼は、ソビエトの捜査ではまず考えられない相手に助けを求める。ロストフ医科大学の精神科医、アレクサンドル・ブハノフスキーだ。

ブハノフスキーは学界では変わり者扱いされていた。ソビエトで性別適合をめぐる医療に踏み込んだ数少ない医師で、性的な逸脱という主題を正面から研究していた。当時のソビエト精神医学において、性の問題は事実上研究対象になっていない。彼は先行研究のない真空のなかで、遺体の状態、犯行の場所、曜日、季節性、被害者の選び方といった材料だけを頼りに、犯人の人格像を組み立てた。仕上がった文書は六十五ページあった。

その中身は、いま読み返すと不気味なほど当たっている。犯人は四十五歳から五十歳くらいの男。孤立していて、目立たず、人当たりは悪くない。教育があり、読み書きの能力が高い。子どものころに強い屈辱と欠乏を経験している。性的には無力で、通常の性行為ができず、そのことへの怒りを溜めている。結婚していて子どももいるが、家庭での性的な交渉はほとんどない。他人と自然に関係を結ぶ能力が乏しく、口説くことも誘惑することもできない。だから彼にとっての凶器は、機能しない身体の代用品として働いている。犯行が平日に集中し、大量輸送の結節点の近くで起きていることから、犯人の仕事は定期的な移動を伴い、しかも生産のスケジュールに縛られている。ここまで書いてある。文書は「シチズンX」つまり「X市民」という呼び名とともに語られるようになった。

捜査本部はこの文書を活用しきれなかった。当時のソビエト警察に、心理像から人を絞り込むという発想の受け皿がなかったからだ。だがこの六十五ページは、五年後に別の形で決定的な働きをすることになる。

小さな駅だけを空けておく――一九九〇年秋の網

一九九〇年三月十一日、フェチソフは捜査幹部を集めて、はっきりと最後通告をした。世論もマスコミも内務省も限界で、これ以上解決できなければ人が飛ぶ、と。一九八五年から一九八七年にかけて確実に結べた殺人はたった三件だったのに、一九九〇年の春までにまた六件が積み上がっていた。一月十四日にシャフティの劇場前で十一歳のアンドレイ・クラフチェンコ、冤罪で撃たれた男と同じ姓だ、その少年が。三月七日にロストフ駅から十歳のヤロスラフ・マカロフが、七月二十八日に十三歳のヴィクトル・ペトロフが、八月十四日に十一歳のイワン・フォミンが。

ここでブラコフが出した案が、結果的に事件を終わらせた。

これまでの発想は「怪しい場所を見張る」だった。ブラコフの案は逆で、「犯人に行き場所を選ばせる」だった。ロストフ、シャフティ、ノヴォチェルカッスクといった大きな駅には、あえて制服の警官を大量に、これ見よがしに立たせる。犯人が近づけないように、わざと目立たせる。そのうえで、被害が集中していた小さな乗降場、クンドリュチャ、ドンレスホーズ、レソステプの三つにだけ、私服の捜査員を置く。大きな駅を塞げば、犯人は小さな駅に流れてくる。そこで網を絞る。

投入されたのは三百六十人。作戦の開始は一九九〇年十月二十七日だった。

作戦は、始まった時点ですでに手遅れだった部分もある。十月十七日に十六歳のヴァジム・グロモフが、その直後に十六歳のヴィクトル・チシチェンコが殺されていて、いずれも遺体が見つかったのは作戦開始後だ。とくにチシチェンコは体格のいい少年で、相当激しく抵抗している。この抵抗が、後で決定的な意味を持つ。

一九九〇年十一月二十日、ビールの瓶を提げた男が捕まる

一九九〇年十一月六日、ドンレスホーズ駅。張り込んでいた私服警官イーゴリ・ルバコフが、林から出てきた中年男に目をとめた。

男は井戸で手と顔を洗っていた。上着の肘に草と土がついている。頬に赤い汚れの筋が残っている。指に深い傷があるように見える。そして何より、服装が場違いだった。きちんとした背広に、ネクタイのような格好で、手にはナイロンのスポーツバッグ。この季節にこのあたりの林に入る人間はたいていキノコ狩りで、その格好とは似ても似つかない。

ルバコフは職務質問をした。身分証を確認し、氏名を控えた。アンドレイ・ロマノヴィチ・チカチーロ、五十四歳。それだけだ。逮捕する根拠は何もなかった。彼は男を行かせ、その日の当直日誌に、名前と、出会った状況と、頬の汚れが血のように見えたことを書いた。ごく事務的な、その日の何十枚目かの報告書だった。

十一月十三日、ドンレスホーズ駅近くの林で、二十二歳のスヴェトラーナ・コロスチクの遺体が見つかった。捜査本部が結びつけた被害者としては三十八人目になる。

捜査本部は、その週にあの一帯で職務質問を受けた男たちの報告書を洗い直した。そのなかにチカチーロの名前があった。この名前は、二か所で引っかかった。一九八四年に中央市場で捕まって血液型で外された男の名前と一致した。そして一九八七年に全ソビエトに回覧された要注意人物のリストにも載っていた。

現在と過去の勤務先に照会をかけると、彼の出張履歴と被害者の死亡日時が、次々に重なった。教職時代の同僚に当たると、生徒への加害の訴えが理由で辞めさせられた経緯が出てきた。一九八四年十二月から三か月の空白と、当時の犯行の途切れも符合した。

十一月十四日から監視がついた。彼は列車やバスで一人でいる女性や子どもに近づき、話しかけ、断られると数分待って別の相手を探す、という動きを繰り返した。六日間、それが続いた。

一九九〇年十一月二十日、彼は自宅を出て、公園の売店で大きな瓶にビールを詰めてもらい、ノヴォチェルカッスクの街を歩き回って子どもに声をかけようとした。そして喫茶店から出たところで、四人の私服警官に取り押さえられた。抵抗はまったくしなかった。

身体検査で、右手の中指に深い傷が見つかった。ヨードで自分で手当てした跡があり、医師の診察を受けた形跡はない。法医学者はこれを人の歯によるものだと判断した。あのヴィクトル・チシチェンコの遺体には、激しくもみ合った痕跡が残っていた。犯人は指の爪を噛みちぎられ、骨まで折られていた。折れた指の治療に行けば記録が残る。だから彼は行かなかった。

所持品からは折りたたみナイフとロープが二本出た。彼は最初、警察の間違いだと言い、一九八四年にも同じ疑いで捕まったのだと抗議した。

九日間の沈黙と、二時間で崩れた男

十一月二十一日、あらためて検査した結果はやはり血液A型、精液AB型。六年前を引き起こした食い違いが、そのまま再現された。

取り調べはコストエフが指揮した。当時の法律では、正式な起訴なしに身柄を押さえておけるのは十日間だけだ。状況証拠は積み上がっていたが、有罪にできる決定打はない。九日たっても、彼は殺人を認めなかった。教師時代の生徒への加害は認め、自分の内面についての作文をいくつも書いたが、殺人は否認し続けた。しかもその作文の内容は、五年前のブハノフスキーの六十五ページと不気味なほど重なっていた。

期限が切れかけた十一月二十九日、ブラコフとフェチソフの要請で、ブハノフスキーが取調室に呼ばれた。

彼がやったのは尋問ではなかった。二時間ちかく、犯行の話をいっさいしなかったという。屈辱、無力感、笑われ続けた記憶、誰にも理解されないという感覚。それを本人の言葉で語らせ、そのうえで、自分が五年前に書いた文書の一部を読み上げた。まだ名前も顔も知らない人間について書いた文章を、その本人に読んで聞かせたわけだ。

チカチーロは震えはじめ、泣き出し、そして認めた。ブハノフスキーは部屋を出て、ブラコフとフェチソフに、彼は話す用意ができている、と伝えた。

翌十一月三十日、コストエフが調書を取った。この日の記録では、警察が結びつけていた三十八件のうち三十六件を認めている。彼が否認した二件は、一九八六年に殺されたリュボフ・ゴロヴァハとイリーナ・ポゴリェロヴァだった。

その後の数日で、彼は捜査本部がまったく把握していなかった殺人を二十件以上、自分から語りはじめる。ロストフ州の外で起きたもの、遺体が見つかっていなかったもの、そしてザコトノヴァ事件のように、すでに別人が処刑されてしまっているもの。犯人しか知りえない細部が次々に出た。一九八二年七月にクラスノダール空港から連れ出した少女について、彼は畑で殺したと言い、その少女がノヴォクズネツクに住んでいて乗り継ぎを待っていたと語った。それは遺族の証言と一致した。

一九九〇年十二月、彼は捜査員をシャフティの墓地の外れに案内し、一九八九年八月に殺した少年アレクセイ・ホボトフの遺体が埋まっている場所を示した。誰も知らなかった遺体が、彼の指した地面から出てきた。この一件で、彼が真犯人であることは動かなくなった。その後もさらに二体の場所を示している。自供した五十六人のうち三人はどうしても身元も遺体も特定できず、最終的に一九七八年から一九九〇年までの女性と子ども五十三人の殺害で起訴された。

一九九一年八月二十日、現場での犯行再現をひととおり終えたあと、彼はモスクワのセルプスキー研究所に移されて六十日間の精神鑑定を受けた。主任の鑑定医アンドレイ・トカチェンコは、出生前の脳の損傷に由来すると思われる問題を指摘しつつ、緩やかで着実な逸脱の進行と、生物学的要因と環境要因の重なりを記述した。十月十八日、境界性の人格の障害とサディズム傾向は認めるが、訴訟能力はあるという結論が出た。

鉄格子の中の被告人と、法廷という名の修羅場

一九九二年四月十四日、ロストフ州裁判所の第五法廷で公判が始まった。ソビエト連邦が消滅してから四か月後で、この裁判は新生ロシアで最初の巨大なメディアイベントになった。裁判長はレオニード・アクブジャノフ。

法廷の隅には鉄格子の檻が組まれていた。被告人を守るためだ。遺族の何人かは、本気で彼を殺しに来ていた。逮捕から起訴までのあいだ、警察は一九八四年の似顔絵だけを公表して顔写真も本名も出していなかったから、報道陣が彼の姿を見たのは初日が最初だった。頭を剃り上げた男が檻の中にいる写真が、翌日のロシア中の新聞に載った。

最初の二日は、起訴状の朗読に費やされた。五十三件を一件ずつ読み上げる。遺族が泣き崩れ、失神する者も出た。アクブジャノフは公開の法廷にすることにこだわり、この裁判が何かを教えてくれますように、こんなことが二度とどこでも起きないように、という趣旨のことを述べている。

そこから先の半年は、裁判というより見世物と怒号の連続だった。被告人は、被害者の傷や誘い出しの手口を聞かれると投げやりに答え、遺留品を盗んだと言われたときと、切り取った身体の一部を持ち帰ったと言われたときだけ、心外だという顔で反論した。なぜ相手を選ばなかったのかと問われて、探す必要なんてなかった、どこへ行っても、そこにいたんだ、と答えている。裁判長はしばしば苛立ち、黙れ、おまえは狂ってなどいない、と怒鳴った。弁護人のマラト・ハビブリンは、裁判所そのものが検察のように振る舞っていると何度も抗議している。被告人は裁判長の声にかぶせて叫び、法廷は茶番だと言い、脈絡のない演説をし、ときには服を脱ごうとし、革命歌を歌った。そのたびに房へ戻され、審理は本人のいないまま進んだ。

四月二十一日、弁護側はブハノフスキーの証人尋問を求めた。一九八五年のプロファイルの中身と、逮捕後のやりとりについて話させるためだ。弁護側の計算としては、精神医学的な理解の枠組みを法廷に持ち込みたかったのだろうし、ブハノフスキーなら被告人を落ち着かせられるという実務的な理由もあった。

一九九二年十月十五日、判決。五十二件の殺人について有罪、刑は死刑。判決の言い渡しの最中、檻の中の男は病院、マフィア、詐欺師、と支離滅裂に叫び、看守に押さえつけられた。傍聴席の数百人が拍手と歓声をあげた。そのなかで、一九八七年に十二歳の息子イワンを殺された母親ニーナ・ベレツカヤが立ち上がり、泣きながら、あの男をこっちによこして、と叫んで、警官に取り押さえられた。この対比が、この日の法廷のすべてだと思う。

一九九三年、ロシア連邦最高裁は、五十三件のうち九件については有罪とするに足る証拠がないと判断した。死刑判決そのものは維持された。

一九九四年二月十四日、ロストフ近郊の刑務所で

死刑執行の一週間ほど前、ボリス・エリツィン大統領は恩赦の申請を退けた。一九九四年二月十四日、ロストフ・ナ・ドヌ近郊の刑務所で、彼は後頭部を撃たれて死んだ。五十七歳。翌十五日に通信社が伝えた。

執行を報じた西側の記事には、こんな一節がある。この裁判はロシア国内よりも西側でずっと大きな関心を呼んだ、と。ソビエト崩壊直後のロシアは、通貨も治安も生活も同時に崩れていて、人々には目の前の混乱があった。伝説的な怪物の死は、彼らにとって過去のニュースになりかけていた。

「あの日、私は彼を呼び止めて、そして帰した」――現場にいた人たちの声

この事件については、捜査側の人間が後年たくさん語っている。読み物として面白いのは、彼らの多くが自分の手柄よりも自分の失敗のほうを長く語っていることだ。

まず、ドンレスホーズ駅のイーゴリ・ルバコフ。彼が語ったところによれば、あのとき呼び止めたのは直感ではなく違和感だった。林から出てくる人間の格好が、林に用がある人間の格好ではなかった。キノコを採るなら長靴を履くし、袋を持つ。背広にネクタイでスポーツバッグを提げている男が、上着の肘に土をつけて井戸で顔を洗っている。それだけだ。頬の赤い汚れは血に見えたが、確信はなかった。押さえておく法的な理由が何一つなかったので、身分証を見て、名前を控えて、行かせた。その日の日誌に書いたのは数行だ。彼はのちに、あの数行がなければ捜査は名前にたどり着いていなかっただろうと言われ、同時に、あの日にもっと踏み込んでいれば最後の被害者を救えたかもしれないという事実からも逃げられなくなった。実際には、彼が呼び止めた時点で、すぐそばの林にはもう遺体があった。制度の隙間に立たされた末端の警官が、規則どおりに振る舞い、規則どおりに逃した。それが決定的な手がかりになった。この救いのなさが、この事件のいちばん人間くさい部分だと思う。

次に、ヴィクトル・ブラコフ。彼はもともと鑑識畑の人間で、犯罪心理の専門家ではなかった。七年半、この事件だけを見続けて、体を壊し、精神的にも相当なところまで追い込まれたと本人も周囲も語っている。彼が語った話のなかで印象的なのは、目撃証言よりも遺体の傷を信じたことだ。証言は揺れるが、傷は嘘をつかない。だから彼は、眼窩の細かい傷という誰も注目していなかった痕跡を並べて、単独犯だと主張し続けた。上司や検察の一部は組織犯罪説やカルト説を捨てなかったし、彼の主張は長いあいだ少数意見だった。そして彼は、精神科医に助けを求めるという、当時のソビエト警察では出世の役に立たないどころかむしろ危ない選択をした。ブハノフスキーに会いに行ったのは、正攻法が尽きたからでもあるが、犯人の中身を理解しなければ捕まえられないと考えたからでもある。最後の駅の作戦も彼の発案だった。大きな駅を目立たせて塞ぎ、小さな駅を空けておくという逆転の発想は、犯人が何を考えて場所を選ぶかを七年半かけて考え続けた人間にしか出てこない。

三人目は、アレクサンドル・ブハノフスキー。彼は事件のあと、ロストフに「フェニックス」という私設の診療所を開き、娘のオリガとともに、暴力衝動を抱えた人たちの治療を続けた。国からの支援はほとんどなく、大学からの給与は月に数十ドル程度で、自腹を切って患者を診ていたと報じられている。彼の言葉として伝わっているものに、こういうものがある。彼らにとって殺したいという衝動は呼吸のようなもので、抗いがたい。そして彼らは必死にやめたがっている、と。この立場は当然、強い批判も浴びた。犯罪を実行した、あるいはしかけている人間を通報せずに治療の枠に入れていたことは、ロシアの法律に照らしても危うい。実際、彼の患者の一人が治療中に再犯し、彼自身が訴追されかねない事態になったこともある。それでも彼は、心理像から人を理解するという手法をソビエト・ロシアに持ち込んだ最初の人間で、あの取調室の二時間がなければ、十日の勾留期限が切れてチカチーロは家に帰っていた可能性が高い。

四人目として、遺族の声も置いておきたい。一九九二年十月の法廷で、あの男をこっちによこして、と叫んだニーナ・ベレツカヤの息子イワンは、一九八七年にウクライナで殺された十二歳の少年だった。彼女がその日まで五年間、何を言われて生きてきたかを想像してみてほしい。事件が公にされていなかった時期のロストフ州やその周辺では、子どもが行方不明になった家族は、家出だろう、非行だろう、と扱われることが珍しくなかった。連続殺人が起きていることが公式には存在しない以上、行政の窓口でそれ以外の説明を受けようがない。遺族は、子どもを失った悲しみと同時に、子どもの名誉を守る戦いを強いられた。判決の日の法廷で数百人が拍手した一方で、彼女が叫んだのは歓声ではなかった。国家が正しい手続きで人を裁くという光景は、彼女の五年間の埋め合わせにはならなかったということだ。

掲示板と考察界隈が、いまも掘り返しているもの

この事件は、ネット上の犯罪考察の世界では定番中の定番だ。ただ語られ方には特徴がある。

いちばん話題になるのは、やはり血液型の食い違いだ。海外のフォーラムでも日本語の掲示板でも、体質のせいで逃げ切った男、という筋書きで語られることが多い。ただし、そこにはかなり手強い反論がある。非分泌型や逆説的分泌型という現象自体は実在するが、それがチカチーロに本当に当てはまったのか、それとも当時のソビエトの鑑識が単純に検査を誤ったのかは、証明されていない。当時の分析法は現代の基準からすると調べる項目が桁違いに少なく、屋外に置かれた資料や土に汚れた資料に対して誤りが出やすかった。だから「珍しい体質」説は、捜査側にとって都合のいい言い訳としても機能する。この点を突く人は昔から一定数いて、それはまっとうな指摘だと思う。

二つ目の論争は、被害者の数だ。裁判所が認定したのは五十二件、起訴は五十三件、本人が語ったのは五十六件から五十七件。そして最高裁は九件について証拠不十分とした。彼は捜査本部が把握していなかった事件を自分から語り、遺体の場所まで案内している。その一方で、自白しか根拠のない事件も少なくない。連続殺人犯が、実際にはやっていない事件まで自分のものとして語る例は珍しくない。世界的な自分になれるからだ。逆に、彼が語らなかった事件があった可能性もある。数はいまも確定していないし、たぶん永久に確定しない。

三つ目は、彼が否認した二件をどう見るかという問題だ。一九八六年のリュボフ・ゴロヴァハとイリーナ・ポゴリェロヴァの事件を、彼は最後まで否定した。捜査本部はこの二件を連続殺人に含めていたが、ゴロヴァハの事件は他の被害者に見られる特徴が薄く、駅や公園から離れた場所で起きている。ポゴリェロヴァの事件は逆に、特徴はよく合っているのに、遺体がきちんと埋められていた点が他と違う。彼が自分の罪をこれだけ大量に認めたあとで、この二件だけ嘘をつく理由が思いつかない、というのが「別人説」の根拠になる。一方で、記憶違いや、自分の中の物語に合わない事件を無意識に排除した可能性も指摘される。決着はしていない。

四つ目は、コストエフとブラコフとブハノフスキーのあいだの、手柄の分配をめぐる長い揉め事だ。ソビエト崩壊後、この事件を扱った西側の書籍や映像作品は、地元の鑑識分析官と在野の精神科医が中央から来た検事の官僚主義と戦って犯人を捕まえた、という構図で描くことが多かった。実際に取調室で自白の突破口を開いたのがブハノフスキーであることは記録が一致している。だが、五年の捜査体制を作り、法的な形を整え、大量の裏づけ捜査を回したのはコストエフの側だ。彼はのちにイングーシ共和国選出の上院議員になり、この事件については自分の役割が不当に小さく描かれていると強く不満を述べている。ドラマや映画は物語のために誰かを悪役にする必要があるが、実際の巨大捜査で「誰が捕まえたのか」を一人に絞るのは、たいてい無理がある。

五つ目は、責任の所在をどこまで広げるかという議論だ。彼を野放しにしたのはソビエト体制だ、という説明は強力だが、強力すぎて危うい面もある。報道統制、ノルマ主義、自白偏重、性の問題を扱えない精神医学、同性愛の犯罪化。どれも制度の問題で、たしかに事件を長引かせた。ただ、記録を追うと、制度以前のもっと単純な失敗もいくつも見つかる。一九七三年に学校が加害の訴えを処理せずに人事で流したこと。一九八四年に凶器とロープを持った男を型の一致だけで手放したこと。この二つは、どんな体制の下でも起こりうる怠慢だ。体制の話に還元しきってしまうと、同じ怠慢が別の場所で繰り返される。

六つ目に、彼自身の語りをどこまで信じるかという問題がある。飢餓の記憶、食べられた兄、屈辱の連続。これらは彼が自分の人生を説明するために使った材料だが、同時に、法廷と鑑定人に向けた自己弁護の材料でもあった。彼は裁判で心神喪失を主張し、退けられている。生い立ちを理解することと、生い立ちで説明をつけることは別だ。この事件を語る人が最も踏み外しやすい線が、たぶんここにある。

この事件が変えてしまったもの

まず、ロシアにおける犯罪心理分析の位置づけが変わった。ブハノフスキーの六十五ページは、ソビエトの捜査で心理的な人物像が本格的に使われた最初の例だと言われる。事件後、ロシア内務省と検察は、性的動機を持つ連続犯罪の分析部門を段階的に整備していく。ブハノフスキーの「フェニックス」は、暴力衝動を抱えた人間を治療の対象として扱う試みの拠点になった。彼が二〇一三年に亡くなったあとも、この系譜は続いている。犯人の内面を理解することが捜査の道具になる、という考え方が、公式の教義として敵視されていた国に定着したわけだ。

次に、犯罪報道が変わった。この裁判は、旧ソビエト圏でメディアが凶悪犯罪を大々的に報じた最初の大型事件だった。テレビカメラが法廷に入り、遺族が映り、被告人の顔が全国紙の一面に出た。功罪ある。犯罪が隠されない社会になったのは間違いなく前進だ。同時に、ロシアの新聞は彼を「食人鬼」「怪物」として売り、その報道様式が、その後の凶悪事件報道の型を作ってしまった側面もある。ちなみにロシアでは、この事件以後に現れた連続殺人犯に「なんとかのチカチーロ」という呼び名をつける習慣ができた。名前が一般名詞になってしまった。

三つ目に、捜査の実務の面で、多管轄にまたがる事件をどう束ねるかという問題が突きつけられた。彼は出張のたびに管轄を越え、ロストフ州、モスクワ州、レニングラード近郊、ウラルのレヴダ、ウクライナのザポリージャとイロヴァイスク、ウズベキスタンのタシケントで殺している。地方ごとに閉じた事件簿では、どうやっても届かない。一九八七年に全ソビエトに要注意人物のリストが回覧されたことは、その反省の産物だった。皮肉なことに、そのリストに彼の名前は載っていた。載っていても、束ねる仕組みがなければ意味がない。

それでも語り継がれる理由

三十年以上たっても、この事件が世界中で語られ続けるのはなぜか。

理由の一つは、犯人が「わかりやすい怪物」ではなかったことだ。眼鏡をかけた元国語教師で、党員で、二児の父で、真面目な調達係。この不一致が、人間の直感がどれだけ当てにならないかを突きつけてくる。捜査は「異常者を探せ」という前提で動き、その前提が犯人を守り続けた。

もう一つは、あまりに多くの分岐点があったことだ。一九七三年に学校が動いていれば。一九七八年に雪の血痕を追っていれば。一九八四年に検査結果より状況証拠を信じていれば。一九八五年のプロファイルを本気で使っていれば。どこか一つでも違えば、何十人かは生きていた。歴史の「もしも」がこれほど具体的に並ぶ事件は珍しい。

そして最大の理由は、たぶんクラフチェンコだ。国家は最初の被害者の事件で、間違った人間を捕まえ、脅して自白させ、減刑された判決をわざわざ覆して撃ち殺した。同じ国家が、その後十二年かけて真犯人を追い、ようやく捕まえて、また撃ち殺した。同じ手続きが、無実の男と真犯人の両方に使われた。この事件が「連続殺人犯の話」で終わらないのは、そこに国家がやったことの記録が、もう一つ重ねて書かれているからだと思う。

一行にまとめられることを拒む事件

ここからは、記事の本体で触れきれなかった論点と、いま振り返って考えたことをまとめて置いておく。

まず、この事件をどう分類するかという話をしたい。チカチーロ事件は、しばしば「ソビエト体制が生んだ怪物」という枠で語られる。だがこの枠は、二方向に間違えやすい。一方の間違いは、体制の異常性を強調しすぎて、彼個人の選択を薄めてしまうことだ。飢餓も戦争も屈辱も、彼と同じ世代の何百万人が経験している。その圧倒的多数は誰も殺していない。もう一方の間違いは、彼を純粋な怪物として体制から切り離し、どこにでもいる異常者がたまたまソビエトにいただけ、と片づけてしまうことだ。これも記録に反する。報道統制、ノルマ主義、自白偏重、管轄の分断、性を語れない医学、同性愛の犯罪化。これらは彼の犯行を可能にしたのではなく、彼の犯行が発見されるのを遅らせた。犯行の原因ではなく、継続の条件だった。この区別を保ったまま話すのが、たぶんいちばん誠実な扱い方だと思う。

次に、失敗の構造をもう一段だけ細かく見ておきたい。一九八四年九月の取り逃がしは、単に検査が間違っていた話ではない。あの日の捜査本部には、少なくとも五種類の情報があった。私服刑事二人による行動観察。中央市場での身柄確保。ナイフとロープとワセリンという所持品。前職での不正という別件の押さえ。そして血液型検査。このうち四つは彼を指していて、一つだけが彼を外していた。にもかかわらず、一つが四つに勝った。なぜかというと、四つはどれも「主観」に見え、一つだけが「科学」に見えたからだ。数値や型で出てくる結果は、人間の観察より上位に置かれやすい。これは一九八四年のロストフ特有の病気ではない。現代の捜査でも、DNA型鑑定や画像解析や自動照合の結果が現場の違和感を押し潰す事例はいくらでもある。血液型鑑定は本来、母集団を絞る道具でしかなく、個人を除外する権限を持っていない。その限界の理解が、判断する人間の側に共有されていなかった。この失敗の形は、技術が新しくなるたびに姿を変えて戻ってくる。

三つ目に、ブハノフスキーの六十五ページが持っていた本当の価値について。あの文書はしばしば「予言的に当たっていた」と紹介されるが、実際に事件を動かしたのは的中率ではなかった。一九八五年に完成したあと、捜査本部はあれを人物の絞り込みには使えていない。年齢、職業、家族構成といった項目で二万五千枚のカードを機械的に篩にかけるという運用は、当時の体制ではできなかった。あの文書が決定的に働いたのは、五年後の取調室でだ。犯人が「自分の内側を言い当てられた」と感じたその一瞬にだけ効いた。つまりあれは、捜査の道具としてではなく、対話の道具として機能した。プロファイリングの実務では、犯人像の推定そのものより、被疑者との対話をどう設計するかのほうが実際の成果に近い、という現代の見方を、この事件は三十年以上前に先取りしている。もちろん、それは危うい方法でもある。心理的な圧力で自白を引き出すという構造は、まさにクラフチェンコを死なせた手口と紙一重だ。違いは、チカチーロの自白が、誰も知らなかった遺体の位置という物理的な裏づけで検証されたことにある。自白は物証で検証されて初めて意味を持つ。この事件は、その原則の破り方と守り方を、同じ一つの事件簿の中に両方書き残している。

四つ目に、被害者について。この記事では意識的に、遺体の状態や暴力の細部を書かないようにした。この事件を扱う文章の多くは、そこを最大の見せ場にしてしまう。書かないほうがいい理由は倫理だけではなくて、細部を並べるほど被害者が「事件の素材」に変わってしまうからだ。殺されたのは、買い物帰りの十三歳、バスに乗っていた十歳、寄宿学校から出てきた十七歳、図書館に勤めていた二十四歳、切手を見に行った十歳。それぞれに家があって、その日の予定があった。彼女ら、彼らの名前を書き並べるとき、事件の年表の目印としてではなく、その日そこにいた人として書けているかを、書く側は毎回確認したほうがいいと思う。

最後に、この事件が現在にどう引き継がれているかを一つだけ。二〇二〇年代に入っても、ロシアではこの事件を題材にしたドラマや映画が繰り返し作られている。海外では一九九〇年代に作られた映像作品が長く決定版として扱われてきた。作品ごとに主役が入れ替わり、あるときは鑑識分析官、あるときは精神科医、あるときは検事が英雄になる。この揺れは、事件の解釈が固まっていないことの表れでもあるし、同時に、複雑な現実を一人の英雄の物語に圧縮したいという欲望の表れでもある。実際に起きたことは、もっと散らかっていた。誰も英雄ではなかったし、誰も単独では無能ではなかった。七年半を費やして誤った仮説にすがった捜査本部が、最後の年に発想を反転させて網を張り、末端の警官が規則どおりに書いた数行の報告書が名前を残し、在野の精神科医の二時間の対話が期限切れ寸前の勾留を突破した。そのどれか一つが欠けても捕まらなかったし、それでも五十人以上は間に合わなかった。教訓を一行にまとめたくなる気持ちはわかるが、この事件はたぶん、一行にまとめられることを拒み続けるところにこそ価値がある。

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