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05|脳みそ売買事件(明治39年・1906年、神奈川県)

星四つなのに、説明はたった二行

明治の怪奇事件を九つ並べたまとめがある。五番目が、明治三十九年の神奈川県を舞台にした「脳みそ売買事件」で、怖さの欄には星が四つ付いていた。ところが、説明は二文しかない。中身は、ほぼゼロ。三行目は、ない。

一文目は、神奈川県で人間の脳が売買されたとされる事件、という紹介だった。二文目は、医療研究か呪術が目的と推測されるが真相は不明、という断り書きだ。日付も、人数も、町の名前もない。誰が売って誰が買ったのかも、どこにも書かれていなかった。

まとめの日付は2025年4月20日。書き手は冒頭で、事実か伝説かを問わず後世に語られている、と断っている。最初から、確かめた話として並べてはいない。星の数だけが、やけに威勢がいい。

だから先に言っておく。この記事は、事件が本当にあったのかを、確かめられる範囲で一つずつ当たっていく話だ。見つかったものと見つからなかったものを、そのまま並べる。筆者の見立てを書くときは、直前に確かめた事実を置いて、見立てだと分かるようにする。

横浜の新聞を明治三十九年にさかのぼる

本当にあった事件なら、新聞が放っておくわけがない。横浜は新聞発祥の地で、地元の紙面を調べる手がかりも多い。横浜市の図書館は、読売新聞を1874年から、朝日新聞を1879年から、毎日新聞を1872年から検索できると案内している。閲覧は、館内の専用端末。

ただ、題号の変遷には罠がある。日本初の日刊紙として横浜で生まれた横浜毎日新聞は、のちに東京へ移り、毎日新聞と名を変えた。不二出版の復刻版の案内によれば、その題号は1906年6月30日で終わる。

神奈川新聞の前身は、1890年の横浜貿易新聞だった。横浜新報、貿易新報と名を替え、1906年12月に横浜貿易新報になる。事件があったとされる年は、六月に一つの題号が消え、十二月にもう一つが改まった年だ。切れ目は、二つ。紙面を探すなら、この切れ目に気をつけたい。

筆者がネット上で読める範囲では、事件を報じた記事は見つからなかった。明治三十九年の神奈川で脳が売られた、という見出しも、日付もない。見つからないことは、無かったことの証明にはならない。念のため、紙面のすべてを読んだわけではない。

ただ、事件の芯になる数字がまったく出てこないのは確かだ。いつ、どこで、何人から、いくらで。そのどれもが、元のまとめには書かれていない。

頭蓋骨も肝も、確かに売られていた

人の体を薬にする商いは、実際にあった。江戸の首切り役だった山田浅右衛門の家は、罪人の肝を干して人胆丸という薬にして売ったと伝わる。大名に並ぶほどの財力があった、とも言われている。薬の名は、人胆丸。

明治3年4月15日、政府は人胆や霊天蓋などの密売を厳しく禁じた。霊天蓋が何を指すのかは、資料で説明が割れる。百科事典の項目は脳髄と書き、薬学雑誌の解説を引いた記事は生首の黒焼きと書く。どちらにしても、頭の話だ。

斬首刑そのものも、明治14年7月の執行を最後に禁じられた。大学のページを書いた人は、それでも生き胆への信仰は消えず、売買の道が地下に潜ったのだろうと見る。山田家には、明治20年代まで人肝の蓄えが残り、買い付けに来る薬屋もいたらしい。

禁止しても、需要は消えなかった。1902年には東京でも大阪でも、人の頭の黒焼きの売買事件が起きている。当時の薬学雑誌の通信を引いた記事によると、全国で墓が暴かれ、黒焼きが梅毒の特効薬とされていたという。

『本草綱目』は全52巻で、最後の巻が、人の体に由来する薬にあてられている。同じ年の薬学雑誌は、その人部を四ページかけて解説し、頭垢、歯垢、胆石、胎盤など三十七種を挙げた。大阪の薬種商の街、道修町は、素人向けの薬だと見て、相手にしなかったそうだ。

脳みその名も、この時代の文章に出てくる。百科事典の項目によると、作家の長谷川時雨は『旧聞日本橋』に、明治中期の話を書いている。肺病の薬だと言われて、霊薬の包みを見せられ、真っ青になったという。中身は、焼いた脳だった。

罰も記録に残る。愛媛の通信は、同じ年の5月30日に、墓の発掘で重禁固1年6か月と罰金10円が科されたと伝える。人の頭の骨を他の薬に混ぜて売った件は、売薬規則違反で罰金30円だった。

明治39年に効いていたのは、明治13年の旧刑法だ。現行の刑法は、翌1907年4月に公布され、施行は1908年10月になる。公布時の条文には、墳墓を発掘した者を二年以下の懲役にする定めがある。旧刑法の中身までは、筆者は確かめられていない。

1909年4月の大阪毎日新聞は、熊本の売薬商が人骨を混ぜた薬を売っていた疑いを報じた。長崎の物置からは、頭蓋骨が19個、ほかの骨と合わせて七十キロあまり出た。海岸の共同墓地にも、髑髏が百以上埋められていたという。

出てくるのは、肝と、肉と、骨だ。脳そのものを売った、とはっきり読める記事は、筆者が見た範囲の明治の紙面には見当たらなかった。脳が前に出てくるのは、昭和に入ってからになる。明治の紙面に、脳の売買は未確認。

霊天蓋の説明は、脳髄と生首の黒焼きに割れていた。筆者の見立てでは、明治の売り手と買い手にとって、頭の薬と脳の薬の境目は曖昧だったのかもしれない。そうなら、脳は黒焼きの陰に隠れていたことになる。裏は取れていない。

火消し壺から、焼けた首が出てきた

1902年2月9日の午前3時ごろ、大阪東署の刑事三人が、日本橋の古い家を訪ねた。常に異臭がして、物音もすると、近所から届いていた家だ。土間の火消し壺の蓋を開けると、歯まで揃った黒焼きの生首が入っていた。壺の中身は、人の首。

庭からも二つ見つかった。住人の生業は薬の製造で、蛇や蛙を黒焼きにして行商人に売っていたという。共同墓地の管理人と組んで、新しい墓から首を取った疑いがかかった。捕まったのは、二人。頭蓋骨の形が残るほうが、粉より高値で取引されたという記事もある。

大阪毎日新聞は、二十世紀の一大怪事と題して連日書いた。野蛮未開の国ならいざ知らず、と迷信をばっさり切る論調だったという。報道は、3月ごろに途切れた。偏った報道や噂話が独り歩きしたと、大阪府警察史は見ているらしい。

争点は、頭蓋骨を盗んだのか拾ったのかだけになった。拾ったという供述が通って、二人は釈放された。黒焼きを作る現場を見た者は、一人もいない。裁判で確かめられたのは、結局そこまで。

同じ1906年に、確かに起きていた事件

明治三十九年には、人体を薬にする事件が、別の場所で紙面を騒がせていた。一つは東京の野口男三郎だ。1902年3月、麹町の路地裏で11歳の少年が殺され、尻の肉が切り取られた。男の逮捕は、1905年5月。

東京地方裁判所の判決は、1906年5月に出た。少年殺しと義兄殺しは証拠不十分で無罪、薬店主への強盗殺人は有罪で死刑だった。日付は、事典が5月15日、大学のページが5月16日と書き、食い違う。執行は、1908年7月2日。

自白によれば、動機は義兄の病を人の肉で治そうとしたことだった。男は法廷で否認し、この件は無罪になっている。経営難だった独歩社が、売れるものをと考え、1906年に男の獄中の手記を本にした。演歌師が歌う男三郎の唄も、流行ったという。

もう一つは長野県の連続殺人で、通称を肝取り勝太郎事件という。上伊那郡朝日村、いまの辰野町で、1905年から1907年にかけて女性ら6人が殺され、肝が抜かれた。1906年8月には、母子と若い女性の遺体が見つかっている。被害は、6人。

犯人は1907年8月に捕まり、1908年6月に執行された。人肝を売る目的だったと、事典は書く。事典は期間を1905年から1907年とするが、怪奇事件を紹介する記事の一部は、この事件を1906年に置いている。年の食い違い。

脳が売られたのは、火葬場の夜だった

脳そのものの売買が、はっきり記録に出てくるのは昭和だ。1933年4月、群馬県桐生市の火葬場で、近所の子どもたちが遊んでいて、異臭に気づいた。野犬が何かをくわえて引きずり出していた、と火葬場事件簿という本の抜粋は書く。現場は、渡良瀬川の河川敷の雑木林。

事典によれば、14日に白骨が見つかり、15日に火葬人の男が自供した。指された場所を掘ると、頭頂骨を割って脳漿を取り出した遺体が38体出てきた。16日には85体が見つかり、解剖すると、どれも病死で、他殺の疑いはゼロ。

85体のうち、子どもは20体。同じ時期に、目黒の西郷山で貰い子殺しの遺体が見つかっていた。世間は、第二の西郷山事件かと疑って、噂が広がっていく。解剖の結果が、その疑いを消した。

男は、少しのチップで夜通し焼くのは面倒だから半焼けにして埋めた、と話した。金歯を抜き、迷信を信じる人に頼まれて脳漿を取り、売っていたらしい。数は覚えていない、とも述べている。行き先は、迷信家。

火葬場が市の直営に変わり、男は1933年3月末で解雇されていた。解雇のあとも、火葬場にいた。新しい火葬人が慣れるまで、市の臨時職員として残ったのだ。桐生や足利で豪遊していたと、事典は書く。別の記事は、火葬場の煙がすぐ消えるのを近所が怪しみ、薪の納入量も妙に少なかったと伝える。

発掘数は資料で違う。事典は火葬場付近から約80体と書くが、別の記事は、最終的に1570体が埋まっていたと書く。同じ事件の数字とは思えないほど、開きがある。どちらが正しいか、筆者には確かめられなかった。

判決も同じだ。別の記事は前橋地裁が懲役5年と3年を言い渡したと書くが、事典に判決の記載はなく、裏は取れなかった。市長は4月17日に辞表を出し、市議会に推されて四十日後に戻っている。

当時の新聞の見出しは、火葬場のグロだったと、国会図書館で紙面を調べた元火葬場職員は語る。事典は、昭和聖代の大不祥事件、世界的グロ事件という騒がれ方を記す。海を渡って、ブラジルの邦字新聞まで、桐生の死体埋蔵を報じた。紙面の言葉は、グロ。

火葬場は閉鎖され、1935年に新しい火葬場が建って慰霊祭も開かれたが、別の記事は、発覚から一か月足らずの4月22日にも市主催の慰霊祭があったと書く。慰霊祭は、二度あった。慰霊の言葉には、二度と繰り返さないという誓いも入っていたという。

桐生のあと、同じ手口が各地で表に出た。三重県鳥羽では、職員が1931年から1933年9月まで約500体の脳漿を取り、黒焼きにして、性病の妙薬だと称して売ったという。値は、ひとつ3円から20円ほどと本の抜粋は書き、別の記事は20円と書く。売上は生活費と遊びに消えたと、当時の報道は伝える。

埼玉の越谷には、桐生の前から、火葬場の職員が脳漿を取っているという噂があった。はじめは怪聞だと取り合わなかったが、桐生を受けて、にわかに現実味を帯びたらしい。1933年11月、44歳の職員が捕まった。噂は、事実だった。

年表に並べると、順序が見える。函館の自白は1932年4月、桐生の発覚は1933年4月、越谷の逮捕は同じ年の11月だ。鳥羽の職員は、1931年から1933年9月まで、脳漿を取り続けていた。どれも、昭和の初めだ。明治三十九年から、二十五年以上もあとの話になる。

半焼けの遺体と、わずかなチップ

なぜ火葬場だったのか。明治から大正にかけて、火葬の技術は未熟で、遺体が焼け上がるまで一晩かかることもあった。だから火葬場には、住み込みの番人が欠かせなかったと、ある記事は説明する。

その火葬場は、人里離れた山の中にあることが多かった。明治17年の墓地及埋葬取締規則を受けた細目の素案は、火葬場を人家から120間、約216メートル以上離すよう求めている。目立たないように焼け、という考え方だ。規則の距離は、216メートル。

ここから先は筆者の見立てだ。人家から遠ざけ、夜通し見張らせる仕組みは、番人を遺体と二人きりにする仕組みでもあった。桐生の男は、チップの少なさを理由に半焼けを選んだと話している。

買い手の側も見ておきたい。肺病とは、いまの結核のことだ。1904年に初めて結核予防の法令ができても、死亡者は年に10万人以上で、大正の中ごろまで増える傾向だった。厚生労働白書は、そう整理している。

栃木の鹿沼町営火葬場の職員は、薬種商から脳漿を取ってきてくれと頼まれていた。前夜に遺体の頭を割って脳を取り、物置に隠したが、故人の親戚に見つかり、通報された。この件は、年が昭和元年とも1925年とも書かれていて、食い違う。売る前の、未遂。

越谷の職員も、依頼人から謝礼をもらって脳漿を渡していた。肺病の薬になるから取ってきてほしい、という頼みだったと、本の抜粋は書く。1931年から数回に及んだという。火葬場の男が一人で始めた商いではなかったんだよな。

鹿沼では薬種商が、越谷では依頼人が、のちに触れる函館では米穀商が、脳漿を求めていた。買い手の顔ぶれは、薬屋から一般の人まで広い。筆者の見立てでは、需要の底にあったのは肺病という身近な病で、大きな闇市場より家の事情に近い。

もう一つ、桐生の事件が残した傷がある。元火葬場職員の書き手は、取材に、火葬場は危険で働く人も危ない、という認識が広まったのかもしれないと答えている。多くの職員は真面目に働いているのに、と本人は語る。

横浜の丘に、脳の入口はあったか

では、明治の横浜に、脳が流れる道はあったのか。火葬場から見ていこう。1874年に久保山に共葬墓地ができ、野毛町と長者町の寺の墓が移された。火葬場は翌1875年6月に民営で始まり、のちに横浜市が受け継いだ。引き継ぎの年は、確かめられなかった。

病院はどうか。野毛にあった官民合資の病院が、1874年2月に県立の十全医院になった。同じ年の秋には、医学研究のための人体解剖を、初めて行ったと記念誌は記す。のち1891年には、横浜市へ移っている。

医学校は、横浜にはなかった。1876年末に神奈川県へ設立伺いを出したが、翌年7月に医学教育は東京大学へ一任となり、実現しなかった。横浜に医科の学校ができるのは、1944年の横浜市立医学専門学校だ。

解剖用の遺体には、決まった道があった。1870年10月、東京大学の前身は、刑死者と引き取り手のない獄死者などの遺体を解剖に使う許可を得ている。横浜の病院がどう遺体を集めたかまでは、確かめられなかった。

精神病院はどうか。いまの神奈川県立精神医療センターは、1929年3月に芹香院として開いた。精神病院法に基づく三番目の府県立だ。明治の横浜にあったのは、1889年に南太田町にできた救護所で、行旅病人と精神病者を預かっていた。市の直営は、1902年から。

1915年の時点で、県内の精神病院は横浜脳病院だけだったと、近代日本精神医療史研究会の記事は整理する。1906年の数は、確かめられなかった。病院の関係者が脳を持ち出したという筋書きは、少なくとも、数のうえでは細い。

昭和の火葬場事件には、三つの条件が揃っていた。夜通し焼く番人と、わずかなチップと、薬を探す依頼人だ。明治の横浜の久保山で、同じ三つの条件が揃っていたことを示す資料は、筆者の調べた範囲では見つからなかった。揃ったのは、昭和のほうだ。

筆者の見立てでは、研究が目的なら、闇で脳を買う必要は薄かった。ただ、これは確かめた事実とは言えず、解剖の道があったことからの推測にすぎない。横浜の丘には、病院も、墓も、火葬場もあった。脳の取引だけが、記録のどこにも出てこない。

名前はあとから貼られた

まとめと同じサイトには、事件ごとの別記事もある。脳みそ売買の回は、1906年の読売新聞に断片的な記述があるという。見出しも日付も、紙面の位置も示されていない。警視庁史や神奈川の警察記録にも、捜査記録はない、とも書く。

警視庁は東京の警察だ。神奈川の事件を載せる本ではない。そこに載っていないことは、何の証明にもならない。

同じ記事は、港の労働者や漁師が、夜の埠頭で怪しい人影と異臭を感じ、脳を売る声を聞いたと語った、と書く。脳のような物体が入った包みを見た、という話も添えられている。誰が、いつ、どの埠頭でかは、一つも書かれていない。語り手は、名もない漁師。

同じサイトの生首黒焼きの回も、警察記録に捜査記録はない、と書く。けれど大阪の事件は、大阪毎日新聞が連日報じ、大阪府警察史にも載っている。記録がないという書き方は、記録がある事件にも付いていたことになる。

一覧のほかの事件も当たってみると、臀肉の事件は、まとめでは貧困層の地域の話だが、現場は東京の中心の麹町だった。肝取り勝太郎は1906年と書かれ、事典の1905年から1907年とずれる。火葬場人肉切売りは、明治44年の長崎県とある。

当時の新聞に、佐世保の火葬場で人肉の切り売りが捕まったという報道が実際にあった。筆者が調べた四つは、どれも出どころが見つかった。脳だけが空いている。

当時の記事が使った言葉も見ておく。函館や桐生の件は脳漿、霊天蓋の説明は脳髄、長谷川時雨は焼いた脳と書いている。筆者の見立てでは、「脳みそ」という砕けた呼び名は、当時の記事の語感から遠く、あとの時代の題名に近い。名前の匂いは、新しい。

筆者の見立てでは、脳みそ売買の名は、隣の事件から年と空気を借りて貼られたものに見える。根拠は二つある。確かめられる脳の売買が、昭和の火葬場だけだったこと。もう一つは、見出しも日付も、どこにも見当たらないことだ。

星を四つ付けた理由を、まとめは、脳の売買という題材と不気味さだと説明する。確かめた結果は、理由に入っていない。星の欄は、怖さを先に見せる。読む人は、確かめる前に怖がることになる。筆者の見立てでは、確かめる手間のかからない話ほど、一覧の中で長く生き残る。

ちなみに、昭和7年に横浜の精神病院で、53歳の男が死んだ患者の首を切って業者へ売ろうとした、と触れた記事が一本ある。年月日も出どころも示されておらず、裏は取れなかった。当たっていたとしても、明治ではなく昭和の話になる。

姉に飲ませた脳漿

函館の火葬場の職員は、1932年4月に、警察の取り調べを受けて、遺体から脳を取って売ったと自白した。桐生より1年早い。34歳だった。依頼したのは、同じ街の米穀商の男だ。遺体から脳漿70匁、約260グラムを取り、10円で売ったという。

脳漿は、脳のまわりを満たす液だと、本の抜粋は説明する。ところが260グラムは、液だけで取れる量ではない。成人の脳脊髄液は、全部で150ミリリットルほどと言われる。筆者の見立てでは、当時の記事が脳漿と呼んだものには、液だけでなく、脳そのものも含まれていた。

記事は、いまの価値で五万円ほどと換算する。買った米穀商の男は、それを自分の姉に飲ませた。姉は、長く肺病を患う身。効き目は、なかった。

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