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08|静岡県伊豆半島女児失踪事件

虫取り網を持った女の子は、旅館の小径にいた

旅館の玄関先から、細い小径がのびている。そこで6歳の女の子が、ほかの宿泊客の子どもたちと虫取り網を振り回していた。荷をほどいたあとの、夕食までのほんの短い時間だ。ここまでが、出回っている筋書きの前半になる。

場所は静岡県の伊豆半島。日付は1989年8月13日。両親と祖父母を含む一行が、盆休みの旅行で温泉旅館に泊まっていた。朝から海沿いの観光地を回り、昼過ぎに旅館へ戻ったという。

母親が呼びに出たのは、数分後か十数分後だったとされる。小径に女の子の姿はない。一緒に遊んでいたはずの子どもたちに聞いても、返ってくるのは「気づいたらいなくなっていた」だけだった。誰も、立ち去る瞬間を見ていない。

旅館の従業員も、近所の土産物店の人も、地元の消防団も出て、周辺を捜したという。警察は聞き込みと山狩りを重ね、海沿いの磯まで調べたが、おもちゃひとつ、履物の片方さえ出てこなかった。目撃情報は、ゼロ。

痕跡が一切残らない。元になったまとめ記事は、この話をそう結んでいる。付いた評価はミステリアス度の星4つで、理由の欄には、観光地での不可解な失踪、とだけ書いてある。

真相の考察欄は、ごく短い。旅館周辺の霊的な力か、瞬間的な異界への移動か。最後に、日常の中の神隠し、と添えてある。出どころも、新聞名も、被害者の名前も、どこにも書かれていない。

正直に言うと、ここで引っかかった。1989年の8月に伊豆で6歳の子が消えたなら、全国ニュースになっていていいはずだ。ところが、ウェブで調べられる範囲では、その名前の事件を報じた記事も、警察の公表資料も見つからなかった。

筋書きには固有名詞がひとつもなく、旅館の名前も、町の名前も、警察署の名前も、女の子の名前もない。実在の事案なら必ず付いてくる手がかりが、この話にはひとつもない。

十件の神隠しの、八番目に置かれた話

元の記事は、日本で実際にあった神隠し事件を10件並べたまとめだった。群馬の神社で消えた主婦、徳島の幼児、北海道の一家と、題材はばらばらだ。伊豆の女の子は、その8番目に入っている。

ページの冒頭には、被害者や遺族への配慮から、事実に基づく記述に徹する、という断り書きがある。ところが中身は、どの件も同じ形だ。ミステリアス度の星、概要、理由、真相考察の4行。真相考察は、10件すべてが「霊的な力か、異界への移動か」のような二択で終わる。

その10件のうち、確かめられる話がひとつある。2番目の、4歳の男の子の話だ。まとめ記事には、1989年3月7日に山口県徳山市で、自宅裏の空き地で遊んでいるうちに数分で消えた、と書かれている。

徳島県警察本部の公表ページは、まるで違う。行方不明になったのは平成元年3月7日の朝で、場所は徳島県貞光町、いまのつるぎ町。茨城県から帰省していた男の子が、消えた。

特定失踪者問題調査会の公開ページによると、現場は親戚宅の前だった。徳島新聞は、両親が目を離したのは40秒ほどだと伝えている。まとめ記事の山口県も、自宅裏の空き地も、数分も、公的な記録とは合わない。

日付と年齢だけ合っていて、あとが全部ずれている。実在の事案でさえ、こうなる。まあ、出どころの書かれていない表の8番目を信じる根拠は、薄いと言うしかない。

噴火から1か月後の日曜日

では、1989年8月13日の伊豆は、どんな夏だったのか。暦を引くと、この日は日曜日だ。盆の入りの、日曜日。

伊豆半島の東の海は、その夏、揺れていた。研究機関の報告によると、伊東沖の群発地震は6月30日に始まり、7月4日にピークを迎えた。最大の地震は7月9日の午前11時9分で、マグニチュード5.5。7月13日には、海底噴火に至った。

噴火したのは、伊東市の沖の海底にできた手石海丘という火山だ。百科事典には、最大の地震で21人が軽いけがをした、報道陣が伊東市に押しかけた、とある。気象庁の火山噴火予知連絡会は、その年の10月に、観測結果をまとめた会報を出している。

8月13日は、噴火のちょうど1か月後にあたる。伊豆の報道がそれだけ厚かった夏に、観光客の子どもが消えたら、どうなるか。筆者の見立てでは、新聞が見逃すとは考えにくく、記録が見つからないのは、事件のほうが存在しないからだと思う。

世の中の目は、もうひとつの事件にも向いていた。東京と埼玉で、幼い女の子が4人、1988年8月から1989年6月にかけて消えた事件だ。7月23日、東京都八王子市で男が逮捕された。

事件の名は、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件という。報道は異例の規模になり、百科事典によれば、学校の集団下校が広がり、校門前に交番が置かれた。子どもが消える話に、誰もが敏感になった夏だった。

だから筆者は、こう考える。この日付を選んだ書き手は、その夏の空気を借りたのかもしれない。もちろん、根拠の薄い見立てだ。確かな記録は、どちらの側からも出てこなかった。

「あの世の扉が開く日」は旧暦ではなかった

元の原稿は、8月13日を旧暦のお盆にあたる日だと書いていた。あの世とこの世の扉が開く日だから、噂が広がる土壌になった、という理屈だ。聞こえはいい。けれど、日付の説明が合っていない。

8月13日は、月遅れ盆の迎え火の日だ。明治6年(1873年)に新暦が採用されたとき、旧暦7月15日のお盆を1か月遅らせて、8月15日に営む地域が増えた。新暦の7月は農繁期と重なる。そのずらしは、実務の判断だった。

いまは全国の大半の地域が、8月13日から16日を盆にしている。出どころによって、8割前後とも9割ほどとも書かれている。旧暦のままお盆を営むのは沖縄や奄美の一部で、旧暦という言葉は、この日付には当てはまらない。

迎え火を焚く日であることは、間違いない。13日の夕方、家々は先祖の霊を迎える。盆の入りの夜に子どもが消えた、という話は、それだけで怪談の芯になる。

筆者の見立てでは、8月13日はこの話にとって都合のいい日付だった。実在の記録が見つからない以上、日付が先に選ばれた可能性は否定できない。盆の入りに消えた子。1989年という数字。どちらも、怪談の部品としてそろいすぎている。

電話ボックスは、旧トンネルの前に立っていなかった

天城トンネルの電話ボックスの話を、元の原稿は旧トンネルの北側の駐車場だと書いている。雨の日に女性の霊が出る、という噂だ。ここも、出どころをたどると食い違う。

手がかりは、心霊スポットの書き込みをまとめたサイトにあった。2001年から2017年までの掲示板の書き込みが、市町ごとに集められている。伊豆市の項では、電話ボックスの霊が出るのは新しい方の天城トンネルの北側入口の駐車場、と説明されている。

同じページには、2002年6月の書き込みもある。もう無いけれど、浄蓮の滝にあった電話ボックスも危ない場所だったらしい、という趣旨の一行だ。電話ボックスの噂は、旧トンネルの外に、少なくとも2か所あった。

旧天城トンネルのほうは、実在がはっきりしている。静岡県の説明では、全長は約445.5メートル、幅は約4.1メートル。明治37年(1904年)に竣工し、現存する石造の道路トンネルとしては日本最長だ。2001年6月15日には、道路トンネルとして初めて国の重要文化財に指定された。

下田街道は、黒船の来航と下田の開港で、江戸時代の末に往来が増えた。最大の難所が天城越えで、1900年にトンネルの工事が始まる。土木遺産を紹介するページによると、石は大仁町の吉田石を使い、5年がかりで1905年に開通した。標高は約710メートルの峠だ。

電話ボックスがあったという浄蓮の滝は、旧トンネルを通る踊子歩道の起点にあたる。滝から河津七滝までの16.2キロが、その歩道だ。伊豆市の観光サイトは、川端康成の『伊豆の踊子』ゆかりの場所として紹介している。幽霊の話は、そちらには一行もない。苔むした石の内側はひんやりして、昔の空気が残っているような印象を受ける、と書いてあるだけだ。

天城路は1986年8月に、日本の道100選に選ばれた。トンネルのほうは、1998年に登録有形文化財、2001年に重要文化財という道をたどる。舗装されていた入口の道は、その時期に剥がされて、観光の場として整えられた。

旧トンネルの怪談を整理した読み物では、語られるのは甲冑の武士、後ろをついてくる女性、エンストやラジオの雑音だった。電話ボックスも、子どもの笑い声も、そこには出てこない。

原稿には、トンネルの奥から子どもの笑い声が聞こえた、という投稿も引かれていた。書いた人の名前も投稿の日付も確かめられなかったので、出どころの見つからない台詞は、ここでは使わない。

三尺の鼻をつかんだ和尚と、誰にも読めない詫び状

柏峠は、伊東と中伊豆を分ける尾根にある。いまも車道は通じておらず、行けるのは遊歩道だけだ。江戸時代より前から、伊東と中伊豆を結ぶ大事な街道の一本だ。

険しい道だったので、明治15年(1882年)に、伊東と冷川の両村の有志が柏トンネルを掘った。ところが、明治39年に新しい県道が開通すると、峠道は次第に廃れた。トンネルは、いまは崩れている。旧道沿いには、天狗の証文のほか、松月院の宝印や柏峠の黒曜石といった史跡や伝説が点々と残る。

天狗の話は、峠の伊東側にある日蓮宗の佛現寺に残る。日蓮が伊豆へ流された1261年に始まる、古い寺で、山門は江戸時代の末の建物だ。寺の紹介によれば、万治元年(1658年)のころ、柏峠に天狗が現れて、往来の旅人を悩ませていた。

当時の住職の日安和尚は、豪傑で知られた人だった。和尚は峠へ出向き、現れた天狗の3尺あまりの鼻を、両手でつかんでひねる。たまらず松の梢へ舞い上がった天狗が、風とともに投げ落としたのが、一本の巻物だった。

巻物は長さ1丈あまり、2900字ほどの文字が並ぶが、その文字はいまも解読されていない。詫び状だろう、ということで、天狗の詫び証文と呼ばれてきた。

ここで、元の原稿の言い分を確かめておく。原稿は、動画のコメント欄の書き込みとして、詫び状は天狗が二度と人をさらわないと誓った証だ、と紹介していた。寺の伝承に出てくるのは、旅人を悩ませた天狗であって、子どもをさらった天狗じゃない。

しかも、巻物は読めない。何と書いてあるのか、誰も知らない。「誓いが破られた」という解釈は、読めない文字に読み込んだ想像でしかない。そのコメント自体も、確かめられなかった。

伝承の筋は、ひとつではない。ある紹介では、日安上人が峠で7日間祈祷をして、満願の日に松の巨木を切り倒すと、枝に巻物が引っかかっていた、という。静岡放送のラジオ番組の解説者は、大木を切る口実に天狗が要ったのではないか、と読んでいた。

天狗が子どもをさらう話は、別の場所で出てくる。さっきの書き込みのまとめに、2001年5月の投稿があった。天城湯ケ島町の月ヶ瀬で、温泉の川向かいの山に登ると天狗にさらわれる、と従兄弟に聞いたという内容だ。

昔その山に登って行方不明になった子がいたらしい、とも書いてある。書き込んだ人は、そのあとに自分で、子どもに山へ登らせないための大人のデマかもしれない、と付け足していた。

この付け足しが、いちばん現実に近い。禁忌の側から見ると、「天狗がさらう」と言えば、子どもは山へ行かなくなる。守らせたい大人にとっては、柵より安く済む。

筆者の見立てを書く。山や川に子どもを近づけないために、天狗の名が使われた例は、土地ごとにあったはずだ。ただし、月ヶ瀬の話は従兄弟からの伝聞で、行方不明の子が実在したかどうかは確かめようがない。

湯けむりの向こうの人影は、どこにも書かれていない

独鈷の湯は、修善寺温泉の真ん中、桂川のほとりにある。伊豆市の観光サイトによれば、807年に弘法大師が、孝行な若者を見て岩に独鈷を打ち込むと、湯がわいたという伝説がある。

元の原稿は、この湯を修善寺川沿いの共同浴場だと書いていた。夜遅くに湯につかっていたら、湯気の向こうに小さな人影が見えた、という投稿者の話が続く。

市の観光サイトは、はっきり書いている。独鈷の湯は見学のみで、入浴はできない。足湯としても使えない。夜中に湯につかる、という体験談そのものが、いまの独鈷の湯では成り立たない。

いつから入れなくなったのかは、確かめられなかった。念のため断っておくと、昔は入れた時期があったとしても、原稿の投稿者がいつの話をしているのかが分からない。

心霊スポットの書き込みをまとめたサイトには、独鈷の湯の話がひとつだけある。2001年7月の書き込みで、若い女が風呂に入っていくのを見て、あとをついていったら誰もいなかった、という内容だ。書いた人は「誰か聞いたことある?」と尋ねているだけで、自分の体験としては書いていない。

小さな人影、という描写は、どこにも見当たらない。筆者の見立てでは、原稿の体験談は、この書き込みを子どもの話に寄せて作り直したものに近い。もちろん、決め手はない。

目を離した40秒と、600メートル先の沢

作り話ではない失踪の話を、ここで2つだけ書く。どちらも、公的な記録や新聞で確かめられる。名前は出さないでおく。

ひとつ目は、1989年3月7日の朝、徳島県貞光町で消えた4歳の男の子だ。前日、一家は小松島市で祖母の葬式に出ていた。特定失踪者問題調査会のページによると、朝8時15分ごろ、父親が子どもたちを連れて、親戚宅の前を数分散歩していたという。

玄関から入ってこない子に気づいた父親は、抱いていた弟を家の中の母に渡して、すぐ玄関先へ出た。そこにいたはずの男の子が、もういない。家族は手分けして探し、昼過ぎに警察へ通報した。

警察犬が出て、警察と消防と地元の人による大規模な山狩りもあった。手がかりは、出ない。3月15日ごろの夜には、親戚宅の母親に、徳島弁の女性から不審な電話があった、と調査会は記録している。

調査会は、北朝鮮による拉致の可能性を排除できない失踪者を公開している団体で、この件も第15次公開に入っている。そのページには、同じ年の4月か5月に、徳島県の海辺で子どもを抱いて海を見ていた不審な男性を見た、という情報も載っている。確かめられた話ではない。それでも、調査会が情報を集め続けてきたことは分かる。

2018年には、テレビ番組で紹介された身元不明の男性が似ている、という情報が県警に寄せられた。県警は、いったん別人と判断した。両親の試料の採取は見送る、とも伝えている。ところが翌日、一転して採取した。理由は、明らかにされていない。

ふたつ目は、2019年9月21日に、山梨県道志村のキャンプ場で消えた7歳の女の子だ。新聞各紙によると、友人を追ってテントを出た午後3時40分ごろから、行方が分からなくなった。

2022年4月23日、捜索のボランティアが、キャンプ場から東へ約600メートルの山道脇で、頭の骨の一部を見つけた。5月には、枯れた沢の沿いで運動靴の両足と肩甲骨が出る。不明から2年半以上がたっていた。

5月14日、県警は遺伝子型の鑑定で本人と断定し、死亡したと判断した、と発表した。県警の方針は、事故と事件の両面からの捜査だ。不明後の足どりは、多くが分かっていない。家族が開いたホームページによると、大規模な捜索は10月6日まで続いた。

元の原稿は、この2つを、いまも未解決の失踪事案として並べていた。後者は、2022年に遺骨が見つかって県警が死亡と判断しているし、前者は観光地ではなく、親戚宅の玄関先だ。警察が神隠しという言葉で片づけたのでは、という原稿の読みも、実在の2件には当てはまらない。県警は山狩りをして、情報提供を呼びかけた。

2つの話には、共通点がある。時刻も場所も年齢も、発表した機関も書けるが、伊豆の女の子の話は、そのどれも確かめられない。ここが、作られた話と実在の事案の、いちばん大きな差だ。

神隠しと呼ぶ前に、数える

神隠しという言葉は、古い。百科事典によれば、『耳嚢』には寛政8年(1796年)の事例として、太鼓と鐘を叩いて子どもの名を呼ぶ風習が記録されている。江戸の人は、消えた子を呼び戻すために、音を鳴らして名を呼んだ。

文政3年(1820年)に、ひとりの少年が江戸へ戻ってきた、とされる。7歳で天狗に連れ去られたという寅吉で、国学者の平田篤胤が聞き取りをして、『仙境異聞』の執筆に役立てた。戻ってきた子は、空を飛んで各地を見物した、天狗から術を習った、と語ったという。天狗攫いは、江戸の人にとって、失踪の説明のひとつだった。

百科事典によれば、天狗攫いの特徴は、数か月から数年のうちに、子どもが元の家へ帰されることにある。伊豆の話は、消えたまま終わる。天狗の型とは、噛み合わない。筆者の見立てでは、天狗の名は、あとから貼り付けられた飾りにすぎない。

柳田国男は、『山の人生』で神隠しの事例を集めている。初出は1925年のアサヒグラフ。単行本は1926年(大正15年)に出ている。民俗学者たちは、神隠しの中身を、迷子、家出、誘拐、口減らし、事故などとして考えてきた。

神隠しの下には現実の原因がある、と昔から読まれてきたわけだ。だったら、いまの数字を見ておく価値はある。警察庁の統計では、2025年(令和7年)に届け出のあった行方不明者は8万486人。9歳以下は982人で、人口10万人あたり11.8人だった。

見つかったかどうかは、この数字からは読めない。1989年の数字も、確かめられなかった。だから、比べることはできない。ここ5年の9歳以下は、982人から1,115人のあいだで動いている。最も多いのは10歳代で、1万8,288人。

旅館の小径の話に近い数字も、もうひとつある。警察庁の水難の概況によれば、令和7年に水難にあった中学生以下は177人で、うち死者・行方不明者は27人だった。その27人の発生場所は、海が12人、河川が12人。海と川で、24人になる。

7月と8月だけで見ても、中学生以下の水難者は103人にのぼる。静岡県は、令和7年の水難が48件で、そのうち水難者が中学生以下のみの件数は8件だった。

筆者の見立てを書く。海と川に近い観光地で、盆の時期に子どもが消えたなら、水を疑うのが統計の側の読み方になる。ただし、これは一般論だ。実在の事案がない以上、当てはめる相手はいない。

練羊羹の包み紙になった詫び状

この話がなぜ出回るのかを、最後に考える。実在の記録がない話を、10件の表に混ぜておくと、得をするのは誰か。筆者の見立てで書く。

まとめ記事は、星の数と二択の決まり文句で、実在の事案も作り話も、同じ形にそろえている。同じ形なら、読む人は本物と見分けない。確かめる手間を払うのは、いつも読む側だ。

一方で、天狗の詫び状は、土地の側に得をした人がいる。伊東の和菓子店の玉屋が、この伝説をもとにした練羊羹と最中を売っているからだ。伊東観光協会も、土産として紹介している。天狗詫状ようかんは、玉屋の商標登録商品だと、店の紹介にある。

練羊羹の包みには、巻物の写しと由来が印刷されている。佛現寺でも買える。読めない文字が、土地の名物になった。

佛現寺の巻物は、一般には公開されていない。見られるのは、羊羹の包み紙の写しだけだ。

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