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脳みそ売買事件(明治39年・1906年、神奈川県)

明治三十九年、いまの神奈川県で人間の脳がひそかに売買された。火葬場から持ち出された脳は、西洋医学の研究材料、あるいは難病に効く薬として買われた。関係者はいたが、真相は闇に消えた――。

「脳みそ売買事件」という題名を見れば、だいたいこんな筋書きが浮かぶ。ところが、元になったウェブ記事が記しているのは、たった数行だ。「神奈川県で人間の脳が売買されたとされる」、「医学研究や呪術目的が推測されるが真相不明」。読めるのはこれで全部だ。

犯行場所も発覚日も被疑者も出てこない。被害者数、買い手、警察署、裁判所、新聞名も同じだ。示されているのは、明治三十九年という年と、神奈川県という広い地域だけだ。公開検索では、この条件に合う同時代の事件記録を確認できない。

ただ、昭和初期に、火葬場で遺体の一部を持ち出し、薬になるという迷信のもとで売った事件が複数報じられたことは確認できる。群馬県警察の略年表には、1933年の「桐生火葬場事件」が載っている。明治の話は、こうした実在事件の年代と場所を変えて作られたのかもしれない。

この話には、肝心なものが何ひとつない

事件の実在を確かめるには、誰が何をしたのかを特定できなければならない。元の紹介には、火葬場も病院も大学も登場しない。あるのは「脳が売買された」という行為だけで、脳をどこから得たかさえ書かれていない。

死者の脳だったのか、解剖標本だったのか、動物の脳を人間のものと偽ったのかも分からない。売り手と買い手のどちらが逮捕されたか、そもそも警察事件になったかも不明である。

「真相は不明」という言葉は、捜査しても犯人を特定できなかった事件のように響く。でも、確認できる記録が最初から提示されていない。この状態では、未解決なのか、記事の著者が調べていないだけなのかを分けられない。

題名も、当時そう呼ばれていた保証はない。「脳みそ」は口語的で、当時の新聞なら「脳髄」「脳漿」「死体損壊」「火葬場」あたりの語を使ったのかもしれない。現代の見出しだけで古い資料を検索すると、実在した記事を見落とす。そのくせ後世の創作ばかりが表示される。

明治三十九年の神奈川県、という広すぎる舞台

1906年の神奈川県には、開港から発展した横浜、東海道沿いの町、農漁村、山間部が含まれていた。県名だけでは、横浜の病院を舞台とする理由はない。

後の長文は、異人館と貧民街が隣り合う横浜、医学校、精神病院、薬種商を描き、事件が港町で起きたように語る。ところが、元の数行は横浜と特定していない。神奈川県から横浜を連想し、西洋医学の玄関口という歴史をつないだものだ。

横浜で近代医学が発展した一般史は、脳の闇取引の証拠にならない。「医療機関があったから研究材料を盗んだはずだ、精神病院があったから身寄りのない患者の遺体を使ったはずだ」。こういう推理は、組織と患者へ根拠のない疑いを向ける。

事件が火葬場で起きたという記述も元にはない。後に確認できる昭和の火葬場事件を知った書き手が、同じ入手経路を明治の話へ移した、という筋もありうる。

医学研究のためだった、という説の穴

近代医学は、解剖で人体の構造と病気を研究する。脳の標本も、医学教育と研究に使われてきた。そこから「研究者が脳を必要としたので、違法な市場ができた」という説が生まれやすい。

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