- 1989年11月4日未明、磯子のマンションで
- 被害者の会を、ひとりで組織した弁護士
- 標的が、坂本個人へ移っていった
- TBSビデオ問題という、重い教訓
- 「人を不幸にする自由などない」
- 振替休日を、見落としていた
- 生後14か月の命まで
- 落ちていた「プルシャ」
- 動かなかった神奈川県警
- 流された臆測
- 地図つきの手紙が届いていた
- 8年間、呼びかけ続けた人たち
- 否定し続けた教団と、擁護した知識人
- なぜ8年も分からなかったのか
- 地下鉄サリン事件のあとで、ようやく
- 三つの山中に、ばらばらに
- 母・さちよさんの憤り
- 判決が確定させたこと
- 裁かれなかったもの
- 「生きている者の義務」
- 義父と、ジャーナリストの言葉
- 警察庁の、率直な自己検証
- 郵便物がたまっていく部屋
- 連続する事件の、起点として
- 制度として学び直した教訓
- 弁護士会が刻んだ決意
- ネットで語られてきたこと
- 「裏話」と確定した事実を分ける
- 最も重い問い
- 追認のバイアスと、手紙の扱い
- 30年後に残るもの
1989年11月4日未明、磯子のマンションで
1989年11月4日の未明、横浜市磯子区の分譲マンション。そこから一人の弁護士とその妻、生後14か月の息子が忽然と姿を消した。
弁護士の名は坂本堤。オウム真理教の被害者の会を組織し、教団と真正面から向き合っていた人物。
部屋には荒らされた跡があり、教団を象徴するバッジが一つ落ちていた。それでも警察はこれを事件として本格的に扱わず、一家の行方は、8年近くも分からないまま。
1995年に地下鉄サリン事件という前代未聞の無差別テロが起き、その実行犯の自供でようやく真相が表に出た。一家は殺害され、新潟、富山、長野の山中に別々に埋められていたんだ。
確定判決や公的な資料、当時から今に至る報道や証言をもとに、事件の全体を追っていく。社会がそこから何を学び、何を学び損ねたのか。亡くなった坂本堤さん、都子さん、龍彦ちゃんの三人を悼みながら書いておきたい。
被害者の会を、ひとりで組織した弁護士
1989年当時、坂本堤は33歳。若い。横浜法律事務所に所属する弁護士だった。
当時、オウム真理教は都市型の新宗教として一気に信者を増やしていた。この頃にはもう、教団について全国の法律事務所へ相談が届き始めている。出家した子どもや配偶者を教団に「奪われた」と訴える家族からの相談だ。
坂本は相談を一件ずつ引き受けるだけで終わらせず、被害者たちをまとめて教団と組織として向き合う道を選んだ。
1989年10月28日、「オウム真理教被害者の会」の第一回総会が開かれ、坂本はその中心的な担い手になった。教団の資金集めのやり方、出家に伴う財産の「布施」の強要、抜けることの難しさ。坂本が集めた証言と資料は、教団の実態を社会に示す最初のまとまった記録になりつつあった。
標的が、坂本個人へ移っていった
教団から見て、坂本が「本気で法的手段に訴えてくる敵」に映りはじめたのが、まさにこの10月末だったとされる。
教団は当初、坂本ではなく、オウム批判のキャンペーンを張っていた『サンデー毎日』の編集部を最大の標的と見ていた。ところが被害者の会が正式に発足し、坂本がまとめ役として動き出す。
教祖・麻原彰晃の関心は、そこから坂本個人へと一気に移っていった。事件を長く取材してきたジャーナリストの江川紹子は、そう分析している。
TBSビデオ問題という、重い教訓
事件の直接の引き金として必ず語られるのが、いわゆる「TBSビデオ問題」だ。
1989年10月26日、TBSの情報番組『3時にあいましょう』は、オウム真理教の「水中クンバカ」を取材していた。水の中で長時間息を止める修行のことだ。その取材に合わせて、坂本ら教団に批判的な関係者のインタビューも収録していた。
坂本はそこで、教団の修行や勧誘のあり方について、社会的なルールを無視している、という趣旨の発言をしたとされる。
これに教団側が猛烈に抗議した。TBSは放送直前に番組をお蔵入りにした。それだけじゃない。収録した未放送のインタビュー映像を、抗議に来た教団幹部に見せてしまったんだよ。
坂本の発言の中身を、当の教団が放送前に知ってしまったわけだ。この一件は何年も後に発覚する。テレビ局の報道倫理が厳しく問われた「TBSビデオ問題」は、事件史の中でもとりわけ重い教訓として残った。
「人を不幸にする自由などない」
10月31日、坂本の事務所に、教団側の弁護士と幹部信者が「話し合い」と称してやって来た。
同僚によれば、坂本はこの面談を「恫喝しに来たようなものだ」と怒りを込めて語っていたらしい。
交渉の場で、坂本は言った。「人を不幸にする自由などない」。教団の活動を法的に正すという姿勢は、最後まで崩さなかった。
交渉は決裂。教団側の態度は固くなった。11月2日、麻原は側近らに「今いちばん問題なのは坂本弁護士だ」という趣旨のことを言ったとされる。この時点で、坂本への「処断」の意思はほぼ固まっていたとみられている。
振替休日を、見落としていた
殺害を実行したのは、のちに一連のオウム関連事件で死刑が確定する教団幹部ら複数名だ。
彼らは当初、坂本が留守にする時間帯を狙って部屋に入る計画を立てていた。ところがその日が「文化の日」の振替休日にあたることを、見落としている。
計画は狂った。誤算だ。実行犯らは、一家が家にいる夜間に押し入るはめになる。
深夜、実行犯の一人が「ドアの鍵がかかっていない」と、教団施設にいる麻原へ電話で報告した。麻原はその場で、一家全員の殺害を指示したとされる。
生後14か月の命まで
当初は、薬物、塩化カリウムの注射で短時間のうちに命を奪う計画だった。だが坂本と都子は激しく抵抗し、想定どおりには進まない。
一家三人が最終的に窒息によって殺害されたことは、後の裁判で確定した事実として認定されている。
生後14か月だった長男・龍彦ちゃんの命も、このとき奪われた。言葉にするのもつらい話だよね。
落ちていた「プルシャ」
犯行の混乱のさなか、実行犯の一人が、教団のシンボルバッジ「プルシャ」を部屋の中に落としていた。
このバッジこそが、オウムの関与を疑わせる最初の、そして最大の物的な手がかりになるものだった。
教団側は発覚後、関与を強く否定し続ける。「被害者の会に集う親たちが自作自演で置いたものだ」「第三者による謀略だ」。そんな主張まで持ち出している。
でも、部屋の状況、坂本の直前の活動、残されたバッジという三つを並べれば、答えは見えていた。当時から支援者や一部の記者のあいだでは、教団による拉致が強く疑われていたんだ。
動かなかった神奈川県警
一家の失踪が分かった直後から、坂本の同僚たちは教団の関与を疑った。地元を受け持つ神奈川県警磯子警察署に何度も情報を届け、捜査を強く求めている。
ところが当時の県警の対応は、後年くり返し批判されるものだった。
現場にバッジという明白な手がかりがあったのに、県警は「事件性は不明」という立場を崩さなかった。教団を名指しした本格的な捜査には、なかなか手をつけようとしない。
それどころか、捜査の過程で坂本家に思想信条の聞き取りまでしている。家族の気持ちを逆なでするような対応だ。
捜査幹部の一人がこんな趣旨のことを口にしたとされる話も、後に関係者の証言で明らかになった。「横浜法律事務所の言うとおりに『拉致だ』などと言って動いて、後で違ったら恥をかくぞ」。
流された臆測
さらにひどいのは、根拠の乏しい臆測が捜査当局の周辺から報道機関へ流れたことだ。「坂本は借金を抱えて失踪した」「過激派同士の内ゲバに巻き込まれたのではないか」。
それが実際に報じられてしまったケースもある。家族や支援者は、この話に長く苦しめられることになる。
一方で、当時の横浜地方検察庁の検事正だった佐藤道夫は、後年こう証言している。県警の内部には、早い段階から「オウム真理教の関与は間違いない」という認識自体はあった、と。
つまり疑いは持っていた。それでも、教団への本格捜査という行動には結びつかない。あるいは、結びつけるのをためらった。組織として重大な機能不全があったことがうかがえる。
地図つきの手紙が届いていた
事件からおよそ3か月後の1990年2月、ある手紙が警察に届いた。
差出人は、教団施設から現金約3億円を持ち出して逃げた元信者、岡﨑一明。後の裁判で死刑が確定する人物の一人だ。岡﨑は麻原に口止め料を要求する一方で、遺体を埋めた場所を示す匿名の手紙と、手描きの地図を警察に送りつけていた。
手紙は新潟県高田市、今の上越市の消印で投函されていた。江川紹子が『週刊文春』の編集部を介して、その情報の重要性を伝えたとも報じられている。
それでも、この手がかりをもとにした現地の捜索は実を結ばず、遺体は見つからなかった。
後年の報道では、実際には遺体が捜索範囲のすぐ近くに埋められていたと指摘されている。それを見つけられなかったのは、県警の重大な捜査ミスだった、と。
その後、岡﨑自身も「あれは嘘の手紙だった」と態度を変えた。捜査は、完全に行き詰まる。八方ふさがり。
8年間、呼びかけ続けた人たち
一家の行方が分からないまま、家族や横浜法律事務所の同僚、全国の弁護士の有志は動き続けた。「坂本弁護士一家救出に向けて」を合言葉にした、長い支援活動だ。
1992年10月30日には、日本弁護士連合会が全国統一行動を行っている。各地の弁護士会の会長が一斉に街頭に立ち、市民に情報提供を呼びかけるという異例の取り組みだった。
失踪からすでに3年。長い。「有力な手がかりもない状況」だったことが、日弁連の声明にも残っている。
支援の輪は法律家だけにとどまらなかった。地域の市民団体やボランティアによるチラシ配り、キャラバン活動にまで広がっていった。
否定し続けた教団と、擁護した知識人
この間も、教団はずっと関与を否定し続けている。
11月18日には、教団幹部らがオランダのアムステルダムへ出国している。教団が「集中修行中」をうたっていた時期の出国で、支援者や一部の記者からは不自然な動きとして注目されていた。
麻原自身は、メディアへの露出をむしろ増やし、自分の「潔白」を積極的に訴えていく。
当時の知識人や評論家の中には、教団やその活動を好意的に論じた人もいた。これが後年、厳しい批判を浴びた。
人類学者の中沢新一は『週刊SPA!』誌上で、麻原を「高い意識状態を体験している人」という趣旨で評したとされる。宗教学者や作家、タレントの中にも、教団を擁護したり軽く見たりする発言をした人がいたことが記録に残っている。
こうした態度は、社会全体で教団への警戒を高める機会を逃した一因として、後に強く反省されている。
なぜ8年も分からなかったのか
理由は一つじゃない。複数ある。まず、教団自身が組織ぐるみで徹底的に隠したことがある。
実行に関わった信者はごく少数に絞られた。証拠になる車両は解体、処分。遺体は、いくつもの県境をまたぐ山中に分けて埋められた。
次に、警察の初動の遅れと消極性が、教団に「発覚しない」という誤った安心感を与えてしまった。
その安心感が、坂本事件のあとに続く松本サリン事件、そして地下鉄サリン事件へ教団を向かわせる土壌になったのではないか。そういう指摘は、後年くり返されている。
さらに、教団が極めて閉鎖的だったために、内部からの情報提供や自供が得られにくかった。この点は、警察庁自身が後の白書の中で認めている。
地下鉄サリン事件のあとで、ようやく
事態が動いたのは、1995年3月20日。地下鉄サリン事件が起きた直後のことだった。
無差別テロという前例のない事態を受けて、警察はようやく教団への全面的な強制捜査に乗り出す。
その流れの中で、以前から坂本事件への関与を疑われていた岡﨑一明が、同じ年の4月6日、取り調べで事件の詳細を自供した。
三つの山中に、ばらばらに
自供をもとにした捜索で、9月6日に坂本堤と妻・都子の遺体が見つかった。9月10日には、長男・龍彦ちゃんの遺体も見つかる。
三人は、それぞれ長野県大町市、新潟県の旧名立町、富山県魚津市という、互いに離れた山中に分けて埋められていた。
裁判で確定した事実によれば、遺体の一部は損壊された状態だったという。見つかりにくくするための処置が、組織的に行われていたわけだ。
事件から6年10か月。失踪が公になってからは、8年近くが過ぎていた。
母・さちよさんの憤り
遺体発見の知らせを受けた坂本の母・さちよは、後年のインタビューで当時の気持ちを率直に語っている。
100人を超える報道陣を前にしたとき、強い憤りを覚えたという。警察が本当のことを明らかにしていないのに、報道ではもう一家が亡くなったかのように扱われていたからだ。
発見までの数か月、彼女はどこかで一家の生存を願い続けていた。その願いを裏切るような報道に、ずっと向き合わされていたんだ。
判決が確定させたこと
裁判では、この事件が麻原彰晃の指示のもと、複数の教団幹部が実行した組織的な犯行だったことが確定した。
実行犯の一人、岡﨑一明には、1998年10月23日に一審で死刑判決が言い渡された。同じく実行に関わったとされる早川紀代秀にも、2000年7月28日に一審で死刑判決が出ている。
教団の頂点にいた麻原彰晃自身には、2004年2月27日、一連の教団事件全体について死刑判決が言い渡された。判決は上訴審を経て確定し、2018年7月、何回かに分けて刑が執行されている。
裁かれなかったもの
ただ、刑事裁判の枠組みは、どうしても「麻原と、その他の実行犯」という構図にまとまりがちだった。
そのため、神奈川県警の初動の遅れや不手際そのものが、刑事責任として正面から裁かれる機会は、最後まで来なかった。
遺族や支援者、事件を検証してきたジャーナリストたちは、この点をくり返し指摘し続けている。
「生きている者の義務」
事件を悼み、語り継いできた人たちの言葉には、それぞれの立場でしか語れない重みがある。
坂本の母・さちよは、8年間ずっと息子一家の生存を信じ続けた一人だった。遺体発見という最もつらい形で答えを突きつけられてもなお、事件を風化させないために語り続けることを選んでいる。
2011年、発見から16年たって慰霊の地を再訪したとき、彼女は気づく。若い記者の中に、事件の詳しい中身を知らない人がいる、と。
報道に携わる人間には、遺族の気持ちへの想像力が欠かせない。彼女はそう何度も説いたという。自分の発信を「生きている者の義務」と位置づけてきた人だ。息子夫婦と孫の存在を、ただの過去の事件の一部として消費させない。そのために努めてきた。
義父と、ジャーナリストの言葉
都子の父・大山友之も、長く事件について発言してきた一人。神奈川県警の初期の捜査について、「捜査は信用できるものではなかった」という趣旨の厳しい評価を公にしている。
娘と、その夫と、生まれたばかりの孫の行方を、8年近く捜し続けなければならなかった。初動の甘さがもたらした時間の重さ。それは、何にも代えがたい痛恨事として語られている。
江川紹子は、キャリアの初期からこの事件を取材し続け、その後のオウム関連事件の報道でも中心的な役割を担った。
事件から25年の節目の取材では、「事件は自分の体の一部になった」と表現している。ただの取材対象じゃない。人生に深く刻み込まれた出来事として向き合い続けてきた、という吐露だ。
教団の隠蔽工作も、手紙が捜査に生かされなかった経緯も、彼女は当時から検証し、発信し続けている。
警察庁の、率直な自己検証
捜査当局の側から見た総括は、警察庁自身が後年まとめた白書の中にある。
白書は、坂本事件の当時の情報収集の体制について認めている。中心は「過去に暴力主義的破壊活動を行ったことのある団体や暴力団」だった、と。宗教法人の体裁をまといながら、急速に閉鎖的な組織を作っていく新しい集団への警戒網は、構造的に薄かった。
失踪当時、刑事局の幹部として近い立場にいた人物も、後年の証言で率直に振り返っている。「(当時オウムを)犯罪集団という認識は持っていなかった」。
「選挙活動での奇妙な恰好を見て、変わった団体だなとは思っていたが、それ以上の認識はなかった」とも語った。1989年の時点で、警察全体にオウムを「監視すべき危険な集団」と見る発想そのものが乏しかったことが分かる。それを示す大事な記録だよな。
郵便物がたまっていく部屋
坂本が住んでいたマンションの周りでも、当時は戸惑いと不安が広がっていたと伝えられる。
毎日あいさつを交わしていた隣人が、ある日を境にまったく姿を見せなくなる。郵便物が、少しずつたまっていく。静かな異変。そんな変化に気づいた住民もいたという。
事件の全容が明らかになった1995年以降、地域の中からも悔やむ声が上がった。「あのとき何かできたのではないか」。当時の報道が、その声を伝えている。
連続する事件の、起点として
坂本事件は、単体の凶悪事件というだけでは終わらない。その後に起きる松本サリン事件、地下鉄サリン事件という、教団の一連の重大事件の「起点」として位置づけられている。
神奈川県警はバッジという明白な物証を得ながら、教団への本格捜査に踏み切れなかった。遺体の場所を示す情報提供があったのに、発見にも至らなかった。
それが教団に「自分たちは捕まらない」という誤った自信を与え、その後の凶行へと大胆にさせた一因ではないか。事件から30年以上たった今も、この指摘はくり返されている。
制度として学び直した教訓
この反省は、警察組織の内部でも正式に取り上げられた。
警察庁の白書は、オウム関連事件全体の問題点を率直にまとめている。閉鎖的な新しい集団への内偵体制の弱さ。既存の枠組みにとらわれた情報収集の限界。組織的な証拠隠滅への備えの足りなさ。
この反省をもとに、警察庁は特殊な組織犯罪に対応する専門部署を新たに作った。社会現象を横断的に分析する政策研究の機能も強めている。
地下鉄サリン事件という途方もない犠牲を経て、日本の治安機関はようやく教訓を制度として学び直した。宗教法人の外形を持つ集団でも、閉鎖性と教義への狂信が強まれば、凶悪な組織犯罪に転じうる、という教訓だ。
弁護士会が刻んだ決意
第二東京弁護士会や神奈川県弁護士会は、この事件を「弁護士に対する史上最悪の業務妨害行為」と位置づけている。遺体の発見から節目の年ごとに、会長談話を出し続けてきた。
1993年には「弁護士業務妨害対策委員会」が立ち上がり、その後、全国の弁護士会に同じような委員会が広がっていった。
弁護士が仕事を理由に命を脅かされる事態を、二度と繰り返させない。その決意は、弁護士会の運営に刻まれた制度上の教訓になっている。
ネットで語られてきたこと
インターネットが本格的に広まった2000年代以降、この事件はネットの定番の題材になった。オウム関連の掲示板やまとめサイト、動画配信サービスで、何度も取り上げられている。
古くからのオウム事件の考察掲示板では、同じ疑問が何度も論じられてきた。バッジという物証が分かりやすかったせいもあるだろう。なぜ警察はこの時点で本気で動かなかったのか、という初動への疑問だ。
当時、教団を擁護する発言をした知識人や評論家についても、名前を挙げて「見る目がなかった」と批判する書き込みが続いている。
「裏話」と確定した事実を分ける
一方で、ネットの議論には、確定判決の中身を超えた未確認の憶測もかなり混じってきた。真偽不明の「内部関係者情報」を名乗る投稿も少なくない。
埋める場所がどう選ばれたのか。犯行時の細かい状況はどうだったのか。裁判記録には出てこない「裏話」めいた語りが、まとめサイトや動画の概要欄で広まることもある。でも、その多くは出典を欠いた憶測の域を出ない。
だから本文では、未確認の話と確定した事実を分けてきた。頼ったのは、裁判で確定した事実と、実名で証言している関係者の言葉だけだ。
事件の風化を防ぐこと自体には意味がある。けれど、亡くなった被害者を興味本位の考察の材料にしていいはずがない。何の落ち度もなく命を奪われた、生後14か月の子どもならなおさらだ。
最も重い問い
この事件で一番重い問いは、一つに尽きる。なぜ、あれほど明白な手がかりがありながら、警察は8年近くも真相にたどり着けなかったのか。
当時の県警の対応を丁寧に見ていくと、「運が悪かった」では済まない、いくつもの構造的な問題が折り重なっていたことが分かる。
一つ目は、教団を「宗教法人」という体裁だけで判断したことだ。暴力団や既知の過激派とは違う、情報収集の枠の外にいる存在と見たせいで、警戒の優先順位を低く見積もった。
バッジは、教団の関与を疑うのに十分すぎる手がかり。それでも、教団への強制捜査という具体的な行動へ結びつける組織の意思決定は、なされなかった。
追認のバイアスと、手紙の扱い
二つ目は、捜査組織にありがちな追認のバイアスだ。いったん「事件性は不明」と初期評価を下すと、その後に入ってくる情報が、その評価を補強する方向で扱われやすくなる。
借金トラブル説や内ゲバ説のような根拠の薄い憶測まで含めて、そういうバイアスが働いた可能性は高い。
三つ目は、情報の受け止め方そのものの問題だ。1990年に、遺体の場所を示す匿名の手紙が実際に警察に届いていた。それなのに、その後の捜索は実を結ばなかった。
手紙の主が信用しにくい人物だったとしても、乳児を含む一家の生死がかかった情報だ。もっと慎重に、もっと粘り強く現地を捜すべきだったという指摘は、今も説得力を失っていない。
30年後に残るもの
事件から30年以上がたち、警察の体制は坂本事件の頃とは大きく変わっている。
地下鉄サリン事件という凄惨な代償を払って、警察庁はやっと動いた。暴力団や過激派の対策に収まらない「新しい閉鎖的な集団」を、独自の警戒対象に据えたんだ。特殊な組織犯罪に対応する専門部署を作り、社会現象を横断的に分析する政策研究の機能も強めた。
宗教法人の資格や、表向き穏やかな活動の裏で、閉鎖性と狂信が強まった集団が凶悪犯罪に転じうる。この認識は、坂本事件とそれに続く一連のオウム関連事件から、日本の治安機関が身をもって学んだ最大の教訓の一つだ。
被害者や遺族の声を軽んじ、根拠の乏しい憶測を報道へ流してしまった反省もある。それはその後の犯罪報道や、被害者支援のあり方にも影響を与えた。
もっとも、どれだけ教訓が積み上がっても、三人は戻ってこない。二度と。坂本堤、都子、そして生後14か月で命を絶たれた龍彦ちゃん。
事件を検証して語り継ぐ意味は、失われた命を取り戻すためじゃない。同じような悲劇の芽を、次はもっと早い段階で摘み取れる社会を作るためだ。この事件は静かに、でも重く、そのことを問い続けている。
