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附属池田小事件

毎年10時12分に鳴る鐘

毎年6月8日の朝、大阪教育大学附属池田小学校の庭で、八つの鐘が鳴る。塔に下がった鐘で、鳴らすのは児童の代表だ。時刻は午前10時12分。事件が起きたころに合わせてあり、遺族も教職員も在校生も、その音に合わせて黙とうする。

集いは10時10分すぎに始まる。2023年は、遺族や学校関係者ら約760人が集まった。塔には、亡くなった児童八人の名前が刻まれている。鐘の数は、その人数と同じだ。

2001年6月8日は金曜日だった。二時間目の授業が終わりに近づいた午前10時過ぎ、この学校に刃物を持った男が入った。亡くなったのは、一年生の男子一人と二年生の女子七人。児童13人と教員2人も傷を負い、判決はこの事件を、我が国の犯罪史上例をみない凶悪重大事件と呼んだ。

ちなみに、6月8日は別の事件の日付とも重なる。七年後の2008年、東京の秋葉原でも同じ日に通り魔事件が起きて、七人が亡くなった。偶然とはいえ、二つの事件は並べて報じられることがある。

緑のビニール袋と、開いたままの通用門

男は車でやって来た。最初に着いたのは南側の正門で、門は閉まっていた。男は車を走らせ続け、少し離れた自動車専用門へ回る。そこは開いていた。

判決は、この門を無施錠だったと認定している。そこが入口になった。男は専用門の前に車を止め、歩いて敷地に入った。手に提げた緑色のビニール袋の中身は、出刃包丁と文化包丁。

なぜ通用門が開いていたのか。事件後に附属池田小の校長を務め、のちに大学で学校危機の研究を率いた教授が、2016年の取材に答えている。その日の午後に算数の研究発表会があり、全国から数百人の参観者が来る予定だったという。保護者の手伝いの人や、教科書を展示販売する業者がトラックで荷物を運び込めるように、門を開けていたらしい。

体育館の横で、男は一人の教諭とすれ違った。教諭は軽く会釈をしたが、男は返さなかった。判決は、この教諭が男を在校生の保護者と誤解したと認定している。大学の資料は少し違い、保護者でも教職員でもないと思いながら、不審者という認識までは持てなかったと書く。

校舎の一階、十分あまりの出来事

男は南校舎のテラスに近づき、一階の教室を窓越しにうかがった。選んだのは、子どもしかいない二年南組だ。判決は、担任がいなくて止められるおそれの少ない教室から始めた点を、計画的な行動の一つに数えている。時刻は10時10分過ぎ。この教室で、五人の命が奪われた。

男はテラスに出て、東隣の二年西組へ向かう。入ったのは10時15分ごろ。児童は全員が前を向いて座り、担任は教卓の席にいた。男は大きな物音を立てたが、担任は気づけなかったと大学の資料にある。この教室の被害者は八人で、二人が亡くなり、六人が傷を負った。

担任は悲鳴を上げ、校内放送で知らせようとしたが、使うのをやめたと資料にある。児童を逃がす前に、警察へ知らせるため廊下を走り、事務室へ向かった。男はその間に逃げる児童を追い、隣の二年東組でも四人に傷を負わせている。

東組の担任が椅子を持って追うと、男はテラスへ逃げた。そこで男にタックルしたのが、通りかかった一年南組の担任だ。男はこの教諭を刺し、教諭は69日間の入通院が必要な重傷を負った。椅子を投げつけられても、男は意に介さなかったという。

10時20分ごろ、男はテラスにいた児童を追って、一年南組の教室に入った。亡くなった一年生は、この教室の児童だ。それまでに三人の教員が一年南組の横を通ったが、中の児童に危険を知らせる声かけはなかったと大学の資料にある。駆けつけた二年南組の担任が背後から腕をつかむと、男は切りつけ、教諭は頭に傷を負った。副校長も加わり、出刃包丁を取り上げて男を押さえた。

現行犯逮捕は10時20分ごろ。児童13人の傷は、治療に七日から四十三日かかったと判決は認定している。負傷した教員二人を含め、傷つけられたのは二十三人。八人の名前は、この記事に書かない。念のため断っておくと、判決も子どもたちをアルファベットの記号で呼んでいる。

救急車が呼ばれたのは通報の五分後だった

男が押さえられても、学校の混乱は終わらなかった。大学の資料は、八人の児童の死因を、即死でなく、救命活動の遅れが直結した失血死と書く。正直、読むのがつらい一文だ。

学校は全体の状況をつかめなかった。負傷した児童の名前も、場所も、人数も、傷の程度も、確かめられていない。救急車に付き添うと申し出た教員はいたが、管理職や教務主任は混乱の中で全容をつかめなかった。二十分前後も手当てが届かなかった児童がいたと、資料は書く。

110番に通報した担任は、事務室で事件の詳細を聞かれ、八分ほど対応に追われた。通報は10時18分。警察が救急車を要請したのは、通報を始めて五分後だった。この経過は、公判の冒頭陳述と、事件五か月後に校長がまとめた報告が土台だ。

保護者への連絡も遅れた。ある保護者は、早い段階で学校に着いたのに、わが子に会えなかった。自力で探し回った病院で、すでに亡くなったわが子と対面したという。事件後も、学校の説明や弔問は遅れ、教員の心ない言動が遺族を傷つけたと、同じ資料は認めている。

当時一年西組の担任だった教員は、2023年の関西テレビの取材で、あの日を振り返った。体育館で児童を並べていると、二人の教師が「子どもたちを避難させろ」と、ただならぬ様子で話していたという。児童を運動場の奥へ逃がして校舎に上がると、倒れた女の子と先生の姿が見えた。

その向こうに倒れていた一年南組の担任を、扉を外して担架の代わりにして運んだと思う、と教員は話す。取材には「当時私は思考ができていなくて、目の前の状況で、勝手に自分の判断で対応していました」とも語った。組織として動けなかった。そのことが、悔やんでも悔やみきれないという。

現場に駆けつけた大阪府警の刑事部長も、25年後の読売新聞の取材で、見た光景を話している。散らばった小さな机と椅子、あちこちにある血だまり。修羅場だったという。家庭科室を臨時の指揮所にして、捜査員が黒板に情報を書き出していった。

体育館の陰になった事務室

専用門から校舎へ向かう道は、体育館に隠れて、校舎西側一階の事務室から見えなかった。立正大学の犯罪学者が、事件から20年の2021年にそう指摘する。正門と校舎の間には大きな木があり、事務室の机も正門のほうを向いていなかった。事務員が顔を上げても、視線の先に正門はない配置だったという。

体育館が死角にならない正門から入れば見つけられた、という報道もあった。この学者は、その可能性は極めて低いと見る。見通しの悪さは一か所にとどまらない。校地の作りと机の向きに、人の意識の低さが重なっていた。

男は第13回公判で、門が閉まっていたら乗り越えてまで入ろうとは思わなかったと語った。関西テレビの特集も、この発言を引く。本人の口から出た言葉だ。

ここから先は、筆者の見立てになる。判決は、動機を常人には思いもつかない理不尽で突飛なものと認めたうえで、本人の人格の延長上にあると結論づけた。動機そのものを止めるのは、まあ、学校には難しいかもしれない。それでも、門を閉める、見通しを作る、すれ違った大人が行き先を確かめる、の三つは、学校の手の届く範囲にあった。会釈を返さない相手に声をかける余地はあった、と筆者は読む。

京都の事件から一年半

1999年12月、京都市立日野小学校の校庭で遊んでいた男の子が不審者に刺されて亡くなり、池田小の事件は、その一年半後に起きている。文部省は2000年1月、附属学校を置く国立大学の学長に、安全管理の通知を出した。同じ月には、和歌山県かつらぎ町の中学校で、不審者が入って生徒が殺されかける事件もあった。

それでも通知の中身は見直されなかったと、後の合意書は書く。合意書が結ばれたのは、2003年6月8日。事件からちょうど二年の日だ。文部科学省と大阪教育大学と附属池田小学校が、遺族に謝罪した。前文は、各附属学校の安全措置を把握していなかったことも、特段の財政措置を講じていなかったことも認めている。

附属池田小は、通知を教職員に一度、口頭で伝えただけだった。それ以外に格別の対応はとっていなかったと、前文は書く。前文はこうも言う。「開かれた学校」の視点は重要だが、それを意識するあまり「安全な学校」という大前提が蔑ろにされてはならない。

先の教授は、同じ取材で、通達の内容は職員会議で説明され、議事録にも残っていたと話している。大学のほうは、通達を附属の11校園に配ったあと、確認を取っていないと遺族から指摘されたという。説明はあった。それでも事件の日、通用門は開いていた。筆者の見立てでは、足りなかったのは、通知を自分の学校の話として受け取り、門の点検に走る習慣だ。

当時六年生の担任で、のちに校長になった教員は、2023年の追悼式で、想定や対策ができておらず、迅速で組織的な対応が取れなかった、と振り返った。一年西組の担任だった教員は、関西テレビの取材に、事前に自分ごととして捉えるのは難しい、と答えている。学校に不審者が入って刺すなど、想像がつかないと思う、とも話した。習慣の問題と言い切るのは、筆者にも少し酷に思える。

かつて入学を望んだ学校

男は1963年生まれで、事件の日は37歳だった。判決は、幼いころから落ち着きがなく、抑制を欠く行動が多く、同世代の子どもから孤立しがちだったと認めている。17歳で自ら精神科を受診し、その後も通院や入院を断続的に繰り返した。刑務所で矯正教育を受けた経験もある。

1999年3月には、勤務先の小学校で、教員らに薬物を混ぜた茶を飲ませる事件を起こした。このときは起訴されず、措置入院となり、公務員の職は分限免職で失っている。その後はタクシーやダンプカーの運転手など、いくつかの職に就いたが、暴力沙汰を起こしてどれも長続きしなかった。2001年2月からは無職。消費者金融の借金もあった。

三番目の妻とは離婚していたが、復縁を望み、離婚の無効を求める訴えを起こしていた。慰謝料を取れるはずだと期待していたが、5月下旬、見込みが薄いと分かったのだ。男は妻の殺害を考えたが、うまくいかないと思い直した。判決が認定した動機は、そこから先にある。

妻への恨みが、社会全体への恨みに変わった。自分と同じ苦しみを多くの人間に味わわせてやろう、と考え始めた。小学生なら逃げ足も遅く、大勢を殺せる。どうせやるなら、名門の小学校のほうが大きな事件になる。判決は、男が子どもたちや保護者、教職員に特に恨みを持っていなかったことも認めている。

決意したのは、事件の前日の6月7日だ。かつて入学を希望して叶わなかった附属池田小の子どもたちを、無差別に殺そうと考えた。番号案内で学校の電話番号を調べ、当日の朝は自宅近くの刃物店で「頑丈な包丁」として出刃包丁を買った。行き先は、カーナビに電話番号を入れて設定したという。

家庭が荒れていたから、という筋書きは分かりやすい。判決の見方は違う。知的な能力に特段の問題はなく、生育環境がことさら劣悪だったとも認められない、と書いた。家庭教育も学校教育も、刑務所での矯正教育も受け、結婚して働いてもいた、と続く。

逮捕直後の男は、「薬を10錠ほど飲んだ」「犯行場所は池田駅前だったと思う」などと話した。薬物や精神障害の影響を装った供述だ。間もなく翻し、以前の薬物混入事件で薬の影響を主張して起訴を免れたことを思い出したからだ、と認めている。

「どうせ死刑なんやから」

起訴は2001年9月14日。初公判は12月27日。男は犯行そのものを争わず、「生命をもって償いたい」と述べている。弁護人は、事件当時の男が心神喪失か心神耗弱の状態だったと主張した。争点は責任能力に絞られ、審理は一年半に及んだ。

精神鑑定は捜査段階と公判段階の二度あり、どちらも統合失調症などの精神疾患を認めなかった。公判段階の鑑定は、男の人格の核心を、他人に冷淡で残忍な情性の欠如と見る。人格の偏りは著しいが、精神疾患とは違う。判決はこの鑑定を高く信用し、刑事責任を問うのに十分な責任能力があったと結論した。

2003年5月22日、検察は死刑を求刑した。判決公判は8月28日だ。通信社の配信によると、男は入廷直後に発言を求めて騒ぎ、「どうせ死刑なんやから」と口にして、裁判長に退廷を命じられた。主文は、被告人のいない法廷で読み上げられている。遺族には、モニターを使った別室での傍聴も認められた。

判決は、一年半の審理でひとことの謝罪の言葉もなかったことと、遺族の証言や意見陳述に不快の念まで口にしたことを挙げている。量刑の理由には、遺族の言葉も引かれている。事件の朝、体調が悪そうだったのに登校させてしまったと、自分を責め続ける親がいた。憎むべきは男なのに、現実にはあり得ないことまで考えてしまう、と判決は書く。

判決の最後には、異例の所感が付いた。裁判長はこう述べた。子どもたちの被害を防ぐ手だてはなかったのか。被害が不可避であったはずはない、との思いを禁じ得ない。死刑を甘受するかのような男の言葉も、判決は反省から出たものではないと退けた。

弁護団は9月10日付で控訴した。男は9月26日付で自ら取り下げ、死刑が確定している。弁護人には、控訴しても取り下げると話していたと伝えられている。執行は2004年9月14日、場所は大阪拘置所。確定から約一年、男は40歳だった。

病名が先に走った日

事件の二日後は日曜日。横浜の競技場では、サッカーの日本とフランスの決勝があった。キックオフの直前、両チームの選手が一分間の黙祷を捧げたという。

逮捕の直後から、報道は男の精神科の通院歴を伝えた。全国精神障害者家族会連合会は、事件当日の2001年6月8日付で、報道機関に文書を送っている。通院歴の記述は、精神疾患が動機だと受け取られ、精神障害者はみな危険という偏見を強めかねない。そういう訴えだった。

6月18日付の二通目では、報道被害という言葉まで使った。要望は三つ。背景が分からない段階で、病名や通院歴を報じないこと。責任能力の問題を、精神障害に置き換えないこと。この事件を、触法精神障害者の処遇の問題に安易に結びつけないこと。

それでも、流れは法律へ向かった。事件の前から、法務省と厚生労働省の合同検討会は動いていた。ただ、事件後に与党がプロジェクトチームを作り、法整備が急に進んだと、日本精神科病院協会の副会長は書いている。心神喪失で重大な他害行為をした人の処遇を決める法案は、2002年に国会へ出され、2003年7月に成立した。施行は2005年7月15日。

国会には、疑問を示す質問主意書も出た。日付は2002年7月30日。加害者に入院歴があったから触法精神障害者の問題と捉えられた、と主意書は指摘する。詐病の疑いが明らかになった以上、この事件を触法問題のケースと考えるのは適当でない、という内容だ。

判決も、精神科の受診歴を考え合わせれば責任能力に疑問が生じるのは一応もっともだとしつつ、結論を変えなかった。過去に精神分裂病の診断を受けたことはあっても、診察の多くは短時間で、動かし難いものとは言えない、と述べている。犯行直前まで診ていた医師は、二年以上診察を続け、5月31日には妄想性人格障害と回答していた。

当時の府警刑事部長は、逮捕された男に通院歴があると知って、不安がよぎったという。責任能力の判断次第では、罪に問えないかもしれない。「不起訴なら辞めないかん」と覚悟した。起訴に至ったのは、その後の捜査と鑑定の結果だ。

責任能力は、病名の有無で決まらない。判決が見たのは、行為の意味を理解し、行動を制御する力があったかどうかだ。病名が先に走ると、事件の実像より偏見が先に広がる。これは筆者の見立てだ。

東館になった南校舎

事件のあと、附属池田小は仮設の校舎で授業を再開した。元の校地に戻ったのは、2004年4月。制服も、事件を思い出させるとして廃止された。南校舎は改築されて東館になり、一階は事件を忘れないための場所になった。北校舎は取り壊されて、跡には西館が建っている。

出入口は一か所に絞られ、体育館の外壁は、外から中が見える造りに変わった。犯罪学者は、改築後の校舎を、入りにくく見えやすい場所にした好例と紹介する。校門を一か所にして警備員を置いた。校舎はガラス張りにして、教室の廊下側の壁を取り払った。担任の机は、職員室でなく、教室の近くの「先生コーナー」に置く。

2004年6月8日、事件から三年の日に「祈りと誓いの塔」が建った。全国から寄せられた義援金の一部で建てたものだ。除幕式の挨拶で、大阪教育大学の学長は、学校の危機はあの日突然訪れたわけではない、と語った。すでに予兆があり、警告が発せられていた。見逃した心の緩みを、繰り返してはならない。

校内には鉄腕アトムの像もあるが、これは追悼の像ではない。卒業生の漫画家の生誕80年と創立100周年に合わせて、同窓会が贈ったものだ。除幕式は2008年10月20日。

毎月8日は「安全の日」と決まり、不審者対応の訓練も続く。安全科を置く特例校に国から指定されたのは、2009年。2010年3月5日には、日本で初めてインターナショナルセーフスクールの認証を受けた。国も動いた。2002年11月に学校施設の防犯対策の報告書、12月に危機管理マニュアルが出ている。

「開かれた学校」を閉ざすのか、という議論は、事件のあと何度も出た。2004年に文部科学省の委嘱でまとまった報告書は、地域に開かれた学校とは不審者に何の備えもなく空間を開くことを意味しない、と書く。合意書の前文も、犯罪学者の指摘も、同じ向きだ。地域の人が学校に関わることと、門を閉めることは、ぶつからないと筆者は読む。

一年西組の担任だった教員は、のちに教育委員会で学校安全を伝える立場になった。パニックが起きると思考も止まる、と2023年の取材で語り、こう続けた。「訓練でできないことは、本当に起きた時もできない」。

2022年の関西テレビの取材には、当時二年生だった三人の元児童が答えた。一人は、担任にすがって事務室へ逃げ、机の下に押し込められた。教師たちが電話で通報する声や、警察官の声を、じっと聞いていたという。中学に入る前まで、一人でトイレに行けず、夜も眠れない日が続いた。目に見える被害を受けたわけではないから、被害者の顔はしたくない、とも話している。

2026年6月には、毎日新聞が、二年東組の教室にいて脇腹を刺された女性の話を載せた。33歳になり、幼い子どもたちを育てている。傷痕は今も残る。重傷を負った八人の児童の側とは、2005年5月8日に大学と学校が合意書を結んだ。心的外傷後ストレス障害などで、通学や授業への参加が今も難しい子がいると、前文は書く。

大阪教育大学は、毎年6月8日に半旗を掲げ、2021年には約100科目の授業で、教員と学生が事件を語り伝えた。同じ年の大学の文書は、事件当時に在職した教員が、附属池田小で一人だけになったと書く。2025年度には、事件を知る教員がいなくなった。

その年の追悼式で、新しく着任した校長は、あのころの学校を振り返った。「学校は安全なところ」という根拠のない思い込みで、不審者の侵入を想定できていなかった、という。続けて、上級生から事件を伝え聞いた低学年の児童のことに触れた。校長室にある八人の写真の前に、祈りを込めた折り紙を飾ったのだという。

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