事件の経緯
- 概要 徳島市でラジオ商の夫婦が自宅で殺害された未解決事件。
- 強盗目的と見られるが、犯人は特定されず、1967年に時効成立。
- 戦後の動乱期の暗い一ページ。
- タブーの理由 戦後復興期の貧困と警察の捜査力不足を映し、被害者家族のプライバシーへの配慮から、地元で語られず、タブー視された。
- 現在の状況 2025年、事件から70年以上が経過し、進展はゼロ。
- 徳島市は阿波おどりなどの観光振興を優先し、事件は地元の歴史からほぼ消えた。
- Xや地元メディアでの言及は皆無で、犯罪史愛好者の間で細々と語られるのみ。
- 未解決の不気味さと古い時代背景が、タブー視を今も根強く残す。
- 詳細はこちら
語られている話
- 該当記述なし
記録から分かること
- 同名または強く関連する独立資料項目が存在することを確認。
- 徳島ラジオ商殺し事件で事件・人物・制度の概略を照合可能。
確認上の注意
- この話にある日時・人数・場所・動機・判決・捜査経過は、公的記録、裁判資料、警察発表、同時代報道で個別確認が必要。
- 「隠蔽」「口封じ」「霊視」「呪い」「異界」「陰謀」などの説明は、独立した裏付けがない限り噂・異説として扱う。
事件が起きたのは1953年(昭和28年)11月5日の未明、徳島市内でラジオなど電気製品を商う「三枝電気店」でのことだった。店主の男性(当時50歳前後)が刃物で刺されて死亡し、内縁の妻として店を切り盛りしていた冨士茂子さん(当時43歳)も負傷した状態で発見された。
強盗目的の押し込みとみる向きが当初は強く、地元警察はまず市内の暴力団関係者2名を逮捕したものの、うち1名が自供したにもかかわらず証拠不十分で不起訴となり、捜査は早々に行き詰まった。 捜査が大きく方向転換したのは、事件から8カ月後の1954年6月のことである。
「強気の田辺」の異名で知られていたとされる田辺光夫検事正が指揮を執り、店に住み込みで働いていた少年店員2名(当時17歳と16歳)を別件で身柄拘束した。
それぞれ45日間、28日間という長期の勾留のなかで、少年たちは繰り返し取り調べを受け、最終的に「冨士茂子が犯人である」という趣旨の供述調書に署名させられた。この供述は後年、少年たち自身によって「検事に強要されたものだった」と告白されることになる、いわゆる誘導・強要による虚偽自白だったとみられている。
物証がほとんどないまま、内縁関係にあった生活への不満を動機とする筋書きが組み立てられ、冨士は逮捕・起訴された。
裁判は徳島地方裁判所で争われ、1956年4月18日、懲役13年の有罪判決が言い渡された。冨士側は控訴したが、高松高等裁判所は1957年12月21日付でこれを棄却。さらに上告して最高裁での審理を求めたものの、裁判費用が尽きたことなどを理由に1958年5月10日、上告を取り下げざるを得なくなり、懲役13年の刑が確定した。
冨士は刑務所で「模範囚」として服役しながら、無実を訴え続け、第1次から第3次にわたる再審請求を次々と起こしていく。獄中生活の中でも、店員だった少年の一人が「検事に強要されて嘘の供述をした」と告白し、さらには真犯人を名乗る人物が沼津警察署に出頭する出来事もあったと伝えられているが、いずれも不起訴処分に終わり、事件の再審査には直接つながらなかった。
冨士茂子さんの獄中からの訴えは、次第に外部の支援者を得ていく。
大きな転機の一つが、1960年2月号の『婦人公論』に掲載された、当時の作家・瀬戸内晴美(後に出家し瀬戸内寂聴として知られる)によるルポルタージュ「恐怖の判決」だった。著名な書き手がこの事件の不自然さを世に問うたことは、世論の関心を呼び起こす大きなきっかけとなった。
1966年11月30日、冨士は仮出獄を許されるが、これは無実が認められたことを意味するものではなく、あくまで刑の執行における措置に過ぎなかった。
出獄後も冨士と支援者たちは再審請求を粘り強く続け、1970年の請求では、有罪の決め手となった元店員2人が「冨士が犯人だと言ったのは嘘だった」とテレビの取材に証言する記録テープを新証拠として提出したが、この請求も認められなかった。長い闘いの中で再審請求を却下され続けたまま、冨士茂子さんは1979年11月15日、腎臓がんのため69歳で亡くなった。
無実を訴え続けたまま、獄中での有罪の身分を晴らせずに世を去ったことになる。
しかし、冨士さんの闘いはそこで終わらなかった。姉弟が本人の遺志を継いで再審請求を続け、代理人弁護士(林伸豪氏ほか)の尽力もあって、第5次(数え方によっては第6次とも呼ばれる)再審請求で状況が動く。1980年12月13日、徳島地方裁判所は再審開始を決定し、そして1985年7月9日、同地裁は無罪判決を言い渡した。
決め手となったのは、それまで検察が法廷に提出していなかった不提出記録22冊の中に含まれていた、布団の上に残された靴跡の写真だった。この写真は外部からの侵入者による犯行の可能性を強く示唆するものだった。
また、当時10歳だった冨士の娘が事件当夜に「泥棒を見た」と証言していたにもかかわらず、一審の裁判長がこの証言を「年齢が低く判断力に劣る」として退けていた事実も、判決文の中で問題視されたと伝えられている。
この無罪判決は、有罪が確定した被告人が獄中死したのちに再審によって無罪が言い渡された、日本の司法史上初めての「死後再審無罪」事件として大きな注目を集めた。1985年12月12日には、冨士の相続人に対し、1954年8月13日から1966年11月30日までの4493日間の未決・既決拘禁分として3235万円の刑事補償が支払われることが決定している。
ここで記事化にあたり最も慎重を期すべき点を明確にしておきたい。
冨士茂子さんは法的に無罪が確定した人物であり、いかなる意味でも「犯人」として扱ってはならない。獄中で有罪の汚名を着せられたまま亡くなったこと自体が、この事件の最大の悲劇であり、司法制度の誤判がもたらす被害の重さを象徴している。一方で、無罪が確定したということは同時に、殺害された店主を実際に手にかけた真犯人は今も特定されていない、ということでもある。
強盗殺人という重大事件でありながら、真犯人不明のまま公訴時効を迎えたとみられ、その意味ではこの事件は「冤罪事件」であると同時に「未解決の殺人事件」でもあるという、二重の性格を持っている。ネット上や一部書籍では、当初逮捕された暴力団関係者や、沼津警察署に出頭したという人物を「真犯人ではないか」とする憶測が語られることがあるが、いずれも不起訴に終わっており、公式に真犯人と断定された人物は存在しない。
この点をぼかさず、あくまで「ネット上の憶測・諸説」として明示的に扱うことが不可欠である。 ネット上でのこの事件への関心は、YouTubeの未解決事件・冤罪事件を扱う解説チャンネル(いわゆる「ゆっくり解説」形式の動画など)で繰り返し取り上げられているほか、個人のブログでも法律家や歴史愛好家による考察記事が複数存在する。
たとえば弁護士による法律系ブログでは、取調べの可視化が存在しなかった時代の自白偏重捜査の危うさを論じる文脈でこの事件が引用されることが多く、また歴史回顧系のブログでは、戦後復興期の徳島という地域性、警察・検察の捜査体制の未成熟さといった時代背景とあわせて紹介されることが多い。
5ch系の過去ログや、司法制度・冤罪をテーマにしたまとめサイトでも、「自白の強要」「少年への長期勾留」「検察の見立て先行捜査」といったキーワードで、現代の刑事司法制度の問題点と結びつけて語られる傾向が強い。これらはあくまでネット上の意見・考察であり、判決文そのものが認定した事実関係とは区別して扱うべきものである。 この事件は文化的な影響も残した。
1965年には、作家・開高健が本事件を題材に執筆した小説『片隅の迷路』を原作として、山本薩夫監督による映画『証人の椅子』が公開されている。また1980年には、脚本家・早坂暁による NHK土曜ドラマ『暁は寒かった』が放映され、冨士茂子役を渡辺美佐子、その娘役を桃井かおりが演じたと伝えられる。
これらの作品は、事件そのものの啓発というより、司法の誤りが一人の人間の人生をいかに狂わせるかというテーマを社会に問いかける役割を果たした。 現在、事件発生から70年以上、そして無罪判決確定から40年以上が経過している。徳島市では阿波おどりに代表される観光振興が地域のイメージの中心に据えられており、この重く痛ましい事件が地元で積極的に語られる機会は少ない。
しかし日本の刑事司法史においては、自白偏重捜査の危険性と冤罪被害の重さを示す象徴的な事例として、法律実務家や研究者の間では今なお繰り返し参照され続けている。記事化にあたっては、冨士茂子さんの名誉が最終的に法的に回復されている事実を丁寧に伝えるとともに、真犯人が今も特定されていないという未解決の側面、そして遺族のプライバシーへの配慮を欠かさない書き方が求められる。
(本セクションの調査で主に参照した情報源:徳島ラジオ商殺し事件 – Wikipedia〈[
弁護士作花知志のブログ「徳島ラジオ商事件と茂子さん」〈 徳島ラジオ商殺し事件」解説動画、および複数の個人ブログ・まとめサイトを横断的に参照した。
)
事件は1952年ではなく、1953年に起きた
徳島ラジオ商殺し事件が起きたのは、1953年11月5日の未明である。「1952年」とする表記が一部にあるが、裁判資料を扱った文献、公的機関の記録、当時の事件を追った番組資料はいずれも1953年としている。
徳島市内の電器店兼住居で、店主の男性が刃物で襲われて死亡し、内縁の妻だった冨士茂子も負傷した。ラジオがまだ高価な耐久消費財だった時代で、「ラジオ商」は現在の電器店に近い。店と住居が同じ建物にあり、家族と住み込み店員が生活していたことが、後の捜査で「外から入った人物の犯行か、内部の者の犯行か」という対立につながった。
警察は当初、外部から侵入した強盗による犯行を疑い、別の人物を逮捕した時期もあった。しかし、その人物は不起訴となり、事件から約8か月後、捜査は店内にいた人々へ向きを変える。住み込みで働いていた10代の店員二人が別件で身柄を拘束され、長期間の取調べを受けた。そこで作られた供述が、冨士を逮捕、起訴する柱となった。
事件の説明で「夫婦が殺害された未解決事件」と書くのは誤りである。亡くなったのは店主で、冨士は負傷し、その後、殺人の罪に問われた。さらに、冨士には1985年の再審で無罪判決が言い渡されている。真犯人が確定しなかったという意味では殺人事件の解明は果たされていないが、冨士を犯人候補の一人として並べ続ける余地はない。
「外部犯」から「内部犯」へ変わった捜査
有罪判決を支えたのは、冨士自身の自白ではなかった。中心になったのは、住み込み店員二人が捜査段階と公判で述べた、冨士の犯行を見たという趣旨の供述である。検察側は、冨士が店主との関係に不満を募らせ、外部からの強盗に見せかけて殺害したという筋立てを示した。
問題は、その筋立てを裏づける客観的な証拠が乏しく、店員の供述が変化していたことだった。二人は後に、捜査側から強い働きかけを受けて事実と異なる話をしたと述べている。1978年に四国放送が制作したドキュメンタリー『真実への道程』でも、元店員の一人が、検察に強制されて偽証したと認める場面が記録された。
供述が変わったから、直ちに後の発言だけが正しいと決めることはできない。刑事裁判で確かめるべきなのは、各供述がいつ、どのような環境で作られ、本人が自分の言葉として自由に話せたのか、客観的な痕跡と一致しているかである。ところが最初の裁判では、供述の変遷をたどるために必要な記録の全体が弁護側へ示されていなかった。
現場に外から入った者がいた可能性をうかがわせる事情もあった。冨士の娘は、人影を見たという趣旨の証言をしたが、当時の裁判所は年齢の低さなどを理由に信用性を否定した。再審では、年少者だからというだけで証言を切り捨ててよいのか、他の現場資料と合わせればどの程度の意味を持つのかが改めて検討された。
懲役13年が確定するまで
徳島地方裁判所は1956年4月18日、冨士に懲役13年を言い渡した。冨士は無実を主張して控訴したが、高松高等裁判所は1957年12月に控訴を棄却した。さらに最高裁へ上告したものの、1958年5月に取り下げ、有罪判決が確定した。
上告の取下げは、有罪を認めたことと同じではない。裁判を続ける費用、支援者の有無、拘禁されたまま手続きを続ける負担は、法律上の主張とは別に当事者へ重くのしかかる。冨士は服役中も無実を訴え、確定判決を取り消すための再審請求を重ねた。
1966年11月30日、冨士は仮出獄した。これは刑の執行上の措置であり、無罪になったわけではない。出獄後も有罪判決は残り、生活を取り戻そうとする本人と家族には「夫を殺した女」という扱いが続いた。刑期が終われば誤判の影響も終わるわけではないことが、この事件の長い経過から分かる。
再審請求は何度も退けられた。資料によって「第5次」「第6次」と数え方が異なるのは、冨士本人の請求と、死後に親族が引き継いだ請求を連続した一件として数えるか、請求人が変わった別の請求として数えるかによる。回数の違いを別事件のように扱う必要はない。
22冊の未提出記録が示したもの
流れを変えたのは、最初の公判に提出されていなかった捜査記録の開示だった。衆議院法務委員会の議事録や、法制審議会へ提出された資料によると、再審請求の三者協議で弁護側が開示を求め、裁判所が検察側へ勧告した結果、合計22冊の未提出記録が開示された。
そこには警察の初動捜査に関する記録、現場の痕跡を写した写真、店員二人の供述がどのように変わったかを追える資料が含まれていた。有罪方向の供述だけを読むのと、そこへ至るまでの食い違いや訂正も含めて読むのとでは、証言の見え方が変わる。外部から侵入した人物による犯行の可能性も、改めて検討しなければならなくなった。
この事件で大切なのは、「隠されていた一枚の写真がすべてを覆した」という単純な話にしないことである。再審開始の判断は、新たに得られた資料を一つずつ孤立させて見たのではなく、確定判決が頼った証拠全体と合わせて評価した結果だった。店員の供述がどの程度信用できるのか、娘の目撃供述を退けたことが妥当だったのか、現場の痕跡は内部犯行の筋書きと整合するのか。
複数の疑問が重なり、有罪認定を維持できないとの判断へつながった。
再審請求審では、通常の裁判のように検察が有罪立証のため提出した証拠だけを調べれば足りるわけではない。確定判決に合理的な疑いが生じるかを判断するには、捜査機関が保管する未提出資料へ弁護側がアクセスできるかが大きな意味を持つ。徳島事件が今も再審制度の議論で引用されるのは、証拠開示が名誉回復への入口になった実例だからである。
本人が亡くなった後も、再審は続いた
冨士は再審開始を見る前の1979年11月15日に亡くなった。有罪判決を受けた本人が死亡しても、刑事訴訟法439条は、配偶者、直系親族、兄弟姉妹に再審を請求する道を認めている。さらに同法441条は、刑の執行が終わった後でも再審請求ができると定める。再審は釈放だけでなく、誤った有罪判決を取り消し、亡くなった人の名誉を回復するためにも存在する。
親族は冨士の訴えを引き継いだ。徳島地裁は1980年12月13日に再審開始を決定し、検察側の即時抗告を経た後、再審開始が確定した。本人のいない法廷で何を審理するのかという疑問は残るが、死亡によって誤判を検証できなくなれば、有罪判決は訂正されないまま固定される。家族の生活と社会的評価にも影響が残る。
1985年7月9日、徳島地裁は冨士に無罪を言い渡した。検察側の有罪主張は退けられ、判決は確定した。冨士が亡くなってから約5年8か月、逮捕からは30年以上が過ぎていた。戦後の日本で初めて死後再審による無罪が実現した事件として記録されている。
死後無罪は本人を生き返らせず、服役した年月も返さない。それでも法的な意味は小さくない。公文書上の身分を「有罪のまま亡くなった人」から「無罪の人」へ改め、家族が長く受けてきた非難の根拠を取り除くからである。後に刑事補償が決定されたが、補償金は失われた時間の価格ではなく、国が不当に拘禁したことへ法律上の責任を果たすための制度である。
再審無罪によって確定したのは、冨士を犯人と認定できないということだ。真犯人の氏名が明らかになったわけではない。当初逮捕された人物や、後に自ら関与を語ったとされる人物を真犯人と決めつける記事もあるが、裁判で犯人と認定された者はいない。
冤罪事件を語ると、しばしば捜査機関の誤りだけが中心になり、殺害された店主の被害が背景へ退く。反対に、殺人事件の被害を強調するあまり、「誰かを罰しなければならない」と冨士への疑いを残すのも誤りである。誤った有罪判決は、無実の人を拘禁すると同時に、本来追うべき犯人への捜査を止め、被害者側が真相を知る機会も奪う。
「冤罪事件」と「未解明の殺人事件」は矛盾せず、同時に存在する。記事では、冨士の無罪を明記したうえで、犯人については不明とするしかない。根拠のない黒幕説、警察と地域社会が事件を封印したという説、観光のため歴史から消したという説明には、公的資料の裏づけが見当たらない。
報道と作品が再審を支えた
徳島事件は、判決文や弁護団の活動だけで知られるようになったのではない。雑誌、新聞連載、映画、テレビ・ドキュメンタリーが、法廷の外に事件の記録を残した。
1960年には、瀬戸内晴美が『婦人公論』に事件を扱ったルポルタージュ「恐怖の判決」を発表した。翌1961年、開高健は事件を素材にした『片隅の迷路』を新聞連載し、1965年には山本薩夫監督の映画『証人の椅子』が公開された。国立映画アーカイブの所蔵情報にも、同作が1965年製作、開高健原作として登録されている。
作品は裁判記録そのものではなく、登場人物や場面に表現上の再構成がある。したがって、映画の台詞を実際の取調べ発言として引用したり、小説の展開を事件の確定事実として扱ったりしてはならない。一方、裁判資料に触れる機会が限られていた時代に、判決への疑問を広く伝え、支援の輪を保つ役割を果たしたことは無視できない。
四国放送が1978年9月24日に放送した『真実への道程』は、支援運動と再審請求を追った39分のドキュメンタリーである。放送ライブラリーの番組記録によれば、裁判に関わった人々へ再取材し、元店員の証言撤回を収録した。番組は日本民間放送連盟賞の社会番組部門で優秀賞を受け、放送から7年後に再審無罪が言い渡された。
ここには報道の二つの働きが見える。確定判決をそのまま反復すれば、冨士を「夫殺し」として固定する。逆に、証言が作られた過程や未提出資料へ目を向ければ、司法判断を検証する材料を社会へ届けられる。ただし、再審を訴える報道であっても、確証のない人物を真犯人として扱えば、新たな名誉侵害を生む。疑問を提示することと、別の犯人像を創作することは違う。
この事件から証拠開示を考える
徳島事件の再審から年月がたった後も、国会や法制審議会では、再審請求審における証拠開示の例として繰り返し取り上げられている。通常審で提出されなかった22冊の記録が、有罪判決の証拠構造を見直す手掛かりになったためである。
検察が保管する資料には、有罪を支えるものだけでなく、被告人に有利な可能性があるもの、捜査初期の仮説、供述の変遷も含まれる。弁護側が存在を知らなければ、具体的な名称を挙げて開示を求めることさえ難しい。徳島事件では裁判所の勧告によって開示が実現したが、同じ方法がすべての事件で保障されていたわけではない。
誤判の原因を「昔の未熟な捜査」に閉じ込めると、事件の教訓は薄くなる。人の供述を客観的証拠より先に置く危険、取調べで作られた筋書きが公判へ持ち込まれる危険、提出されない資料が証言評価を左右する危険は、制度として点検し続ける必要がある。
冨士茂子の名誉回復を伝えるとき、本人を悲劇の象徴だけにしてしまうのも十分ではない。彼女は服役中から請求を重ね、出獄後も支援者や家族と記録を集めた。死後再審は突然の恩恵ではなく、本人が残した訴えと、親族、弁護団、記者、制作者らが途切れさせなかった記録の上に成り立った。
