昭和の終わりが見えてきた1984年、関西でとんでもない犯罪劇が幕を開けた。犯人は名乗った。かい人21面相、江戸川乱歩の怪奇小説から名前を借りた連中だ。企業を人質に取り、警察をあざ笑い、マスコミまで手玉に取って、最後は誰にも捕まらないまま消えていった。
1985年まで続いたこの騒ぎは日本列島をまるごと揺さぶり、警察庁の広域重要指定114号事件になった。動いた捜査員は延べ130万人超。それでも誰も捕まらなかった。2000年2月に公訴時効が完成し、指定事件の史上初めて「未解決」という記録を残したんだよな。
確かな事実と、諸説や伝説や未確認の話は、きっちり分けて追っていく。相手は昭和の犯罪史で一番奇妙で、一番芝居がかった事件なので、最初の夜から順にじっくりたどってみよう。話は一晩の誘拐から始まる。
- 風呂場に踏み込んできた二人組
- 10億円と金塊100キロという無茶な要求
- 3日後、水防倉庫からの自力脱出
- 「グリコを食べて墓へ行こう」
- ラベルに書かれた「どくいり きけん」
- 丸大食品の電車に現れたキツネ目の男
- 森永製菓への1億円と子どもの声のテープ
- 大津サービスエリアの取り逃がし
- 独り歩きしたモンタージュ
- 140通の手紙に仕込まれた芸
- 社長だけが下の名前で呼ばれた
- 1985年8月、本部長の死
- 「もうやめや」と香典代わりの終息宣言
- 2000年2月、誰も捕まらないまま
- 誰がやったのか、囁かれてきた説
- 根拠の薄い偏見と打ち切られた捜査
- 暴力団説と北朝鮮工作員説
- 掲示板と動画で続く推理合戦
- いつか本人が名乗り出るという噂
- お菓子の包装が変わった
- 警察無線の暗号化と模倣犯
- 脚本みたいに噛み合った事件
- 終わらない怪談
風呂場に踏み込んできた二人組
始まりは江崎グリコの社長、江崎勝久氏の誘拐だった。1984年3月18日の夜だ。午後9時頃、兵庫県西宮市にある江崎氏の実母の家へ、拳銃と空気銃で武装した二人組の男が勝手口を破って押し入った。
二人は母親を縛り上げ、合鍵を奪った。向かった先は隣の社長宅。そこにいた社長夫人と長女を拘束すると、浴室で入浴中だった江崎氏本人を銃で脅した。男たちは江崎氏に身につけるものすら与えず、全裸のまま車に押し込んで連れ去ったと伝えられている。
入浴中に踏み込むという手口の異様さは、当時の報道でも強い衝撃を与えた。ただの物盗りの動きじゃない。家族構成や毎日の生活のパターンまで、事前にしっかり調べ上げていたことをうかがわせる犯行だったからだ。
10億円と金塊100キロという無茶な要求
翌19日の未明、高槻市にある江崎グリコの取締役の家に電話が入った。続いて脅迫状が届く。要求は現金10億円と金塊100キログラムで、当時の国内の誘拐事件としては前例のない超大金だった。
後年の検証によれば、現金10億円は高さ9.5メートル、重さ約130キログラムにもなる量だった。一度に運び出すこと自体が物理的に難しいと指摘されている。とんでもない量だ。
大きすぎる要求額は、あとで一つの疑念を生んだ。犯人は本気で身代金を受け取るつもりだったのか、それとも警察や企業を混乱させること自体が狙いだったのか。そういう疑いだ。
3日後、水防倉庫からの自力脱出
拘束から3日後の3月21日、午後2時30分頃。江崎氏は大阪府茨木市の安威川沿いにある水防倉庫から、自分の手で縄をほどいてひとりで逃げ出した。自力の脱出だった。倉庫を出たあと摂津市の大阪貨物ターミナル駅の構内に転がり込み、作業員に保護されたと記録されている。
身代金は一度も受け渡されないまま、誘拐そのものは奇妙な形で幕を閉じた。でも、話は終わらない。事件全体から見れば、ここまではほんの序章にすぎず、本当の騒ぎはこのあと全国の店の棚を巻き込んで始まる。
「グリコを食べて墓へ行こう」
江崎氏が戻っても、犯人グループとグリコの緊張は終わらなかった。同じ年の5月10日、毎日新聞をはじめ複数の報道機関に、かい人21面相を名乗る挑戦状が届く。書かれていたのは「グリコの製品に青酸ソーダを入れた」という物騒な予告で、今度は毒をちらつかせてきたのだ。悪質にもほどがある。
文中には、あとで事件の象徴として繰り返し口にされることになる一文があった。「グリコを食べて墓へ行こう」。恐怖を煽るのと同時に、どこか芝居がかったおかしみもあって、一度聞いたら妙に耳に残る独特の言い回しだった。
この時点では、実際の毒入り製品は見つかっていない。それでも報道は過熱し、全国のスーパーやコンビニの店頭からグリコ製品が一斉に撤去される事態になった。予告だけで、これだ。
棚から消えた商品。回収に追われる従業員と、それを見つめる買い物客。この光景こそが、劇場型犯罪という名前がこの事件に冠せられた最大の理由になった。犯人は自分で手を下すことよりも、社会にパニックを起こすこと自体を目的にしているように見えたのだ。
ラベルに書かれた「どくいり きけん」
10月7日から13日にかけて、今度は本当に青酸ソーダ入りとされる菓子が出てきた。予告どおりの展開だ。相次いで見つかった場所は兵庫、大阪、京都などのスーパーで、パッケージにはラベルが貼られていた。のちに事件を代表することになる一文が、そこに書かれていた。
「どくいり きけん たべたら しぬで かい人21面相」。ひらがなばかりの警告文は幼稚にも見えるのに、不気味な確信に満ちていた。この文句はテレビや新聞で繰り返し取り上げられ、あっという間に日本中の記憶に刻み込まれていった。一度見たら忘れない。
翌1985年2月にはバレンタインデーを狙って、東京と愛知で青酸入りのチョコレートがばらまかれた。舞台は関西の外へ。子どもが手に取る菓子を選んでくるあたり、本当にたちが悪い。
丸大食品の電車に現れたキツネ目の男
犯人グループの脅迫は、グリコ一社では終わらなかった。次は丸大食品だ。1984年6月22日に脅迫状が届いて5000万円が要求され、6月28日には電車内での現金受け渡しが指定された。区間は高槻駅から京都駅の間。
警察はもちろん張り込んだ。その現場で初めて、キツネ目の不審な男が刑事の目に留まった。ところが職務質問や逮捕の判断が現場に委ねられていなかったため、男はあっさり人混みに消えたと伝えられている。目の前にいたのに手が出せない。張り込んでいた刑事は、どんな気持ちだったんだろうな。
森永製菓への1億円と子どもの声のテープ
次の標的は森永製菓。9月12日に届いた脅迫状で、要求額は1億円に引き上げられた。脅迫状には「グリコが6億円を支払った」とほのめかす一文まであったが、実際に払った事実は確認されていない。
9月18日には、子どもの声を録音したテープを使って電話で指示を繰り返すという、それまでにない手口も出てきた。10月に見つかった青酸入りの菓子は13個にのぼる。脅しが本物の毒に変わった。
大津サービスエリアの取り逃がし
11月、今度はハウス食品。脅迫状が届き、11月14日に大津サービスエリアでの現金受け渡しが指定された。しかも受け渡しの現場になったサービスエリアで、あのキツネ目の男らしき人物がまたしても目撃された。
結果は同じだ。今回も職務質問をする権限や判断が現場に与えられていなかったため、不審な車両も含めて取り逃がしてしまった。この失態はあとで、滋賀県警本部長の進退問題に直結する重大な出来事になっていく。
標的のリストはまだ伸びた。12月には不二家、翌1985年3月には駿河屋が狙われた。食品会社が次から次へと名指しされていく流れは、ニュースで見ているだけでも息が詰まりそうになる。
独り歩きしたモンタージュ
キツネ目の男の話をしよう。丸大食品の電車の中、そしてハウス食品の大津サービスエリアと、複数の現場で目撃された人物だ。細長い一重の目をしたその姿は、警察のモンタージュ画像と一緒に何度も報道され、事件の顔として国民の記憶に定着した。広がり方が凄まじかった。当時は一重で目つきの鋭い男性が街を歩くだけで怪しまれたという、笑い話みたいな逸話まで生まれたって話だ。
ただ、このキツネ目の男が本当に犯人グループの主要人物だったのかは、最後まで公的に確定していない。目撃証言のブレかもしれないし、別の人物との取り違えかもしれない。誰にも言い切れない。
似顔絵は諸刃の剣だ。目撃証言から作るモンタージュは捜査の大事な手がかりになる。でも一度メディアに出回ると、事件の象徴として一人歩きしてしまう危うさを抱えている。後年の書籍やルポルタージュには、目撃された人物がじつはおとりとして周辺を歩かされていた可能性を指摘する見方も出てきた。
これも一つの推測にすぎない。断定できる証拠は公表されていない。モンタージュ画像はあくまで当時の目撃証言を基にした推定図で、それ自体が犯人の確かな証拠じゃない。そこは頭に置いておいてほしい。
140通の手紙に仕込まれた芸
かい人21面相が送りつけた脅迫状や挑戦状は、確認されているだけで140通を超えるとされる。ただの脅しじゃない。犯行を告げるだけでなく、口上としての完成度がやたらと高い文章になっていたのが、この手紙の特徴だ。
目立ったのは関西弁を基調にした言い回しと、わざと漢字を避けたひらがな主体の表記だ。「けいさつの あほ ども」。そんな挑発が並んだうえに、警察やマスコミの動きを見透かしたような記述まであって、捜査当局を苛立たせた。
丸大食品への手紙では、同社の広告コピー「わんぱくでもいい たくましく育ってほしい」をもじっていた。「わるでもええ かい人21面相のようになってくれたら」という一文まで作り込んでいたと伝えられている。愉快犯の走り書きじゃない。広告や報道の文脈を熟知した誰かが、計算ずくで仕掛けた演出だったのは明らかだ。
社長だけが下の名前で呼ばれた
気になる点がもう一つ。ほかの会社の経営者はみんな苗字で呼ばれていたのに、江崎社長だけは「勝久」と下の名前で書かれることが多かったとされる。呼び方ひとつで、ずいぶん印象が変わる。
これが、犯人グループはグリコに特別な執着か、何か個人的な関心を抱いていたのではという見方の根拠になっている。ひらがな表記や関西弁の多用も、犯行グループの出身地域を絞り込む手がかりとして捜査の対象になった。けれど、方言をわざとまねた可能性までは消せない。個人の特定には至らなかった。
1985年8月、本部長の死
1985年8月、事件はいちばん重い転換点を迎える。前の年の11月、大津サービスエリアで不審車両を取り逃がした失態の責任を、一身に背負った人がいた。滋賀県警本部長の山本昌二氏だ。
「責任はすべて私にある」。山本氏はそう公言し、同じ年の2月には辞意を示していたとされるが、そのときは認められなかった。そして8月7日。辞任の挨拶を済ませたあと、山本氏は自宅で灯油をかぶり、焼身自殺を遂げた。
複数の遺書が残されていたと報じられている。一人の警察官のあまりに重い死は、企業と警察と世間を巻き込んだこの事件全体に、暗く重い空気を落とした。面白がる話じゃない。
「もうやめや」と香典代わりの終息宣言
その5日後の8月12日、犯人グループから事件の終わりを告げる文書が届いた。俗に言う終息宣言だ。犯人たちはそこで、自分たちの行為をやめることをほのめかした。「われわれも人間や」「もうやめや」といった趣旨の言葉が、その文書に書き残されていたと伝えられる。
耳を疑うのはここからだ。この終息は自殺した本部長への香典代わりだという、常識ではまず理解できない理屈まで添えられていたとされる。脅迫をやめることが香典になる、という発想だ。
さんざん企業と社会を振り回してきた愉快犯が、警察官の死を前にして妙な筋目のようなものを見せたわけだ。この一件は、犯人グループの正体の分からなさをいっそう深める逸話として、今も繰り返し話題にのぼる。宣言のあと、新しい脅迫は確認されていない。事件は、表向き静かに止まった。
2000年2月、誰も捕まらないまま
犯人は沈黙。音沙汰が消えたあとも、警察の捜査は長く続いた。江崎勝久氏の誘拐に関する容疑は、1994年に公訴時効を迎えている。残っていたのが森永製菓関連で、特に東京と愛知での青酸入り菓子ばらまきに関わる殺人未遂容疑だった。
その最後の時効が完成したのが、2000年2月13日だ。警察庁広域重要指定事件として史上初めて、犯人が誰一人特定されず、送検も逮捕もないまま未解決で終わった。前代未聞の記録だ。
警察が動かした捜査員は延べ130万人を超え、捜査の対象になった人たちも12万人以上にのぼった。それでも解けなかった。2005年3月には、民事上の損害賠償請求権も時効で消えている。法的な意味では、この事件は完全に終わった事件になったわけだ。
誰がやったのか、囁かれてきた説
時効から四半世紀以上たった今も、犯人像についてはいくつもの説が語られている。どれも仮説だ。公的に確定した事実はひとつもなく、報道や関係者の証言、後年の取材から出てきた話の範囲にとどまる。
最初は内部説から。有力視された説の一つは、グリコ社内か関連企業の内部事情に詳しい人物がかかわっていたという見方だ。根拠とされたのは、犯人が江崎氏の長女の名前や運転手の名前を正確に知っていたことだった。1978年にグリコへ送られたとされる53年テープが、のちの誘拐や脅迫を予告していたように見える点も挙げられている。
次が株価操作説だ。事件のあと、グリコ株は大きく値を下げた。作家の宮崎学氏らは著作の中で、混乱に乗じて底値で株を買い増し、収束後の値上がりで儲けた仕手の存在を指摘している。とはいえ、これも推測の域を出ない。
根拠の薄い偏見と打ち切られた捜査
捜査の過程で取り沙汰されたものに、被差別部落の出身者を疑う説もあった。森永への脅迫テープを音響分析したところ、皮革製品用ミシンの音らしき環境音が検出されたとされた。それが特定の地域と結び付けて語られたことがあったのだ。ここは要注意だ。
ここは慎重に書く。これは特定の出身地域や共同体をまるごと犯人扱いする見方で、根拠の薄い偏見を助長する危険を強くはらんでいる。実際この方向の捜査は、人権上の問題から慎重な扱いを求められ、抗議を受けて事実上打ち切られたと伝えられている。この説は捜査史の一エピソードとして紹介するだけにとどめ、どんな集団であれ犯人だと決めつけることはしない。そこははっきりさせておく。
暴力団説と北朝鮮工作員説
1990年代には、暴力団やテキヤの関係者による組織的な犯行を疑う説が有力視された時期もあった。取材で取り上げられたのは、かつてグリコから現金を取ろうとして拒まれた人物の存在だ。不自然な額の資金の動きも。
犯行に使われたものと同じ種類のタイプライターを持っていたとされる人物もいた。1992年には関係者への任意の聴取も行われたが、確かな物証もアリバイの崩れも見つからないままだった。捜査はそこで終息。
1997年前後には、北朝鮮の工作員グループがかかわったと疑う報道も一部で出た。だが声紋鑑定の結果、決め手とされた人物は別人だと分かり、この線を追った捜査も立ち消えになった。またも空振り。
どの説も、その可能性をにおわせる状況証拠があるという段階止まりだ。立証された真犯人はいない。結局のところ、この事件の本質はまさに、誰一人として犯人を断定できなかったという一点にあるんだと思う。
掲示板と動画で続く推理合戦
不思議なのは、時効が成立してからも事件が忘れられなかったことだ。今も熱が冷めない。昔の2ちゃんねる、今の5ちゃんねるやSNS、個人ブログや動画配信で、考察が定期的に投稿されている。
題材は脅迫状の文体分析、キツネ目の男の正体、終息宣言の意味あたりだ。時効が成立している以上、どんな新情報が出ても裁判にはつながらない。それでも人は集まる。「あの事件の真相を知りたい」という知的好奇心に、大勢の人が今もずっと引き込まれ続けているのだ。
理由はそれだけじゃない。劇場型犯罪ならではの、犯人と観客の間の緊張関係に惹かれる人もいるはずだ。時効が成立して何年たっても人を吸い寄せ続けていること自体が、この事件の吸引力の異様さをよく表している。
もちろん、匿名の投稿や個人の考察はあくまで読み物としての仮説だ。捜査の裏付けはない。オカルトやミステリーとして楽しむときも、書かれていることを事実のように扱わない慎重さは持っておきたい。
いつか本人が名乗り出るという噂
関心の高さを背景に、時効のあとはある噂がしつこく語られてきた。時効に守られた犯人が、そのうち実名を明かして自分から名乗り出るんじゃないかという都市伝説だ。実際に名乗り出た人物が現れたという確かな事実はない。まだ誰も出てこない。
でも、いつか本人が語るはずだという期待感こそが、事件を娯楽として生き延びさせている一番の理由なのかもしれない。愉快犯としての振る舞い、劇場を演出するうまさ、最後まで正体を明かさなかった徹底ぶり。そのせいで、捕まらなかった悪役への奇妙な感情が日本社会の一部に根付いてしまった面もある。考えると妙な話だ。
お菓子の包装が変わった
実務的な影響は小さくない。食品業界では、店頭からの製品撤去と半年にも及ぶ広告自粛が行われた。森永製菓はアニメ『キン肉マン』の、グリコはラジオ番組のスポンサーから、それぞれ一時的に降りることになった。
一番の変化は包装だ。事件を教訓に、開けたら元の形に戻せない不可逆的な包装への切り替えが、食品業界全体で急速に進んだ。同じ時期にはパラコートを使った連続毒殺事件も起きていた。二つが重なって、一度開けたら分かる包装は食品パッケージの標準になっていく。
警察無線の暗号化と模倣犯
遺産はもう一つある。警察無線の暗号化だ。捜査の過程で、犯人グループが警察の無線を傍受していた可能性が浮かんだ。当時のアナログ方式の無線は、公開されている資料を使っても解読できてしまう実態があり、それが問題視された。この事件を一つのきっかけに、傍受を防ぐデジタル暗号方式への移行が本格的に進められたと言われている。
事件をきっかけに、コバンザメ犯罪と呼ばれる模倣の脅迫があちこちで多発したことも忘れちゃいけない。1985年から1986年にかけては、別の食品企業を狙った模倣的な脅迫事件も起きている。中には水面下での取引が行われた例や、何年もたってから逮捕にまでつながった例も確認されている。影響は海外にも及んだ。台湾でも千面人と呼ばれる模倣犯罪が起きている。
脚本みたいに噛み合った事件
40年以上たっても、グリコ・森永事件は捕まらなかった犯罪として日本人の記憶に生きている。迷宮入りだけが理由じゃない。ひらがなの挑発的な脅迫状、店頭から一斉に消えていく菓子、記号になったキツネ目の人物像がそろっていた。
そこへ、自殺した警察官への香典代わりという常識外れの終息宣言まで加わる。まるで誰かの設計図だ。どれもが芝居の脚本みたいに噛み合っていたからこそ、事件そのものが一つの物語として消費され続けているんだろう。
ただ、その物語の強さのせいで、特定の地域や集団を根拠なく疑う危ない言説が紛れ込んだ歴史もある。そこは忘れちゃいけない。捜査に協力した無数の市民がいて、責任を負って命を絶った警察官がいた。今も自分の半生を事件と結び付けられ続ける関係者たちもいる。それを思えば、この事件を痛快な愉快犯の伝説として無邪気に語ることには、いつも一定の慎重さが要る。
終わらない怪談
真犯人が誰だったのかは、法的にはもう誰にも確定できない。できるのは、確かな事実と仮説どまりの諸説を丁寧に分けておくことくらいだ。そのうえで、この昭和最大の劇場型犯罪が社会に何を突きつけたのかを、繰り返し考え直していくしかない。それが今できることだ。
かい人21面相を名乗った者たちの本当の姿は、時効という制度に守られたまま、今も誰にも見えていない。法の裁きは二度とない。それでも、いつか誰かが実名で名乗り出るかもしれないという都市伝説は消えずに残っている。その噂がある限り、この事件は令和の今も、日本人にとって終わらない怪談として話され続けていくはずだ。
