群馬の山で、仲間が仲間を殺した
連合赤軍の内部粛清で、群馬県の山岳ベースで12人がリンチ殺害された。あさま山荘事件の前哨にあたる出来事だ。過激派の狂気を象徴する事件として、名前だけは知られている。
タブー視される理由は、いくつも重なっている。過激派の闇、社会運動の失敗、そして残虐なリンチの詳細。どれもセンシティブで、深掘りされにくい。
2025年の時点で、事件から50年以上が経過している。関係者の服役や死によって、公式な進展はない。Xでは「総括の狂気」「現代カルトとの類似」と語られるが、関心は限定的だ。
群馬県では観光地としての榛名山のイメージを優先する。事件が地元で語られることは、ほとんどない。タブー視は今も強い。被害者の供養はひっそりと行われる。事件は歴史の闇に埋もれる。
噂話としては、ほとんど転がっていない
この事件について、ネット上でまとまって語られている噂の類は見当たらない。怪談や都市伝説の形で独立に流通しているものも、確認できなかった。
記録の側から確認できること
同名または強く関連する独立資料項目が存在することは確認できる。山岳ベース事件という項目で、事件・人物・制度の概略を照合できる。
読むときに気をつけたいこと
先に言っておく。この話にある日時・人数・場所・動機・判決・捜査経過は、個別の確認が必要だ。公的記録、裁判資料、警察発表、同時代報道と、ひとつずつ突き合わせてほしい。「隠蔽」「口封じ」「霊視」「呪い」「異界」「陰謀」といった説明は、独立した裏付けがない限り噂・異説として扱う。
二つの過激派が、山で合流するまで
まずは前提から入る。山岳ベース事件を理解するには、連合赤軍という組織がどうやって生まれたのかを押さえておく必要がある。1960年代後半のベトナム反戦運動、そして1970年の日米安保条約改定阻止闘争、いわゆる70年安保闘争。これが敗北に終わったあと、日本の新左翼運動は急速に先鋭化と分裂を繰り返していた。
共産主義者同盟から分かれた「赤軍派」は、世界同時革命を掲げて武装闘争路線を突き進んだ。1970年には、日航機「よど号」ハイジャック事件を引き起こした一派を北朝鮮へ送り出している。一方の「京浜安保共闘」は、日本共産党(革命左派)神奈川県委員会を母体とする組織だ。交番襲撃などで銃器を獲得しながら、独自の武装闘争を志向していた。
1970年12月の上赤塚交番襲撃事件をきっかけに、両派は接近する。そして1971年7月15日、赤軍派と京浜安保共闘は合流して「連合赤軍」を結成する。赤軍派は資金と組織力を持つが、銃器に乏しい。京浜安保共闘は猟銃を保有する一方で、資金が乏しい。互いの弱点を補い合う形の統合だった。
だがこの合流は、思想的にも組織文化的にも成熟したものではなかった。のちの悲劇の伏線となる。合流直後の1971年8月には、革命左派の内部で「印旛沼事件」が起きている。脱走を図ったメンバー2名が殺害された事件だ。内部粛清の萌芽は、この時点ですでに存在していた。
警察の追及が強まり、両派は都市部での活動を続けることが難しくなる。群馬県や山梨県の山中に、「山岳ベース」と呼ばれる複数のアジトを設営した。そこで軍事訓練と称する共同生活を送るようになる。榛名山(群馬県)や迦葉山、地蔵峠周辺の山林が主な舞台となった。
人里離れた密室状態のなかで、外部との接触を断たれたメンバーたちは、次第に閉鎖的な集団心理に飲み込まれていくことになる。
アジトで起きたこと――「総括」という名の粛清
ここからが本題だ。1971年12月初旬、山梨県の新倉ベースで両派合同の軍事訓練が始まる。発端は、水筒の扱いなど些細な規律違反だった。この訓練の過程で、赤軍派の指導者・森恒夫が特定のメンバーへの批判を主導するようになった。
森は「山を下りた者は殺す」と宣言する。組織からの離脱を、事実上禁じている。12月12日、副委員長格の永田洋子らが榛名ベースに戻る。森との合意事項を、革命左派側のメンバーに伝達した。
12月20日には、森と坂東國男が榛名ベースに合流する。赤軍派と革命左派の非合法部門を統合する「新党」結成が決定された。この頃から、メンバー各自に「総括」を求める空気が急速に強まっていく。
「総括」という言葉は、もともとそこまで物騒なものではない。労働運動や政治運動において、それまでの活動を振り返り、成果と課題を評価する言葉である。だが連合赤軍のなかで、この言葉は変質する。森恒夫によって、「革命戦士の共産主義化」という思想的な自己変革の要求へとねじ曲げられていった。
森は「殴ることは指導である」と位置づける。総括が進まない者への「援助」と称して、暴力を正当化する論理を組み立てていく。12月22日から27日にかけて、特定のメンバー2人への「暴力的総括」が始まる。
12月26日深夜には、恋愛関係にあったとされる男女メンバーへの殴打が加えられたとされる。接吻していたこと。それがすべての理由だった。
以後、仕打ちは「総括の援助」の名のもとに横行するようになった。対象者への食事の供与停止、極寒の屋外での拘束、長時間の正座強要。年が明けても粛清は止まらない。1971年12月31日から1972年2月までの約2か月間に、29人のメンバーのうち12人が死亡したとされる。
死者のなかには、恋人同士とされるメンバー、兄弟関係にあったメンバー、そして妊娠中だったとされる女性メンバーも含まれていた。遺体は証拠隠滅のため、榛名山周辺や旧倉渕村の山林、白沢村などに埋められた。裁判でそう認定されている。
なお、暴力の具体的な手口については、ここでは詳述しない。被害者の尊厳と、遺族への配慮のためだ。
確定判決では、殴打による外傷性の衰弱、極寒環境下での放置、食事供与の停止による衰弱などが死因として認定されている。ここで見落とせないのは、構造そのものだ。指導部は「総括」の基準を恣意的に変え続けた。誰も「合格」と認められることがなかった。これが多数の死者を生んだ、根本的な異常性である。
発覚、そしてあさま山荘へ
連合赤軍の内部では、粛清から逃れようとする脱走者や、警察に発見・逮捕される者が相次いだ。1972年1月から2月にかけて、警察は山中で不審な動きを察知する。捜査を進めるなかで、複数のメンバーを検挙している。
逃亡を続けていた森恒夫、永田洋子ら幹部も、1972年2月17日に妙義山周辺で発見された。抵抗の末に逮捕された。その直後の2月19日、残った坂口弘ら5人のメンバーが事件を起こす。長野県軽井沢町の河合楽器製作所保養所「あさま山荘」に、管理人の妻を人質として立てこもる。
警視庁機動隊と長野県警機動隊が、約9日間にわたって包囲した。攻防戦の末、2月28日に強行突入が行われる。人質は無事救出されたが、機動隊員2人と民間人1人が死亡し、多数の負傷者も出した。
この籠城戦はテレビで生中継され、日本中が固唾を呑んで見守る一大事件となった。だが、事件後の取り調べの過程で、逮捕されたメンバーたちの供述から、山岳ベースで大量のリンチ殺人が行われていた事実が明るみに出る。
世間はあさま山荘の攻防そのものよりも、この「仲間同士の粛清」の異常性に強い衝撃を受けることになった。警察庁はこの事件を「大量リンチ殺害事件」と呼称している。
裁判が終わるまでに、三十年かかった
山岳ベース事件および関連する一連の事件の裁判は、長期にわたって行われた。1970年代から2000年代にかけての話だ。中心的な被告となった永田洋子は、1983年の一審で死刑判決を受ける。直ちに控訴したが、1993年2月19日に最高裁で死刑が確定している。
永田は2001年に再審を請求した。だが東京地方裁判所は、2006年11月28日にこれを棄却した。その後、脳腫瘍のため寝たきりとなる。2011年2月5日、東京拘置所内で脳萎縮と誤嚥性肺炎により病死した。享年65。
死刑は執行されないまま、生涯を終えたことになる。
一方、連合赤軍中央委員会委員長であった森恒夫はどうなったか。逮捕後、獄中で自己批判書を執筆した。キリスト教徒の女性と文通するなど、内省的な様子も見せていたと伝えられる。だが1973年1月1日午後、東京拘置所の独房内で自殺しているのが発見された。満28歳。
森は、裁判で自らの言葉によって粛清の全容を語る機会を持たないまま世を去った。それが事件の全体像解明にとって大きな空白を残した、とも言われている。あさま山荘事件の実行犯だった坂口弘は、無期懲役が確定した。獄中で手記や短歌集を発表している。
坂東國男は、1977年のダッカ日航機ハイジャック事件の際に、超法規的措置で国外に出た。その後は国際手配され、1996年に国内で逮捕・服役した。連合赤軍事件に関わったメンバーの処分やその後の経過は、一人ひとり異なる。確定判決の内容もそれぞれ違う。そこは押さえておきたい。
「総括」はどこから来たのか――異説と争点
「総括」という異様な言葉は、なぜ連合赤軍の内部でここまで暴走したのか。確定した司法判断とは別に、さまざまな分析・異説が語られてきた。一つの見方は、当時の朝鮮労働党が実施していた「生活総和」に注目する。相互批判・思想教育の方式が、何らかの経路で影響を与えたのではないかとする説だ。
ただし、これはあくまで研究者や評論家による推測の域を出ていない。裁判で事実認定された内容ではない。そこは断っておく。
裁判での主要な争点は、また別のところにあった。森恒夫と永田洋子のどちらが、より主導的な役割を果たしたのか。指揮命令系統がどこまで組織的だったのか、それとも現場の暴走だったのか。そこが争われた。
永田は法廷で、自らの責任を一定程度認めている。そのうえで森の主導性を強調する場面もあったとされる。他の被告らの証言との間では、細部の食い違いも指摘されている。
植垣康博や加藤倫教ら、服役後に出所した元メンバーは手記を出版した。内部の実情を独自の視点から語っていて、事件の重層的な理解に資する資料となっている。ただし、これらの手記もあくまで当事者自身の回想だ。裁判記録上の事実認定とは性質が異なる。そこは混ぜないほうがいい。
5ch・まとめブログ・SNSでの語られ方
半世紀以上が経過した現在も、この事件はネットで定番のトピックとなっている。5ch(旧2ch)のオカルト板・ニュース系板や、それらをまとめる個人ブログで繰り返し取り上げられている。「なんJ」系や怖い話系のまとめブログでは、こんな見出しが並ぶ。「山岳ベース事件とかいうあさま山荘事件の影に隠れたガチの闇」。
あさま山荘籠城戦の陰に隠れがちな粛清の実態。それを掘り起こすスレッドが繰り返し立てられ、多くの反応を集めている。こうしたスレッドでの投稿者の反応を見ると、いくつかの傾向が浮かび上がる。一つは、「総括」の理由とされる事柄の理不尽さへの驚愕である。
「化粧をしていたから」「指輪を着けていたから」。後から見れば些細としか思えない理由が、暴力の口実にされた。その点に、多くの投稿者が強い違和感と恐怖を表明している。
ただし、これらの「理由」の詳細については、当事者の手記や伝聞に基づく部分も多い。細部は資料によって語られ方に幅がある。念のため、そこは頭に置いておきたい。
二つ目の傾向は、構造的な不公平さへの指摘だ。「指導部自身は決して総括される側に回らなかった」という書き込みが多く見られる。閉鎖環境における権力の非対称性が、際限のない暴力のエスカレーションを生んだ。この分析は、匿名掲示板の書き込みのなかでも比較的よく練られた考察として、繰り返し引用されている。
三つ目に、事件を「他人事ではない」ものとして受け止める投稿も一定数存在する。「閉鎖的な集団・組織で同調圧力が高まると、現代でも似た構造の暴走が起こりうるのではないか」。カルト問題やブラック企業、オンラインサロンの内部問題になぞらえる書き込みも見られる。
こうした比較はあくまでネット上の一意見だ。学術的に確立された分析ではない。ただ、事件が「過去の特殊な出来事」として片づけられていないことの表れだろう。集団心理の普遍的な危うさを示す事例として、参照され続けている。
X(旧Twitter)上でも、事件が話題に上ることがある。命日や、関連書籍・ドキュメンタリーの放送・出版のタイミングだ。「総括の狂気」「集団心理の恐ろしさ」といったキーワードとともに、名前が浮かんでくる。
ただし、その関心の広がりは限定的だ。世田谷一家殺害事件やグリコ・森永事件のような他の「タブー事件」と比べると、明らかに弱い。事件を知らない若い世代も多い、という指摘も同時に見られる。
当時の政治的文脈や、新左翼運動という時代背景そのもの。令和の感覚からは理解しづらいものになっている。それが関心の広がりを妨げる一因になっている、とも考えられる。
榛名山の周辺には、いま何が残っているか
事件の主要な舞台となった榛名山や、旧倉渕村(現・高崎市)の周辺。現在では観光地としてのイメージが前面に出ている。地元で山岳ベース事件が積極的に語られることは、ほとんどない。
遺体が埋められたとされる地蔵峠付近の現場は、当時の地形をほとんどとどめていない。その後の造成工事によるものだ。近隣の寺院の住職の尽力によって、慰霊碑が建立されている。ただし周辺の開発に伴って、碑自体も複数回の移設を余儀なくされてきたと伝えられている。
もう一つの埋葬現場とされる旧白沢村の周辺も、道路開通など地形の改変を受けてきた。それでも慰霊のための標柱がある一角は、奇跡的に残されているという。
事件の記憶は、公式に大きく取り上げられることがない。ごく限られた形で、静かに継承されている。現地の状況が、その実情を物語っている。
被害者の遺族にとって、事件は思想や政治の議論に回収されるものではない。あくまで家族を理不尽に奪われた、個人的な悲劇であり続けている。
半世紀以上を経てなお、山岳ベース事件は「日本のタブー事件」として語られ続けている。単に猟奇的な事件だから、ではない。閉鎖された集団のなかで、人間の理性はどこまで容易に崩れうるのか。その普遍的な問いを、いまも私たちに突きつけてくるからだろう。
