三分で消えた現金輸送車
計画の緻密さが、とにかく異様だ。膨大な証拠が残されたのに、捜査は核心へ届かないまま時効が成立している。単独犯なのか、組織的な犯行なのかすら、いまだに分かっていない。
日常に潜む異変や、歴史の闇が関わってくる事件もある。そういうものを含めて、解明への道は険しいままだ。
白バイの男が奪った3億円
時期と場所ははっきりしている。1968年12月10日、東京都府中市。ここで白バイ警官を装った男が3億円を奪った。
謎とされているのは、犯人の正体も金の行方も一切解明されていないという点だ。謎の解明状況は、ひとことで言えば未解決になる。
こうした謎の事件は、未解決のまま時が過ぎたり、解決済みでも解けない謎を残したりしている。真相が遠いこれらの事件は、証拠の不足や状況の不可解さから、被害者や遺族に深い影を落としてきた。
だからこそ、こうした謎の事件に光を当てたい。いつか真相が明らかになる日が来てほしいと思う。
突き合わせられる記録はどこまであるか
同名、または強く関連する独立資料項目が存在することは確認できている。三億円事件という項目から、事件・人物・制度の概略を照合することが可能だ。
松本清張の『小説 3億円事件』という項目からも、同じように事件・人物・制度の概略を照合できる。
先に断っておきたいこと
この話にある日時・人数・場所・動機・判決・捜査経過は、それぞれ個別に確認する必要がある。照合先になるのは、公的記録、裁判資料、警察発表、同時代報道だ。
「隠蔽」「口封じ」「霊視」「呪い」「異界」「陰謀」といった説明は、独立した裏付けがない限り、噂・異説として扱う。
なぜ「強盗」ではなく窃盗なのか
通称としては「三億円強奪事件」も広く使われている。ところが法的・手口上の説明では、この事件は窃盗事件として整理される。
白バイ警察官を装った人物が爆発物の危険を告げ、輸送担当者を車から離れさせた。そのうえで、現金輸送車を持ち去っている。暴行や脅迫を手段とする典型的な強盗事件とは、そこで区別されるわけだ。
動かない骨格だけを並べてみる
発生は1968年12月10日、東京都府中市。被害額は通称「3億円」だが、一般には2億9430万7500円とされている。
結果は身も蓋もない。犯人を特定・起訴できないまま、1975年12月10日に当時法の公訴時効が完成した。
現在の分類は歴史的未解明事件になる。現在進行の捜査事件とは、はっきり区別して扱う。
被害金の行方、単独犯か複数犯か、模造白バイや遺留品の来歴。このあたりはいずれも論争点であって、確定事項ではない。
証拠と物語を混ぜないために
遺留品は「大量にあった」で終わらせない。各品目の発見場所、製造・流通範囲、鑑定結果、捜査上の評価を、それぞれ分けて見ていく必要がある。
モンタージュ写真は犯人の写真ではない。成立過程と目撃供述の限界を、そのつど明記する。
「完璧犯罪」はあくまで評価語であって、法的な分類ではない。
「警察内部」「少年S」「組織犯」といった説は、提唱者・根拠・反証を示せない限り、都市伝説欄に置いておく。
映画・ドラマ・小説は、事件の受容史を調べる資料にはなる。ただし、犯人認定の証拠にはならない。
事件を書き残した二冊
捜査の現場に立った刑事の記録としては、平塚八兵衛『三億円強奪事件―ホシを追いつづけた七年間の捜査メモ』がある。七年間ホシを追い続けた男が、何を見て何を取り逃がしたのかを自分の言葉で書き残している。
もう一冊、『雨の追憶図説三億円事件』も残っている。同じ事件が何度も本の形で語り直されてきたこと自体が、この事件の引力の強さを示している。
三億円事件は、日本の刑事事件史のなかでもとりわけ特異な位置を占めている。犯人を一人も起訴できないまま公訴時効が成立し、被害総額の行方も、犯行の全貌も、半世紀以上を経た今なお公式には確定していない。
ここから先は、これまで触れてきた骨格情報をさらに掘り下げていく。事件の時系列、社会に与えた影響、そしてインターネット上で語られ続けている諸説や反応。それらを、確定した事実と伝聞・憶測とを区別しながら整理していく。
あらかじめ断っておくと、ここで紹介する「説」の多くは公的に立証されたものではない。あくまで「こう語られている」という記録として扱う。実在の人物を犯人だと断定する意図は一切ない。
1968年12月10日、朝9時すぎ
事件が起きたのは1968年(昭和43年)12月10日、朝9時すぎのことだった。東京都府中市の学園通り。日本信託銀行国分寺支店の職員が運転する現金輸送車が、銀行へ向かって走っていた。
積まれていたのは東芝府中工場の従業員約4,500人分のボーナス、正確には2億9,430万7,500円。この金額が四捨五入され、後年「三億円」という通称で広く知られるようになる。
その輸送車の前に、白バイに乗った警察官らしい男が現れた。男はこう告げている。「たった今、府中支店長宅が爆破された。この車にも爆発物が仕掛けられている疑いがある」。そういった趣旨の言葉で、運転手や同乗の行員たちを車の外へ避難させた。
ここからが、わずか数分の出来事だ。行員たちが車体の下を確認するよう指示されている、その隙だった。男は運転席に乗り込み、そのまま現金輸送車ごと猛スピードで走り去っている。犯行はわずか3分ほどの出来事だったとされる。
使われた白バイにも仕込みがあった。事件の約3週間前に盗まれたバイクを白く塗り替え、警察車両そっくりに偽装したものだ。
奪われた現金輸送車は、そう遠くない国分寺市内で見つかっている。史跡・武蔵国分寺跡近くの林の中に、乗り捨てられていた。現金はあらかじめ用意されていた別の車に積み替えられ、そこで足取りは完全に絶たれている。
事件発覚後、警視庁は戦後最大規模ともいわれる捜査体制を敷いた。延べ17万人を超える警察官が投入され、重要参考人としてリストに載った人数は11万人に達したと伝えられる。正直、数字だけ見ても現実感がない。
現場や逃走経路には、遺留品が山のように残されていた。偽装に使われた白バイ本体、白く塗られたヘルメットやメガホン、軍手、発煙筒、磁石、ハンチング帽。その数は実に100点を超えている。
捜査陣はこれらの品を一つひとつ製造元や卸ルートまで遡り、気の遠くなるような聞き込みを重ねた。ところが、遺留品のほとんどが大量生産・大量流通品だった。ここで捜査は壁にぶつかる。購入者を一人に絞り込むことが、どうしてもできなかった。
事件発生から11日後の12月21日には、銀行員らの証言をもとにした「モンタージュ写真」が公表された。新聞やテレビで繰り返し報じられ、この写真は長らく「犯人の顔」として日本中に流布し、事件を象徴するイメージになっていく。
しかし後年の検証では、この写真の作成過程そのものに疑問符がつけられている。証言をもとにした合成というより、当時捜査線上に浮かんでいた少年の顔写真がほぼそのまま流用されていた可能性が指摘されている。
警察も1970年代前半には方針を転換した。「モンタージュに似ていなくてもよい」という方向だ。最終的には、この写真を公式には使わなくなったとされる。にもかかわらず、書籍や報道ではこの「顔」が繰り返し使われ続けた。
結果として、一般の記憶の中では今も「三億円事件の犯人の顔」として定着している。
多数の容疑者が浮かんでは消える中、捜査が実を結ぶことはなかった。そのまま歳月が流れ、1975年12月10日午前0時、刑事訴訟法の規定により事件の公訴時効が成立している。
犯人は法的には最後まで特定されず、起訴されることもなかった。事件は「未解決事件」として歴史に刻まれることになる。
なお、被害に遭った現金には保険が掛けられていた。実際の金銭的損害は保険会社が負担し、東芝の従業員たちには翌日にはボーナスが改めて支給されている。この点は、事件の悲劇性の中でも数少ない救いとして、しばしば言及される。
「戦後最大の知能犯罪」はどう神話になったか
三億円事件は、単なる一件の窃盗事件を超えて、国民的な「謎」として記憶され続けてきた。その背景には、事件そのものの特異さに加えて、それを語り継いできたメディアと物語の力がある。
事件当時、新聞各社は連日一面でこの事件を報じている。白バイに扮した犯人の大胆さ、鮮やかすぎる手口。そして何より、「爆発物がある」という一言だけで行員たちを車から遠ざけた心理的な巧妙さ。多くの読者が驚きと同時に、ある種の感嘆すら覚えたと伝えられている。
高度経済成長のまっただ中、東京五輪から間もない好景気の日本社会。そこでこれほど大胆な「知能犯罪」が白昼堂々と成功してしまった。この事実は、当時の人々に強い衝撃を与えている。
捜査の最前線に立った刑事の一人に、平塚八兵衛という人物がいる。数々の難事件を手がけた「昭和の名刑事」として知られ、退職後には週刊誌の連載などで三億円事件について自らの見解を語っている。
そこで語られているのは、当時広く知られていたモンタージュ写真が「実際の犯人には似ていなかったのではないか」という趣旨の指摘だ。初動捜査における反省点についても、率直に語られている。
こうした捜査関係者自身の回顧録的な発言もまた、事件の「謎」としての魅力を後年まで支える一因になったと考えられる。
物語としての側面も見逃せない。作家の松本清張は、事件から時を置かずに『小説 3億円事件』という短編を発表している。フィクションの形で、事件の背景に迫ろうとした作品だ。
この作品は後年テレビドラマ化もされている。事件そのものの記憶と、フィクションによる再解釈。その二つが世代を超えて重なり合いながら伝わっていった経緯がうかがえる。
さらに近年でも、事件をモチーフにしたドラマや漫画が制作されている。三億円事件は半世紀以上を経てもなお、「日本最大の未解決ミステリー」として繰り返し取り上げられる題材であり続けている。
インターネットの普及以降は、まとめサイトや動画サイトでの再燃も加わった。事件を知らない世代にまで、話題が届くようになっている。
ネットで語り継がれる四つの説
三億円事件をめぐっては、公式に立証された結論が存在しない。そのぶん、インターネット上ではさまざまな「説」が語られ続けている。代表的なものを、あくまで「そう語られている」という体裁を保ったまま並べていく。
まず最も広く支持されているとされるのが単独犯説だ。現場に残された偽白バイのシートが引きずられたような跡があったこと。逃走経路上で、対向車を排除するような複数人での連携行動が見られなかったこと。このあたりが根拠になっている。
「これはすべて一人の人間が計画し実行したのではないか」という見方が、根強く語られてきた。大金を分配した形跡が見当たらないことも、この説を補強する材料としてしばしば持ち出される。
一方で、これほど緻密な計画と正確な実行を一人だけで成し遂げるのは現実的に難しい、という疑問もある。そこから複数犯・組織的犯行説を唱える声も根強い。
事前の下見、偽白バイの製作、脅迫状の準備、逃走車両の手配。この一連の準備作業を考えると、背後に相応の人数と組織的な連携があったはずだという考え方になる。暴力団や、当時の学生運動・政治運動に関わる集団の関与を疑う説も、ネット上ではしばしば語られている。
ただし、これらを裏付ける確たる証拠が公になったことはない。あくまで憶測の域を出ないものとして扱われている。
もうひとつ根強く語られてきたのが、警察関係者関与説になる。犯人が本物の白バイと見紛うほど精巧な偽装車両を用意できたこと。警察無線の運用や検問のタイミングを熟知していたと思われる点。そこから疑いの目が向けられてきた。
「警察内部の人間、あるいはその関係者が関与していたのではないか」。この見方が、ネット掲示板や考察系ブログで繰り返し取り沙汰されてきた。この説についても、これまで公式に裏付けられたことはない。状況証拠からの推測にとどまっている点には、念のため注意しておきたい。
そして、事件の「都市伝説」的な側面を最も色濃くまとっているのが、いわゆる少年犯人説だ。
事件発生から間もない時期、捜査線上に浮かんだ少年の一人が、警察の任意聴取を受けた数日後に不審な死を遂げたという経緯がある。この人物が実は真犯人だったのではないか、あるいは何らかの形で口を封じられたのではないか。そうした憶測が、ネット上で長年ささやかれている。
ただし、この少年については血液型や筆跡の不一致、アリバイの存在など、犯人と断定するには矛盾する材料も同時に指摘されている。警察の捜査記録上も、容疑が固まったわけではない。
実名は公になっておらず、ここでもこれ以上の個人の特定につながる情報には触れない。あくまで「そうした噂がネット上で語り継がれている」という記録にとどめておきたい。
金の行方についても諸説ある。奪われた紙幣の記番号は、事前に控えられていたはずだった。ところが、その番号と一致する紙幣が世に出てきたという確かな報告は、半世紀以上を経た現在に至るまで確認されていない。
このことから「そもそも犯人は金に手をつけられなかったのではないか」という説がしばしば語られる。「使えないまま処分された、あるいはどこかに隠されたままなのではないか」という見方も出てくる。
ネット上では、当時の政治結社や思想団体との関連を疑う説、山中や樹海に隠されたままだとする説なども見られる。いずれも状況証拠すら乏しく、都市伝説の域を出ないものとして扱うのが妥当だろう。
掲示板と考察動画は今も回り続けている
5ちゃんねる(旧2ちゃんねる)には、事件から数十年を経た現在でも三億円事件を扱うスレッドが継続的に立てられている。過去ログをまとめたサイトも、数多く存在する。
あるまとめサイトのスレッドでは、こんな趣旨の書き込みが繰り返し見られる。「当時は防犯カメラがほとんど存在しなかったから成立した犯罪であり、今なら数日で解決していたはずだ」。監視社会以前の時代だからこそ生まれた「完全犯罪」だったのではないか、という感慨が語られている。
また別のスレッドでは、モンタージュ写真そのものへの言及も多い。「あの顔は本当に薄気味悪い」「実在の誰かの写真をそのまま使ったという話を聞いてから見方が変わった」といった書き込みが見られる。写真の成立過程に対する不信感が、ネットユーザーの間で長く語り継がれていることがうかがえる。
まとめブログの中には、警察の初動対応の遅れを揶揄するコンテンツも見られる。「打線を組む」といった形式で、当時のミスを列挙していくものだ。単なる猟奇的興味だけでなく、組織としての警察の対応そのものを検証しようとする姿勢も、一定数存在している。
SNS上でも、事件の発生日である12月10日が近づくたびに話題が再燃する傾向がある。「今年も三億円事件の日が来た」「未解決のまま時効になった事件の中でも群を抜いて有名」といった投稿が、毎年一定数見られる。
YouTube上の考察系チャンネルでも、三億円事件は繰り返し取り上げられる定番の題材になっている。「ゆっくり解説」形式の動画、事件の時系列を丁寧に追う解説動画、現地を実際に訪れて当時の現場を歩くルポルタージュ形式の動画。事件にまつわる噂や都市伝説を横断的にまとめた動画もあり、切り口はさまざまだ。
コメント欄もにぎやかだ。「子供の頃に親から聞いた話が正しかったのか初めて分かった」「モンタージュ写真の話は知らなかった、鳥肌が立った」。そうした感想が多数寄せられている。
その一方で「憶測の域を出ない説を事実のように語るのはやめてほしい」という慎重な意見も、一定数見られる。視聴者の間でも、噂と確定情報とを区別しようとする意識がうかがえる。
こうした動画やコメント欄での盛り上がりは、事件そのものへの関心が世代を超えて再生産され続けていることの証しになっている。
現金が街を走っていた時代
事件が起きた1968年前後の日本は、東京オリンピック(1964年)を経て高度経済成長のただ中にあった。企業のボーナスを現金で支給し、それを銀行が現金輸送車で運ぶ。そんな慣行が、ごく当たり前だった時代だ。
三億円事件がきっかけの一つとなり、給与やボーナスを銀行口座への振込で支給する仕組みが、企業に急速に広がっていった。現金輸送そのものも、専門の訓練を受けた警備会社の警備員によって担われるようになっていく。
日本社会の慣行そのものを変えた数少ない実例として、この事件はしばしば指摘される。
事件現場となった東京都府中市、そして現金輸送車が乗り捨てられた国分寺市。いずれも新宿から中央線・京王線で30分前後というベッドタウンだ。当時から住宅地と歴史的な史跡、つまり国分寺跡が同居する土地柄だった。
この土地勘の存在が、犯人像をめぐる議論の中でもしばしば重視されるポイントになっている。
同時期には、現金輸送車や金融機関を狙った類似の強盗・窃盗事件がいくつか発生している。後年「有楽町三億円事件」「練馬三億円事件」と通称される事件も起きた。そのため三億円事件そのものは、区別のために「府中三億円事件」と呼ばれることもある。
これらの事件は、三億円事件ほどの規模や社会的インパクトを持つには至らなかった。ただし当時の日本において、現金輸送そのものが犯罪の標的になりやすい構造的な弱点を抱えていた。それを示す事例としては、しっかり位置づけられる。
永遠の謎として残ったもの
三億円事件は、1975年12月に公訴時効が成立したことで、法的には「犯人不明のまま終わった事件」として確定している。この一点だけは動かしようがない。
以降にどれほど多くの説が語られようとも、それらは公式な捜査・裁判の結論とは別のものだ。ネット上や巷間の憶測・伝承として扱われるべきものになる。
単独犯説、組織犯行説、警察関係者関与説、少年犯人説、金の行方をめぐる諸説。そのいずれもが決定的な証拠を欠いたまま、半世紀以上にわたって語り継がれてきた。
事件の関係者の中には、無関係でありながら疑いをかけられ、その後の人生を大きく狂わされた人物もいたと伝えられている。興味本位の詮索がもたらす重さについても、この事件を振り返るときには忘れないでいたい。
真相が公式に明らかになることは、もはや期待できない。だからこそ三億円事件は今も「永遠の謎」として、多くの人々の想像力を刺激し続けている。
