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🗞️ ロス疑惑――ロサンゼルスの銃撃、週刊誌が生んだ「疑惑の男」三浦和義はなぜ二度裁かれ、二度とも無罪になったのか

先に断っておく。三浦和義氏は、ここで扱う銃撃事件について、2003年3月5日に最高裁で無罪が確定している人だ。その人をいまさら「犯人」と決めつける気は、これっぽっちもない。追いかけたいのは判決の中身と、その前後で報道がどこまで熱くなったかという社会の側の話になる。司法が認めた事実と、当時の報道や識者が口にした見方は、ごちゃまぜにしないで分けて書いていく。

「ロス疑惑」は、1981年から2003年、さらに2008年まで、ざっと27年も日本を騒がせ続けた。ひとつの刑事事件の呼び名で片づく話じゃない。ロサンゼルスの駐車場での銃撃、週刊誌が掘り起こした「疑惑」、逮捕、13年に及ぶ拘置と続く。地裁の有罪、高裁と最高裁の無罪、海の向こうでの再逮捕と獄中死まで、犯罪報道の歴史でもほかに例のない長い話なんだよな。始まりは、ある駐車場だった。

1981年11月18日、昼前の駐車場に響いた銃声

日付は1981年11月18日。午前11時過ぎ、ロサンゼルス市内にあるショッピングセンターの駐車場で、その銃撃は起きた。撃たれたのは旅行中の夫婦だった。輸入雑貨の会社「フルハムロード」を経営していた三浦和義氏と、妻の一美さんだ。三浦氏の話では、車へ戻ろうとしたところを、ラテン系とみられる二人組の男に撃たれたという。

一美さんは頭に銃弾を受けた。意識不明の重体だった。三浦氏自身も足に銃創を負っている。一美さんは米軍のヘリコプターで日本へ運ばれ、東海大学病院に入院したものの、意識は最後まで戻らず、1982年11月30日に息を引き取った。

この間、三浦氏は複数の生命保険会社から保険金を受け取っている。合計で1億5500万円あまり。この数字が、あとで大きな意味を背負わされていく。

時間を少し巻き戻す。銃撃より前の1981年8月31日。夫妻が泊まっていたロサンゼルスのホテルの一室でも、一美さんが何者かに殴られる事件が起きていた。当初、この暴行事件が大きく報じられることはなかったんだ。のちに銃撃事件と並べて振り返られたとき、はじめて「ひとつの物語」の一部として意味を与えられていった。

事件直後の日本のメディアは、三浦氏にずいぶん同情的だった。遠いロサンゼルスで妻を撃たれ、自分もけがをしながら看病を続ける「悲劇の夫」。テレビカメラの前で見せたやつれた表情は、多くの視聴者の同情を集めたと伝えられている。

「疑惑の銃弾」、連載ひとつで世間の目が裏返った

空気がひっくり返ったのは1984年1月だ。『週刊文春』が連載「疑惑の銃弾」を始めた。一美さんに高額の生命保険がかけられていたこと。三浦氏の供述に不自然な点があること、現場の状況と三浦氏の説明が食い違って見えること。連載はそうした点を積み上げ、「保険金目当ての殺人じゃないか」という疑いを突きつけた。

それまで同情されていた三浦氏は、この報道を境に一転した。まるで「希代の殺人鬼」みたいな扱いだ。ほかの週刊誌やワイドショーも、こぞってこのテーマを追いかけた。

見過ごせないのは順番だ。捜査が進むより先に、メディアの側で「犯人像」ができあがっていった。三浦氏の交友関係、女性関係、少年時代の非行歴。事件とは直接関係のない話まで、次々に誌面へ載った。「いかにも殺しをやりそうな人物」という印象は、繰り返されるたびに濃くなっていったんだよな。

1985年には、三浦氏の交際相手だったとされる女性が新聞紙上に出た。中身は、1981年8月の暴行事件への関わりをほのめかす証言。これが実名で報じられた。疑惑は、さらに燃え上がった。

当時を知る編集者の回想がある。それによると、三浦氏本人も週刊誌の取材に応じていたらしい。ときには人生相談の連載まで持つという、独特のメディア対応だった。当事者とメディアが妙な共犯関係を結びつつ、「劇場型」の報道が過熱していった様子がうかがえる。

こうした報道のやり方は、のちに法曹関係者やジャーナリズム論の研究者から何度も批判を浴びた。捜査機関が立件するはるか前に、週刊誌の推論が世間で「事実」のように扱われ、推定無罪の原則が空っぽになったんじゃないかという指摘だ。この構図は、後年の刑事事件報道でたびたび問われる「犯人視報道」の原型として、よく引き合いに出される。

逮捕、そして13年に及ぶ法廷闘争

疑惑が高まるなか、1985年9月11日に三浦氏は逮捕された。容疑は殺人未遂。1981年8月の、ホテルでの暴行事件についてだった。この件は東京地裁で審理され、有罪判決が言い渡されている。とはいえ、世間の関心がいちばん集まったのは、一美さんが撃たれて亡くなった銃撃事件の刑事責任のほうだった。

銃撃の実行犯とされる人物が別に逮捕されたのは1988年だ。最初は銃刀法違反での別件逮捕。その後に殺人容疑で再逮捕されたが、一審の判断は割れた結論になった。犯行に使われたとされる車両についての供述の食い違いなどから、有罪は銃刀法違反だけ、殺人は無罪とされた。

三浦氏本人の裁判では、東京地裁が採ったのは検察側の組み立てだ。「氏名不詳の実行犯と共謀して妻を殺させた」という構成だ。判決は無期懲役。三浦氏側はすぐに控訴した。

控訴審の東京高裁は、地裁と正反対の判断を示した。実行犯として特定できる人物がいない以上、共謀の相手すら特定できていないことになる。これでは殺人の共謀を認める証拠として足りないとして、逆転無罪を言い渡した。検察は納得せず上告した。

2003年3月5日、最高裁は検察の上告を棄却。これで三浦氏の無罪が確定した。逮捕から数えて、じつに18年目のことだ。起訴後の勾留も含めると、三浦氏は通算で十数年も身柄を拘束され続けた計算になる。

決め手は「撃ったのは誰か」が言えないことだった

高裁が無罪の理由として重く見たのは、突き詰めればたった一点だ。実行犯が誰なのか、証拠のうえで特定できない。検察の主張は、三浦氏が保険金目当てで何者かに妻の殺害を頼んだ、という筋書きに立っていた。けれど、その「何者か」が具体的に誰なのかを示し、三浦氏との共謀を証拠で裏づけなきゃいけない。それができなければ、共謀共同正犯という法律の組み立てそのものが成り立たない。

地裁の段階では、三浦氏のある供述が引っかかっていた。事件のとき自分の車の近くにあったはずの別の車両に気づかなかったと話していて、その不自然さが有罪に傾く心証づくりに影響したとみられている。それでも高裁は、こうした情況証拠を積み重ねるだけでは、実行犯が分からないまま共謀を認めるには足りないと判断した。

刑事裁判には「疑わしきは被告人の利益に」という大原則がある。直接の証拠が乏しく、状況証拠が中心の立件に、この原則をどこまで厳しく当てはめるべきか。その問いを、あらためてくっきり見せた判決だった。

三浦氏のまわりには、もうひとつ別の「疑惑」もあったんだ。1979年、ロサンゼルス郊外でミイラ化した東洋系の女性の遺体が見つかった。身元の判明は1984年。決め手は歯型の照合だった。この女性は生前に三浦氏と付き合いがあったとされる。

行方が分からなくなる直前、女性の口座から多額のお金が引き出されていたとも報じられた。ただ、日本では立件されていない。これが後になって、思わぬ形で三浦氏の運命に絡んでくる。

無罪確定から5年、サイパンで鳴った手錠の音

無罪が確定して5年たった2008年2月22日。三浦氏は北マリアナ諸島のサイパンに滞在していたところを、ロサンゼルス市警に殺人容疑で逮捕された。容疑の中心は、日本で立件されなかった1979年の女性の死亡事件だったとする資料がある。米国側は新たな状況証拠を積み上げ、三浦氏の関与を主張した。

この逮捕は日本でも大きく報じられた。新聞各紙ににじんだのは、「なぜいまごろ」という戸惑いの色。日本で確定した無罪判決との関係をどう考えるか、という論点がいっせいに紙面に並んだ。

読売新聞などは、一事不再理の原則がそのまま国境を越えて届くものじゃない、という法的な現実を指摘した。朝日新聞は、米国側の「新証拠」が本当に日本の確定判決をひっくり返すに値するのかを問うた。同じ逮捕を前にしても、新聞ごとに見ている角度は別々。

サイパンでの身柄引き渡しの手続きでは、弁護団が日本での無罪確定を盾に、移送に強く抵抗した。現地の裁判所の判断は、同じ年の9月26日。銃撃事件に絡む殺人罪の訴追は、一事不再理の観点から無効だとされた。ところが共謀罪のほうは、日本で正式に裁かれた罪状とは別物だという理由で有効とされたんだ。

こうして三浦氏は10月10日、ロサンゼルスへ移されることになった。じつに27年ぶりのロサンゼルスだ。容疑の中心をどちらの事件と見るかで、資料の書きぶりが割れている点は覚えておいてほしい。

移送されたその日に、留置施設で

ロサンゼルスに移されたその日のうちに、三浦氏は市警の留置施設で意識のない状態で見つかった。運ばれた病院で死亡が確認された。現地の警察は自殺と発表している。

これに弁護人が異を唱えた。独自に頼んだ病理学者の見立てをよりどころに、他殺の可能性を訴えたのだ。施設の監視カメラがちょうど点検中で動いていなかったという事情も、疑いを深める材料として挙がった。

真相ははっきりしないまま年が明けた。2009年1月、米国の捜査当局がひとつの話を明かしている。1979年の女性の死亡事件で、三浦氏を単独の被疑者として起訴する準備を進めていたというんだ。

ロス市警は記者会見で、三浦氏を公式に「容疑者」と名指しした。けれど本人はもういない。この容疑が法廷で争われることは、二度となかった。

遺体は現地で火葬され、同じ年の10月25日に日本へ帰っている。皮肉なことに、この死で国内の別件も幕を下ろした。三浦氏が生前に抱えていた万引き事件の公訴が、被告人死亡を理由に打ち切られたんだ。

あの頃そばにいた人たちの記憶

事件を振り返るとき、当時を直接知る人の記憶は大事な手がかりになるし、報道、法律、地元の暮らしと、立場の違う三人の証言や回想も残っている。どれも事件の「もうひとつの側面」を映したものだ。

一人目は新聞記者。当時、社会部で司法取材を担当していた人だ。逮捕前の週刊誌報道の熱量は、すさまじかったと振り返っている。編集部には連日「次はどんな新事実が出るか」という空気があった。裏取りが足りないまま「疑惑」という言葉がひとり歩きしていく怖さを感じていた、と彼は話す。

とくにこたえたのは、三浦氏の扱いが変えられていく過程を間近で見たことだったそうだ。「悲劇の夫」から、一夜にして「稀代の殺人者」へ。報道が一人の人生をここまで左右するのかと、恐ろしくなったのを覚えているという。逮捕後、法廷での攻防が本格化してからは見え方が変わったという。週刊誌報道で先に固まった「三浦犯人説」のイメージを、証拠をもとに一からほどいていく作業に見えたそうだ。

二人目は弁護士。刑事訴訟にくわしいこの人は、事件がはっきり見せたのは状況証拠だけで有罪を保つことの難しさだと言う。動機がありそうに見えること、供述に不自然な点がありそうに見えること。それと、実行犯を含む共謀の構図を証拠で立証できることは、まるで別の話だという。

高裁が最後に無罪としたのは、まさにこの一線を検察が越えられなかったからだと理解している、とも弁護士は語る。無罪が確定したことの重みを、法律家として社会に丁寧に説明する責任があったはずだ。それなのに当時のメディア環境では、その声はなかなか届かなかったと振り返っている。

三人目は、ある住民。三浦氏の会社の関係者が身柄を押さえられた地域に住んでいた人だ。近所に取材のクルーが何日も張り込み、静かな住宅街が一変したのをよく覚えているという。当時は子どもで、くわしい事情は分からなかったそうだ。

それでもテレビをつければ毎日のように同じ顔が映り、まるでドラマの主人公みたいな扱われ方だったのが印象に残っているらしい。のちに無罪が確定したと聞いたときのことも話している。あれだけ大騒ぎしたテレビや雑誌は、いったいどう責任を取るのか。素朴にそう疑問に思ったそうだ。

手錠にモザイクがかかるようになったわけ

この事件が日本の報道史に残した大きな爪痕のひとつが、逮捕時の「手錠・腰縄」姿の撮影をめぐる問題だ。三浦氏が逮捕されたとき、警察は報道陣に手錠姿を撮らせた。三浦氏本人はこれを人権侵害だとして訴え、のちにその訴えが認められている。

これをきっかけに、被疑者や被告人の肖像権、推定無罪の原則を、現場でどう守るかが議論されるようになった。いまでは手錠の部分にモザイクをかけたり、顔を隠したりする対応が広く定着している。ロス疑惑の報道は、結果的に日本の犯罪報道の映像面での自主規制を大きく前に進めた。

三浦氏自身も、無罪確定の前後を通じて、名誉毀損を理由にした訴訟を数百件の規模で起こし続けたことで知られる。多くの訴訟で三浦氏側の主張が一部でも認められた。週刊誌の記述の一部に名誉毀損が認められ、賠償の支払いが命じられた例もある。

大量に提訴するというやり方そのものには、賛成も反対もある。それでも「疑惑」の名のもとで行われた報道の一部が、法的に行き過ぎだったと裁判所に繰り返し認められた。この結果は、メディアの側に重い教訓として残ったわけだ。2008年の再逮捕のとき、日本の新聞各社は社説でそろって「冷静な報道」を呼びかけた。その根っこには、こうした過去への反省があったとみられている。

ネットの掲示板で、いまも続く二つの語り

ロス疑惑は、インターネットが広まる前に起きた事件だ。それなのに後年になっても、ネットの言論空間で何度も繰り返し語られてきた珍しい事件でもある。掲示板、個人サイト、まとめブログ、動画配信の概要欄。そうした場所で、「疑惑の銃弾」報道の是非が何度も考察の的になってきた。

話題になるのはそれだけじゃない。実行犯とされた人物をめぐる、一審と二審の判断の食い違い。2008年のサイパンでの逮捕から、獄中死に至るまでの流れ。どちらも繰り返し取り上げられてきた。

オカルトや未解決事件系のまとめサイト、note記事で定期的に書かれるのが一事不再理の解説。耳慣れないこの法律用語が、どう働いたのかを説く投稿だ。法律にくわしくない読者にも、事件の構図を分かりやすく伝える役を果たしているわけだ。

こうしたネット上の語りには、二つの向きがある。ひとつは、当時の週刊誌報道がどれほど一方的だったかを検証し、確定した無罪判決の重みを確かめ直そうとする向きだ。もうひとつは逆で、「疑惑」への関心をまた燃やし、真相はまだ分からないんじゃないかという憶測を広げる向きになる。

この二つの語りは、いまも並んで生き続けている。そのこと自体が、司法の結論と世間の記憶がどこまで離れうるかを示す実例として、よく引き合いに出される。獄中死という結末が、すべてが謎のまま終わったという印象を強めた。考察系のコンテンツが何度もこの事件を取り上げる大きな理由も、そこにある。

「悲劇の夫」が一夜で裏返った仕組み

ロス疑惑が日本社会に残した最大の教訓は、一件の刑事事件の結末だけにとどまらない。週刊誌の報道が、一人の人間の社会的な人格をどこまで作り変えてしまえるのか。メディアと個人の関係そのものにかかわる問題なんだ。

1984年より前の三浦氏は、「悲劇の夫」として同情される側にいた。ところが「疑惑の銃弾」というひとつの連載企画が始まった瞬間から、世間のイメージは決定的に反転した。見落とせないのは、この反転が捜査機関の立件や裁判所の認定より先に起きたことだ。

メディアが示す「疑惑」という枠組みは、それ自体は断定じゃないという建前を持っている。ところが何度も触れるうちに、読者や視聴者の中には「ほぼ確定した事実」に近い印象ができあがってしまう。この現象は、その後も日本の重大事件報道でたびたび繰り返される「犯人視報道」問題の原型と位置づけられている。報道被害という言葉が広く使われるようになった、大きなきっかけのひとつでもある。

日本のメディアスクラム問題は、この事件を経て少しずつ変わってきた。手錠・腰縄姿の撮影をめぐる裁判での敗北は、警察と報道機関の双方に、被疑者の人権への配慮を実務に組み込むきっかけを与えた。

時代が下ると、日本新聞協会や放送局各社はガイドラインを整えていく。実名報道の基準、推定無罪の原則の周知、逮捕段階での呼び方の使い分け。「容疑者」表記の徹底などがその中身で、ロス疑惑をはじめとする一連の「犯人視報道」批判を踏まえたものだった。

2008年の再逮捕のとき、主要各紙が社説でそろって「冷静な報道」を呼びかけた。四半世紀前の過熱報道への反省が、メディアの内側にある程度根づいていた表れといっていい。ただ、こうした自己規律がどこまで効くのかは、事件が起きるたびに改めて問われ続けている。ロス疑惑は、いまも「反面教師」として参照されっぱなしだ。

国境を越えると、一事不再理はどこまで効くのか

一事不再理という法の考え方も、あらためて押さえておきたい。いったん確定判決が出た事件について、同じ被告人を同じ犯罪事実で再び訴追してはならない、という原則だ。日本国憲法第39条にその趣旨が読み取れるとされる。

国が一度確定させた判断をひっくり返し、個人を際限なく訴追し続けるのを防いで、法的な安定と個人の立場の安定を守るための仕組みだ。ただ、この原則はもともと、ひとつの国とひとつの法体系の中で働くことを前提にしている。国境をまたいだとたん、話はそう単純に片づかなくなる。

日本の刑法は、外国の確定判決には一事不再理を及ぼしていないとされる。逆なのが、事件が起きた当時のカリフォルニア州法。外国での確定判決についても、一定の場合に二重の訴追を制限する規定を持っていたという。一事不再理は、あくまで国内法の制度。国をまたぐ身柄拘束や訴追の場面では、確定した無罪判決の重みがそのままの形で尊重される保証はない。

国境を越えて動く個人が、いくつもの法域から重ねて訴追されるリスクにどう向き合うか。ロス疑惑が投げかけたこの論点は、グローバル化が進むいまにも通じる問いとして覚えておきたいものだ。その具体的な引き金になったとされるのが、カリフォルニア州の法改正だった。

2005年、カリフォルニア州法が改正され、外国の確定判決をもとに二重訴追を制限する範囲が狭められた。これが2008年の三浦氏の再逮捕を法的に可能にした背景にある、という指摘がある。事件当時にはあった守りが、あとの法改正で失われた状態のまま身柄が拘束された。このやり方が遡及処罰の禁止という原則とどう折り合うのかは、いまも決着のついていない法律論として残っている。

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