パチンコ店の駐車場から消えた女の子
1990年5月12日の夕方。栃木県足利市の郊外、国道沿いにあるパチンコ店の駐車場に、一台の車が停まっていた。父親はこのとき4歳の娘を車内に残したか、あるいは一緒に連れて店へ入ったとされ、そこは話が割れている。ほどなくして、女の子の姿が見えなくなった。
家族と店員は必死で周りを捜し回ったが、女の子は見つからず、警察へ届け出が出された。迎えた翌朝。翌13日の朝、店から数百メートルほど離れた渡良瀬川の河川敷で、女の子は遺体となって発見された。
まだ肌寒さの残る、初夏の川原。小さな遺体が横たわるその光景は、地元の人たちに強い衝撃を与えた。言葉を失う話だ。栃木県警はこれを殺人と死体遺棄の事件として扱い、大がかりな捜査本部を設けて本格的な捜査に乗り出した。
学問の町に落ちた影
舞台の足利市は、栃木県の南西部にある。旧足利郡と旧群馬県山田郡の一部から成り、地方拠点都市にも数えられている。歴史は古い。古くは足利庄として栄え、清和源氏の源義家の流れをくむ足利氏が生まれた土地としても知られてきた。
足利氏の始まりは、義家の孫の義康がこの下野国足利に住んだことにあるらしい。鎌倉幕府では御家人であり、将軍家の一門である御門葉の地位にもあった。その先がまた派手なんだ。室町時代には嫡流が将軍家として天下を握ったが、応仁の乱のあとは権威が落ち、1573年に織田信長によって滅ぼされた。
町の顔といえば足利学校だろう。フランシスコ・ザビエルはここを「坂東の大学」と呼んだとされ、ルイス・フロイスは日本全国でただひとつの大学と書き残した。歴史と教育を誇るそんなのどかな町に、この事件は深い影を落とすことになる。
捜査線上に現れた幼稚園バスの運転手
捜査は周りにも目を向けた。同じころ、栃木と群馬の県境あたりでは、幼い女の子が姿を消したり殺されたりする事件が相次いでいたからだ。捜査員は目撃情報を集めながら、犯人像を絞り込むプロファイリングも進めた。
その過程で、ある人物像が出てきた。「独身で子供好き、幼稚園バスの運転手をしている男」というものだ。妙に具体的な像だった。この像に当てはまる人物として、当時45歳だった菅家利和さんが、捜査線上にはっきりと浮上してきた。
決め手はDNA。使われたのは、導入されてまだ間もなかったDNA型鑑定なんだよな。現場に残された体液のDNA型と、菅家さんの型が「一致する」という鑑定結果が示された。これを大きな支えにして、事件の翌年にあたる1991年の12月、菅家さんはついに逮捕されてしまった。
逮捕を支えた柱は三本。当時まだ導入初期だったDNA型鑑定、捜査員による取調べと自白、そして周りの人たちの供述だ。どれか一本でも揺らげば全体が崩れてしまう、そういう危うい組み立ての上に立った逮捕だったわけだ。
「DNAが一致した」という一言の重さ
使われたのはMCT118型と呼ばれる鑑定だった。いまの科学捜査の水準から見ると、この方法は人を見分ける力がずっと弱く、型が偶然一致する確率にも大きな幅があった。心もとない話だ。
争点は山ほど。試料がどんな状態だったのか、電気泳動の像をどう読み取ったのか、その型が世の中にどれくらいの頻度で出るのか。どこを取っても、専門家のあいだで評価が割れうる話だ。
ところが当時の報道は、そうした中身をほとんど伝えなかった。どの型がどれほどの確率で一致したのか、画像をどう判定したのかを抜きにして、「DNAが一致した」とだけ報じた。肝心の中身は省略。裁判でもその一点が、まるで絶対の証拠のように扱われた。
ここに根っこがある。刑事司法そのものが、新しい科学の鑑定を中身を問わずに信じすぎていたということだ。捜査、起訴、裁判と、どの段階でもその過信が疑われることなく、次の段階へそのまま次へ引き継がれていく構図だ。
取調室で生まれた自白
菅家さんは長時間の取調べを受けた。その末に犯行を認める供述をし、いわゆる自白調書が作られた。話はここで終わらない。公判に入ると菅家さんは一転して否認に転じ、ここから有罪か冤罪かを争う長い長い法廷の戦いが始まった。
この自白がどう形づくられたのかは、事件を読み解くうえで大きな柱になる。問われる点は多い。取調べの時間の長さや誘導の有無、捜査員とのあいだにあった心理的な力関係まで、全部が検討の対象だ。語られた中身に、犯人しか知らないはずの秘密の暴露が含まれていたのか、現場の状況と食い違う点はなかったのか。
調書と取調べの録音、再審の判決を並べると、供述が時間とともにどう変わっていったのかが見えてくる。自白があるから物証の弱さを補え、物証があるから自白を信じられる。堂々めぐり。冤罪研究の人たちが中心に据えてきたのは、まさにこの循環だった。
見逃されがちな点がもうひとつある。「DNAが一致した」と告げられた被疑者が、抵抗する気力をなくしていく過程だ。逃げ場がない。取調室の中で起きたかもしれないこの心の動きも、冤罪研究のなかで中心的な焦点のひとつになっている。
無期懲役が確定した日から
判決は重かった。一審も控訴審も、DNA鑑定と自白調書の信用性を認めた。刑は無期懲役。判決はそのまま確定し、菅家さんはここから17年半ものあいだ、身に覚えのない罪で刑務所に服役し続けることになった。
弁護側も黙っていたわけじゃない。1997年の再審請求審で、弁護側は最初の鑑定とは違う型を示す新しい鑑定結果を出した。大きな一歩だ。けれどこの時点では、確定した有罪判決を覆すところまで、裁判所を動かすにはまだ至らなかったのだ。
救いは遠かった。異なる型を示す鑑定がありながら、菅家さんはすぐには救われなかった。その後も再審の請求や報道が何度も重ねられたが、長いあいだ退けられ続けたこの空白の年月を思うと、正直、胸が重くなる。
2009年5月、鑑定がひっくり返った
ようやく転機が訪れる。流れが変わったのは2000年代の後半だった。日本弁護士連合会やジャーナリストの後押しを受けた弁護団が、DNA型の再鑑定をあらためて強く求めた。報道の取材も、同じように再鑑定を求める側に立っていたんだ。
2009年5月、より精度の高い方法で再鑑定が行われた。結果は明白。遺留試料のDNA型と菅家さんの型は、一致しなかったのだ。かつて有罪の決め手とされたあの鑑定を、より新しく精度の高い科学が自分の手で打ち消した形になった。
菅家さんは同年6月に釈放された。服役中の身からただちに外へ出され、再審の扉が開いたのもこのときだ。事件と何の関わりもなかった人が、17年半ものあいだ塀の中にいたことが、ここで誰の目にもはっきりした。あまりに長い。
ついにその日が来た。2010年3月26日、宇都宮地方裁判所は菅家さんに無罪を言い渡した。判決は当時のDNA型鑑定の信用性そのものに重い疑問を投げかけ、自白の任意性や信用性にも踏み込んだと伝えられている。東京弁護士会も同じ日に会長声明を出し、司法の誤りを重く受け止める姿勢を示した。
ここは念を押しておきたい。菅家さんはいま、容疑者でも何でもない。現在の容疑者のように書くのは、はっきり誤りだ。再審で無罪を勝ち取った、れっきとした冤罪の被害者であって、そこを取り違えて語ることは許されないと思う。
冤罪が晴れても、事件は終わっていない
ここで取り違えやすいことがある。菅家さんの無罪が確定したことと、1990年に4歳の女の子の命を奪ったのが誰なのかという問題は、まったく別の話なんだよ。ここが肝だ。無罪の確定は、真犯人が誰かを示すものじゃない。
菅家さんは冤罪の被害者として名誉を取り戻した。国家賠償も得て、社会に戻った。それでも、女の子が殺された事件そのものは解決しておらず、手を下した人物はいまも特定されていない。
冤罪事件としては決着がついた。けれど殺人事件としては未解決のまま。この二重の状態を混ぜて語ると、遺族に対しても菅家さんに対しても不誠実になってしまう。「冤罪は解決」と「殺人は未解決」は、同じ一本の線に並べず、別々の年表として分けて置くべきものだ。
残る問いもある。公訴時効はどう扱われるのか、捜査を続けることと法の関係はどうなっているのか。現場に残された試料をもう一度使える見込みはあるのか、という点も、確かめるべき問いとして挙げられている。
忘れたくないことがある。亡くなった女の子と、その家族の存在だ。冤罪の物語が大きく語られるほど、被害者の姿は背景へ押しやられがちになる。本当の意味でまだ救われていないのは、冤罪を着せられた人と、命を奪われた幼い子の両方なんだよな。
県境で続いた失踪と一冊の本
この事件を語るとき、よく一緒に出てくる見方がある。話は県境へ。栃木と群馬の県境あたりで、1979年から1996年にかけて起きたとされる一連の幼女誘拐殺人事件だ。これらを同じ犯人によるものではないかと見て、「北関東連続幼女誘拐殺人事件」と呼ぶ説がネットや出版物で根強く語られてきた。
一冊の本がある。この見方を広めたのが、日本テレビの記者だった清水潔氏のノンフィクションだ。『殺人犯はそこにいる 隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件』という題名で、新潮社から出ている。足利事件の再審無罪を後押しした取材の中から生まれた一冊だった。
同書が示したのは、周りで起きた複数の事件に手口の似た点が見られるという指摘だ。ある人物が浮かんでいたのに、警察や検察が組織を守ることを優先して立件を避けたのではないか、という疑念も投げかけた。本は大きな反響を呼んだ。
評判は上々だ。書評サイトやnoteなどの個人ブログでは、「ぐいぐい読ませる告発本」「記者としての執念を感じる」という声が並ぶ。この本をきっかけに事件へ関心を持った読者も多いらしい。
ただ、線引きは要る。発生日、場所、被害者、遺体の見つかり方、物証、時効を、事件ごとに並べて見比べるのが筋だ。地理と被害者の年齢が近いというだけで、同じ犯人と決めつけることはできない。記者の取材、テレビの報道、そして警察が公式に認めた関連は、それぞれ切り分けて受け取るべきものだ。
その本に異を唱えるブログもある
風当たりは一方向じゃない。清水氏の著作や、冤罪という認定そのものに疑いの目を向ける個人ブログもある。たとえば「宇都宮義塾」を名乗るブログがそうだ。そこでは、著書にある遺族の証言の書き方が、事件当時の新聞報道や関係者の記憶と食い違っているのではないかと指摘されている。
具体的に挙げられたのは、送り迎えの手段だった。自動車だったのか。それとも自転車の荷台だったのか。供述のこの食い違いに加え、検察が不起訴にした理由の書き方も取り上げ、著書の正確さに疑問を呈した。
こうした立場は少数派だ。ノンフィクションとして書かれたものは、一次資料そのものとは違い、取材者の視点や編集を通ってきたものだ。報道を読むうえで大事なこの論点を突いた点は、記録しておく値打ちがある。
この懐疑論にも限界がある。再審無罪の判決を、この議論がひっくり返すことはなく、司法が確定させた法的な結論はそのまま動かない。懐疑論は、あくまで一冊の本の書き方に向けられたひとつの異論として受け取るのがいい。
掲示板と動画のなかの足利事件
5ch、つまり旧2ちゃんねるやそのまとめサイトでは、この事件は長年の定番の話題だ。あるまとめサイトのスレッドには、こんな趣旨の書き込みが繰り返し現れる。「ジャーナリストが真犯人と思われる人物を特定しているのに、警察は逮捕に動かない」というものだ。匿名で、裏づけはない。
よく引き合いに出されるのが飯塚事件だ。久間三千年元死刑囚のケースで、2008年に死刑が執行された。問題は鑑定だ。その判決の根拠になった鑑定の手法が、足利事件で使われたものとまったく同じ種類のものだったのだ。
だから重い懸念が出てくる。「もし飯塚事件も同じ構造の誤判だったとしたら、すでに執行されてしまった人の無実を後から証明する手立てはない」という声だ。掲示板やまとめサイトでは、この懸念がしばしば語られる。
動画も多い。YouTubeにも、事件を扱う考察系や解説系のチャンネルがいくつもある。菅家さんの半生や取調べの実態、DNA鑑定の仕組みを、アニメーションや資料映像で見せる動画が一定の再生数を集めている。再検証の動画が注目を浴びているって話だ。
コメント欄には「冤罪の恐ろしさを実感した」「警察は誰も責任を取っていない」という感想が並ぶ。不安の声もある。「真犯人は今もどこかで生きているかもしれない」という不安げな書き込みも目立つ。Xでも「冤罪の悲劇」「真犯人はどこに」とささやかれている。
ネットの噂は尽きない。「警察は真犯人を知っている」「特定の人物が全部の事件の犯人だ」「DNA試料を隠した」という説がある。「菅家氏の自白には秘密の暴露があった」と言い出す人までいる。どれも、本や番組からの引用なのか匿名の投稿者の独自の説なのかを、分けて読まないと危ない。
中には、実名を挙げて「真犯人」と決めつける動画やコメントもちらほら見かける。これは危うい。けれどそれは一部のネットユーザーによる確かめられていない推測で、警察の公式発表や確定判決に支えられたものじゃない。確定判決もないまま実在の人を犯人扱いすれば、名誉毀損のおそれだってある。
当然の話だ。写真や住所、家族の情報を転載するのも論外だ。報道で名前を伏せられた人を、ネットの推理で勝手に実名に戻すような真似も、決してしてはいけない。この事件の教訓を思えば、なおさらだろう。
犯人は科学か、人か
言い方は二つある。「科学捜査が冤罪を生んだ」という言い方と、「古いDNA鑑定だけが原因だった」という言い方だ。どちらも話を単純にしすぎている。事情はもっと入り組んでいた。
重なったのは、いくつもの失敗だった。鑑定、取調べ、起訴の判断。裁判所による証拠の評価、そして再鑑定の拒否。そのひとつひとつが少しずつ積み重なって、最後には17年半という途方もない年月が生まれてしまった。
救いの芽もあったのは確かだ。弁護側の再鑑定、ジャーナリストの取材、再審の請求は、最後にはちゃんと結果につながった。その道のりは、冤罪を正すことに成功した例として、細かな過程まで記録に残しておく値打ちがある。その一方で、1997年の異なる鑑定がすぐには救済につながらなかったことも、同じ重さで残しておきたい。
なぜこの事件は語られにくいのか
足利事件は、一種のタブーのように扱われてきた、という声もある。理由はいくつかある。司法の誤判、DNA鑑定の問題、警察の捜査力の不足。そのどれもが表に出てしまい、制度への批判を避けたい空気が生まれたというのが理由として挙げられている。
被害者の家族のプライバシーも、口を重くさせた要因のひとつだ。無理もない。幼い子を突然亡くした家族の気持ちを思えば、事件のことを軽々しく語れないのは当然のことだろう。
町の空気も似ている。足利市の人たちのあいだでも、事件が積極的に話題にされることは少ないという。観光の目玉である足利学校のイメージをどうしても守りたい、という地元の思いがその裏にあると言われている。被害者の供養は、ひっそりと行われてきたそうだ。
それでも消えないものはある。女の子がいたこと、そしてまだ償われていない喪失だ。それは町の人たちが抱える記憶のずっと底のほうに、声高に語られることもないまま静かに残り続けている。
事件が変えたもの、変えられなかったもの
足利事件は、日本の刑事司法が抱えていた問題をいくつもあぶり出した。数えれば三つ。科学の証拠を信じすぎること、自白に頼りすぎる取調べ、そして再審の門の高さだ。こうして見えてきた問題は、その後に進められた司法制度の改革にも、はっきりと影響を与えていった。
たとえば取調べだ。取調べを録音・録画する、いわゆる可視化の議論が本格化したきっかけのひとつがこの事件だった。DNA型鑑定の手法や運用の基準を見直す流れにもつながったとされる。冤罪が晴れたあと、警察や検察や裁判所がどう検証し、どう補償したのかも、追いかけるべき後日談だ。
では、いまはどうか。2025年の時点で、菅家さんは賠償を得て社会に復帰している。一方、真犯人は特定されておらず、事件は解決していない。元の記事には、栃木県警がDNA鑑定の進歩を受けて再捜査を進めているが進展はない、とも書かれていた。
ここは慎重に読みたい。この再捜査の話は、公開された一次資料では具体的な裏づけを見つけられなかった。県警は再捜査の可能性を否定していないとされるものの、進展を示す公式な発表は確認されていない。公開の捜査状況を書くなら、県警の発表日や担当部署まで押さえておくのが筋だろう。
事件から35年以上がたった。女の子の命を奪ったのが誰なのかは、いまも分かっていない。被害者にとっても加害者にとっても、この事件はまだ終わらないまま、ただ静かに時を刻み続けている。
