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ロッキード事件(1976年)

総理大臣経験者に手錠がかかった

米ロッキード社が田中角栄元首相らに賄賂を贈り、自社の航空機を買わせようと働きかけた。それがこの汚職事件のいちばん太い骨格になる。田中は逮捕・起訴され、1983年に有罪判決を受けた。ただし最終決着はついていない。上告中に本人が死去してしまったからだ。

それから半世紀近くが過ぎた。2025年で事件から約50年、田中の死(1993年)によって裁判そのものはすでに終わっている。にもかかわらず、この事件はいまだに政治的なタブーとして扱われる。Xを覗けば「田中角栄は嵌められた」「日本の闇」といった言葉が今も囁かれている。ただ、若い世代の関心はもう薄い。

政治的にどうしても敏感な題材であり、正面から深掘りする動きは今も控えられがちだ。触りたくない話、という空気が半世紀ものあいだ残り続けている。

なぜ今も「触れにくい話」のままなのか

タブー扱いが続く理由は、ひとつではない。政財界の癒着があり、米国の政治的な影響があり、そこに田中の根強い人気と冤罪説まで絡んでくる。いくつもの要素が束になっているせいで、真相の全貌はどうしても公にされにくい。

だからこの事件は、純粋な事件史というより、政財界の癒着への警鐘として語られてきた。都市伝説めいた手触りを帯びたまま、繰り返し引き合いに出される話になっている。

記録として確かめられるのはどこまでか

まず押さえておきたいのは、この事件が同名または強く関連する独立した資料項目として残っている点だ。都市伝説の多くとは違って、そこは確認が取れる。「ロッキード事件」という名前をたどれば、事件・人物・制度の概略を照合できる。「ロッキード」だけでも同じように概略を突き合わせられる。

この話を鵜呑みにしないための足場

念のため断っておく。この話に出てくる日時・人数・場所・動機・判決・捜査経過は、どれも裏を取る対象になる。公的記録、裁判資料、警察発表、同時代の報道で個別に確認したい。孫引きの孫引きが平気で混ざる題材だ。

「隠蔽」「口封じ」「霊視」「呪い」「異界」「陰謀」といった説明が出てきたら、そこは一段構えを変える。独立した裏付けが取れない限り、噂・異説として扱うのが筋になる。

事件の前夜、「今太閤」が駆け上がった時代

ロッキード事件を読み解くには、1970年代前半の日本政治の空気から押さえておきたい。田中角栄が内閣総理大臣の座に就いたのは1972年7月、掲げていたのは「日本列島改造論」だ。同年9月には電撃的な日中国交正常化を実現した。庶民感覚を持つ「今太閤」として国民的な人気を集めた首相だった。

その一方で、田中の政治手法に対する疑念を早くから生んでいたものがある。列島改造論に伴う地価の高騰であり、後年「金脈問題」として文藝春秋に暴露された巨額の資金力である。人気と疑いが同じ人物の上に同居していたわけだ。

決定打になったのは1974年だ。文藝春秋に掲載された立花隆らのルポルタージュ「田中角栄研究――その金脈と人脈」が、世論を大きく動かした。田中は同年12月、退陣に追い込まれる。

ロッキード事件が表に出るのは、この「金脈問題」による失脚から1年余りを経てからになる。田中はなお自民党内で最大派閥「田中派」を率いていた。政界に隠然たる影響力を持ち続けていた、その最中の発覚だった。

1976年2月4日、海の向こうで火が点いた

発端は日本国内の捜査ではない。太平洋の向こう側、アメリカ合衆国上院で開かれた公聴会だった。1976年2月4日、フランク・チャーチ上院議員を委員長とする多国籍企業小委員会の公聴会、通称チャーチ委員会である。

そこへ航空機メーカー・ロッキード社の副会長アーチボルド・コーチャンが証人として出頭する。同社が世界各国の政府高官や有力者に巨額の資金をばらまいていたことを証言した。そのなかで名指しされたのが日本だった。

ロッキード社が売り込みたかったのは、旅客機トライスターと対潜哨戒機P-3Cである。そのために日本の政財界へ多額の金を渡していた、という証言だった。話は太平洋を越えて瞬く間に日本の新聞・テレビに伝えられる。2月5日以降、日本の各紙が一斉に一面で報じた。

当時はまだインターネットのない時代だ。国民の多くは夕刊か翌朝のテレビニュースで、この衝撃的な一報に接することになる。日本の総理大臣経験者が外国企業から金を受け取っていたのではないか。その疑惑は戦後の日本政治史上でも類を見ない規模のスキャンダルとして受け止められ、世論は一気に沸騰した。

丸紅、児玉、全日空。金はどこを通ったのか

日本側の検察と国会は、コーチャン証言を手がかりに複数の資金ルートの解明へ乗り出した。中心になったのは、総合商社・丸紅を経由する「丸紅ルート」である。

捜査によれば、1972年10月に巨額の金が動いた。ロッキード社副会長コーチャンと東京駐在代表クラッターから、児玉誉士夫に対して渡されたとされる資金だ。児玉はフィクサーとして知られた右翼の大物である。名目はコンサルタント料、総額700万ドル。当時のレートで約21億円になる。

この児玉から丸紅を介して、当時現職の総理大臣であった田中角栄に5億円が渡ったとされる。そこが、いわゆる「丸紅ルート」の核心である。

構図を描いたのは、丸紅の航空機担当専務・大久保利春や航空機部課長・伊藤宏らの証言・供述だ。全日空へのトライスター選定を働きかける、その見返りとして資金が動いたとする筋書きである。

これとは別に「全日空ルート」も捜査の対象になった。全日空の若狭得治社長ら経営陣が、機種選定をめぐって関係者にリベートを渡していたとされる話である。

一方の児玉自身は、国会の証人喚問が決まった直後に「病気」を理由として自宅に引きこもった。以後も公の場にほとんど姿を見せない。1976年3月には外為法違反などの容疑で在宅起訴され、1984年1月に死去した。

逮捕、そして判決の出ない終幕

検察の捜査は最終的に、現職の派閥領袖であった田中角栄本人にまで及んだ。1976年7月27日、田中は東京地検特捜部に逮捕された。容疑は受託収賄と、外国為替及び外国貿易管理法違反である。

現職の総理大臣経験者が刑事事件で逮捕される。日本の戦後政治史上、これは初めての事態だった。日本中に大きな衝撃が走った。

同年8月に起訴された後、田中は保釈される。それでも議員辞職はしなかった。以後も「田中軍団」と呼ばれる強固な支持基盤を背景に、政界での影響力を保持し続けた。

公判が東京地裁で始まったのは1977年1月。丸紅の関係者や運転手らの証言をめぐって、激しい法廷闘争が繰り広げられる。1983年10月12日、東京地裁は田中に懲役4年、追徴金5億円の実刑判決を言い渡した。

田中側は直ちに控訴する。1987年には東京高裁も一審判決を支持した。それでも田中はさらに上告し、裁判は最高裁に係属したまま長期化する。

田中は1985年に脳梗塞で倒れた。以降、公の場に姿を見せることはほとんどなくなる。そして1993年12月16日に死去した。

これにより刑事裁判は公訴棄却となる。田中角栄自身の有罪・無罪について、最高裁が最終判断を下すことは最後までなかった。判決の出ないまま幕が下りたわけだ。ちなみに、秘書だった榎本敏夫については、1995年に最高裁で有罪が確定している。

政界の地図が書き換わった

ロッキード事件は、日本政界の勢力図そのものを揺さぶった。当時の三木武夫首相が掲げたのは「李下に冠を正さず」。事件の全容解明に積極的な姿勢を示す。フォード米大統領に資料提供を要請するなど、自ら真相究明に前のめりになった。

この姿勢が、田中派を中心とする自民党内の反主流派の強い反発を招いた。いわゆる「三木おろし」の政局である。1976年12月の総選挙で自民党が過半数割れに近い議席にとどまったこともあり、三木は退陣に追い込まれる。後継の首相には福田赳夫が就いた。

田中自身は自民党を離党した。ただし議員バッジは外さない。その後も「闇将軍」としてキングメーカー的な影響力を長く保持し続けた。単純な「政治家の失脚劇」では終わらなかった。そこがこの事件の大きな特徴である。

「田中はアメリカにハメられた」説の中身

判決確定から数十年を経た今も、この事件をめぐる異説・陰謀論は根強く語られている。もっとも有名なのが、いわゆる「キッシンジャー陰謀説」だ。国際ジャーナリストの春名幹男氏が著書『ロッキード疑獄』などで展開してきた見立てである。

まあ、落ち着いて中身を見ていきたい。当時の米国務長官ヘンリー・キッシンジャーが、田中に強い不快感を抱いていたという。日中国交正常化、石油ショック後の「アラブ寄り」外交、独自の対ソ外交路線。さらには「憎しみ」に近い感情まであったとされる。

根拠のひとつが、1972年8月の機密会談記録だ。そこには「ジャップは上前をはねやがった」という趣旨の、かなり乱暴な表現が残されている。証券取引委員会(SEC)経由で日本側に資料が渡る過程に、キッシンジャーの意向が影響したのではないか。そう見立てる説である。

春名氏は2022年の講演で、「キッシンジャーの陰謀によるという説がほとんど確実だと思う」とまで述べている。単なるネット上の噂とは違う。長年にわたって米公文書を調査してきたジャーナリストの取材に基づく見解として、一定の重みをもって受け止められている。

ただし、ここは慎重に読みたい。これはあくまで状況証拠の積み重ねによる推論である。公文書によって「キッシンジャーが逮捕を指示した」という直接証拠が確認されているわけではない。そこは留意が必要になる。

作家の石原慎太郎も、著書のなかで似た方向の主張を展開している。「資源外交でアメリカの逆鱗に触れた田中を、アメリカが葬った」という趣旨の話だ。これも広い意味での「アメリカ陰謀説」の一系統として知られている。

別の角度からの見方もある。事件の捜査に検事として関わった堀田力氏、後のさわやか福祉財団理事長である。堀田氏が後年のインタビューで「事件の核心はP-3C(対潜哨戒機)ではないか」という趣旨の発言を残しているとされる。

トライスター機をめぐる贈賄構図の背後に、より規模の大きいP-3C導入をめぐる利権構造が存在したのではないか。その全容は最後まで解明されなかったのではないか。そう見る向きは今も根強い。

もう一つの系統は、日本国内の政局に着目した異説になる。三木武夫首相が政権延命と人気取りのために、法務大臣・稲葉修らを通じて検察の捜査に介入したのではないか。政敵である田中派を狙い撃ちにしたのではないか。いわゆる「三木の指揮権発動説」だ。

ただし、実際には正式な指揮権発動は行われていない。検察首脳が独自の判断で捜査方針を固めた、とする反論も存在する。

田中への5億円授受の状況そのものを疑う声もある。丸紅の運転手や、秘書だった榎本敏夫氏本人の話が引き合いに出される。「4回の授受は検察が作り上げたストーリーだ」と法廷外で証言しているとされる。

細部の矛盾も繰り返し指摘されてきた。受け渡し場所とされたレストランが、実際には夏季休業中だったこと。大雪の日にホテル駐車場で30分以上立ち話をしたはずなのに、関係者の記憶に雪の記述がないこと。こうした引っかかりが、「本当のところ」はまだ解明されていないと感じる人々の間で語り継がれている。

これらはいずれも、確定判決が認定した事実そのものを覆すものではない。それでも語られ続ける理由はある。金の流れの全容や、なぜ田中だけが刑事責任を問われたのかという疑問に、完全には答え切れていない。その証左として持ち出されるわけだ。

ネットに残る記憶と、根強い角栄人気

近年の特徴は、事件そのものの検証よりも語り口が変わってきた点にある。田中角栄という政治家個人への再評価と結びつけた語られ方が、ネット上では目立つ。

あるブログ運営者は、2020年代に相次いだ田中角栄関連本のブームに触れている。令和のリーダー不足の時代に、良くも悪くも決断力と実行力のあった角栄が懐かしまれている。ロッキード事件も「アメリカに嵌められた悲劇の宰相」という物語のワンシーンとして消費されている。そういう趣旨の考察だ。

歴史系まとめサイトの一つでは、こんな投稿が繰り返し見られる。児玉誉士夫が受け取った21億円のうち、実際に政界へいくら流れたのかは誰も分かっていない。丸紅の伊藤専務や榎本秘書の証言だけで5億円の授受を認定したのは無理があったのでは。

状況証拠中心の立証構造への疑問が、ネット世論の一角を占めている。そのことがうかがえる投稿の並びだ。

他方で、当時を実際に記憶する世代の書き込みも散見される。「田中さんの逮捕を報じるニュースをテレビの前で家族と見た」。「新潟出身の親戚が『それでも角栄は新潟に道路と新幹線を持ってきてくれた人だ』と複雑な表情をしていた」。個人の記憶に根ざした体験談だ。

こうした投稿が示しているのは、事件の法的な当否とは別の感情である。田中角栄が地方に残した実利的な功績への評価。そして贈収賄事件の被告人であったという事実。その間で、多くの日本人が今なお複雑な気持ちを抱えている。

掲示板とSNSでの語られ方

5ch(旧2ちゃんねる)の政治・歴史系板では、ロッキード事件は定番テーマの一つだ。日本の未解決・重大事件を扱うスレッドでも、「戦後最大の疑獄事件」として繰り返し話題に上る。

長期間続くスレッドでよく出るのが、政局と絡めた考察である。「結局、児玉誉士夫のところで金の流れが止まっていて、その先の政治家には捜査が及ばなかったのはなぜか」。「三木おろしのために自民党内の反主流派が意図的にリークしたのではないか」。同じ問いが、何年も投稿され続けている。

X(旧ツイッター)にも短い感想が流れる。事件の周年報道や、田中角栄をテーマにした書籍・ドラマの放送に合わせて出てくるものだ。「田中角栄は嵌められた」「これは日本の政治が変わるきっかけになった事件」といった言葉が散見される。

ただし、令和生まれの若い世代にとっては半世紀近く前の出来事になる。SNS上での言及量そのものは、年々減少傾向にある。

それでも完全に忘れられたわけではない。汚職事件の構造や国策捜査のあり方を論じる文脈では、今も名前が出る。令和の政治資金問題が話題になるたびに「ロッキード事件以来の疑獄」という形で引き合いに出されるからだ。比較対象としての存在感は、現在も失われていない。

現地に残るもの、そのあとの半世紀

事件の舞台となったホテルオークラ(東京都港区)は、田中への現金授受があったとされる場所の一つだ。繰り返し報道で言及されてきた建物であり、現在も日本を代表するホテルとして営業を続けている。

田中角栄の地元・新潟県には、彼が政治力によって実現させたとされるインフラが残る。関越自動車道や上越新幹線は、今も地域の重要な足として機能している。地元では贈収賄事件の被告人としてよりも、地域振興に尽力した政治家として記憶する声も根強い。

児玉誉士夫が住んでいた東京都世田谷区等々力の自宅にも、異様な後日談がある。1976年3月、右翼団体構成員が操縦するセスナ機による自爆突入事件の現場となった。事件そのものが帯びていた緊張感を、今に伝えるエピソードとして語り継がれている。

田中の生家がある新潟県柏崎市、旧西山町には、現在も関連資料を展示する施設がある。事件から半世紀近くを経た今も、地元の観光・郷土史の文脈でロッキード事件と田中角栄の名前は併せて語られ続けている。事件はまだ、過去の話になりきっていない。

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