五十メートルとも百メートルとも書かれた崖
辞典を三冊ひくと、崖の高さが三通りに出てくる。日本大百科全書は約50メートルで、ブリタニカ国際大百科事典は約100メートル。世界大百科事典になると、百数十メートルまで跳ね上がる。勝浦市の案内は「数十メートル」とだけ書き、県内の観光案内には約20メートルとするものまである。高さだけで、割れるんだよな。
崖の成り立ちの書き方も揃わず、日本大百科全書は海食崖と呼び、世界大百科事典とブリタニカは断層崖と呼ぶ。長さは約4キロでそこだけは一致していて、千葉県の勝浦市の西の端から鴨川市にかけて、太平洋に面した断崖が続く。世界大百科事典は鴨川市の旧天津小湊町と勝浦市の境界、ブリタニカは興津と鴨川市東部の間と書く。どちらも境目の崖だ。
いまの国道128号はトンネルで抜けるので、崖の中腹を通っていた旧道は、通る道ではなくなった。入口はバリケードで閉じられ、ガードレールもない。最寄りは行川アイランド駅で、勝浦市の案内では、歩いて10分ほどで崖に着く。入場は無料で、駐車場もある。
駅名に残る行川アイランドは、1964年8月に開園した南国風の遊園施設だった。フラミンゴのショーとクジャクの飛行が名物で、93種1,068点の動物を飼っていたという。2001年8月に閉園し、いまは駅だけが無人のまま同じ名前で使われている。
江戸の頃、外房の海沿いの道は、間道程度にすぎなかったと事典は書く。海岸の道が整ったのは明治に入ってからで、1929年には崖の部分をトンネルで結ぶ鉄道が開いた。崖の上を歩いて越える旅人は、そこから少しずつ減っていった。
お仙は自分で飛んだのか、落とされたのか
崖の名前は、お仙という娘から来ている。千葉県が公開している民話では、お仙は古仙家という領主の一人娘だ。13歳のとき、贅沢をしたくないからと、両親に着物を木綿にしてほしいと願い出た。
18歳の年は豊作で、領主は年貢を「6分4分」と決める。領主が6、百姓が4を取る割合だ。お仙は「きれいな着物も、ぜいたくな食べ物もほしくありません」と父に訴えたが、聞き入れられなかった。
秋祭りの夜、酔いつぶれた領主を、若者たちが断崖から投げ落とした。翌朝、浜で見つかったのは、父の衣裳を着たお仙。娘が身代わりになっていたのだ。この出来事から、崖は「おせんころがし」と呼ばれるようになったという。県のページは、出典として広報かつうらの579号と581号を挙げている。
勝浦市の公式ページの書き方は、少し違う。強欲で横暴な父を改心させようとして叶わず、お仙は自分でこの崖から身を投げた、という筋で、命をかけて父を諌めた話になる。県の民話は落とされた娘を語り、市のページは飛んだ娘を語って、同じ崖の同じ娘なのに、死に方が逆になる。観光案内サイトに載る供養塔の名は「孝女・おせんの身投げ供養塔」で、碑の名は飛んだほうの話を採っている。
事典もばらける。日本大百科全書は、父の悪業を改めさせるために海へ身を投じた話と、突風で落ちた話を並べ、悲恋の伝説にも触れる。ブリタニカ国際大百科事典の項目では、嵐の夜に母の薬を求めて出かけた孝行娘が、小道を踏み外して転げ落ちる。
民話を紹介する別の解説サイトには、さらに二つの型がある。病気の父を看病するお仙に目をつけた代官が、断った父を簀巻きにして放り出し、身代わりになったお仙が役人に突き落とされる話。後妻にいじめられ、萱刈りの名目で崖の上に呼び出されて、突き落とされる話。
並べてみると、落ちる理由は、諫死、身代わり、悪い役人、継母、事故、悲恋と、ばらばらだ。共通するのは三つだけ。娘が崖から落ちる。そばに親がいる。娘に落ち度がない。
ここからは筆者の見立てになる。語られているのは出来事の記録というより、崖の名前の理由だろう。「ころがし」という名にふさわしい転落の話が先にあって、理由は語り手ごとに後から付いた。そう考えると、六通りの理由が並ぶのも自然に見える。
供養塔の名にある孝女は、親孝行の娘という意味だ。父を諌めた娘も、父の身代わりになった娘も、母の薬を探した娘も、親のために落ちている。落ち度がないだけでなく孝行でもあって、悲しい話ほど、娘は正しくなっていく。
突風の話は、荒唐無稽でもない。行川アイランド駅と安房小湊駅のあいだは、強風で速度規制や運転中止になりやすいと、駅の事典は書く。崖の上の旧道は、海から吹き上げる風を、まともに受ける場所だったかもしれない。
旅の母子三人惨殺さる
1951年10月10日の夜、四人連れの母子が、外房の駅にいた。母親と、子ども三人。行商に出ていた夫を探していたと事典は書く。駅の名は、上総興津駅とする事典と、勝浦駅とする解説があって、資料によって割れる。
駅で、一人の男が声をかけた。家まで送る、あるいは夫の知人の家がある、と言って誘ったと伝わる。男は母子を連れて、夜の道を崖のほうへ向かった。そんな家は、最初からなかった。
日付が変わった10月11日の午前1時ごろ、場所は当時の小湊町、いまの鴨川市の側とされる崖だ。母親が襲われ、母親と、幼い長男と、次女の三人が亡くなった。母子の名前は、当時の紙面にも資料にも出てくるが、ここでは書かない。細部も、必要な分で止める。
長女だけが生き残った。崖の途中の茂みにじっと身を潜めていて男に見つからず、翌朝に助けられたと、複数の解説が書く。年齢は7歳、9歳、11歳と資料ごとに違い、決め手がないので、ここでは書かない。
この事件には、呼び名のややこしさもある。おせんころがし殺人事件という名は、母子の事件を指すとともに、同じ男が起こした7人の連続殺人の総称としても使われる。事典の項目も、その二つの意味を並べて書いている。
父は白、流しの痴漢?
事件の翌日から、地元紙の千葉新聞が追っている。国立国会図書館のレファレンス協同データベースに、その見出しの控えがある。10月12日の1面は、「旅の母子三人惨殺さる」の大見出しだった。生活苦の犯行かと書き、行方の分からなかった父親を指名手配した、と報じている。
見出しから見える最初の筋は、生活に追われた父親の犯行だ。旅の母子が崖で死ねば、まず家族を疑うもので、当時の捜査も、そこから始まったように読める。紙面はマイクロフィルムの形で、国立国会図書館に収められている。この回答が図書館に登録されたのは、2018年3月。事件から67年たって、誰かがこの見出しを探した。
翌13日の1面は「父は白、流しの痴漢? おせんころがしの母子殺し」。疑われた父親は、一日で白に変わった。14日は「母子足取、判らず」。15日は「捜査範囲狭まる おせん転がし殺人 母子の推定足取り」。
「流し」とは、一つの土地に居着かず、渡り歩く者を指す言葉だ。疑いは、父親から通りすがりの男へ移った。旅の途中の母子が、誰とどこで会ったのか、犯人につながる糸が見えなかった。
16日の2面には「涙も新たに 母子三人の霊永遠の旅へ」とあり、三人の弔いを伝える見出しだろう。疑い、否定、足取り探し、弔い。見出しを順に読むだけで、五日間の捜査がどこで足踏みしたのかが分かる。
ちなみに、同じ週の紙面で、事件名は「おせんころがし」と「おせん転がし」の二通りに書かれている。場所も、小湊町とする事典と、興津町と書く図書館への質問があって、揃わない。崖が二つの市にまたがるせいかもしれない。
検見川の民家に残った指紋
事件の3か月後、1952年1月13日。千葉郡検見川町、いまの千葉市花見川区の民家で、叔母と姪の二人が殺された。男は以前に盗みに入った家へ、また忍び込んだという。現場には指紋が残った。
1月17日、千葉県警が窃盗の容疑で逮捕したのは、栗田源蔵という男だった。大正15年、1926年の生まれで、秋田県の出身だ。翌18日の未明には、検見川の件を認めたと伝わる。
取り調べが進むと、静岡と栃木での殺人も口にした。ただ、おせんころがしの母子だけは、頑なに否認したという。鉄人社の文庫『戦後まもない日本で起きた30の怖い事件』を載せた、文春オンラインの記事の記述だ。長女の記憶と、現場の状況と、男の言い分のあいだに、食い違いがあったことになる。
静岡の件は1948年で、海岸で、三角関係のもつれから交際していた女性を殺している。栃木の件は1951年8月で、小山で主婦が殺された。日にちは、8日とも9日とも書かれる。乳児が一人、命を取りとめた。
被害者の数には7人と8人があり、静岡では女性二人を殺したと本人が供述したが、立件されたのは一人だけだった。静岡で一人、栃木で一人、母子で三人、検見川で二人を数えると、立件された分で7人になり、供述を入れれば8人になる。数え方の違いなんだよな。
夜尿症で嫌われた三男
栗田は、秋田県雄勝郡の新成村、いまの羽後町にあたる土地の、極貧の家に生まれた。12人きょうだいの三男で、父は体の弱い川漁師。物心がついた頃から夜尿症が治らず、尿のにおいで学校でいじめられた。
小学校は3年で中退した。農家に下男として奉公に出たが、夜尿症を嫌われて、1年に10回以上も奉公先を替えたと事典は書く。1945年、19歳で徴兵されたが、弘前の歩兵第31連隊に入って、夜尿症が理由で2か月ほどで除隊になった。
戦後は北海道の炭鉱で働き、のちにヤミ商売のブローカーになる。ヤミ米を扱う集団の頭目として「ハヤブサの源」と呼ばれた、と文春オンラインは書く。生い立ちだけを見れば、気の毒な少年の像が浮かぶが、被害者から見れば、何の関係もない話だ。先に言っておくけれど、この生い立ちは犯行の言い訳にならない。
本人は獄中で「懺悔録」という手記を書いたが、出版は断られたと事典は書く。のちに、加藤美希雄の編集で『凌辱』という本が出た。あまとりあ社から1963年に出た221ページの本で、副題は「この罪を負って私は地獄へ堕ちる」。古書店の目録には、栗田源蔵が原文、加藤美希雄が編集と書かれていて、手記の内容は、この本から引く解説がある。
手記には、9歳の頃に近所の老人から吹き込まれた言葉が、のちの犯行の型になったという趣旨の記述がある。手記の言葉は、そのまま事実とは限らない。本人の言い分であって、裏を取る手立ては見つからなかった。
二つの死刑判決と、取り下げられた控訴
千葉地方裁判所は1952年8月13日、検見川の二人殺しで死刑を言い渡す。千葉新聞は翌14日の3面で、「検見川二人殺し死刑」と伝えた。日付は、事典とも一致する。
ほかの事件を併せて審理した宇都宮地方裁判所は、1953年12月21日に、もう一度死刑を言い渡す。22日の3面の見出しは「栗田、死刑の判決」だった。一人の被告に死刑判決が二つ出たのは、日本の裁判で初めてだったと、複数の資料が書く。次の例が出るのは、1980年代の別の連続殺人の裁判になるという。
栗田は控訴した。だが途中で取り下げ、死刑は1954年10月に確定する。確定の日を文春オンラインは10月21日と書き、事件の資料サイトによれば、千葉新聞に23日付で「栗田の死刑判決確定」という見出しがある。取り下げの理由は、資料に書かれていない。
確定のあと、本人は再審の申し立てを繰り返した。精神科医に会うと、生きたいという願いと、夜ごとの悪夢の苦しみを訴えたと、文春オンラインは書く。控訴は自分で取り下げたのに、確定してからは命にしがみつく、その落差を、今回読んだ資料は説明していない。
1956年2月、東京拘置所から宮城刑務所の仙台拘置支所へ移された。死刑の執行設備がある施設だと、事件の資料サイトは書く。1959年10月14日、宮城刑務所で死刑が執行された。夜尿症は、執行の直前まで治らなかったと伝わる。
国会で名前が読み上げられた日
1956年、国会で死刑を残すかどうかが大きな議題になった。参議院の法務委員会は、死刑廃止を含む刑法等の一部を改正する法律案について、賛成と反対の両方の意見を持つ人を呼んで、公聴会を開くことにした。4月12日の会議では5月7日と8日が目安で、18日の会議で10日と11日に決まる。いずれも午前10時からだった。
呼ばれる公述人は、学者、法律家、宗教家、作家、教育者、婦人団体の代表と、多方面にわたる。裁判所と法務省からは各一人で、それぞれの省庁の推薦による。被害者の親族の立場の人も人選に入っていて、死刑の話は、条文だけでは済まない。人選の顔ぶれを見ると、委員会もそこを意識していたように読める。
10日、最高検察庁の検事が公述人として立った。「論より証拠」と前置きして、いま裁判所がどんな行為に死刑を言い渡しているのか、実例を一つ紹介する、と切り出した。被告は栗田源蔵、大正15年11月3日の生まれ、罪名は強盗強姦殺人。そう読み上げられている。
事件の内容を述べたあと、検事はこう続けた。「かくのごとく、この種の犯罪になりますると、ひんぴんとしてかくのごとき犯行を繰り返すのであります」。死刑をなくせという議論に、現実の判決例をぶつける形だった。
余談になるが、会議録の検事は、判決が確定したのを昭和28年12月21日と述べている。ほかの資料では、その日は宇都宮の一審判決の日で、確定は翌年10月だ。言い間違いなのか、速記の誤りなのか、確かめる手立ては見つからなかった。
翌11日、婦人団体の公述人が、前日に別の公述人が栗田という凶悪な犯罪者を挙げた、と引き合いに出している。たった一日で、一つの事件が議場の共通の話題になっていた。事典は、栗田が死刑存置論の側から凶悪犯の代表として挙げられたと書く。
この日、東京大学の犯罪学者も公述人として立った。死刑の判決を受けた者15名と、無期刑の者147名を、個別に審査した資料をもとに話している。学者は、その中から、耳と口の不自由な青年の例を最初に挙げている。検事が持ち込んだのは一件の実例で、学者が持ち込んだのは162人分の調べだった。同じ議場に、種類の違う二つの証拠が並んだことになる。
会議録は、国立国会図書館の国会会議録検索システムで、いまも誰でも読める。検索窓に栗田源蔵と打ち込むと、10日の公述人の発言が出てくる。名前が読み上げられた被告は、その3年後に刑が執行された。
呼び名を並べると、見出しの向きが変わっていく。1951年の紙面は「母子三人」と被害者を前に出し、1952年夏の判決は「検見川二人殺し」と事件の名で呼んだ。1953年の暮れには、「栗田」と犯人の名が見出しに立つ。
1956年の議場でも、読み上げられたのは犯人の名前だった。母子の名は、事件名にならなかった。事件名になったのは、崖の名。
筆者の見立てを書いておく。この事件が選ばれた理由は会議録に書かれていないが、判決が二度出ていて、被害者に幼い子どもが含まれる。廃止論を前にして、聞く側の感情を動かす材料としては、これ以上のものが少なかったのかもしれない。
1966年に時効、という数字
ネット上の紹介の中には、この事件を未解決と書くものがある。犯人は捕まらないまま、1966年に時効が成立した、という筋書きだ。まあ、聞けばもっともらしい。その紹介は、観光地のイメージを守るために事件が地元の記憶から消え、若い世代は事件を知らないとも書く。裏づけは、見つからなかった。
記録は反対のことを言う。1952年1月に逮捕、判決が二度、1959年10月14日に刑の執行。判決の見出しは千葉新聞にも載り、図書館の控えにも残るから、都市伝説の域と呼ぶのは無理がある。事件の夜から執行まで、8年。1966年は、まだ7年先だった。
では、1966年という数字はどこから来たのか、出どころは分からないが、算術は合う。当時の刑事訴訟法では、死刑にあたる罪の公訴時効は15年だった。国立国会図書館の調査資料も、2004年の改正でこれが15年から25年に延びたと書く。1951年に15年を足すと、ちょうど1966年になる。
ここは筆者の見立てだ。犯人不明のまま時効を迎えた怖い事件、という型の物語に、15年という数字が後から当てはめられたのかもしれない。確かめる資料は、なかった。念のため書いておくと、2010年の改正で、人を死亡させた罪のうち死刑にあたるものの時効は廃止されている。
書き込みの中で重なる二つの話
心霊系の投稿サイトには、おせんころがしの項目に、2000年代の書き込みが並ぶ。殺人や自殺が多かった、地元の人でも夜は歩きたがらない、といった2009年6月の書き込みがある。トンネルを自転車で抜けたあとで家に異変があった、という書き込みもある。どれも投稿者の自己申告で、確かめようがない。
2006年9月の書き込みには、夜10時に大勢で訪れ、トンネルの中でぶら下がるものを見た、という話がある。あとで、それが植物のつるだったと分かったという。暗いトンネルの中で、人はつるを何かに見間違える。そう確かめた人がいた、という例だ。
2004年8月の書き込みは、子連れの女性が乱暴されて殺された絶壁だと書く。同じ項目の中で、おせんという女性が飛び降りたのが地名の由来だと続ける。昭和の事件と民話のお仙が、一つの項目の中で隣り合っている。
2009年3月の書き込みには、崖のところに小さな女の子が立っていた、という話もある。着物姿で、赤茶けた色に見えたので昔の人だろう、と書き手は続ける。お仙の話が、見る前から頭にあったのではないか、というのは筆者の見立てで、確かめようはない。
2018年に公開された別の調査サイトは、現地に足を運んでいる。結果は、心霊現象は何も起こらず、寂しい雰囲気の場所だと感じた、というものだった。サイトが挙げる現象は心霊写真と体調不良で、危険度は「レベル2」とある。別のサイトのコメント欄には、事件があったのは旧小湊町で、石碑の場所とは違う、という指摘も見える。
碑は勝浦市大沢、事件は鴨川市の側にあって、同じ崖の名で呼ばれながら、行政の区画が分かれている。長女のその後については、今回調べた範囲に、公の資料はなかった。書き込みには噂が出回るが、確認できない話は書かない。
そこで、誰がこの崖の話を保っているのかを見ておく。お仙の話には、県の民話集、広報かつうら、勝浦市の案内、供養塔、おせんころがし地蔵尊がそろう。市の案内を出しているのは生涯学習課で、「ちば眺望100景」にも入る観光名所だ。事件のほうには、確かめた範囲で、市の案内に載る記述も、碑の記録も見つからなかった。
ここも筆者の見立てになる。伝説には維持する仕組みがあって、事件にはない。遺族への配慮から、公の場では語られにくい面もあるのかもしれない。
国道のトンネルの近くから旧道が海のほうへ伸び、その先に孝女お仙の供養塔と地蔵尊が立つ。領民が供養のために建てた、と解説サイトは書き、観光案内サイトは、断崖の縁に柵のない場所が多いと書く。勝浦市の案内は、お仙の話だけを載せている。
