勝手口で、母親は「弁護士に任せている」と言った
1983年6月27日、月曜日。午後3時ごろ、東京都練馬区大泉学園町の二階建ての家の勝手口に、紺のトレーニングウェアを着た男が立った。男は48歳で、職業は不動産鑑定士。応対に出たのは、この家で暮らす41歳の母親だった。
判決が認めた場面は、驚くほど短い。男が明け渡しの件で来たと告げると、母親は「弁護士にすべて任せている」と答えた。目も合わせずに奥へ戻ろうとする。男はその背中に怒りを爆発させた。ここから夜までのあいだに、一家5人が命を落とした。
男は昼前から車で近所を下見して逃げ道を確かめ、午後2時40分ごろ、三女が下校するのを見届けてから乗り込んでいる。亡くなったのは、45歳の父親、41歳の母親、9歳の次女、6歳の三女、1歳の次男。10歳の長女は小学校の林間学校に出ていて、長野県の少年自然の家にいた。帰京の予定は、翌々日の29日だ。
午後4時ごろ、小学3年の次女が帰ってきた。男は「この家が今どうなっているか知っているか」と問いただし、長女が遠足で帰らないことを確かめている。夜9時半ごろには、父親が帰宅した。男は居間で30分ほど、立ち退かない怒りをぶつけ続けたという。
前の日の日曜は、次女の誕生日会が開かれていたと、後年の記事は書いている。町田から母親の母が来て、次女の友だちも集まった。27日は母親自身の誕生日でもある。にぎやかな週末の翌日、この家は静まり返った。
刃物を持ち出す父のもとで
男は1935年に秋田市で生まれた。一族は市場や精肉業を営む資産家で、父親は秋田駅前の市場を仕切る顔役。気性が荒く、けんかとなれば出刃包丁や日本刀を振り回す人だった。妻に手を上げることもあったと、のちの資料は伝えている。
男は、そういう父に逆らえずに育った。高校時代は父の命令でボクシングを習い、市場の場所代の取り立てにも歩かされる。口数が少なく目立たない少年なのに、取り立てが滞ると血相を変えて相手を怒鳴りつけたという。まあ、父親そっくりの二面性だ。
1960年に父が病死し、遺産をめぐる身内の争いが始まった。その年の暮れ、男は宴会の席で弟と口論になり、出刃包丁で胸を刺している。翌1961年9月には、財産争いのもつれから、また弟を切りつけて大けがをさせた。自分から警察に出頭し、殺人未遂と傷害で懲役3年の実刑となる。千葉刑務所の習志野作業場に入り、仮出所は1965年5月だ。
出所後の男は、上京して銀行に勤めながら不動産鑑定士を目指し、二次試験に1971年に合格して、1975年に登録した。1976年に独立し、1981年には新宿御苑の近くにマンションを買って事務所を移した。東京地方裁判所の鑑定委員にも選ばれる。中日新聞は、近所の評判を「いつも物静かで整った服装の羽振りのいい人」と伝えた。
一方で、別の顔を伝える話もある。家を建て替えたとき、男は塀を境界ぎりぎりまで作らせ、「ここは自分の土地だ」と言い張ったという。事務所で客が煙草を吸おうとすると、血相を変えて怒鳴りつけた。1995年刊の『バラバラ殺人の系譜』が、そう紹介している。自分の土地、という言葉には、強いこだわりがあったらしい。
一億六百万円で落札した家
話は競売から始まる。土地は624平方メートルで、建物は二階建て。場所は、大泉学園町6丁目だ。
母親の父が1958年に手に入れた物件で、父が経営する会社の借金の担保に入っていた。1977年ごろ、母親の父は転居し、娘夫婦の一家に管理を兼ねて住まわせる。月5万円、期間5年の賃貸借契約書があったと、判決は認めた。雑誌記事は、母親の父が立ち退き料を吊り上げるために、娘夫婦を住まわせ続けたと書いている。
会社は1981年9月ごろに行き詰まり、1982年3月に競売が申し立てられた。最低売却価格は1億280万円。抵当権は総額2億1000万円にのぼる。居座る占有者のいる物件として、不動産業界では知られた厄介者だったらしい。入札は長く入らなかった。
男が不動産取引に手を出したのは、1982年のことだ。判決によれば、鑑定の仕事は労力のわりに稼げず、年を取れば続けられないと不安を抱いていた。入院中も事務を執る妻を見て、楽をさせてやりたいと思う。二人の子の学費や結婚費用も要る。そこへ、父から相続した秋田県内の不動産が売れて、2500万円ほどの元手ができた。
11月、男はこの物件を知る。居住者の権利は買い受け人に対抗できないし、転売すれば儲かる、と踏んだ。妻は心配したが、男は定期預金も事務所兼自宅も山林も、全部を担保に入れた。銀行から借りたのは約1億4500万円。1983年2月2日、1億600万円で落札する。
ところが代金を納めた直後、裁判所の書記官は、居座る一家に引き渡し命令は出せないだろうと告げた。執行官は、出せると言っていたのに。男は憤った。「裁判所にだまされた」と、判決は書いている。のちの新聞は、競売の物件明細書に、一家の主張する賃借権は買い受け人に対抗できないと明記されていたとも伝えた。
六月三十日が二つ重なった
男は慌てて動いた。3月1日には転売先の建設会社と念書を交わし、4月13日に売買契約を結ぶ。代金は1億2950万円、引き渡しは6月30日、遅れれば違約金は3000万円。5月10日までに、手付金1500万円を受け取っていた。
銀行への返済期限も、同じ6月30日だった。利息だけで月に約100万円が出ていく。期限に遅れれば担保を実行されて全財産を失いかねないうえ、鑑定士という信用商売の看板も傷つく。男は、そう思い詰めた。判決は、そう認定している。
その間も、一家との交渉は進まない。3月28日に始まった明け渡しの訴訟は、相手側の代理人の準備が整わないとして、期日が2度延びた。期限は迫っていた。一家側は多額の立ち退き料を求めたと、当時の新聞は報じている。
一家の言い分は、父も母も亡くなっていて、法廷で語られることがなかった。残っているのは、男の供述と判決と新聞記事だけだ。ひとつだけ言っておく。判決は一家の態度が男を追い込んだ面を認めたが、それを「死をもって償わなければならないほど」の落ち度とは見なかった。
5月下旬から、男は準備を始めた。偽名でマンションの一室を借り、教習所に通って運転を練習し、道具を買い集める。6月5日には訴訟を取り下げさせた。6月1日に父親から話し合いたいと電話が入ったが、音沙汰はない。20日の早朝、男は出勤前の父親を待ち伏せ、強い口調で立ち退きを迫っている。
筋書きは、一家が引っ越したように見せかけること。男は転売先へ「交渉はうまくいっているから安心してほしい」と告げた。前日の26日、日曜日の参議院選挙の投票所では、にこやかに票を入れていたという。
「この家の人たちは昨日引っ越した」と男は言った
翌28日の朝。町田市に住む母親の実家から、隣人に電話が入った。連絡が取れないので、家の様子を見てほしいという頼みだ。隣人が訪ねると、紺のジャージ姿の男が出てきて、「この家の人たちは昨日引っ越した」と言ったという。男は「イチノセ」と名乗った。
時刻の記録は食い違う。隣人が訪ねたのは、後年の雑誌記事では午前8時半ごろ、別の資料では9時ごろだ。確かなのは、実家が納得しなかったこと。引っ越すなら連絡があるはずだと、母親の弟が兄とともに石神井警察署へ向かった。11時30分ごろだ。
署員2人が弟たちを連れて家に着いたのは、12時58分ごろ。勝手口は開かない。玄関のほうで足音がして、署員が表へ回ると、中年の男が飛び出してきた。呼び止められた男は、あっさり「この家の家族5人を殺した」と答える。男は緊急逮捕され、午後には捜査本部が立った。
現場に入った捜査員たちは、誰も口を開けなかったという。当時の警視庁捜査一課長は、のちの著書でこう振り返っている。幾多の事件現場を踏んできたが、こんなに凄惨で陰湿な事件は経験したことがなかったし、その後もない、と。具体的な描写は、遺族への配慮から、筆者は書かない。
男は逮捕後、淡々としていた。取り調べでは「これですっきりした」と繰り返したと伝わる。動機については、事業が破産に追い込まれるのが怖かった、一家を皆殺しにして更地にしてから業者に渡すつもりだった、と話している。留置場ではいびきをかいて眠ったと、元捜査員は語っている。
ただ、母親の死を目の前で見て震えていた6歳の三女のことは、不憫に思ったと話した。朝日新聞は、これを犯行の中で男が唯一見せた人間性、と書いた。家族の幸せを守るための犯行が家族を苦しめただろうと問われたときだけ、涙を流したという。
この元課長はのちに週刊新潮の取材へ、男は素直に自白するふりをして計画性を薄めようとしていた、とも語った。誤算は、遺体の処理に思ったより長い時間がかかったことだ、と。計算は狂った。男は28日夜までに、一家を山中へ運ぶつもりでいたと供述している。
石神井署の元巡査部長も、2004年に同じ雑誌へ話した。男は、赤穂浪士の討ち入りや思想犯のように、筋を通した人間だと世間に見てほしがっていた。同情的な報道も一部にあって、困惑した、と。捜査が終わっても、慰労会は開かれなかった。2006年の雑誌記事は、後味が悪すぎたからだと書く。
29日付の朝刊は、朝日、毎日、読売の各紙が1面で大きく伝え、「一家5人を惨殺」「立ち退き、もつれて」といった見出しが並んだ。それでも、この事件の知名度は被害の大きさに釣り合わない。同じ28日の早朝、新宿の京王プラザホテルの47階から、俳優の沖雅也が飛び降りたからだ。ワイドショーも週刊誌も、そちらへ流れた。
百科事典サイトの項目は、週刊新潮の記事を引いて、そう説明している。一家5人が殺された事件なのに、世間の記憶には、ほとんど残らなかった。運の悪い日だった。名前を聞いてもすぐに思い浮かばない人が多いのは、この日の巡り合わせのせいかもしれない。
貸切バスを途中で降りた子
林間学校の長野では、教員たちが事件を知ったうえで、長女を預かっていた。一部の教員からは、長女に知らせたほうがいいという声も出る。けれど学校は、初めての野外の集団生活だから最後まで楽しい思い出にしてあげたい、と決めた。長女も、ほかの児童も、帰るまで何も知らされない。
29日、長女は家族への土産を持って帰京した。貸切バスは途中で長女だけを降ろし、迎えの車を経由して、母方の伯父の家へ送り届けたと新聞は書く。そこで長女は、家族は交通事故で亡くなったと聞かされた。ほかの5年生は校庭に戻り、教頭から本当のことを聞いて、すすり泣いたという。
7月1日、父方の伯父が住職を務める寺で、葬儀が営まれた。その朝、長女は伯母から、家族が事件で殺されたことを伝えられる。残酷な内容は伏せ、事実だけを伝えたと、親戚は新聞に説明した。長女は、大粒の涙を流した。新聞は、そう報じている。
その後、長女は伯父夫婦の養女になり、それまで通った学校から練馬小学校へ移って、7月11日に登校を再開した。全国の小学生を中心に、励ましの手紙が100通以上届いたと、7月7日付の新聞にある。生き残った人の今をあれこれ詮索するのは、控えたい。確認できる範囲は、ここまでにしておく。
死刑執行は、18年半あとだった
男は7月19日に、殺人と死体損壊の罪で起訴された。初公判は1983年10月21日。起訴事実はすべて認め、「大変申し訳ないことをした」と謝罪している。争点は責任能力で、弁護側は心神喪失か心神耗弱だったと主張した。慶應義塾大学の精神科の教授が、鑑定を担当している。
鑑定の結論は、緊迫した精神状態にはあったが、精神病的な状態ではなかった、というものだ。男に責任能力はあった。逮捕の翌月には、筑波大学の教授が新聞に「粘着気質の性格が先鋭化した犯行だろう」とコメントしている。1985年10月18日に検察は死刑を求め、11月25日に結審した。
弁護人は競売制度の落とし穴を訴え続けたが、末期のがんで、結審の5日後に42歳で亡くなった。判決は、その20日後だ。通夜に子ども2人と訪れた男の妻は、夫のためにできる限りのことをしてくれた、と朝日新聞に話している。弁護人は、10月初めの証人尋問まで法廷に立っていた。
12月20日、東京地方裁判所は求刑どおり死刑を言い渡した。判決は、一家の落ち度は死をもって償うほどではなく、動機は男自身の経済的な利益と保身にすぎない、と述べる。一つの家族がそっくり消された被害は甚大だとも指摘した。男は反省し、遺された長女を思って家財を処分し償おうとしている。その真剣さは疑えないが、一足飛びに一家殺害を計画した性格は矯正しがたい、との判断だった。
二審の結論も、変わらない。1990年1月23日、東京高等裁判所は、男が交渉の中で妄想的な体験や心身症的な症状を持っていたと認めた。それでも意識障害はなく、完全な責任能力があるとして控訴を退けている。両親ときょうだい3人を一度に失った長女の悲嘆と怒りを思えば、極刑を望む気持ちは当然だとも述べる。
1996年11月14日、最高裁判所第一小法廷が上告を棄却した。ここで死刑が確定する。男は控訴中、死刑廃止の会の面会を受けていたが、途中から面会を断るようになる。執行まで、外との連絡は途絶えた。支援者は、連絡が取れていれば再審請求などの手が打てたはずだと話している。
執行は2001年12月27日。東京拘置所で、男は66歳だった。事件から18年6か月がたつ。同じ日、名古屋拘置所でも、愛知と京都の保険金殺人で死刑が確定していた別の死刑囚の刑が執行された。
同じ拘置所にいた別の死刑囚は、のちの著書に、実際の男は物静かで腰が低かったと書いた。凶行との落差に戸惑った、という。犯人は特定され、有罪は確定し、刑も執行された。法的には、完全に決着した事件だ。
「素人でも参加できる」競売
結審の日、弁護人は法廷でこう述べた。1980年秋に競売の制度が新しくなり、素人でも参加できると宣伝された。だが実際の手続きは複雑で、取引に不慣れな被告はリスクを理解していなかった、と。民事執行法の施行は1980年10月1日で、旧競売法はこのとき廃止されている。
結審の翌日、朝日新聞には「開かれた競売」が裏目に出た、という趣旨の見出しが立つ。男が落札した家は入札が入らない厄介な物件で、買い手が少ない理由を、素人の鑑定士は読み違えたことになる。ここまでは、記録で確かめられる。
筆者の見立てを書く。男は評価の専門家だったが、競売の物件で問われるのは評価額ではなく、人が住んでいる状態をどう外すかだった。執行官は引き渡し命令が可能だという意見を述べ、書記官は代金を納めたあとで出せないだろうと言う。同じ裁判所の中で見立てが割れる物件に、男は全財産を担保にして賭けた。計算が合わなくなったとき、手元には期限だけが残る。
制度は、その後も変わった。居座りを助けた短期賃貸借の保護は、占有屋に悪用されたとして、2003年の民法改正で廃止される。施行は2004年4月1日だ。代わりに、買い受け人には6か月間の明け渡し猶予が認められた。ただ、この事件が改正の引き金になったと書いた資料は、探した範囲では見つからない。
競売と占有を絡めた小説なら、宮部みゆきの『理由』が知られる。1998年に朝日新聞社から出て、直木賞を取った。荒川区の超高層マンションで起きた一家4人殺しを描く作品で、練馬の事件を元にしたものではない。百科事典サイトは、同じ題材の小説として、この事件の関連作品に並べている。
世田谷の家にも、明け渡しの期限があった
さて、ネットの「1994年の次女」の話に入る。先に言っておくと、この文言をそのまま載せたページを、筆者は見つけられなかった。練馬の事件を「1994年」「未解決」「次女が生き残った」と書いたものの出どころは、確認できていない。
ただ、混ざる相手の見当はつく。2000年12月30日の夜から31日の未明に、東京都世田谷区で一家4人が殺された事件だ。夫婦と8歳の長女、6歳の長男。
犯人は、いまも捕まっていない。警視庁は延べ約30万人の捜査員を投入し、約1万4700件の情報を調べてきた。2010年に殺人の公訴時効が廃止された。時効は、もうない。25年たった今も、捜査は続く。
並べると、不思議なほど重なる。どちらも東京の住宅街で、夫婦と子どもたちが殺され、幼い子どもまで犠牲になった点も同じだ。どちらの家にも「明け渡し」の期限があった。世田谷の家は、公園の拡張のために都へ土地を売っており、約3か月後に転居する予定だったと、毎日新聞が書く。
筆者は、ここで線を引く。世田谷の事件では、一家にトラブルは浮かんでいないとされ、立ち退きと事件の関係は示されていない。練馬は動機が判決文に残り、世田谷は動機が空白のままだ。違う事件のはずなのに記憶の中で混ざるなら、言葉が同じ引き出しに入っているからではないか。「一家」「東京」「立ち退き」である。
もうひとつ、小説の影も考えられる。百科事典サイトは、野沢尚の『深紅』と吉野朔実の『記憶の技法』を挙げている。名指しこそされないが、この事件で一人生き残った少女を元にした作品だという。「一家が殺され、外出していた子だけが残る」という型は、フィクションの中で何度も使われた。これは筆者の見立てで、裏づけはない。
世田谷の現場には、いまも別の形で人が引き寄せられる。2025年12月の時事通信は、家を囲むフェンスに落書きをした高校生が書類送検されたと伝えた。肝試し感覚で敷地に入った高校生も同じく送検されており、事件の中身を知らないまま、場所だけが独り歩きしている。
跡地は、駐車場になった
地上げ組織の背後説や、跡地の心霊の噂も、探してみた。結論から言うと、練馬のこの事件について、そう語ったページは見つからない。「大泉学園」の名前で出てくる心霊の話は、戦時中の防空壕の跡にまつわる噂だけだった。起訴されたのは男1人で、共犯者が裁かれた記録もない。男は偽名で部屋を借り、1人で教習所に通い、1人で道具をそろえていた。
家は、事件のあとも落ち着かなかった。1987年10月の毎日新聞によると、転売先の建設会社は1983年6月30日付で所有権の仮登記を済ませている。銀行も抵当権を付けていた。室内の家財はそのまま、かなり荒れていたが、閑静な一等地なので3億円以上の値が付くと、業者は注目した。同じ年には別の業者が2億5000万円での売却を持ちかけ、手付金2500万円が絡んで、詐欺で告訴される構えまで出ている。
2007年7月、事件の取材本を出している編集者が、現場を歩いてブログに書いた。家を探すのに手間取った、とある。近所の初老の男性は、あの家は事件のあと、土地の権利が絡んでいたのか、しばらく放っておかれたと話した。それから駐車場になり、つい何年か前に新しい家が建ったそうだ。
男性は、事件の前の朝、会社へ行く途中で父親に会って、少し話をしている。温厚そうな人に見えたという。翌日の帰り道、報道のヘリが上空を飛んでいて、事件を知る。言葉もなかった、という。話している間にも、新しい家の中からは子どもたちのはしゃぐ声がして、洗濯物を取り込む母親が出てきたと、書き手は記している。
