給料日の夜、背中から撃たれた警部
冬の札幌の話だ。1952年、昭和27年1月21日の午後7時42分頃。場所は北海道札幌市中央区南6条西16丁目付近の路上だ。札幌市警察本部警備課長・白鳥一雄警部、当時36歳。勤務を終えて自転車で帰宅する途中だった。
では、何が起きたのか。後方から自転車で接近してきた何者かに、拳銃で背後から狙撃された。心臓部に被弾し、まもなく絶命した。使われたのは口径32のブローニング拳銃とみられている。冬の夜道で、後ろから近づいてくる自転車の気配に、白鳥警部がどこまで気づいていたのか、今となっては確かめようがない。
白鳥警部は特高警察の出身だ。戦後は公安警察官として左翼勢力の内偵にあたっていた。党関係者からは「共産党弾圧の急先鋒」として強く敵視されていた人物だった。党の側から見れば、自分たちの動きを探り続ける公安の顔そのものが、この白鳥警部だったわけだ。
事件の日の話だ。当日は給料日だった。娘たちに「お土産を買って早く帰る」と言い残して出かけていた。司法解剖では、月給袋が手つかずのまま上着のポケットに残されていたことが確認されている。「お土産を買って早く帰る」と言い残して出かけた父親は、その夜、娘たちの待つ家へとうとう戻ることができなかった。
名前の由来は単純だ。この事件は発生地の警察官名を取って「白鳥事件」と呼ばれた。下山事件、三鷹事件、松川事件と並ぶ「戦後四大ミステリー事件」の一つに数えられることも多い。占領期から講和独立期にかけての日本を揺るがした事件群だ。
とりわけ引っかかるのは、この事件の決着のしかたなんだよな。日本共産党の関係者が組織的な関与を疑われた。最終的に、党の札幌市委員長だった村上国治氏が殺人罪の共謀共同正犯として起訴され、有罪が確定した。法廷では一応の決着がついているのに、当時の記録を読めば読むほど腹の底に収まりの悪さが残る、そういう事件だ。
けれども、話はそれで終わっていない。実行犯とされる人物は国外へ逃亡した。身柄を確保できないまま今日に至っている。だから事件の全体像は、完全には明らかになっていない。「未解決性の高い事件」として位置づけられているのは、そのためだ。
51年綱領と、札幌に張りつめていた空気
事件の裏には、路線の大転換があった。1951年10月、日本共産党は「51年綱領」を採択した。武装闘争路線への転換だ。朝鮮戦争はまだ続いていた。銃声の意味を考えるなら、この時代の空気を頭に入れておかないと、話の筋がまるで見えてこない。
ソ連と地理的に近接する北海道は、公安上の重要拠点とみなされていた。火種だらけの土地だ。日本の警察、在日米軍情報部(CIC)、党の非公然組織。三者が入り乱れる緊張状態にあった。警察と米軍と党が同じ札幌の街で、互いの動きをじっと探り合っていたのだから、空気が張りつめないほうがおかしい。
北海道地方委員会は事件の前から、白鳥警部を「特高あがりで共産党に対して最も悪辣である」と評価していた。その評価は党内で共有されている。村上自身も学習会の場で「白鳥はもう殺してもいい奴だな」と発言していた。そのことが後の裁判で、複数の関係者の供述により指摘されている。銃声が鳴る前から、党の内側ではここまで強い言葉が白鳥警部という一人の警察官に向けられていた、というわけだ。
事件当日、札幌市内では「天誅ビラ」が配布されている。党の地方委員は当初、「天誅を下す言葉は我々の辞書にない」と関与を否定した。ところが翌日には一転して、「白鳥氏殺害は官憲弾圧への愛国者の英雄的行為」とする声明を出した。ちぐはぐにもほどがある。党内の混乱した対応が、そのまま記録に残っている。
捜査は難航した。動きが出たのは1952年8月だ。党の副委員長格だった人物、裁判記録ではSと表記される人物が逮捕された。自供が始まったのは同年11月末だ。ここから先、一人の逮捕をきっかけにして、事件は関係者たちの供述を軸に、法廷へ向けて大きく動き始める。
逮捕は続く。同年10月1日には、村上国治が街頭での選挙運動中に逮捕された。翌1953年4月には別の党員、追平雍嘉が逮捕された。上申書、いわば手記で自供内容を裏付けたとされる。党の札幌市委員長が、選挙運動のために街頭に立っているところを押さえられたわけで、人目の多い場所での逮捕だけに、これはさすがに目立つ。
検察側の主張はこうだ。実行犯は「ひろ」の名で知られた元日本海軍下士官の党員で、佐藤博とされる人物。事件の一週間前にも白鳥を狙撃しようとして、不発に終わっていた。
裁判は長期化した。検察が村上を殺人罪の共謀共同正犯で起訴したのは1955年8月だ。一審の札幌地方裁判所は1957年5月、幌見峠での射撃訓練の実施などを認定したうえで、村上に無期懲役を言い渡した。法廷での争いはここから先、控訴審、上告審と舞台を移しながら、最高裁の判断が出るまで何年にもわたって続いていく。
控訴審の札幌高等裁判所は1960年5月、量刑を懲役20年に減刑した。6月とする資料もある。村上側は上告した。けれど最高裁判所は1963年10月17日に上告を棄却し、懲役20年の有罪判決がここに確定した。
共に起訴された関係者の処分も確定している。Sは懲役3年・執行猶予4年。党を離脱して検察に協力した関係者、裁判記録でTと表記される人物は懲役3年・執行猶予3年だった。懲役20年の実刑となった村上とは対照的に、この二人はどちらも執行猶予つきの判決で決着しており、差ははっきりしている。
ちなみに、いずれも確定した法的事実だ。村上国治氏は、日本の裁判所で殺人罪の共謀共同正犯として有罪が確定した人物である。この点は動かない。
有罪認定の中心にあった物証は、弾丸の同一性だった。白鳥警部の遺体から摘出された「206号弾丸」。1953年8月および1954年4月に幌見峠で発見されたとする「207号・208号弾丸」。この三つが同じ銃から出たのかどうか。そこが最大の争点だ。
東京大学の磯部孝教授は1955年11月の鑑定書で、「異なる銃器から発射された確率は1兆分の1より小さい」とする鑑定結果を示した。これが有罪認定の大きな根拠となった。数字だけ見れば決定的だ。
ところが、話はそう単純でもない。国警科学捜査研究所は1953年9月の時点で、「同一銃器と断定できない」とする鑑定を出していた。警察庁科学捜査研究所も1954年7月、「同一銃器の類似発射痕特徴を発見できない」との鑑定を示していた。当時から鑑定結果に食い違いがあったことは、記録に残っている。専門家の目も割れていた。
「疑わしきは被告人の利益に」を刻んだ決定
村上国治氏は、一貫して身の潔白を主張している。服役中の1965年には再審請求を申し立てた。ここからの広がり方が尋常じゃない。支援運動は全国に及び、110万人を超える署名活動や「白鳥大行進」と呼ばれる大衆行動が展開された。
この再審請求は、最終的に認められていない。1975年5月20日、最高裁判所は全員一致で村上の特別抗告を棄却する決定を下した。とはいえ、この決定には単なる請求棄却にとどまらない大きな意味があった。棄却という結論だけ見れば村上側の負けなのに、この決定はその後の日本の再審の歴史を、根っこのところから大きく動かしていく。
最高裁はこの決定の中で、新たな法理を示したのだ。再審制度でも、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則が適用される。そう述べている。再審の扉の前にも、刑事裁判のいちばん根っこにある原則がちゃんと立っている、と宣言したわけだ。
ここが肝だ。それまでの再審は、確定判決を完全に覆す証拠がなければ門が開かなかった。白鳥決定は、その門戸を実質的に広げるものとなった。証拠の壁がそれだけ高かったから、再審の門は長いあいだ、ほとんど閉ざされたも同然の状態にあったわけだ。
1980年代に相次いだ免田事件、財田川事件、松山事件、島田事件。死刑確定囚の再審無罪判決が続いたあの流れを準備したのが、この決定だった。司法史上重要な先例として位置づけられている。死刑が確定した人たちが次々と再審で無罪を勝ち取っていくあの展開は、この決定を抜きにしてはとても語れない。
村上氏自身は1969年11月に仮釈放されている。埼玉県内で日本国民救援会の副会長を務めるなどした。1994年11月3日、自宅火災により71歳で死亡した。仮釈放のあとも、村上氏は日本国民救援会の副会長という立場で、支援運動の側に身を置き続けていたわけだ。
話を逃げた側へ移そう。実行犯とされた党員たちは日本への身柄拘束を免れたまま、国外へ逃れている。裁判記録などによれば、使われたのは「人民艦隊」と呼ばれる密航ルートだ。実行犯と目された人物や、隠蔽への関与を疑われた党員。党の手引きにより、1955年前後に中国へ不法出国したとされる。
行き着いた先は北京だ。そのうち1名は1988年に北京で病死し、八宝山革命公墓に埋葬されたと伝えられる。もう1名は、北京外国語大学で日本語教師を務めていたとされる人物だ。こちらは2012年3月に北京で死去したと報じられている。
ところが、中国当局からの正式な死亡確認が日本側になされていない。だから日本の逮捕状は、現在も半年ごとに更新され続けているとされる。2022年4月時点でそれぞれ160回超。日本の刑事手続き上、最も更新回数の多い、効力のある逮捕状の一つになっているという報道もある。紙の上ではまだ終わっていない。
話はまだ続く。2010年の刑事訴訟法改正で、殺人罪の公訴時効は廃止された。仮に該当人物の生存が確認された場合、法的には現在も訴追の対象たり得る。時効という逃げ道がふさがれた以上、少なくとも法律の上では、この件の追及にはもはや期限というものが無い。
この事件は、いわば二重構造なんだよな。村上国治氏ら共謀共同正犯として起訴された関係者の刑事責任は、判決確定によってすでに法的に確定済みだ。それに対して、実行犯とされる人物の刑事責任は宙に浮いたままだ。身柄が確保されないまま今日に至り、公式には未解決の「時効なき指名手配」が続いている。
冤罪か、党の犯行か、それとも米軍か
この事件については、有罪が確定した村上国治氏本人の冤罪主張を軸に、いくつもの見方が並立してきた。正直、ここが一番ややこしい。有罪か無罪かだけでなく、誰が計画し、誰が引き金を引き、誰が背後にいたのかまで、論者によって見方が大きく割れている。
第一に、村上氏自身とその支援者が長年主張してきた立場がある。村上氏は謀議に関与しておらず、党内の別のグループが独自に実行した犯行に巻き込まれた、という見方だ。あるいは弾丸鑑定をはじめとする物証が、捜査機関によって恣意的に構成された、とも主張してきた。
この立場を補強する材料は、繰り返し指摘されてきた。前述した鑑定結果の食い違い。自白を引き出す過程での長期勾留や別件逮捕などの、捜査手法の問題点。どちらも軽くない。
次は松本清張だ。第二に、ジャーナリスト松本清張が著書『日本の黒い霧』で提示した見方がある。白鳥警部が在日米軍情報部(CIC)の情報提供者として、すすきののバーに出入りしていた。そこに着目し、米軍情報機関や公安警察側の関与を示唆する論だ。
いわば「スパイ・査察官」的な人物こそが真の実行者、ないし黒幕ではないか。そういう仮説の系譜にあたる。
とはいえ、反論も出ている。北海道の地元紙関係者からは「CICにとって白鳥は重宝な情報源であり、消す動機がない」との指摘が出された。この説は状況証拠の域を出ていない。支援者や一部の論者による仮説の一つとして扱うのが妥当である。
第三に、これとは対照的な立場がある。渡部富哉氏をはじめとする研究者の一部は、長野県松本市の旧司法博物館に保管されていた裁判記録を独自に発掘し、分析した。追平雍嘉の上申書も含まれている。そこから、党の札幌委員会による組織的犯行だったとして「冤罪ではなかった」と主張している。
党関与説を補強する材料も出ている。事件当時に道委員会の軍事部門幹部だったとされる人物が、1998年に自費出版した回顧録がある。そこで米軍による謀略説を否定し、党員による計画的犯行であったことを認める記述を残した。
2012年には、検察に協力したとされる関係者本人が報道機関の取材に応じている。「中核自衛隊が計画を進めていたのは事実」と述べた。検察側に協力した当事者本人の口から出た言葉だけに、この一言は軽く読み流せるものではないと、個人的には思う。
ここで整理しておきたい。これらの説はいずれも、有罪確定という法的事実そのものを覆すものじゃない。村上国治氏個人の関与の程度、実行犯とされる特定人物の実像、事件の黒幕の有無。ここは支援者と研究者の間の見解の対立として読まないと、話がずれてしまう。
実行犯とされる人物についても、慎重さがいる。起訴事実を裏付ける供述や状況証拠は存在する。けれど当人が公判で直接裁かれたことはない。断定的な人物特定は避けるべきだ。
松川事件と混ぜて語られてきた七十年
白鳥事件は、下山事件・三鷹事件・松川事件と、よく合わせて語られる。括りが雑すぎる。ところが、これら国鉄がらみの三事件とは事件の性質も舞台もまったく異なる。同じ時代に起きた、同じく共産党の影がちらつく事件、というだけの理由で、四つまとめて一緒くたにされてきたわけだ。
それでも「占領期・講和期の共産党がらみの怪事件」という括りで、ひとまとめに紹介される。ネットのまとめ記事や動画で、この扱いはしばしば見られる。まとめ記事の見出しに四つ並べておけば、読む側には一つながりの物語のように見えてしまうのだから、厄介な話だ。
やっかいなのは松川事件との混同だ。松川事件は1949年、東北本線の列車転覆事件で、被告全員が最終的に無罪確定に至っている。白鳥事件のほうは被告の一部が有罪確定。結末がまったく逆の二つの事件が、混同して語られる例も少なくない。
大衆文化の面では、松本清張の存在が大きい。清張が『日本の黒い霧』の中で公安・米軍関与説の可能性に触れた。それがこの事件を「昭和の怪事件」として広く知らしめる、大きな契機となった。
近年の仕事も紹介しておきたい。2011年、HBC北海道放送がラジオドキュメンタリー『インターが聴こえない―白鳥事件60年目の真実―』を制作している。関係者への取材で事件の実像に迫る内容が評価され、同年の放送文化基金賞とギャラクシー賞をそれぞれ受賞している。
書籍も途切れていない。渡部富哉『白鳥事件偽りの冤罪』をはじめ、党関与説と冤罪説の双方の立場からの著作が刊行され続けている。地元北海道の郷土史、司法史、戦後左翼運動史。事件から70年以上を経た現在も、そのどの切り口からも継続的に論じられている、数少ない事件の一つだ。
ここを取り違えると全部ずれる
先に断っておく。この事件にはよくある誤解がいくつもある。順に整理しておきたい。
一つ目。「白鳥事件では被告全員が無罪になった」という誤情報が散見される。これは不正確だ。村上国治氏をはじめとする起訴された党関係者については、最高裁まで争われたうえで有罪が確定している。無罪判決が出た事件じゃない。
無罪が確定したのは松川事件のほうだ。両者を混同しないよう注意してほしい。片方が無罪、片方が有罪という正反対の結末を、同じ箱に入れて語ってしまうと、話が根こそぎ狂う。
二つ目は、白鳥決定の意味だ。これは「村上氏の再審が認められて無罪になった」という話じゃない。白鳥決定はあくまで、特別抗告、すなわち再審請求を棄却する決定の中で示された法理である。村上氏の再審そのものは認められていない。
この点は法律の教科書的な説明でもしばしば省略される。だから「白鳥事件=冤罪が晴れた事件」という誤解が生まれやすい。結論だけが一人歩きすると、請求を退けたはずの決定が、いつの間にか冤罪を晴らした勝利の物語に書き換わってしまう。
三つ目。実行犯とされる人物について、実名や経歴が断定的に語られる記事も一部にある。けれど当人が日本の法廷で裁かれた事実はない。供述証拠や状況証拠に基づく「とされる人物」の域を出ないことに、留意しておきたい。
四つ目は括りの問題だ。下山事件・三鷹事件・松川事件と合わせて「国鉄三大ミステリー事件」と呼ばれる場合もある。ところが白鳥事件は国鉄がらみの事件じゃない。警察官の狙撃事件であり、厳密にはこの括りに含まれない。四事件をまとめて紹介する記事では、この違いが曖昧にされがちだ。
2026年7月20日の時点で、あらためて全体を俯瞰してみる。白鳥事件は「捜査・裁判が完結した部分」と「捜査・裁判が完結していない部分」が同居している。稀有な構造を持つ戦後事件だ。
共謀共同正犯として起訴された村上国治氏らの刑事責任は、法的にはすでに確定している。1963年の最高裁判決と、1975年の白鳥決定、すなわち再審請求の棄却。この二つで決着がついた。
問題は残りの半分だ。実行犯とされる人物は国外逃亡のまま身柄を確保されていない。日本の逮捕状はいまも定期的に更新され続けている。2010年の公訴時効廃止により、殺人罪としての法的な追及可能性そのものは理論上失われていない。
時間は待ってくれない。関係者の高齢化や死亡が相次いで報じられている。事件の全容が当事者の証言によって直接語られる機会は、年々失われつつある。村上氏本人はすでに1994年に世を去った。事件当時の関係者の生存者も、いまはごく限られる。
白鳥事件は「法的には終わった事件」だ。それでいて「歴史的・道義的には終わっていない事件」でもある。支援者、研究者、郷土史家。それぞれの立場から、検証はいまも続けられている。
有罪確定という動かせない法的事実と、冤罪主張・党関与説・スパイ関与説などの諸説は、意図的に区別して整理した。今後、中国側からの新たな確認情報や未発掘資料の発見があれば、この内容も更新が必要になるかもしれない。その点は念のため書き添えておく。
