事件の経緯
- 背景 江戸時代から続く迷信が影響し、特定の遺体に薬効があるとの考えが残存していた。
語られている話
- 内容 三重県で、赤子の遺体を焼いて「黒焼き」と呼ばれる呪術的材料や薬とした事件が報告された。
- この行為は、当時の漢方や民間信仰に由来するとされる。
- 明治の怪奇事件として記録され、都市伝説としての不気味さが際立つ。
確認上の注意
- もとの資料にある日時・人数・場所・動機・判決・捜査経過は、公的記録、裁判資料、警察発表、同時代報道で個別確認が必要。
- 「隠蔽」「口封じ」「霊視」「呪い」「異界」「陰謀」などの説明は、独立した裏付けがない限り噂・異説として扱う。
事件の経緯——三重の里に伝わる黒焼きの噂
明治25年(1892年)ごろ、三重県内のある村で、赤子(生まれたばかりの乳児、あるいは死産・間引きされた嬰児とされる)の遺体を焼いて「黒焼き」と呼ばれる呪術的な薬材にしたとされる事件が起きたと伝えられている。「黒焼き」とは、動物や植物、時には人体の一部を、空気を遮断した壺や竈の中でじっくりと蒸し焼きにし、原形をとどめたまま真っ黒な炭状に仕上げる伝統的な製法で、江戸時代から昭和初期にかけて、日本各地に「黒焼き屋」と呼ばれる専門の商いが存在するほど、庶民の民間療法として広く根付いていた文化である。
いもり(井守)の黒焼きが惚れ薬として、あるいはナスのヘタの黒焼きが虫歯や口内炎の薬として売られていたことはよく知られているが、その延長線上に、人体そのもの――特に生命力が強いとされた赤子の遺体――を黒焼きにするという、禁忌中の禁忌とされる行為が一部でひそかに行われていたという噂が、明治期にはくすぶり続けていた。 伝えられるところによれば、三重県内のある集落で、夜な夜な異様な煙とすすけた臭いを漂わせる小屋があり、近隣の住人がその出入りを不審に思っていたという。やがて、その小屋の主が乳飲み子を亡くしたばかりの貧しい家庭や、産婆・拝み屋などを通じて、身元の定かでない赤子の亡骸を密かに引き取っているらしいという噂が立ち始めた。
引き取られた亡骸は、壺の中でじっくりと時間をかけて黒焼きにされ、粉末状に加工されたうえで、「万病に効く妙薬」「不老長寿の秘薬」として、近隣はもとより遠方の富裕な家にまで高値で売りさばかれていたと語られている。 村人たちの間に不穏な空気が広がる中、ついに役人あるいは警察の耳にこの噂が届き、家宅捜索が行われたとされる。踏み込んだ捜査陣が目にしたのは、壺の中に残された小さな骨片や、異臭を放つ黒い粉末、そして乳幼児のものとおぼしき衣類の切れ端であったと伝えられる。この発見により、赤子の黒焼きが実際に商品として製造・売買されていたことが明るみに出て、地域社会に大きな衝撃を与えたという。
ただし、この事件について、いつ・どこの村で・誰が・何人の赤子を用いたのかという具体的な情報は、現在流通しているまとめ記事のいずれにも記載がなく、「三重県・明治25年」という大枠だけが繰り返し引用される状態にとどまっている。事件の後日談――加害者とされる人物が処罰されたのか、何人の関係者がいたのか――についても一切語られておらず、この点は前述の人肉風呂事件と同様、都市伝説化した明治怪奇譚に共通する「結末の欠落」という特徴を色濃く示している。
発祥・初出情報の徹底解説
この事件の初出を特定することは難しいが、背景にある「人体を薬とする」思想そのものは、中国明代の薬学書『本草綱目』(李時珍著)にまでさかのぼることができる。『本草綱目』の最終巻には「人部」という章が設けられ、人間の頭蓋骨(天霊蓋)、毛髪、爪、胆嚢、胎盤(紫河車)、さらには月経血を加工した「紅鉛」に至るまで、およそ37種類もの人体由来の薬材が記載されていたとされる。この漢方の伝統が日本にも輸入され、江戸から明治にかけて、性病や結核、皮膚病といった当時の「不治の病」に対する最後の頼みとして、人体成分を用いる迷信的治療が民間でひそかに実践され続けていた。
明治政府は近代化の一環として、明治3年ごろにはすでに墓地の盗掘や人体を用いた医療行為を法律で禁じていたが、それでもなお明治35年(1902年)に大阪と東京で相次いで発覚した「生首黒焼き事件」のように、墓地から盗掘した遺体を黒焼きにして販売する事件が後を絶たなかった。大阪の事件では、薬製造業を営んでいた花山良吉と妻より江が、共同墓地の管理人と結託して盗掘した頭部を「七分焼き」という独特の技法で頭蓋骨の形を保ったまま黒焼きにし、粉末よりも高値で売りさばいていたことが捜査で判明している。こうした同時代の実例が、赤児の黒焼き事件という噂に強いリアリティを与え、実録犯罪読み物のなかで並べて紹介される土壌を作ったと考えられる。
赤児という、もっとも無垢で庶民の同情を引きやすい存在が「材料」にされたという設定は、話としての衝撃度・拡散力がきわめて高く、明治期の小新聞が好んで取り上げた「奇談」「椿事」の典型例だったと推測される。後年、こうした断片的な三面記事が実録犯罪本や怪奇読み物に採録され、さらにインターネット時代に入って「明治の闇」を扱うまとめサイトによって再編集・拡散されるという経路をたどり、現在私たちが目にする形の「赤児の黒焼き事件」が成立したものと考えられる。
派生・別バージョンとして語られる噂
この事件については、いくつかの異なる語られ方が確認できる。 ひとつは、貧困のために間引き(生まれた子をやむなく間引く、あるいは死産だった子を弔わずに処分する行為)された赤子の遺体が、闇の流通ルートに乗って黒焼き業者の手に渡ったとする、社会の暗部と直結させたバージョンである。この語り口では、事件の主犯は単なる猟奇的な人物ではなく、貧困にあえぐ当時の農村社会そのものが生んだ悲劇として描かれる傾向がある。 もうひとつは、より怪談寄りに脚色されたバージョンで、黒焼きにされた赤子の魂が成仏できず、その粉末を服用した者に祟りをなしたとする話である。
「妙薬を飲んで一時的に病が治ったように見えた者が、その後赤子の泣き声に夜な夜な悩まされるようになり、最後は原因不明の高熱で亡くなった」という筋書きが、怪談系のまとめサイトや朗読動画でしばしば付け加えられている。 さらに三つ目として、事件の発覚のきっかけについて、「近隣の乳児が次々と原因不明の病で亡くなり、村人が『赤子を狙う者がいるのでは』と疑ったことから捜査に発展した」という、より扇情的なバージョンも一部で語られている。これは、実際に幕末から明治にかけて日本各地で広まった、癩病治療のために子どもを狙う者がいるという流言という、当時非常にポピュラーだった都市伝説の類型と、この赤児の黒焼き事件が混交した結果生まれた派生形だと考えられる。
体験談・目撃談として語られる怪異
こうした赤子の黒焼きにまつわる話には、しばしば土地に根ざした体験談が付随して語られる。 ある伝承では、三重県内の旧家の蔵を整理していた子孫が、古い壺の中から素性の知れない黒い粉末を発見し、何気なく処分しようとしたところ、その夜から家族全員が赤ん坊の泣き声のような音を聞くようになり、慌てて寺で供養してもらったところ音がやんだ、という話が伝わっている。 また別の話では、地元の高齢女性が子どもの頃に祖母から聞いた話として、「昔このあたりには、夜中に赤子の泣き声を真似て人を家におびき寄せる怪しい老婆がいた。あれは黒焼き屋の残党だと言われていた」という言い伝えを紹介するものがある。
真偽は定かでないが、こうした「黒焼き屋の亡霊・残党」というモチーフは、赤子の黒焼き事件が単なる過去の犯罪記録にとどまらず、地域の口承怪談として独自の発展を遂げたことを示す好例といえる。 さらに、心霊スポット探訪系のブログでは、三重県内のとある廃屋を訪れた者が、床下から小さな骨のようなものと黒く焦げた壺の破片を発見し、その後原因不明の体調不良に見舞われたという体験談が投稿されている。投稿者はその廃屋を「赤児の黒焼き事件の現場だったのではないか」と推測しており、真偽不明ながらオカルト系サイトの間で話題になったことがある。
掲示板・SNS・オカルト考察界隈での反応
5ちゃんねるのオカルト板や、Twitter(X)上の郷土怪談アカウントなどでは、この事件は「黒焼き」というキーワードを軸に、大阪の生首黒焼き事件や、後年の四日市における遺体脂肪抽出事件(明治41年)とセットで語られることが多い。「黒焼き三部作」などと俗称され、まとめて紹介されるスレッドも見られる。反応としては、「赤子を材料にするのが一番きつい」「江戸から続く迷信の闇が深すぎる」といった感情的なコメントが多く見られる一方、「これも実録犯罪本の孫引きで、一次資料が確認できないのが気になる」と冷静に指摘する考察勢も一定数存在する。
ニコニコ動画・YouTubeの「ゆっくり解説」系チャンネルでも、明治期の迷信・民間療法の闇をテーマにした動画の中で取り上げられることがあり、コメント欄では「本草綱目の話は聞いたことがある、漢方の闇の部分」「昔は本当に赤ちゃんを狙う人がいたと聞いて震えた」といった反応が寄せられている。一部の考察系配信者は、この事件を貰い子殺人(養育費目当てに預かった子を殺害する犯罪で、明治末から昭和初期にかけて各地で摘発された)と関連づけて語ることもあり、赤子の命が軽んじられた時代の闇として、より広い文脈の中に位置づけようとする試みも見られる。
関連する地名・言い伝え・類似する明治期怪奇事件
この事件としばしばセットで語られるのが、明治26年(1893年)3月に三重県で発生したとされる、高島久次郎という人物による小児の遺体掘り起こし・調理事件である。時期・場所ともに近接しているため、この二つの事件が同一の出来事を異なる形で伝えたものである可能性、あるいは民間伝承の中で混同・合成された可能性も指摘できる。さらに明治41年(1908年)3月には三重県四日市で小林兄弟という人物が遺体から脂肪などを抽出し薬として販売していたとされる事件も記録されており、三重県という土地には、明治期を通じて「人体を薬とする」迷信にまつわる事件の噂が複数存在していたことになる。
三重県は伊勢神宮を擁する信仰の篤い土地であると同時に、山間部では独自の民間信仰・呪術的療法が長く残存していた地域でもある。こうした土地柄が、「赤児の黒焼き事件」のような、信仰と迷信と犯罪が渾然一体となった怪奇譚を生み育てる土壌になったと考えられ、今日に至るまで郷土怪談・都市伝説の重要な一項目として語り継がれている。
「赤児の黒焼き」事件を明治の資料から読む
1892年の三重県で赤子を黒焼きにした事件があったという記述は、近代の新聞や犯罪資料に由来するとされる。しかし、現在の記事では発生地、被告名、裁判所、罪名が省かれ、薬を作るための秘密結社や富豪の注文へ話が膨らんでいる。まず同時代の紙面で日付と記事名を確認し、後世の猟奇事件集だけを根拠にしないことが必要である。
「黒焼き」は動植物などを密閉して蒸し焼きにし、粉末状にする民間薬の製法を指した。蛇、イモリ、昆虫など多様な材料が用いられた記録がある一方、人の遺体を材料とする行為が一般的な民間療法だったわけではない。一件の犯罪記録から、明治の村全体に人肉薬の風習があったと広げることはできない。
当時の新聞は、珍奇さや残酷さを強調し、伝聞を含む短い記事を載せることがあった。旧字体を現代語へ直す際も、「嬰児」「死胎」「埋葬前後」など法的・医学的に異なる語を同じ「赤ちゃん」と訳すと、事件の経過が変わる。原文の語句、報道時点での容疑、後の判決を分けて示したい。
死体損壊、遺棄、殺人のいずれが認定されたかも重要である。遺体を加工したという報道だけでは、その人物が死亡させたと証明されたことにはならない。裁判記録が見つからない場合は「殺人事件」と断定せず、報道された容疑と確認できる範囲を明記する必要がある。
祈祷師、産婆、漢方医を一括して犯人像へ結びつける話にも注意したい。職業名が後から加えられた可能性があり、地域の医療や出産に携わった人々全体を迷信深い犯罪者として描くことになる。薬効を信じた動機が報じられていても、当時の公認医療と民間療法の境界を資料から確かめたい。
この題材は乳幼児の遺体を扱うため、刺激的な再現画像や架空の調理手順を加えるべきではない。所在不明の「黒焼き標本」を博物館所蔵品のように紹介せず、所蔵番号、来歴、鑑定結果があるかを確認する。事件の真相が十分追えない場合も、分からない部分を陰謀で埋めないことが大切である。
同じ見出しの事件が別県や別年にもないか、新聞記事の地名と日付を照合したい。転載の過程で三重と滋賀、明治22年と25年が入れ替わる例があれば、別事件を合成せず個別に戻す必要がある。
参照:国立国会図書館デジタルコレクション「明治期新聞資料」https://dl.ndl.go.jp/
